項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
市民福祉会館 |
荒町 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)4月、荒町にオープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P19
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NHK東北児童唱歌コンクール |
荒町国民学校が優勝 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月10日、東北6県から国民学校代表12校参加、第1位に荒町国民学校、第2位に宮城師範女子部付属国民学校 / 「このころ二部授業や青空教室で不自由な思いをしていた児童や父兄の憂鬱を吹き飛ばした」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
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自動車など各種車両台数 |
荷馬車、牛車、荷車(仙台市) |
1935年(S10)頃 |
* 仙台の車(昭和10年頃)
荷馬車826台、牛車24台、荷車2299台
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「仙台の産業と観光」P27
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<荷馬車> 20-08、18-21、22-46、22-03、44-35
<牛車> 09-06
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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文学碑など(仙台) |
菊地養之輔の歌碑 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)9月、西公園の公会堂西南隣に建設 / 「新しき世界のために靴の紐、結ぶしもべと我をならしめ」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192~193
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仏舎利塔 |
落慶 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)5月21日、荒巻国見台で仏舎利塔落慶
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「続・ 宮城県郷土史年表」P29
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仙台市民会館 |
落成 |
1973年(S48) |
* 1972年(S47)1月27日、起工式(西公園、戦後の仙台市公会堂跡地に)
1973年(S48)11月3日、落成式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P24/「仙台市史 年表」P129/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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日本生命館 |
落成 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)
* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った
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渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209
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戦前は、53-91/戦後は、63-04、18-14、36-08
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宮城県社会福祉事業会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月27日、落成式(外記丁北一番丁角)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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宮城県町村会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月26日、落成式(県庁構内外記丁側)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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県営宮城野原硬式庭球場 |
落成式 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)10月21日、落成式
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「仙台市史 年表」P118
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宮城の塔(沖縄) |
落成式 |
1968年(S43) |
<「公益財団法人沖縄県平和祈念財団」HP(2020年10月現在)」より抜粋>
《合祀戦没者》 今次大戦において海外で戦没した宮城県出身の勇士45,500余柱の霊をこの塔にお祀りしたものであります。なお、沖縄方面で戦没した宮城県出身者は582名であります。
《塔の由来》 碑文の建立に当たっては、戦没者の故郷宮城県阿武隅川のほとりから 石を選び、「宮城之塔」と名付けて石へ刻み、戦没者の追悼の誠を捧げるに、世界の恒久平和を祈念したものである。
《塔の位置》 東経127度北緯25度沖縄本島最南端糸満市摩文仁の丘、太平洋に面し、塔の向きは南南東に向いている。
* 1967年(S42)9月11日、沖縄に「宮城の塔」建設決定
* 1968年(S43)2月20日、「宮城の塔」完成し、現地で落成式
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「公益財団法人沖縄県平和祈念財団」HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P634、P638
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「市民の戦後史(仙台市)」P210
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宮城控訴院(赤タイル庁舎) |
落成/解体 |
1924年(T13)/1975年(S50) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
* 1879年(M12)、宮城上等裁判所(宮城控訴院の前身)の庁舎(ルネッサンス式、漆喰塗)が片平丁に完成 / 宮城控訴院は、発足時(M19年)にその庁舎を引き継ぐ
<赤タイル張り庁舎落成>
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<同庁舎、解体>
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・宮城県郷土史年表」P44)
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02,、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
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仙台市公会堂(戦後) |
落成~取壊し |
1950年(S25)~1971年(S46) |
・ 戦後、音楽、演劇、集会など仙台市民の文化活動はこの公会堂を中心に展開され、各種の文化団体が育っていった
・ 大ホールは1300席、集会室、展示場などもあり、結婚式にも利用された
* 1946年(S21)10月、西公園緑地内(元常盤町)に建設(収容1500人)(「重訂 宮城県郷土史年表」P514)→<編者注>計画ということか?
