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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
警察(戦後) |
警察官 |
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<全国>
* 1946年(S21)1月16日、警官がピストル携行となる
* 1946年(S21)3月16日、婦人警官(65人が入所式)、4月27日から街頭へ
* 1946年(S21)7月20日、警官のサーベルを廃止
* 1950年(S25)1月10日、警官の拳銃常時携行となる
<宮城県>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P367)
* 1946年(S21)10月、宮城県でも婦人警察官21人採用
(応募は、17~39歳まで、大陸から引揚げてきた未亡人も含め96人が応募) / 12月24日に仙台北警察署に11名、南警察署に6名配属 / 青少年補導が主な活動の場
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P36、P44/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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警察(戦前) |
特別高等警察(特高) |
1928年(S3)~1945年(S20)10月 |
<「戦争のころ 仙台、宮城」P17~18より>
・ 特高警察は、内務省警保局を頂点に各府県の警察署特高係までを網羅した組織で、各県の特高、外事課長は内務省の人事で赴任した。 少数のエリートとその下で働く大勢の特高警官という構図。
・ 宮城県警察部は旧県庁2階の一角にあり7課(警務、警防、保安、刑事、工場、衛生、特高)85人体制
・ 特高課は刑事課と並ぶ20人の大世帯で、県内22警察署に100人以上の特高係が置かれ、職務は左翼、右翼、労働農民、内鮮宗教、検閲、外事、時局対策の7セクションにわかれていた
・ 1945年8月15日、戦争に負けると、内務省は全国の「特高警察」に捜査書類を一切焼却するよう指示(このため、宮城県公文書館に特高関係資料がない)
・ その50日後、GHQは政治的、宗教的自由を制限する治安維持法を廃止し、政治犯も釈放
・ 内務省と特高は解散を命じられ、内務大臣や警察首脳部、すべての特高警察官は休職扱いとなって後に罷免される / その数、全国では5000人、宮城県警察部では特高課長のほか一線署員も含めて90人が対象になった
*******************************************
* 1928年(S3)、「特別高等警察」(特高)、全国一律に未設置県にも設置された
* 1928年(S3)7月、宮城県警察部に特別高等警察課設置
<言論検閲も担当>
「宮城県特高課には、検閲係4人が専従、河北新報社本館1階には特高課用の部屋があって警官がしょっちゅう出入りしていたとの話もあります。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P111)
* 1945年(S20)8月末日、宮城県特高課廃止(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県特別高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
* 1945年(S20)10月11日、宮城県特高警察官91名の休職の臨時措置
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「宮城県史7 警察」P243/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P17~18、P111
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99-125(左下に宮城県特高課検閲済の字あり)
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警察(戦前) |
特別高等警察報告 |
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<宮城県知事事務引継書の「特高警察」の報告(昭和20年)から>
(1) 本土決戦を迎え報道義勇隊結成を計画中
東北軍管区司令部と特高警察が連絡をとり、河北新報社を主体に東京各紙、東北6県の記者を包括した報道義勇隊
(2) 敗戦的和平策動の容疑人物を重点観察中
ドイツの戦線離脱、沖縄戦の急迫、主要都市に対する空襲の激化により、国民の一部に不安、焦燥感を持つ者あり
(3) 拘束中の敵性外国人
・ カトリック元寺小路教会に35人(横須賀海軍警備隊から引き継いだインドネシア人35人~うち1人死亡~、広島県から送られてきた外国人1人)
・ 仙台市畳屋町の教会に26人(敵性修道女26人)
・ このほか、仙台に居住中の外国人は、中国満州人160人、ドイツ人など16人
(4) 朝鮮人の動向
東京、大阪など大都市の空襲で被災や縁故疎開で宮城県内に移住した朝鮮人は546人(うち335人は戦災) / 中には要観察中の者、不良朝鮮人もあり視察、取締りを強化
(5) 移入朝鮮人労務者
国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P202
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親切運動 |
開始 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)2月1日、仙台市が開始(島野市長ら5氏が提唱)
市民や団体から「親切実行者」を推薦してもらい、個人には親切バッヂ、団体には親切楯を贈り、その行為をたたえるもの
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「重訂 宮城県郷土史年表」P612/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250~251
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西本願寺別院(東一番丁) |
東一番丁に落成/元常盤町へ移転 |
1883年(M16)~1954年(S29) |
<Wikipedia「本願寺仙台別院」より>
・ 戦前期は、仙台陸軍病院に近いこともあり、仙台の陸軍第二師団の殉職者のうち無援仏を慰霊する役割も担った
・ 1933年(S8)、近くに三越が開店、本堂は東一番丁から参道を通って奥まった場所にあったため、東一番丁に面する参道両側の土地は、庶民に貸し出して商売をさせた
・ 戦後、仙台市が戦災復興事業によって中心市街地から寺院や墓地を移転させる方針を採ったため元常盤町(のちの支倉町)へ移転した(Wikipedia「本願寺仙台別院」では、昭和29年移転)
<主に、「本願寺仙台別院」HPより>
* 1877年(M10)、仙台・南町に、本願寺東京事務所宮城支局設置、6県下の事務取扱を行う / 同時に、東一番丁に本堂新築開始
* 1878年(M11)、仙台説教所設立、宮城小学校を設置
* 1880年(M13)、仙台説教所を別院とする
* 1883年(M16)、仙台区東一番丁に仮本堂落成
* 1910年(M43)、洋風の本堂が落成
* 1929年(S4)、無優樹幼稚園開園(S12に、あそか幼稚園と改称)
* 1938年(S13)、戦没者追悼法要(日中戦争)
