項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
歩兵第4連隊 |
設置 |
1875年(M8)~1945年(S20) |
歩兵第4連隊は、明治初期から昭和20年敗戦まで、仙台榴ヶ岡に兵営をおいた歩兵部隊(当初は仙台鎮台、明治21年からは第二師団隷下)/ 毎年9月の軍旗祭では市民も兵営内に入ることができるなど、長い間地元に根付いた市民には馴染みの連隊だった
* 1974年(M7)9月11日、榴ケ岡の洋風兵舎竣工し、仙台城の第2大隊の兵移る
* 1875年(M8)5月27日、仙台鎮台に歩兵第4連隊を設置
* 1875年(M8)9月9日、宮中に於いて軍旗親授
明治・大正・昭和敗戦まで、海外出兵や国内出動多数
(→項目「第二師団(出兵記録)」参照)
* 1945年(S20)8月31日、軍旗奉焼
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「仙台市史 年表」P80、P81/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)『仙台部隊関連年表』
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98-085、99-150、98-087、06-23、16-58/「いつか見た街・人・暮らし」P3(第4連隊への入営スナップ、大正13年)/同P16(軍旗祭、大正13年9月9日)/同P19(第4連隊除隊の朝、大正13年)/同P47の写真167(第4連隊兵営空撮、戦前期)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P27(第4連隊除隊の朝、大正13年)
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仙台の裁判所 |
宮城上等裁判所/宮城控訴裁判所/宮城控訴院/仙台高等裁判所 |
1875年(M8)/1881年(M14)/1886年(M19)/1947年(S22) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
<宮城上等裁判所>
* 1876年(M9)9月13日、大審院が「宮城上等裁判所」を仙台に設置
* 1879年(M12)、片平丁に、宮城上等裁判所建築(ルネッサンス式、漆喰塗) / <編者注> 出典の「新・目で見る仙台の歴史」P122キャプションには、仙台上等裁判所となっているが、「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表によれば、仙台上等裁判所と称した時代はなく、宮城上等裁判所が正しいと思われる
<宮城控訴裁判所/宮城控訴院>
* 1881年(M14)10月6日、「宮城控訴裁判所」に改称(ルネッサンス式2階建て)
* 1886年(M19)5月4日、「宮城控訴院」に改称
* 1904年(M37)11月15日、片平丁の宮城控訴院構内を焼失
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<仙台高等裁判所>
* 1947年(S22)5月3日、「仙台高等裁判所」設置(裁判所法、検察庁法成立 / それまでの宮城控訴院に付属していた検事局を分離し、仙台高等検察庁設置
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・ 宮城県郷土史年表」P44)
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎)(「続・ 宮城県郷土史年表」P74)
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P274、P331、P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
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師範学校 |
小学校教員伝習学校/仙台師範学校/県立宮城師範学校(県立)/宮城県尋常師範学校/宮城県師範学校/宮城師範学校(官立)/東北大学に |
1875年(M8)/1876年(M9)/1879年(M12)/1886年(M19)/1898年(M31)/1942年(S17)/ |
* 1875年(M8)3月22日、小学校教員伝習学校を宮城県が外記丁に設置
* 1876年(M9)3月3日、小学校教員伝習学校を仙台師範学校と改称
* 1877年(M10)8月、仙台師範学校が女子師範科を設置
* 1879年(M12)6月、前年に廃止された官立宮城師範学校の校舎(勾当台通)や機能を継承し、県立宮城師範学校と改称
* 1886年(M19)2月、制服が洋服に改められる
* 1886年(M19)8月28日、宮城県尋常師範学校と改称
* 1889年(M22)、北一番丁に校舎新築し移転
* 1898年(M31)年4月、宮城県師範学校と改称
* 1913年(T2)4月1日、宮城県師範学校から女子部が独立し、仙台市中島丁に開校
* 1942年(S17)4月1日、宮城県師範学校が宮城県女子師範学校を合併して官立の宮城師範学校となる
* 1949年(S24)5月31日、東北大学に包括(統合)
* 1950年(S25)4月1日、東北大学教育学部となる
* 1951年(S26)4月、宮城師範学校附属小学校、制度改正で、東北大学教育学部附属小学校となる(北七番丁校舎、中島丁校舎)
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「仙台市史 年表」P81、P85、P86、P90、P96、P112、P116/「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P549
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99-070(撮影は大正前半期)/「目で見る仙台の歴史」P121に、北一番丁の宮城県師範学校校舎
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桜ケ岡大神宮 |
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1875年(M8) |
* 1875年(M8)5月、元柳町の神明社が県社となり、桜岡大神宮と改称 / 桜ケ岡公園(西公園)内にある
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「仙台市史 年表」P81
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大橋(広瀬川) |
洪水で木橋が流失 |
1874年(M7)/1889年(M22) |
* 1874年(M7)7月20日、大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
* 1889年(M22)9月11日、暴風雨あり大洪水となり、大橋・澱橋・広瀬橋などが流失
