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小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
国鉄(日本鉄道時代) |
東北本線 |
1887年(M20)~1906年(M39)10月 |
<日本鉄道時代>
* 1887年(M20)12月15日、開業
(当時は私鉄・日本鉄道で、塩釜まで開通)
* 同年12月20日、東京・仙台間の開通式挙行
* 1891年(M24)9月1日、仙台~青森間が開通
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「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87
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年中行事(まつり) |
仙台祭 |
1887年(M20)~ |
* 1887年(M20)10月、招魂祭に合わせて桜岡大神宮祭礼や青葉神社祭礼などの仙台祭がおこなわれる。 この年以降、招魂祭と仙台祭は合同開催となる
* 1899年(M32)、仙台まつりの山鉾は路上の電線その他の関係によりこの年限り廃止となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P315)
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「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P315
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第二高等学校(旧制) |
第二高等中学校/第二高等学校(片平丁校舎時代) |
1887年(M20)/1894年(M27) |
<前身の第二高等中学校>
* 1886年(M19)公布の中学校令により、仙台市に第二高等中学校設 / 翌年9月、本科、予科、医科の3科で開校、同市東二番丁、荒町、片平丁へと移転した(「宮城県百科事典」P637)
* 1887年(M20)4月1日、第二高等中学校を19年4月発布の中学校令により仙台に創設す(7月仮事務所を宮城県尋常中学校に設け、8月荒町小学校内に移る(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1887年(M20)4月18日、文部省、第二高等中学校を仙台に設置 / 同年8月19日、第二高等中学校に医学部設置(「仙台市史 年表」P86)
<片平丁校舎へ>
* 1889年(M22)8月、片平丁に新校舎本館落成し、本部・医学部ともに東二番丁尋常中学校跡より移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1889年(M22)8月3日、片平丁に第二高等中学校校舎が完成(「仙台市史」P87) / 本館はゴシック風木造2階建、黒褐色のペンキ塗りで北欧風 / 1891年(M24)、盛大な開校式(「明治の洋風建築-宮城県-」P62)
<第二高等学校 片平丁校舎時代>
* 1894年(M27)9月、第二高等学校と改称(「宮城県百科事典」P637)
* 1994年(M27)6月25日、高等学校令を公布し「第二高等学校」と改称、さらに医学部と大学予科とを置く(「「重訂 宮城県郷土史年表」P298) / 開校記念日10月26日(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1994年(M27)9月11日、「第二高等学校」と改称(「仙台市史 年表」P89)
第二高等学校開校当時の組織(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)は、医学部(4年・定員200人)、本部(定員460人)、本科(2年・尋常中学校卒業程度)、予科(3年・尋常中学校第二学年修了程度) / 第1回の入学試験受験者73名、入学許可者7名
* 1901年(M34)4月1日、第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として独立(「仙台市史 年表」P91)
* 1910年(M43)、片平丁に書庫が完成(「仙台市史 年表」P95)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P276、P284、P298/「宮城県百科事典」P637「第二高等学校」/「明治の洋風建築-宮城県-」P62「第二高等学校」/「仙台市史 年表」P86、P87、P89、P91、P95
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99-058 / 「新・目でみる仙台の歴史」P141の写真(第二高等中学校の開校式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P253(M24年5月の第二高等中学校校舎完成記念開校式の図)/「いつか見た街・人・暮らし」P18(学生服学帽の二高生が写る、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」P128(仙台医学専門学校校門と校舎)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P363(M44年ころ、仙台医学専門学校授業風景、女性看護婦も)/同P395(M44年ころ、仙台医学専門学校=旧宮城病院バックに学生たち)
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仙台ホテル(前身の大泉旅館支店) |
仙台駅前に開業 |
1887年(M20)頃 |
<仙台ホテル前史>
* 1850年(嘉永3年)、国分町に大泉旅館開設(「番丁詳伝」P133)
* 1887年(M20)、国分町の旅籠「大泉屋」が、日本鉄道開通に合わせて仙台駅前に支店を開業 / 2階建ての切妻造平入り町屋建築で、1937年(昭和12年)まで使用された(Wikipedia「仙台ホテル」)
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「番丁詳伝」P133/「目で見る仙台の歴史」P124/「仙台市老舗百店史」P129/Wikipedia「仙台ホテル」
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「目で見る仙台の歴史」P124に、開業当時の大泉支店
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針久旅館支店(仙台駅前) |
開業 |
1887年(M20) |
場所は、仙台駅前広場の北側に面する
* 1868年(M元年)、国分町に旅館開業
* 1882年(M15)、針久旅館と改称
* 1887年(M20)、仙台駅開業の年に二代目久助が東北本線(日本鉄道)仙台駅前に支店を開設
その後、三代目久助が東五番丁に千坪の別館を建て、東京にも神田と上野、築地の3つの支店を開業した
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「仙台老舗百店史P182~189『針久旅館』
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61-18/53-88の右端建物/06-23の上部(陸奥ホテルの左隣の建物)/「目で見る仙台の歴史」P155に、国分町の針久旅館
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仙台駅(戦前) |
開業 |
1887年(M20) |
* 1887年(M20)12月15日、日本鉄道の上野・仙台・塩釜間開通、あわせて仙台停車場が開業 (現・JR東北本線)
* 同年12月20日、東京・仙台間の開通式を挙行
<開業日、初列車は雪で3時間遅れで仙台着>
