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出典/参考資料 |
関連映像 |
公会と隣組 |
発足~廃止 |
1940年(S15)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した
「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461)
・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案
・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施
・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460)
* 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂)
「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう
親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」
大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人
当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、
これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51)
・6月に日本コロンビアからレコード化される
(唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子)
* 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合
* 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18)
* 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始
* 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる
* 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行
* 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止
* 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51
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公会の慰安演芸大会は、06-17、06-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板)
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満蒙開拓 |
宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団 |
1940年(S15)~1945年(S20) |
・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団
* 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人
・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地
・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人
・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168
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国民登録/勤労報国隊 |
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1940年(S15)~ |
<青年国民登録>
* 1940年(S15)9月、実施 / 満16歳以上徴兵適齢期以下の男子全部に職能申告を義務付け
<青壮年国民登録>
* その後に範囲拡大し、満16歳~40歳の一般男子、満16歳~25歳の一般女子(未婚)にも適用
<未婚女子の勤労報国隊>
* 1941年(S16)12月、仙台市では、“浮動労力”といわれた未婚女子の勤労報国隊が結成され、第1陣として隊員150人が12月15日、東京の陸軍被服本廠へ送り出され、1年間の長期作業に従事した
* 1943年(S18)、女子勤労報国隊員、仙台市内の女性70人が東京赤羽の陸軍被服本廠に入廠(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
<勤労報国隊>
* 1943年(S18)8月、政府、報国隊整備要綱と実施指導要領を通達 / 「男子は14歳以上50歳まで、女子(未婚)は14歳以上25歳までは、必ず、各職域、地域、団体ごとに編成する報国隊のいずれかに、また在学中の学生・生徒は各学校の報国隊に参加を義務付け / 報国隊を総合・一元的に指導訓練し動員その他を企画するため大政翼賛会県支部に県勤労報国隊本部、各市町村にも本部を置き、各本部長、役職員を置く / 全市民が翼賛体制のワク内にはめ込まれて、軍需産業その他の統制産業、農業、国防土木業、公務などへ動員され、1945年(S20)3月には本土決戦に備える国民義勇隊に移行していった。」
<青壮年国民登録を拡大>
* 1944年(S19)2月、さらに範囲拡大され、男子12歳~60歳、女子12歳~40歳までとなり、無職未婚の女子を残らず動員体制に組み入れた
(以上は、「仙台市史 続編第1巻」P44~45)
<国民義勇隊> → 参照:項目「国民義勇隊」
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P44~45/「仙台市史 特別編4 市民生活」P366/「日録20世紀 1945年」P16
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文字・漢字の表記 |
鉄道駅 |
1940年(S15)/1945年(S20) |
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35
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用語(大東亜共栄圏) |
用語の使用はいつ始まったか |
1940年(S15)8月 |
有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる
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「東洋経済新報社 百年史」P647
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紀元2600年 |
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1940年(S15) |
1940年(S15)
* 2月11日、紀元二千六百年奉祝建国祭
* 4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
* 6月19日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公祈誓大会
* 11月5日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公展
* 11月10日、皇紀二千六百年奉祝式典(宮城外苑)祝賀行事5日間(この日、宮城県をはじめ、各市町村、官衙、銀行、会社銀行等において一斉に挙行 / 午前11時25分、全国民が宮城遙拝、駅待合室やホームでは駅長の指揮で、列車の中では車掌の通報と汽笛の合図で全員が起立して遙拝し万歳を三唱した)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史10 年表」P297~299/佐々久「近代みやぎの歩み」P107/「ものがたり東北本線史」P512
