仙台よみとき用語年表
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火災(地域) 小田原遊郭  1910年(M43)  * 1910年(M43)1月24日、小田原遊郭全体の四分の一にあたる30戸が焼失  「仙台市史 年表」P95   
火災(地域) 南町大火  1919年(T8)  * 1919年(T8)3月2日未明、南町「電話横丁」北側から出火、折からの強風で南町から東二番丁まで燃えひろがり、12ケ町を焼き払って午前7時半鎮火、明治以降最大の出火災害となった / 仙台郵便局・電話交換局・東北学院中学部校舎・芭蕉館・横浜火災を含む700余戸余が焼失(「仙台市史 続編第1巻」P363では、焼失698戸 / 「仙台あのころこのころ八十八年」P243では707戸焼失) / この大火で南町は拡幅され大通りとなった

* 1927年(S2)、火災地の道路改修、8年がかりの区画整理工事完了
  (良覚院丁、南町、南町通、柳町、柳町通、北目町、北目町通、東一番丁の各町内の、全部または一部) / 東一番丁は大町角の藤崎以南が拡幅され、通称「大通り」となった 
「目で見る仙台の歴史」P156/「仙台市史 年表」P98 / 「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P107/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P363~364/「番丁詳伝」P166  「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P106~107の写真/「目で見る仙台の歴史」P156に「南町大火の焼け跡」 
火災(地域) 東一番丁大火  1933年(S8)  <仙集館と東一番丁大火>
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し、52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P232/「番丁詳伝」P131   
火災(地域) 長町八本松  1940年(S15)  * 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼  「仙台市史10 年表」P298   
火災(地域) 中央マーケット  1948年(S23)/1961年(S36)  * 1948年(S23)2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失
* 1948年(S23)5月27日、東一番丁仙台中央市場、72戸焼失
* 1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟焼失 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818   
火災(地域) 国分町虎屋横丁  1948年(S23)  * 1948年(S23)10月2日、国分町虎屋横丁13戸焼失  「仙台市史10 年表」P319   
火災(地域) 仙台駅前(駅前マーケット)  1949年(S24)/1953年(S28)  * 1949年(S24)3月16日、仙台駅前の裏五番丁に火災あり、46戸全焼
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前マーケット、46戸焼失
* 1953年(S28)1月7日、仙台駅前百貨商店街火事、8棟46戸全半焼 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台市史 年表」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台年表」P226   
火災(地域) 東一マーケット  1951年(S26)  * 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818   
火災(地域) 二日町大火  1951年(S26)  * 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災  
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221  40-0140-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)/「市民の戦後史(仙台市)」P64(市役所付近の焼け跡) 
火災(地域) 南町通りの仙台銀座マーケット  1952年(S27)  ・ 戦前に東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった仙台逓信局が、仙台空襲(S20年7月10日)で焼失し、戦後その焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟の商店街、建坪3000坪)ができた / 防火壁がなく、火災保険では「禁止物件」に指定されていた

<火災で焼失>
* 1952年(S27)1月22日午後0時20分頃出火、通称「仙台銀座」の通称1~8丁目まで145戸のうち、東二番丁通りに面した棟と南側の棟を残してほどんど全焼し、さらに隣接の店舗、倉庫などに延焼し、計19棟106戸焼失して午後2時半頃鎮火、木造モルタル建物大小6棟がつなぎ合わされたマーケット形態の建物なので、延焼が非常に速かった(「宮城県百科事典」P575) / 「仙台年表」では、7棟110戸全焼、被災者450名(東二番丁仙台銀座内美術館から出火) / 「仙台市史10 年表」では、東二番丁仙台銀座大火240戸焼失 / 「重訂 宮城県郷土史年表」では、南町通銀座に大火、百貨店など140戸焼失 / 原因は電気ゴタツ / 「仙台市史第2巻本編2」P717~718に、詳細な経過、隣接する12棟類焼(宮城燃料や加藤商店の木炭倉庫、大睦建設木工場、長尾病院など)、被災者の避難所、食品衣類寝具などの救援内容を記載