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「仙台市史 年表」P81、P87/「仙台あのころこのころ八十八年」P238/「重訂 宮城県郷土史年表」P284
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水害 |
大雨 |
1874年(M7)7月20日 |
大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
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「仙台市史 年表」P81
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青葉神社 |
認可/本殿完成、鎮座祭 |
1874年(M7) |
* 1973年(M6)、藩祖政宗公の霊を敬うため旧家臣が中心になり願い出て、M7年1月認可、M7年6月25日に県社となる
* 1874年(M7)11月11日、本殿拝殿などが完成、11月16日に鎮座祭
* 1927年(S2)、社殿新築完成
* 1935年(S10)、政宗公三百年祭が盛大に行われた
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「青葉神社」HP/「宮城県百科事典」P5~6/「仙台市史 年表」P80、P81/「目で見る仙台の歴史」P166
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99-132、99-133/「目で見る仙台の歴史」P166/「いつか見た街・人・暮らし」P26(大正14年5月24日青葉神社祭典)/「目で見る仙台の歴史」P109と「新・目で見る仙台の歴史」P132に「明治15年の青葉神社大祭典神幸式之図」
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電信開始(仙台) |
電信局開設 |
1874年(M7) |
* 1872年(M5)、日本縦貫電信線の東京・青森線架設工事開始
<電信局>
* 1973年(M6)、仙台国分町に「電信局」を開設す / 東京との間に1本の電線を引き、また電柱は市内のみにて、郊外は樹木等を利用して架設す(「重訂 宮城県郷土史年表」P243、「仙台年表」P147)
* 1974年(M7)、仙台伝信局開設され、のち仙台電信局となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350)
* 1974年(M7)9月25日、仙台電信分局設置、業務開始(「仙台市史10 年表」P176)
* 1974年(M7)9月25日、仙台市国分町2丁目(戦後の瀬戸勝パーキングの場所)に仙台電信分局(3階建、ペンキ塗り、西洋式構造)を設置(「仙台年表」P147)
* 1893年(M26)10月、仙台郵便電信局を設置 / 宮城・福島・山形を管轄(「仙台あのころこのころ八十八年」P239)
<電信線>
* 1874年(M7)9月15日、仙台・東京間に「電信線」架設(「仙台市史 年表」P80)
* 1874年(M7)12月15日、仙台・一関間に電信線架設(「仙台市史 年表」P81)
* 1892年(M25)、宮城より山形県まで電信を架設(「仙台年表」P167、「宮城町史」)
<以下は、「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」より>
* 1874年(M7)9月25日、仙台の「電信局」、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通し、公衆電報の取り扱い開始
(S40年、この地に、「仙台電信局創立記念の碑」建立)
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(<編者注>明治36年に移転)
* 1947年(S22)、また電信局に分離し、東二番丁の青葉通り角へ移る(<編者注>昭和24年に、仙台電報局に名称変更)
* 1963年(S38)、東二番丁の逓信病院の隣へ新庁舎を建設、6月22日に移転と同時に「中央電報局」に昇格
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P243、P623/「仙台市史 年表」P80、P81、P123/「仙台市史10 年表」P176、P147/「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580/「仙台あのころこのころ八十八年」P239
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77-18、77-22に電信用の柱が写る
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馬市 |
設立認可 |
1873年(M6)9月 |
1873年(M6)9月、国分町・新河原町・宮町に馬市設立が許可される
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「仙台市史 年表」P80
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仙台市(名称変遷) |
名称の変遷(第一大区/仙台区/仙台市) |
1872年(M5)/1878年(M11)/1889年(M22) |
* 1872年(M5)4月、県下に区制が布かれて仙台城下一円が「第一大区」に
* 1878年(M11)7月、郡区町村編成法発布により「仙台区」
* 1889年(M22)4月1日、市制が施行され「仙台市」と改称(この時の範囲は、旧城下町のほぼ全域にあたり、面積17.27平方キロ、戸数1万6800戸、人口8万6352人)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P362
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郵便局 |
仙台郵便局 |
1872年(M5) |
* 1872年(M5)7月、仙台郵便取扱所を国分町に設置(「仙台市史 年表」P80)
* 1875年(M8)1月、仙台郵便局と改称し、南町に移転
* さらにその後大町に移り、1882年(M15)に再び南町に移転(以上、「重訂 宮城県郷土史年表」P240)
* 1890年(M23)、仙台郵便電信局として南町に新築移転
* 1899年(M32)以降は、仙台郵便局として、郵便・電信・電話・貯蓄・保険、および三県の管理を担当
* 1919年(T8)3月2日の南町大火で焼失
* 1919年(T8)5月12日、仙台郵便局、東一番丁に移転(「仙台市史10 年表」P252、「仙台市史 年表」P98)
* 1920年(T9)8月6日、仙台郵便局、再び南町に再建移転(「仙台市史 年表」P99)(建物は三角屋根が3つになった)
<戦災焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で郵便局、北隣の仙台電話局ともに焼失 / 郵便課は市内霊屋下の仙台逓信講習所に移転、電信課は東北学院専門部礼拝堂地下に移転し、業務続行(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)
