仙台よみとき用語年表
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学徒勤労動員 文科省HPより(2)~さらに拡大し通年動員へ~  1943年(S18)10月/1944年(S19)4月  * 1943年(S18)6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」(閣議決定)
・学校報国隊の戦技訓練・特技訓練・防空訓練の徹底、女子は戦時救護の訓練実施

<勤労動員は1年の3分の1へ>
* 1943年(S18)10月、「教育に関する戦時非常措置方策」により、学校修業年限の抑制、学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等を決定 / 勤労動員を在学期間中1年につき、概ね3分の1相当期間実施 
* 1944年(S19)1月、「緊急学徒勤労動員方策要綱」決定
・動員期間は1年につき概ね4か月を標準とし、『継続して』行う」

<学徒の通年動員>
* 1944年(S19)2月25日、「決戦非常措置要綱」を閣議決定
・中等学校程度以上の学徒は、「今後1年、常時勤労その他非常勤務に必要に応じて動員」を決定
* 1944年(S19)3月、「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要項」を閣議決定
・1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導、教職員による勤務管理
* 1944年(S19)3月末、文部省、詳細な学校別動員基準を決定し指令 / 全国の学徒は、4月半ばごろから続々と軍需工場へ動員された

* 1944年(S19)5月、文部省が指示「勤務時間中に、軍事教育、教授訓育等のため、1週6時間を原則とする時間を設ける」 
文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した   
学徒出陣 徴集猶予停止  1943年(S18)10月  * 1943年(S18)10月、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴兵猶予停止)

「学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125   
戦時中の物資統制、使用規制 (6)  1943年(S18)  * 1943年(S18)1月27日、家庭用電力の節電を強化
* 1943年(S18)2月3日、節電のため月に2回、映画館を休館日に
* 1943年(S18)4月16日、緊急物価対策要綱決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)5月1日、薪が配給制となる
* 1943年(S18)5月18日、浴用石鹸を洗濯石鹸と同成分にする
* 1943年(S18)6月1日、告別式用のローソクは切符制で配給
* 1943年(S18)8月、警視庁では、医師のニセ診断書での特配受給者一掃を図る
* 1943年(S18)、この年、衣生活の簡素化、長袖やダブルの洋服も禁止
* 1943年(S18)、この年、物不足とヤミ値で物価上昇
* 1943年(S18)、この年の流行語「買い出し」   
* 1943年(S18)、この年、都会近県での買出しの一斉取締り強化(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)、この年、「決戦料理」の名で野草の食用奨励(岩波「年表 昭和史」)

<昭和18年現在の配給制は24品目>
米、みそ醤油、砂糖、塩、菓子、食パン、小麦粉、鶏卵、食肉、食用油、ミルク、乾めん、白玉粉、きな粉、木炭、衣料品、縫い針、布団綿、ガーゼ、脱脂綿・衛生綿、軍手・地下たび、釘、セメント、灯油、石けん、このほかに味の素、ちり紙もメーカーが配給制をとっていた。
<昭和19年に追加された配給制は13品目>
鮮魚類、豆腐・油揚げ、青果物、焼酎・ビール、牛乳、蚊帳、洋傘、薪、代用燃料、畳ござ、ろうそく、障子紙、和傘類
・清酒は毎回割当量を決め、ひとり1カ月2升以内、昭和19年になると2合になった。たばこひとり1日6本(昭和20年7月から3本)、石けんひとり1カ月入浴用45グラム、洗濯用60グラム、隣組を通じて購入券配布
<特別配給>
冠婚葬祭や出征、妊産婦、病気、災害、乳幼児には特別配給があって、病人、妊婦には鶏卵月20個と牛乳、出征者には清酒2升、冠婚葬祭には砂糖、みそ醤油、酒、塩が配給される。
戦局が厳しくなる昭和19年3月からは冠婚葬祭、病人用砂糖の特配が停止。(「戦争のころ 仙台、宮城」P87~88)
 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P87~88   
養賢堂 県民錬成道場として使用/  1943年(S18)  * 1943年(S18)11月10日、県民錬成道場養賢堂開堂式(学頭 阿刀田令造)
 
「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499   
金属回収 銅像「壮行式」  1943年(S18)  * 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出
 元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112   
洞雲寺 焼失  1943年(S18)  仙台市泉区山の寺(旧・七北田村)にある曹洞宗の寺院で、山形の立石寺、近江の石山寺とともに日本三大山寺の一つと言われた。仙台近郊の名所のひとつだった。