* 1955年(S30)2月20日、東二番丁側に残っていた14棟68世帯(約4000㎡)も焼失(東二番丁の拡幅工事予定地だったのでこれを機に拡幅工事を強行)(「仙台市史 続編第1巻」P349、P782) 
「宮城県百科事典」P575/「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349、P782、P808/「仙台市史 年表」P117/「仙台年表」P223/「仙台市史10 年表」P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P554/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167  「宮城県百科事典」P575(S27年の火災)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P782に、昭和30年の仙台銀座の火災写真/「市民の戦後史(仙台市)」P88(S30年2月の仙台銀座火災) 
火災(地域) 川内追廻  1960年(S35)  * 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失  「重訂 宮城県郷土史年表」P595   
火災(地域) 東部飲食店街  1970年(S45)  * 1970年(S45)7月10日、アパートなど10棟2500㎡焼失、37世帯94人被災  「重訂 宮城県郷土史年表」P659   
火災(地域) ジャンジャン横丁  1972年(S47)  * 1972年(S47)11月8日、中央1丁目のジャンジャン横丁で火災、7店焼失  「続・ 宮城県郷土史年表」P15   
澱橋(広瀬川) 鉄橋架橋/新たな橋架設  1892年(M25)/1951年(S26)?  * 1889年(M22)9月10日・11日、大雨で広瀬川が氾濫し澱橋・大橋・広瀬橋が流失
* 1892年(M25)10月11日、大橋とともに鉄橋に架け替えられる
* 1951年(S26)11月、新たな橋に架け替え / 橋長137m、橋幅12m
* 1961年(S36)11月28日、新たな澱橋が完成、渡り初め式
  (「重訂 宮城県郷土史年表」P602 / S26年架け替えの橋と混同か?) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412~413/「仙台市史 年表」P87、P88/「重訂 宮城県郷土史年表」P602  「目で見る仙台の歴史」P130に、「澱橋」(撮影年代不詳) 
満蒙開拓 宮城県関連(1)  1932年(S7)~  <武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる

<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)

* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始

<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子

* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)

* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述

・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170) 

<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕 
「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170   
満蒙開拓 宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト  1932年(S7)~  <(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>

・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した

・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」

・宮城県から渡満開拓団のリスト
  昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人  11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人  12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人  13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人  14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人  15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人  16年、第8、9、10次補充210人  17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)  
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165   
満蒙開拓 宮城県関連(3)南郷村の分村  1936年(S11)~1945年(S20)  ・ 南郷村(現・美里町)は県内で満州開拓(移住)に最も熱心だったと言われ、満州の各地に数十戸ずつの移住者を送り「南郷集落」を展開(分村計画)
・ 提唱者は南郷村の国民学校校長松川五郎氏、米作地帯の南郷で安定した経営を図るには1戸3ha必要とし、計算上はみ出す農家405戸を満州移住させる計画に多くの村民が応じた
・ 1936年(S11)以降、第5次黒台村50戸、第6次宮城村、第7次安拝村など、各地に数十戸ずつ、計約300戸、1500人
・ 1944年(S19)には、第13次南郷開拓団122人をソ連国境付近に
・ 大陸の花嫁のはしりとなる乙女たちが渡満したのも南郷村が先駆
   
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P165   
満蒙開拓 宮城県関連(4-1)仙台村  1942年(S17)~1945年(S20)  <商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)>

【仙台市市 年表」P111~112】 
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設

【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】
1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった

【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】
* 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる

<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28) 
「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216   
満蒙開拓 宮城県関連(4-2)仙台村(つづき)  1942年(S17)~1945年(S20)  【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり
・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽
・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる
・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた
・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした

<敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170   
満蒙開拓 宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団  1940年(S15)~1945年(S20)  ・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団
* 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人
・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地
・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人
・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168   
満蒙開拓 宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍  1938年(S13)~1940年(S20)  ・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す 
・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る
・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった
・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練
・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた
・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭  
/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169   
満年齢 使用開始  1950年(S25)  * 1950年(S25)1月1日、「年齢のとなえ方に関する法律」施行(昭和24年5月24日法律第96号)、それまでの数え年から満年齢に変更するために制定された。(Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」)

