項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
青葉城資料展示館 |
開館 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)4月、仙台城本丸跡に開館
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「仙台市史 年表」P131
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日乃出映画劇場 |
開館 |
1935年(S10)3月20日 |
東一番丁(横丁の新国町)に杉村多利治が開場
・ 水洗式トイレ、トーキーは35年型トービスと最新式の設備
・ 館名を一般公募で決める
・ PCC特約で洋画ファンを喜ばせ、学生の多いところから独特な雰囲気をもっていた
・ この後、新国町は日の出横丁と呼ばれるようになる
* 1935年(S10)3月20日、東一番丁(新国町)に開館
* 1940年(S15)12月からは東宝と提携、直営となった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し休館
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「仙台映画大全集」P451/「番丁詳伝」P131
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泉ヶ岳勤労者野外活動センター |
開館 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)9月、泉ヶ岳勤労者野外活動センターが開館
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「仙台市史 年表」P132
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イズミティ21 |
開館 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)11月1日、泉市文化創造センター(イズミティ21)開館
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「仙台市史 年表」P135
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鐘景閣 |
開館 |
1985年(S60) |
* 1984年(S59)10月15日、茂庭荘で、旧伊達邸復元起工式
* 1985年(S60)10月8日、鐘景閣(しょうけいかく/旧伊達邸)を復元・落成
* 1985年(S60)10月10日、茂庭荘の敷地内に移築・復元された一本杉の旧伊達邸、鐘景閣として開館
* 1987年(S62)5月31日、仙台市の保存樹木、明和学院(錦町2丁目)の松・臥竜松(樹齢300年)を茂庭荘に移植
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195
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仙台国際センター |
開館 |
1991年(H3) |
<仙台国際センターHPより要約>
・ 仙台国際センターは「会議棟」「展示棟」で構成され、一体利用することで6,000人規模の大規模催事が開催可能 / 外観は、仙台城跡・脇櫓の近くという立地条件から城のイメージを現代風にアレンジ、各会議室内の天井も青葉山の山並みや仙台湾のさざ波などがイメージされている / 無柱の展示室(3000㎡)、1,000名収容の大ホールや展示・レセプションホール、大・中・小会議室、市民が自由に出入りできるフリースペースがある / 北側の「せんだい青葉山交流広場」は、イベント会場や駐車場として利用可能(約19,000㎡)
* 1991年(H3)9月、仙台国際センターが開館(川内の青葉山公園内に)(3月に会議棟完成)
* 2015年(H27)、展示棟が完成
* 2015年(H27)12月、仙台市営地下鉄東西線「国際センター駅」開業
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仙台国際センターHP「施設ガイド」
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仙台市科学館 |
開館 |
1968年(S43)5月1日 |
<前身のサイエンスルーム>
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター内にサイエンスルームを設置(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
・実験室、資料室、研究室など
・学校教育では、主に中学3年生対象に実験指導、教職員理科実技講習、科学相談、実験機材・資料の貸出など
・社会教育では、科学見学採集会、科学実験講座、実験のしおり発行など
<仙台市科学館>
* 1968年(S43)5月1日、東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開館(サイエンスルームを統合)
・実験室2室、工作室、講堂、展示室
・市内中学生対象の実験指導、展示活動、教員対象実験講座、一般向け科学のはなし、映画界、採集会など
<台原森林公園内に新築移転>
* 1990年(H2)9月、仙台市科学館が台原森林公園の中に新築移転し開館
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194~195、P439~441、P450~453/「仙台市史 年表」P117、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P630、P640/Wikipedia「仙台市科学館」
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「目で見る仙台の歴史」P180に、レジャーセンター内のサイエンスルーム/「市民の戦後史(仙台市)」P209(長銀ビル内の市立科学館で子供たち、展示物)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(長銀ビル内の科学館)