* 1935年(S10)、汽車の飛び火で洞雲寺山寺が3度目の炎上(「仙台年表」P206=出典は「河北新聞」)
* 1942年(S17)11月6日、戦時中の金属回収で仙台の寺社の鐘が供出されるが、洞雲寺の鐘は国宝級としてまぬかれた県内3か所の鐘の1つ(応召より除かれた県内の三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
* 1943年(S18)4月20日(28日?)、野火に全焼す/門前付近の芝草より出火し延焼、山門・本堂・庫裡などを焼失/仙台鉄道山ノ寺駅付近で機関車の排煙から山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が類焼(建物全て焼失)、その後コンクリート造りで再建(「仙台年表」P212=出典は「七北田村誌」、「重訂 宮城県郷土史年表」P496、Wikipedia「洞雲寺(仙台)」、Wikipedia「仙台鉄道」)
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災でコンクリート柱破壊され建物解体
* 2017年(H29)5月9日、本堂及び山門の落慶式  
「仙台年表」P206、P212/「重訂 宮城県郷土史年表」P493、P496/Wikipedia「洞雲寺(仙台)」(2009.2現在)/Wikipedia「仙台鉄道」  99-13576-14 
医療機関 仙台厚生病院  1943年(S18)  * 1943年(S18)、財団法人生命保険厚生会が結核病院として仙台厚生病院を開設  「仙台市史 特別編4 市民生活」P396   
防空演習(防空訓練)   1943年(S18)  * 1943年(S18)6月、防空警報伝達当直規程を設け、警報を受けたときに市内各変電所とも連絡して一斉にサイレンを鳴らす
* 1943年(S18)
    3月15日、仙台市特別防空訓練 6日間
    7月10日、仙台市第1期防空訓練 3日間
    8月25日、仙台市臨時特別防空訓練(東久邇宮稔彦王殿下が防空状況視察)
    10月11日、仙台市第2期防空訓練開始
    12月14日、仙台市防空講習所開設

戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P40/「仙台市史10 年表」P305~P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152   
学徒出陣 東北帝大の壮行大会  1943年(S18)  * 1943年(S18)9月23日、東北帝大出陣学徒の卒業式(片平キャンパスの講堂で、法学204人、経済学37人、文学30人、計271人が繰上げ卒業)

* 1943年(S18)10月8日、東北帝国大学学徒出陣壮行会
壮行会は、全学部2000余人の学生を前に、出陣学徒代表が「大命は下った。日ごろ練磨した体育、知育を役立てる時がきた。日本に生まれ育った我らのみに与えられた感激である」と答辞。 (「戦争のころ 仙台、宮城」P126)

* 1943年(S18)10月8日、NHK仙台中央放送局が、「東北帝国大学徒出陣壮行大会」を放送 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史10 年表」P306/「仙台年表」P212/「宮城県百科事典」P1114(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P498/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P18  98-090 
学徒出陣 壮行式など  1943年(S18)  * 1943年(S18)11月18日学徒出陣の壮行式が宮城野原練兵場で行われる(東北帝大、旧制二高、弘前高校など)
* 1943年(S18)11月18日~19日、仙台平野を舞台に、文部主主催の出陣学徒壮行野外演習、東北、北海道、新潟県からも参加し本番並みの激しい演習を展開、岡部長景文相も姿を見せた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P126)

* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史 年表」P112/逸見英夫氏談/「仙台市史10 年表」P307/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P185(年表)   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1943年(S18)  ・ 1943年(S18)2月1日、新衣料切符(全衣料の点数を25%引上げ)
・ 1943年(S18)2月、商工省、決戦下衣料生活最低標準案
・ 1943年(S18)5月30日、大政翼賛会が、衣生活の刷新、新調の見合せ、更生利用運動を全国展開 / 短袂の実行、国民服着用、モンペ着用、衣類融通交換奨励
・ 1943年(S18)6月3日、政府、衣料簡素化実施要綱、閣議決定
・ 1943年(S18)8月10日、商工省、長袖、長帯の生産を禁止
・ 1943年(S18)8月31日、大日本婦人会、9月以降の毎月8日を「短袖、モンペの日」と決め、「決戦です。すぐ長袖を切りましょう」が合言葉
・ 1943年(S18)12月5日、東北帝国大学、学生に新調の服を禁止 / やむを得ない場合は、男子は国民服乙型、女子は婦人標準服を調整と決定 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P52~53  衣料切符は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P52/衣料点数早見表(S18年改正時)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P53 
木材応召 県庁構内の大欅  1943年(S18)  * 1943年(S18)2月頃、宮城県庁構内の大欅(樹齢約300年)、木材応召により伐採(斧入式挙行)  「重訂 宮城県郷土史年表」P459   
戦時中の勤労動員/就労規制(5) 男子就業制限  1943年(S18)  <戦時中の男子就業制限>
* 1943年(S18)9月23日、閣議、国内必勝勤労対策決定 / 販売店員・出改札係・車掌など17職種の男子就業禁止、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20   
仙台市営バス 戦前  1942年(S17)~1945年(S20)  * 1942年(S17)8月21日、仙台市が仙台市街自動車(通称・銀バス)を買収、仙台市営バス事業を開始した
* 1943年(S18)11月20日、近郊の5バス会社(根白石、定義、増東、仙山、港組)を市バスに買収統合
・ 戦時中は、ガソリン統制で円滑な運営ができなかった(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1945年(S20)7月1日、仙台空襲で、仙台駅前車庫、営業所が焼失
・ 戦時中と戦後しばらくは、木炭などを燃料した代替燃料装置でかろうじて走っている状態 
「仙台市史 年表」P112/「重訂 宮城県郷土史年表」P491/「仙台市史10 年表」P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161   
兵役制度 昭和年代(2)  1942年(S17)~1945年(S20)  <太平洋戦争開戦 1941年(S16)12月8日>
* 1942年(S17)3月、少年砲兵の志願兵を募集(菅家年表)
* 1943年(S18)3月2日、兵役法改正、朝鮮に徴兵制(岩波)(菅家年表)
* 1943年(S18)9月21日、兵役法施行規則改正、5年以前の徴兵検査の第二国民兵も召集、学生の一般徴兵猶予も停止(菅家年表)
* 1943年(S18)11月1日、兵役法改正、国民兵役を45歳まで延長(岩波)(菅家年表)

