項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台空襲 |
焼失した国宝 など |
1945年(S20) |
<焼失した国宝文化財>
・ 国宝 仙台城大手門、仙台城隅櫓、伊達政宗霊廟瑞鳳殿、伊達忠宗霊廟感仙殿
<被災後、よみがえった樹木>
・ 東二番丁国民学校校庭のクスノキ(戦災から3年後に小さな新芽を吹き、のちに大木に)
・ 西公園の大町交番と桜ケ岡大神宮の間に立つイチョウ(樹齢推定300年)(のちに新芽を吹く、往時をしのぐ樹勢に)
<土井晩翠宅(本荒町)>
焼失し、蔵書3万冊も焼失 / 晩翠は「五十余年 心を込めて集めたる 東西の書 皆灰となる」と詠んだ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P223~224
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 |
1945年(S20) |
<県内の空襲犠牲者>
仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害
<筆者石澤友隆氏の体験>
戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236
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医療機関 |
国立仙台病院 |
1945年(S20) |
→ 項目「国立仙台病院」へ
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仙台市電 |
仙台空襲被害と復旧 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(計6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315)
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P315)
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87)
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了(「仙台市史10 年表」P309)、全線運行再開(「仙台市史 年表」P113)
・仙台空襲時、全車両(52輌)は奇跡的に全車無事 / 車両は、北二番丁車庫、北仙台線、八幡町線の終点と秋保電鉄車庫に分散しており焼夷弾攻撃を免れた / 空襲被害は片平車庫が全焼、中心部各所で架線が垂れ落ちる / 復旧工事により、空襲翌日には荒町~長町間で運転再開、仙台駅前~荒町間8月3日、敗戦13日後の8月28日に全線で運転再開(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315/「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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35-15(仙台駅西側付近の焼け跡に市電車両が写る)
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映画館(戦後) |
青葉劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)10月8日、東七番丁に開設(9~10日は、戦災市民無料招待)
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「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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映画館(戦後) |
錦映画館 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、錦町21に開設(480席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508
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映画館(戦後) |
東北劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、本櫓町51に開設(700席)
* 1979年(S54)4月13日、立町の東北劇場焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508/「続・ 宮城県郷土史年表」P94
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「市民の戦後史(仙台市)」P42(NHKのど自慢会場の看板あり)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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隅櫓 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失
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仙台市HP
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三原時計店 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失
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三原本店HP
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政党県支部など(戦後) |
日本社会党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月2日、日本社会党宮城県連合会結成大会開催
* 1950年(S25)2月4日、社会党宮城県連分裂
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507、P540/「仙台市史10 年表」P310、P323
