項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
冷害・凶作 |
昭和6年 |
1931年(S6) |
<昭和6年>
* 1931年(S6)、冷害
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4、昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356(宮城県の米収穫高グラフ)/同P360(婦女売買救済運動本部設置をつたえる新聞記事)/同P361(窮民救済のため設けられた公益質屋)
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商店など |
信用堂洋服店 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、信用堂洋服店、大町五丁目194で創業
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「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P107
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99-042/ 20-46に看板あり
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商店など |
仙台会館 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、仙台会館、旧・大町五丁目20で創業 / 洋食・カフェー
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あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P107
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20-49
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競馬 |
長町競馬場の開設認可 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)4月18日、長町競馬場、開設認可
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「仙台市史 年表」P105
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瑞鳳殿 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
仙台市経ケ峯にある藩祖伊達政宗公の霊廟 / 経が峯には二代目忠宗公霊廟「感仙殿」、三代目綱宗公霊廟「善応殿」もある / 感仙殿は瑞鳳殿と同等に華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊された
* 1928年(S3)、鐘楼堂落成(350貫の大梵鐘を釣る)
* 1931年(S6)12月14日に瑞鳳殿と感仙殿が、旧仙台城の大手門、隅櫓ともに国宝に指定される
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P414/「仙台年表」P202/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187
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99-084、99-085、99-086、99-087、44-21、53-56、53-57/「目で見る仙台の歴史」P46~49(瑞鳳殿、涅槃門、本殿正面、本殿厨子、梵鐘)/同P57~58(空襲焼失以前の感仙殿、厨子、門)/同P60(戦災焼失以前の善応殿霊屋)
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日米野球 |
米大リーグ選抜対明治大学 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)11月10日、八木山球場で、「アメリカ大リーグ選抜(グローブ投手やゲーリッグら)対明治大学チーム」の日米野球試合(米13-明治2)が行われた
(【「仙台はじめて物語」P235~241】に詳述あり)
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「仙台はじめて物語」P235~241/「重訂 宮城県郷土史年表」P428/「仙台年表」P202
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98-064 (「新・目で見る仙台の歴史」P155の米チーム一行記念撮影と同じ)
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隅櫓 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)12月14日、大手門脇の隅櫓が国宝に指定された(大手門、霊屋にある瑞鳳殿、感仙殿とともに)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P428
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99-081、65-08、08-02、53-44、73-01/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P249
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宮城県庁舎 |
昭和の庁舎竣工(赤レンガ庁舎) |
1931年(S6) |
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった(「番丁詳伝」P123)
* 1929年(S4)6月27日、工事着手
* 1931年(S6)9月30日、県庁舎議事堂竣工
(鉄筋コンクリート造、一部鉄骨、地上4階地下1階)
* 1952年(S27)9月30日、東庁舎竣工(鉄筋コンクリート3階建、建坪684.0坪、延坪2432.63坪)
* 1952年(S27)12月10日、東庁舎落成式
* 1953年(S28)9月15日、宮城県印刷所を県庁構内北一番丁側に新設落成(鉄筋コンクリート2階建)
* 1986年(S61)~1987年(S62)、取り壊し
* 1986年(S61)8月9日、本庁舎改築に伴いお別れ参観デー
* 1986年(S61)8月11日、赤レンガ庁舎お別れ式、花時計も撤去
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「番丁詳伝」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P558、P561、P567/「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42/「続・ 宮城県郷土史年表」P209/
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99-008、99-009、18-05、53-16、22-37/「目で見る仙台の歴史」P162/東庁舎は、53-111
