仙台よみとき用語年表
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日乃出映画劇場 改築開場  1950年(S25)  * 1950年(S25)12月、映画館ビルとして改築され、日乃出地下映画劇場を併設(東五番丁26)
* 1950年(S25)12月、日乃出劇場(三和興業、700席)を東五番丁17に開設 

/ この月はこのほかに、文化劇場再開(東一番丁、松竹、943席)、仙都劇場(東三番丁、大映、888席)と銀映画劇場(旅籠町、200席)もオープンした 
「重訂 宮城県郷土史年表」P546  22-18 
日乃出映画劇場 出火  1956年(S31)  * 1956年(S31)2月5日、日乃出劇場出火 / 午後8時45分頃、ボイラー室付近から出火、北西11mの強風(瞬間最大19m)、出動消防車14台 / 火元の日乃出劇場(地下劇場、ニュース劇場、棟続きの日乃出中華など)891平方mを全焼 / 隣接の仙台ホテル、東宝劇場などの一部も焼いて、午後10時すぎ鎮火 / 火の粉は遠く連坊小路、薬師堂まで飛び、延焼が心配された   「市民の戦後史」P53/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822~823/「仙台の歴史(80周年)/「わが心の仙台駅前史」年表  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P623の写真199(強風化に炎上する日乃出劇場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(炎上する劇場) 
日乃出映画劇場 日乃出会館オープン  1957年(S32)  日乃出映画劇場出火(S31年2月)後、日乃出会館を新築
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 1973年(S48)7月、日の出興行ビル完成 
Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版/わが心の仙台駅前史」P40、P89  99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P26(S32)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮、日の出会館は画面左の交差点右角のビル) 
日乃出映画劇場 映画館閉館/ビル解体  2002年(H14)/2019年(R1)  * 2002年(H14)9月17日、映画館は全館閉館となり、45年の歴史に幕を閉じた。
・ ビルはパチンコホール「ベガスベガス」などを運営する山形市の「大成商事」(当時)に売却され『大成商事GSビル』となった
* 2008年(H20)4月17日、『大成商事GSビル』はオリックス不動産に売却され『GSビル』となった
* 2018年(H30)6月、「GSビル」の解体工事開始
* 2019年(R1)秋、解体完了 
Wikipedia「日乃出会館」 2019年12月18日版   
新聞社(明治) 創刊年  明治年間  *「宮城新聞」 創刊 1973年(M6)4月3日、仙台初の新聞
*「東北新聞」 創刊 1973年(M6)5月8日
  →M10年1月「仙台新聞」と改称(仙台初の隔日刊紙となる)
  →M11年1月に「仙台日日新聞」(仙台初の日刊紙)
  →M13年に「陸羽日日新聞」(M13年に3度の発行停止処分)
  →M16年に「奥羽日日新聞」
  →M37年に「奥羽新聞」と改称
* 自由党系の「自由新報」「東北自由新報」
  1882年(M15)、言論機関への統制・弾圧が強まり、発行停止処分
*「東北新聞」(松田常吉ら) 創刊 1892年(M25)1月
*「東北日報」(秋葉忠七ら) 創刊 1892年(M25)2月15日
*「河北新報」創刊 1897年(M30)1月17日、 一力健治郎が「東北日報」を買収し創刊 → 以下、項目「河北新報社」へ 
「仙台市史 年表」P80、P82、P90   
新聞社(戦後) 創刊年  戦後  * 1949年(S24)、「人民新聞」を「東北日報」と改題して続刊
* 1960年(S35)5月25日、福島民友新聞社が、「民友新聞・宮城」朝夕刊を発行
 
「重訂 宮城県郷土史年表」P535/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P290   
新産業都市 仙台湾地区を指定  1964年(S39)  <全国総合開発計画>
* 1962年(S37)制定、新産業都市と大規模地方開発都市が車の両輪

<新産業都市>
* 1963年(S38)7月12日、仙台湾地区を新産業都市指定に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区(仙台湾臨海部)、全国15地区とともに新産業都市建設区域に指定(昭和50年目標に計画推進)

「仙台市史 続編第1巻」P369~370に計画概要、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775に、建設基本方針(昭和39年3月3日)、建設基本計画(S39年12月25日)につき記述あり

<大規模地方開発都市>
全国総合開発計画の具体的手法としての新産業都市指定と同時期に、経済企画庁により仙台市は「大規模地方開発都市」に指定された(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P776)