* 1950年(S25)1月1日より、年令を満で数えることになる(「重訂 宮城県郷土史年表」P540、「菅家年表」P44) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P540/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」   
渇水   1973年(S48)  * 1973年(S48)8月、仙台管区気象台始まって以来の干ばつ
/8月21日、水不足で仙台市、塩釜市で給水制限/8月22日、阿武隈川水系の32工場に50%排水カット命令/8月27日、釜房ダム渇水で仙台市給水制限、県は干ばつ被害約36億円、水稲全滅は600haと発表/8月、大倉ダム渇水 
「続・ 宮城県郷土史年表」P22   
清掃工場 清掃工場  1966年(S41)以降  * 1967年(S42)2月9日、今泉ゴミ焼却場起工式
* 1968年(S43)7月、今泉ゴミ焼却場完成(2基で、1日180トン処理) / 鶴ケ谷と合わせ1日250トンで、埋め立ては不燃物含め1日50トン以下に
* 1971年(S46)6月15日、松森清掃工場完成、焼却開始(宮城郡泉町松森に)
* 1986年(S61)1月18日、今泉清掃工場落成式
* 1986年(S61)4月10日、今泉清掃工場に、ごみ・PAL開館
* 1987年(S62)4月、今泉清掃工場の温水プール使用開始

2020年現在、仙台市には、今泉、葛岡、松森の3清掃工場がある 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P675/「続・ 宮城県郷土史年表」P201、P204、P223  「市民の戦後史(仙台市)」P213(今泉清掃工場外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P196 
清掃事業(行政) 開始  1918年(T7)~1965年(S40)  * 1918年(T7)、仙台市が清掃事業を開始、一部地域は市直営、その他は請負業者による収集と、2本立て
* 1924年(T13)6月、市営焼却場建設
* 1925年(T14)9月、原町に新焼却場建設
* 1929年(S4)、請負制廃止しすべて市直営に、馬車付き人夫35人を直雇いに
* 1931年(S6)、請負制に復帰、市と二本立て / 戦後も二本立てが続く
* 1956年(S31)10月、請負業者による収集を廃止し、全て市直営収集とする
* 1957年(S32)9月、鶴ケ谷焼却場、稼働開始 / 従来の市営焼却場廃止
* 1962年(S37)6月、定時容器収集(ポリ容器に入れたごみを各家庭が持ち出し決まった時間に市の清掃部員が収集)、土樋など5町内会で試験実施
* 1963年度(S38)、定時容器収集を全地域に広げ、収集を週2回に増やす
このころごみ収集量は1日200トン、約60トンは鶴ケ谷焼却場で焼却、残りは埋め立て
* 1964年(S39)3月、新埋め立て地、六郷地内の子牛沼6000㎡を買収し埋め立て 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P690~691、P701~704  「目で見る仙台の歴史」P183(鶴ケ谷の塵芥焼却場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(ゴミ収集作業作業/鶴ケ谷焼却場) 
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台消防組  1881年(M14)  * 1881年(M14)12月、仙台区の「町火消組」が「消防組」と改称
* 1894年(M27)5月22日、「仙台消防組」設置(宮城県消防規則に基づき) 
「仙台市史 年表」P84、P88  「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験) 
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台市防護団  1936年(S11)  * 1933年(S8)9月15日、仙台で「防空救護団」発団式
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、青年訓練所生、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)4月29日、「仙台市防護団」結成(17分団成立)
* 1937年(S12)、仙台市防護団、防護団の下に5~20戸をまとめた「家庭防火群」をおく

* 1943年(S18)1月19日、「仙台市役所特別防護団」設置 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P38/「仙台年表」P204/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台市史10 年表」P305   
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台市警防団  1939年(S14)  * 1939年(S14)、「警防団令」発令(勅令)、防護団と消防団を統合 / 警防団は、家庭防火群を引き継ぐ「隣組」の防空訓練を監視、督励する役割を担う / 隣組や家庭は、桶やバケツ、貯水槽などを備え、火叩きや水ひしゃく、ムシロや砂などの消火道具を用意しておく義務があった / 家庭にいる女性が防空頭巾や地下足袋などに身をかためて隣組ごとにまとまって動員され、水の入ったバケツを整列して手渡しでリレーし、火にかける、といった防空訓練が警防団の指導下に行われた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321)

・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322)

* 1939年(S14)4月28日、「仙台市警防団」 ( 4月に県下一斉に組織)/ 同年1月20日(3月?)に解散した消防組(警察署長の指揮下)と防護団の組織と役割を引継ぐ / 警防団は、地方長官の監督のもとに警察署長の指揮を受ける仕組みで、カーキ色の制服に黒の戦闘帽、ゲートル姿
・ 仙台市警防団は全市で3411、警防団長は市長、国民学校の学区ごとに分団があり、役員は在郷軍人、青年団員、医師、薬剤師会会員、婦人団体など。 戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)