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仙台市戦災復興記念館 |
開館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月1日、仙台市戦災復興記念館、大町に開館
* 1982年(S57)7月10日、復興記念館で、「戦争体験を後世に語り継ぐ集会」
* 1985年(S60)12日、館内に仙台市ボランティアセンター開設(2020年現在は、青葉区五橋の仙台市福祉プラザ6階にある)
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財団法人仙台ひと・まち交流財団HP/Wikipedia「仙台市戦災復興記念館」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台市史 年表」P132、P134
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東北歴史資料館 |
開館 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)8月1日多賀城町に開館
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「続・ 宮城県郷土史年表」P31
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エル・パーク仙台 |
開館 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)3月20日、エル・パーク仙台(仙台市婦人文化センターの愛称)が、141ビル内に開館
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P221/「仙台市史 特別編4 市民生活」P459
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仙台市武道館 |
開館 |
1974年(S49)/1998年(H10) |
<錦町公園内>
* 1974年(S49)7月3日、仙台市武道館が錦町に開館
* 1998年(H10)6月、同館閉鎖
<堤町に新武道館>
* 1998年(H10)6月、青葉区堤町1丁目の本山製作所跡地に、「仙台市青葉体育館・武道館」が開館
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「仙台市史 年表」P129/Wikipedia「錦町公園」/Wikipedia「仙台市青葉体育館・仙台市武道館」(2020年2月)
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(錦町の武道館、剣道場)
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仙台市民ギャラリー |
開館 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)9月9日、青葉通りの読売仙台ビル内に開館
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「仙台市史 年表」P150
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仙台市民教養センター |
開館 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)4月1日、開館(東二番丁小学校5階)
・ 講習室、会議室、談話室、和室など
・ 利用は、社会教育関連団体
・ 成人学校、青年教室、老壮大学、明治青年大学、教養講座など開催、教育映画・映写機など貸出
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P449~450
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(市民教養センターが入る東二番丁小学校新校舎、講座風景)
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仙台市民文化センター |
開館 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)5月26日、仙台駅東口に仙台市民文化センター、開館式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P162
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仙台市歴史民俗資料館 |
開館 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)11月3日、榴ケ岡の旧歩兵第4連隊跡に残された兵舎を利用して開館(榴ケ岡公園内)
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P102
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「新・目で見る仙台の歴史」P132(仙台市歴史民俗資料館外観、カラー)、「仙台市史 特別編4 市民生活」P232とP193に(外観と展示室、カラー)
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宮城県スポーツセンター |
開館 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)8月18日、仙台市川内(青葉山公園内)に建設落成し開館(1万人収容、東北一の規模) / こけら落としは、世界一の女子バレーボールチーム日紡貝塚とヤシカの模範試合、東京オリンピック体操選手一行の演技
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P205
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「市民の戦後史(仙台市)」P159(建物と落成記念式典アーチ)
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宮城県青年会館 |