* 1949年(S24)11月、着工(「仙台市史10 年表」P322)
* 1950年(S25)12月17日、元常盤町(西公園内)に完成、落成式(大ホール2000人収容、展示室、集会室) / 鉄筋鉄骨コンクリート2階建て、913坪 / 仙台市公民館が同公会堂内に移転
・こけら落としは、仙台市能楽協会が寄付した組み立て式能舞台を使って、仙台藩の流派であった喜多流家元一行による演能で、喜多六平太が「羽衣」を舞った
* 1951年(S26)春、アメリカのピアニスト・メニューヒンが外国人演奏家として戦後最初に来仙し演奏
* 1956年(S31)2月2日、ウィーン少年合唱団公演
* 1957年(S32)11月21日、ベルリン交響楽団公演
* 1971年(S46)、取壊し
* 1973年(S48)、跡地に仙台市民会館完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P514、P546/「仙台市史10 年表」P322、P324/「目で見る復興 まちの今昔」P57/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P202/「目で見る仙台の歴史」P184
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18-07-01、18-07-02/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P274の写真87/「目で見る仙台の歴史」P184(公会堂と、公演したウイーン少年合唱団、ベルリン交響楽団)/「市民の戦後史(仙台市)」P68(公会堂)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(公会堂)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P267
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霞目飛行場(仙台飛行場) |
落成~終戦 |
1933年(S8)~ |
<戦前は、軍用→逓信省→軍用>
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し、7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)3月27日、仙台飛行場落成式(「仙台市史10 年表」P280、「仙台市史 年表」P107)
* 1937年(S12)4月1日、東京・札幌間(仙台、青森経由)で定期航空路開設(「仙台市史 年表」P109、「仙台年表」P207=出典:毎日新聞、「仙台あのころこのころ八十八年」P247) / 日本航空輸送のフォッカー・スーパーユノバーサル機(旅客6人乗り)が発着した。 冬季は休便を強いられ効率が悪い上、中国との開戦が影響して、1938年(S13)に休止(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1938年(S13)9月10日、航空局仙台乗員養成所、落成開所式(「仙台市史10 年表」P294、重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 太平洋戦争開戦とともに陸軍が仙台飛行場の拡張と整備を重ね、航空機乗員養成所、軍用機操縦訓練施設として使用。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
*******************************
「宮城県百科辞典」P188の「霞ノ目飛行場」
* 1933年(S8)、軍の飛行場として完成
* 1938年(S13)、逓信省臨時航空機乗員養成所
* 1944年(S19)、陸軍航空部隊が使用
「仙台年表」P203(出典:河北新報26.10.1)
<編者注:以下の内容は多分間違いか?>
* 1932年(S7)、逓信省航空乗員養成所として、七郷村霞目飛行場開設
*********************************************
<松島の海軍飛行場>(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
このほか、戦前の軍用飛行場に「松島海軍航空隊」の飛行場があった。
* 1942年(S17)5月、3本の滑走路完成(S16年12月に矢本の国有林300haと65名の田畑買収) 戦闘、補給、管理の3部隊約1000人を配置。一式陸上攻撃機20~30機、爆撃機銀河約50機、夜間戦闘機月光5~6機の一大航空基地
* 敗戦後は米軍(第11空挺師団188連隊)が進駐、隣接地も接収し拡張
* 講和条約締結後返還され、航空自衛隊の基地(ブルーインパルスも所属)
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「仙台市史10 年表」P280、P294/「仙台年表」P203、P207/「仙台市史 年表」P107、P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「宮城県百科事典」P188/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155、P156
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戦前は、「目で見る仙台の歴史」P161/02-01、02-02
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霊園/墓園 |
葛岡墓園(葛岡墓地公園) |
1969年(S44) |
新寺小路地区の都市改造事業(区画整理)による移転墓地 / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始
* 1969年(S44)3月、第一期工事分(約38.2ha)がほぼ完成し一部墓碑の移転開始
* 1972年(S47)、仙台市葛岡斎場が開場
* 1978年(S53)4月、仙台市葛岡墓園が一般に開放
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P386、P744/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127/「仙台市史 年表」P123/Wikipedia「仙台市葛岡墓園」/「続・ 宮城県郷土史年表」P80
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「市民の戦後史(仙台市)」P211(造成すすむ葛岡墓地公園)
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国定公園 |
蔵王国定公園 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)8月8日、蔵王連峰を国定公園に指定(宮城県、山形県にまたがる)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P609