* 1944年(S19)4月1日仙台警防団を解団し、「仙台北警防団」および「仙台南警防団」を新設
 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322/「仙台市史 年表」P110、P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P468、P501/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P39/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152  隣組の防空演習は、76-1016-1016-11 
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台北消防団/仙台南消防団  1948年(S23)  * 1947年(S22)5月1日、消防団令公布
* 1948年(S23)1月20日、「仙台北警防団」・「仙台南警防団」が解散し、「仙台北消防団」・「仙台南消防団」が発足 
「仙台市史10 年表」P316、P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P524   
消費者団体 みやぎ生協  1982年(S57)  * 1982年(S57)1月12日、宮城県民生活協同組合とみやぎ学校生活協同組合合併し、宮城生活協同組合誕生  「続・ 宮城県郷土史年表」P140   
消費者団体 日本消費者連盟  1985年(S60)  * 1985年(S60)2月24日、県内9カ所の消費者団体が、日本消費者連盟宮城グループを結成  「続・ 宮城県郷土史年表」P188   
海岸公園 全面復旧オープン  2018年(H30)  七北田川~名取川までの貞山運河沿線の自然風致を生かし、既存の松原の保全をはかる

* 2011年(H23)、東日本大震災による津波で甚大な被害
* 2011年(H23)4月~2014年(H26)3月、震災がれきの搬入場となる
* 2014年(H26)4月、海岸公園4地区(岡田、荒浜、井土、藤塚)で復旧工事開始
* 2016年(H28)10月、4地区に避難の丘が完成、一部の施設利用再開(テニスコート、運動広場)の利用再開
* その後2度にわたり順次利用再開
* 2018年(H30)7月8日、全面利用再開

<施設内容> 
避難の丘(4か所)、野球場(4面)、ソフトボール場(2面)、テニスコート(10面)、パークゴルフ場、運動広場、冒険広場、遊具広場、デイキャンプ場、馬術場

<仙台市HP「海岸公園整備事業」より>
「海岸公園の再整備は、津波防災機能や、震災の記憶を継承するという新たな役割を持たせながら、自然と人がつながり、新たなにぎわい・交流を創る海岸公園の再生を目指すとともに、地区ごとに公園を訪れた利用者や周辺住民に対して、緊急時の一時避難場所とする「避難の丘」をあわせて整備し、平成30年7月に全面利用再開しました。」 
仙台市HP「海岸公園整備事業」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P385   
流行歌「ミス仙台」 発売  1936年(S11)夏  * 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。 
(「番丁詳伝」P197)

<歌詞>
一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川
  若きひと夜の恋ごころ
  仙台 仙台 なつかしや
二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露
  君と歩みし思い出や
  仙台 仙台 なつかしや
三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁
  三味の音いろも泣きぬれて
  仙台 仙台 なつかしや

*「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34) 
「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34   
洞雲寺 焼失  1943年(S18)  仙台市泉区山の寺(旧・七北田村)にある曹洞宗の寺院で、山形の立石寺、近江の石山寺とともに日本三大山寺の一つと言われた。仙台近郊の名所のひとつだった。

* 1935年(S10)、汽車の飛び火で洞雲寺山寺が3度目の炎上(「仙台年表」P206=出典は「河北新聞」)
* 1942年(S17)11月6日、戦時中の金属回収で仙台の寺社の鐘が供出されるが、洞雲寺の鐘は国宝級としてまぬかれた県内3か所の鐘の1つ(応召より除かれた県内の三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
* 1943年(S18)4月20日(28日?)、野火に全焼す/門前付近の芝草より出火し延焼、山門・本堂・庫裡などを焼失/仙台鉄道山ノ寺駅付近で機関車の排煙から山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が類焼(建物全て焼失)、その後コンクリート造りで再建(「仙台年表」P212=出典は「七北田村誌」、「重訂 宮城県郷土史年表」P496、Wikipedia「洞雲寺(仙台)」、Wikipedia「仙台鉄道」)
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災でコンクリート柱破壊され建物解体
* 2017年(H29)5月9日、本堂及び山門の落慶式  
「仙台年表」P206、P212/「重訂 宮城県郷土史年表」P493、P496/Wikipedia「洞雲寺(仙台)」(2009.2現在)/Wikipedia「仙台鉄道」  99-13576-14 
洋食屋(仙台) 開店時期  明治期  <明治期>