* 1945年(S20)7月、仙台空襲により本堂など焼失、幼稚園休園
* 1947年(S22)、仮本堂新築落成
* 1950年(S25)、元常盤町(現・仙台市青葉区支倉町)を移転復興の地と定め、仮本堂庫裡を新築
* 1954年(S29)、元常盤町へ移転
* 1956年(S31)、幼稚園舎を新築、「あそか幼稚園」再開
* 1959年(S34)、新本堂新築落成
* 2011年(H23)、東日本大震災で、本堂など被災、幼稚園閉園
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「本願寺仙台別院」HP/Wikipedia「本願寺仙台別院」 (出典: 「本願寺仙台別院 沿革」)/参考「東一番丁物語」(柴田量平著)P205~206によれば、最初の本堂落成は、M15年/「番丁詳伝」P64
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西本願寺別院(東一番丁)の位置は、98-122/西本願寺がつくり商店を入居させた長屋は、47-06
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西内楽器店 |
開店~焼失 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
繁華街の東一番丁・大町交差点の北東角にあり、中央部が塔屋含めて5層に見える木造建築(大正15年竣工)が、向かい(南東角)の藤崎デパート西館(3階建ビル、昭和7年竣工)とともに特徴ある風景を象づくり、昭和戦前期の仙台の代表的景観のひとつだった
・ 呉服商の「大内屋」が建てた長屋で、数軒の店が入居
・ 木造2階・一部3階・瓦葺・真壁漆喰塗
* 1926年(T15)、竣工(中央正面の目立つ場所に「西内楽器店」が入った)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「古写真に見る仙台の建築」P44
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98-015、53-20、11-03、22-27、20-46、44-69、49-04、64-03、22-52
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西内楽器店 |
コロンビア・マーク |
1932年(S7)~1935年(S10)5月の間に設置された |
西内楽器店の最上層についていた「コロンビアマーク」
* 藤崎西館開店した1932年(S7)11月にはまだなかった(写真53-20)
* 1935年(S10)5月(藩祖公300年祭仮装行列時)にはついている(写真44-69)
・ 従って、S7年11月~S10年5月の間についた
・ 空襲(S20)焼失までついていたかは不明
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44-69 (S10年5月)/22-52、20-46は、S10年12月以降、
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西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦前 |
仙台市中心部、広瀬川東岸にあり、東の榴ケ岡公園とならんで、仙台の代表的な公園
* 1875年(M8)6月、宮城県が設置(市史年表P81)
宮城県県令が旧仙台藩門閥の3つの邸地5447坪を収容し明治8年に公園とし「櫻ケ岡公園」と称した(別に本柳町公園、西公園とも称した)
園内には、
・ 桜ケ岡大神宮のほか、
・ 戦前は仙台市公会堂の木造本館(M42年に市が割烹・挹翠館=ゆうすいかんを買収)と洋館の新館(T5年竣工)
・ 公会堂前付近にS3年5月、地元有志「桜ケ岡会」により、動物園・噴水・池などが新設された。(Wikipedia「西公園」)
・ 軍馬の銅像(日露役殉死軍馬銅像)
・ 朝鮮館(S3年の東北産業博覧会の展示館の1つで、博覧会後に寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
・ 殉職消防組員招魂碑(S6年6月建立)
・ 花壇(S7年11月、市民の寄付で設置)などがあった
軍馬の銅像は戦時中の金属回収で1943年(S18)か1944年(S19)に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた 公会堂(本館、新館)は仙台空襲(S20年7月)で焼失、朝鮮館は焼失を免れたが、1950年(S25)に解体された
<参考>
・ 以上の記述にある「桜ヶ丘大神宮」「仙台市公会堂」「挹翠館」「軍馬の銅像」「朝鮮館」を、キーワードで検索すると、それぞれの詳細な記述あり
・ 「仙台市史本篇2 P371」に戦前期(推定、S5~6年頃)の公園の平面図がある ⇒ 写真[98-074]はその平面図の接写
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「仙台市史 年表」P81/「仙台市史 本編2」P367~373の「桜ガ岡公園」/Wikipedia「西公園」/「仙台あのころこのころ八十八年」P246
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53-63、99-119、44-67など分類D-13-02「桜ケ岡公園(西公園)」の全写真/「公園内見取り図」(昭和5~6年頃)は、98-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P119(桜ケ岡大神宮の鳥居と社殿)
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西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦後 |
<戦後>
・ 仙台空襲後の住宅難対策で一時期は集団公営住宅(60棟)が建てられていたが、戦災復興事業により北方に大拡張し、あわせて3万6230坪の公園として整備された(11.45haに拡張)
* 1947年(S22)3月13日、戦災復興事業による道路・公園名の公募の結果、名称は「西公園」と決定 / S23年から整備開始
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、西公園で、仙台復興祭グランド・フェア開催
* 1950年(S25)6月、軟式野球場
* 1960年(S35)8月、仲の町の「不法占拠住宅」約200世帯のうち、一部を強制立ち退き
* 2015年(H22)12月6日、地下鉄東西線開通し、最寄駅の「大町西公園駅」開業
<天文台>
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(市史年表P119) / 41センチ・マケリン氏反射赤道儀、当時は全国4番目の大きさ(「重訂 宮城県郷土史年表」P575)
* 翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に
* 1968年(S43)5月、プラネタリウム館併設(河北新報社寄贈)
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了(翌年、新天文台が青葉区錦ケ丘にオープン) → 項目「仙台市天文台」参照
<市民プール>
* 1961年(S36)7月20日、市民プール(西公園プール)が西公園西下の中瀬に竣工し、落成式(22日に開園)(市史年表P112)
* 2006年(H18)、西公園プール廃止
<市民図書館>
* 1962年(S37)10月27日、公園内に、市民図書館が設置された(市史年表P112)