<学生・生徒の徴集猶予停止>
* 1943年(S18)10月2日、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴集猶予停止)(岩波) 
「法学、文学、経済など文科系学生の猶予を停止、満20歳になれば在学中でも出陣。学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125) 
* 1943年(S18)10月21日、神宮外苑競技場で学徒出陣壮行大会(岩波)

<徴兵年齢19歳に>
* 1943年(S18)12月24日、徴兵適齢臨時特例法公布施行、徴兵年齢の1歳引き下げ、翌19年度に満19歳と20歳の者も受検することに改正 (岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月16日、陸軍特別志願兵令改正公布(17歳未満の志願を認める)(岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月18日、陸軍省、兵役法施行規則改正公布(17歳以上を兵役に編入)(岩波) /  防衛召集の対象が在郷軍人および国民兵役にある17歳以上45歳までの大部分の者にまで拡大された / 防衛召集は、空襲や撹乱を目的とした敵小部隊の上陸に備えるためのもの(ウィキペディア「兵役」)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(仙台市史年表) → 項目「国民義勇隊」参照
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(仙台市史10 年表)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波)
<戦後>
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(菅家年表)
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(仙台市史年表P113~114))
* 1945年(S20)11月17日、兵役法廃止 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21、P24/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/「「仙台市史10 年表」P309~310/「仙台市史 年表」P113~P114/ウィキペディア「兵役」?/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125   
満蒙開拓 宮城県関連(4-1)仙台村  1942年(S17)~1945年(S20)  <商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)>

【仙台市市 年表」P111~112】 
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設

【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】
1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった

【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】
* 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる

<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28) 
「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216   
満蒙開拓 宮城県関連(4-2)仙台村(つづき)  1942年(S17)~1945年(S20)  【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり
・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽
・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる
・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた
・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした

<敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170   
銀行(地域の銀行) 三徳無尽/徳陽相互銀行/德陽シティ銀行  1942年(S17)/1951年(S26)~1998年(H10) 
* 1942年(S17)4月1日、 宮城無尽・太陽無尽・東北無尽の三社が合併し、「三徳無尽」として設立
* 1951年(S26)10月20日、三徳無尽株式会社が改組、徳陽相互銀行に商号変更
* 1982年(S57)5月24日、一番丁支店オープン

<以下、Wikipedia「徳陽シティ銀行」より>
* 1990年(H2)8月、 第二地方銀行となる / 商号を「株式会社德陽シティ銀行」に変更
* 1994年(H6)3月、「1995年をもって、北日本銀行および殖産銀行と合併し、新名称を『平成銀行』とする」と発表したが、後に徳陽シティ銀行の財務内容がネックとなり、破談となる
* 1997年(H9)11月26日、経営破綻 / 仙台銀行、七十七銀行、北日本銀行などに営業譲渡を決定
1998年(H10)11月16日、 営業を終了 
「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P552/「続・ 宮城県郷土史年表」P146/Wikipedia「徳陽シティ銀行」(2020年10月22日版)  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P742(徳陽相互銀行) 
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 宮城県内の動き(3)  1942年(S17)以降  * 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)3月24日、翼賛政治体制協議会宮城県支部発会式
* 1944年(S19)1月18日、翼賛政治会、国民決戦生活要綱決定
* 1944年(S19)2月25日、東条内閣、決戦非常措置要綱決定(生徒学生1年間勤労動員、校舎軍需工場化、女子勤労動員、疎開促進、高級料飲店等禁止と施設転用、旅行徹底制限、官庁平時事務1年間停止、官庁休日の縮減など15項目) 
「仙台市史 年表」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P488/「仙台市史10 年表」P307/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P177『決戦非常措置要綱』   
ガダルカナル戦 戦闘  1942年(S17)8月~1943年(S18)2月  <ガダルカナル戦> ガダルカナル島は西太平洋ソロモン諸島の島。太平洋戦争で昭和17年8月~18年2月7日、この島の奪取をめぐって日本軍と連合国軍が戦った。 ミッドウェー海戦と共に日米両軍の攻守の転換点となった戦い。この戦いで、第二師団の多くの将兵が戦死 / 昭和18年7月、遺骨が仙台に帰還した。(「無言の凱旋」)

* 1942年(S17)8月7日、米軍ガダルカナル島上陸
* 1942年(S17)12月31日、大本営、ガダルカナル島撤退を決定
* 1943年(S18)2月1日、日本軍、ガダルカナル島撤退開始

<第二師団、ガダルカナル戦>
 (「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103より)