・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
   北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
    1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
    洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
    洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
   → 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352   
洋食屋(仙台) 開店時期  大正~昭和初期  <大正期>
・ 1913年(T2)の「仙台案内」掲載店
   内藤洋食店(大町3丁目)
・ 1920年(T9)の「仙台商工案内」掲載店
   仙台カフェ・パウリスタ(東一番丁)
・ 1923年(T12)、精養軒(東京上野精養軒の仙台支店)が東一番丁弥生軒跡で開業 → 項目「精養軒」参照
・ 1925年(T14)、カルトン食堂開業(大町5丁目)
   → 項目「カルトン食堂」参照

<昭和初期>
・ 1937年(S12)の「仙台商工名鑑」掲載 
   ミウラ(勾当台通り)、金富士(国分町)、ブラザー軒(東一番丁)、小原(元寺小路)、カフェライト(裏五番丁) → 項目「ブラザー軒」、項目「金富士」参照 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P85   
泉岳少年自然の家 開設  1973年(S48)  * 1973年(S48)6月15日、泉ヶ岳に仙台市泉岳少年自然の家を開設  「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P20   
泉ヶ岳勤労者野外活動センター 開館  1980年(S55)  * 1980年(S55)9月、泉ヶ岳勤労者野外活動センターが開館  「仙台市史 年表」P132   
河北遊園地 開園  1950年(S25)  * 1950年(S25)7月2日、開園(仙台市史10年表」P323)
(「重訂 宮城県郷土史年表」P542では、「昭和25年4月、河北新報社計画のもとに子どものため天神社境内西隣に榴ケ岡遊園地を特設し、河北遊園地と称す」)
* 1950年(S25)4月、河北新報社では、榴ケ岡公園などに「東北子供博覧会」を開いた。博覧会終了後、同社は榴ケ岡の天神社境内に博覧会の施設を活用して「河北遊園地」を開園した。」(「仙台市史 続編第2巻」P199) 
「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P542/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199  16-50 
河北新報社   1897年(M30)~  * 1897年(M30)1月17日、 一力健治郎が「東北日報」を買収し「河北新報」 創刊
* 1934年(S9)、東北美術展開催 / 以後毎年(戦時中の4年間を除き)「河北美術展」を開催

* 1942年(S17)7月、全国の新聞は中央各紙を含め一県一紙に整理統合、(宮城県では河北新報に統合)
・ 「内務省は言論統制を容易にするため全国の新聞社の整理統合に取り掛かりました。新聞用紙の配給を武器に、力の弱い新聞の廃刊や合併による統合を進めたのです。
 その結果、東京、大阪、名古屋、福岡は複数の新聞を認めましたが、ほかの道府県は一県一紙となりました。
 宮城県警察部特高課が知事に提出した報告「県内には日刊の新聞社が13社あり、整理統合を断行し昭和17年1月31日をもって一県一紙(河北新報)実現す。ほかにも108社の新聞社、出版社があり最終的に19社を目標にしている。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P110)

* 1944年(S19)3月、「河北新報」夕刊廃止
・ 「S20年春、地方紙は共同印刷となり、宮城県では、河北新報社が読売報知、毎日新聞、朝日新聞の題字を併記した新聞を制作した。用紙不足から2ページ、日によってはタブロイド版2ページの時もあった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P200)

* 1945年(S20)8月1日、河北新報社に診療所を設く(はじめ内科、次いで外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科) 
* 1946年(S21)9月28日、社内に夕刊東北新聞社設立し、10月1日から日刊新聞「夕刊とうほく」発行
* 1950年(S25)10月、「夕刊とうほく」と「河北新報」併合
* 1951年(S26)9月1日、河北夕刊を発行
* 1951年(S26)11月3日、河北文化賞創設
* 1960年(S35)月日、「さくら号」(ジープ)地球一周(南北アメリカ)に出発
* 1988年(S63)9月14日、河北新報社、新社屋完成 
「仙台市史 年表」P90/「重訂 宮城県郷土史年表」P501、P505、P513、P545、P551、P552、P595/「続・ 宮城県郷土史年表」P251/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P257/「番丁詳伝」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P110、P200  「目で見る仙台の歴史」P132に、「河北新報創刊号と初代社長一力健治郎」/「目で見る仙台の歴史」P161に「河北美術展」/同P187に「河北文化賞」受賞者記念写真(小倉強、海鋒義美氏ら)/同P193(河北新報社と東北放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P127(仙台に帰還したさくら号スタッフ、山中をゆく「さくら号」)/25-1025-0925-08/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P39(S33年 空撮) 
江陽会館 竣工/増築  1957年(S32)/1964年(S39)/1973年(S48) 
* 1933年(S8)、後藤江陽(岩切の後藤豆腐店の末っ子)が仙台市内に写真館を開業(「番丁詳伝」P31)
* 1940年(S15)、後藤江陽は、戦時、中支に渡りカメラマンとして活躍
* 1940年(S15)、後藤江陽が、東一番丁森徳座跡に「江陽写場」を開業(「番丁詳伝」P218)