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(3) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)2月10日、マッチ製造配給令施行(6月1日から東京市で切符制)
* 1940年(S15)2月13日、米穀配給統制規則を公布、施行
* 1940年(S15)3月28日、アルミ貨の10銭、登場
* 1940年(S15)4月8日、石炭配給統制法公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目を配給、切符制採用
* 1940年(S15)5月3日、東京で外米6割混入を配給開始
* 1940年(S15)6月1日、東京市など六大都市で、砂糖(1人1か月、0.6斤=360g)、マッチ(人数制)、米、みそ、塩、木炭など10品目が切符制になる / 11月1日、全国で実施
* 1940年(S15)7月6日、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造禁止(奢侈品等製造販売制限規則公布) / 一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた
* 1940年(S15)7月8日、マル公など価格表示義務の明確化始まる(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)7月10日、青果物配給統制規則を公布施行
* 1940年(S15)7月20日、菓子類に公定価格制
* 1940年(S15)8月1日、東京府、食堂・料理屋などでの米食使用禁止・販売時間制限等を実施(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)8月8日、小麦粉配給統制規則公布、うどん、そばが統制となる
* 1940年(S15)10月4日、砂糖、マッチ配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月24日、米穀管理規則公布(町村別割当供給制の実施)(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月25日、鶏卵配給規則を公布
* 1940年(S15)11月5日、大豆、大豆油等配給統制規則施行
* 1940年(S15)、この年、酒、ビールの製造を制限
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P24、P25/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17
仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P94(S20年、北材木町配給所でのコメの配給)/同P95(砂糖配給のお知らせ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P438(S15年、戦時中に配給演習を行う仙台味噌醤油小売商業組合)
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祝賀行事 |
紀元2600年 |
1940年(S15) |
→ 項目「紀元2600年」参照
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防空演習(防空訓練) |
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1940年(S15) |
* 1940年(S15) 東部特別防空訓練
第1次開始6月7日、第2次開始9月2日(20日か?)、第3次実施10月1日(5日間)
* 1940年(S15)11月、仙台市は公会の設置に伴い、家庭防空業務規程制定(翌16年5月から町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39/「仙台市史10 年表」P298~P299
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火災(地域) |
長町八本松 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼
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「仙台市史10 年表」P298
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博覧会・フェア |
紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15
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戦時衣料 |
国民服 制定 |
1940年(S15) |
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」(勅令)公布
・ 戦時下の衣装簡素化のため制定された
・ 男性用で、軍服をモデルにしたカーキ色(国防色)の服(5つボタン)
・ 「甲号」は、襟が立折襟式開襟で詰襟と開襟の両方で着られる/「乙号」は、襟が立折襟
・ 一着で仕事着、日常服、礼服を兼用できた(儀礼章をつければ礼服にも使用できた)
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仙台市史 特別編4 市民生活」P314/毎日新聞社「昭和史事典」P132/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27
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60-40/乙号は、24-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P50(国民服、カラー)
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戦時衣料 |
国民帽 制定 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」公布
・「烏帽子型」と「戦闘帽型」(陸軍略帽型)の2種あった
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毎日新聞社「昭和史事典」P132
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1940年(S15) |
・ 1940年(S15)1月、女学生服の日本化運動(腕と脚を隠す)
・ 1940年(S15)3月、紙糸を使った洋服登場
・ 1940年(S15)7月7日、七・七禁令(奢侈品等製造販売禁止規則) / 洋服の最高価格制限など
・ 1940年(S15)9月13日、中学校の制服、男子は国防色、女子は紺色
・ 1940年(S15)11月2日、国民服令が勅令で定められる / 型は4種 / 上着1号(甲号)は三揃背広を軍服化、2号は1号に準じた型、3号は一般背広の裁断によるもの、4号(乙号)はステンカラー5つボタンの軍服調のもので運動・作業用 / 上着も中衣も軍服に日本調をとりいれ動きやすい形にした
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50~51
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国民服は、60-40、乙号は、24-01、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図55)
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(1) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日、紀元2600年奉祝、興亜時局博覧会開催(西公園、41日間、市商工会議所主催)/ 「同博覧会に37万人が入場」(佐々久「近代みやぎの歩み」P107)