開館 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)12月23日、元寺小路に開館
* 1969年(S44)4月、銀杏町に移転
* 1977年(S52)9月1日、原町小田原の宮城県立農業試験場跡地に新築移転して開館
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「仙台市史 年表」P119、P126、P131
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仙台美術館 |
開館 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)2月25日、財団法人仙台美術館、斎藤報恩会館内に開館
* 1973年(S48)、柳町の河北ビルに移転
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197/「仙台市史 年表」P126、P129/「重訂 宮城県郷土史年表」P646
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仙台物産陳列所 |
開館 |
1907年(M40) |
* 1907年(M40)5月28日、仙台物産陳列所、仙台駅前に開館
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「仙台市史 年表」P94
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宮城県美術館 |
開館 |
1981年(S56) |
* 1980年(S55)1月29日、川内支倉で起工式
* 1981年(S56)11月3日、川内に開館
* 1986年(S61)11月、丸森町出身彫刻家佐藤忠良の全作品を県美術館に寄贈
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P108、P135、P214
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宮城県民会館 |
開館 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)8月27日、定禅寺通櫓丁に落成開館(1700人収容) / 地下1階、地上6階、大ホール(固定席2000)、中ホール(270席)、集会室、会議室、娯楽室など
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206の写真59/「市民の戦後史(仙台市)」P159
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文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
開館/移転・改称/改称/空襲焼失・休館/再建/改称 |
1925年(T14)/1936年(S11)/1938年(S13)/1945年(S20)/1950年(S25)/1958年(S33 |
<大映文化キネマ>
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設(「東一番丁物語」P219」
* 1925年(T14)11月、文化キネマ(活動写真)、東一番丁に開設(「重訂 宮城県郷土史年表」P400)
* 1925年(T14)12月1日、阿部三郎が「大映文化シネマ」を始める(「東一番丁創立五十周年」P8)
* 1925年(T14)12月11日、阿部来太郎、「大映文化キネマ」を文化横丁の中央南側に新築開館(松竹映画と洋画を上映)(「仙台映画大全集」P450)
・ 文化キネマは松竹映画とともに、洋画も上映 / 東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだ(「番丁詳伝」P113)
<文化映画劇場>
* 1936年(S11)12月、東一番丁(大通り)へ新築移転し「文化映画劇場」と改称 / 洋風建築、椅子席、3階建、2階に楽屋、3階に食堂とホール(「仙台映画大全集」P140)
<文化キネマ>
* 1938年(S13)、再び「文化キネマ」に改称
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で外壁を残し焼失、休館
<戦後復活し、文化劇場>
* 1950年(S25)12月、大通り(東一番丁88)で「文化劇場」として復活(松竹映画を上映、943席)
<仙台松竹映画劇場>
* 1958年(S33)11月、「仙台松竹映画劇場」と改称
* 2001年(H13)、閉館
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史P450ほか /「重訂 宮城県郷土史年表」P400、P546/「番丁詳伝」P87、P113/参考:「東一番丁物語」(柴田量平著)P219、P236~237
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・戦前は、22-59、53-38、61-24、61-25/「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P106~107/「いつか見た街・人・暮らし」P44(昭和12年頃)
・戦後は、18-04、18-08
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仙台CIE図書館 |
開館~廃止 |
1948年(S23)~1952年(S27) |
CIE図書館は、日本の敗戦後に連合軍総司令部(GHQ/SCAP)の一組織の民間情報教育局(CIE)が、日本の民主化非軍事化を目的とし、全国に23館を設置。 民主主義の普及や米国の生活様式など、多岐にわたる図書・雑誌・映画フィルムのほかレコードや楽譜、パンフレット類をおき無料で貸し出した。
* 1948年(S23)5月23日、仙台CIE図書館、斎藤報恩会館内に設置(日本で8番目のCIE図書館だった)
* 1952年(S27)5月1日、「仙台アメリカ文化センター 」と改称
