項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
貞山運河(貞山堀) |
改修事業 |
1880年(M13)~1889年(M22) |
* 1880年(M13)、貞山運河を貞山堀と改称、改修事業の測量着手
* 1889年(M22)5月11日、貞山堀改修工事完了し、貞山堀を再び貞山運河と改称
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「仙台市史 年表」P83、P86
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08-06/「新・目で見る仙台の歴史」P154(貞山堀で舟遊び)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験/貞山堀のシジミ採り)
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谷風の墓所 |
改修・公開 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)3月28日、霞目の谷風の墓地を改修し、小公園造成して公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P591
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奉安殿 |
撤去指示 |
1946年(S21) |
【「日本大百科全書(ニッポニカ)」の用語解説】
学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。敗戦後、「御真影」は焼却され奉安殿は取り壊された。
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* 1946年(S21)7月4日、奉安殿の撤去を指示(教育民生部長通牒)
* 1946年(S21)10月8日、文部省、教育勅語の奉読を廃止(菅家年表)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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54-01、73-04
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銀行(地域の銀行) |
振興相互銀行/仙台銀行(平成時代) |
1952年(S27)/1989年(H1) |
* 1951年(S26)、振興無尽株式会社創業
* 1952年(S27)5月29日、振興無尽株式会社が振興相互銀行と改称
* 1970年(S45)5月、本店を青葉通りに新築移転
* 1989年(H1)2月1日、振興相互銀行が普通銀行に転換し、仙台銀行と改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705、P755/「仙台市史 年表」P117、P135
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P755(青葉通りに進出した振興相互銀行本店、S44年5月)
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緑の団地条例(仙台市) |
指定第1号 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月9日、第1号に茂庭台1丁目~5丁目を指定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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福祉ボランティアのまちづくり事業 |
指定 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)7月8日、仙台市ボランティア連絡協議会結成
* 1985年(S60)10月、「福祉ボランティアのまちづくり事業」、仙台市が国に指定される
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「続・ 宮城県郷土史年表」P193/「仙台市史 年表」P134
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宮城県護国神社 |
招魂社を改称 |
1939年(S14) |
* 1904年(M37)8月28日、本丸跡に「招魂祭殿」成る(「仙台城」P233)/ 本殿は神明造銅板葺き、前に土間式瓦葺の拝殿 / 毎年4月30日に盛大な招魂祭
* 1904年(M37)8月28日、「招魂社」が仙台城本丸跡に竣工
* 1939年(S14)4月1日、招魂社を「宮城県護国神社」と改称
* 1939年(S14)4月10日、護国神社法制定、招魂社を県護国神社と改め、社殿改築に着手(「仙台城」P234)
・ 改築は全額寄付(総額みこみ25万円、県費、多額納税者、銀行会社、学生生徒、仙台市は市民への割当、他の市町村)でまかない、工事には軍隊、学生生徒、青年団が参加(「戦争のころ 仙台、宮城」P38、出典は「宮城県知事事務引継書」)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P234/「目で見る仙台の歴史」P142/「重訂 宮城県郷土史年表」P331、P467、/「仙台市史 年表」P92、P110/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38
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宮城県護国神社は、16-06、16-07/ 招魂社の時代は、99-159、98-091、「目で見る仙台の歴史」P142に「本殿唐門」と「拝殿」
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仙台空襲 |
投下された3種の焼夷弾 |
1945年(S20)7月10日 |
<投下された3種の焼夷弾>
・ M47焼夷爆弾
落ちるとものすごい音がして火が噴き出す / 空襲の手始めに攻撃目標に対し集中的に投弾し火災を発生させる / 先導機群と2個群団が1万800発を投下
・ M17集束焼夷弾
ザアーと雨のように降ってきて、あたりかまわず青白い炎を出して燃える / 1個の中に直径5cm、長さ35cmの六角棒状のテルミット・マグネシウム焼夷弾が110本はいっていて、地上300mになると自動的にまき散らされる / 総数23万7000個を投下)
・ 小型油脂焼夷弾
6個のガソリン、ナフサ入りナパーム弾が集束しており、これも途中で分かれて落下、地上で燃え上がると火を振り払っても落ちない
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P216~217
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ガダルカナル戦 |
戦闘 |
1942年(S17)8月~1943年(S18)2月 |
<ガダルカナル戦> ガダルカナル島は西太平洋ソロモン諸島の島。太平洋戦争で昭和17年8月~18年2月7日、この島の奪取をめぐって日本軍と連合国軍が戦った。 ミッドウェー海戦と共に日米両軍の攻守の転換点となった戦い。この戦いで、第二師団の多くの将兵が戦死 / 昭和18年7月、遺骨が仙台に帰還した。(「無言の凱旋」)
* 1942年(S17)8月7日、米軍ガダルカナル島上陸
* 1942年(S17)12月31日、大本営、ガダルカナル島撤退を決定
* 1943年(S18)2月1日、日本軍、ガダルカナル島撤退開始
<第二師団、ガダルカナル戦>
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103より)
・ 日本の南約5500キロ、英国領ソロモン諸島の1つで岩手県の半分ほどの島。
* 1942年8月、海軍の設営隊が飛行場を建設(敵の飛行機の出撃基地ニューギニアとオーストラリアの間にクサビを打ち込む目的)
* 飛行場完成後、米軍が進攻(艦砲射撃と海兵隊約2万人の海兵師団上陸)し、飛行場を占領
* 日本軍は陸軍部隊を投入
8月16日、先遣隊の旭川第七師団一木支隊、900人が上陸し飛行場突撃し全滅