<戦後>(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582)
* 1946年(S21)2月9日、郵便局から電信課が分離し、仙台電信局に昇格
* 1946年(S21)12月20日、郵便局は南町に庁舎(木造2階建)再建し移転
* 1949年(S24)6月、逓信省が郵政省と電気通信省に分離 / 仙台逓信局は、仙台郵政局と東北電気通信局に分かれる
* 1955年(S30)11月、仙台郵便局木造庁舎を建て替え、南町通りに新庁舎落成(地上4階地下1階)
* 1957年(S32)11月、仙台郵政局、新庁舎に移転(南町通5番地/鉄筋コンクリート地上6階地下1階)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P240/「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真キャプション/「仙台市史 年表」P80、P98、P99/「仙台市史10 年表」P252、P311/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582
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「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真/再建移転後は、53-95/「目で見る仙台の歴史」P177に、南町通りの仙台郵便局/同P193に、南町通りの仙台郵政局
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午砲 |
開始(大砲で) |
1871年(M4)~1929年(S4) |
* 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す / この日より虎ノ門に午砲を始む(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月から仙台城二の丸跡の東北鎮台(のちの第二師団)で毎日大砲を撃ち正午の時を報せた(市民は「ドン」とよんでいた)
* 1922年(T11)年8月15日から軍縮のため午砲が廃止され、輪王寺・本願寺・愛宕山の打鐘で正午を報せた
* 同年12月8日、午砲復活
* 1929年(S4)、廃止(2月1日から市役所からの電気サイレンにかわる)
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「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/仙台市史 年表」P79、P101、P104
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98-066の左上に「寅ノ門」/仙台市全図(大正元年 東洋造畫館)では、川内の旧仙台城寅ノ御門脇に「號砲所」の記載あり(午砲を撃った場所)
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養賢堂 |
講堂を県庁舎として使用 |
1871年(M4)~ |
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)1月8日、仙台県を宮城県と改称
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-051、98-052、53-54/地図が98-055
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東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団 |
設置/改称/改称 |
1871年(M4)/1973年(M6)/1888年(M21) |
* 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
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「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685からの「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86
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衛戍病院(陸軍病院) |
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1871年(M4)/1890年(M23)/1936年(S11) |
資料によって、改称年がことなっている
【「重訂 宮城県郷土史年表」P250】
* 1976年(M9)11月、仙台鎮台病院、仙台に創設
* 1981年(M14)3月、仙台陸軍病院と改称
* 1898年(M21)5月、仙台衛戍病院
* 1940年(S15)、仙台第一陸軍病院と改称
【Wikipedia「国立病院機構仙台医療センター」】
* 1871年(M4)、仙台鎮台病院設置(仙台城二の丸北西の亀岡御殿辺り)
* 1877年(M10)12月、外記丁の定禅寺跡地に移転
* 1890年(M23)、仙台衛戍病院に改称、のち、仙台陸軍病院に改称。
<衛戍病院 → 陸軍病院>
* 1936年(S11)、仙台陸軍病院に改称
(編者注) 東京などの衛戍病院は、昭和11年に陸軍病院に改称しているので、仙台衛戍病院も同時と思われる
* 1937年(S12)、日中戦争が始まった昭和12年、仙台第一陸軍病院と改称、負傷者が急増したので、宮城野原に臨時の分院が建てられました。それだけでは病院が足りず、現大崎市、川渡ホテルを譲りうけ、鳴子臨時病院を開設して対応しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P37~38)
* 1938年(S13)4月16日、朝香宮鳩彦殿下、仙台陸軍病院慰問(「仙台市史10 年表」P293)
* 1945年(S20)7月10日、仙台陸軍病院、仙台空襲で焼失
<陸軍病院宮城野原分院 → 仙台第一陸軍病院>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院宮城野分院、開設 / 昭和12年日中戦争勃発により激増した傷病兵を収容 / 宮城野原練兵場の片隅に応急的に建設 /(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
* 1939年(S14)1月12日、仙台陸軍病院榴ケ岡分院開設(「仙台市史10」年表P295)
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<地図では>
・「改正仙臺市明細全圖](明治22年5月印刷)では、「陸軍病院」
・「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)と、「最新仙臺市全地圖」(昭和11年5月現在 仙臺市土木課)では「衛戍病院」