* 1940年(S15)9月17日、仙台市会の五会派、新体制に添うため会派解消を申し合わせる
* 1940年(S15)9月18日、宮城県庁総務部に国民精神総動員課新設、11月19日に国民精神総動員課を廃して振興課を新設
* 1940年(S15)10月12日、大政翼賛会発会式、近衛首相臣道実践を力説
* 1940年(S15)10月13日、大政翼賛・三国同盟記念宮城県民大会(追廻練兵場)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝大では新体制に即応し報国団結成
* 1940年(S15)11月23日、大日本産業報国会、創立
<産業報国会> 「国家総動員体制-翼賛体制のもとに、国民は居住地域での公会・隣組などに組織されたほか各職域を通じてそれぞれの「報国会」に組み入れられた。中でも従来、各事業場で自主的に組織されていた労働組合は官民一体の「産業報国会」(総裁は厚生大臣)に吸収された(昭和15年11月)」(「仙台市史 続編第1巻」P42)
* 1940年(S15)11月26日、仙台市の公会は18区、341公会成立し、各公会は直ちに隣組を結成す
* 1940年(S15)12月23日、大政翼賛会宮城支部結成式(県会議事堂)
* 1941年(S16)1月、大政翼賛会仙台支部結成(支部長は渋谷徳三郎仙台市長)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
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佐々久「近代みやぎの歩み」P107/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P474、P477、P479~480/「仙台市史10 年表」P298~300/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314
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軍事教練 |
大学も必須に |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする
* 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属
<東北帝国大学>
軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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軍需工場(宮城県内) |
海軍火薬廠、海軍工廠、陸軍造兵廠 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
→ 項目「陸海軍の工場(宮城県内)」の小項目「第一海軍火薬廠」「多賀城海軍工廠」「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」を見よ
・ 陸海軍は、宮城県内にそれぞれ直営の軍事工場を持っていました。民間工場も含めて軍需工場がこれだけ集積していた県は東北にはありません。(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156
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国民徴用令(1) |
施行/拡大 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
<国家総動員法>
* 1938年(S13)4月1日、国家総動員法(法律第55号)制定 / これにより、戦時の政府は広く労務・資金・物資・施設・事業・物価・出版などについて統制する権利をもつ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P313)
<国民徴用令>
* 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布(昭和14年勅令 451号)、7月15日施行 / 国民を兵役同様に身体検査し、強制的に軍需産業に召集して働かせることができるようになった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P313)
☆「国家総動員法に基づく国民徴用令により、軍需工場などへの強制徴用が可能となった。 徴用は『白紙招集』とよばれた」 (「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25) / 徴兵令状赤紙、徴用令状はシロ紙
☆「戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたもので、これにより国民の経済生活の自由は完全に失われた。」(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
☆「1939年(S14)7月公布とともに建築技術者850人が徴用されたが、1941年(S16)以降は大規模になり、敗戦時には総計616万人に達した。」(日本近現代史辞典P216)
☆「日本統治下の朝鮮では、1944年9月より女子を除いて実施され、1945年8月終戦までの11ヶ月間実施。いわゆる『朝鮮人強制連行』はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す。」(Wikipedia「国民徴用令」2020年2月版)
・ 強制連行された朝鮮の人々の中には、多賀城海軍工廠の建築現場などで非人道的な労働につかせられた人々がいる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P317)
・ 「朝鮮人の移動防止に関する件」(特高警察から宮城県知事への報告)→「県内には朝鮮人が2550人住んでいて、うち労務動員計画による移入朝鮮人は、大谷鉱山(現・気仙沼市、439人)、細倉鉱山(現・栗原市、474人)、鹿島組細倉出張所(63人)の合計976人。このうち3割強にあたる362人が逃亡中とあります。逃亡は宮城県だけでなく、全国的傾向だったようです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P74)
* 1941年(S16)8月、民間工場にも徴用労働者を配置(週刊20世紀)
* 1942年(S17)5月、企業整備令にともなって、中小商工業からの大量の転業者が、徴用の主な対象となる
・ 転業者は、軍需産業か満蒙開拓や国防的土木作業などにふりむけられた(「仙台市史 続編第2巻」P700)
・ 仙台の一部の商家の人々も国民徴用令により、常磐炭鉱や軍需工場に徴用された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P317)
* 1943年(S18)7月改正で、国民徴用令の拡大、会社ぐるみ徴用も始まる(「週刊20世紀」)
* 1944年(S19)9月、統治下の朝鮮でも男子に実施(Wikipedia「国民徴用令」)
<国民勤労動員令>
* 1945年(S20)3月、「国民勤労動員令」施行により「国民徴用令」廃止(「仙台市史10 年表」P311)
→ 項目「国民勤労動員令」参照
<関連項目>
* 1941年(S16)6月30日、陸軍徴用規則公布施行(「重訂 宮城県郷土史年表」P483)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P313、P317/「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P216『国民徴用令』/Wikipedia「国民徴用令」2020年2月版)/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P16/「仙台市史10 年表」P311/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P74
<参考> 「週刊20世紀 1939年」P8~9 『白紙が来る! 労働力調達の国民徴用令公布』