<戦後>
* 1957年(S32)4月、東一番丁(森徳横丁角)の江陽会館が総合結婚会館として竣工(6階建)
* 1964年(S33)9月、増築
* 1964年(S39)5月に増築
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* のちに、江陽パルサー飲食ビルとなる
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)

<江陽グランドホテル開業>
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(広瀬通り / 青葉区本町二丁目3-1)
 
江陽グランドホテルHPの「会社概要」/「番丁詳伝」P31、P218/「続・ 宮城県郷土史年表」P25  99-014201-45201-47 
水道事業 創設~第2次拡張  1913年(T2)~1954年(S29)  仙台市の水道事業

<創設 水源:大倉川表流水>
* 1913年(T2)4月着工~1923年(T12)3月完工、
  ・計画給水人口12万人、実際の給水人口約3万人

<第1次拡張事業 青下川貯水池3池>
* 1931年(S6)8月着工~1934年(S9)3月完工
  ・累積給水人口18万人

<仙台空襲で被災、戦後の水不足>
* 仙台空襲(昭和20年7月)で全給水戸数の44%が被災、戦後は海外からの引き揚げ者帰国と駐留軍(米軍)の需要で、一気に水不足

<第2次拡張事業 名取川伏流水を揚水>
* 1948年(S23)10月着工~1955年(S30)6月完工
  ・累積給水人口25万人
* 1953年(S28)、大年寺配水池使用開始 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P485~487  「市民の戦後史(仙台市)」P90(大年寺山配水池) 
水道事業 深刻な水不足  1955年(S30)~1961年(S36)  <水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
  南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
 
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
  ・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
  ・累積給水人口30万人

<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493  「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸) 
水道事業 第3次~第4次拡張  1958年(S33)~1976年(S51)  <第3次拡張事業 大倉ダム放流後の表流水>
* 1958年(S33)4月大倉ダム着工~1965年(S40)3月完工
  ・累積給水人口40万人
* 1961年(S36)8月3日、大倉ダム通水式/水圧が上がり、パイプ破損が市内で続出で一時的に水不足
* 排水管、給水管などの老朽化で高い漏水率
* 1962年(S37)8月、追加給水可能となり水枯れ現象だけは解消

<国見浄水場>
* 1963年(S38)1月12日、国見浄水場完成、大倉ダム導水のフル操業可能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P493)
* 1965年(S40)5月、国見浄水場落成(「市民の戦後史(仙台市)」P113/「仙台市史 年表」P124/仙台市HP)

<第4次拡張事業 釜房ダム貯留水>
* 1966年(S41)4月着工~1976年(S51)3月完工予定
  ・累積給水人口62万人
  ・1970年(S45)、釜房ダム完工予定
  ・1970年(S45)7月1日、給水開始(20万トン)

<仙台市水道配水管系統図(第5次拡張事業まで)> → 「仙台市史 続編第1巻」P497

<給水人口と給水量の伸び グラフ> → 同上P499

<普及率>
  ・ 1967年(S42)年度末、給水区域内人口の82.6% 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P487~500/「市民の戦後史(仙台市)」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P662  「市民の戦後史(仙台市)」P170(国見浄水場空撮) 
水害 大雨  1874年(M7)7月20日  大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失  「仙台市史 年表」P81   
水害 大雨  1883年(M16)5月7日  広瀬川が氾濫し、牛越橋が流失 (1905年(M38)11月20日に架設)  「仙台市史 年表」P85、P93   
水害 台風  1884年(M17)9月15日  広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 / この台風被害により、野蒜築港工事が中止される  「仙台市史 年表」P85  「新・目で見る仙台の歴史」P124(野蒜築港設計図) 
水害 暴風雨  1885年(M18)11月24日  広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失  「仙台市史 年表」P85   
水害 大雨  1889年(M22)9月10日~11日  広瀬川が氾濫し、澱橋・大橋・広瀬橋が流失 / 仙台で、死者17名、家屋流出40戸、倒壊39戸、浸水1012戸  「仙台市史 年表」P87   
水害 大雨  1897年(M30)9月9日  仙台市街で洪水となる  「仙台市史 年表」P90   