<新全国総合開発計画>
* 1969年(S44)5月、閣議決定
   ************************************

<仙台新港>
* 1969年(S44)11月13日、仙台新港定礎式
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港、開港式

・ 1973年(S48)の「石油ショック」は高度経済成長路線の転換を迫り、戦後初めてのマイナス成長 / 仙台市の第二次産業の成長と停滞は、そのまま日本経済の歩みを反映し、仙台湾工業地帯への企業進出が鈍り、仙台港も工業港より商業港への色合いを強めていく(「仙台市史 特別編4 市民生活」P370) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P612、P654、P678/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P369~370/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775、P776、P790/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370  「市民の戦後史(仙台市)」P156(新産業都市仙台地区の建設計画模型、仙台新港予定地の長浜海岸一帯空撮) 
新憲法 施行  1947年(S22)  * 1946年(S21)11月3日、日本国憲法公布、大々的な県民大会、市民大会開催、市民に米3合特配
* 1947年(S22)5月3日、日本国憲法施行、地方自治法など憲法附属24法律施行、県民祝賀大会 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P25/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89/「仙台市史10 年表」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P518  「新・目で見る仙台の歴史」P175(新憲法発布祝賀会、祝賀提灯づくり、県庁前祝賀行列) 
新常盤町(遊郭) (1)新常磐町以前  明治初期~1894年(M27)  <遊廓> 「くるわ」(廓または郭と書く)は城郭のように周囲を石や土で覆い、塀などをめぐらせた一画で、ここに遊女や関係の業者だけを集中的に存在させ、官許の遊女町とすることがあった / 遊女屋は郭外での営業を禁止

<公娼と私娼> 「公娼」は、遊郭で働く法律で許可された売春婦で、鑑札(営業許可証)定期検診が義務付けられた / 多くの場合、貧民の子女が、貧しさの為に、親に手渡されるまとまった前渡し金によって、年季を定められ売春生活を余儀なくされた / 「私娼」は、許可されていない売春婦

・ 藩政時代は、仙台城下における遊女屋営業は禁止
・ 明治維新期、薩長軍相手の遊女屋(妓楼)が虎屋横丁に開業
* 1869年(M2)、国分町を中心に、遊女屋28軒が官許を得て開業開始/ 中正楼(ちゅうせい)楼、新盛楼(しんせい)、舞鶴楼(まいづる)、南幸楼(なんこう)など

* 1878年(M11)9月15日、国分町遊郭の妓楼(貸座敷)15軒が、片平丁河岸(常盤町、のちの元常盤町)に移転完了

* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
(新常盤丁の名称は1894年(M27)7月15日に市会の決議による / 戦後は旅籠町と改名した) / 常盤町の川向かいに川内の第二師団兵舎があり、若い兵士の士気に影響ありと軍の圧力があり、県は移転期限をきめ移転を強要

<新常磐町(遊郭)の沿革>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123、「仙台市史 特別編4 市民生活」P389に、記述あり

<編者注> 常盤町、新常盤町の表記は、文献により「町」と「丁」の二通りあり

<廃娼運動> 明治期~昭和戦前期の宮城県内の廃娼運動については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P392~393に記述あり 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123/「仙台市史 年表」P82、P88、P89/「重訂 宮城県郷土史年表」P330/「仙台市史 特別編4 市民生活」P393、P392~393  99-03398-079/「目で見る仙台の歴史」P118に、国分町の貸座敷「南幸楼錦絵」(のち明治4年に中正楼)と「常盤町の妓楼街」 
新常盤町(遊郭) (2)移転開業  1894年(M27)  <「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
   1892年(M25)、192人・21軒
   1900年(M33)、325人・32軒
   1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)

<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた 
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%

* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退 
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391  目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿) 
新寺小路地区都市改造事業(区画整理) 計画公示~完了  1960年(S35)
~2000年(H12) 
<「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」(昭和44年9月発行)P388より>
「新寺小路地区第一工区土地区画整理事業=寺院と墓地によって相当部分が占められており、仙台駅に隣接してしているにもかかわらず市街地としての環境整備が遅れているので、市中心部と東部地区を連絡する都市計画街路を築造し、駅前広場(東口)を拡張して交通の円滑化を図るとともに、区画街路、公園などを設置、墓地を整理して総合的に近代市街地化する。このため墓地は別途事業で造成中の葛岡墓園に移転改葬し跡地は宅地として利用する計画。事業認可面積は約60.3haで、昭和35年から5か年計画で着工したが、墓地の所有権をめぐる訴訟事件などのため事業は進まなかったが、同地区の10カ寺との話し合いがつき、昭和44年一部墓地の移転が開始されたので、清水小路多賀城線の拡張工事は軌道に乗り始めた。」