・ 日本の南約5500キロ、英国領ソロモン諸島の1つで岩手県の半分ほどの島。
* 1942年8月、海軍の設営隊が飛行場を建設(敵の飛行機の出撃基地ニューギニアとオーストラリアの間にクサビを打ち込む目的)
* 飛行場完成後、米軍が進攻(艦砲射撃と海兵隊約2万人の海兵師団上陸)し、飛行場を占領
* 日本軍は陸軍部隊を投入
8月16日、先遣隊の旭川第七師団一木支隊、900人が上陸し飛行場突撃し全滅
9月、第十八師団川口支隊6500人、飛行場突入寸前に発見され死者700人以上
10月、第二師団(ジャワ島占領後に警備中、帰国輸送船待ち)と第三十八師団(スマトラ島警備中)の一部、計1万5000人投入
10月23日、第二師団歩兵第4連隊第2大隊、飛行場牽制攻撃、戦傷者続出、マタウ川渡河攻撃の独立戦車隊戦車10両全部撃破される
10月24日、第二師団歩兵29連隊(会津若松)敵陣突入し消息絶つ
10月25日、総攻撃、第二師団左翼攻撃隊長の那須弓雄少将、歩兵16連隊の広安寿郎大佐が戦死。作戦は事前に察知されて失敗。歩兵第4連隊将兵2千数百人は一夜にして壊滅状態。
日本の輸送船団(重砲8門、弾薬20万発、食糧20日分)撃沈される、日本海軍は、空母ホーネット、空母エンタープライズ大破させたが、輸送船団を軽視し敵の補給路を絶てず。
・ 米軍は飛行場南方に電流鉄条網と数多くのトーチカを配し、ジャングルには無数のマイクロホン、米軍に協力する現地民を潜ませていた。日本軍は強力な武器を持たず何回も懲りずに同じ戦法で突撃し犠牲を大きくした。
・ 第十七軍参謀の電報「島に残された兵士たちは食料も武器弾薬もない。木の根、草の葉もつき、川底のミズゴケまで食い尽くした。 動ける者はなく、壕に座ったまま銃剣で最後の戦いの準備をしている。」

・上陸した総兵力約3万1000人のうち死亡者約2万人(戦闘でなくなったのは約5000人、残る1万5000人は食料不足による栄養失調、マラリアによる)、1万1000人が救出される(昭和18年2月上旬、駆逐艦20隻で脱出)
・第二師団は、1万318人のうち、戦死・戦病死が7671人(生存者は4人にひとり)、同師団歩兵第4連隊は、2458人のうち1906人が戦没。 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19、P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103   
大日本婦人会 発足  1942年(S17)2月2日  「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった

* 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演)
* 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成

* 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された

Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16  16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ) 
興亜奉公日/大詔奉戴日 大詔奉戴日  1942年(S17)1月~ 
* 1942年(S17)1月2日、興亜奉公日を廃止し、以降毎月8日を「大詔奉戴日」とし、職場での詔書奉戴式、国旗掲揚、必勝祈願の日とする 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28   
戦時中の物資統制、使用規制 (5)  1942年(S17)  * 1942年(S17)1月1日、塩、通帳配給制(1人1か月200g)
* 1942年(S17)1月1日、ガス使用量割当制実施
* 1942年(S17)2月1日、みそ・醤油の切符配給制、衣料点数切符制実施
* 1942年(S17)5月、酒、切符制実施(Wikipedia「配給 (物資)」)
* 1942年(S17)9月8日、警視庁では、届出があれば雀を捕ってもよい(焼き鳥用)
* 1942年(S17)11月14日、乗車日指定券を持たぬ者の、週末祭日の旅行を禁止(買出し防止)
* 1942年(S17)11月15日、大政翼賛会、各新聞社で募集した国民決意の標語、当選作、「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28、P29/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19

仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり 
 
戦勝祝賀行事 大平洋戦争中  1942年(S17)  <シンガポール陥落>
* 1942年(S17)2月15日、日本軍がシンガポール占領
* 1942年(S17)2月15日、シンガポール島要塞の敵軍、皇軍に無条件降伏す、17日に昭南島と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P487)
* 1942年(S17)2月18日、シンガポール陥落戦捷第一次祝賀会開催(「仙台市史10、年表」P303)
 / 仙台でも祝賀行事が行われた / 河北新報記事「歓喜と日章旗のうずまき、感激を軍歌に乗せて、軍都仙台に音楽大行進がくりひろげられた」(「仙台市史 続編第1巻」P36)

・「シンガポール陥落を祝って仙台では提灯行列が行われました。お父さんたちには清酒2合、家庭には砂糖、小豆が特配されました。5月になると児童たちに、そのころ貴重品になっていたゴムまりが配られました。占領地のマレー半島はゴムの産地です。武器弾薬を届けた輸送船が帰りにゴムの材料を積んで帰ってきたのです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P66~67)