1946年(S21)にCIEがアメリカ教育使節団の手引書として刊行した『日本の教育』(Education in Japan) では、CIE図書館の目的について『日本の文筆家・学者・官僚・政治家・諸団体ならびに一般人を対象に、国際関係や第二次世界大戦についての参考資料や書物を提供し、米国の慣習・法律・社会・政治機構に根ざす活動や政策の実態を知らせようとするもの』と述べている(関連情報欄の三浦太郎論文より引用)
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称
→ 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
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「仙台市史 年表」P115、P117
/三浦太郎、2005年、「占領下日本におけるCIE第2代図書館担当官バーネットの活動 (PDF) 」 、『東京大学大学院教育学研究科紀要』45巻、東京大学、NAID 110006389820 pp. 267-276
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仙集館 |
開館~閉館 |
1909年(M42)~1933年(S8) |
* 1909年(M42)7月5日、仙台初の活動写真(映画)常設館として開館(1987年現在の高山書店向い「のっぽ」の場所) / 東一番丁通りから9m程セットバックした洋風外装、間口が狭く奥行きが深い木造 / 山梨出身で横浜の人、杉本亀太郎が開館
* 1912年(M45)6月、全面改装竣工
* 1915年(T4)7月、改装
・ 大正期・昭和初期には、館主が交代しながら、帝国キネマ、新興キネマの封切館だった
* 1916年(T5)12月1日、「記念館」と改称
* 1917年(T6)6月、「社会館」と改称
* 1918年(T7)6月、再び「仙集館」と改称
* 1918年(T7)7月、改装
* 1933年(S8)3月20日、焼失し閉館 (早暁、仙集館付近より出火、52戸を焼く / 東一番丁大火 / 午前0時半出火 / 「番丁詳伝」P143では、51戸消失、罹災戸数35)
* 仙集館跡地には、金港商会が石造りのビルを建築し1階はキリンビアホールが入る
1922年(T11)年から日活上映、1927年(S2)から帝国キネマ上映、1931年(S6)から新興キネマ上映
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「仙台映画大全集」P451 / 「東一番丁物語 明治編」(柴田量平著)P117~120、P235/「番丁詳伝」P23、P108、P131、P143/「仙台あのころこのころ八十八年」P241/「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台市史 年表」P94
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43-26/ スケッチ画は98-006/柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P118~119(新築当時の仙集館、改築後の仙集館)「目で見る仙台の歴史」P142に、「東一番丁仙集館付近」
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仙台アメリカ文化センター |
開館~閉館 |
1952年(S27)~1971年(S46) |
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称 →参照 項目「仙台CIE図書館」
* 1952年(S27)5月、仙台CIE図書館が、「仙台アメリカ文化センター」(ACC)と名称変更し、引き続き斎藤報恩会館内に置かれた
* 1968年(S43)、東二番丁の長期信用銀行ビル4階に移転
* 1971年(S46)3月31日、閉館(「重訂 宮城県郷土史年表」P677では、「6月末閉館」)
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石原眞理「岐阜女子大学紀要 第47号 (2017.10.)「CIE 図書館及びアメリカ文化センター資料に関する研究:仙台アメリカ文化センター及び横浜アメリカ文化センター
旧所蔵資料の調査を基に」/「仙台市史 年表」P117、P126、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P677
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「市民の戦後史(仙台市)」P63
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
防災都市宣言 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)、防災都市宣言(前年1978年(S53)6月12日に、宮城県沖地震)
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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アメリカシロヒトリ防除 |
防除開始 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)7月2日、防除本部設置し駆除開始(アメリカシロヒトリが、八木山、北山、東仙台など郊外にも広がる)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P633
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文学碑など(仙台) |
阿部みどり女の句碑 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)10月1日、仙台城址、宮城護国神社南の池のはたに建立 / 「初蝶の流れ光陰ながれけり みどり女」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192
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こけし塔(西公園) |
除幕式 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式 / 鋳物製