<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127>
「新寺小路の区画整理は、区域内約1100戸を交換分合するほか、約30カ寺の墓地を整理、3万基近い墓を葛岡墓地公園に移転。そして道幅を7.5mから25mに広げ、都心部と仙台バイパスを結ぶ最短路線にしようというもの。」

* 1960年(S35)6月、新寺小路地区都市改造事業計画公示(施行年度は、2000年度(H12)まで / 施行面積60.4ha)
* 1960年(S35)9月、新寺小路地区の33カ寺、墓地所有をめぐり市を相手に訴訟
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始(新寺小路地区の都市改造事業=区画整理による移転墓地) / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1965年(S40)1月、新寺小路墓地問題で11カ寺と市が和解
* 1969年(S44)3月、移転第1号として応瑞寺の墓碑50基を移転 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P388/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127、P744/「同書」末尾年表P871、P888/「仙台市史 年表」P123/「市民の戦後史(仙台市)」P110、P113  「市民の戦後史(仙台市)」P211(葛岡墓地公園) 
新国町/日の出横丁 新設  1902年(M35)  東一番丁と国分町を結ぶ東西の小路(北側の玉沢横丁=現・広瀬通、南側の大町通りと平行)

* 1902年(M35)6月8日、新国町新設開通 / 屋敷の中を南北両側から、4尺5寸ずつの地所を出し合って幅9尺の私設街路をつくる / 両側に小店が並んだ(「東一番丁物語り」P120~123に店の配置やコメントあり) / 北側に16軒、南側に20軒)
* 大正時代は、“日陰町”とよばれさびれた
* 1932年(S8)3月、映画館「仙集館」付近より出火した火災(東一番丁大火)で新国町の大半が焼失
* 1932年(S8)、街路幅拡張
* 1932年(S8)5月、東一振興会が町名募集し、「日の出横丁」と決まる
* 1935年(S10)3月、映画館「日乃出映画劇場」開場 
「仙台市史 年表」P92/「東一番丁物語 明治編」P120~123/「番丁詳伝」P80、P108/「わが町昔がたり」P22  位置は、98-110の地図で確認  
新住居表示制度(仙台) 実施  1965年(S40)~  * 1965年(S40)4月1日、旭ヶ丘地区で実施(仙台市初)
* 1965年(S40)11月1日、宮城野地区で実施
* 1966年(S41)5月1日、向山地区で実施
* 1967年(S42)2月1日、南材木町、南小泉地区で実施
* 1967年(S42)11月1日、八幡地区で実施 
* 1968年(S43)2月1日、通町地区で実施
* 1968年(S43)8月1日、長町地区で実施
* 1970年(S45)2月1日、中央地区で実施(北は、柏木、昭和町、梅田町、南は、米ケ袋、土樋、五橋、西は広瀬町と広瀬川、東は宮町と仙台駅付近、に囲まれた市中央部で、上杉、中央、本町、一番町、立町、大町、など、計28町・44丁目)
(中央地区の該当範囲図は、http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/documents/s45chuuou.pdf)
* 1971年(S46)5月1日、東六番丁・原町地区で実施
* 1971年(S46)12月、露無地区の新町名公示後に異議申し立て(仙台市で初)
* 1972年(S47)5月、台原地区で実施
* 1973年(S48)5月1日、長町北地区で実施
* 1973年(S48)5月、土手内1・2・3丁目で実施
* 1974年(S49)5月1日、桜が丘地区で実施
* 1975年(S50)5月1日、若林区小泉地区と、太白区太白地区で実施
* 1976年(S51)7月5日、高松・幸町地区で実施
* 1976年(S51)9月1日、富谷町向陽台団地で実施
* 1977年(S52)2月1日、仙台港北側の港4・5丁目で実施
* 1977年(S52)7月4日、本澤・中山地区で実施
* 1978年(S53)7月3日、北根・荒町地区で実施
* 1979年(S54)7月1日、中田・西多賀地区で実施
* 1985年(S60)7月1日、六丁目地区、長町茂ケ崎地区で実施
* 1988年(S63)7月4日、榴ヶ岡1~5丁目、宮城野1丁目、八幡7丁目の新住居表示実施 
「仙台あのころこのころ八十八年」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P619、P622、P626、P630、P635、P638、P641/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P10、P19、P20、P29、P40、P57、P64、P70、P71、P83、P96、P194、P248
/仙台市HPの「住居表示実施状況 実施地区名一覧《実施年降順》」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/kojun.html 
「市民の戦後史(仙台市)」P167(市内初の旭ヶ丘新住居表示板」 
新伝馬町商店街 由来 ほか    <仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)>
「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」

* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成

* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける 
仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP  「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街) 
新仙台港 開港  1971年(S46)  * 1971年(S46)7月17日、新仙台港開港式
* 1977年(S52)4月、仙台港フェリー専用岸壁供用開始 
「仙台市史 年表」P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P978/「続・ 宮城県郷土史年表」P67  「仙台市史 特別編4 市民生活」P369の図353(仙台港、カラー) 
斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) 博物館竣工~取壊し  1933年(S8)~2015年(H27)  ・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強

* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 →  項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された) 
「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46  戦前は、53-11099-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-1462-0453-7135-0935-10 /戦後は53-5007-01-04 
斎藤報恩会 財団法人認可  1923年(T12)  * 1923年(T12)2月20日、斎藤報恩会、宮城県前谷地村(のちの河南町)の大地主、斎藤善右衛門が財団法人として設立 / 学術研究、産業開発、社会福祉の事業を行ってきた

* 1923年(T12)2月、斎藤善右衛門、300万円を基金に斎藤報恩会を創設(「仙台あのころこのころ八十八年」P244) 
「仙台市史 年表」P101/「仙台あのころこのころ八十八年」P244   
文学碑など(仙台) 土井晩翠歌碑、詩碑  1952年(S27)  <樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)

<天地有情>
* 1949年(S24)4月、市内本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置

<荒城の月>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、晩翠会が、「荒城の月」の銅板をはめた詩碑を仙台城址天守台(天主台)につくり、除幕式
(「仙台市史 続編第2巻」P270、「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台年表」P210、「仙台城」P235)

* 1952年(S27)10月19日、晩翠逝去(81歳) / 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が「荒城の月」詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189) 
佐々久著「仙台の散策」/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189~190、P270~271/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235  「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(晩翠詩碑「荒城の月」)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑) 
文学碑など(仙台) 魯迅の碑  1960年(S35)  * 1960年(S35)12月4日竣工 / 仙台博物館わきに、熊谷岱蔵(東北大学名誉教授、文化勲章受章者、仙台市名誉市民)らの手で建てられた / 除幕式には魯迅夫人許広平女史出席  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190   
文学碑など(仙台) 藤村の詩碑  1936年(S11)/1965年(S40)  * 1936年(S11)、八木山の一角に建立 / 戦後荒廃し、碑が雑草と雑木林に埋もれる
* 1965年(S40)10月、八木山動物公園開園に伴い敷地内に入り、自由に参観出来ないため、天守台跡に移転 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190~191  「新・目で見る仙台の歴史」P151(八木山の詩碑を見る藤村夫妻)/「目で見る仙台の歴史」P167 
文学碑など(仙台) 石川善助の詩碑    * 1958年(S33)9月27日、詩碑建立 / 愛宕山神社のかたわら、仙台市を一望できる場所にある
「化石を拾ふ。 光の澱む切り通しの中に、童子が化石を捜してゐた。 黄赭の地層のあちこちに、白いうづくまる貝を掘り、遠い古生代の景色を夢み、母の母なる匂ひを嗅いでゐた。 もう日は翳るよ、空に鴉は散らばるよ。 だのに、なほも探してゐる。探してゐる。 外界のこころを、生の始めを、母を、母を」

