項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
火災(地域) |
東部飲食店街 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)7月10日、アパートなど10棟2500㎡焼失、37世帯94人被災
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「重訂 宮城県郷土史年表」P659
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市街化区域 |
決定 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)8月31日、都市計画法に基づき、仙台市の市街化区域・市街化調整区域が決定
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「仙台市史 年表」P127
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戦時衣料 |
中等学校以上の制服 |
1935年(S10)~1944年(S19) |
* 1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506)⇒ この項、S10年が正しいのか要検証
* 1941年(S16)4月、中等学校以上の制服を統一、国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1943年(S18)6月4日閣議決定「戦時衣生活簡素化実施要項」で、新規仕立ては、
<男子学生生徒>は、「国民服乙号」、外套は「国民服用外套」に限定
<女子学生生徒> 装飾部分の除去に考慮し、専門学校以上は、「婦人標準服」
* 1944年(S19)2月8日、女学生の戦時型制服決定、下衣(ズボン式)の膝、足首を皮紐で締める(菅家年表P32)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506/国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/「仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P32
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民間放送(仙台) |
ミヤギテレビ(MMT) |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)10月1日、宮城テレビ放送株式会社、UHF波でテレビ放送開始、コールサインJOMM-DTV
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「仙台市史 年表」P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P664
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火災(地域) |
ジャンジャン横丁 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月8日、中央1丁目のジャンジャン横丁で火災、7店焼失
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「続・ 宮城県郷土史年表」P15
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1936年(S11) |
・ 1936年(S11)、東日本洋服組合、ステープル・ファイバー(スフ)の利用を決議(オーストラリアとの間に通商制限問題が起こり、ラシャの原料でもある羊毛の輸入が制限されたため、その代用として)
・ 1936年(S11)?、国会で黒無地の背広を着るよう申し合わせ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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博覧会・フェア |
未来の東北博覧会 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)7月18日~9月28日、「'87未来の東北博覧会」、仙台港地区で開催 / 297万人動員 / 海上に高さ85mの大噴水
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「仙台市史 年表」P135/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P226
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民間放送(仙台) |
東日本放送(KHB) |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)10月1日、テレビ放送開始(社屋は上杉2丁目)、コールサインJOEM-DTV
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1937年(S12) |
・ 1937年(S12)、陸軍被服協会、反毛報国運動展開(毛織物廃品物の再生利用)
・ S12年、綿織物にスフ混用規制公布 / 軍需・輸出品以外は、3割以上のスフ混入義務づけ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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大学・短大 |
尚絅学院大学・大学院 |
2003年(H15)~ |
* 2003年(H15)、尚絅学院大学開学、総合人間科学部開設
* 2007年(H19)、大学に表現文化学科、現代社会学科、生活環境学科、大学院総合人間科学研究科を開設
* 2009年(H21)、大学図書館棟、実習棟竣工 / 名取市増田地区に「尚絅学院大学生涯学習センター」を開設
* 2010年(H22)、子ども学科を開設
* 2016年(H28)、尚絅学院大学大学院臨床心理実習棟竣工
* 2017年大学院 人間学専攻を開設