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37)/同P115(S61、さようなら県庁舎看板と正面玄関)
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金富士(料理店) |
開店~閉店 |
1930年(S5)~1971年(S46) |
玉澤横丁にあった、西洋料理と中華料理の店
・戦前、「銀のスプーンで」食べるカレーライスが人気だった
・「崑崙(こんろん)山」と名付けた庭で有名だった /
<崑崙山(息女の石井直子さん談)>
「この庭は、初代の経営者石井金三朗が全国を回って集めた天然石で築造、昭和初期に1000円もした高価な石も使われた。 庭の地下に水槽をつくり電動ポンプで水をくみ上げた滝もあった。庭にある鳥居も石で出来ていた。帽子をかぶった人が腰かけているのうな石もあった。トイレにも自然石が使われていた。土井晩翠が詩に詠んだほどの名所だった。」
* 1930年(S5)開店(玉沢横丁)
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1948年(S23)、再建し1971年(S46)まで営業した
【「仙台年表」P201】「昭和5年、仙台国分町の金富士寿司経営者、石井金三郎氏、石崑崙を築く。面積260平方尺、高さ20尺、集石に5年、築造に1年、大小の石は北海道アイヌから九州迄に及び10万円を費やす」
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金富士の家族談/仙台年表P201
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戦前は98-110、71-01、71-02、71-03、71-04、71-05、71-06、戦後は71-07、71-08、71-09、201-43
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八木山遊園地 |
工事完了 |
1930年(S5) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が、所有する土地に私費を投じて野球場とともに建設し、遊園地(約10万坪)は7年後に仙台市に寄付した(八木山公園は一時、宮城県に寄付したが、昭和7年八木氏に返還され、9年4月に改めて仙台市に寄付された) / 公園には、野球場、遊園地、吊り橋、動物舎、散策路などがある(「仙台市史 本編2」P377)
* 1937年(S2)9月、起工
* 1930年(S5)4月、「八木山遊園地」と「公園」を開設(「仙台市史 年表」P105)
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」、仙台市に寄付される(「仙台あのころこのころ八十八年」P247)
* 1936年(S11)5月28日、「八木山遊園地」を仙台市に寄付(仙台市会が寄付採納可決)
* 1937年(S12)、仙台芸妓組合、八木山遊園地、沿道、紅葉ケ谷に桜800本を植栽し、仙台市に寄付(「仙台あのころこのころ八十八年」P248)
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「仙台市史 年表」P105、P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P415/「仙台あのころこのころ八十八年」P247、P248/八木山公園については、「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり
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野球場 |
澱橋野球場 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)10月、澱橋野球場開設(角五郎町、澱橋わき)
* 1940年(S15)5月5日、澱橋総合運動場竣工、落成式
* 澱運動場は、戦後一時、米軍(進駐軍)が接収
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「重訂 宮城県郷土史年表」P422/「仙台市史10 年表」P298/「仙台年表」P210/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328/「仙台あのころこのころ八十八年」P246、P248
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藤崎(戦前期) |
改称 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)5月1日、株式会社藤崎呉服店、株式会社藤崎と改称
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「仙台市史 年表」P105/藤崎170年のあゆみ」P255
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医療機関 |
仙台市立病院 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始
(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造)
→ これ以降は、項目「仙台市立病院」へ
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防空演習(防空訓練) |
宮城県で初の防空演習 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)11月4日、第二師団司令部、仙台市を中心に1市4町18カ村で防空演習を実施させる(仙台で初の防空演習)/ NHK仙台放送局が防空演習を中継放送
(* 1931年(S6)9月18日、満州事変勃発)
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台放送局60年のあゆみ」P3/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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精養軒 |
芭蕉の辻の洋館で営業 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)七十七銀行(M36年~S4年7月18日)のあと
(2)精養軒(S4年~)
(3)日本銀行仙台支店(S16年10月10日~)が使用し、
仙台空襲(S20年7月)で焼失した
・ サービスガールは、紺の着物にエンジの帯を締め、白いエプロン姿(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)
/ 注:この精養軒は東京の支店で、明治初年に東一番丁に開業した「精養軒」(牛鍋・洋食)とは関係が無い(「東一番丁物語 明治編」P157)
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柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P157/「仙台市史10 年表」P302/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
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芭蕉の辻の洋館 |