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陸奥国分寺跡 |
薬師堂、国重要文化財に指定 |
1903年(M36) |
【宮城県HPの「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。
大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。」
【公益財団法人仙台観光国際協会仙台観光情報サイト「陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗公の命により再建された陸奥国分寺の金堂です。慶長12(1607)年落慶した現存する仙台最古の木造建築物の一つで、国指定重要文化財です。本尊薬師如来に因み薬師堂と通称されています。 天平年間に聖武天皇の勅願に基づいて建立された金光明四天王護國之寺のうち最北に位置する奥州鎮護の根本道場です。」
* 1607年(慶長12年)、国分寺薬師堂の再興造営なる
* 1903年(M36)4月15日、薬師堂、国の重要文化財に指定(文化庁、文化財データベース)/ 桃山時代の堂宇、白木造り / 明治36年以来国宝(史跡)に指定されていたが、戦後文化財保護法により改めて、重要文化財に指定(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216)
* 発掘調査(S30~33年、毎年8月に発掘)
<参考資料>
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216(薬師堂の堂宇の特徴など)、P223~224(国分寺跡の概要説明、発掘踏査など)
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宮城県公式HP「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」/「仙台市史年表」P25/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216、P223~224/「目で見る仙台の歴史」P195
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216の写真63(薬師堂)/同P223(発掘調査)/「目で見る仙台の歴史」P19(国分寺跡、金堂跡)/同P190(薬師堂ごまたき)/同P195(国分寺跡発掘調査)/同P38~39(薬師堂の社殿、厨子、護摩壇」、仁王門)/「市民の戦後史(仙台市)」P83(国分寺跡一帯空撮、出土した瓦、発掘現場)/「市民の戦後史(仙台市)」P225(2月13日の薬師堂ごま焚き)
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藤崎(戦後期) |
藤崎シルバーマート 開店 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)12月、「シルバーマート」(藤崎名店街、のれん街)を新築オープン(木造2階建て、銀色の外観)
場所は、仙台空襲で焼失した北売場跡地(東一番丁・大町交差点の北西角)
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「藤崎170年のあゆみ」P204
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「藤崎170年のあゆみ」P204に写真あり
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文学碑など(仙台) |
藤村の詩碑 |
1936年(S11)/1965年(S40) |
* 1936年(S11)、八木山の一角に建立 / 戦後荒廃し、碑が雑草と雑木林に埋もれる
* 1965年(S40)10月、八木山動物公園開園に伴い敷地内に入り、自由に参観出来ないため、天守台跡に移転
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190~191
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「新・目で見る仙台の歴史」P151(八木山の詩碑を見る藤村夫妻)/「目で見る仙台の歴史」P167
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博覧会・フェア |
藩祖三百年祭記念産業観光博覧会 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月12日、藩祖三百年祭記念産業観光博覧会
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「仙台市史10 年表」P285
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藩祖政宗公の記念祭 |
藩祖政宗公三百年祭 |
1935年(S10) |
→ 項目「藩祖政宗公三百年祭」参照
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金属回収 |
街灯 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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戦時衣料 |
衣料品購入価格高騰 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
<公定価格>
・ 1937年(S12)→1945年(S20)7月に、2倍近くに
<ヤミ価格>
・ 晒(さらし)木綿は、S18年12月に公定価格の6倍、S20年7月には更に8.5倍に(衣料切符を持っていても品不足で買えず、ヤミ市場では高値で購入困難)
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「仙台市史 特別編5 市民生活」P54
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住宅団地 |
袋原団地 |
1958年(S33) |
* 1958年(S33)、市営住宅袋原団地(294戸)、3か年に亘り建設
* 1966年(S41)、建設(第二次、338戸)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P590、P629
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チリ地震津波 |