* 1942年(S17)3月12日、戦捷第二次祝賀記念式典(「仙台市史10年表」P304)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争一周年記念県民大会(「仙台市史10 年表」P305)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争第一周年記念県民大会を開催、この日、武道大会を挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P493) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P493/「仙台市史10 年表」P303~304(出典:河北新報)、同P305/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P66~67)  シンガポール陥落祝捷行列(仙台)は、16-05 
金属回収 街灯  1942年(S17)  * 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26   
金属回収 寺院の梵鐘など  1942年(S17)  * 1942年(S17)11月6日、大年寺の名鐘、白銀混鋳の「開静鐘」など(仙台市内の)各寺院神社等の撞鐘をはじめ金属製の調度品(国宝級のものを除く)を戦時資材として回収開始(“応召”より除かれた三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)
* 1942年(S17)11月12日、各寺院より“応召”した梵鐘の壮行供養会を東一番丁の西本願寺に於いて挙行 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/「重訂 宮城県郷土史年表」P493/「仙台年表」P214  「目で見る仙台の歴史」P168(各寺院供出物の山) 
翼賛壮年団 仙台市で結成  1942年(S17)  * 1942年(S17)1月16日、大日本翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月16日(3月16日?)、宮城県翼賛壮年団結成、 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P304/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P488   
防空演習(防空訓練)   1942年(S17)  * 1942年(S17)
    4月18日、本土初空襲
      (米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
    6月、防空指導員に対する防空講習会3回
    8月1日、特別防空訓練 6日間
    9月28日、総合防空訓練 3日間
    12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施

・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151) 
「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151  16-1016-1116-6916-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練) 
宮城県護国神社 新社の遷座祭  1942年(S17)  * 1940年(S15)10月25日、宮城県護国神社の上棟式
* 1942年(S17)5月29日、宮城県護国神社新社の遷座祭挙行 
「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P489/「仙台市史 年表」P112/「仙台市史10 年表」P304  「目で見る仙台の歴史」P166に、S17年の社殿(手水舎と鳥居) 
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1942年(S17)  ・ 1942年(S17)2月1日、衣料切符制度実施
  (1月中は、全衣料品の移動禁止し、在庫品調査)
   年間に、市では1人100点、郡部は80点
・ 宮城県、繊維製品の取引団体を指定
   三越、藤崎や繊維製品関係小売商業組合などの諸組合    
   指定取引団体のみが、県に新しく設立された繊維製品 
   統制会社から、配給を受けて消費者の手に渡す
・ 1942年(S17)2月、厚生省、婦人の標準服(和・洋)を指定
       甲型、乙型、活動着も甲型と乙型 
       他に下着と付属品
・ 1942年(S17)2月4日、文部省、青年学校生徒の制服制帽を、前年制定した中学校の制服と同型とした
・ 1942年(S17)年、外出時のゲートル使用が強制され、
ゲートル姿や白はちまき姿が街にあふれるようになった 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P51~52  婦人標準服は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図56) 
臥竜梅 国の天然記念物に指定  1942年(S17)  <仙台市HPより「仙台市内の指定・登録文化財」より>
臥竜梅(朝鮮ウメは、伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰り仙台城に植えた後、晩年の居城である若林城内に移植したと伝えられる。現在の朝鮮ウメは,政宗が持ち帰ったものを接木した二代目であると言われる。臥龍梅としては稀有な品種で,国内最大級の大きさである。かつて中央部にあった樹高9m,幹周1.52mの主木は、昭和51年(1976)の台風で倒れ枯れてしまったものの、3株に分かれていた樹幹がその後良好な樹勢を保ち、春には香り高い白一重の大輪の花を咲かせる。  樹種ウメ(バラ科) 幹周1.3m 樹高約8.0m 枝張 東西約17m,南北約22m 推定樹齢360年

* 1942年(S17)9月19日、「臥竜梅」(若林区古城2丁目)が、国の天然記念物に指定
* 1954年(S29)5月、強風で宮城刑務所(旧若林城址)の「臥竜梅」折れる 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」/「市民の戦後史(仙台市)」P81  「市民の戦後史(仙台市)」P81 
東北帝国大学 沿革(3)~各学部・研究所設置~  1941年(S16)~1947年(S22)9月  <選鉱製錬研究所> 
* 1941年(S16)3月、選鉱製錬研究所、設置
* 1946年(S21)7月7日、選鉱製錬所、開所式

<抗酸菌病研究所> * 1941年(S16)12月、設置
<科学計測研究所> * 1943年(S18)1月、設置
<高速力学研究所> * 1943年(S18)10月、設置
<航空医学研究所>
* 1943年(S18)10月、設置 → 1946年(S21)1月、廃止
<非水溶液化学研究所> * 1944年(S19)1月、設置
<硝子研究所> * 1945年(S20)1月、設置

<その他>
* 1941年(S16)10月31日、本多記念館竣工、献堂式(玄関の松は、乃木希典が第二師団長当時、その邸内にあった松を移植)

<戦後>
* 1947年(S22)4月、農学部設置
* 1947年(S22)10月1日、東北帝国大学を東北大学に改称(全国の帝国大学の名称を廃止) / ただし、国立大学設置法に基づく東北大学設置は、1949年(S24)5月31日 
東北大学HP「沿革図」
/「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P115/「目で見る仙台の歴史」P164

設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした 
「目で見る仙台の歴史」P164に、「抗酸菌病研究所」(S18年、北四番丁に完成)と「本田記念館」 
年賀郵便 戦時中に廃止  1941年(S16)~1947年(S22)  * 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止
* 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42   
学制改革(戦前) 国民学校  1941年(S16)4月~1947年(S22)3月  1) 1941年(S16)4月1日、国民学校令施行、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)
   ・ 初等科6年、高等科2年
   ・ ほかに特修科 (1年) をおくこともできた
2) 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布
     (就学義務を満12歳までに引き下げるなど) 
1)「重訂 宮城県郷土史年表」P482
2) 岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21 
 