精養軒が使用 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
* 1929年(S4)~1941年(S16)、精養軒(洋食レストラン)が使用
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99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
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野球場 |
スポーツマン球場 |
1929年(S4)~1933年(S8) |
* 1929年(S4)6月、杉村多利治氏(のちの日乃出映画劇場社長)が国分寺薬師堂北隣につくる / ライトの塀外は薬師堂の杉木立でファンは木に登って見物した
* 1929年(S4)6月(7月)、スポーツマン球場設立(宮城野原南部、国分寺薬師堂北隣)
* 1933年(S8)、廃止
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「仙台市史 年表」P105/「重訂 宮城県郷土史年表」P416/「仙台あのころこのころ八十八年」P70
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午砲(午報) |
サイレンで |
1929年(S4)~ |
* 1929年(S4)1月16日に完成した仙台市役所新庁舎(白亜の市庁舎)の屋上にサイレンを設置
* 同年2月1日から、サイレンで正午を報せた(午報)
(これにともない、川内の第二師団内で大砲を打って報せた「午砲」は廃止)
* 1945年(S20)9月25日、戦時中中止していた仙台市の午報を3年5か月ぶりに復活
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
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「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
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99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
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八木山球場 |
開場 |
1929年(S4) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が所有する土地に私費を投じて建設し、宮城県に寄付し「宮城県営野球場」となる / 工費40万円
* 1927年(S2)9月、八木山球場を起工
* 1929年(S4)6月23日、開場(開場同日に宮城県に寄付し、「宮城県営八木山球場」となる(「仙台市史 年表」P105、「重訂 宮城県郷土史年表」P415、「宮城県の百年」年表、「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
* 1930年(S5)6月、八木山球場で、三田・稲門野球戦(三田は慶応大学、稲門は早稲田大学)
<開催された日米野球>
* 1931年(S6)11月10日、米大リーグ選抜対明治大学(米13-明治2) / 大リーグ選抜にはグローブ投手やゲーリッグらが参加( →「仙台はじめて物語」P235~241に詳述あり)
* 1934年(S9)11月6日、米大リーグ選抜と全日本選抜 ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ(「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
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「仙台市史 年表」P105、P107/「重訂 宮城県郷土史年表」P415、P420、P428 / 「新目で見る仙台の歴史 P155」/「仙台はじめて物語」P235~241/「仙台あのころこのころ八十八年」P70/「宮城県の百年」年表
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野球場 |
八木山球場 |
1929年(S4) |
→ 項目「八木山球場」参照
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競馬 |
愛子競馬場開設 |
1929年(S4) |
* 1929年(S4)11月21日、愛子(あやし)競馬場開設
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「仙台市史 年表」P105
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朝鮮館 |
建設~取壊し |
1928年(S3)~1950年(S25) |
* 1928年(S3)、「朝鮮館」建設
昭和3年に仙台で開かれた「東北産業博覧会」の際、桜ケ岡公園に朝鮮総督府が出品する展示館として建てられた極彩色の建物(場所は桜が岡公園の北西の隅)
* 1930年(S5)、仙台市が物産陳列室を設ける(博覧会後、寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
* 1945年(S20)の仙台空襲では焼失を免れたが、1950年(S25)に取り壊された
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「仙台市史 本篇2」P370/「仙台市史10 年表」P275
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53-32、08-05 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P86
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警察(戦前) |
特別高等警察(特高) |
1928年(S3)~1945年(S20)10月 |
<「戦争のころ 仙台、宮城」P17~18より>
・ 特高警察は、内務省警保局を頂点に各府県の警察署特高係までを網羅した組織で、各県の特高、外事課長は内務省の人事で赴任した。 少数のエリートとその下で働く大勢の特高警官という構図。
・ 宮城県警察部は旧県庁2階の一角にあり7課(警務、警防、保安、刑事、工場、衛生、特高)85人体制
・ 特高課は刑事課と並ぶ20人の大世帯で、県内22警察署に100人以上の特高係が置かれ、職務は左翼、右翼、労働農民、内鮮宗教、検閲、外事、時局対策の7セクションにわかれていた
・ 1945年8月15日、戦争に負けると、内務省は全国の「特高警察」に捜査書類を一切焼却するよう指示(このため、宮城県公文書館に特高関係資料がない)
・ その50日後、GHQは政治的、宗教的自由を制限する治安維持法を廃止し、政治犯も釈放
・ 内務省と特高は解散を命じられ、内務大臣や警察首脳部、すべての特高警察官は休職扱いとなって後に罷免される / その数、全国では5000人、宮城県警察部では特高課長のほか一線署員も含めて90人が対象になった
*******************************************
* 1928年(S3)、「特別高等警察」(特高)、全国一律に未設置県にも設置された
* 1928年(S3)7月、宮城県警察部に特別高等警察課設置