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「新・目で見る仙台の歴史」P162(徴用告知書)
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戦時中の勤労動員/就労規制(2) |
国民徴用令 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布
戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えた / S16年以降は拡大、S18年からは、会社ぐるみ徴用も始まる
→ 詳細は、項目「国民徴用令(1)」参照
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「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25 など
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発電事業 |
電力の国家統制(日本発送電/東北配電) |
1939年(S14)/1942年(S17) |
戦時体制の下、電力は国家管理となる
<日本発送電>
* 1939年(S14)、日本発送電株式会社設立(国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、東京電燈・日本電力など全国の電力会社の現物出資や合併によって設立された半官半民の特殊会社) / これにより、東北地方は仙台にある日本発送電(株)東北支店の所管となる
<昭和17年、東北地方は東北配電に一本化>
* 1941年(S16)8月30日、配電統制令が公布、即日施行
・ 全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を含めて全て解散
・ 1942年(S17)には全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この9配電事業体制の下で日本発送電と連携した配電事業が行われた
・ 東北送電(株)は解散し県営の3発電所とともに日本発送電に強制移管される → 仙台市電事業を除き、仙台市営と宮城県営のすべての施設が「東北配電」に移行
・ 仙台では当時、長町・原町周辺を中心に工場が増え始め、特に軍需関係産業には優先的に電力とガスの供給が行なわれた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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興亜奉公日/大詔奉戴日 |
興亜奉公日 |
1939年(S14)9月~ |
* 1939年(S14)9月から毎月1日実施 / 酒不買、ネオン消灯、禁酒禁煙、一汁一菜、など / S16年末で廃止、大平洋戦争開戦後のS17年1月からは、毎月8日を「大詔奉戴日」とする
・ 仙台市では、朝5時にサイレンを鳴らして市民に早起きをさせ、全市民に皇居や伊勢神宮への遙拝、戦没者などへの黙祷、日の丸弁当の強制、護国神社の工事に関して働くことや市内の清掃などへの奉仕活動が義務付けられた
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23/「仙台市史 特別編4 市民生活」P313
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市銃後奉公会 |
1939年(S14)4月~ |
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
* 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称
・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
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「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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第三十三師団 |
編制 |
1939年(S14)3月~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月、仙台市で編制、通称号は「弓兵団」
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より要約】1939年3月編成完結、武漢地区警備などに従事していたが、太平洋戦争開戦後は南方に転用。1942年2月ビルマ作戦、1944年3月インパール作戦、1945年1月イラワジ会戦などに参加。1945年5月中旬以降テナデリゥム地区の守備に従事。
* 敗戦時は、ビルマのタンザビア(「仙台市史 続編第1巻」P64)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P31~32、P68>
「日中戦争で、中国に派遣された郷土部隊は第二師団、第十三師団、第三十三師団の三個師団。第三十三師団(甘粕重太郎師団長)は中国中部に派遣、宇都宮と仙台の部隊で構成していました。」
「第三十三師団は太平洋戦争では、1942年(S12)2月、第五十五、第五十六、第十八の各師団とともに、中国から国境を超えてビルマ(現ミャンマー)に進撃。6月までに全土から敵を掃討しました。英国の植民地だったビルマの北部は連合国が中国国民党政府へ戦略物質を送る輸送路になっており、遮断と英国植民地のインドを英国から離反させるもくろみがありました。 最初のうちは火砲、弾薬も十分でないまま戦闘が続き、分厚い装甲の英国戦車に悩まされましたが、得意の夜襲、航空部隊の空襲、それにビルマ人の協力もあって、数十倍の英国軍、インド軍を破ることができました。」
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国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P31~32、P68
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(2) |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)3月5日、ゴム配給制限でテニスボールがなく、庭球を中止
* 1939年(S14)3月30日、中央物価委員会で、公定価格を決定(砂糖、清酒、ビール、木炭、絹製品など)
* 1939年(S14)4月12日、米穀配給統制法公布
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを廃止、陶製のボタンとなる(菅家年表)
* 1939年(S14)7月26日、米国、日米通商航海条約廃棄を通告(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)8月9日、新規の自家用車は不許可となる
* 1939年(S14)10月1日、石油、配給制となる
* 1939年(S14)10月18日、9.18ストップ令公布(価格等統制令、地代家賃統制令、賃金臨時措置令 / 物価・賃金などを9月18日現在を上限とする)(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)11月、30坪以上の木造住宅の新築を不許可
* 1939年(S14)11月6日、米穀配給統制応急措置令公布、農林省でコメの強制買上を実施
* 1939年(S14)12月1日、米穀搗精制限令(白米禁止令、七分づき以上を禁止)
* 1939年(S14)12月20日、木炭配給統制規則を公布
* 1939年(S14)、この年、ヤミ取引と売買が激増
* 1939年(S14)、この年、木炭バスが走り出す、急速に一般化
* 1939年(S14)、この年、門松も廃止
* 1939年(S14)、9.18ストップ令以降、ヤミ取引横行(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22、P23/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16