9月、第十八師団川口支隊6500人、飛行場突入寸前に発見され死者700人以上
10月、第二師団(ジャワ島占領後に警備中、帰国輸送船待ち)と第三十八師団(スマトラ島警備中)の一部、計1万5000人投入
10月23日、第二師団歩兵第4連隊第2大隊、飛行場牽制攻撃、戦傷者続出、マタウ川渡河攻撃の独立戦車隊戦車10両全部撃破される
10月24日、第二師団歩兵29連隊(会津若松)敵陣突入し消息絶つ
10月25日、総攻撃、第二師団左翼攻撃隊長の那須弓雄少将、歩兵16連隊の広安寿郎大佐が戦死。作戦は事前に察知されて失敗。歩兵第4連隊将兵2千数百人は一夜にして壊滅状態。
日本の輸送船団(重砲8門、弾薬20万発、食糧20日分)撃沈される、日本海軍は、空母ホーネット、空母エンタープライズ大破させたが、輸送船団を軽視し敵の補給路を絶てず。
・ 米軍は飛行場南方に電流鉄条網と数多くのトーチカを配し、ジャングルには無数のマイクロホン、米軍に協力する現地民を潜ませていた。日本軍は強力な武器を持たず何回も懲りずに同じ戦法で突撃し犠牲を大きくした。
・ 第十七軍参謀の電報「島に残された兵士たちは食料も武器弾薬もない。木の根、草の葉もつき、川底のミズゴケまで食い尽くした。 動ける者はなく、壕に座ったまま銃剣で最後の戦いの準備をしている。」
・上陸した総兵力約3万1000人のうち死亡者約2万人(戦闘でなくなったのは約5000人、残る1万5000人は食料不足による栄養失調、マラリアによる)、1万1000人が救出される(昭和18年2月上旬、駆逐艦20隻で脱出)
・第二師団は、1万318人のうち、戦死・戦病死が7671人(生存者は4人にひとり)、同師団歩兵第4連隊は、2458人のうち1906人が戦没。
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19、P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103
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藤崎(戦後期) |
戦災復興館(木造平屋) 開店 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)、藤崎「戦後復興館」建設
・ T8年建設の旧本館(洋風木造2階建)が仙台空襲(S20年7月)で焼失
・ その跡地に建設(木造1階建)
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藤崎170年のあゆみ」P196~197
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藤崎(戦後期) |
戦災復興館(3階建てに) |
1949年(S24)/1952年(S27)鉄筋に |
* 1949年(S24)、「戦後復興館」(木造3階建)、T8年建設の旧本館跡に建設
* 1952年(S27)11月、戦後復興館(木造3階建)を解体し、鉄筋コンクリート(地上3階、地下1階)の売場が完成
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「藤崎170年の歩み」P138に記述と広告(S27年11月の新聞広告に建物イラストあり →西館が4階建)
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18-22
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戦災復興事業 |
戦災墓地を北山霊園へ |
1951年(S26)~1952年(S27) |
* 1951年(S26)10日、復興区画整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に対して、新造成した北山霊園の一部に、墓地用地を配分
* 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓碑1648基移転修了、無縁墓碑600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨
* 1956年(S31)6月、残りの用地は市営墓地とし、市民に開放
・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333
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「市民の戦後史(仙台市)」P77(S28、北山霊園へ墓地移転供養)/同P96(墓参する家族)
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戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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養賢堂 |
戦災で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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宮城県護国神社/宮城神社 |
戦災、戦後 |
1945年(S20)/1946年(S21) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で社殿を焼失、ご神体は市内の秋保神社・仮宮に遷された
* 1946年(S21)、「宮城神社」と改称(GHQによる神道指令に基づく政教分離により)
* 1952年(S27)7月、宮城神社上棟式
* 1953年(S28)4月28日、宮城神社奉斎殿、青葉通り大町頭に竣工 / 4月28日~5月7日、清祓並びに新殿祭・遷座祭・合祀祭・春季例祭・臨時慰霊祭等を行う / 奉斎殿は、S26年4月着工、28年4月竣工、神殿造延坪200坪、2階建て
* 1954年(S29)8月6日、本殿造営御木曳祭
* 1955年(S30)8月1日、本殿柱立式
* 米軍が去った1957年(S32年)に社名を「宮城縣護國神社」に戻し、1958年(S33)に伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を移築
* 1968年(S43)4月、新社殿落成
<「戦争のころ 仙台、宮城」P38>
・明治以降の戦死者、戦病死者約5万6000柱をまつる
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Wikipedia「宮城県護国神社」/「仙台年表」P231、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P515、P557、P563/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188の写真54(戦後再建した護国神社)/「目で見る仙台の歴史」P194(大町頭の宮城神社奉斎殿)
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国鉄(鉄道省時代) 2 |
戦時輸送(貨物優先体制) |
1938年(S13)~1943年(S18) |
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1938年(S13)6月、鉄道輸送は旅客より貨物重点方針決定、戦時輸送優先(全国鉄道局長会議)
* 1938年(S13)、仙台鉄道局内に第1鉄道輸送司令部仙台支部設置(司令官は大佐)、1943年(S18)に仙台地区司令部となり(司令官は大佐)、仙台駅、弘前駅には停車場司令部が置かれた
* 1938年(S13)10月1日、銑鉄局管内で「銃後弁当」売り出し(15銭)
* 1939年(S14)11月15日、ダイヤ改正、旅客を従、貨物列車を主とする
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語の表示が消える(菅家年表P25)
* 1942年(S17)10月6日、閣議、戦時陸運非常体制を決定、東北本線は石炭輸送第一(北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送)
* 1943年(S18)2月28日、国鉄乗客指定制実施(厳しい旅行制限)、食堂車、寝台車完全廃止