* 2018年(H30)、ブランドコンセプト「Passion with Mission」制定
* 2019年(H31)、3学群5学類制スタート
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「尚絅学院」HP/Wikipedia「尚絅学院大学
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博覧会・フェア |
89グリーンフェアせんだい |
1989年(H1) |
* 1989年(H1)7月26日、七北田公園で、「89グリーンフェアせんだい」開催
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「続・ 宮城県郷土史年表」P261
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時差出勤 |
官庁 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)4月1日、仙台市役所が時差出勤
* 1982年(S57)9月1日、県庁の出先機関で時差出勤
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「続・ 宮城県郷土史年表」P144、P150
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1938年(S13) |
・ 1938年(S13)3月1日、県糸配給統制規則公布 / 切符制の始まり
・ 1938年(S13)6月29日、線製品の製造販売を制限 / 主婦が綿製品の買いだめしたため、商工省が一人1品を厳命
・ S13年11月、国民精神総動員中央連盟は、カーキ色のチョッキ、ネクタイなしの国民服の着用を提唱
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(1) |
1925年(T14)~1929年(S4) |
* 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1927年(S2)5月30日、京都地裁、京都学連事件に有罪判決、(治安維持法初の適用)
* 1928年(S3)2月1日、「赤旗」創刊
* 1928年(S3)2月20日、初の普通選挙
* 1928年(S3)3月15日、全国で、共産党員一斉検挙、検挙者1568人、起訴488人に及ぶ(3・15事件)
* 1928年(S3)6月29日、改正治安維持法、緊急勅令で公布(死刑、無期刑を追加)
* 1928年(S3)7月3日、全国の警察部に「特別高等課」設置
* 1928年(S3)7月22日、無産大衆党結成
* 1928年(S3)7月24日、司法省、思想係検事を設置
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく
* 1928年(S3)12月20日、日本大衆党結成
* 1928年(S3)12月22日、新労働農民党結成(12月24日、解散命令)
* 1928年(S3)12月28日、政治的自由獲得労農同盟準備会創立宣言
* 1929年(S4)3月5日、山本宣治(旧労農党代議士)刺殺
* 1929年(S4)4月16日、4・16事件(共産党員大検挙)
~1930年(S5)~1931年(S6)の間は、年表に記載なし~
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P4、P5、P6/
宮城県関連は、「重訂 宮城県郷土史年表」P397、P506
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1939年(S14) |
・ 1939年(S14)3月、織物用原紙として紙糸の利用はじまる
・ 1939年(S14)4月24日、国産羊毛の購買禁止 / 洋服はすべてスフ時代に
・ 1939年(S14)8月、商工省による染色価格の統制により、男子用服地はカーキ色を主とした濃紺あるいは黒の3種に、女子用服地は柄物減少し10種類以内に
・ 1939年(S14)11月、国民服制定権限が陸軍被服廠に移り即時実行された
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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無線中継所 |
完成 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月26日、仙台市国見峠に完成、東京・仙台間のマイクロウェーブ全通し、テレビ中継も可能になる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P579
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(2) |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)2月10日、赤化運動によって東北帝大生4人検束
* 1932年(S7)3月1日、日本プロレタリア劇場同盟本部員江津誠等、仙台署に検束
* 1932年(S7)11月10日、県下共産党員の一斉検挙(仙台年表P203)
* 1932年(S7)11月14日、共産党員および青年同盟関係者一斉検挙、宮城県124名、東北帝大理学部助教授服部鼎、東北中学教員鈴木博等逮捕さる(「仙台市史10 年表」P279)
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宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P278、P279/「仙台年表」P203
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(3) |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)
* 1933年(S8)2月28日、特高警察、宮城県消費組合仙台支部を急襲、5名逮捕
* 1933年(S8)3月23日、社会大衆党仙台支部結成(宮城県全農大衆党と社民党が合同)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など)/東北帝大法文学部同盟休校