仙台の木炭供給事情や統制は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P22に記述あり
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金属回収 |
開始 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)2月16日、商工省、鉄製不急品の回収開始
* 1939年(S14)4月7日、宮城県内で金の提出運動始まる(各家庭は7月5日までに保有内容を申告)
* 1940年(S15)、米国などが、鉄くずや銅鉱石の日本向け輸出禁止
* 1941年(S16)9月1日、金属類回収令により金属回収開始
<仙台市では>
* 1941年(S16)10月1日(興亜奉公日)、仙台市では「戦争物資動員の日」と定め、回収強化 / 家庭の門扉、欄干、手すり、鉄瓶、傘立て、火鉢、洗面器、置物、花器、文房類まで回収
* 1942年(S17)1月20日、仙台市で一般家庭金属類特別回収(第2回特別回収、買上げ班が各戸を回り買上げ伝票に記入、財団法人・戦時物資活用協会が買上げ)
「1月20日、公会役員や中学生が14班に分かれて荷車やリヤカーに「金属特別回収訪問班」と書いた小旗を立てて各家庭をまわり供出を呼びかけました。 床の間の花瓶、仏壇に供えてあった花立て、大鍋、青銅の火鉢、傘立てなどの金属が提供されました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117)
* 1942年(S17)5月12日、工場、会社、商店、旅館、寺院などから金属回収が始まる(菅家年表)
* 1942年(S17)11月16日、ニッケル、銅貨も回収(10銭と5銭ニッケル貨、白銅貨)(菅家年表)
* 1942年(S17)11月~1943年(S18)2月、火の見櫓や家庭必需品を除く一切の銅鉄製品を回収
* 1943年(S18)8月、勅令改正で強化された
・「1943年8月、「金属類非常回収実施要領」が閣議決定され回収はより強化。 鉄製品では、門扉、鉄製ベッド、物干し、ストーブ、ロッカーなど、銅製品では新聞受け、シャンデリア、洗面機などが加えられ、公共物ではマンホール、交通標識、橋の欄干など。
仙台市立病院は昭和14年に鉄筋5階建てのビルに改修し、170台のベッドを購入したばかりでしたがこれも供出され木製に、片平の東北帝大キャンパスの周りを取り囲んでいた鉄製欄干もやはり木造に変わりました。
回収方法はよりシステム化され、隣組ごと日程を組み、会場では公会役員立ち合いのもと、買上げ者が物品を鑑定して値段をつけていきました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117~118)
* 1944年(S19)3月、仙台市電「芭蕉の辻線」のレールを回収
* 1944年(S19)9月15日、白金の強制買い上げ
* 1944年(S19)9月25日、銀の買上げ(まず、東京から始まる)
* 1944年(S19)、松島町字高城の松島橋、金属回収のため解体
* 1945年(S20)10月22日、金属回収令廃止
写真16-57と16-69は、金属回収で店の看板がなくなった仙台駅前
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仙台市での金属回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P25~27に記述あり
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台年表」P209、P214/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28~29/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P117~118
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16-71、16-57、16-69/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)/同P462(東裏丁公会の供出の様子、昭和17年)
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遺児の日 |
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1939年(S14) |
<戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~>
* 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年)
* 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年)
* その後も回を重ねるごとに人数が増えた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23
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ラジオ体操会 |
仙台の発会式 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)8月1日、全国ラジオ体操会始まり、仙台では東六番丁小で発会式
* 1951年(S26)5月6日、NHK、戦後につくられた新ラジオ体操初放送
* 1954年(S29)5月、宮城県ラジオ体操の会発足
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/[NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P30
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俯瞰撮影禁止など |
禁止決定 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止
* 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大
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「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台市警防団 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)、「警防団令」発令(勅令)、防護団と消防団を統合 / 警防団は、家庭防火群を引き継ぐ「隣組」の防空訓練を監視、督励する役割を担う / 隣組や家庭は、桶やバケツ、貯水槽などを備え、火叩きや水ひしゃく、ムシロや砂などの消火道具を用意しておく義務があった / 家庭にいる女性が防空頭巾や地下足袋などに身をかためて隣組ごとにまとまって動員され、水の入ったバケツを整列して手渡しでリレーし、火にかける、といった防空訓練が警防団の指導下に行われた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321)
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322)
* 1939年(S14)4月28日、「仙台市警防団」 ( 4月に県下一斉に組織)/ 同年1月20日(3月?)に解散した消防組(警察署長の指揮下)と防護団の組織と役割を引継ぐ / 警防団は、地方長官の監督のもとに警察署長の指揮を受ける仕組みで、カーキ色の制服に黒の戦闘帽、ゲートル姿
・ 仙台市警防団は全市で3411、警防団長は市長、国民学校の学区ごとに分団があり、役員は在郷軍人、青年団員、医師、薬剤師会会員、婦人団体など。 戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