* 1943年(S18)3月10日、仙鉄局、11本の貨物列車新設(3月11日、石炭専用列車スタート)
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
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国鉄(鉄道省時代) 3 |
戦時輸送(決戦輸送) |
1944年(S19) |
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1944年(S19) この年、国鉄は徴用者、一般疎開、工場疎開、学童疎開、北海道からの石炭輸送、戦時物資などの輸送を重点とした / 戦時貨物輸送増強のため、国鉄長町ヤードを強化 / 4月からは「決戦輸送」
<女性増加>
* 1月、国鉄現場に女性が急激に進出(仙台局管内の8%に) / 出札、改札、小荷物、車掌、列車掃除手、踏切警手など
* 3月、女性が、貨物掛、荷扱手など重労働の職種にも
<急行列車など廃止>
* 4月1日、急行半減、寝台車廃止、一等寝台、食堂車廃止
* 4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ
* 9月、唯一の急行列車も廃止(昭和20年11月20日、仙鉄の急行列車復活)
<疎開輸送>
* 3月28日、東北地方初の疎開輸送用臨時列車(常磐線まわり一関行き)
* 4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間
<旅行制限>
* 4月1日、100キロ以上の長距離旅行制限 / 旅行者は、警察の「旅行証明書」が必要
<旅行制限:以下、Wikipedia「決戦非常措置要綱」より>
旅行制限では100km以下の乗車券の発売枚数の割当による数量の制限のほか、100km以上(乗車時間2時間以上)の遠距離列車の切符について居住地の警察署発行の旅行証明書がないと購入できないようにする措置(買い出しや遊興旅行の制限が目的)が東京都区内・横浜市内・川崎市内駅発に限り試行されたが、警察署の第一線事務増加からの反対から5ヶ月後に廃止され全国施行はされなかった。(上田卓爾「戦時下における旅行制限とガイドブックについて」)
<これ以降は、項目「国鉄(戦後)」へつづく>
<戦後の東北線関連は、項目「国鉄(東北本線)」へ>
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/Wikipedia「決戦非常措置要綱」
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戦時衣料 |
戦時衣生活簡素化実施要項 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月4日、戦時衣生活簡素化実施要項を閣議決定
<男性>は、新規仕立ては「国民服乙号」またはそれに準ずるものに限定(茶褐色以外も可)/ 背広、ダブルの外套、合着の新規仕立ては禁止
<女性>は、婦人標準服の普及が図られた
・ 和服は、<男性>は筒袖、<女性>は元禄袖で、長袖は禁止
<戦後の変化>
* 1947年(S22)、この年、モンペ姿が減り、スカートが増加(「菅家年表」P41)
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国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー)
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仙台市電 |
戦時対応 |
1943年(S18)~1944年(S19) |
* 1937年(S12)3月、応召者の欠員補充のため、初めて女性車掌の採用(見習生に67名応募、20名採用 / 同年8月に2回目募集(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 戦時中の1日当たりの利用者
S16年度 6万2600人 S17年度 7万200人
S18年度 7万5700人
特に、民間の軍需工場が集中していた長町へは市電利用者が多く始発時間を5時と10分間繰上げ、ラッシュ時は長町線の車両を7両増発して10分に3本運行、乗降客数の少ない9つの停留所を通過する「急行列車」を運行、近距離を電車通学する中学生・女学生には徒歩通学を勧めた
午後10時の終電車発車後は野菜などの食糧を輸送
S19年以降は一般家庭が防空壕を作るための木材を運搬(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1943年(S18)4月1日、戦時下輸送確保のため、市電停留所15カ所廃止(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188)
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188) / 軌道(レール)を戦時供出(金属回収)のため撤去(「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)
* 1944年(S19)ころ、男性運転手不足から女性車掌を運転手に転用(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 男性運転手は徴兵による入隊や徴用が増えて117人のうち50人が欠員となり、18人の女性運転手が取って代わった / 勤労動員の市立仙台工業学校機械化4年生30余人も運転練習1日後には運転したが、その後まもなく別の軍需工場へ動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1944年(S19)(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188)
1月10日、早朝割引制度廃止
7月1日、工員定期券新設、料金10銭均一に
回数券式から定期券式に改正
急行電車運転(8時30分まで)
8月1日、産業戦士輸送のため、循環線朝夕運休
11月22日、物資輸送用電車運転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92、P366/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161
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「新・目で見る仙台の歴史」P163(女性車掌たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P209(モンペ姿の女性運転手たち・S19年頃、乗客長蛇の列)、P366(戦時中の市電女性運転手たち、モンペ姿)
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政宗卿騎馬像 |
戦時供出 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、政宗卿騎馬像、戦時中の金属回収で供出(出陣式挙行)
* 1944年(S19)1月22日、政宗銅像、戦時金属回収のため供出、藩祖出陣と称し壮行式行わる(「仙台城P234)
「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500に、「昭和19年1月22日、青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及護国神社共同主催のもとに県下青少年団代表参集して盛大なる銅像出陣式を挙行す。この折詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」
<戦後に発見>
* 1946年(S21)9月9日、仙台郷土研究会員石川謙吾、塩釜市金属集積所より政宗銅像上半身を自費にて払い下げ、青葉神社に奉納す(「仙台城」P235)
戦後、1946年(S21)10月8日、郷土史家石川謙吾が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で、騎馬像の上半身だけが捨てられていたのを偶然の機会に発見、一部を改修し青葉神社に奉納
* 1961年(S36)、仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公像の頭部のみが敷地内に展示されている