「その朝、東北地方の太平洋側は雪、仙台市内も真っ白だった。初列車は午前7時28分、6両編成で上野駅を出発、午後7時半ごろ仙台駅に到着する予定だった。ところが初代の大宮弥平駅長以下地元のお歴々、珍しもの見たさの市民たちが待てど暮らせど、その列車が姿を現さないのである。雪のため、越河(白石市)付近の坂を超えられず、いったん福島駅に逆戻り。そこで上り列車用の機関車を連結して馬力を倍増、あえぎあえぎ仙台駅にすべり込んだ時には、時計はなんと午後10時25分を指していた。つごう15時間かかったことになる。暗いランプが揺れる車内での難行苦行に、記念列車の山県有朋内務大臣らはブスッとした表情で降り立ち、また、歓迎人は景気づけの花火もすっかり打ち尽くしてしまい、寒さにガタガタふるえていたそうである。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P130)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P130
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98-038
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三原時計店 |
国分町で創業 |
1887年(M20) |
<国分町の建物>
* 1887年(M20)3月、仙台市国分町(肴町角)に創業開店(三原本店HP)、戦後の徳陽シティー銀行の場所
* 1887年(M20)、三原時計店が国分町で時計塔付の建物を建設し開業(M22年開業説もある)(「目で見る仙台の歴史」P118では、明治18年)
* 1889年(M22)、国分町に時計塔のある洋風建築を建設(「古写真にみる仙台の建築」P43)
* (M29年に三原時計店が大町に移転後、建物は大正信託、第八銀行が使用した)
* 時計塔の文字盤には、1915年(T4)にはすでに針が無く、模様が描かれている
* 1921年(T10)、国分町の旧三原時計店の建物は取り壊された(「古写真にみる仙台の建築」P43)
<編者注> 「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217や「仙台老舗百店史の三原本店」の記述では、1896年(M29)に大町へ移転と記載されているが、「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)では、地図上も同裏面の実業家一覧表でも、三原時計店はまだ「国分町肴町角」となっている
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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77-21、44-19、99-022 /「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に当時の三原時計店(国分町五丁目)の写真あり
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高等学校(新制) |
東北学院中学校・高等学校(戦前期) |
1886年(M19)~1945年(S20)夏 |
普通科が、戦後の東北学院中学校、高等学校の前身
<南町時代>
* 1895年(M28)、東北学院が予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、その上に神学部3年を置く
* 1899年(M32)、私立学校令公布に伴う中学校令改正に当たっても「普通科」の呼称は変えず
<東二番丁・初代校舎時代>
* 1905年(M38)、東二番丁に「普通科」校舎竣工し、南町から移転
・木骨レンガ造りルネッサンス式、2階建て、スレート葺き屋根
・屋根面にトーマー・ウィンドウ(屋根窓)
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1919年(T8)3月2日、南町大火のため中学部校舎全焼
* 1919年(T8)9月、バラック建て仮校舎落成
<東二番丁・赤レンガ校舎時代>
* 1922年(T11)6月、旧校舎跡地に中学部校舎再建
・ 鉄筋コンクリートレンガ張り(通称「赤レンガ校舎」)
・ 2階建て、一部3階
・ 正面入り口に「LIFE LIGHT LOVE」が掲げられている
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称、第二部(夜間)設置
このころ、校舎が軍や鉄道局に接収され、校舎正面の「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半(12棟)を焼失、焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂
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「東北学院創立七十周年写真誌」P11~12、P22~23、P30、P32~35、P65~P69/東北学院HP/「明治の洋風建築-宮城県-」P66「東北学院中学部」
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<南町時代> 神学部校舎(南町)は、「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P50の写真/99-068、43-30
<東二番丁初代校舎> 99-069/東北学院創立七十年写真誌」P22~23、P30の写真/「目で見る仙台の歴史」P142の写真
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挹翠館(ゆうすいかん) |
建設~焼失 |
1886年(M19)~1945年(S20) |
桜ケ岡公園(西公園)にあった木造の割烹(和洋料理店)だったが、M42年に仙台市が買収し、戦前は仙台市公会堂として使用された
* 1886年(M19)1月24日 建設(木造2階建て、寄棟造瓦葺、真壁漆喰塗)
* 1887年(M20)、桜ケ岡公園内に開業 / 木造2階建ての和洋料理店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
* 1909年(M42)5月18日、市が買収し、仙台市公会堂となる
* 1916年(T5)に、隣接して洋館の公会堂新館が竣工したあと、挹翠館は公会堂本館とよばれた
* 1945年(S20)7月10日、公会堂本館(挹翠館)、洋風新館とも、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273/「仙台市史 年表」P85、P94/「古写真に見る仙台の建築」P43/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
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98-058、98-059/「目で見る仙台の歴史」P117
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宮城学院 |
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1886年(M19)~ |
* 1886年(M19)9月18日、押川方義とアメリカ改革派教会のエリザベス・R・プールボーら、宮城女学校を東二番丁に開校
<年表詳細は、以下の小項目を参照>
・ 大項目「高等学校(新制)」の以下の小項目
「宮城学院高等学校(前史)」「宮城学院高等学校(戦後)」
・ 大項目「大学・短大」の以下の小項目
「宮城学院女子大学・短期大学(前史)」「宮城学院女子大学」「宮城学院女子短期大学」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P126
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P126(宮城女学校校舎)/「いつか見た街・人・暮らし」P12(T13.5.23、宮城女学校運動会)
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仙台偕行社 |
初代建物竣工 |
1886年(M19) |