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安保反対闘争
イールズ事件
遺児の日
泉ヶ岳勤労者野外活動センター
泉岳少年自然の家
イズミティ21
市場
一番町(旧・東一番丁)全域
一番町(旧・東一番丁)北部
一番町(旧・東一番丁)中央部
一番町(旧・東一番丁)南部
一銭橋(広瀬川)
いのちの電話
移民
医療機関
岩切城跡
牛越橋(広瀬川)
馬市
梅川漆器舗
梅田川清掃運動
埋木細工
ATM
映画館
衛戍病院(陸軍病院)
エキスポートバザー
X橋(宮城野橋)
NHK仙台放送局
NHK全国児童唱歌コンクール
NHK東北児童唱歌コンクール
NHK全国唱歌ラジオコンクール
NTT東北支社
MRI
LNG基地
エル・パーク仙台
横断歩道橋
大型店・量販店
大倉ダム
大崎八幡宮
大手門
大橋(広瀬川)
億ション
霊屋橋(広瀬川)
音楽コンクール
海岸公園
偕行社
買出し
街灯
学制改革
学童疎開
学徒勤労動員
学徒出陣
火災(地域)
ガス
霞目飛行場(仙台飛行場)
火葬場
ガソリン切符制
片倉製糸
ガダルカナル戦
学校教練
渇水
勝山公園
河北新報社
河北遊園地
釜房湖(ダム)
紙芝居
亀岡八幡神社
臥竜梅
カルトン食堂
簡易保険保養センター
環境基本条例
がん検診センター
勧工場・商館
幹線道路
紀元2600年
気象台
北山五山
切手代(ハガキ)
木町通小学校
義務教育期間
キリンビアホール
禁煙
銀行(地域の銀行)
銀行(都市銀行)
錦章堂ビル
金属回収
金の星(カフェ)
金富士(料理店)
勤労青少年ホーム
空襲
国見浄水場
軍事教練
軍需工場
軍都・仙台
軍刀(陸軍)
軍馬の銅像
軍服(陸軍)
軍用機献納
蛍光灯
警察
警察署
競馬
敬老乗車証
下水処理
血液センター
県営宮城野原公園総合運動場
県営宮城野球場(宮城球場)
県営宮城野原硬式庭球場
県営宮城野原蹴球場
県営宮城野原陸上競技場
県営宮城自転車競技場
元気フィールド仙台
健康都市宣言
県立学校、名称変更
県令 → 知事
興亜奉公日/大詔奉戴日
公会と隣組
公害・環境問題
公害市民憲章
公害防止条例
光化学スモッグ
公職追放/追放解除
公設浴場
交通監視用テレビ
高等学校(新制)
勾当台公園
工兵第二大隊 /工兵第二連隊
公民館
江陽会館
国際反戦デー
国定公園
国鉄
国道45号線
国道48号線
国民学校
国民義勇隊
国民金融公庫
国民勤労動員令
国民健康保険
国民精神総動員運動
国民登録/勤労報国隊
国民徴用令
国立仙台病院
国民服
国民帽
こけし塔
五色沼
国旗掲揚
子ども会など
午砲
米騒動
在外同胞救出仙台学生同盟
在郷軍人会
在住朝鮮人大会
斎藤報恩会
蔵王エコーライン
桜ケ岡公園(西公園)
桜ケ岡大神宮
サマータイム
産業組合中央会
三居沢交通公園
三陸自動車道
JR東日本
自衛隊
市街化区域
市街地住宅
自警団
時差出勤
思想弾圧/共産党員検挙
四大節
七十七銀行
市町村合併
輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊
実業補習学校
自動車
自動車専用道
シネマスコープ
師範学校
紙幣・硬貨(戦後)
姉妹都市
市民の家
市民のつどい
市民福祉会館
市民土曜音楽会
市民利用施設
社会教育(戦後)
釈迦堂
車両ナンバー
週休二日制
住居番号表示制
住宅団地
柔道・剣道
祝賀行事
主食配給量
殉国勇士の家
障害者福祉
鐘景閣
松根油
定禅寺通り
昭忠碑
商店など
常磐線
消費者団体
消防組/防護団/警防団/消防団
昭和三陸大地震津波
食糧メーデー
女子挺身勤労令
女子挺身隊
シルバー人材センター
新憲法
新国丁
震災遺構
新産業都市
新住居表示制度
親切運動
新仙台港
身体障害者福祉モデル都市
仁丹マーク
進駐軍(米軍)
新寺小路地区都市改造事業(区画整理)
新伝馬町商店街
新常盤町(遊郭)
新聞社
人力車
水害
水道事業
瑞鳳殿
スパイクタイヤ
スポーツ少年団
スポーツセンター
スポーツ大会
隅櫓
青少年団
清掃事業(行政)
清掃工場
政党県支部など(戦後)
青年訓練所
青年学校
青年団
税務署
精養軒
政令指定都市
セコイヤの化石
戦後開拓
戦後教育・仙台
戦後の物資・価格統制撤廃
戦後復員/引揚げ
戦災記録
戦災者・引揚者用住宅
戦災復興
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戦時衣料
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戦時中の勤労動員/就労規制
戦時中の疎開者受入れ
戦時中の物資統制、使用規制