* 1945年(S20)、終戦とともに厚生省に移管され、国立仙台病院となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
→ 以下、大項目「国立仙台病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「重訂 宮城県郷土史年表」P250/「仙台市史10 年表」P293、P295/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P37~38/「改正仙臺市明細全圖」(明治22年5月印刷)/「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)
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仙台衛戍病院は、53-18、「市民の戦後史(仙台市)」P21/仙台衛戍病院伝染病棟は、99-158/仙台陸軍病院は、53-122/仙台陸軍病院宮城野原分院は、53-118
<関連映像> 98-111(仙台の兵営配置図 明治44年)と98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、衛戍病院の場所がわかる
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和田床屋 |
開店 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)、和田専助が仙台初の床屋を東一番丁に開店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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44-04(西洋理髪師 和田専助夫妻)、22-28(和田床屋、大正末期、大町5丁目)
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宮城県庁舎 |
養賢堂を使用 |
1871年(M4) |
養賢堂は、北一番丁・勾当台通りの一角にあった仙台藩の学問所
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)年1月8日、仙台県を宮城県と改称により、宮城県庁舎となる
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-053/「新・目で見る仙台の歴史」P121(高橋由一画)
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火災(地域) |
長町 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)1月17日、名取郡長町で火災、69戸が焼失
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「仙台市史 年表」P79
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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冷害・凶作 |
明治年間 |
1869年(M2)
1874年(M7)
1897年(M30)
1902年(M35)
1905年(M38)
1910年(M43) |
* 1869年(M2)秋、冷害のため凶作となる
* 1874年(M7)、冷害のため凶作となる
* 1897年(M30)秋、冷害と水害のため凶作となる。
10月16日、仙台市会、凶作のため臨時米穀売買所開設を決議
10月27日、市が臨時米穀売買所で外国米の低価販売開始
* 1902年(M35) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治35年」へ
* 1905年(M38) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治38年」へ
* 1910年(M43)、この年水害のため凶作となる
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P305(図310)は、明治30~39年の宮城県の米収穫量(グラフ)
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「仙台市史 年表」P79、P81、P90、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P304
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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三原時計店 |
戦後 |
1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年
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三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217
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商店など |
よろづ園(茶舗) |
1829年(文政12年) |
* 1829年(文政12年)、創業
* 1897年(M30)、藤崎と土地を交換
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「番丁詳伝」P99
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77-19 、77-17 / よろづ園の七夕飾り物(77-10 ほか)
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藤崎(戦前期) |
創業/大町4丁目へ進出 |
1819年(文政2年)/1879年(M12) |
* 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした
* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店
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「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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釈迦堂 |
建立 |
1695年(元禄8年)/1968年(S43)移転 |
藩政時代(元禄8年)、伊達藩四代藩主伊達綱村が生母の冥福を祈るために建立した持仏堂
* 1948年(S23)7月、戦時供出された鐘が戻る