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499、500/「仙台市史 年表」P113/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
戦後発見は、「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史続編第2巻経済文化編」 末尾付表(年表)P823/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P184
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仙台七夕 |
戦時中の休止 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~ 出典は、右欄の1)2)3)4)に ~
1) 1938年(S13年)から、戦前の仙台七夕は中止となった(日中戦争の本格化により)
2) 仙台七夕祭、S13年に自粛、翌年から廃止
3) 1939年(S14)8月6日、仙台七夕の飾りつけを廃止す
4) 1939年(S14)、8月6日から始まる仙台の七夕は廃止と決定した
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1) 阿南透 都市祭礼「仙台七夕まつり」の成立と変容 P8/
2)「仙台市史 年表」P109/
3)「仙台年表」P209 (その出典は「河北新報」)/
4)「ものがたり東北本線史」(鉄道弘済会東北支部)P510
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年賀郵便 |
戦時中に廃止 |
1941年(S16)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止
* 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42
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電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
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仙台市営バス |
戦後(2) |
1965年(S40)~1986年(S61) |
<ワンマンバス化>
* 1965年(S40)7月16日、市内路線のワンマンバス化を開始、12路線(台原線、川内線など)52両(全車両の13%)
* 1946年(S41)7月、新規に9路線40台/年度末には102両で、全体の25%
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)11月20日、バスは、中乗り前降りに統一
* 1975年(S50)9月1日、均一区間料金を50円から70円に値上げ
* 1975年(S50)10月6日、団地10路線増便、7路線にワンマンバス運行
* 1976年(S51)、乗車人員、年1億616万人
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1978年(S53)9月8日、仙台市バス、市内均一料金を10円値上げし90円に
* 1979年(S54)11月23日、ひまわりバス実施
* 1981年(S56)3月、路線別プレート登場
* 1982年(S57)12月16日、人事院勧告凍結抗議ストで、346本運休
* 1982年(S57)12月24日、抗議スト1200本運休
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始
* 1984年(S59)7月1日、市営バスは、行き先表示に番号制実施
* 1986年(S61)12月27日、東北運輸局、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表
* 1986年(S61)、乗車人員、年9206万人(10年前より13余%減)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P525/「仙台市史 年表」P124/「市電年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P620、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P34、P44、P45、P73、P85、P103、P125、P154、P168、P172、P178、P215/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217
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201-08/「市民の戦後史(仙台市)」P167(ワンマン表示のバス)
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仙台市営バス |
戦後(1) |
1945年(S20)~1964年(S39) |
<戦後>
・ 終戦直後は、23両のバス中、実働は11両のみ / 路線17系統、199キロ(終戦前より減少)
・ 1949年(S24)、24系統、247キロ、実働30両 / 仙台~作並間運転開始
・ 1949年(S24)4月22日、大型トレーラーバス(250人乗り)2台購入(輸送難解消のため)
・ 1950年(S25)、路線55、実働47両/市営バス案内所(駅前丸光デパート脇)開設/4月、貸し切りバス営業開始 / 仙北鉄道バス、秋保電鉄バスが市内に乗り入れ / 12月、広瀬通車庫と営業所開設(広瀬通東三番丁)
・ 1951年(S26)、65両 / 仙台駅構内乗り入れ廃止、発着場が青葉通、東五番丁周辺に移転
・ 1952年(S27)4月、市内定期遊覧バス運行開始 ※
・ 1953年(S28)、66路線、814キロ / ラッシュ時に重点的に増発、季節の催しものなどへ増発 / 定禅寺櫓町・細横丁角に車庫新設
・ 1955年度(S30)、乗車人員3000万人越え、対人口利用比率21.3%
・ 1956~1960年度(S31~35年度)、この間に路線拡大続き、110系統、9927キロ、49両増車 / 市中心部ビル建設、近郊丘陵地帯などに住宅団地造成で需要増大 / 霞の目車庫新設(仙台バイパス予定地脇)
・ 1961年(S36)、45両購入し在籍296両 / 東仙台車庫新設
・ 1962年(S37)、ラッシュ時混雑すさまじく、新車41両、中古35両購入、在籍350両
・ 1963年(S38)3月、七北田車庫落成 / 仙台駅前バス窓口案内所改築
・ 1964年(S39)、94両増車、在籍390両
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P520~525、P533
/※ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182に、市内定期観光バスの遊覧コースなど記述/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203
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「市民の戦後史(仙台市)」P70(観光バス乗り場標識)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(仙台遊覧自動車案内パンフ)
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仙台ホテル |
戦後立て替え/閉業 |
1964年(S39)/2009年(H21) |
* 1964年(S39)5月10日、仙台駅西口前、青葉通り・愛宕上杉通り角(南東角)にオープン / 地上9階、地下2階
* 1964年(S39)、東京オリンピックに合わせ、9階建ての現在の建物が完成。仁王像一対は3階ロビーに移設
* 1985年(S60)、 ホテルを全面改装 / 同時に隣接して仙台ホテルアネックスビルを増築
* 1985年(S60)1月、ホテル5階に、「泉の庭園」設置
* 2009年(H21)12月31日、閉業