被害 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)5月24日、三陸沿岸に来襲し、大船渡市、志津川町、女川町などに大被害(三陸一帯で死者119人、流失家屋1,571)
・ 仙台市は被害なし(「仙台市史 続編第2巻」P288)
* NHKテレビ、七ヶ浜村、花渕浜から中継 / 特別番組を6月1日まで実施 / NHKたすけあい、医療巡回実施
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「重訂 宮城県郷土史年表」P596/[NHK仙台放送局60年のあゆみ」P35/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P288
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仙台空襲 |
被害状況 / 死因 |
1945年(S20) |
<被害状況>
・焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う
・死者・負傷者はいまもって確定せず、最新(2020年現在)のデータでは、死者1399人、負傷者1683人
<死因> (1980年、岩倉政城医師による調査)
仙台北署に出された死亡届のうち、医師が死亡原因を記載した599人について、医師や看護婦、入院患者から聞き取り調査
・焼死303人、やけどによる死亡103人(火傷3~4の重傷者が多く、中には肌が黒褐色に炭化した人も)、焼夷弾直撃74人、防空壕内の炭酸ガス中毒死60人、やけどと破傷風併発5人、やけどと敗血症併発2人、やけどと細菌感染2人、溺死12人(大半は、飛び込んだ井戸内から出られずに)
<病院では>
・東北帝大附属病院
当夜は11の診療科で5~6人の当直医師が勤務 / 回復見込みのない患者は内科へ、やけどのひどい人は外科へ、早急に手術が必要な人は手術室へ振り分け / 手術した人の大部分は手足の複雑骨折で、消毒液がなく、井戸水をバケツリレーし、患部の泥を流しながら20数人を手術
・仙台逓信病院
ほとんどがやけどの人でその夜のうちに10人ほどが死亡 / 薬品も包帯も不足で、数日たつと患者の腐敗臭が部屋に充満した
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220~222
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仙台空襲 |
被災した区域/身元不明遺体/甘かった認識 |
1945年(S20) |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
・ 全焼は13公会の区域(東一番丁、東二・三番丁、元寺小路、新伝馬町、多門通、東二・四番丁、二日町、大町、国分町、立町、肴町、本櫓丁、北目町)
・ 半焼は37公会の区域(勾当台通、外記丁通、杉山通、上杉山通、光禅寺通、錦町、東六番丁、小田原中部、宮城野橋西部、新屋敷、八塚、二十人町、南町、元柳町、清水小路、土樋、田町、米ケ袋、花壇・枇杷首、霊屋下、向山東部、向山西部、鹿野、西多賀、川内、荒巻、八幡町、伊勢堂、春日、北六番丁中部、支倉、土橋、本材木町、木町通中部、木町通南部、北鍛冶町、北堤通)
『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より
・ 「9月28日現在身元不明とされた遺体は、その埋葬にあたった半子町の寿徳寺、北山火葬場と大願寺、新寺小路の松音寺の3か所で213体(一時仮に土葬されたが、身元判明し引き取られた遺体を除く) / なかには発掘したものの、ほかの遺体との区別が判然とせず、やむなく埋葬した土を持ち帰る遺族もあった / 医療も埋葬も人手や資材の不足に悩まされ、人間としての満足な処遇を与えられなかったのである」
・ 甘かった認識「『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵(むしろ)をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319
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<仙台空襲焼失区域図> 98-092(「仙台市史 特別編4 市民生活」319の図320をスキャン)/98-147(「仙台市史 第二巻本編2」P680~681掲載の第24図「戦災焼失地域図」をスキャン)
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仙台空襲 |
被災者への援助 / 避難先 |
1945年(S20) |
<被災者への援助、避難先>
・ 家を焼け出された約5万人
・ 仙台圏の多くの町村から非常食や善意の炊き出しを受ける / 避難所は、被災を免れた国民学校や一部焼失した国民学校の講堂 / その後、多くは親類縁者宅に避難 / 仙台市では、追廻練兵場跡に2年間で1876戸の簡易住宅を建設し、空襲被災者や海外からの引揚者に提供された
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
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仙台市天文台 |
西公園に開台 |
1955年(S30)/2008年(H20) |
* 1954年(S29)12月23日、桜ケ岡公園に建築完成(41cm反射望遠鏡、当時全国4番目の大きさ) / 国分町の板垣金造氏が望遠鏡製作費100万円を寄付
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に)
* 1956年(S31)11月18日、仙台市天文台として観覧業務を開始
* 1968年(S43)5月15日、東北初のプラネタリウム館(250席)が併設される / S42年東北大博覧会(会場:苦竹)で展示された東北初のプラネタリウムを終了後、主催者河北新報社が市に寄付、市が西公園に移設
<観測機器>
41cm反射望遠鏡、運転時計付赤道儀架台に10cm屈折望遠鏡、20cm天体写真儀、20cm反射移動用望遠鏡、人工衛星望遠鏡など
<業務>
・ 学校教育:プラネタリウム学習や天文台実習(市内中学3年生全員、希望する小・高校対象)、課外クラブ利用、教員対象講習、東北各県に講師派遣、資料提供
・ 社会教育:市民、修学旅行団体の有料観覧、夜間天体観察、夏期には町内会・子供会など対象にに移動天文教室
・ 研究観測:人工衛星観測所として国際登録、彗星位置、太陽観測、変光星観測など世界の天文台に速報
<年間利用数 1968年度(S43)>
・ 一般観覧(有料) 2万6161人(半数が団体利用)
・ 市内学校教育利用(無料) 1万3781人
* 1974年(S49)1月10日、新型プラネタリウムを導入
* 1975年(S50)8月、仙台市天文台愛子観測所開設
* 2001年(H13)12月9日、来場者300万人を達成