* 1962年(S37)10月、浜夢助の句碑「雪国にうまれ無口に馴らされる」市民図書館付近に建立
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転
<こけし塔>
* 1961年(S36)3月27日、仙台市の戦災復興都市計画事業完了を記念して、西公園で「こけし塔」除幕式がおこなわれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P600)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P464~465/「仙台市史 年表」P119、P122/「仙台市史 本編2」P36~37の「桜ガ岡公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P601、P606、P607/Wikipedia「西公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P601
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「目で見る仙台の歴史」P178(戦後の西公園)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(戦災復興都市計画事業完了記念こけし塔)/同P136~137(市民プール)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール、カラー)
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衛戍病院(陸軍病院) |
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1871年(M4)/1890年(M23)/1936年(S11) |
資料によって、改称年がことなっている
【「重訂 宮城県郷土史年表」P250】
* 1976年(M9)11月、仙台鎮台病院、仙台に創設
* 1981年(M14)3月、仙台陸軍病院と改称
* 1898年(M21)5月、仙台衛戍病院
* 1940年(S15)、仙台第一陸軍病院と改称
【Wikipedia「国立病院機構仙台医療センター」】
* 1871年(M4)、仙台鎮台病院設置(仙台城二の丸北西の亀岡御殿辺り)
* 1877年(M10)12月、外記丁の定禅寺跡地に移転
* 1890年(M23)、仙台衛戍病院に改称、のち、仙台陸軍病院に改称。
<衛戍病院 → 陸軍病院>
* 1936年(S11)、仙台陸軍病院に改称
(編者注) 東京などの衛戍病院は、昭和11年に陸軍病院に改称しているので、仙台衛戍病院も同時と思われる
* 1937年(S12)、日中戦争が始まった昭和12年、仙台第一陸軍病院と改称、負傷者が急増したので、宮城野原に臨時の分院が建てられました。それだけでは病院が足りず、現大崎市、川渡ホテルを譲りうけ、鳴子臨時病院を開設して対応しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P37~38)
* 1938年(S13)4月16日、朝香宮鳩彦殿下、仙台陸軍病院慰問(「仙台市史10 年表」P293)
* 1945年(S20)7月10日、仙台陸軍病院、仙台空襲で焼失
<陸軍病院宮城野原分院 → 仙台第一陸軍病院>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院宮城野分院、開設 / 昭和12年日中戦争勃発により激増した傷病兵を収容 / 宮城野原練兵場の片隅に応急的に建設 /(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
* 1939年(S14)1月12日、仙台陸軍病院榴ケ岡分院開設(「仙台市史10」年表P295)
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<地図では>
・「改正仙臺市明細全圖](明治22年5月印刷)では、「陸軍病院」
・「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)と、「最新仙臺市全地圖」(昭和11年5月現在 仙臺市土木課)では「衛戍病院」
* 1945年(S20)、終戦とともに厚生省に移管され、国立仙台病院となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
→ 以下、大項目「国立仙台病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「重訂 宮城県郷土史年表」P250/「仙台市史10 年表」P293、P295/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P37~38/「改正仙臺市明細全圖」(明治22年5月印刷)/「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)
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仙台衛戍病院は、53-18、「市民の戦後史(仙台市)」P21/仙台衛戍病院伝染病棟は、99-158/仙台陸軍病院は、53-122/仙台陸軍病院宮城野原分院は、53-118
<関連映像> 98-111(仙台の兵営配置図 明治44年)と98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、衛戍病院の場所がわかる
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 1灯型 |
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戦前> 辻の西南角側に洒落た街灯が1本(明治40年代)
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99-022
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 5灯型 |
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戦前> 道の両側に真新しい(白い柱の)街灯が建てられた / 昭和3~4年頃の写真53-49「芭蕉の辻と市電芭蕉の辻線」には写る / 1基5灯型(四方へ4灯、上に1灯)
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53-49
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 |
~1945年(S20) |
戦前> 道両側に街路灯 / 芭蕉の辻の四隅は1基5灯型、その北(国分町方向)は道路の両側に1基4灯型(四方に4灯、上にはなし)、辻の南側は1基2灯型/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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22-33、20-18、99-026、53-52、99-028、16-01、44-06、99-027
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街灯(東一番丁南部) |
戦前 4灯型 |
設置年不詳~1945年(S20)
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東一番丁南部(旧大通り地区=大町通角~南町通角の間)の街灯
戦前>