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「わが心の仙台駅前史」年表/「仙台市老舗百店史P126」/Wikipedia「仙台ホテル」/「続・ 宮城県郷土史年表」P188
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98-036、98-062/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P72(S39、カラー)
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東北学院(沿革) |
戦後期 |
1945年(S20)夏以降 |
* 1945年(S20)12月、東北学院航空工業専門学校を、工業専門学校と改称(S22年に廃止)
* 1946年(S21)4月、東北学院専門学校(英文科・経済科)を設置
* 1947年(S22)4月、新制中学校設置
* 1948年(S23)4月、新制高等学校設置
* 1949年(S24)、東北学院専門学校が昇格し東北学院大学(文経学部)に
* 1951年(S26)3月31日、東北学院専門学校廃止
* 1953年(S28)5月14日、南六軒丁にシュネーダー記念図書館竣工し献堂式(鉄筋コンクリート造3階建、書庫5階建)
* 1959年(S34)4月、榴岡に男子部の高校分校を設置
* 1972年(S47)7月、榴ヶ岡高校新校舎完成
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内(東二番丁)に、シュネーダー記念館完成
* 1986年(S61)10月1日、東北学院大学、泉キャンパス新校舎起工式
* 2005年(H17)1月、中学校・高等学校、宮城野区小鶴に新校舎完成し、東二番丁から移転
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「東北学院創立七十周年写真誌」P69、P70/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P320、P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P534、P548、P564、P592/「続・ 宮城県郷土史年表」P12、P212/Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
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シュネーダー記念図書館(南六軒丁)は、「東北学院創立七十周年写真誌」P63と、「目で見る仙台の歴史」P180
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仙台市の工業 |
戦後期 |
1945年(S20)秋~1969年(S44)頃 |
☆「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
「敗戦直後の仙台市の工業は、ゴムや金属などの一部を除いて、代表とさるべき業種が見当たらない。朝鮮戦争の特需ブームは、国内経済の復興に寄与することになったが、工業の立遅れていた仙台地域の経済にとって物価高という悪影響の方が強く現れている。
☆「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697の記載項目
<昭和20年代> P665~
・ 1946年(S21)12月の市内工業統計(分野別の工場数、従業員数、出荷額)
・ 1947年(S22)、1948年(S23)の市内地区別工場分布
・ 1948年(S23)当時の主要工場名一覧
・ 県総合3か年計画
・ 1950年(S25)末、市内の工場(工員規模)、500人以上は専売公社工場のみ、200人以上は6工場、市内540の工場は大部分が工員数人(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705)
・ 1954年(S29)、仙台市工場設置奨励条例(既存工場を助成し、中小工場の新設増設を支援)
<昭和30年代> P675~
・ 1960年(S35)4月、専売公社仙台工場(たばこ)完成
・ 1961年(S36)、仙台市工場誘致条例(P670~)
<新産業都市指定> P675~
・ 新産業都市指定にむけた運動
* 1963年(S38)7月、仙台湾地区が、他の12地区と共に新産業都市に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区、新産業都市建設区域に指定
・ 新産都市予定地区内に進出立地した新規工場一覧(S36年~44年に操業開始)
・ 仙台周辺住宅用地造成計画表(計画年次はS39~S45)
・ 工業用水道計画(S50)
<新都市計画> P684~
* 1966年(S41)3月、新都市計画(建設大臣より認可)
この計画は、新産都市・広域行政など時代に即応し、市に隣接した泉町、宮城町、秋保町の一部もエリアとした、20年後の都市づくり総合構想で、工業面では、新産都市計画が進行するにあたって、仙台バイパス沿いに内陸工業地帯を、苦竹に流通センターを配置 / 工業地域は、長町・郡山の市内南部、小田原など東仙台地区、仙台新港につづく市東部の3か所、準工業地域として仙台バイパス沿いに鉄鋼団地・自動車団地・印刷団地 / 流通センターは、卸売団地(卸商センター)、トラックターミナル、倉庫団地など
・ 1966年(S41)の市内工業統計
・ 1969年(S44)年4月現在の主要工場一覧
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P368/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697、P705/「市民の戦後史(仙台市)」P90
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「目で見る仙台の歴史」P192(小田原折沢の専売公社仙台工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(S30年4月、専売公社仙台工場空撮)/同P201(印刷団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P197(印刷・機械金属・自動車の工業団地空撮、カラー)
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広瀬通り |
戦後新設 |
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「広瀬通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、青葉通りとともに市中心部を東西に貫く幹線道路として、仙台空襲(S20年7月)の焼失地域に新設された
・ 幅員36メートル
・ 旧立町通り、旧玉澤横丁、立町を拡幅、その他は空襲焼け跡に造成した
* 1952年度(S27)、車道の中央部分の舗装開始
* 1953年(S28)、大部分が、日米行政協定による事業として、一気に舗装すすむ
旧・「玉沢横丁」は1907年(M40)に拡幅され、東一番丁の中心的存在に(娯楽街として仙台第一の地位)(昭和41年河北新報記事による)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404
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22-19、22-20、22-21、22-22/「市民の戦後史(仙台市)」P59(S25年の東一番丁角付近、元寺小路付近)
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ネオンサイン
(戦後復活) |
戦後復活 |
1950年(S25) |
* 1949年(S24)3月、(全国)ネオン広告を全面解除
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