・ 「番丁詳伝」P104~105に、国分町生まれの詩人石川善助の生い立ち、経歴、詩の世界につき記述あり 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191/「番丁詳伝」P104~105   
文学碑など(仙台) 原阿佐緒の歌碑  1961年(S36)  * 1961年(S36)6月、除幕式 / 歌碑「家ごとにすもも花咲くみちのくの 春べをこもり病みて久しも」 / 野草園に近い、仙台放送の放送所とNHKTVアンテナの中間、道に東側に建つ  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292の写真96 
文学碑など(仙台) 浜夢助の句碑  1962年(S37)  * 1962年(S37)12月、川柳宮城野社一同の手で、西公園内に句碑建立 / 「雪国にうまれ 無口に馴らされる」  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192   
文学碑など(仙台) 阿部みどり女の句碑  1963年(S38)  * 1963年(S38)10月1日、仙台城址、宮城護国神社南の池のはたに建立 / 「初蝶の流れ光陰ながれけり みどり女」  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192   
文学碑など(仙台) 菊地養之輔の歌碑  1969年(S44)  * 1969年(S44)9月、西公園の公会堂西南隣に建設 / 「新しき世界のために靴の紐、結ぶしもべと我をならしめ」  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192~193   
文字・漢字の表記 鉄道駅  1940年(S15)/1945年(S20)  * 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35   
文字・漢字の表記 新聞のルビ廃止  1946年(S21)  * 1946年(S21)12月1日、紙面のルビ廃止、新カナ使い、左横書きとなる  菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37   
文字・漢字の表記 当用漢字  1946年(S21)  * 1946年(S21)11月5日、国語審議会が答申
* 同年11月16日に内閣が告示した「当用漢字表」に掲載された1850の漢字
* 1981年(S56)、常用漢字表の告示に伴い当用漢字表は廃止 
Wikipedia「当用漢字」   
文字・漢字の表記 当用漢字(新字体)  1949年(S24)  * 1949年(S24)4月、「当用漢字字体表」としてに告示された「新たな字体」     
文字・漢字の表記 常用漢字  1981年(S56)/2010年(H22)  * 1981年(S56)3月23日に国語審議会が答申(当用漢字の後継)
* 同年10月1日に昭和56年内閣告示された常用漢字表/1945字、4087音訓(2187音・1900訓)

<改定常用漢字表>
* 2010年(H22)6月7日、文化審議会が答申
* 同年11月30日に内閣告示された常用漢字表 / 2136字、4388音訓(2352音・2036訓) / 昭和56年告示の「常用漢字表」は廃止 
Wikipedia「常用漢字」   
文化財指定(平成年間) 国宝、史跡、ユネスコ記憶遺産、日本遺産  平成年間  * 2001年(H13)、「慶長遣欧使節関係資料」、国宝指定
* 2003年(H15)、「仙台城跡」、国史跡指定、
* 2006年(H18)、「仙台郡山官衙遺跡群」、国史跡指定
* 2012年(H24)、 国宝「慶長遣欧使節関係資料」がユネスコ記憶遺産登録
* 2016年(H28)、「政宗が育んだ“伊達”な文化」が、日本遺産認定 
仙台市HP「仙台市のあゆみ」   
文化横丁 新設  1924年(T13)12月12日  ・ 東一番丁南部(通称・大通り)と西側の南町を結ぶ横丁
・ 開設当初の名称は「東南横丁」だが、翌1925年(T14)に活動写真の「文化キネマ」ができて文化横丁と呼ばれるようになった

【「東一番丁物語」P219】「大正13年、阿部太助が所有地を開放して東一番丁と南町を貫通し、両側に百軒店街を開設すべく貸家を建築し東南横丁と名づける。12月12日に開通式」

* 1924年(T13)12月12日、文化横丁が新設される(「仙台市史 年表」P102)
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に映画常設館「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設 / 阿部太助、昭和2年他界後、遺志は子息の阿部来太郎に引き継がれ、文化キネマ経営、文化横丁の新興がはかられた(「番丁詳伝」P119)
(「仙台年表」P206には、昭和10年開館とあるが間違い)
 
* 1936年(S11)12月、「文化キネマ」が東一番丁(大通り)・文化横丁角へ新築移転し「文化映画劇場」と改称

<参照> 項目「文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場」
 
「東一番丁物語り」(柴田量平著)P219/「仙台市史 年表」P102/「仙台映画大全集」P450/「重訂 宮城県郷土史年表」P395/「番丁詳伝」P119  61-2498-134(大正末~昭和初期の商店配置図に、文化横丁と文化キネマの位置が記載)/98-135(S32年の店舗配置図に、東一番丁・文化横丁角の文化劇場記載) / 昭和30年代初め頃は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P28 
文化勲章 宮城県関係受賞者    * 1937年(S12)2月11日、文化勲章令公布

(昭和12年)本多光太郎 / (昭和19年)志賀潔、(昭和25年)土井林吉(晩翠) / (昭和27年)熊谷岱蔵 / (昭和28年)矢部長克、宇井伯寿 / (昭和30年)増本量 / (昭和31年)村上武次郎 / (昭和33年)野副鉄男 / (昭和43年)黒川利雄