<言論検閲も担当>
「宮城県特高課には、検閲係4人が専従、河北新報社本館1階には特高課用の部屋があって警官がしょっちゅう出入りしていたとの話もあります。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P111)
* 1945年(S20)8月末日、宮城県特高課廃止(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県特別高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
* 1945年(S20)10月11日、宮城県特高警察官91名の休職の臨時措置
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「宮城県史7 警察」P243/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P17~18、P111
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99-125(左下に宮城県特高課検閲済の字あり)
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街灯(東一番丁北部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型)
・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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61-16、22-51、53-34、53-13、53-23、99-041、99-052
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街灯(東一番丁中央部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁中央部(立町通角~大町通角の間)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置
・ 東一番丁通り中央部(立町通角~大町通角の間)の「スズラン灯」は1基5灯型(電球が球形と釣鐘型がある)
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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99-018、61-11、11-03、/傘が釣鐘型は、20-25、99-037
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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街灯(旧・大町一、二、三丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」
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街灯(旧・大町四丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町4丁目の街灯は1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ、アームは道に直角)/ T14年頃の写真 43-25 には街灯はなかった / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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53-46、22-52、20-46、20-47
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街灯(国分町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「国分町」に1基1灯型(柱の上に1灯)が写る(ただし、国分町4~5丁目とそれ以北の国分町では、同じ1灯型でも形が違う)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「国分町4、5丁目」、同「国分町(その2)
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街灯(新伝馬町) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町]
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街灯(南町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01
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街灯(南町通り) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-91、43-30
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦前(1) 1灯型 |
1928年(S3)?~1935年(S10)頃 |
戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型 / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町四五丁目」に1基1灯型が写る / 昭和7年の絵葉書、昭和10年のスタンプがある絵葉書では1基1灯型
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1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町五丁目」、20-47、22-27
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仙台市電 |
芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止 |
1928年(S3)4月~1944年(S19)3月 |
・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線)
・ 「芭蕉の辻」が終点
* 1928年(S3)4月8日開業
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
* 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113)
→ <編者注> この日付は間違いと思われる
「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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22-33、53-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰)
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仙台市電 |
環状線(循環線)完成 |
1928年(S3)3月 |
* 1928年(S3)3月28日、県庁前~大学病院間(1.7キロ)が開通、これで環状線(循環線)全線(6キロ)が完成