* 1951年(S26)2月、電力事情悪化 / ネオン、エレベーターなどの使用禁止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43/仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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53-82(S26~27年頃の仙台駅前夜景)
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仙台市立病院 |
戦後復旧 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、看護婦養成所本館裏に、木造病舎とともに新築 / S23年から、養成再開
* 1947年(S22)10月、復旧し、屋上で市立病院戦災復興式 / 本館および南側地下1階、地上3階が復旧 / ベッド230床、外来患者1日400人以上 / 焼け野原の一角にクリーム色の病院が復興
* 1951年(S26)~1954年(S29)、増築・増床
・ S26年、南側病棟屋上に4階を増築
・ S28年6月、東二番丁に面した本館北側に鉄筋コンクリート5階建を増築
・ S29年7月、さらに北側に、地下1階、地上2階増築
(本館裏の木造病棟取り壊す)
・ S30年3月、前年度完成した上に3~5階部分が完成
* 東二番丁通り拡幅に伴い、玄関が道路拡幅部分にかかる
* 1956年(S31)10月3日、人間ドック開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P583)
* 1960年(S35)、人間ドックを、1週間から2日間に短縮
* 1960年(S35)、救急車購入
* 1963年(S38)6月、救急業務開始
* 1966年(S41)1月10日、救急センター落成(地下1階、地上4階建て、東北初の専門施設、一度に5人の手術可能)、
* 1980年(S55)7月、五橋に移転
* 1980年(S55)9月2日、建物解体始まる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P708~710、P712、P714、P716~717/「仙台年表」P217/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史10 年表」P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P583、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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22-24(東二番丁通りの拡幅部分にはみ出した市民病院玄関)/ 「市民の戦後史(仙台市)」P182(救急病棟外観、手術室)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29)の左上の白いビル/同P40(S33年、空撮、画面上のL字型ビル)/同P60(S38、カラー)/同P86(S41)
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日乃出映画劇場 |
戦後再開 |
1946年(S21) |
<戦災焼失後>
* 1946年(S21)8月、青葉通り・東五番丁通り東南角へ移転し開場(三和興行)
* 1946年(S21)8月10日、(旧)東五番丁26(日本通運倉庫跡)で、東宝直営として「命ある限り」などでお目見えした
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「仙台映画大全集」P454
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宮城県図書館(戦後) |
戦後再建 |
1949年(S24) |
<宮城県図書館 再建>
* 1949年(S24)11月3日、空襲で焼失した宮城県図書館(大正元年建築)の後継として再建された「宮城県図書館」落成式(木造2階建て、宮城県庁の西隣、旧養賢堂跡)(「仙台市史 年表」P116)
<上記と名称、時期など一致しないが、「宮城県中央図書館」とした記述もあり>
* 1948年(S23)5月1日、「宮城県中央図書館」に、フィルム・ライブラリーを併置(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
* 1949年(S24)2月5日、「宮城県図書館」開館/旧伊達氏所蔵の文書・書籍(いわゆる「伊達文庫」)を収める(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261)
* 1949年(S24)2月10日、「宮城県中央図書館」復興し閲覧を開始(「仙台市史10 年表」P320、「重訂 宮城県郷土史年表」P533)
* 1949年(S24)10月、宮城県中央図書館を旧養賢堂講堂跡に復興新築、12月下旬に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P537)
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「仙台市史 年表」P116/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年版)
「宮城県中央図書館」と表記は、「重訂 宮城県郷土史年表」P526、P533、P537/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261
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07-01-01、22-37、53-16/「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(図13)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54(S37、左端の2階建て、カラー)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
戦後・仙台一中対二中の野球定期戦復活 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月、旧仙台一中対二中の野球復活第1回定期戦(市営澱球場) / 戦時中は中断し4年ぶりに復活した定期戦で、戦後の東北地方では初の野球試合 / 32対27で二中の勝利、7回表までの試合時間が4時間50分 / 「野球用具の入手も困難な時期でスパイクをはいているのは選手の半数ぐらい、1塁塁審の二中OB氏は学生服と兵隊靴、3塁塁審の一中OB氏は復員姿そのままといったスタイルであった。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P93
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仙台七夕 |
戦後エピソード |
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* 1949年(S24)、商工会議所を中心に、市、県、各商店会で七夕協賛会が結成され、開催期間を8月5日から3日間と決定(「番丁詳伝」P157)
* 1953年(S28)から、仙台商工会議所が公募してミス七夕コンテスト
* 1954年(S29)、東一番丁にアーケード設置され、親竹・子竹と大小の七夕飾り(高さ制限、歩道で2.1m、車道で4.5m以下)
* 1955年(S30)、壱岐紙店が雨に強いシリコン加工の七夕紙の試作成功
・ 七夕流しの習慣は清掃法の強化でなくなる
・ 七夕音頭、七夕踊り制定され、一番町をパレード(開始年不詳)
* 1956年(S31)8月6日、NHK仙台放送局が、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1958年(S33)、山下清が来仙、仙台七夕を描く
* 1971年(S46)、音と光を取り入れて「動く七夕パレード」開催(会場は定禅寺通り)
* 1986年(S61)、ミス七夕コンクールが13年振りに復活(5人のミス七夕選出)
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「番丁詳伝」P157、P187/「市民の戦後史(仙台市)」P92/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31