* 1944年(S19)4月1日仙台警防団を解団し、「仙台北警防団」および「仙台南警防団」を新設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322/「仙台市史 年表」P110、P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P468、P501/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P39/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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隣組の防空演習は、76-10、16-10、16-11
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防空演習(防空訓練) |
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1939年(S14) |
* 1939年(S14)5月18日、第一次防空訓練開始
* 同年7月24日、第二次防空訓練(5日間実施)
* 同年8月24日、内務省、家庭防空隣保組織要綱通牒(町内防空業務を隣組へ統合)
* 同年10月22日、第三次防空訓練(一週間実施)
********************
* 同年7月22日~一週間、仙台を中心とする防空演習(仙台駅が爆撃をうけたという想定で消火避難訓練)(「ものがたり東北本線史」P510)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台市史 10 年表」P295、P296/「ものがたり東北本線史」P510/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39
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仙台市立病院 |
改築竣工~戦災焼失 |
1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設
* 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工
(鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階
5,211平方メートル 病床数170床)
* 後に増床も行われた
* 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129
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35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」
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ネオンサイン(全廃) |
全廃決定 |
1939年(S14) |
* 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された
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岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16
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宮城県護国神社 |
招魂社を改称 |
1939年(S14) |
* 1904年(M37)8月28日、本丸跡に「招魂祭殿」成る(「仙台城」P233)/ 本殿は神明造銅板葺き、前に土間式瓦葺の拝殿 / 毎年4月30日に盛大な招魂祭
* 1904年(M37)8月28日、「招魂社」が仙台城本丸跡に竣工
* 1939年(S14)4月1日、招魂社を「宮城県護国神社」と改称
* 1939年(S14)4月10日、護国神社法制定、招魂社を県護国神社と改め、社殿改築に着手(「仙台城」P234)
・ 改築は全額寄付(総額みこみ25万円、県費、多額納税者、銀行会社、学生生徒、仙台市は市民への割当、他の市町村)でまかない、工事には軍隊、学生生徒、青年団が参加(「戦争のころ 仙台、宮城」P38、出典は「宮城県知事事務引継書」)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P234/「目で見る仙台の歴史」P142/「重訂 宮城県郷土史年表」P331、P467、/「仙台市史 年表」P92、P110/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38
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宮城県護国神社は、16-06、16-07/ 招魂社の時代は、99-159、98-091、「目で見る仙台の歴史」P142に「本殿唐門」と「拝殿」
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博覧会・フェア |
東北振興大博覧会(中止) |
1939年(S14) |
* 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(仙台市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462)
→<編者注>予定したが昭和14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10)
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「仙台年表」P208/仙台市史続編第1巻P10
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1939年(S14) |
・ 1939年(S14)3月、織物用原紙として紙糸の利用はじまる
・ 1939年(S14)4月24日、国産羊毛の購買禁止 / 洋服はすべてスフ時代に
・ 1939年(S14)8月、商工省による染色価格の統制により、男子用服地はカーキ色を主とした濃紺あるいは黒の3種に、女子用服地は柄物減少し10種類以内に
・ 1939年(S14)11月、国民服制定権限が陸軍被服廠に移り即時実行された
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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木炭バス(仙台) |
登坂テスト成功 |
1939年(S14) |
仙台市街自動車、初めての代燃装置をつけた木炭バスが仙台城址入口の登坂テストに成功
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P90
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98-105
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戦時中の勤労動員/就労規制(1) |
国民職業能力申告令 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)年1月7日、公布 / 当初は、申告を義務づけられた特定の職種の技術者などが対象
* 1941年(S16)12月、改正(男子16~40歳未満 女子未婚者16~25歳未満が登録対象に)
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「週刊20世紀 1339年」P8~P9
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富国生命館(国分町) |
完成~解体 |
1938年(S13)~1987年(S62) |
* 1938年(S13)10月、完成(国分町・魚町南西角)
* 1945年(S20)秋、進駐軍に接収され、軍事占領業務を司どる「宮城軍政府」がおかれた
* 1987年(S62)1月21日、解体
