分類項目 | 銃後のくらし |
タイトル | 婦人達が竹槍訓練 (長町国民学校校庭) |
写真番号 | 16-08 |
場所 | 仙台市長町国民学校の校庭 |
映像内容 | 仙台市長町分会の婦人たち / 太平洋戦争の戦局が悪化し、本土決戦(米軍の本土上陸)に備えて、竹ヤリで戦う訓練が行われた / 場所は長町国民学校 / 全員が鉢巻にモンペ、はだしの婦人達、胸につけた白いのは名札か? / 「長町分会」の字がみえる(大日本婦人会の分会か?) |
撮影年代 | 1943年(S18)~1945年(S20)頃 |
撮影年代判定根拠 | 1943年に、陸軍策定の「竹槍術」のマニュアルが配布され、学生や主婦など民間人の間で竹槍の製造と訓練が行われた(Wikipediaに載るが出典不詳) |
関連情報/参考文献 | <Wikipedia「竹槍」より> 「竹槍術は、大日本帝国陸軍が1940年代に完成させ、1943年より大日本帝国の国民に教育された武術。」(ただし出典不明) <教本『竹槍術訓練の参考』(教育総監部制作)>は、国立公文書館アジア歴史資料センターがネット公開している 【「昭和・平成家庭史年表」P138】 「昭和18年2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開」 |
備考 | <泉区・名幡ふき子さん(女性、大正13年生まれ)の記憶「竹ヤリ訓練、工場動員、買出し」> 「柳町に住んでいた。 柳町のお大日さん(大日如来堂)に大きな防空壕を掘った。 作業に出ないと非国民と言われるので、皆が出て掘った。 竹やり訓練は片平の小学校校庭や、片平の大学構内でやった。 竹やりを指導する人が戦争へいっていなくなった。 年頃の娘だった私は、女子挺身隊の一員として、長町のかやば製作所へ毎日通って、工場で働いた。朝5時に起きて歩いて工場へ、帰りはリュックを持って農家へいって、食糧の買い出しをした(買い出しは戦時中からやった) 昭和19年に結婚した。 <竹槍訓練> → 当サイト内「仙台よみとき用語年表」でキーワード“竹槍訓練”で検索 |
カラー/モノクロ | モノクロ |
分類内の通し番号 | 21 |
画像ファイル名 | sendai11048 |