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了、閉館(H20年に、錦が丘の新天文台開館)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P195、P441~444/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P632、P640、P650/「仙台あのころこのころ八十八年」P252/「仙台年表」P232/「仙台市史 年表」P119、P125、P129、P130/Wikipedia「仙台市天文台」/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「仙台市天文台」HP
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「目で見る仙台の歴史」P185(西公園内の天文台、望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P78(外観、41センチ反射望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P208(プラネタリウム)/「新・目で見る仙台の歴史」P180(41センチ反射望遠鏡)/同P193(天文台内の星のジオラマ)
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仙台市民図書館 |
西公園に開館/仙台メディアテーク内に移転 |
1962年(S37)/2001年(H13) |
<西公園内>
* 1962年(S37)10月27日、西公園内に開館
* 1966年(S41)3月、移動図書館車「ひろせ」の運行開始(仙台市史 年表) / 図書館から遠隔地域の新市域を巡回(1支所平均3駐車場を選定)
* 1966年(S41)2月25日、ブックモービル「ひろせ号」、巡回図書の貸し出しに初出動(重訂 宮城県郷土史年表)
<分室設置>
* 1978年(S53)8月24日、図書館分室を東北電力ビル内に設置
<仙台メディアテーク内へ>
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転開館
<参考>「仙台市図書館」は、仙台市立の7つの図書館の総称、「仙台市民図書館」は、仙台市青葉区春日町2-1(メディアテーク)にある中央図書館の名称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P447~449/「仙台市史 年表」P122、P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P606、P624 /「続・ 宮城県郷土史年表」P84/Wikipedia「仙台市図書館」(2020年3月)
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「市民の戦後史(仙台市)」P140(市民図書館外観、閲覧室、よい子の図書室)/「市民の戦後史(仙台市)」P187(移動図書館車「ひろせ号」に群がる子ら)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(閲覧室、移動図書館車「ひろせ号」、カラー)
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医療機関 |
西多賀病院 |
1934年(S9)/1947年(S22) |
<前身>
* 1934年(S9)10月、仙台市が結核専門診療所、仙台市立西多賀病院を設置
* 1943年(S18)4月、日本医療団に統合され、日本医療団西多賀病院となる
<国立へ>
* 1947年(S22)4月、厚生省に移管、国立西多賀病院となる * 1954年(S29)、新病棟完成 / その後、玉浦療養所を統合
結核患者の減少と共に、カリエス、心身障碍児収容施設へ
* 1957年(S32)4月、玉浦診療所内にベッドスクール開設
* 1967年(S42)3月、重症心身障碍児収容
* 1968年(S43)1月、進行性筋萎縮症患者収容
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P396/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P729~730
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P730に、西多賀ベッドスクールの卒業式写真/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年3月、西多賀ベッドスクール誕生)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P396(西多賀療養所療養所兼教室)
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藤崎(戦前期) |
西館 開店 |
1932年(S7) |
S8年の三越進出(東一番丁)を視野に、先手をうって本館横に西館を建設
* 1932年(S7)4月5日、地鎮祭
* 1932年(S7)11月3日、「西館」開店
・ オープン後は西館が藤崎の主力店舗となった
・ 東一番丁・大町交差点(南東角)で、T8年建設の洋風木造本館の西に隣接、それ以前この場所には土蔵造り瓦葺平屋店舗(M30年建設)があった
・ 鉄筋コンクリート造地下1階地上3階、一部4階建、ルネッサンス式総タイル張り、一部4階建て、のべ614坪
・ 大食堂(3階)、催事場(2階)、屋上には遊園地、エレベーターを設置
新設されたエレベーターと、それを操縦するエレベーターボーイ(紺の詰襟服、金ボタンに赤線の入ったズボン姿)が人気を博した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P39)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で建物は焼け残る
* 1945年(S20)8月3日、空襲後の営業再開
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「藤崎」の店舗の変遷(増改築)は「藤崎170年のあゆみ」P196~209の年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P39、P40/「仙台市史 年表」P113
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20-37、20-38、18-22、98-016、64-03、53-33、53-46、22-27、98-019、20-23、53-100、20-26、20-31、72-02
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藤崎(戦後期) |