* 設置年不詳(ただし、S7年の絵葉書(20-37 藤崎西館完成記念)では、1基4灯型の街灯が写る)
・ 同じ東一番丁のスズラン灯でも、中央通(大町通)角を境に街灯の形が違った
・ 大町角以南の通称「大通り」は統一され、4灯タイプ(上1、下3)で、「わかもと」の遠景の宣伝看板がついていた
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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20-37、20-45、22-55、53-38、22-59、夜景は99-019、52-01
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街灯(東一番丁南部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)?~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)?、街灯が復活(1基3灯型)
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-42、98-013、55-04、55-03、20-01-01、18-34、18-04、18-08
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街灯(東一番丁北部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型)
・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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61-16、22-51、53-34、53-13、53-23、99-041、99-052
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街灯(東一番丁北部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217)
・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)
・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去
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「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-38、16-39、16-40、18-16
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街灯(東一番丁中央部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁中央部(立町通角~大町通角の間)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置
・ 東一番丁通り中央部(立町通角~大町通角の間)の「スズラン灯」は1基5灯型(電球が球形と釣鐘型がある)
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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99-018、61-11、11-03、/傘が釣鐘型は、20-25、99-037
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街灯(東一番丁中央部) |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、街灯が復活(1基3灯型)
・ 戦前に「番街」の名物でもあったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)を取りつけた
・ 同じスズラン灯型であったが、広瀬通角(立町通)以北と、広瀬通り角~大町通角間では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)/「番丁詳伝」P166
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16-41、16-43、18-12
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街灯(東一番丁・南町通角以南) |
戦前 5灯型 |
設置年不詳~1945年(S20) |
戦前>
* 設置年不詳
・ 1基5灯のスズラン灯は東一番丁(立町角以北)のとよく似ているが、上部アームのデザインが異なる
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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53-89
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街灯(旧・大町四丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町4丁目の街灯は1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ、アームは道に直角)/ T14年頃の写真 43-25 には街灯はなかった / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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53-46、22-52、20-46、20-47
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦前(1) 1灯型 |
1928年(S3)?~1935年(S10)頃 |
戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型 / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町四五丁目」に1基1灯型が写る / 昭和7年の絵葉書、昭和10年のスタンプがある絵葉書では1基1灯型
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1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町五丁目」、20-47、22-27
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦前(2) 3灯型 |
1935年(S10)頃~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型から1基3灯型になった/ 昭和10年か11年の写真では1基3灯型 / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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20-51、20-55、53-100、22-52
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦後 3灯型 |
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戦後> 旧・大町5丁目の街灯は1基3灯型だが、戦前とは形が違う