   ****** 以上、昭和50年まで ****** 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P12/「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P545、P560、P569   
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 開館/移転・改称/改称/空襲焼失・休館/再建/改称  1925年(T14)/1936年(S11)/1938年(S13)/1945年(S20)/1950年(S25)/1958年(S33  <大映文化キネマ>
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設(「東一番丁物語」P219」
* 1925年(T14)11月、文化キネマ(活動写真)、東一番丁に開設(「重訂 宮城県郷土史年表」P400)
* 1925年(T14)12月1日、阿部三郎が「大映文化シネマ」を始める(「東一番丁創立五十周年」P8)
* 1925年(T14)12月11日、阿部来太郎、「大映文化キネマ」を文化横丁の中央南側に新築開館(松竹映画と洋画を上映)(「仙台映画大全集」P450)
・ 文化キネマは松竹映画とともに、洋画も上映 / 東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだ(「番丁詳伝」P113)

<文化映画劇場>
* 1936年(S11)12月、東一番丁(大通り)へ新築移転し「文化映画劇場」と改称 / 洋風建築、椅子席、3階建、2階に楽屋、3階に食堂とホール(「仙台映画大全集」P140)

<文化キネマ>
* 1938年(S13)、再び「文化キネマ」に改称
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で外壁を残し焼失、休館

<戦後復活し、文化劇場>
* 1950年(S25)12月、大通り(東一番丁88)で「文化劇場」として復活(松竹映画を上映、943席)
<仙台松竹映画劇場>
* 1958年(S33)11月、「仙台松竹映画劇場」と改称
* 2001年(H13)、閉館 
「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史P450ほか /「重訂 宮城県郷土史年表」P400、P546/「番丁詳伝」P87、P113/参考:「東一番丁物語」(柴田量平著)P219、P236~237  ・戦前は、22-5953-3861-2461-25/「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P106~107/「いつか見た街・人・暮らし」P44(昭和12年頃) ・戦後は、18-0418-08 
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 弁士/トーキー    「文化キネマは東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだという / 日本初のトーキー映画「マダムと女房」もここで上映 / トーキーが盛んになるにつれ、文化キネマ説明部の弁士は職を失うとストライキを行い、これを他館の弁士たちが応援した」  「番丁詳伝」P113   
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 ラジオ出演  1932年(S7)ころ  S7年頃、文化キネマの楽団員たちが、NHK仙台放送局のラジオドラマ(生放送)で伴奏を担当    67-0167-04 
敬老乗車証 交付  1973年(S48)  * 1973年(S48)10月15日、仙台市が70歳以上の市民に交付  「仙台市史 年表」P129    
敗戦後の諸相・仙台 宮城県出身者の従軍数(召集数)、戦死者数、復員数  1931年(S6)~1945年(S20)  <宮城県出身者の従軍数と復員数>
  (「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66)
陸軍17万人 外地 12万人 → 復員数 9万6000人
      内地 5万人 → 復員数 5万人
海軍4万人  外地 2万人 → 復員数 1万3000人
      内地 2万人 → 復員数 2万人

<宮城県からの召集数、県出身者の戦死数>
  (「宮城県史」より 「戦争のころ 仙台、宮城」P239)
召集数
 陸軍 約17万
 海軍 約4万
戦死者数(死亡公報が発行された人数)
 陸軍 約2万8000人(全体の16%)
 海軍 約7000人(全体の18%)  
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239  「新・目で見る仙台の歴史」P171(シベリア抑留軍人が仙台着) 
敗戦後の諸相・仙台 引揚者、シベリア抑留、傷痍軍人など  1945年(S20)~  <外地からの引揚者>
・ 戦前、多くの人々が日本の植民地や勢力圏になった台湾、満州、中国大陸、樺太、南洋諸島などに移住したが、敗戦により引き揚げを余儀なくされた

<シベリア抑留>
・ 戦後多くの軍人たちが戦地から引揚げたが、旧満州で敗戦を迎えた将兵はソ連に抑留され、シベリアの炭鉱や開発工事などに従事されられた
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ シベリアからの引上げは、1950年(S25)までかかり完了

<傷痍軍人>
・ 生きて帰還できた将兵の中には、戦地で負傷した傷痍軍人たちが少なくなく、昭和20年代には、繁華街や電車内などで白衣を着て失った腕や脚を人目にさらしながら、中にはアコーディオンやギターを演奏するなどして市民に生活の援助を求める姿が珍しくなかった 
「新・目で見る仙台の歴史」P170~171/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316  「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太からの引揚者第1陣仙台駅着)/同P171(シベリヤに抑留され仙台駅に到着した復員兵たち、街頭の傷痍軍人) 
敗戦後の諸相・仙台 女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ  1945年(S20)9月  9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)

* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)

・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)

・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243   
敗戦後の諸相・仙台 敗戦直後の学校  1945年(S20)  ・ 進駐軍の軍政府民間情報局(国分町の富国生命ビル)による学校巡検にそなえ各学校は、教室に掲示してある大東亜共栄圏地図、国史年表、国史掛図、軍事教練や武道に関する用具類を校外に搬出したり、焼却したりした
・ 国民学校へ食糧増産学校開墾学徒動員に関する宮城県内務部長通達「午前は児童が校庭を耕起、午後は職員が校庭を整地播種、5年生以上の児童は、土日に野草や山菜を採取」 / これは、昭和21年もかなり長期にわたり実施された
・ 児童実態調査(昭和21年7月2日の南小泉国民学校日誌):在籍1548名のうち、欠席177名、衰弱甚だしき者189名、前日1食欠く者261名、前日2食欠く者33名
・ 国民学校では文部書の指示で国定教科書の削除部分を検討し、黒塗りや切り取り作業(黒塗り教科書)

・ 昭和20年の明治節遙拝式(11月3日)は、旧来の式次第通り実施 / 宮城遙拝、明治神宮遙拝、勅語奉読(教育勅語、青少年学徒ニ賜ハリタル勅語)、唱歌明治節
・ 同年12月以降は教育現場が一変(GHQの教育四大改革指令で文部省の教育方針は実効性を失う) / 軍国主義や極端な国家主義教育の禁止、それらに関する教科書の削除、ふさわしくない教員の追放、神社崇拝をはじめとする国家神道を学校教育から排除、軍国主義や極端な国家主義思想を植えつけるために利用された修身・国史・地理の三教科書の使用禁止
・ 12月以降、仙台市の中等学校でも教科書黒塗り(その作業と点検のため、正規授業を2~3日間中断)/修身・国史・地理教科書の教科書、教授参考書、教材類が学校ごとに回収され、三教科の授業も停止
・ 21年1月、天皇の人間宣言 / 伊勢神宮・明治神宮の遙拝禁止、、校内の神社・神棚の撤去/ 同年3月までに、市内各学校の奉安殿を取壊し / 同年10月、教育勅語奉読廃止通達  
「仙台市史 特別編4 市民生活」P271~273  「仙台市史 特別編4 市民生活」P272(黒塗り教科書)/同P273(国民学校の小神殿) 
敗戦後の諸相・仙台 進駐軍相手の「特殊慰安施設」  1945年(S20)秋~1946年3月  <特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)

・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)

・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158   
敗戦後の諸相・仙台 英語標識設置    ・ 仙台駅、占領軍の要請で駅名をローマ字表示(写真16-16)
・ 西公園前・南町通はメープル街、南町・国分町はエルバリ街、光前寺通・駅前はインディアナポリス街などの標識設置 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68~69  16-4216-4416-4616-3616-2316-1625-1453-3144-4544-29-0125-1099-148 
敗戦後の諸相・仙台 米、大減収    * 1945年(S20)は凶作で、20年産米の供出量は、21年3月で66%
* 1946年(S21)産米は、前年に比べやや持ち直す
* 1947年(S22)、大減収(7、8月の豪雨と9月のカスリーン台風)
* 1948年(S23)、大減収(アイオン台風) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70、P72   
敗戦後の諸相・仙台 食糧事情悪化で米配給減    ☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり

☆ 戦中戦後の「深刻な食糧難」については、【「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248】に記述あり
・ 戦後、米は大人1日2合3勺配給予定だったが、遅配欠配でヤミに頼らざるを得ず / 仙台では米配給が2週間も遅れ、コメの代わりにトウモロコシや砂糖だったこともあった / 食糧難は戦後の方がひどかった

<主食配給減や欠配>
* 1946年(S21)5月中旬、宮城県でも主食配給量を2.1合→1.8合に減量/しかし、欠配日数が増加し栄養失調者が続出、職場では欠勤者増加の一方だった

<米よこせメーデー>
* 食糧メーデー、東京で5月19日
* 食糧メーデー、仙台では5月31日/木町、榴ヶ岡、南材木町、東北学院専門部の4カ所に、革新政党、労働組合など18団体代表や市民が参加、空腹をこらえて、“米よこせ”と気勢をあげた