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「仙台市史 年表」P122/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「宮城百年」(毎日新聞社刊)年表
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陸海軍の工場(宮城県内) |
陸軍造兵廠(東京第一陸軍造兵廠仙台製造所) |
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<陸軍造兵廠>
* 1941年(S16)4月5日、陸軍造兵廠を仙台市原町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
<編者注>陸軍造兵廠の正式名称は「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」(場所は、戦後の陸上自衛隊苦竹駐屯地)
* 1941年(S16)4月5日、原町陸軍工廠の新設と呼応し、原町工業都市建設土地区画整理(520ha)認可 (「重訂 宮城県郷土史年表」P432)/ ただし整備は戦後に持ち越された / 関連して、S16年に仙塩街道(仙台~塩釜)開通(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365)
* 1942年(S17)から稼働、4つある工場では戦闘機の銃弾や薬きょうの箱詰、旋盤、プレス加工。 のち幸町にも第二工場を建設(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、最盛期にはそれぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P706/「重訂 宮城県郷土史年表」P432/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P173
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敗戦後の諸相・仙台 |
隠匿物資の摘発 |
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<隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発
(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84
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水害 |
集中豪雨 |
1950年(S25)8月3日~4日 |
20mの強風下、仙台で200ミリの豪雨 / 広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊10か所、橋梁流失47か所 / 仙台で138戸流失、死者6名、行方不明10名、浸水家屋1万戸以上 / 元虚空蔵の崖が崩れて水がせき止められ、評定河原に水があふれ家屋流失138戸 / 市制施行以来の大水害
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P405/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P544/「目で見る仙台の歴史」P175
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「目で見る仙台の歴史」P175に「新聞掲載写真」
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丸光 |
雑貨店開店 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月1日、 仙台駅前の空襲焼け跡(裏五番丁15)に丸光合資会社として雑貨店を開き、「MARUMITU DEPT.STORE」の文字を掲げて営業を開始 / 木造平屋で50坪
* 1948年(S23)6月1日、株式会社に改組
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 年表」P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P511
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戦災復興事業 |
難航した堅牢建物移転 |
1948年(S23)~1958年(S33) |
<建物移転>
・ 1948年(S23)8月、開始
・ 対象は、区画整理施行区域内の幹線街路、区画街路、公園など予定地に建つ建築物
・ 方法は、曳き方、移築、除去の3種
・ 移転補償は移転料、移転完了までの家賃補償、工作物補償、営業補償、移転雑費など
<手を焼いた堅牢建物の移転>
* 1950年(S25)開始~1958年(S33)7月完了、新設または拡幅予定の幹線道路の用地にあった堅牢建築物11軒を移転
・ 長町堤町線の日乃出映画劇場
・ 東一番丁線の明治製菓支店、キリンビール支店
・ 東二番丁線の市立病院表玄関、仙台商工会議所、三井生命支店、協和銀行支店、逓信病院、東北学院赤レンガ校舎の一部、宮城学院校舎の一部
・ 多門通常盤丁線の小林家住宅
・ 最後まで残っていた、東二番丁線沿いの逓信病院、東北学院、宮城学院は、S33年3月~7月末に撤去完了
<参考>三井生命仙台支店は、1938年(S13)8月12日、新装された(「仙台市史10 年表」P294)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P334~345、P349
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撤去対象の東二番丁の堅牢建物の位置図は、写真98-109/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349の写真61(東二番丁通り拡幅部分にはみ出した宮城学院)
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電信開始(仙台) |
電信局開設 |
1874年(M7) |