* 1968年(S43)、宮城県図書館建設のため、榴ケ岡4丁目の孝勝寺本堂脇に移された(「重訂 宮城県郷土史年表」P675では、「昭和46年に移転復元」)
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仙台市のHP/「市民の戦後史(仙台市)」P38/「重訂 宮城県郷土史年表」P675
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99-134、14-05/位置図は98-078/「目で見る仙台の歴史」P63(釈迦堂、二天門)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年に戻った鐘)
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天神社 |
移設 |
1667年(寛文7年) |
・ 市内榴岡にある。東照宮造営の際、その地にあった天神社を寛文7年、榴ヶ岡に移す。1795年(寛政7年)に丹塗の向唐門を残して焼失。 その後に社殿再建 / 筆塚、句碑が並ぶ
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「目で見る仙台の歴史」P59
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「目で見る仙台の歴史」P59
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東照宮(仙台) |
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1654年(承応3年)~ |
・伊達政宗公が、将軍家光からの許しを受けて創建
・二台藩主忠宗の創建、1654年(承応3年)落成
・祭神は徳川家康 ・本殿などが国の重要文化財
<藩政期>
* 1654年(承応3年)、江戸から神霊を迎えて遷座祭を行ったと伝えられている(「宮城県百科事典」P741)
* 1654年(承応3年)3月16日、宮城郡小田原の東照宮造営なる(「仙台年表」P34)
<昭和戦前期の火災>
* 1935年(S10)8月6日、放火で拝殿、進せん所、宝物三六歌仙を焼失 / 同23日に再度出火、神殿一部消失(「重訂 宮城県郷土史年表」では、拝殿は半焼)
* 1944年(S19)、浮浪者の放火あり、拝殿を半焼す
<戦後>
* 1948年(S23)アイオン台風、1959年(S34)伊勢湾台風で、参道両側の杉110本倒壊
* 1952年(S27)1月31日、本殿、唐門、楼門を宮城県重要文化財に指定(「仙台市史10 年表」P327、「重訂 宮城県郷土史年表」P554)
* 1952年(S27)1月31日、随身門、宮城県需要文化財に指定 / 同年3月31日、本殿、唐門透塀鳥居、宮城県重要文化財に指定(「仙台年表」P223~224 ← 出典:毎日新聞)
* 1953年(S28)3月31日、本殿、唐門、透塀、鳥居が、国の重要文化財に指定
* 1980年(S55)1月26日、随身門が国の重要文化財に指定
<復旧・修理工事>
* 1962年(S37)11月17日、拝殿(昭和27年に焼失)復旧工事開始
* 1979年(S54)2月、倒壊鳥居復旧
* 1979年(S54)4月20日、12年ぶりの東照宮春祭、伊達政宗の木像先頭に武者行列
* 1980年(S55)10月、社殿修理工事終了
* 1983年(S58)4月17日、唐門・透塀・本殿の一部修理完了
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「宮城県百科事典」P741/「仙台年表」P34、P206、P223~224/「仙台市史10 年表」P286、P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P447、P503、P554/「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P94、P118、P161、/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123~124、216~217/文化庁「国指定文化財データベース」
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99-130、99-131/「目で見る仙台の歴史」P55~56(本殿、本殿厨子、唐門、薬師仏、神輿など)/同P99(東照宮祭礼絵巻)
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大崎八幡宮 |
社殿落成 |
1604年(慶長9) |
<社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)
* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活
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文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181
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99-128、99-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭)
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (2)日中戦争期 |
1337年(S12)~1939年(S14)3月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入
* 1337年(S12)7月17日、仙台では、市内の各種団体、在郷軍人会、農家組合、銀行などの代表者、市会議員、商工会議所議員が集会し、第二師団留守司令官、県や市の吏員が臨席して、戦時体制に備える「銃後」の物資動員懇談会を開催
* 1337年(S12)9月、仙台市兵事義会が国の軍事扶助法を補助するという趣旨で、3万8000円の募金計画 / 愛国婦人会・国防婦人会・女子青年団員らが街頭募金、新聞社の飛行機が5万枚のビラを撒き、小学児童も4万枚のビラを配布、交通整理員がメガホンで宣伝しながら自動車5台で3万枚のビラを配布、さらに各区長の指揮のもと、役員が各戸をまわって募金 / 9月1日からの「銃後週間」中に、すでに5万円に達しようとする勢いであった
・ このころから、兵事義会の活動は経済的援助に集中
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315
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八木山開発 |
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八木山は、もとは仙台藩士の共有財産だったが、明治初めに国有化され、大正年間に八木久兵衛氏の所有となった
八木山開発は、昭和初期、八木久兵衛氏が私費を投じて、自身が所有する仙台市八木山で行った一連の観光開発