<色の黒い代用食パン>
* 1946年(S21)6月半ばから、危機突破用として、代替パンを月に1人当たり1~3個づつ主食がわりに配給/小麦粉5割、こぬか2.5割、雑粉2.5割で、少し塩味がつけてあり、1個(36匁)36銭、色の黒い丸形のパンだった

<主婦たちが嘆願書>
アメリカの放出物資も続いたが深刻さ解消にはならず、市内連坊地区の七つの公会の主婦たち代表8人が県庁に押しかけ嘆願書を千葉三郎知事に提出
「手持ち金はなくなりタンスの中もカラになりました。児童の犯罪が増え体力が低下してきました。ヤミ商人が増え買出し時間や燃料・調理時間の空費で教育ができません。思想の悪化で家庭の円満さえ懸念されます。以上のように私たちは、不安と暗黒の中に追われています。これはただただ主食の不足によるものです。なにとぞ主食配給の即時実施をお願いします・・・・」

<昭和22年正月の配給>
「もち米1人7合、清酒1世帯5合、ビール1世帯1本、サッカリン各家庭1個、かずのこ見込みなし・・・」(「仙台市史 続編第2巻」P254) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254  「新・目で見る仙台の歴史」P174(食糧難で労働者の提灯デモ)/同P170(食糧難で食物支給される人たち)/同P172(中田町の青年団、食糧難に市民に野菜類を贈る)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ) 
敗戦後の諸相・仙台 食糧買い出し    ・ 欠配続きで、農村へ食糧買出しのため列車は連日超満員 / 仙鉄局が無蓋貨車を臨時運転し人を運ぶ
・ 子どもも買出しに動員されたため、県は国民学校、中学校に対し校長の自由裁量で午前授業だけで打ち切るよう通達
・ 郊外から物資を買い集めてきてさばくカツギ屋とよばれる人々もあらわれた。
・ 衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
・ 1953年(S28)10月、凶作によりヤミ米横行、菓子工場、旅館など一斉取締り(「仙台あのころこのころ八十八年」P252) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72/「仙台あのころこのころ八十八年」P252  「仙台市史 続編第1巻」P72の写真(満員の買出し列車)/「新・目で見る仙台の歴史」P173(仙山線ホームのカツギ屋の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P104(仙台駅で押収されたヤミ米の山)/同105(列車で買出しに行く「カツギ屋」たち) 
敗戦後の諸相・仙台 外食券食堂    ・ 1947年(S22)7月1日、外食券食堂、旅館、喫茶店を除き、全国の料理飲食店の営業が停止された。仙台でも1168軒が休業し外食券食堂だけが残った。
・ 飲食営業緊急措置令により、主食を販売できる店は「外食券食堂」だけになった。食糧事情悪化のため政府がとった苦肉の策だが、こっそり店を開ける裏口営業が流行するが、22年内に解ける予定が24年まで続くことになる。(「番丁詳伝」P160)
・ 1949年(S24)には料理飲食店が再開されることになり、許可申請し「丸許」となった店は外食券食堂28を含め計93店だけで、客は食料品購入通帳で「外食券」「副食券」を入手し持参しないと店では食事できない建前だった。 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P100~101/「番丁詳伝」P160  「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(外食券) 
敗戦後の諸相・仙台 家畜も激減    <市立屠場(市内小田原泉町)では>
・扱った牛馬豚羊が、1944年(S19)5000頭超、S20は2000頭、S22は746頭と激減

<飼育頭数も激減>
・市内の飼育数(牛馬豚羊)、S20は3475頭、S21は272頭
・深刻な食糧事情で、食いつぶされてしまった 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72   
敗戦後の諸相・仙台 欠食児童   
・ 荒町国民学校、全児童2000人中、食糧事情による欠席が1割近くあり、授業は午前中のほか体操は休ませる措置 / 十日間も野菜だけを食べ、米を一粒も口にしない児童が50人いた
・ 東六番丁国民学校では、昼食抜きの児童が3分の1に達し、子供らしくはしゃぎまわる姿もない
・ 仙台中学では、週5日授業で山菜とり、県立一高女など各校でも野草・山菜つみに近郊へ出かけた

☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407  「仙台市史 特別編4 市民生活」P405(敗戦直後に野外で食事する子供たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ) 
敗戦後の諸相・仙台 生活抄から        生 活 抄      通子  

・ 子供等が食にいやしくなり来つる
        叱りつつあわれ国敗れたり     
・ 配給日まで耐えこしあらな米をひき
        糊にして食い三たび三度を
・ 今少し食あらばかく病ませじを
        蒼白き鼻尖りて見ゆる 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P73~74   

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