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙
* 1933年(S8)10月7日、仙台署特高警察、共産青年同盟再建運動を探索、市内数カ所急襲
* 1933年(S8)10月17日、広瀬川改修工事労働者300余名、デモを企つ、25日に首謀者2名解雇
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)
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宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P280、P281、P282/「宮城百年」(毎日新聞社)年表
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1941年(S16) |
・ 1941年(S16)4月、中等学校新入生の制服改訂、制服新調の際は
男子は、国民服と戦闘帽
女子は、セーラー服を廃止し、白い覆いをつけたヘチマ型のカラー、ベルト付のジャケットとスカート
・ 1941年(S16)5月、国民学校児童に抽選で学童服や靴下を配給
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51
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陸奥国分寺跡 |
国の史跡に指定 |
1922年(T11) |
【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分寺跡」より】
「陸奥国分寺は、聖武天皇の詔により全国に建てられた国分寺の一つである。多賀城から約10km南にあり、広瀬川が形成した最下段の河岸段丘に立地している。昭和30年から5年間の発掘調査によって、方242.4mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明らかになった。また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられている。現在、寺域には陸奥国分寺薬師堂および白山神社が建つ。」
* 1922年(T11)10月12日、陸奥国分寺跡が国の史跡に指定
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宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」
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ガソリン切符制 |
実施 |
1938年(S13) |
* 「1938年、物資動員計画による消費規制も強化され『揮発油及重油販売取締規則』に基づき、切符制による配給が実施された(第二次消費規制)。この一環として、自動車用等のガソリンへのアルコール混入が実施された」(ENEOS石油便覧「戦時体制下の石油政策」より)
* 1938年(S13)3月(5月?)、商工省令「揮発油及び重油販売取締規則」(のちに「石油販売取締規則」に改定)が公布され、切符制による販売制度採用
* 1938年(S13)5月1日、ガソリン切符制を実施(「重訂 宮城県郷土史年表」P462、「菅家年表」P20))
<影響>
* 1938年(S13)5月1日、「東京では、バス会社が一斉減車、タクシーは3分の1が減少」(「日録20世紀 1938」P15)
* 仙台でも1939年(S14)年以後は木炭バスが走り、戦後もしばらく続いた → 項目「木炭バス」参照
* 1941年(S16)9月11日、警視庁、東京府下のハイヤー、タクシー各社のガソリン使用を全面的に中止と通告(「日録20世紀 1941」P32)
* 1941年(S16)10月1日から乗用車のガソリン使用を全面禁止(「週刊20世紀 1941」P27)
* 自動車も代用品の木炭で(宮城県内3000台)(佐々久「近代みやぎの歩み」P121)
<戦後>
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、木炭タクシーが無くなる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P462/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P20、P45/「日録20世紀 1938」P15/「週刊20世紀 1938」P4、P23/「週刊20世紀 1941」P27、P32/佐々久「近代みやぎの歩み」P121
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(4) |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争協議会、約20名各組合代表仙台市役所にデモ、夜、東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
* 1934年(S9)6月1日、文部省、学生部を拡充,思想局設置
* 1934年(S9)6月27日、宮城県特高課、共産青年同盟関係者東北帝大生ら6名検挙
* 1934年(S9)7月11日、仙台合同運送、荷馬車挽子約80名スト(待遇改善、賃金値上げ要求)
* 1934年(S9)7月17日、非合法右翼団体振頭塾急襲、大久保政夫ほか3名逮捕
* 1934年(S9)9月3日、三馬ゴム工業職工262名、賃上げ要求(翌日スト)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P283、P284
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大学・短大 |
宮城大学 |
1997年(H9)~ |
<県立時代>
* 1997年(H9)4月、黒川郡大和町(大和キャンパス)に、宮城県立宮城大学開学〔看護学部・事業構想学部〕
* 2001年(H13)4月、 大学院(修士課程)設置 〔看護学研究科・事業構想学研究科〕
* 2005年(H17)4月、食産業学部設置(太白区旗立二丁目の太白キャンパス)
* 2008年(H20)4月、大学院(博士後期課程)設置〔事業構想学研究科〕
<公立大学法人>