仙台偕行社(かいこうしゃ)は、陸軍将校の倶楽部で、戦前は天皇行幸の際は宿舎にもなった / 場所は、桜ケ岡公園(西公園)に隣接、現在(1996年)の仙台市図書館のあたり
* 1886年(M19)8月3日、仙台偕行社竣工(洋風建築)
* 1925年(T14)10月18日、陸軍大演習の間、大本営が仙台偕行社におかれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P399)
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「明治の洋風建築~宮城県~」P39/「仙台市史7(警察)」の仙台部隊年表P691/「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P399
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「明治19年落成の偕行社」は、98-060、「新・目で見る仙台の歴史」P134、「市民の戦後史(仙台市)」P22/門柱の形が異なるのは、98-061、99-095
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県令 → 知事 |
名称変更 |
1886年(M19) |
* 1886年(M19)7月20日、地方官官制により「県令」を改めて「知事」に
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「仙台市史 年表」P85
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松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
オープンとその後の経緯 |
1885年(M18)~1975年(S50) |
松島座(パテー館、仙台日活館)は、東一番丁の立町通り角のすぐ南にあった映画館(戦後は立町通りが拡幅されて広瀬通り角になった)
<明治・大正・昭和前期>
* 1885年(M18)2月、東一番丁28に、松島座開座(芝居小屋)
* 1892年(M25)、洋風に改装
* 1912年(M45)3月13日、仙台パテー館(映画常設館)となる
エムパテー会社取締役の内山梅吉が入手し、電飾輝く洋館仕上げに大改造し、M45年3月、仙台パテー館と改称し映画常設館となる
* 1919年(T8)7月、再び松島座と改称し、歌舞伎でオープン
* 1924年(T13)12月、失火焼失し1年間休座
* 1925年(T14)12月、再建し日活パテー館と改称
<編者注>[写真20-44][写真99-018]では、松島座名ののぼり旗で、T14年6月設立の「マキノプロダクション映画」上映や、『修羅八荒』(T15)上映が確認できるので、T14年12月再建後もしばらくは「松島館」だったことが確認できる
* 1932年(S7)12月、仙台日活館に改称、一部改装して初の椅子席に(「番丁詳伝」P214によれば、仙台初の椅子席映画館)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し閉館
<戦後復活し、仙台日活劇場に>
~場所は、広瀬通り・東一番丁通り交差点の南東角~
* 1946年(S21)12月、仙台日活劇場として、東一番丁26に再オープン(「仙台映画大全集」)
* 1947年(S22)1月、日活映画劇場、東一番丁27に開設(530席)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1975年(S50)5月、閉館 / 跡地にジャスコ開店(1984年(S59)2月に、
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「目で見る仙台の歴史」P146/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史 / <参考>「東一番丁物語」(柴田量平著)P90~106、P235/「重訂 宮城県郷土史年表」P516/「番丁詳伝」P214
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仙台パテー館は、99-015、20-43、20-40/同スケッチ画は98-005/ 松島座は99-016、20-44
/ 戦後は、16-43、18-12、22-01
/「新・目で見る仙台の歴史」P146(パテー館のビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P228(仙台日活週報、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40の右角(S33年、俯瞰、仙台東映と向き合う)
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仙台市役所庁舎 |
市制以前(仙台区役所庁舎) |
1885年(M18)~1926年(T15) |
建物は、勾当台通表小路(1996年現在の市役所の前庭)にあり、平屋建てではあるが重厚な感じの木造で親しまれた
* 1878年(M11)7月22日、旧仙台城下は仙台区となる
* 1885年(M18)10月24日、区役所新庁舎、表小路に完成
* 1889年(M22)4月1日の市制施行後も1926年(T15)まで使用
* 昭和初期に取り壊し(1929年(S4)に完成した3階建て市庁舎建設を前に)
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「仙台市史 年表」P82、P85/「宮城県の百年」P9の掲載写真の「説明文」
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98-056/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116/「新・目で見る仙台の歴史」P121
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映画館(戦前・戦後) |
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
1885年(M18)~ |
→ 項目「松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場」参照
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水害 |
暴風雨 |
1885年(M18)11月24日 |
広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
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「仙台市史 年表」P85
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芭蕉の辻の交番 |
屯所設置/巡査派出所/建替 |
1884年(M17)/1889年(M18)/1926年(T15) |
* 1884年(M17)3月、芭蕉の辻など仙台区内8カ所に屯所を置く / 1889年(M18)年6月、屯所の名称を巡査派出所とする(「仙台市史 本編2」P650~651)
* 1926年(T15)3月20日、附近有志の寄付により芭蕉の辻巡査立番所を改築、同巡査派出所と改めた(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P267) / 陸屋根コンクリート造りに建替えられた(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21)
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「仙台市史 本編2」P650~652/「仙台市史10 年表」P267/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21(河北新報T15年1月18日の記事)
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16-01(右下の建物)