西館増築し一部5階建に |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月15日、「西館」を増改築し一部5階建てに(第二次増築工事完成) / 仙台で初めてのエスカレーターを新設
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「藤崎170年のあゆみ」P256
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新寺小路地区都市改造事業(区画整理) |
計画公示~完了 |
1960年(S35)
~2000年(H12) |
<「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」(昭和44年9月発行)P388より>
「新寺小路地区第一工区土地区画整理事業=寺院と墓地によって相当部分が占められており、仙台駅に隣接してしているにもかかわらず市街地としての環境整備が遅れているので、市中心部と東部地区を連絡する都市計画街路を築造し、駅前広場(東口)を拡張して交通の円滑化を図るとともに、区画街路、公園などを設置、墓地を整理して総合的に近代市街地化する。このため墓地は別途事業で造成中の葛岡墓園に移転改葬し跡地は宅地として利用する計画。事業認可面積は約60.3haで、昭和35年から5か年計画で着工したが、墓地の所有権をめぐる訴訟事件などのため事業は進まなかったが、同地区の10カ寺との話し合いがつき、昭和44年一部墓地の移転が開始されたので、清水小路多賀城線の拡張工事は軌道に乗り始めた。」
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127>
「新寺小路の区画整理は、区域内約1100戸を交換分合するほか、約30カ寺の墓地を整理、3万基近い墓を葛岡墓地公園に移転。そして道幅を7.5mから25mに広げ、都心部と仙台バイパスを結ぶ最短路線にしようというもの。」
* 1960年(S35)6月、新寺小路地区都市改造事業計画公示(施行年度は、2000年度(H12)まで / 施行面積60.4ha)
* 1960年(S35)9月、新寺小路地区の33カ寺、墓地所有をめぐり市を相手に訴訟
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始(新寺小路地区の都市改造事業=区画整理による移転墓地) / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1965年(S40)1月、新寺小路墓地問題で11カ寺と市が和解
* 1969年(S44)3月、移転第1号として応瑞寺の墓碑50基を移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P388/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127、P744/「同書」末尾年表P871、P888/「仙台市史 年表」P123/「市民の戦後史(仙台市)」P110、P113
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「市民の戦後史(仙台市)」P211(葛岡墓地公園)
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大日本国防婦人会 |
設立 |
1934年(S9)12月 |
* 1934年(S9)12月13日、「大日本国防婦人会」設立
・ 満州事変勃発の翌年1932年(S7)3月18日に陸軍の後援で結成された大阪国防婦人会と、東京国防婦人会を母体として設立 / 満州事変、日中戦争、太平洋戦争期に「銃後」の戦争協力を担う(出征兵士の見送り、出征留守家族の支援、遺骨の出迎え、慰問袋調達と発送、防空演習など)
・ 活動時には、割烹着に(大日本国防婦人会○○分会と書かれた)たすきを掛けた
・ 全国に支部をもち、S16年(1941年)には会員は公称 1000万人に達した
・ 愛国婦人会は、上流の家庭婦人が会員、国防婦人会は庶民の主婦スタイルで地域女性を結集
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456
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愛の聖母院 |
設立 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)2月27日、愛の聖母園(少女の町)を、カナダ在住カトリック教徒の浄財により、小田原柳沢に創立
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540
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東二番丁尋常小学校 |
設立 |
1973年(M6) |
東二番丁小学校は、1973年(M6)7月設立
名称の変遷
「二番小学校」1973年(M6)7月~
「養賢小学校」1875年(M8)6月~
「東二番丁小学校」1879年(M12)1月
「東二番丁尋常高等小学校」1892年(M25)8月~
「東二番丁尋常小学校」1916年(T5)4月~
「東二番丁国民学校」1941年(S16)4月~
「東二番丁小学校」1947年(S22)4月~
[写真73-04]の校舎は
* 1886年(M19)、建設
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で焼失
その後の校舎は、
* 1948年(S23)3月、木造新校舎完成
* 1964年(S39)12月、鉄筋新校舎完成
* 1986年(S61)8月、校舎解体
* 1987年(S62)10月、新校舎完成(2018年現在の校舎)(Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」)
* 1987年(S62)12月22日、部屋境のない校舎完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P234)
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「仙台巷譚第56号」(平成5年発行)に、仙台の小学校の変遷記述あり/Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」(2018年現在)/「続・ 宮城県郷土史年表」P210、P234
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73-04、73-06/「いつか見た街・人・暮らし」P78(入学式、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120(明治19年建設の校舎玄関付近)/「新・目で見る仙台の歴史」P138(東二番丁小学校同窓会記念写真、髪に大きなリボンを飾った女児たち)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年完成校舎)