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政党県支部など(戦後) |
進歩党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月20日、進歩党宮城県支部を結成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507/「仙台市史10 年表」P310
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政党県支部など(戦後) |
日本共産党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月25日、日本共産党宮城県支部演説会開催
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「仙台市史10 年表」P311
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国民義勇隊 |
結成~解散 |
1945年(S20) |
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
竹槍は1945年(S20年)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波P24)
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(「菅家年表」P34)
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21、P24/仙台市史10年表」 P309/「菅家年表」P34/「日録20世紀 1945年」P16
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国民義勇隊 |
宮城県関連 |
1945年(S20) |
【出典記載あるものを除き、「戦争のころ 仙台、宮城」P198~200より転記】
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業 (12歳)以上で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
* 1945年(S20)5月31日、刈田郡連合国民義勇隊結成(県内初) / 6月9日までに、全県下3市194町村で国民義勇隊結成(「宮城県知事事務引継書」昭和20年6月10日)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(「仙台市史年表」P113)
* 1945年(S20)7月5日、護国神社前で「仙台市国民義勇隊」結成、市長が全市民に向かって「火の玉となって敵撃滅の戦列に参加しよう」と呼びかけた(「仙台市史 続編第1巻」P53)
* 1945年(S20)7月5日、仙台市国民義勇隊、宮城県護国神社で結成式 / 丸山知事(国民義勇隊宮城県本部長)は「郷土防衛の組織体として訓練と活動をなすのみならず、事態急迫して軍の要請あらば戦闘隊として戦線にでて軍務に服すのであり、これが従来の国民運動と大きく異なるところであります」と談話を発表(「戦争のころ 仙台、宮城」P199)
・ 宮城県の義勇隊副本部長は一力次郎河北新聞社社長と佐藤正在郷軍人会県支部副長(陸軍少将)、事務局長は長門頼三宮城県商工経済会事務局長
・ 国民義勇隊は、国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下、女子は45歳以下で編制、隣組を単位として分隊を,公会単位で小隊、戦闘部隊に移行する場合は中隊を編制する、本隊は市長が隊長となって統率、本部は市役所内に置く
「大本営陸軍部は「国民抗戦必携」「国民築城必携」を刊行して国民に配布、国民義勇戦闘隊の教育参考書として敵と戦う方法を教えた / 河北新報は、10回にわたって、仙台連隊区司令部の解説つきで「国民抗戦必携」を連載したが、それはまさに殺人のやり方教授法でした。 / 狙撃、手りゅう弾の投げ方、戦車肉薄攻撃、ガス、火災防護などとともに「白兵戦闘格闘」の項目もあり、刀、やり、出刃包丁や玄能(金槌)などでの戦い方を挿絵入りでこまごまと説明。」
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(「仙台市史年表」P113~P114、「仙台市史10 年表」P309)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P198~200/「仙台市史年表」P113~114/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P53/「仙台市史10 年表」P309
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国民勤労動員令 |
施行 |
1945年(S20) |
<国民勤労動員令> (「日録20世紀 1945年」P13、P42)
* 1945年(S20)3月6日公布、病人にも登録を義務化 / 3月10日施行
/ 本土決戦にそなえ、国民徴用令、女子挺身勤労令、国民勤労報国令、労務調整令、学校卒業者使用制限令の五勅令を統合・強化して発された勅令 病人にも登録を義務化 老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざすものだった
<戦後>
* 1945年(S20)12月20日、国家総動員法・戦時緊急措置令廃止を公布(S21年施行)(「日録20世紀 1945年」P35、「重訂 宮城県郷土史年表」P311)
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「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P311
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国立仙台病院 |
開院 |
1945年(S20) |
<前身>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院の宮城野原臨時分院(宮城野分院?)、発足
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所(宮城野原)に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<戦後は、国立病院へ>