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水害 |
台風 |
1884年(M17)9月15日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 / この台風被害により、野蒜築港工事が中止される
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「仙台市史 年表」P85
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「新・目で見る仙台の歴史」P124(野蒜築港設計図)
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郵便馬車 |
運行開始 |
1884年(M17) |
* 1884年(M17)12月、仙台~東京間の運行開始
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「仙台市史 年表」P85
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西本願寺別院(東一番丁) |
東一番丁に落成/元常盤町へ移転 |
1883年(M16)~1954年(S29) |
<Wikipedia「本願寺仙台別院」より>
・ 戦前期は、仙台陸軍病院に近いこともあり、仙台の陸軍第二師団の殉職者のうち無援仏を慰霊する役割も担った
・ 1933年(S8)、近くに三越が開店、本堂は東一番丁から参道を通って奥まった場所にあったため、東一番丁に面する参道両側の土地は、庶民に貸し出して商売をさせた
・ 戦後、仙台市が戦災復興事業によって中心市街地から寺院や墓地を移転させる方針を採ったため元常盤町(のちの支倉町)へ移転した(Wikipedia「本願寺仙台別院」では、昭和29年移転)
<主に、「本願寺仙台別院」HPより>
* 1877年(M10)、仙台・南町に、本願寺東京事務所宮城支局設置、6県下の事務取扱を行う / 同時に、東一番丁に本堂新築開始
* 1878年(M11)、仙台説教所設立、宮城小学校を設置
* 1880年(M13)、仙台説教所を別院とする
* 1883年(M16)、仙台区東一番丁に仮本堂落成
* 1910年(M43)、洋風の本堂が落成
* 1929年(S4)、無優樹幼稚園開園(S12に、あそか幼稚園と改称)
* 1938年(S13)、戦没者追悼法要(日中戦争)
* 1945年(S20)7月、仙台空襲により本堂など焼失、幼稚園休園
* 1947年(S22)、仮本堂新築落成
* 1950年(S25)、元常盤町(現・仙台市青葉区支倉町)を移転復興の地と定め、仮本堂庫裡を新築
* 1954年(S29)、元常盤町へ移転
* 1956年(S31)、幼稚園舎を新築、「あそか幼稚園」再開
* 1959年(S34)、新本堂新築落成
* 2011年(H23)、東日本大震災で、本堂など被災、幼稚園閉園
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「本願寺仙台別院」HP/Wikipedia「本願寺仙台別院」 (出典: 「本願寺仙台別院 沿革」)/参考「東一番丁物語」(柴田量平著)P205~206によれば、最初の本堂落成は、M15年/「番丁詳伝」P64
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西本願寺別院(東一番丁)の位置は、98-122/西本願寺がつくり商店を入居させた長屋は、47-06
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牛越橋(広瀬川) |
流失/再建 |
1883年(M16)/1913年(T2)/1954年(S29) |
* 1883年(M16)5月7日、広瀬川が氾濫し、牛越橋(吊り橋)が流失
* 1905年(M38)11月20日、架橋
* 1913年(T2)8月26日、広瀬川が氾濫し、牛越橋などが流失
* 1947年(S22)、水害後に木造桁橋に架け替え
* 1948年(S23)と1950年(S25)の洪水で被害
* 1954年(S29)5月、ゲルバー型鋼板桁橋完成(橋長134.7m、橋幅9m、歩道両側1.5mずつ、車道6m)
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「仙台市史 年表」P85、P93、P96/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P413
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水害 |
大雨 |
1883年(M16)5月7日 |
広瀬川が氾濫し、牛越橋が流失 (1905年(M38)11月20日に架設)
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「仙台市史 年表」P85、P93
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医療機関 |
仙台区立施薬院 |
1883年(M16) |
* 1883年(M16)、仙台区立施薬院(貧民施庵所)開設 / 病院に行けない貧しい人々のために、開業医の鈴木亦人らの尽力で、櫓丁の東京庵跡に建設 / 仙台区で発行する施療券を持った患者の治療が目的 / 医者はすべて無報酬で交代で診療
* 1885年(M18)6月、仙台区会の決議で廃止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P397
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伝染病流行 |
コレラ |
1882年(M15)/1895年(M28) |
* 1882年(M15)7月19日、仙台区でコレラ患者発生、大流行となる
・ 7月24日に宮城郡荒巻村台原に避病院設置
・ 罹病者数930名のうち410人が死亡
(当時の仙台市人口は5万4585人)
* 1895年(M28)7月19日~9月、小田原の考勝寺に収容されていた日清戦争復員軍人からコレラが発生し流行
・ 9月5日に東十番丁裏に避病院設置
・ 仙台市の死亡者数365名
(当時の仙台市人口は6万3952人)
<参考文献> 「仙台あのころこのころ八十八年」P18~19「コレラ猛威を振う」
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「仙台市史 年表」P84、P89/「仙台市史 特別編4 市民生活」P384
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勧工場・商館 |
芭蕉辻勧業場 → 芭蕉の辻商館 |
1882年(M15)/1891年(M24)~1900年(M33) |
<芭蕉辻勧業場>
* 1882年(M15)7月16日、大町四丁目13に開設
* 1890年(M23)1月14日、火災焼失
<芭蕉の辻商館>
* 1891年(M24)9月19日、芭蕉辻勧業場が「芭蕉の辻商館」と改称して再建
* 1900年(M33)4月、焼失
* 1901年(M34)1月、再建中に再度出火し閉鎖
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P36~37/「仙台市史 年表」P84、P87/「古写真にみる仙台の建築」P122
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P37(芭蕉の辻商館、同火災図)
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仙台城二の丸焼失 |
焼失 |
1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163
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宮城県会議事堂(明治時代) |
完成 |
1882年(M15) |
* 1879年(M12)、宮城県会始まる(宮城師範学校を使用)
* 1882年(M15)3月22日、勾当台通表小路に完成/市役所の向いにあった