* 2009年(H21)4月、公立大学法人宮城大学設立(法人化)、大学院(修士課程)設置〔食産業学研究科〕
* 2010年(H22)4月、大学院(博士後期課程)設置〔看護学研究科〕
* 2013年(H25)4月、大学院(博士後期課程)設置〔食産業学研究科〕
* 2017年(H29)4月、学部改組により学群・学類制へ移行(3学群6学類、3研究科で構成)
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宮城県HP内「宮城大学」/「公立大学法人宮城大学」HP
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大学・短大 |
東北福祉短期大学 |
1958年(S33)~1962年(S37) |
* 1958年(S33)4月1日、荒巻伊勢堂に開校
* 1960年(S35)4月、専攻科併設
* 1962年(S37)4月、四年生大学へ昇格
( → 以下、小項目「東北福祉大学」参照)
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「東北福祉大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P556/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539~540
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ガダルカナル戦 |
戦闘 |
1942年(S17)8月~1943年(S18)2月 |
<ガダルカナル戦> ガダルカナル島は西太平洋ソロモン諸島の島。太平洋戦争で昭和17年8月~18年2月7日、この島の奪取をめぐって日本軍と連合国軍が戦った。 ミッドウェー海戦と共に日米両軍の攻守の転換点となった戦い。この戦いで、第二師団の多くの将兵が戦死 / 昭和18年7月、遺骨が仙台に帰還した。(「無言の凱旋」)
* 1942年(S17)8月7日、米軍ガダルカナル島上陸
* 1942年(S17)12月31日、大本営、ガダルカナル島撤退を決定
* 1943年(S18)2月1日、日本軍、ガダルカナル島撤退開始
<第二師団、ガダルカナル戦>
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103より)
・ 日本の南約5500キロ、英国領ソロモン諸島の1つで岩手県の半分ほどの島。
* 1942年8月、海軍の設営隊が飛行場を建設(敵の飛行機の出撃基地ニューギニアとオーストラリアの間にクサビを打ち込む目的)
* 飛行場完成後、米軍が進攻(艦砲射撃と海兵隊約2万人の海兵師団上陸)し、飛行場を占領
* 日本軍は陸軍部隊を投入
8月16日、先遣隊の旭川第七師団一木支隊、900人が上陸し飛行場突撃し全滅
9月、第十八師団川口支隊6500人、飛行場突入寸前に発見され死者700人以上
10月、第二師団(ジャワ島占領後に警備中、帰国輸送船待ち)と第三十八師団(スマトラ島警備中)の一部、計1万5000人投入
10月23日、第二師団歩兵第4連隊第2大隊、飛行場牽制攻撃、戦傷者続出、マタウ川渡河攻撃の独立戦車隊戦車10両全部撃破される
10月24日、第二師団歩兵29連隊(会津若松)敵陣突入し消息絶つ
10月25日、総攻撃、第二師団左翼攻撃隊長の那須弓雄少将、歩兵16連隊の広安寿郎大佐が戦死。作戦は事前に察知されて失敗。歩兵第4連隊将兵2千数百人は一夜にして壊滅状態。
日本の輸送船団(重砲8門、弾薬20万発、食糧20日分)撃沈される、日本海軍は、空母ホーネット、空母エンタープライズ大破させたが、輸送船団を軽視し敵の補給路を絶てず。
・ 米軍は飛行場南方に電流鉄条網と数多くのトーチカを配し、ジャングルには無数のマイクロホン、米軍に協力する現地民を潜ませていた。日本軍は強力な武器を持たず何回も懲りずに同じ戦法で突撃し犠牲を大きくした。
・ 第十七軍参謀の電報「島に残された兵士たちは食料も武器弾薬もない。木の根、草の葉もつき、川底のミズゴケまで食い尽くした。 動ける者はなく、壕に座ったまま銃剣で最後の戦いの準備をしている。」
・上陸した総兵力約3万1000人のうち死亡者約2万人(戦闘でなくなったのは約5000人、残る1万5000人は食料不足による栄養失調、マラリアによる)、1万1000人が救出される(昭和18年2月上旬、駆逐艦20隻で脱出)
・第二師団は、1万318人のうち、戦死・戦病死が7671人(生存者は4人にひとり)、同師団歩兵第4連隊は、2458人のうち1906人が戦没。
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19、P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103
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四大節 |
制定 |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)に制定された四つの祭日(昭和戦前期)
・ 四方拝(1月1日)・紀元節(2月11日)・天長節(昭和時代は4月29日)・明治節(11月3日)の総称
・ 戦前は、児童生徒は学校に登校し式が行われた
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大辞林 など
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
戦後 1946年(S21)~1950年(S25) |
・ 戦後、繊維製品も進駐軍の統治下におかれたいたが、1946年(S21)9月、GHQが復旧を認める
・ 1945年(S20)、繊維製品1人あたり消費量は、1930年(S5)~1934年(S9)の12.6%
・ 1946年(S21)3月、衣料切符制度廃止し、4月から割当購入制度
・ 1947年(S22)4月1日、国内向け繊維に一応の見通しが得られ、衣料点数切符制度を復活 / 一人1年12点(背広1着が70点)
・ 1929年(S24)6月、衣料切符1人30点に(10点は純綿生地、20点は人絹スフ)、絹製品は自由販売に
・ 1930年(S25)1月、繊維製品の価格統制撤廃(衣料事情が急速に好転)
・ 1930年(S25)9月、衣料切符制廃止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P54~55