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16-44
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街灯(旧・大町一、二、三丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」
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街灯(新伝馬町) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町]
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街灯(国分町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「国分町」に1基1灯型(柱の上に1灯)が写る(ただし、国分町4~5丁目とそれ以北の国分町では、同じ1灯型でも形が違う)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「国分町4、5丁目」、同「国分町(その2)
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街灯(南町通り) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-91、43-30
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街灯(南町通り) |
戦後 2灯型 |
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戦後> 柱から左右へ2灯(アームが直線)
/ 昭和26年にはまだ無かった(写真 20-02 、 16-45 )
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18-14、36-08
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街灯(南町通り) |
戦後 1灯型 |
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1959年(S34)~1965年(S40)頃の写真に写る
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201-12、201-13、201-14
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街灯(南町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01
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街灯(停車場前通り) |
戦前 2灯型 |
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戦前> 1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ)
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99-020、44-10、44-09、64-04
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血液センター |
日赤宮城県血液センター |
1965年(S40) |
日本赤十字社宮城県支部が支部内に設置
* 1965年(S40)2月5日、宮城県血液センター開所、4月から献血車「いずみ号」稼働開始
* 1966年(S41)5月、民間血液閉鎖、売血制度廃止
* 1966年(S41)8月、県内6カ所に出張所開所
* 1967年(S42)、「第二いずみ号」配置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P736/「重訂 宮城県郷土史年表」P618
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「市民の戦後史(仙台市)」P166(献血の様子)
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蛍光灯 |
普及始まる |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)、東芝が“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売
* 1949年(S24)、この年、白色蛍光灯(40W)、発売、商店、事務所に普及
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Wikipedia「蛍光灯」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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藩祖政宗公三百年祭 |
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1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日~26日、仙台藩祖伊達政宗公没後300年にあたり、仙台市を挙げて盛大に「藩祖政宗公三百年祭」が行われた
・ 伊達政宗は、1636年(寛永13)5月24日没
・ これに先立ち、同年5月14日に、宮城県青年団により「政宗卿騎馬像」が青葉山の天守台に建てられ、5月23日に除幕式
<関連行事>
・ 5月、伊達家贓品展覧会(斎藤報恩会館)
・ 5月10日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が、「政宗公300年祭記念放送」(子供の時間、琵琶演奏、座談会「政宗公を語る」)
・ 5月12日、三百年祭記念産業観光博覧会
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「重訂 宮城県郷土史年表」445/「仙台市史10 年表」P285/「仙台城)」P234/「NHK仙台放送局~60年のあゆみ~」P9
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三百年年祭仮装行列は、44-68、44-69、44-70、44-89、44-90、「目で見る仙台の歴史」P159と、「新・目で見る仙台の歴史」P155に「仮装行列」/花電車は、44-84、44-85、44-86、44-87、44-88 /青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83
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藩祖政宗公の記念祭 |
仙台開府三百年記念祭 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)5月23~24日、本丸跡と追廻において挙行 / 追廻広場や国分町には山鉾が飾られて壮観を極めた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P315/「目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P132に「奠城三百年祭」(屏風絵?)