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「新・目で見る仙台の歴史」P123/「仙台市史 年表」P84
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116(議事堂外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P123/「いつか見た街・人・暮らし」P20(宮城県会、議事堂議場、大正13年)
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宮城県図書館(戦前) |
宮城書籍館/宮城県立図書館/勾当台へ/宮城県図書館(戦前)/空襲焼失 |
1881年(M14)/1907年(M40)/1912年(T1)/1919年(T8)/1945年(S20) |
<宮城書籍館/宮城県立図書館>
* 1881年(M14)7月25日、「宮城書籍館(しょじゃくかん)」が県立宮城師範学校図書庫に開館
* 1892年(M25)12月、宮城書籍館を師範学校の旧校舎に修繕を加えて移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P293)
* 1907年(M40)4月1日、「宮城書籍館」が、「宮城県立図書館」と改称
<勾当台へ移転>
* 1912年(T1)11月、「宮城県立図書館」が斎藤善右衛門の寄付により勾当台(現在の勾当台公園の南西角)に建てられ、県立宮城師範学校内から移転
<宮城県図書館>
* 1919年(T8)11月、「宮城県立図書館」を「宮城県図書館」に改称
* 1937年(S12)11月3日、図書館前に二宮尊徳像(除幕式)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P262、P293/「仙台市史 年表」P84、P94、P96/「宮城県の百年」P37/仙台市史10 年表」P291/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年現在)
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99-091と「仙台市史 特別編4 市民生活」P139は宮城県立図書館/22-36は宮城県図書館/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城県図書館」
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医療機関 |
避病院/仙台市伝染病院 |
1881年(M14)/1895年(M28)/1899年(M32) |
* 1881年(M14)、仙台市に腸チフス流行、外記丁の宿舎にチフス患者を収容する避病院開設
* 1882年(M15)、コレラ大流行し、台原にも避病院開設
* 1890年(M23)、コレラ発生し、北山称覚時に患者を隔離
* 1895年(M28)、日清戦争帰還兵が持ち込んだコレラが全国的に流行、仙台でもコレラ罹患した兵隊を小田原避病院(宮城野原につらなる原野の一角に避病院設置)に収容、軍では鷺ヶ森にも避病院つくり、善応寺、仙岳院も避病院として使用
* 1899年(M32)4月1日、仙台市、東九番丁の孝勝寺裏の伊達家の土地1800坪に「仙台市避病院」を整備し患者を収容 / のち、1922年(T11)に「仙台市伝染病院」と改称
→ 項目「医療機関」の小項目「仙台市立榴ケ岡病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P395/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717/「仙台市史 年表」P90
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勧工場・商館 |
宮城勧工場 → 東一番丁勧工場 |
1881年(M14)/1882年(M15)~1883年(M26) |
勧工場は勧商場ともよばれ、開発者が建物を建て出店者を募って営業させるのもので、明治期に始まったショッピングセンター
* 1881年(M14)7月20日~10月27日、宮城県(松平正直県令布達)が「宮城勧工場」を片平丁公園(のちの桜ケ丘公園)に開設、正札販売が義務づけられた / 閉場後に出店者有志が借受け11月末まで継続 / 12月4日に民設に移行(出店者32人) / 翌年、東一番丁(「都川」跡地)へ移転し、「宮城勧工場」跡地は料亭「梅林」に
* 1882年(M15)10月8日、「東一番丁勧工場」、宮城勧工場を引継いで東一番丁42(旧「都川」跡地)に開設 / 舶来小間物、日本小間物、絹綿織物、陶器、漆器、筆紙墨、靴、帽子、頭飾、埋木細工、鉄瓶、金具など / のち、「第一勧工場」と改称 / 1893年(M26)、閉鎖
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P36/「仙台市史 年表」P84/「番丁詳伝」P38
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台消防組 |
1881年(M14) |
* 1881年(M14)12月、仙台区の「町火消組」が「消防組」と改称
* 1894年(M27)5月22日、「仙台消防組」設置(宮城県消防規則に基づき)
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「仙台市史 年表」P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験)
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貞山運河(貞山堀) |
改修事業 |
1880年(M13)~1889年(M22) |
* 1880年(M13)、貞山運河を貞山堀と改称、改修事業の測量着手
* 1889年(M22)5月11日、貞山堀改修工事完了し、貞山堀を再び貞山運河と改称
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「仙台市史 年表」P83、P86
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08-06/「新・目で見る仙台の歴史」P154(貞山堀で舟遊び)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験/貞山堀のシジミ採り)
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東北学院 |
基督教講義所/仙台神学校 |
1880年(M13)/1886年(M19) |
<前身の仙台神学校>
* 1880年(M13)10月10日、押川方義、北三番丁木町通角、下(しも)きく宅に「基督教講義所」開設
* 1881年(M14)5月1日、押川方義と吉田亀太郎により「仙台教会」(国分町1丁目の山下方に)創立(東北初のプロテスタント系教会)
* 1886年(M19)5月、押川方義とウィリアム・H・ホーイが木町通北六番丁に「仙台神学校」を開校
* 1887年(M20)5月、東二番丁南町通北西角の本願寺別院跡を取得し、仙台教会と仙台神学校をここへ移す(別院本堂を教会堂に、塀長屋を神学校校舎兼寄宿舎に)
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「東北学院」HPの「沿革」/「東北学院創立七十周年写真誌」P9/「番丁詳伝」P192
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「目で見る仙台の歴史」P122に、明治14年創立の「仙台教会」/「東北学院創立七十周年写真誌」P9に、本願寺別院本堂/「仙台市史 特別編4 市民生活」P251(M19年頃、神学校発足当時のホーイと押川、教師と生徒たち)
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宮沢の一銭橋 |
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1880年(M13) |