* 1945年(S20)12月、旧陸軍省から厚生省に移管され国立仙台病院となる / 木造で、内科、外科など5科、500床
* 1952年(S27)から、本格的な病棟建設に着手
* 1954年(S29)11月、高血圧センター開設
* 1957年(S32)、総合病院となる
* 1958年(S33)1月、心臓診療センター開設
* 1958年(S33)10月25日、「国立仙台病院」(原町南目)完工式(着工は、S26年12月)
* 1959年(S34)1月1日、ガンセンターを設置
* 1960年(S35)1月、小児診療センター開設 / 2月、小児マヒ治療用「鉄の肺」
* 1965年(S40)3月、救急病院指定
* 1967年(S42)7月、脳神経センター開設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P728~729/「重訂 宮城県郷土史年表」P590
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P729/「目で見る仙台の歴史」P192
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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婦人の社会活動(戦後・仙台) |
仙台の婦人団体 |
1945(S20)~1994年(H6) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439「仙台市婦人のあゆみ」>
・ 昭和20年~43年頃までの運動と団体の動向を記述
・ 市内の婦人団名(昭和40年)~市教委把握数は45団体
・ 活動内容が記述された団体は、日本キリスト教婦人矯風会仙台支部、日本婦人有権者同盟仙台支部、仙台市主婦連合会、仙台婦人懇談会、宮城婦人問題連絡会、仙台市婦人会議、地域婦人会、みやぎ草の実、高砂むつみ会、葉月会、PTA、社会学級、仙台市母子福祉連合会、仙台市農業協同組合婦人部、労働組合婦人部、婦人公務員、仙台教職員組合婦人部 / そのほかに、民間婦人の職場、パートタイマー、公職進出についても触れている
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459>にも、婦人会をはじめ、戦後の女性たちの社会活動組織について記述あり(昭和63年位まで)
* 日本基督教婦人矯風会仙台支部、戦後すぐ活動再開(街娼撲滅運動、平和運動)
* 1946年(S21)、稲村キクエの呼びかけで新日本婦人同盟仙台支部、結成(1950年に、日本婦人有権者同盟仙台支部と改称)
* 1947年(S22)ころ、国鉄労働組合婦人部、日本教職員組合婦人部、農業協同組合婦人部など、活動開始
* 1947年(S22)、仙台市主婦連合会発足(各種団体や労働組合の女性たち、地域の主婦も多数結集)
* 1949年(S24)2月、仙台婦人懇談会結成
* 1959年(S34)、宮城県婦人問題連絡会結成
* 1966年(S41)、仙台市婦人会議発足(55グループが参加)
・ 1960年代以降、婦人防火クラブ誕生(S37、萩の台婦人防火クラブ/S38、高砂戌区婦人消火隊など) / 1978年(S53)の宮城県沖地震後には町内会単位で結成が進む
・ 1975年(S50)、国際婦人年を契機に、仙台では、新たに女性問題・社会問題の学習グループ、消費者グループ、育児および育児ボランティアグループ、高齢者介護など福祉のボランティアサークルなど発足
・ 1987年(S62)3月、エルパーク仙台(仙台婦人文化センター)オープン / 記念して「女たちのメッセージ」開催(参加団体:当初は29 → 1994年(H6)には40団体以上)
・ 「女たちのメッセージ'94」の参加団体名一覧表 / 福祉・ボランティア活動、育児支援活動、学習活動など41団体(「仙台市史 特別編4 市民生活」P459)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459
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「市民の戦後史(仙台市)」P186と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P458に、「S41年10月、仙台市婦人会議結成大会」
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」などより |
1944年(S19)~1945年(S20)敗戦まで |
・ 1944年(S19)1月、宮城県第一高等女学校、モンペ、ズボン姿を制服に(仙台のモンペ時代に先べん)
・ 1944年(S19)2月6日、政府、女学生の戦時標準服を制定 / 上下衣に分かれ、裾と膝を皮紐で締める / 上衣は婦人標準服乙型、下衣はモンペ
・ 1944年(S19)4月、農林省、野生の苧麻(チョマ)、桑皮、竹の幹などで衣料品70万着製造
・ 1944年(S19)4月19日、宮城県経済部、繊維資源供出として、桑皮、生苧、麻、竹皮、藺草(イグサ)、ひま、柳枝、蒔枝、葛、かわむぐら、蒲類の大増産運動を広げると発表 / 農業会、翼賛壮年団、中等学校、国民学校、青少年団、大日本婦人会を総動員して
・ 1944年(S19)5月21日、仙台市街地で、警官や警防団員が通行人の服装チェックし、注意する(河北新報記事)
・ 1944年(S19)、衣料切符支給さらに減る / 市街地では、30歳以上は年40点、30歳未満は年50点と、従来の約半分に
・ 1944年(S19)、足袋と靴下の配給は、一人1足、男性用パンツは13人に1人しか行き渡らず
・ 1945年(S20)、衣料切符、新発行停止
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「仙台市史 特別編4市民生活」P53~54/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P123
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モンペ姿は、16-72、41-02、76-10、16-10など(写真データベースで、キーワード“モンペ”で検索) / 「仙台市史 特別編5 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち)
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松根油 |