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ありのまま舎 |
設立 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)、任意団体「ありのまま舎」設立
* 1975年(S50)、映画「車椅子の青春」制作/第1回日本赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞
* 1982年(S57) 映画「続・車椅子の青春(忘れられた一日)」完成
* 1986年(S61)、社会福祉法人「ありのまま舎」設立
* 1987年(S62)、身体障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」開所(西多賀4丁目) / 4月5日、入居式
* 1989年(S64)、付帯施設「障害者自立センター」開所
* 1999年(H11)、第1回「ありのまま舎自立大賞」設立(以後毎年開催)
* 2013年(H25)、県南ありのまま舎、名取ありのまま舎(相談支援事業)開設
このほか、製作映画、出版、受賞など多数あり
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「社会福祉法人ありのまま舎」ホームページhttp://www.arinomama.or.jp/menu1_2.html
/「続・ 宮城県郷土史年表」P153、P221
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仙台市市民文化事業団 |
設立 |
1986年(S61)10月1日 |
* 1986年(S61)10月1日、財団法人仙台市市民文化事業団、設立
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「仙台市史 年表」P134
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仙台市農業協同組合 |
設立 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)3月31日、8つの農協が合併し設立
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「仙台市史 年表」P124
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馬市 |
設立認可 |
1873年(M6)9月 |
1873年(M6)9月、国分町・新河原町・宮町に馬市設立が許可される
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「仙台市史 年表」P80
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仙台商業会議所/仙台商工会議所/宮城県商工経済会/仙台商工会議所再発足 |
設立/改称/改称/再発足 |
1891年(M24)/1928年(S3)/1943年(S18)/1947年(S22) |
<仙台商業会議所>
* 1891年(M24)6月、仙台商業会議所設立
* 1924年(T13)、東二番丁に仙台商業会議所、竣工(鉄筋コンクリート2階建)
<仙台商工会議所>
* 1928年(S3)1月、仙台商業会議所を仙台商工会議所に名称変更
<宮城県商工経済会>
* 1943年(S18)9月28日、仙台商工会議所を改組(解散)し、宮城県商工経済会と改称(結成)(10月1日、開所式)
・ 自由商工人の自治活動であった商工会議所は、商工経済会という政府機関として、地域の中小事業者の転廃業の事務機関の役割を果たし、役員も天下りで決められて従来の商工人はしりぞけられる傾向であった「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700)
<戦後・再び商工会議所へ>
* 1947年(S22)2月1日、仙台商工会議所と改称(再発足)
* 1956年(S31)5月、仙台商工会議所会館の改装新築
* 1979年(S54)9月、新館着工(10月12日、建て替えのため解体)
* 1980年(S55)12月19日、仙台商工会議所会館落成
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目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 年表」P87、P112/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P498、P515、P581/「仙台市史10 年表」P202、P306、P315/「続・ 宮城県郷土史年表」P101、P120/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700
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「新・目で見る仙台の歴史」P132(創立当時?の商業会議所)/同P144(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「目で見る仙台の歴史」P151(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「市民の戦後史(仙台市)」P34(大正13年竣工の仙台商業会議所)/53-50(戦後、改築前)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P726(戦後改築後の商工会議所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P441(S29年、仙台商工会議所)
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仙台市街自動車 |
設立~市が買収 |
1919年(T8)~1942年(S17) |
伊勢久治郎が設立、市民に「銀バス」の愛称で親しまれた
* 1919年(T8)7月16日、仙台市街自動車、創設(社長 伊勢久治郎、資本金20万円)
* 1919年(T8)11月10日、乗合自動車の営業開始、仙台停車場を起点に市内の南北、および市外は増田、閖上、深沼などまで走った
* 1930年(S5)7月、市内遊覧バスの運行を開始
* 1942年(S17)7月1日、33万円で仙台市に買収され、8月21日から「仙台市営バス」として営業開始
<参照>[写真98-149]は、昭和11年当時の「仙台市交通網図」で、当時のバス路線網も記載
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P86、P187(市電年表)/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P99、P105/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