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メートル法 |
実施 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)1月1日、実施(尺貫法廃止)
* 1966年(S41)4月1日、メートル法完全実施
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P38/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P60
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学校教練 |
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⇒ 項目「軍事教練」参照
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七十七銀行 |
他行を合併 |
1927年(S2)、1932年(S7) |
<他行を合併>
* 1927年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
* 1931年(S6)11月27日、東北実業銀行、五城銀行と合併仮契約書(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)1月31日、七十七銀行が、東北実業銀行、五城銀行と合併し、七十七銀行に(「重訂 宮城県郷土史年表」P429)
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P356」より>
「七十七銀行は、第一次大戦後は、『米の七十七、繭の商銀』とうたわれ、宮城商業銀行とともに、県内各地に支店網を形成していった。 しかし(片倉製糸などの器械製糸工場におされて、取引先の)座繰製糸の不振によって、宮城商業銀行は大きな不良貸し付けを抱えることになり、1927年(S2)の金融恐慌をきっかけとして、仙台興業銀行ともに七十七銀行に合併されることになった。 さらに、七十七銀行は金融恐慌のさなかの1932年(S7)に東北実業銀行と五城銀行を合併し、仙台を中心とした地方の金融機関として生き残っていくことになる。」
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「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P429/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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戦時衣料 |
衣料品購入価格高騰 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
<公定価格>
・ 1937年(S12)→1945年(S20)7月に、2倍近くに
<ヤミ価格>
・ 晒(さらし)木綿は、S18年12月に公定価格の6倍、S20年7月には更に8.5倍に(衣料切符を持っていても品不足で買えず、ヤミ市場では高値で購入困難)
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「仙台市史 特別編5 市民生活」P54
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明治三陸地震津波 |
発生 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)6月15日発生、マグニチュード8.2~8.5 / 岩手、宮城、青森中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 約2万2000人、うち宮城県が3400余人)
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渇水 |
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1973年(S48) |
* 1973年(S48)8月、仙台管区気象台始まって以来の干ばつ
/8月21日、水不足で仙台市、塩釜市で給水制限/8月22日、阿武隈川水系の32工場に50%排水カット命令/8月27日、釜房ダム渇水で仙台市給水制限、県は干ばつ被害約36億円、水稲全滅は600haと発表/8月、大倉ダム渇水
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「続・ 宮城県郷土史年表」P22
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戦時下の学園 |
仙台商業学校(市立) |
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★「仙台商業学校」は、昭和23年以降の「仙台商業高等学校」
・「戦時中生徒は食料増産はおろか兵器増産のため勤労動員され、教師と生徒は、隊を組んで川崎の工場まで出勤する一方、少年航空兵として多くの生徒が志願していった。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で、上杉の校舎は一夜にして灰と化した。隣接の上杉山国民学校の一部を借り、小学生の机を使って二部授業を行ったが、ガラス窓が破損しても補充がつかず、紙や板をはってしのいだ。そのうちに戦場にあった教師たちが復員し、また若い教師も着任して、校内も次第に活気を取り戻していった」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482
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バス |
仙台初 |
1912年(T1) |
* 1912年(T1)10月18日、仙台初のバスが営業開始
清水小路(現・五橋五丁目)の菊地道三郎所有のもの