国民学校   1941年(S16)4月~1947年(S22)3月  <参考文献>
【「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P305~310】
教育の戦時体制化と国民学校の目的(皇国民の錬成)、教科内容、特色(体錬科武道)、学校行事重視(神社参拝、勤労奉仕、出征、入営兵士の壮行式、戦没者遺骨出迎えなど)について記述

【「仙台市史 特別編4 市民生活」P266~269】
・ 教育の戦時体制化~国民精神総動員~
・ 皇国民錬成の道場~国民学校~
・ 太平洋戦争下の教育~少国民の覚悟~
・ 教育の崩壊~教室から戦場・工場へ~

* 1941年(S16)4月、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)
* 1943年(S18)10月5日、仙台市第1回国民学校体育大会
* 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」閣議決定(国民学校初等科以外の各学校の授業停止)

<空襲で焼失 国民学校・中等学校>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、市中心部の国民学校5校(全焼4校、半焼1校)、旧制中等学校(全焼13校)/ 2学期から、近くの学校校舎の一部などを借用し、二部授業
(→ 具体例は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318)

<戦後>
* 1947年(S22)4月1日、国民学校令等旧関係諸法令廃止
* 1947年(S22)4月1日、再び小学校と改称 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P305~310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P266~269/「仙台市史 年表」P111、P113、P114/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「仙台市史10 年表」P306、P315  16-58(戦没者遺骨出迎え)、16-6302-02 /「新・目で見る仙台の歴史」P161(小学生たちが神社で戦勝祈願)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P273(国民学校におかれた小神殿) 
芭蕉の辻の洋館 日本銀行が使用  1941年(S16)10月~  * 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)

* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建 
「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302  16-01/S20年戦災で損傷→53-7735-13 
仙台市電 八幡町線 開通  1941年(S16)10日  ・ 大学病院前~滝前町間、1.6キロ

* 1941年(S16)10月10日、開通
* 1954年(S29)8月1日、八幡町線の複線化工事完成、この日から長町線と八幡町線が直通(それまでは、大学病院前~八幡町折り返し運転)
* 1954年(S29)8月31日、複線開通(1582m) 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P111/「仙台年表」P231~232/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P513  「市民の戦後史(仙台市)」P73(単線当時の八幡町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P81と「新・目で見る仙台の歴史」P178(八幡線複線化完成で旗行列)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P102(S51、カラー) 
戦時中の物資統制、使用規制 (4)  1941年(S16)  * 1941年(S16)1月25日、物品販売業はすべて午後9時閉店
* 1941年(S16)3月、花見の昼酒だけは特に許可される
* 1941年(S16)3月3日、国家総動員法改訂公布(政府権限の大幅な拡張)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、米穀配給通帳制、外食券制を6大都市で実施(1日、2合3勺)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、鮮魚介配給統制規則、実施
* 1941年(S16)4月18日、東京で「肉なし日」を設定、毎月2、8、18、8の4日は食肉業者休業、飲食業者は、8、28日を休業とする
* 1941年(S16)5月1日、幼児、妊婦にパンの配給制実施
* 1941年(S16)5月、東京で巻煙草制限令で「お一人様一個限り」と一斉に実施
* 1941年(S16)5月、東京で、米、マッチ、砂糖切符の幽霊人口、早くも40万を超える
* 1941年(S16)6月13日、山形鉄瓶、製造中止命令
* 1941年(S16)8月1日、アメリカが対日石油輸出全面禁止
* 1941年(S16)8月12日、米価二重価格制を実施、生産者奨励金交付決定
* 1941年(S16)9月1日、東京で、砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の配給切符制実施
* 1941年(S16)10月1日、乗用自動車のガソリン使用を全面禁止
* 1941年(S16)10月1日、新聞の朝刊4ページ、夕刊2ページに減紙

<1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦>
* 1941年(S16)12月16日、物資統制令公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)12月16日、商工省、電球は切れ玉と引き替え販売を通達
* 1941年(S16)12月27日、農業生産統制令公布
* 1941年(S16)、この年、八百屋、魚屋の店頭で行列が続く 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P27/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18   
金の星(カフェ) 焼失  1941年(S16)  ・ 昭和初期、東一番丁の三越やや南にあった「金の星」は仙台一のカフェといわれた
・ 東久邇宮稔彦王殿下も第二師団長時代に通った伝えられる
・ 女給たちで結成した「金の星楽団」もあり、日中戦争では兵士慰問のため中国大陸に派遣された(「番丁詳伝」P111)

* 1936年(S11)、河北新報主催「麗人同乗のシボレー県下南北早回り競争には、紅組「金の星」の玲子とミチル、白組「エー・ワン」(国分町)のすみ子とたき子が同乗・・・」(河北新報、昭和41年「東一番丁企画シリーズ」より)

当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみに、金の星楽団につき記述あり

* 1941年(S16)、焼失 (その跡地で印舗の錦章堂が営業) 
「番丁詳伝」P111/焼失年は、東一番丁の錦章堂主人談  22-5398-11047-0653-3420-5744-76 
軍事教練 高等女学校  1941年(S16)  * 1941年(S16)、高等女学校で軍事教練開始  「日録20世紀 1941年」P33   
防空演習(防空訓練)   1941年(S16)  * 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)