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「市民の戦後史(仙台市)」P92(S48年のミス七夕たち/七夕を描く山下清画伯)
NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P17(東一番丁北部の七夕飾り)
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物価上昇 |
戦後インフレ |
昭和20年代 |
* 1946年(S21)3月、国鉄運賃25割値上げ、仙台~東京間250円に(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702)
* 1946年(S21)秋、物価はウナギのぼり、ヤミ値はつりあがる(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701)
* 1947年(S22)、この年、酒、タバコ、郵便が一斉に値上げ / 消費者物価が終戦時の4倍となる
* 1948年(S23)末、同年3月比の物価
・ 5割以上値上がりした品目(鯨油、黒砂糖、白砂糖、清酒、茶、ポプリン、キャラコ、革靴、練炭、化粧石鹸、ポマード、クリーム、アルコール、紙類、材木、自転車など)
・ 下落した品目(白菜、ホウレンソウ、大根、イカ、蒲鉾、スルメ、りんご、人絹、絹布、靴下、マッチ、サッカリン、ペニシリン、セメント、畳、鉄くぎ など)
* 1949年(S24)3月、物価調査で公定価格割れが続々と出てくる
* 1950年(S25)7月、仙台市、ガス料金を23.8%値上げ
* 1954年(S29)春、前年秋からのデフレ政策が仙台にも波及、市内商店の売り上げは2~3割減、一方デパート売上は堅実に伸びる
* 1954年(S29)秋から翌年6月ごろまで仙台の物価は横ばい
* 1955年(S30)6月の仙台の物価指数、S26年を100として、120 / 市内の標準家庭(5人)の家計支出は月平均2万5000円で食費は半分以下となった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701~702、P710/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P43/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P107
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発電事業 |
戦後の電気事業再編成(東北電力に一本化) |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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東北電力 |
戦後の電気事業再編成 |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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仙台市の農村・農業(戦後) |
戦後の緊急開拓事業 |
昭和20年代 |
・ 戦争終結にともない、外地からの引揚者や戦地から復員
した人々の受入れのため、未開発の原野や山林に入植させ、開墾開拓に従事させた。
・ 土地が与えられたとはいえ多くは「飢餓開拓」という様相で、作物の育ちの悪い中で耐乏生活を強いられた。
・ 仙台市内(昭和62~63年に編入した秋保町、泉市、宮城町を除く)の開拓組合は12で昭和23~24年に結成、入植戸数は昭和31年現在で計297戸(各開拓組合あたり10戸前後~36戸)
・ 開拓組合名は、青葉山、小松島、八木山、仙台北部、仙台市鶴谷、三神峯、芦ノ口、仙台市向山、坪沼、茂庭、生出増反、鈎取
・ 青葉山開拓地には1945年の23戸から、1965年までに55戸が入植した(『仙台市史』通史編8(現代1)P59)/ その後、東北大学の川内キャンパスの一部となり消滅した。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P656~657
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定禅寺通り |
戦後の拡幅工事完了 |
1967年(S42) |
* 1894年(M27)7月15日、仙台市会、市内の新道の名称を決議(定禅寺通、新常盤丁、桜小路など)
* 1954年(S29)4月、定禅寺通り、広瀬通りとも、東一番丁付近の拡幅が完成
* 1967年(S42)1月25日、定禅寺通り・広瀬通りとも全線開通
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「仙台市史 年表」P88/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
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政宗卿騎馬像 |
戦後の復元 |
1964年(S39) |
* 1953年(S38)5月31日、仙台市観光協会が、政宗公騎馬像の復元を決める
* 1964年(S39)10月9日、復元騎馬像除幕式
・ 仙台観光協会が1700万円をもって政宗公の旧銅像を鋳型(元の原型)により再鋳造し、旧位置(青葉城本丸)に再建して除幕式を挙行
・ 市役所内に再建委員会が設けられ、島野市長が委員長となって広く募金 / 原型は、製作者小室翠雲の郷里柴田町船岡に保存されていた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P616/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185の写真51と、「市民の戦後史(仙台市)」P158に「復元なった騎馬像」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P85(S39)
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瑞鳳殿 |
戦後の再建 |
1974年(S49)~ |
* 1948年(S23)12月、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(重訂 宮城県郷土史年表)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(仙台市史10年表)
* 1966年(S41)8月13日、再建のための基礎調査開始
* 1968年(S43)1月31日、経ヶ峰整備委員会が再建計画案を市に提出
* 1974年(S49)9月11日、再建起工式、再建にともなって墓室発掘調査(9月25日から政宗公の遺体発掘)が実施され、同年10月26日~28日に墓室が一般公開される
* 1975年(S50)5月24日、政宗公の遺体を、瑞鳳殿に再埋葬
* 1975年(S50)7月30日、再建上棟式
* 1977年(S52)7月16日、伊達政宗の殉職者の墓碑復元
* 1988年(S53)3月、再建第1期工事完成
* 1979年(S54)11月30日、竣工
* 1979年(S54)12月4日、瑞鳳殿再建落慶式
* 1980年(S55)、瑞鳳殿資料館開館
* 1981年(S56)10月12日、感仙殿と善応殿発掘調査
* 1983年(S58)8月5日、感仙殿、善応殿を再建、一般公開
* 1985年(S60)5月、感仙殿、善応殿の再建落成式(戦前のとは形が違っている)
* 1986年(S61)5月23日、伊達政宗の座像公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P531、P627、P638/「仙台あのころこのころ八十八年」P258/「仙台市史10 年表」P322/公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 年表」P129、P131、P132、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P32、P41、P43、P70、P104、P134、P164、P205