<八木久兵衛(第4代)> 仙台の味噌醤油製造業「紅久」の経営者、「紅久」は藩政時代から、紅・小間物商、明治に入りみそ醸造開始、仙台市会議員、宮城貯蓄銀行、七十七銀行頭取、仙台商業会議所会頭(明治38年6月~大正7年9月)、大正7年6月貴族院議員(多額納税議員)、大正12年11月29日没(「重訂 宮城県郷土史年表」の該当年の記述より抜粋)
<八木久太郎(第5代久兵衛)> 八木山開発(昭和15年11月26日没)は第5代の手による / 私費を献じて仙台市電「芭蕉の辻線」を開通させた。
* 1929年(S4)6月23日、「野球場」を建設(同日、宮城県に寄付)
→項目「八木山球場」参照
* 1930年(S5)4月、「遊園地」と「公園」を開設(S11年5月28日、八木山遊園地を仙台市に寄付)
→項目「八木山遊園地」参照
* 1931年(S6)8月、竜の口渓谷に、「八木山橋」(木製鉄索、吊り橋)架橋、仙台市に寄付
→項目「八木山橋」参照
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」を仙台市に寄付
* 1936年(S11)11月、土居光知、薄田清が発起人となり、島崎藤村の詩碑(草枕)を建立(「番丁詳伝」P34) / 昭和42年、藤村詩碑を青葉城址へ移転
* 1937年(S12)、仙台芸妓置屋組合、芸妓の同意を得て寄付を募り、八木山遊園地に枝垂れ柳276本、沿道、紅葉ケ谷に、吉野桜524本を植栽し仙台市に寄付、動物園付近に桜樹植栽記念碑を建立(「仙台 あのころこのころ八十八年」P70、「番丁詳伝」P34)
* 1964年(S39)12月、八木山地区整理組合が発足し、宅地造成に入った
このほか、八木氏が仙台市に寄贈した土地に、
* 1965年(S40)に市が「八木山動物公園」を開園
→キーワード「八木山動物公園」で検索
<「仙台老舗百店史」P194~195「紅久」の記述>G1496
「天明3年(1783)から芭蕉の辻にあった紅・小間物商「紅久」が、明治16年、味噌醤油の醸造、販売も始め繁盛して得た資金で八木山を入手、八木山橋、野球場を建設し市に寄贈、また寄贈した土地に八木山動物園が建設された」
「番丁詳伝」P34~35にも、「紅久」「八木久兵衛」「八木山開発」について記述あり
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「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり/「仙台市史 年表」P105、P106、P108/「仙台 あのころこのころ八十八年」P70/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史10 年表」P283/「番丁詳伝」P34~35
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戦時中の物資統制、使用規制 |
概説 |
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・ 経済統制の結果、食糧・衣料などは統制会社ができて割当制となった。宮城水産株式会社も魚市場を東七番丁に移して魚類配給の元締めをした。衣料も統制会社ができた。
・ 終戦間近には青物も不充分で、市民は野に野草を摘み、南瓜や甘藷のつるまで配給された。買出しに田舎へ出ても物と交換でなければ手に入らなかった。
・ この現象は終戦後も続いた。物資不足のため配給で足りぬ人々は農山漁村へ買出しに出かけた。郊外から物資を買い集めてきてさばく人々もあらわれた。また、衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「目で見る仙台の歴史」P170
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「目で見る仙台の歴史」P170(「家庭用食糧通帳」と「衣料切符」)/同169(買出し列車に必死に乗り込む)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P52(S9年、衣料切符、カラー)/同P53(S18年改正衣料点数早見表、カラー)/同P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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師範学校 |
宮城師範学校(県立)に関する記述 |
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<宮城師範学校(県立)に関する下記二資料の記述は、「仙台市史 年表]の記述と、年が1~2年ずれている>
* 「明治の洋風建築-宮城県-」P59
「M6年に勾当台通り『仙台伝習所』が設けられ、M11年に『宮城県師範学校』と改称。M22に北一番丁に移り校舎を新築」
* 「宮城県百科事典」P1003
「(校名は数回の変遷を経ていることが詳細に記載され)M30年に『宮城県師範学校』と改称」
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「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「宮城県百科事典」P1003の「宮城師範学校」/
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北山五山 |
輪王寺 |
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<輪王寺>
藩祖政宗に従って米沢~会津若松~岩出山~仙台と移動した伊達家の一門寺
・ 4代藩主綱村治下に、大造営
・ 1876年(M9)、山火事で焼失
・ 焼け残った山門(仁王門)は、元禄盛期の建築
北山五山は、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125~126
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「目で見る仙台の歴史」P155(輪王寺)、P71(輪王寺山門)
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紙幣・硬貨(戦後) |
発行年 |
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* 1950年(S25)1月7日、日本銀行券千円札発行(聖徳太子像)
* 1951年(S26)、日本銀行、新五百円札を発行
* 1953年(S28)12月31日、この日限りで、銭貨(50,20,10,5の各銭)は流通停止、1円黄銅貨も流通停止
* 1957年(S32)10月、五千円札発行
* 1957年(S32)12月11日、100円硬貨を発行、100円紙幣が次第に消えてゆく
* 1963年(S38)11月1日、新千円札発行(伊藤博文)
* 1982年(S57)4月1日、500円硬貨発行