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戦勝祝賀行事
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仙台城二の丸焼失
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仙台の裁判所
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SENDAI光のページェント
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仙台物産陳列所
仙台北部道路
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仙台郵便貯金会館
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戦没者遺骨調査・収集
戦没者慰霊
創価学会会館
総進軍大会
体育館
体外受精
大学・短大
大学紛争
大政翼賛会/新体制/公会/報国会
第二高等学校(旧制)
第二師団
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会
第十三師団
第三十三師団
第四十二師団
大日本国防婦人会
大日本婦人会
大日本連合婦人会
台原森林公園
台風被害(戦後)
多賀城跡
高橋是清
タクシー
宅地造成ブーム
竹槍訓練
立町小学校
谷風の墓所
多門師団凱旋
多門通り
男女共学
地価狂乱
乳銀杏
ちびっこ広場
駐留軍(米軍)
彫刻のあるまちづくり事業
鳥獣特別保護区
朝鮮館
朝鮮人移入労働者
朝鮮戦争
樗牛瞑想の松
チリ地震津波
榴ケ岡公園
堤人形
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン
デイケアー
貞山運河(貞山堀)
逓信関連
停電
出稼ぎ者相談所
テレトピア構想
テレビアンラジオ
テレフォンカード
電気開始(仙台)
電球
電信開始(仙台)
天神社
伝染病流行
伝統町名保存
天皇、仙台行幸
電力ホール
電話
電話開始(仙台)
土井晩翠
東一マーケットと中央マーケット
洞雲寺
灯火管制
東京オリンピック(昭和)
東照宮(仙台)
東部復興道路
同胞援護会
東邦生命ビル
東北学院
東北産業博覧会
東北自動車道
東北新幹線
東北振興/農村更生
東北大学
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東北帝国大学
東北電力
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東北歴史資料館
東北六魂祭
東北絆まつり
遠見塚古墳
特別調達庁
都市型CATV
特急はつかり
特急ひばり
トラックターミナル
名掛丁商店街
仲の瀬橋(広瀬川)
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奈良原式鳳号
西内楽器店
西公園(桜ケ岡公園)
西本願寺別院(東一番丁)
二十人町
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ニッカウイスキー工場
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バカンス(流行語)
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ヒトラーユーゲント一行が来県
日乃出映画劇場
ひらつか(東一番丁)
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広瀬川の清流を守る条例
広瀬通り
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福祉ボランティアのまちづくり事業
富国生命館(国分町)
藤崎
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婦人の社会活動(戦後・仙台)
婦人標準服
普通選挙要求運動
物価上昇
二日町大火
復興盆踊り
仏舎利塔
ブラザー軒
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場
文学碑など(仙台)
文化勲章
文化財指定
文化横丁
兵役制度
米軍進駐
兵事義会/銃後奉公会
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満蒙開拓
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