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逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P96/「仙台あのころこのころ八十八年」P242/「仙台市史 特別編4 市民生活」P202
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勝山公園 |
開設 |
1914年(T3) |
伊沢平左衛門が北四番丁に開園(屋敷の一部に)
* 1928年(S3)11月、仙台市に寄贈(「仙台年表」P205では、S8に寄贈)
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「仙台市史 年表」P97/「仙台市史10 年表」P272/「仙台年表」P205
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市町村合併 |
昭和の大合併 |
1954年(S29)
~1955年(S30)に合併した県内新自治体名 |
通称「昭和の大合併」は、昭和28年の町村合併促進法=町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準=、及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法による市町村合併で、1953年(S28)~1961年(S36)に実施された。1954年(S29)4月以降、宮城県内でも町村合併が相次いだ。以下は、昭和30年までに合併が行われ誕生した新市町村名(31年以降は略)
<1954年(S29)>
4月には、白石市(新市誕生)、岩出山町、鳴子町、小牛田町 / 7月には、大郷村、宮崎町 / 8月には、中新田町、築館町 / 11月に、津山町 / 12月に丸森町、若柳町
<1955年(S30)>
昭和30年1月~12月に、金成町、亘理町、山元町、宮城村、志津川町、三本木町、河北町、河南町、桃生町、牡鹿町、北上村、本吉町、松山町、蔵王町、岩沼町、名取町、栗駒町、一迫町、迫町、泉村、村田町、川崎町、大和町、鳴瀬町、矢本町、涌谷町
******(S31年以下、略)******
<参考>明治以降、昭和末年までの宮城県内市町村合併の全貌は、「第4 市町村変遷等の状況」http://www.mygsk.or.jp/sityouson/pdf/siryou/04_shichosonhensenjoukyou.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5%E4%B8%80%E8%A6%A7+%E6%98%AD%E5%92%8C%27
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「重訂 宮城県郷土史年表」P572~579
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戦時下の学園 |
仙台中学校(市立) |
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★「市立仙台中学校」は、昭和23年以降の「市立仙台高等学校」
・「太平洋戦争勃発後も施設、設備の拡充は勧められていたが、国家総動員体制の下、生徒は勤労動員され、勉学に時間は極度に制約されていた。敵性語である英語の廃止論も盛んであったが、校長の信念でこのような意見に耳をかさなかったという。」
・「第1回(昭和15年)入学生は苦竹造兵廠に、第2回入学生は川崎市の軍需工場に動員され、それぞれ動員先で卒業式を行うという変則的なことも行われた。」
・「戦局が不利となるにつれ本土空襲は頻繁となり、ついに昭和20年7月10日未明、仙台市も空襲を受け、第一波爆撃による数発の直撃弾で校舎、校具のいっさいを焼失した。」
・「戦災後さしあたり片平丁国民学校に一時、間借りした。その後20年7月末にも、荒町、南材木町国民学校および斎藤記念館に再び借家ずまいすることとなったが、生徒数が多いため二部授業を行わざるを得なかった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P486~487
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バス |
仙台市街自動車 |
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→ 項目「仙台市街自動車」参照
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市町村合併 |
平成の大合併 |
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平成の合併は、「宮城県の市町村合併誌」https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/sichouson/sityouson-gappeishi.html
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戦時下の学園 |
仙台工業学校(市立) |
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★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」
・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490
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大学・短大 |
仙台白百合女子大学 |
1996年(H8)~ |
* 1996年(H8)、「仙台白百合女子大学」創立(人間学部に人間発達学科と人間生活学科)
* 2002年(H14)、短大を大学に統合 / 大学の人間学部が、人間発達学科、総合福祉学科、健康栄養学科、国際教養学科の4学科体制となる
* 2013年(H25)、学科再編し、人間発達学科、心理福祉学科、健康栄養学科、グローバル・スタディーズ学科の4科に
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「仙台白百合女子大学」HP
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バス |
仙台市営バス |