* 1872年(M5)、日本縦貫電信線の東京・青森線架設工事開始
<電信局>
* 1973年(M6)、仙台国分町に「電信局」を開設す / 東京との間に1本の電線を引き、また電柱は市内のみにて、郊外は樹木等を利用して架設す(「重訂 宮城県郷土史年表」P243、「仙台年表」P147)
* 1974年(M7)、仙台伝信局開設され、のち仙台電信局となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350)
* 1974年(M7)9月25日、仙台電信分局設置、業務開始(「仙台市史10 年表」P176)
* 1974年(M7)9月25日、仙台市国分町2丁目(戦後の瀬戸勝パーキングの場所)に仙台電信分局(3階建、ペンキ塗り、西洋式構造)を設置(「仙台年表」P147)
* 1893年(M26)10月、仙台郵便電信局を設置 / 宮城・福島・山形を管轄(「仙台あのころこのころ八十八年」P239)
<電信線>
* 1874年(M7)9月15日、仙台・東京間に「電信線」架設(「仙台市史 年表」P80)
* 1874年(M7)12月15日、仙台・一関間に電信線架設(「仙台市史 年表」P81)
* 1892年(M25)、宮城より山形県まで電信を架設(「仙台年表」P167、「宮城町史」)
<以下は、「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」より>
* 1874年(M7)9月25日、仙台の「電信局」、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通し、公衆電報の取り扱い開始
(S40年、この地に、「仙台電信局創立記念の碑」建立)
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(<編者注>明治36年に移転)
* 1947年(S22)、また電信局に分離し、東二番丁の青葉通り角へ移る(<編者注>昭和24年に、仙台電報局に名称変更)
* 1963年(S38)、東二番丁の逓信病院の隣へ新庁舎を建設、6月22日に移転と同時に「中央電報局」に昇格
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P243、P623/「仙台市史 年表」P80、P81、P123/「仙台市史10 年表」P176、P147/「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580/「仙台あのころこのころ八十八年」P239
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77-18、77-22に電信用の柱が写る
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発電事業 |
電力の国家統制(日本発送電/東北配電) |
1939年(S14)/1942年(S17) |
戦時体制の下、電力は国家管理となる
<日本発送電>
* 1939年(S14)、日本発送電株式会社設立(国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、東京電燈・日本電力など全国の電力会社の現物出資や合併によって設立された半官半民の特殊会社) / これにより、東北地方は仙台にある日本発送電(株)東北支店の所管となる
<昭和17年、東北地方は東北配電に一本化>
* 1941年(S16)8月30日、配電統制令が公布、即日施行
・ 全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を含めて全て解散
・ 1942年(S17)には全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この9配電事業体制の下で日本発送電と連携した配電事業が行われた
・ 東北送電(株)は解散し県営の3発電所とともに日本発送電に強制移管される → 仙台市電事業を除き、仙台市営と宮城県営のすべての施設が「東北配電」に移行
・ 仙台では当時、長町・原町周辺を中心に工場が増え始め、特に軍需関係産業には優先的に電力とガスの供給が行なわれた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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国鉄(東北本線) 4 |
電化 |
1961年(S36)/1965年(S40)/1968年(S43) |
* 1956年(S32)8月3日、上野~仙台間の電化起工式
* 1958年(S33)4月14日、上野~宇都宮間の電化完成
* 1961年(S36)3月1日、上野~仙台間の電化完成(S31年8月起工)
(菅家年表では、1961年(S36)5月1日東京~仙台間電化され特急電車が走る)
* 1965年(S40)10月1日、仙台~盛岡間の電化完成
* 1967年(S42)10月1日、東北本線、岩沼~福島駅間が複線電化して開通 / 同日に、東北本線特急の東京駅乗り入れも実現
* 1968年(S43)10月1日、青森まで東北本線全線電化完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P582、P588、P599、P621、P635、P643/「仙台市史 年表」P121、P124/「仙台駅前商店街振興組合の歩み」(年表)/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P55、P62
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空襲(宮城県内) |
霞目陸軍飛行場を爆撃 / 米軍機、蔵王山中に墜落 |
1945年(S20)3月10日~11日 |
<霞目陸軍飛行場(仙台)>
* 1945年(S20)3月10日夜、米軍機が霞目陸軍飛行場(仙台)と太白区四郎丸地区を爆撃、ほとんど被害なし / 霞目には仙台少年飛行学校があり、油脂焼夷弾1371発投下、うち248発は不発弾、西風が強く、焼夷弾は目標を外れて周辺の田んぼに落ち燃え上がる
・ この夜(3月10日)、東北地方では、いわき市、盛岡市、青森県上北郡もB29が空襲 / いわき市で16人、盛岡市で4人死亡
<米軍機、蔵王山中に墜落>