* 1880年(M13)までは渡し舟だった / その後、渡し守が私設の有料橋をかける(30cm位の木製の板、2枚を並べた橋で、川の増水時には取り外しができるようになっていた)
・ 通行料が3文だったが、終わりころには1銭になったので通称「1銭橋」と呼ばれていた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
・ 渡し守の家は根岸川の高台にあった
・ 広瀬川に架かる宮沢橋の前身
* 1938年(S13)7月、仙台市会、林吉次郎の宮沢橋仮橋寄付を採択す(「仙台市史10 年表」P293)
→このあとは、項目「宮沢橋」を参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編1」P409/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「仙台市史 別冊2」P825、P831/
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06-03、53-109/「仙台市史 特別編4 市民生活」口の絵図23
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幼稚園 |
木町通小附属幼稚園/公立仙台幼稚園/東二番丁小附属幼稚園 |
1879年(M12) |
明治12年開園の仙台最初の幼稚園(名称の変遷)
全国で2番目、公立幼稚園では全国1番目
(1) 1879年(M12)6月7日、仙台区木町通小学校附属幼稚園が、定禅寺通櫓丁に開園(仙台で初)
(2) 1984年(M17)、公立仙台幼稚園(仙台区南光院丁) / 園児は、男子29名、女子22名
(3) 1986年(M19)、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる(場所は東二小敷地内)
(4) 1896年(M29)3月28日、東二番丁尋常小学校付属幼稚園、独立して仙台市立幼稚園に
(5) 1916年(T5)4月1日、仙台市立仙台幼稚園、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる
(6) 1939年(S14)年2月28日、東二番丁小学校付属幼稚園改築工事竣工
(7) 1941年(S16)4月、園名を「仙台市立東二番丁国民学校附属幼稚園」と改称
(8) 1945年(S20)7月、太平洋戦争の空襲激化に伴い休園、7月10日の仙台空襲により園舎全焼、一時片平丁小学校に移り、一部を借り受け授業を行う
(9) 1945年(S20)12月、父母有志による「東二番丁小学校父母教師会立幼稚園」として復興、園舎落成
(10) 1974年(S49)3月、仙台市立東二番丁幼稚園として設立認可
(11) 2010年(H22)4月、民営化し、私立幼稚園に改組(場所は東二番丁小学校内で変わらず)
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(1)「仙台市史 年表」P83、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P368/(1)(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P442/(4)「仙台市史 年表」P89/(5) 「仙台市史 年表]P97/(6)「仙台市史10 年表」P295/そのほかは、Wikipedia「東二番丁幼稚園」(2016年4月)
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医療機関 |
宮城病院 |
1879年(M12) |
<施薬所→共立社病院→宮城病院→宮城医学校附属病院→再び宮城病院→東北帝国大学医学専門部附属医院>
* 1869年(M2)、仙台藩によって創設された医学校が、旧町奉行役宅に移り「施薬所」と称し、医者の養成と診療にあたる / 1971年(M4)7月、廃藩置県とともに廃止
* 1972年(M5)5月、中田斉と石田真、宮城県初の病院「共立社病院」を南町に創設(以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P394)
* 1879年(M12)5月1日、「共立社病院」が宮城県に移管される。
* この後に国分町に移転し、
* 1879年(M12)7月、病院を「宮城病院」、附属学舎を「宮城病院附属医学校」と改称 / コレラなど伝染病予防と治療に注力、県内の開業医対象に各地で医学講習会実施
* 1882年(M15)7月、宮城病院附属医学校が「宮城医学校」と改称 / 内科・外科・眼科
* 1882年(M15)9月、東二番丁に移転
* 1884年(M17)7月1日、宮城病院が「宮城医学校附属病院」となる
* このあとに元貞坂に移転し1884年(M17)9月29日に開院
* 1887年(M20)3月、宮城医学校廃止(文部省に移管)
* 1887年(M20)4月1日、附属病院は、再び「宮城病院」として開院(県が経営) / 旧制二高医学部の臨床実習場を兼ねる
* 1911年(M44)4月6日、宮城病院が北4番丁に移転(本館新築)、
* 1913年(T2)4月1日、宮城病院、東北帝国大学に委譲され、「東北帝国大学医学専門部附属医院」となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P394~395/「仙台市史 年表」P83、P84、P85、P86、P95、P96
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宮城集治監 |
設置 |
1879年(M12) |
* 1879年(M12)4月1日、宮城郡南小泉村(若林城跡)に設置
* 1973年(S48)、改造のため解体
・ 政府が、若林城跡に、西南戦争の国事犯を収容するため設置
・ 中央に見張り所の4階建ての塔がそびえ、6棟の2階建ての雑居房・独居房が放射状に突き出す(雪形六出の構え)
・ 木造ペンキ塗り、和洋折衷で、玄関に唐破風、塔頂の宝珠形など
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「仙台市史 年表」P83/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P143/「目で見る仙台の歴史」P109/「新・目で見る仙台の歴史」P123
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「目で見る仙台の歴史」P109(明治12年建設の集治監)/同P44(若林城跡の土塁)
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七十七銀行 |
本店の変遷 |
1878年(M11)~ |
1) 1878年(M11)、第七十七国立銀行、(旧)大町一丁目で創業
2) 1903年(M36)8月11日、芭蕉の辻東北角
(ドイツ・ルネッサンス式純洋風建築)
3) 1929年(S4)8月11日、芭蕉の辻西南角から南へ2軒目(大町4丁目75、旧宮城商業銀行跡)へ移転
・1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被害
・1947年(S22)11月26日、修理及び増築工事進行し第一新館落成
・1950年(S25)3月7日、第二新館落成
・1954年(S29)1月18日、第三新館落成
4) 1958年(S33)10月13日、東二番丁通・広瀬通東北角に新築移転 / S33年10月13日、芭蕉の辻支店を新設開業
5) 1977年(S52)9月、東二番丁通・青葉通東南角へ新築移転
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七十七銀行HP/「仙台市史10 年表」P273/「仙台市史 年表」P120、P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P328、P416、P522、P589