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「続・ 宮城県郷土史年表」P218
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戦前は、99-027、99-028/ 空襲後は53-80/ 戦後は、20-03
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍幼年学校、三神峯に復活 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」復活、開校式
榴ケ岡にあった「仙台陸軍幼年学校」は1924年(T13)に廃止されるが、S13に復活(校舎は三神峯に設置)
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「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 年表」P99、P109
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仙台七夕 |
戦時中の休止 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~ 出典は、右欄の1)2)3)4)に ~
1) 1938年(S13年)から、戦前の仙台七夕は中止となった(日中戦争の本格化により)
2) 仙台七夕祭、S13年に自粛、翌年から廃止
3) 1939年(S14)8月6日、仙台七夕の飾りつけを廃止す
4) 1939年(S14)、8月6日から始まる仙台の七夕は廃止と決定した
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1) 阿南透 都市祭礼「仙台七夕まつり」の成立と変容 P8/
2)「仙台市史 年表」P109/
3)「仙台年表」P209 (その出典は「河北新報」)/
4)「ものがたり東北本線史」(鉄道弘済会東北支部)P510
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(5) |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~1935年(S10)~1937年(S12)、年表に記載なし~
* 1938年(S13)2月1日、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・美濃部亮吉ら労農派検挙(第二次人民戦線事件)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P15)
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292)
* 1938年(S13)2月1日、各公私立大学教授中のグループたる所謂新装共産党に対し三府六県に亘り第二次検挙(35名)を行う(「重訂 宮城県郷土史年表」P462)
~1939年(S14)~1944年(S19)の間、年表に記載なし~
<敗戦後>
* 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所より春日庄次郎ら共産党員を釈放(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
・ 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所に収容されていた政治犯、岡邦雄、赤木健介、春日庄次郎らが、前夜来の雨の中を、栄養失調の姿で出所した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245)
* 1945年(S20)10月4日、GHQ、治安維持法・国防保安法廃止、政治犯即時釈放、特高警察廃止、天皇制批判の自由を指令(「仙台市史10 年表」P310)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15/「宮城百年」(毎日新聞社)年表P299/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P292、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P462、P506/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P265(S13年2月2日、宇野弘蔵東北帝大法文学部助教授らの検挙を伝える「河北新報」)
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国鉄(鉄道省時代) 2 |
戦時輸送(貨物優先体制) |
1938年(S13)~1943年(S18) |
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1938年(S13)6月、鉄道輸送は旅客より貨物重点方針決定、戦時輸送優先(全国鉄道局長会議)
* 1938年(S13)、仙台鉄道局内に第1鉄道輸送司令部仙台支部設置(司令官は大佐)、1943年(S18)に仙台地区司令部となり(司令官は大佐)、仙台駅、弘前駅には停車場司令部が置かれた
* 1938年(S13)10月1日、銑鉄局管内で「銃後弁当」売り出し(15銭)
* 1939年(S14)11月15日、ダイヤ改正、旅客を従、貨物列車を主とする
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語の表示が消える(菅家年表P25)
* 1942年(S17)10月6日、閣議、戦時陸運非常体制を決定、東北本線は石炭輸送第一(北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送)
* 1943年(S18)2月28日、国鉄乗客指定制実施(厳しい旅行制限)、食堂車、寝台車完全廃止
* 1943年(S18)3月10日、仙鉄局、11本の貨物列車新設(3月11日、石炭専用列車スタート)
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
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満蒙開拓 |
宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す
・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る
・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった
・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練
・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた
・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169
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学徒勤労動員 |
アウトラインと宮城県内の状況 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314>
・ 労働力不足に対応するための中等学校生徒以上に対する集団勤労は昭和13年、文部省の「集団勤労作業に関する訓令」に始まるがこれが激しくなったのは昭和16年秋ごろから
・ 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」により、「1年を通じて30日以内、授業を廃して増産運動に協力すること」を命じられる
・ 1943年(S18)10月、閣議決定「教育に関する戦時非常措置」により、「在学期間中1年につき3分の1に相当する部分が学徒動員にあてられる」 / この傾向はさらに強化されて、「工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」(昭和19年?)、「学徒勤労の徹底強化に関する件」(昭和19年7月)などにより、「国民学校高等科生徒の動員や、中等学校3年生以上の深夜労働が認められる」ようになる