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ひらつか(東一番丁) |
戦後、進駐軍専用店を経営 |
1948年(S23) |
【「番丁詳伝」P152より】
* 1918年(T7)、平塚長蔵氏、塩釜で「ひらつか製菓舗」創設
* 戦時中は、多賀城にある海軍工廠の御用商人として自由に農産物を入手でき、漬物などを大量に生産
* 戦後、仙台・東一番丁(大通り)の一力邸の焼け跡を取得
* 1948年(S23)、敷地内に50m幅の青葉通りが造成しつつあった当時、敷地はヤミ市商人の密集中心地であったが、撤去後、「コックドール」(2階建ての洋風店舗)を建築、開業 / アメリカ進駐軍家族専用の店舗(レストランとフードマーケット)で日本人はオフリミット / 子息の長治氏が英語が話せたことから、進駐軍民生部に日参し、ヤミ市撤去と米軍関係者の利用施設を実現 / 進駐軍専用施設なので原材料の入手に困ることはなかった
・ 1950年(S25)の朝鮮戦争開始により在仙台米軍の大半が引上げ後は、方針を日本人向けに転換した
・ 仙台市高砂に最新技術を取り入れた東北初のオートメーション工場を建設
・ 一番町店舗の改築を行い、和・洋・中の総合レストランビルを完成
・ 平塚製パン、平塚物産、ひらつか、平塚販売等を展開
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・ 昭和26年の絵葉書(写真20-01-01)でも、「ひらつか」は表示塔に「ON LIMITS RESTAURANT」とあるように、進駐軍専用のフードマーケット(1階)とレストラン(2階)だった
・ 昭和28年からは、パン・洋菓子販売と日本人むけに喫茶・レストランを経営
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「番丁詳伝」P152/昭和26年発売の絵葉書20-01-01の内容から
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20-01-01、22-07、58-01、58-03
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第二高等学校(旧制) |
戦後、三神峯校舎時代/東北大に包括 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
<戦後 三神峯校舎時代>
* 1945年(S20)、仙台空襲(7月10日)で北六番丁校舎焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転
* 1946年(S21)2月23日、昭和18年から修業年限が1年短縮されていた中等学校を5年間に、高等学校と大学予科を3年間に復活(菅家年表P36)
* 1946年(S21)12月28日、第二高等学校寄宿舎(西多賀)焼失(「市史10 年表」P314)
<東北大学に包括>
* 1949年(S24)5月:新制東北大学設立にともない包括される(旧制二高三神峯校舎は分校第一教養部として引き継がれる)(東北大学HP掲載「沿革図」)
<記念碑など>
* 1976年(S51)10月23日、堤通雨宮町に、旧制二高創立90周年記念「雄大剛健之碑」除幕(続・郷土史年表P59)
* 1982年(S57)月日、上杉6丁目の旧制二高明善寮閉鎖(明治39年清水小路に、大正15年現在地へ移転)(「続・郷土史年表」P144)
* 1986年(S61)4月23日、仙台市三神峯に「二高尚志の碑」、除幕(「続・郷土史年表」P204)
* 1986年(S61)10月25日、仙台旧制二高創立百年で片平丁の東北大学キャンパスに「青年の像」除幕(続・郷土史年表P212)
<番外編>
* 1967年(S42)8月、仙台寮歌祭
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「仙台市史10 年表」P314/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P144、P204、P212/「菅家年表」P36/東北大学HP掲載「沿革図」/「仙台あのころこのころ八十八年」P255
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「市民の戦後史(仙台市)」P198(S42年8月の仙台寮歌祭)
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦後 3灯型 |
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戦後> 旧・大町5丁目の街灯は1基3灯型だが、戦前とは形が違う
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16-44
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街灯(東一番丁北部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217)
・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)
・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去
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「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-38、16-39、16-40、18-16
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街灯(東一番丁中央部) |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、街灯が復活(1基3灯型)
・ 戦前に「番街」の名物でもあったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)を取りつけた
・ 同じスズラン灯型であったが、広瀬通角(立町通)以北と、広瀬通り角~大町通角間では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)/「番丁詳伝」P166
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16-41、16-43、18-12
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街灯(東一番丁南部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)?~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)?、街灯が復活(1基3灯型)
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-42、98-013、55-04、55-03、20-01-01、18-34、18-04、18-08
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街灯(南町通り) |
戦後 2灯型 |
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戦後> 柱から左右へ2灯(アームが直線)
/ 昭和26年にはまだ無かった(写真 20-02 、 16-45 )
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18-14、36-08
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街灯(南町通り) |
戦後 1灯型 |
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1959年(S34)~1965年(S40)頃の写真に写る
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201-12、201-13、201-14
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