* 1941年(S16)
    8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
    10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施

(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦) 
「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111   
水害 暴風雨  1941年(S16)  * 1941年(S16)7月22日、広瀬川氾濫  「仙台市史10 年表」P301   
日本銀行 仙台支店(芭蕉の辻)開設  1941年(S16)  「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
 (1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店 
 (2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店
 (3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用

* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建 
「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302  戦前は、16-01/戦災焼失は、35-1353-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後) 
青少年団 仙台市青少年団結成  1941年(S16)  * 1941年(S16)3月10日、仙台市青年団・仙台女子青年団・仙台愛国少年会・少年団宮城地方同盟が統合し「仙台市青少年団」結成
   仙台市青年団結成は、1916年(T5)7月16日
   仙台女子青年団結成は、1932年(S7)1月
   仙台連合女子青年団結成は、1933年(S8)5月6日
   仙台愛国少年会連盟結成は、1932年(S7)11月10日
* 1945年(S20)6月30日、仙台市青少年団解散 
「仙台市史 年表」P97、P106、P107、P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P505   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1941年(S16)  ・ 1941年(S16)4月、中等学校新入生の制服改訂、制服新調の際は
   男子は、国民服と戦闘帽
   女子は、セーラー服を廃止し、白い覆いをつけたヘチマ型のカラー、ベルト付のジャケットとスカート
・ 1941年(S16)5月、国民学校児童に抽選で学童服や靴下を配給       
「仙台市史 特別編4 市民生活」P51   
瞑想の松 歌碑建立  1941年(S16)  ・ 「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」という土井晩翠の歌碑、瞑想の松の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)

<WEBサイト 松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』 https://www.tohoku-mpu.ac.jp/laboratory/germany/cyogyuu.bak より>                                             
「・ 樗牛の没後、40年近くを経て、仙台の北部、台原の丘陵の一角、一本松の根元に、樗牛を顕彰する記念碑が建立されることになった。実は、昭和15年頃に、開発(軍需工場の建設?)のために、この松の伐採計画が持ち上がる。幸いにも、心ある人々の尽力のお陰で、その伐採計画は白紙に戻され、さらに樗牛を顕彰する碑の建立が計画されたのだった。(中略) 「高山樗牛冥想の松」が「仙台市民の憧憬の松」であり続けたことが、この松の保存と記念碑建立の要因として挙げられねばならない。(中略) この「樗牛顕彰の碑」建立の記念式典は、昭和16年6月1日に挙行された。
・ 「冥想の松保存会」は昭和17年3月に成田正毅著『高山樗牛冥想の松』と題する記念誌を発行したが、そのなかに、前年(昭和16年6月1日)に行なわれた樗牛顕彰碑建立の記念式典の式次第が掲載されている。」 
佐々久著「仙台の散策」/WEBサイト・松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』   
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 宮城県内の動き(2)  1941年(S16)  <商人・自営業者などの転・廃業> 「産業、経済の戦時再編成に伴い、配給以外の品物しか取り扱うことができなくなった商人をはじめ軍需関係以外の自営業者(中小企業)、職人、官公吏、会社員などは余剰労力とみなされ、これを国策産業へ動員するため“職域奉公の臣道を実践する国策戦士”とおだてられて転・廃業をしいられ、やがて軍需工場、あるいは鉱山へ、はては遠く満州へ農業開拓戦士(→ 参考:項目「満蒙開拓」)として送り込まれていった。」(「仙台市史 続編第1巻」P42~43)

* 1941年(S16)1月24日、大政翼賛会仙台市支部結成
* 1941年(S16)4月20日、逓信報国団仙台支部結成
* 1941年(S16)4月22日、大日本産業報国会仙台地方鉱山部会設立
* 1941年(S16)5月11日、仙台鉄道局奉公会結成
* 1941年(S16)5月26日、宮城県産業報国会創立
* 1941年(S16)7月19日、仙台市内単位商業報国会結成、市商業報国連合会(会長は市長)結成

<商業報国会> 「なかでも、戦前は城下町で繁栄した商家の多くの人々は、座して自滅を待つより新体制の公益機関に奉公すべきであると勧められ、従来の商業組合を中心に仙台市内で60余の商業報国会を結成した。市連合会も結成され、新商業道の確立をめざして“商業報国の赤誠”を発揮することを宣言、店員の錬成道場などを開催するかたわら勤労奉仕にも繰り出したが、戦争が激化するにつれ、これら余剰労力はどしどし軍需工場はおろか常磐炭鉱などへツルハシ戦士として送り込まれた」(「仙台市史 続編第1巻」P43)

* 1941年(S16)12月27日、宮城・福島昭徳会、思想国防報国団結成 
「仙台市史10 年表」P301、P303/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42~43   
戦時中の勤労動員/就労規制(4) 国民勤労報国協力令  1941年(S16)  * 1941年(S16)11月22日公布、同年12月1日施行