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藩祖政宗公の記念祭 |
藩祖政宗公三百年祭 |
1935年(S10) |
→ 項目「藩祖政宗公三百年祭」参照
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藩祖政宗公の記念祭 |
伊達政宗公誕生四百年祭 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月27日~5月24日、政宗公誕生400年にあわせ、東一番丁百年祭大仮装行列
* 1966年(S41)9月15日、政宗公誕生四百年祭にあたり、伊達名宝展開催(仙台市博物館)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P627
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仮装行列は、47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
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藩祖政宗公の記念祭 |
政宗公三百四十年忌大法要 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)5月、大法要と再葬儀、瑞鳳殿で実施。 合わせて、瑞鳳殿の墓室および副葬品が一般公開される
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「仙台市史 年表」P129
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藩祖政宗公の記念祭 |
伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)4月27日~6月2日、伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり開催(没後350年) / これをきっかけに、1968年(S43)から交通事情変化などを理由に途絶えていた「青葉まつり」が復活した
「続・ 宮城県郷土史年表」P190では、開催期間が4月27日~5月24日
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P190
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藤崎(戦後期) |
戦災復興館(木造平屋) 開店 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)、藤崎「戦後復興館」建設
・ T8年建設の旧本館(洋風木造2階建)が仙台空襲(S20年7月)で焼失
・ その跡地に建設(木造1階建)
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藤崎170年のあゆみ」P196~197
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藤崎(戦後期) |
戦災復興館(3階建てに) |
1949年(S24)/1952年(S27)鉄筋に |
* 1949年(S24)、「戦後復興館」(木造3階建)、T8年建設の旧本館跡に建設
* 1952年(S27)11月、戦後復興館(木造3階建)を解体し、鉄筋コンクリート(地上3階、地下1階)の売場が完成
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「藤崎170年の歩み」P138に記述と広告(S27年11月の新聞広告に建物イラストあり →西館が4階建)
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18-22
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藤崎(戦後期) |
エクスポート・バザー 開設 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)8月10日~1951年(S26)12月、「西館」の地下1階に、外人専用売り場「エクスポートバザー」開設
・ 進駐軍(米軍)将兵と家族が対象
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「藤崎170年の歩み」P256/同P205の写真(S27年8月)とP140の写真(S26年11月)にエクスポートバザーの表示あり
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55-01、55-02、55-03、55-04
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藤崎(戦後期) |
本館屋上建て増しと展望台設置 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)2月17日、大町五丁目の本館屋上に、鉄筋コンクリート造1階および展望台増築
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藤崎170年のあゆみ」P196
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18-34、20-01-01
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藤崎(戦後期) |
藤崎シルバーマート 開店 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)12月、「シルバーマート」(藤崎名店街、のれん街)を新築オープン(木造2階建て、銀色の外観)
場所は、仙台空襲で焼失した北売場跡地(東一番丁・大町交差点の北西角)
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「藤崎170年のあゆみ」P204
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「藤崎170年のあゆみ」P204に写真あり
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藤崎(戦後期) |
西館増築し一部5階建に |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月15日、「西館」を増改築し一部5階建てに(第二次増築工事完成) / 仙台で初めてのエスカレーターを新設
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「藤崎170年のあゆみ」P256
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藤崎(戦後期) |
屋上遊園地オープン(西館) |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)3月、西館に「屋上遊園地」オープン
(観覧車、モノレール、子ども用自動車などがあった)
<編者注> 屋上観覧車が写る「写真18-09」はS29年夏の写真(理由:東一番丁通りのアーケードが大町角までで、藤崎以南にはまだ完成していない/西館がまだ一部4階建)なので、観覧車はS29年にはすでに出来ていたことがわかる
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「藤崎170年のあゆみ」P196~197
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59-01、18-09
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藤崎(戦後期) |
南館 開店 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)10月、「南館」完成(青葉通りに面した7階建)
S38年秋には、仙台の3デパート(藤崎、三越、丸光)が同時に増築を完成させた
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「藤崎170年のあゆみ」P146、P196~197
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藤崎(戦後期) |
東館 開店 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)11月、「東館」を建設
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「藤崎170年のあゆみ」P196~197
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藤崎(戦後期) |
リビング館 開店 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)9月10日、「リビング館」オープン
・ 大町通り(中央通り)北側に面した6階建
・ S52年に解体された明治生命館(ロマネスク様式、赤レンガの壁)の跡地
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「藤崎170年のあゆみ」P196~197/「続・ 宮城県郷土史年表」P150
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