・ 仙台駅前~錦町~県庁市役所前~北四番丁~西公園~南町通~仙台駅前(停留所名は、1976年市電廃止時の名称)
・ 西公園において開通式挙行
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P104
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201-01、201-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(循環線が完成したころの乗り換え乗車券)/同211(S49年、仙台駅前停留所の市電、カラー)
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東北産業博覧会 |
開催 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)4月15日~6月8日、仙台で、「東北産業博覧会」開催
・ 仙台商工会議所主催
・ 第一会場は川内の元騎兵隊跡(新築早々の仙台第二中学校)
第二会場は桜ケ岡公園(=西公園)
第三会場は榴ケ岡公園
・ 第一と第二の会場間には、広瀬川をまたぐケーブルカー架設、広瀬川に向かってウォーターシュートも設置
・ 「県庁舎(昭和6年)、市庁舎の改築(昭和4年)と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
「東北産業博覧會記念寫眞帖」の記述
→「不景気挽回策と銘打って、延期5日間を加えて55日間開催、入場者は昼間153万1千人、夜間13万2千人。 市民から集めた寄付金十余万円・・・・・・」
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「東北産業博覧會記念寫眞帖」/「番丁詳伝」P123
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「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」/「新・目で見る仙台の歴史」P143、P148/99-149、34-01、61-13、63-10、95-01、95-02/「東北産業博覧會記念寫眞帖」 に関連写真多数/「仙台市史 特別編4 市民生活」P42(東北産業博覧会ポスター2種、カラー)/同P233(博覧会会場全図、カラー)/「新・目で見る仙台の歴史」P148(会場間のケーブルカー、第一会場入場門、ポスター)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P233(会場図、カラー)
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NHK仙台放送局 |
ラジオ放送開始 |
1928年(S3) |
* 日本放送協会は、1927年(S2)年6月9日、仙台に東北支部を設置
* 1927年(S2)8月11日、原町の送信アンテナ設置のための小作地取り上げ反対町民大会 / 農民と住民が反対運動 / ビラに、「町会議員は殆んど皆弱腰になったぞ!」「彼らの陰謀をたたき潰せ! 一萬円寄付には絶対に反対しろ!」
* 1928年(S3)6月16日、東北地方で初めてのラジオ放送が仙台放送局から開始された
<初期のラジオ中継放送>
* 1929年(S4)8月14~15日、「野外納涼盆踊り大会」中継(桜ケ岡公園から)
* 1929年(S4)9月22~23日、ミシガン大学との野球戦中継(八木山県営グラウンド)
* 1934年(S9)5月16日、NHK仙台中央放送局と改称
<戦後>
* 1945年9月23日、進駐軍放送のため施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始
* 1946年(S21)6月9日、仙台復興祝賀街頭音楽大会、放送
* 1946年(S21)7月29日、東北初の放送討論会開催(会場は仙台南松竹劇場)(「重訂 宮城県郷土史年表」P512)
* 1948年(S23)6月、仙台局開局20周年、NHKラジオ番組「二十の扉」公開放送
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「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P1、P9、P21/「仙台市史 年表」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P512/「仙台市史10 年表」P313/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260/「新・目で見る仙台の歴史」P148
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44-11、25-01、25-06など「写真データベース」分類F-24の写真全部/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234(S3、リーフレット「NHK仙台放送局開局」)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234/「目で見る仙台の歴史」P160に、本放送開始時のNHK仙台局舎/「新・目で見る仙台の歴史」P148(アンテナ反対町民大会ビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P509(同ラジオ送信アンテナ)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260の写真84(二十の扉公開放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P69(のど自慢、三つの歌、二十の扉各公開放送ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P175(NHK街頭録音)/「市民の戦後史(仙台市)」P42(放送討論会ステージ、NHK放送慰問団トラック、のど自慢会場東北劇場前の看板)/同P70(S27年、楽器店前でラジオ五輪実況を聞く人々)
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日本生命館 |
落成 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)
* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った
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渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209
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戦前は、53-91/戦後は、63-04、18-14、36-08
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日本農民組合 |
宮城県連合会大会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)、日本農民組合宮城県連合会第3回大会(仙台市公会堂) / ビラに書かれたスローガン(俺達の大会を守れ! 働く農民に土地を保証せよ! 土地取上絶対反対! 耕作権を確立せよ!)