・ この夜(S20年3月10日)、吹雪の蔵王連峰不忘岳に3機の米軍B29が間をおいて激突、34人の乗員全員が死亡 / 時刻は、午後9時50分ころ、その1時間後、翌11日午前2時頃 / 翌日、地元七が宿村横川集落の警防団十数人が吹雪と積雪1mのなか現場へ向かい墜落した1機と死亡した搭乗員を発見
・ 1945年(S20)5月、仙台の藤崎百貨店で、不忘岳に墜落した機内から回収した救命具、携行食品などを展示
・ 1961年(S36)9月、登山グループ「不忘会」が呼びかけ、地元婦人会、キリスト協会、仏教会、航空自衛隊などが協力し、現地にB29搭乗員の慰霊碑「不忘の碑」を建立
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P191~192
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銀行(地域の銀行) |
青和銀行/みちのく銀行 |
1974年(S49)/1976年(S51) |
* 1974年(S49)12月9日、青和銀行仙台支店開店
* 1976年(S51)10月、みちのく銀行と改称
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「続・ 宮城県郷土史年表」P35
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青年団 |
青年団結成 |
戦前、戦後 |
* 1908年(M41)~1909年(M42)、宮城県青年団体規定準則に基づき、宮城郡に52団体、名取郡に20団体の青年団が結成される
* 1939年(S14)、大日本青年団に改組
* 1941年(S16)、大日本青少年団に改組されるにつれ戦時色が強まる
* 1945年(S20)、戦時教育令によって、本土決戦に備える「大日本学徒隊」戦士とされた
<戦後>
* 1946年(S21)、仙台市男女青年団連合会発足(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
* 1947年(S22)2月11日、宮城県連合青年団結成(各郡市青年団加盟)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1950年(S25)、宮城県青年団解散と新青年団の再発足 / 数年間は参加人数も増え、共同学習、生活記録運動、体育・文化両面にわたる各種青年大会など多彩な運動が、経済復興や民主化の社会的な空気の中で、生き生きとした活動を生み出した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
* 1952年(S27)4月13日、宮城県連合青少年団発足(「重訂 宮城県郷土史年表」P555) / 「仙台市史10 年表」P328では、連合青年団
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P452/「仙台市史 年表」P94/「重訂 宮城県郷土史年表」P516、P555/「仙台市史10 年表」P328
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社会教育(戦後) |
青年学級/社会学級/老壮大学 |
昭和20年代、30年代 |
* 1949年(S24)、社会教育法制定
* 1950年(S25)、教育委員会発足
・ 戦後の社会教育の中心は、(1)青少年教育と(2)成人教育
(1)青少年教育
指導者講習(1940年代後半~1950年代前半)
青年学級活動
レクリエーション、スポーツ、学習活動
青年団活動活発化とともに広がる
1953年(S28)、青年学級振興法制定
1956年(S31)現在、市内に43学級
1961年(S36)現在、13学級
1967年(S42)、青年学級廃止し、青年教室に組み替え
拡大発展はあまりなかった
(2)成人教育
各学校に、PTA会員父兄対象に社会学級
1950年(S25)、16学級発足
1951年(S26)、45学級発足
1961年(S36)には小学校に38学級、中学校に10学級
成人学校 1959年(S34)開始(技能科目、教養科目)
生活学校(主に婦人対象の技能習得、夜間休日開講)
家庭教育学級 1964年(S39)発足、翌年社会学級に統合
(3)高齢者対象
1962年(S37)、老壮大学開設(65歳以上)
1966年(S41)、修了者が自主的に明治青年大学結成
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P284~285、P452
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P452(仙台市の青年学級・青年教室数の推移
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年中行事(まつり) |
青葉まつり |
1956年(S31)~ |
→ 項目「青葉まつり」参照
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映画館(戦後) |
青葉劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)10月8日、東七番丁に開設(9~10日は、戦災市民無料招待)
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「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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鳥獣特別保護区 |
青葉山 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)9月3日、仙台市青葉山がチョウゲンボウ営巣地鳥獣特別保護区に指定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P150
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幹線道路 |
青葉通り |
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→ 項目「青葉通り」参照
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丸光 |