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→ 項目「仙台市営バス」参照
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市町村合併歴(仙台) |
仙台市 |
2020年(R2)現在 |
* 1889年(M22)、市制施行、仙台市誕生
* 1928年(S3)4月1日、長町、原町、七郷村の南小泉と蒲町を編入
* 1931年(S6)4月1日、七北田村荒巻,北根を編入
* 1932年(S7)10月1日、西多賀村を編入
* 1941年(S16)9月15日、中田村、六郷村、七郷村、岩切村、高砂村を編入
* 1956年(S31)4月1日、生出村を編入
* 1987年(S62)11月1日、宮城町を編入
* 1988年(S63)3月1日、泉市、秋保町を編入(市人口88万)
* 1989年(H1)4月1日、政令指定都市としてスタート(東北初、全国で11番目)、市制100周年 / 青葉・宮城野・太白・泉・若林の5区に
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仙台市HPの「仙台市のあゆみ」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P141/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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戦時下の学園 |
仙台工業学校専修科(市立) |
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★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」
・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台第二工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493
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大学・短大 |
仙台大学 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)4月、学校法人朴沢学園が仙台大学を宮城県柴田郡柴田町船岡に開学し、4年制体育学部(体育学科)を開設
* 1968年(S43)2月、体育学部体育学科に教職課程が認可
* 1995年(H7)4月、体育学部に健康福祉学科を開設
* 1998年(H10)4月、大学院スポーツ科学研究科スポーツ科学専攻(修士課程)を開設
* 2001年(H15)4月、仙台大学体育学部運動栄養学科を開設 / 厚生労働省指定栄養士養成施設を併設
* 2007年(H19)4月、大学体育学部スポーツ情報マスメディア学科を開設
* 2008年(H20)4月、大学にスポーツ情報マスメディア研究所を開設
* 2009年(H21)4月、大学院スポーツ科学研究科に1年コースを開設
* 2011年(H23)4月、仙台大学体育学部現代武道学科を開設
* 2013年(H25)4月、大学スポーツ情報マスメディア研究所を「仙台大学スポーツ健康科学研究実践機構」に改編
* 2017年(H29)4月、大学体育学部子ども運動教育学科を開設
* 2017年(H29)11月、大学開学50周年記念IFE(International Friendship Event)を開催
* 2018年(H30)1月、仙台大学開学50周年記念式典・祝賀会
* 2018年(H30)10月、大学にスポーツ局を設置
* 2020年(R2)4月、明成高等学校を仙台大学附属高校とした
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「学校法人朴沢学園」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P565~566
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名水百選 |
広瀬川 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)3月28日、環境庁による名水百選に、広瀬川(仙台)と桂葉清水(高清水町)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P189
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戦時下の学園 |
仙台女子商業学校(市立) |
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★「仙台女子商業学校」は、昭和23年度に「仙台商業高等学校女子部」と「仙台市立女子高等学校」に分かれ、前者は昭和32年9月に「仙台女子商業高等学校」となった。
・「当時のすべての学生生徒は勤労動員によって学業に専念することは不可能であった。幸いなことに本校の生徒全員が仙台貯金局に動員され、家庭から通勤することができ、犠牲者を出さなかった。」
・「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台女子商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495
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大学・短大 |
大学紛争 |
1969年(S44) |
この年、東北大学、宮城教育大学、東北学院大学で大学紛争が盛んになる → 項目「大学紛争」参照
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「仙台市史 年表」P126
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バス |
木炭バス |
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→ 項目「木炭バス」参照
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