* 1984年(S59)11月1日、日銀15年ぶりに新札発行(一万円札=福沢諭吉、五千円札=新渡戸稲造、千円札=夏目漱石の3種)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P63/「重訂 宮城県郷土史年表」P540、P548、P586/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P47、P51、P76、P78
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切手代(ハガキ) |
ハガキの切手代 |
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■明治16年1月1日から 1銭
■明治32年4月1日から 1銭5厘
■昭和12年4月1日から 2銭
■昭和19年4月1日から 3銭
■昭和20年4月1日から 5銭
■昭和21年7月25日から 15銭
■昭和22年4月1日から 50銭
■昭和23年7月10日から 2円
■昭和26年11月1日から 5円
■昭和41年7月1日から 7円
■昭和47年2月1日から 10円
■昭和51年1月25日から 20円
■昭和56年1月20日から 30円
■昭和56年4月1日から 40円
■平成元年4月1日から 41円
■平成6年1月24日から 50円
■平成26年4月1日から 52円
■平成29年6月1日から 62円
■令和元年11月1日から 63円
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)P964の「郵便料金の変遷」/ほか
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(例)1銭5厘の切手が貼ってある絵葉書は、44-10
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東一番丁(商店街) |
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→ 項目「一番町(旧・東一番丁)」参照
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市民の家 |
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* 1975年(S50)4月14日、仙台市で初の市民の家、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P39
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野球場 |
昭和11年現在 |
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昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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銀行(地域の銀行) |
七十七銀行 |
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→ 内容は、項目「七十七銀行」参照
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東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
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・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
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拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
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市民利用施設 |
4区分 |
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(1)~(3)は、市が計画的に設置し、(4)は設置の補助など
管理運営は、財団法人仙台市建築公社に委託されているが、その地域の各種団体代表による運営協議会が結成され、運営に対する住民参加の道が用意されている
(1)全市的および行政区域的(全市を5区に区分)
・ 市民会館、市体育館、婦人文化センターなど
(2)1~2の中学校区の地域対象の地域施設(中規模施設)
・ 地区市民センター ・ 公民館など
(3)単位は、小学校区程度の地域
・ コミュニティーセンター
(4)単位町内会程度の地域
・ 町内会集会所など
<参照> 仙台市の公共施設一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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市民利用施設 |
(1)全市対象公共施設 |
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<参照> 仙台市の全市対象公共施設一覧と最新情報は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち、「スポーツ施設」「公園・野外活動施設」「図書館」「その他の文化施設」「高齢者施設」「障害者施設」
http://www.city.sendai.jp/kurashi/shisetsu/kokyo/index.html
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「仙台市」HPの「公共施設案内」
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タクシー |
大正時代 |
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* 1923年(T12)8月、仙台タクシー自動車合資会社、名掛丁に設立、営業開始
* 1925年(T14)、合名会社実用タクシー(裏五番丁)設立、営業開始
・ 大正11年~昭和8年に開業した東一番丁界隈のタクシー業者 / 清水自動車部(清水源太郎、立町通、大正11年)、トモエタクシー(国分町、大正15年)、柳タクシー(本柳町、昭和元年)、サカタタクシー(東二番丁、昭和2年)、キングタクシー(東一番丁、昭和5年、高級車のエセックスとハドソン数台を使用)、第一タクシー(南町)、など9業者あり
* 1925年(T14)12月25日、仙台自動車運転手会、やよい軒に集まり設立(タクシ-、バス運転手、官庁自家用運転手)
・ 宮城県の運転手免許番号簿(昭和4年現在)には、2547号まで記録されている
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「番丁詳伝」P110~111
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青葉通り |