青葉通りへ進出(本館) |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月、青葉通りに新館落成 / 百貨店として営業開始(地下1階、地上3階建て)
* 1956年(S28)12月11日、この日から丸光屋上よりミュージックサイレン(荒城の月)を市内に放送開始(34年間続く)
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P570/わが心の仙台駅前史」P40
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧事情悪化で米配給減 |
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☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
☆ 戦中戦後の「深刻な食糧難」については、【「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248】に記述あり
・ 戦後、米は大人1日2合3勺配給予定だったが、遅配欠配でヤミに頼らざるを得ず / 仙台では米配給が2週間も遅れ、コメの代わりにトウモロコシや砂糖だったこともあった / 食糧難は戦後の方がひどかった
<主食配給減や欠配>
* 1946年(S21)5月中旬、宮城県でも主食配給量を2.1合→1.8合に減量/しかし、欠配日数が増加し栄養失調者が続出、職場では欠勤者増加の一方だった
<米よこせメーデー>
* 食糧メーデー、東京で5月19日
* 食糧メーデー、仙台では5月31日/木町、榴ヶ岡、南材木町、東北学院専門部の4カ所に、革新政党、労働組合など18団体代表や市民が参加、空腹をこらえて、“米よこせ”と気勢をあげた
<色の黒い代用食パン>
* 1946年(S21)6月半ばから、危機突破用として、代替パンを月に1人当たり1~3個づつ主食がわりに配給/小麦粉5割、こぬか2.5割、雑粉2.5割で、少し塩味がつけてあり、1個(36匁)36銭、色の黒い丸形のパンだった
<主婦たちが嘆願書>
アメリカの放出物資も続いたが深刻さ解消にはならず、市内連坊地区の七つの公会の主婦たち代表8人が県庁に押しかけ嘆願書を千葉三郎知事に提出
「手持ち金はなくなりタンスの中もカラになりました。児童の犯罪が増え体力が低下してきました。ヤミ商人が増え買出し時間や燃料・調理時間の空費で教育ができません。思想の悪化で家庭の円満さえ懸念されます。以上のように私たちは、不安と暗黒の中に追われています。これはただただ主食の不足によるものです。なにとぞ主食配給の即時実施をお願いします・・・・」
<昭和22年正月の配給>
「もち米1人7合、清酒1世帯5合、ビール1世帯1本、サッカリン各家庭1個、かずのこ見込みなし・・・」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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「新・目で見る仙台の歴史」P174(食糧難で労働者の提灯デモ)/同P170(食糧難で食物支給される人たち)/同P172(中田町の青年団、食糧難に市民に野菜類を贈る)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧危機で転入抑制 |
1946年(S21)3月~11月 |
<仙台への転入者急増>
・ 市の人口、1946年(S21)4月末で25万3655人に対し、5月中の転入者が5699人/疎開先からの復帰のほか、東京・横浜など食糧事情の極度に悪い大都市からの“再疎開”も多かった
<都会地転入抑制緊急措置令を適用>
* 1946年(S21)3月~、東北地方ではただ1か所、仙台市内への転入抑制措置開始/復員・引揚者や復興工事労務者など特別な場合を除いて転入不可 / 9月末の解除予定が、食糧事情、住宅事情から11月末まで延期
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P69~70
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧買い出し |
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・ 欠配続きで、農村へ食糧買出しのため列車は連日超満員 / 仙鉄局が無蓋貨車を臨時運転し人を運ぶ
・ 子どもも買出しに動員されたため、県は国民学校、中学校に対し校長の自由裁量で午前授業だけで打ち切るよう通達
・ 郊外から物資を買い集めてきてさばくカツギ屋とよばれる人々もあらわれた。
・ 衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
・ 1953年(S28)10月、凶作によりヤミ米横行、菓子工場、旅館など一斉取締り(「仙台あのころこのころ八十八年」P252)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72/「仙台あのころこのころ八十八年」P252
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「仙台市史 続編第1巻」P72の写真(満員の買出し列車)/「新・目で見る仙台の歴史」P173(仙山線ホームのカツギ屋の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P104(仙台駅で押収されたヤミ米の山)/同105(列車で買出しに行く「カツギ屋」たち)
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宮城県庁舎 |
養賢堂を使用 |
1871年(M4) |
養賢堂は、北一番丁・勾当台通りの一角にあった仙台藩の学問所
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)年1月8日、仙台県を宮城県と改称により、宮城県庁舎となる
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-053/「新・目で見る仙台の歴史」P121(高橋由一画)
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