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53-46、22-10、53-15、98-104、53-121/仙台市交通網図は、98-149/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(パンフレット「仙台遊覧自動車案内」)
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杜の都緑化基金 |
設置 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)4月1日仙台市が設置
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「仙台市史 年表」P134
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東北学院大学大学院 |
設置 |
1964年(S39) |
<大学院>
* 1964年(S39)、大学院文学研究科(修士課程)を設置
* 1965年(S40)、大学院経済学研究科(修士課程)設置
~ 以降、1971年(S46)~2015年(H27)の間に、大学院では以下の研究科が新設、改称されているが、設置年、改称年などは、「東北学院大学」HPの「大学のあゆみ」参照 ~
文学研究科(博士課程)、工学研究科(修士課程、博士課程)、経済学研究科(博士課程)、法学研究科(修士課程、博士課程)、工学研究科土木工学専攻(修士課程、博士課程)、人間情報学研究科人間情報学専攻(修士課程、博士課程)、文学研究科にヨーロッパ文化史専攻とアジア文化史専攻(修士課程、博士課程)、経済学研究科に経営学専攻(修士課程)、工学研究科電子工学専攻(修士課程、博士課程)、同土木工学専攻を同環境建設工学専攻に改称
* 1966年(S41)7月27日、大学院のヒマラヤ・ヒンズークシ登山隊、登頂成功(世界で2番目)
<法科大学院>
* 2004年(H16)大学院法務研究科法実務専攻(法科大学)を設置/H26,学生募集停止/H28年、法科大学院を廃止
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東北学院大学HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P627/
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公設浴場 |
設置 |
1921年(T10) |
* 1921年(T10)9月10日、宮城県が公設浴場を木町通に設置
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「仙台市史 年表」P100
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歩兵第4連隊 |
設置 |
1875年(M8)~1945年(S20) |
歩兵第4連隊は、明治初期から昭和20年敗戦まで、仙台榴ヶ岡に兵営をおいた歩兵部隊(当初は仙台鎮台、明治21年からは第二師団隷下)/ 毎年9月の軍旗祭では市民も兵営内に入ることができるなど、長い間地元に根付いた市民には馴染みの連隊だった
* 1974年(M7)9月11日、榴ケ岡の洋風兵舎竣工し、仙台城の第2大隊の兵移る
* 1875年(M8)5月27日、仙台鎮台に歩兵第4連隊を設置
* 1875年(M8)9月9日、宮中に於いて軍旗親授
明治・大正・昭和敗戦まで、海外出兵や国内出動多数
(→項目「第二師団(出兵記録)」参照)
* 1945年(S20)8月31日、軍旗奉焼
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「仙台市史 年表」P80、P81/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)『仙台部隊関連年表』
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98-085、99-150、98-087、06-23、16-58/「いつか見た街・人・暮らし」P3(第4連隊への入営スナップ、大正13年)/同P16(軍旗祭、大正13年9月9日)/同P19(第4連隊除隊の朝、大正13年)/同P47の写真167(第4連隊兵営空撮、戦前期)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P27(第4連隊除隊の朝、大正13年)
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青年訓練所 |
設置 |
1926年(T15)7月1日 |
<「日録20世紀 1926年」P42>
1925年(T14)に軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請/ 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P451>
1926年(T15)、文部省が管轄し、市町村に設置させた / 16歳~20歳までの男子の勤労青年に、修身・公民・職業・普通学科の教育と、主に在郷軍人による軍事教練を課すもので、兵卒の養成を目的にしたもの / これを終了すると兵隊になった時の在営期間が短縮された
***************************************
1926年(T15)4月1日、青年訓練所令及同規則公布 / 同年7月1日、青年訓練所を仙台市内12か所に設置
1931年(S6)7月5日、青年訓練所5周年記念一市三郡連合野外演習(宮城野原で)
1932年(S7)7月13日、青年訓練所連合演習
* 1935年(S10)4月、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる
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「日録20世紀 1926年」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P267、P276、P278/「番丁詳伝」P123
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宮城県第二総合運動場 |
設置 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月、宮城県第二総合運動場、宮城県武道館(4月25日落成、鉄筋5階建て)とともに根岸の宮城県農業学校跡地に設置
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P127
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