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2)は、99-021、99-022/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138/「目で見る仙台の歴史」P135に、「芭蕉の辻角の本店内部執務風景」
3)は、99-028(左端のビル)
4)東二番丁通・広瀬通東北角の本店は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P737、「目で見る仙台の歴史」P193、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P33(昭和30年代初め頃)、同P87(S41)
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練兵場 |
講武所練兵場 |
1878年(M11)頃~廃止年不明 |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 講武所練兵場(こうぶしょ)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場
・ 場所は、川内の各兵営と広瀬川を挟んで対岸にあった
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市全図」(大正元年)には、「追廻練兵場」とともに「講武所練兵場」の記載あり
用地」と記載
・ 「仙台市全図」(昭和11年)には、「追廻練兵場」は記載あるが、「講武所練兵場」の記載はなし
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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位置図は、98-112
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練兵場 |
宮城野練兵場 |
1878年(M11)頃~1945年(S20) |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 宮城野練兵場(みやぎのれんぺいじょう)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場で、追廻練兵場(おいまわし)とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 場所は、仙台市街地東方の宮城野原で、学生・生徒の軍事教練や小学生の遠足の場でもあった
<戦後は>
* 戦後(S25)、跡地が県営宮城野原公園総合運動場用地となり、S27までに県営宮城野原蹴球場、県営宮城球場、県営宮城野原陸上競技場、県営宮城野原総合運動場庭球場が順次開設された → 項目「県営宮城野原公園総合運動場」参照
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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99-126、99-160、99-163、69-06/位置図は、 98-111、98-113、98-115
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七十七銀行 |
開業 |
1878年(M11) |
<国立銀行>
* 1878年(M11)6月、第七十七国立銀行仮取扱所、勾当台通1番地に設置(「仙台年表」P151)
* 1887年(M11)12月、旧仙台藩士族の大部分が出資した第七十七国立銀行開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P349)
* 1878年(M11)12月9日、第七十七銀行国立銀行、大町1丁目に開業(「仙台市史 年表」P83)
<国立→私立>
* 1896年(M29)10月29日、国立から私立に移管(「仙台年表」P171)
* 1898年(M31)3月1日、株式会社七十七銀行となる(「仙台市史 年表」P90、「仙台老舗百点史」P106)
* 1898年(M31)3月1日、私立銀行に転換(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)
<本店、芭蕉の辻の洋館に>
* 1903年(M36)8月1日、新式店舗を芭蕉の辻東北角に新築移転 / 地下室付き2階建ドイツルネッサンス式準洋風建築 / 設計者松崎万長、工費は基礎工事3万円、上部構造等6万円(「重訂 宮城県郷土史年表」P328)
<本店移転>
* 1929年(S4)8月11日、大町4丁目75の旧宮城商業銀行本店跡に本店を移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P416)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P349、P350/「仙台市史 年表」P83、P90/「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P328、P416/「仙台年表」P151、P171/「仙台老舗百点史」P106
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P339(七十七銀行が明治12年に発行した壱圓紙幣)
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商店など |
村上屋餅店 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)、創業
・ 戦前、柳町の大日横丁にあった / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた
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「番丁詳伝」P97
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18-35
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乗合馬車 |
開業 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)11月14日、仙里軒(国分町)が仙台(国分町)~岩沼間の乗合馬車を開業
* 1878年(M11)、萬里軒、開業 / 仙台~福島間2円30銭(「番丁詳伝」P29)
* 1881年(M14)4月21日、万里軒(萬里軒)が国分町に本店、仙台~白石間の乗合馬車を開業 / 同年12月15日から、仙台・福島間運行、仙台~福島間2円30銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195)
* 1884年(M17)3月、万里軒が、福島(盛運社)と宇都宮(手塚舎)の業者と共同で、乗り継ぎ制で、仙台~東京間の乗合馬車を開業 / 仙台~福島間1円70銭、仙台~東京間7円67銭(「番丁詳伝」P29) / 料金については「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195にも詳述
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195によれば、、仙里軒、万里軒のほかに、この時期には、宝來軒(東一番丁)、盛運社(福島)、旅館菊平(国分町)、自由軒(国分町)と乗合馬車事業が競合関係にあった
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「仙台市史 年表」P82、P84、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195/「番丁詳伝」P29
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(万里軒の引札)
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火災(地域) |
河原町、南小泉村 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)3月27日、河原町より出火し、宮城郡南小泉村に延焼し、220戸焼失