・ 仙台市においても、昭和16~17年は主として近郊農家の田畑の除草、収穫の手伝いなどだったが、18年になると男子は開墾、湿田の暗渠排水、製炭作業のほかに、原町の陸軍造兵廠、玉浦飛行場(仙台空港の前身)などの整地作業が加えられ、女子は被服廠の縫製作業に動員され、農家の手伝いには低学年を動員
・ 昭和19年にはいると、上級学年は主として日立、川崎、逗子など県外の軍需工場に動員され、低学年生徒は市内の軍需品関連工場に動員されるという状態で、仙台貯金局に動員された仙台女子商業や宮城県第一高等女学校生徒はむしろ恵まれたものとして、うらやまれた。
<編者注>
(1) 上記「閣議決定」「要綱」などの年月は、編者が補足、ただし、工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」は年月不詳
(2) 仙台の中等学校等の勤労動員の具体例 → 当データベース<仙台よみとき用語年表>の項目「戦時下の学園」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P49~50に、昭和18年春と夏の農繁期に農作業支援で動員された学徒や職域の団体(報国隊)別の動員人数、学徒が動員された軍需工場名など記述あり
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍予備士官学校 |
1938年(S13)~1939年(S14)/1943年(S18)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)8月13日、仙台市川内の陸軍教導学校内に「仙台予備士官学校」設置、開校式 / 1939年(S14)3月に盛岡近郊へ移転
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(1) ~勤労奉仕を義務付け~ |
1938年(S13)開始~1943年(S18) |
<その他の文献、年表より>
* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
→ この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付けられる
* 1939年(S14)12月、青年団、中学生の「炭焼勤労奉仕」を準正課へ(菅家年表)
* 1940年(S15)10月20日、東北帝大生、八木山で第一回炭焼勤労奉仕(「重訂 宮城県郷土史年表」P477)
* 1941年(S16)1月14日、農繁期の学徒動員が始まる(菅家年表)
* 1941年(S16)12月1日、国民勤労報国協力令施行
* 1942年(S17)1月9日、国民勤労報国施行規則による学徒出動命令
* 1943年(S18)6月25日、学徒戦時動員体制確立要綱決定
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P109/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台年表」P212/「仙台市史10 年表」P302、P303、P306、/「重訂 宮城県郷土史年表」P477、P486/「仙台年表」P10/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313
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98-089
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戦時中の勤労動員/就労規制(3) |
学徒勤労動員/学徒勤労動員令 |
1938年(S13)開始/1944年(S19)強化 |
1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった児童生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科(現在の小学校)以外の学校は授業停止となる
* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒 / この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付け
* 1944年(S19)8月23日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行
→ 詳細は、項目「学徒勤労動員」へ
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269『学都の戦時体制』 など
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ヒトラーユーゲント一行が来県 |
来県 |
1938年(S13)9月 |
ドイツから日独親善のため来日したヒトラーユーゲント一行が宮城県に来県
* 1938年(S13)9月11日、ヒトラーユーゲント派遣団歓迎招待会開催
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「仙台市史10 年表」P294/「重訂 宮城県郷土史年表」P464
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19-01/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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木炭バス(東京・青バス) |
東京の青バスが木炭バスへ改造決定 |
1938年(S13)7月 |
昭和12年夏からの日中戦争の影響でガソリンの民需用使用が大幅に制限され、代替燃料への切り替えを余儀なくされた
* 1938年(S13)7月、東京の青バスは、すべてのバスを年内に木炭バスは改造することを決定
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「日録20世紀 1938年」P30
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(1)~動員日数の拡大~ |
1938年(S13)6月~1941年(S16)12月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入し、青年男子が大量出征
<中等学校生以上、夏休みなどに、3~5日間勤労動員>
* 1938年(S13)6月、文部省「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
・夏季休暇の始期終期その他適当な時期に、中等学校低学年は3日、その他は5日を標準に、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡単な作業を行う
<授業時間を割いて動員>
* 1939年(S14)3月、文部省指示「中等学校以上に対し、集団勤労作業の漸次恒久化」
・学校の休業時だけでなく随時行い正課に準じて扱う。主として、木炭増産,飼料資源の開発、食糧増産など
<年に30日以内、勤労動員>
* 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」
・年に30日以内は授業を廃し作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認める。
<学校報国隊結成>
* 1941年(S16)8月、文部省の指示で、全国の諸学校で「学校報国隊」が結成された
<大学・高等専門学校生、修業年限半年短縮>
* 1941年(S16)10月、大学・高等専門学校生の在学または修業年数が6か月短縮(軍要員と軍需生産要員の充足のため)
* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争へ突入
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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