概要 |
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仙台市は、1945年(S20)7月10日の仙台空襲で広範な中心市街地を焼失したが、「青葉通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、仙台駅前から焼失地域を東西に貫き大橋へつながる幹線として新たに生まれた
長さ1.5km、幅員は、仙台駅前から東二番丁角までが50m、それ以西の西公園までが36m / 開通時には車道の両端近くに2本の分離帯があったが、その後交通渋滞解消のため取り払い、中央分離帯1本にした / 1965年(S40)に1本化工事着手
<曲直問題>
路線計画策定段階で、東五番丁交差点の前後を10度屈折か直線かで利害対立あり、半年余り紛糾、1948年(S23)5月建設院総裁裁定で10度屈折で決着(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P324~328に詳述)
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「戦災復興余話」P27~P55/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~328
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14-07、99-031など「写真データベース」A-05-05「青葉通り」の写真全部/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P762(銀行が立ち並ぶ青葉通り(S40年代前半)/「目で見る仙台に歴史」P188(S33頃、駅前から伸びる青葉通り俯瞰)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(S32年、青葉通り)/同P185(H1頃、俯瞰)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S26年10月、青葉通りと南町通り一帯空撮)/同P108(S32年、雪化粧の青葉通り空撮)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P36~37(S33年頃、東三番丁角付近から西方向)/同72~73(S39年、カラー、駅前から西方向)/同P76~77(S39、カラー、藤崎から東方向)/P79(S39、カラー、藤崎屋上から西方向)/同P104(S51、東五番丁角以西)
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市民利用施設 |
(4)町内集会所 |
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・ ほぼ町内会単位で、集会所の新築、増改築、修繕費は、町内会ないし連合町内会に一部補助金を交付
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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竹槍訓練 |
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* 1943年(S18)2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)
竹槍は1945年(S20)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
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「昭和・平成家庭史年表」P138/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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16-08
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立町小学校 |
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* 1945年(S20)、仙台空襲で焼失
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「市民の戦後史(仙台市)」P22(戦前の校舎)
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銀行(都市銀行) |
日本銀行 |
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→ 内容は、項目「日本銀行」参照
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駐留軍(米軍) |
施設提供と返還 |
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* 1952年(S27)7月26日、日米安全保障条約により、在日合衆国軍に提供する施設及び区域決定(宮城県内)
/ <無期限使用> キャンプ仙台川内地区(川内)、キャンプ・ファウラー(榴ヶ岡)、第172病院(北一番丁の仙台簡易保険局ビル)、レニア・フィールド(南小泉霞の目)、キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)、司令官副司令官官舎(新坂通)、七北田演習場、 <一時使用> 安田ビル兵員クラブ(国分町)、住宅施設(北二番丁)
* 1956年(S31)6月15日、榴ヶ岡キャンプを、日本に返還
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
* 1957年(S32)8月、川内キャンプの接収解除を決定(「仙台市史 続1」P465)
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビルが、S20年9月に接収されて以来12年ぶりに正式返還される
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
<編者注> キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P328では、「キャンプ・シメルフィニヒ」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P582、P585、P586/「仙台市史10 年表」P328/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P465/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282、P285、P854/「市民の戦後史」年表
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