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「仙台市史 年表」P82
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火災(地域) |
長町 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)4月11日、名取郡長町村で火災、68戸が焼失
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「仙台市史 年表」P82
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警察署(戦前) |
仙台警察署 |
1876年(M9)~1944年(S19) |
<南町時代>
* 1876年(M9)12月、宮城県が「第一警察出張所」を南町に設置 / 翌1877年(M10)3月23日に「仙台警察署」と改称(「仙台市史 年表」P81、「仙台市史 本編2」P650)
<県庁内に移転>
* 1879年(M12)1月、仙台警察署を勾当台の県庁内に移転、南町は南町分署になる(「仙台市史 本編2」P650)
* 1981年(M14)、南町分署を廃し再び仙台警察署とする(「仙台市史 本編2」P650)
<国分町へ移転>
* 1882年(M15)5月20日、新庁舎が国分町48に完成し移転(「仙台市史 年表」P84、「目で見る仙台の歴史」P116、「仙台市史 本編2」P651) / 赤煉瓦造2階建、上に時計塔、玄関に懸魚をつけ和風を加味(昭和2年に取壊し)
<宮城県警察本署>
* 1886年(M19)、宮城県の管轄として警察本署がおかれる
* 1887年(M20)、警察本署が勾当台通りの県庁構内へ新築移転
<交番所>
* 1926年(T15)、芭蕉の辻が有志の寄付で開設され巡査派出所と呼ばれる
<仙台警察署が東三番丁へ移転>
* 1928年(S3)、東三番丁(定禅寺通り)に庁舎新築し、9月23日、国分町の旧庁舎から移転(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P272では10月18日、「重訂 宮城県郷土史年表」P413、「目で見る仙台の歴史」P163) / 鉄筋コンクリート3階建て
<北警察署となる>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台北警察署、仙台南警察署開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307) / 仙台警察署庁舎を仙台北警察署が使用、南署は堰場に新設
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「仙台市史 本編2」P650~653/「仙台市史 年表」P81、P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P413/「仙台市史10 年表」P272、P307/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116、P163
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「目で見る仙台の歴史」P116(M15、国分町に完成した仙台警察署)/同P163(S3年竣工の庁舎)
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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仙台の裁判所 |
仙台区裁判所 |
1876年(M9) |
仙台地方裁判所に併設されていた
・ 地方裁判所は宮城県全体を管轄
・ 区裁判所は、仙台市と周辺部の郡を管轄し、民・刑事の比較的罪の軽い事件や和解、調停や、刑事の略式手続、登記と戸籍などを扱う
* 1876年(M9)4月13日、「仙台区裁判所」設置
* 翌1877年(M10)、東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成
* 1881年(M14)10月6日、「治安裁判所」に改称
* 1890年(M23)11月1日、再び「区裁判所」に改称
* 1924年(T13)区裁判所は、仙台地方裁判所とともに、片平に移転(片平の宮城控訴院と合同庁舎となった)
☆ 東二番丁の「木造2階建庁舎」(写真99-096) は、地方裁判所・区裁判所が、1924年(T13)に片平丁に新築された「宮城控訴院」との合同庁舎(赤タイル張り洋館)に移転した後に改造され、1930年(S5)~1939年(S14)の間、仙台市立病院が使用 / 1939年(S14)にこの地に市立病院が鉄筋コンクリートの病院を新築する際に取り壊された
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城百科事典」P577、P597/「明治の洋風建築~宮城県~」P28~29/「新・目で見る仙台の歴史」P122
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99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117(東二番丁時代の庁舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(仙台区裁判所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(仙台区裁判所)
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仙台の裁判所 |
仙台地方裁判所 |
1876年(M9) |
地方裁判所は宮城県全体を管轄 / 仙台区裁判所を併設していた
* 1876年(M9)3月2日、「宮城裁判所」開庁(仙台地方裁判所と仙台地方検察庁の前身)
* 同年9月13日、「宮城裁判所」を廃止し、「宮城上等裁判所」(宮城控訴院、宮城高等裁判所の前身)と「一ノ関裁判所」(宮城・岩手両県を管轄)を設置
* 同年11月24日、「一ノ関裁判所」を仙台に移し、「仙台裁判所」(仙台地方裁判所の前身)を設置
* 1877年(M10)に東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成(仙台区裁判所と仙台裁判所の庁舎)
* 1881年(M14)10月6日、「仙台裁判所」を「仙台始審裁判所」と改称
* 1890年(M23)11月1日、「仙台地方裁判所」に改称
* 1924年(T13)、「仙台地方裁判所」は、併設の「仙台区裁判所」とともに、片平丁に移転(宮城控訴院との合同庁舎がT13年竣工 / 秋保石積赤タイル張り洋館)
<戦後>
* 1947年(S22)5月3日、仙台地方裁判所、仙台簡易裁判所設置 / 裁判所法、検察庁法が成立し、それまでの裁判所に付属していた検事局を分離し、仙台地方検察庁設置
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎) / 旧庁舎(赤タイル張洋館)はS50年9月に解体開始
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「仙台市史 年表」「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117に、『東二番丁時代の庁舎』
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火災(地域) |
北山 |
1876年(M9) |
* 1876年(M9)3月5日、北山で火災、一帯が焼失し、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、寂光寺なども類焼
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「仙台市史 年表」P81
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