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「新・目で見る仙台の歴史」P148
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(大会ビラにスローガン)
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博覧会・フェア |
東北産業博覧会 |
1928年(S3) |
→ 項目「東北産業博覧会」参照
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博覧会・フェア |
東北遺物博覧会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)4月、東北産業博覧会開催中、宮城県図書館と商品陳列所を会場に、伊達家の宝物を中心に、東北各藩の違宝を陳列した
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「目で見る仙台の歴史」P153
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「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」
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明治製菓仙台売店 |
芭蕉の辻/東一番丁 |
1927年(S2)~1945年(S20) |
<芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)
<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147
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芭蕉の辻の店は、53-49、99-046、22-33、99-026、64-05、99-028、98-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物)
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍教導学校 |
1927年(S2)~1943年(S18) |
* 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた
* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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仲の瀬橋(広瀬川) |
木造橋架橋/ゲルバー型に架け替え/二層構造の橋架橋 |
1927年(S2)/1956年(S31)/1980年(S55)or1983年(S58) |
(旧)中の丁から川内地区を結ぶ橋
* 1885年(M18)11月24日、広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
* 以前は私設の渡銭橋だった
* 1927年(S2)11月11日、第二師団工兵第二大隊の架橋演習により架設され竣工、開通式(S3年の「東北産業博覧会」に備え架橋) / 木造ポニートラス六連の橋で、長さ170.6m、有効橋幅5m
* 1940年(S15)9月5日、大雨による広瀬川氾濫で流失
* 1941年(S16)5月、工兵第二連隊の架橋演習として修築
* 1950年(S25)、出水時に橋桁、橋台など被災 その後復旧
* 1953年(S28)、架け替え着工
* 1956年(S31)9月に、ゲルバー型の鋼板桁橋完工(長さ163.3m、幅9m)
<二重構造の橋>
(注:Wikipedia「西公園」と、Wikipedia「仲の瀬橋」で開通年が異なる)
* 1980年(S55)8月、仙台西道路新仲の瀬橋下り車線完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P116)
* 1980年(S55)8月、二層構造の橋架橋完成(Wikipedia「仲の瀬橋」) / 上層の道路は地上の道路とつながり、下層の道路は仙台西道路(国道48号バイパス)として川内トンネルとつながる
* 1983年(S58)、仙台西道路の建設に伴い、2層構造になる
* 1983年(S58)5月14日、仙台西道路が暫定開通、同時に(新)仲の瀬橋も開通(Wikipedia「西公園」の年表)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412/「仙台市史10、年表」P270/「仙台市史 年表」P85、P104、P110、P111/「仙台年表」P210、P211/Wikipedia「仲の瀬橋」(2019年11月)/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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34-31-01、07-02-01、16-47、16-48 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P87(昭和3年)/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年架橋以前の傷んだ仲の瀬橋、S31年3月完成した新仲の瀬橋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図25~27(S26年木造橋、S54年高架橋工事中、H8高架橋カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P57(S37、カラー)
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七十七銀行 |
他行を合併 |
1927年(S2)、1932年(S7) |
<他行を合併>
* 1927年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
* 1931年(S6)11月27日、東北実業銀行、五城銀行と合併仮契約書(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)1月31日、七十七銀行が、東北実業銀行、五城銀行と合併し、七十七銀行に(「重訂 宮城県郷土史年表」P429)
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P356」より>
「七十七銀行は、第一次大戦後は、『米の七十七、繭の商銀』とうたわれ、宮城商業銀行とともに、県内各地に支店網を形成していった。 しかし(片倉製糸などの器械製糸工場におされて、取引先の)座繰製糸の不振によって、宮城商業銀行は大きな不良貸し付けを抱えることになり、1927年(S2)の金融恐慌をきっかけとして、仙台興業銀行ともに七十七銀行に合併されることになった。 さらに、七十七銀行は金融恐慌のさなかの1932年(S7)に東北実業銀行と五城銀行を合併し、仙台を中心とした地方の金融機関として生き残っていくことになる。」
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「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P429/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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仙台市電 |
大町1丁目~大学病院 開通 |
1927年(S2)4月 |
・ 1.2キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)4月1日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市電 |
光禅寺~県庁前 開通 |
1927年(S2)2月 |
・ 0.9キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)2月25日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市電 |
仙台駅前~光禅寺 開通 |
1927年(S2)11月 |
・ 0.7キロ
・ 駅から駅前電車通りを北へ向かう路線/環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)11月24日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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99-020/「市民の戦後史(仙台市)」P73(戦後20年代後半?の駅前電車通り)
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