男子14~40歳、独身女子14~25歳に勤労奉仕義務 / 学校・職場ごとに勤労報国隊が編成され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P18   
仙台空港 矢ノ目飛行場時代  1940年(S15)~1964年(S39)  <戦前は軍用>
* 1940年(S15)11月、矢ノ目飛行場、熊谷陸軍飛行学校増田分校教育隊練習基地として名取郡下増田村・玉浦村に飛行場が建設される(「仙台市史 年表」P110)
* 1939年(S14)、玉浦飛行場造成。 名取郡玉浦村矢野目と同郡下増田にまたがる松林と農地300haを買収し、突貫工事で造成。熊谷陸軍飛行学校増田分教場としてパイロット養成にあたる。2年後に、熟練パイロット養成の部隊に通信隊を併設。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1945年(S20)、本土決戦に備えて隼(はやぶさ)、鐘馗(しょうき)、疾風(はやて)などの偵察隊や重爆撃機を配備したが、活躍の場がないまま敗戦。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)

<戦後、進駐軍(米軍)が接収>
* 戦後、米軍が接収し弾薬集積場として使用

<防衛庁、運輸省が共同使用>
* 1955年(S30)?1956年(S31)?、「矢ノ目飛行場」がGHQ(連合軍総司令部)より返還され、防衛庁と運輸省が共同使用(空港の管理は防衛庁)
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設

<民間機、定期航空路線開設>
* 1957年(S32)4月22日、「仙台飛行場」開港式、民間空港として使用開始、仙台~東京間の定期航空路線開設(第1便運行)
* 1957年(S32)4月24日、矢ノ目飛行場、民間空港「仙台飛行場」として供用開始、1番機運航
* 1958年(S33)6月1日、全日空、仙台~札幌便就航
* 1963年(S38)5月10日、全日空機が仙台空港で着陸に失敗し、8人重軽傷
* 1964年(S39)3月17日、矢ノ目飛行場、第二種空港指定を受け、「仙台空港」と改称(「仙台市史 年表」P123)

<所管、防衛庁→運輸省へ>
* 1962年(S37)6月25日、仙台空港は防衛庁より運輸省へ所管換えとなる(「重訂 宮城県郷土史年表」P605)
* 1964年(S39)8月、飛行場面の管理が、防衛庁から運輸省航空局へ(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605/「仙台市史 年表」P110、P120、P123/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P605、P608/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/仙台国際空港HP  「市民の戦後史(仙台市)」P99(矢ノ目飛行場、就航したフレンドシップ機)/「市民の戦後史(仙台市)」P145(S38年5月、着陸失敗事故の全日空機) 
主食配給量 変化  1940年(S15)~1948年(S23)  * 1939年(S14)、戦争拡大と、秋には移入先の朝鮮米大減収が重なり需給ひっ迫、14年秋からは、全国一斉に7分搗き米、混食、代用食、かゆ食など奨励(「仙台市史 続編第1巻P13)
* 1940年(S15)、「この頃米は切符制となり、配給は2.6合となった」(佐々久「近代みやぎの歩み」P109)/ 宮城県では、東北でも一番遅れて、S15年12月17日から米穀商業組合発行の通帳で米配給実施、基準配給量は年齢別5段階の1日量平均2.574合(「仙台市史 続編第1巻」P19)
* 1941年(S16)4月、米穀配給通帳制(4月に6大都市で、12月までに全国に拡大)→(米1人、2.3合、330gに) / 仙台では7月から市長発行の通帳となり、配給量は年齢のほか、職業、男女別要素が加わる(「仙台市史 続編第1巻P20)
* 1941年(S16)12月、仙台で米穀類が配給制になる、成人1人あたり1日2合3勺(145g)配給 / 戦時中配給された米は白米ではなく、太平洋戦争が始まったころは七分つき米、1943年からは五分つき以下になり、玄米に近くなる(「戦争のころ 仙台、宮城」P179)
* 1945年(S20)7月4日、主食配給量減、7月~10月、10%減、労務特配停止決定(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)7月11日、主食の配給2.1合に(菅家年表)
* 1945年(S20)7月、主食配給量が10%減
   河北新報は見出し「これを契機に食生活も決戦切り替えだ」で、祖先が飢饉のときに食べた草木の芽、皮、根、木の実も食料になると報じる(「戦争のころ 仙台、宮城」P180)

<戦後の食糧事情>
* 1946年(S21)5月16日、宮城県の米配給量、2.1合から1.8合へ減ず(「重訂 宮城県郷土史年表」P511) / 「買出し部隊」が農村へ向かう(「仙台市史 続編第2巻」P701)
* 1946年(S21)5月24日、天皇、食糧事情に関し放送
* 1946年(S21)6月2日、仙台市食糧危機突破対策委員会結成、対策要綱決定
* 1946年(S21)6月9日、食糧危機、2.1合配給を維持(「仙台年表」P216)
* 1946年(S21)11月1日、主食の配給、1日2.5合に増配(農林省発表)
* 1947年(S22)7月20日、主食の遅配、東京25.8日、北海道90日
* 1947年(S22)9月1日、パンの切符配給制を開始(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)11月1日、米配給量、1日2.7合 
戦時中の主食事情につき記述→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P18~20、「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~182
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「仙台年表」P216/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P34、P37、P41、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、513/「仙台市史10 年表」P309、P312、P313/佐々久「近代みやぎの歩み」P109、P164/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701 
 

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満蒙開拓
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