松を伐採 |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、栗原郡長岡村より高清水町に至る国道筋の古松の並木、“応召”により伐採に取りかかる(「重訂 宮城県郷土史年表」P500)
* 1944年(S19)10月20日、松根油等緊急増産対策措置要綱決定
* 1945年(S20)3月16日、松根油等拡充増産対策措置要綱、閣議決定
・松根、桧ノ根、針葉樹ノ枝葉樹皮等モ本増産ノ対象
・(要員確保)農山漁村所在労務、農業出身工場労務者ノ帰農、農家ノ子弟タル国民学校卒業者、中等学校学徒動員
・乾溜釜ヲ速カニ設置 ・精製工場ノ急速整備
「仙台市御立場町(現・宮城野区東仙台一丁目)の松原街道(現在の宮城県道8号仙台松島線)の両端に沿って松並木が存在していたが、樹齢300年以上の松もふくむすべての松並木が松根油(しょうこんゆ)採取のために伐採されている」(地元学の会『松原街道にそったまち ひがしせんだい 東仙台一丁目~五丁目・松岡町』(みやぎの区民協議会 仙台市宮城野区役所 2005年刊)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P500/国立国会図書館リサーチナビ/ウィキペディア「松根油」
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学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(2) ~通年動員/授業停止~ |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、閣議決定「緊急学徒勤労要綱」で、勤労工場を特定し、循環的に動員して1年のうち3分の1の4か月を働かせる
* 1944年(S19)2月、「決戦非常措置要綱」
・ 中等学校以上の学徒はすべて1年間常時、勤労その他の非常任務に出動できる組織的体制に置き、理科系のものは専門に応じて軍需工場や病院などに動員
・ 学校校舎は必要に応じて軍事工場、軍用非常倉庫、非常病院、避難用住宅などに転用(旧制二高校舎正面2階が師団司令部に徴用、東北学院校舎の一部(高等部)が被服廠や海軍人事部に、東北学院中学部は出征部隊編成所のちには鉄道輸送部隊に接収、東北学院礼拝堂地下室(六軒丁)は特設非常電話局に(仙台空襲で仙台電話局焼失後)、尚絅女学校の地階と2階が陸軍糧秣廠に、宮城学院は日本電気の「学校工場」に転用された) (以上、「仙台市史 続編第1巻」P46)
* 1944年(S19)2月25日、文部省、食糧増産に学徒500万人動員を決定
* 1944年(S19)3月7日、閣議決定「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員通年実施、対象を国民学校高等科生、中等学校1~2年まで拡大
* 1944年(S19)4月17日、文部省に学徒動員本部設置
→ 4月から、中等学校以上の男女生徒を軍需工場、鉱山、農村などへ通年で強制動員開始
* 1944年(S19)5月16日、文部省、学校工場化実施要綱発表
* 1944年(S19)8月23日「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」公布施行、これにより「学徒動員実施要綱」を法的追認
* 1944年(S19)11月16日、中学1、2年生と国民学校高等科1、2年生に勤労動員を発動(菅家年表)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」により、学徒勤労総動員体制 → 国民学校初等科以外の生徒・学生の授業を停止
<戦後>
* 1945年(S20)8月16日、学徒動員解除
* 1945年(S20)10月11日、学徒勤労動員令廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P46/「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P113/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台市史10 年表」P308、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P486、P505/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32
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16-72、16-73、16-74、41-03、41-02/「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(S20年、鍋蓋代替品をつくる児童たち)
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警察署 |
仙台北警察署 |
1944年(S19)~ |
<東三番丁時代>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署(東三番丁)が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307)
<荒巻へ移転>
* 1966年(S41)4月、従来の仙台北警察署の建物は仙台中央警察署となり、仙台北警察署は荒巻に新設移転した(「仙台市史 年表」P124、「重訂 宮城県郷土史年表」P625)
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「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)
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18-10、44-41、44-31/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807に、仙台中央警察署庁舎(元、北警察署)/同P803に、「中央署の新設に伴い新築した北署」(昭和41年4月)
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警察署 |
仙台南警察署 |
1944年(S19)~ |
<新設され、堰場に開庁>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁
<舟丁へ移転>
* 1962年(S37)9月12日、新庁舎、舟丁に落成
<長町へ移転>
* 1993年(H5)、庁舎を長町(太白区長町6丁目)に移転
* 2019年(H31)4月1日、仙台市若林区を新設の若林警察署に移管
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Wikipedia「仙台南警察署」/「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P780に、「改築後の仙台南警察署」
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(1) 生徒の動員先、作業内容を指定 |
1944年(S19)8月~1945年(S20)4月 |
* 1944年(S19)8月、政府は国家総動員法に基づく「学徒勤労令」発令 / (旧制)中学校、高等女学校以上の学徒を、S19年秋~20年1月にかけ、指定された場所へ動員(軍需工場、食糧増産のための開墾、農作業、飛行場造成、家屋疎開作業など)
・ 全国で310万余、全学徒の約7割が対象(軍需生産200万人、食糧増産100万人、防空防衛14万人、重要研究2000人)
「防空防衛」は、空襲の際に都心部で消防車が入れる道路や鉄道を守る広場確保のため一般家屋を急いで解体する作業で、仙台市では第1次として仙台駅周辺など1065戸が対象
「重要研究」は、大学研究室で軍事研究に携わる学生で、「徴兵猶予」撤廃で軍隊に入った学生も大学に呼び戻された
* 1944年(S19)7月(注:文部省HPでは、S19年11月)夜間学校や弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
* 1945年(S20)4月、国民学校(当時の小学校)を除き1年間学業停止、1年を通じての「通年動員」に変更
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P171~172
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(3)~動員範囲を低年齢へ拡大/卒業後も動員/授業停止し全面動員~ |
1944年(S19)7月/1945年(S20)3月 |
<国民学校高等科、中等学校低学年も動員>
* 1944年(S19)7月、文部省「学徒勤労の徹底強化に関する件」通牒
・ 「1)1週6時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合、中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校3年生の男子のみならず女子にも課する 5)出動後2か月たたない学徒にも深夜業を課する」などを指令
* 1944年(S19)8月、「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」が同日公布され、学徒動員の法令上の措置が決定
* 1944年(S19)11月、夜間学校の学徒や、弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
<卒業後も動員継続>
* 1944年(S19)12月、中等学校卒業者の勤労動員継続措置決定
・ 翌年3月卒業後も引き続き学徒勤労を継続させるため、中等学校に付設過程を設け、進学させる
<授業停止>
* 1945年(S20)3月、「決戦教育措置要綱」閣議決定
・ 「国民学校初等科を除き、学校における授業は昭和20年4月1日より、昭和21年1月31日まで原則として停止」
☆ 学徒動員による死亡者は、1万966人、傷病者は9789人
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(鍋蓋代用品をつくる児童たち、昭和20年)
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国鉄(仙石線) |
国有化以降 |
1944年(S19)5月~ |
<これ以前は、項目「宮城電鉄」参照>
* 1944年(S19)5月1日、宮城電鉄が国有化され、仙石線となる
・ 戦時中、沿線にある原町苦竹の陸軍造兵廠や多賀城の海軍工廠への通勤者で大混雑(いずれも従業員が1万人あり24時間稼働)、電車はフル稼働して対応、国策により1944年(S19)に国鉄が買収した(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
<戦後>
* 1952年(S27)、仙石線東七番丁駅の廃止
* 1956年度(S31)、赤字2億3000万円
* 1964年(S39)5月8日、東京国電並みの混雑緩和のため、時差出勤呼びかけ
* 1966年(S41)1月20日、苦竹踏切、立体交差完成
* 1966年(S41)3月15日、陸前原町~西塩釜間、複線化工事起工式
* 1968年(S43)3月22日、陸前原町~多賀城間の複線が完成 / ラッシュ時の電車運転が6分間隔に
* 1975年(S50)2月15日、新型電車始発式
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、仙石線戦後初めて不通
* 1983年(S58)10月2日、仙石線に特別快速列車
* 1985年(S60)10月24日、仙台~苦竹間(3.9キロ)の地下化工事起工式
* 1986年(S61)3月20日、多賀城駅の新駅舎完成
* 2000年(H12)、仙石線地下新線開業・あおば通駅開設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P563、P567/「重訂 宮城県郷土史年表」P614、P623、P624、P638/「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P37、P120、P166、P196、P203/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(S21年10月頃、鈴なりの満員電車)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P99(S50年、カラー、走行する電車)/同P121(H12、走行する電車、カラー)
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第四十二師団 |
編制 |
1944年(S19)2月~1945年(S20) |
* 1944年(S19)2月1日、第四十二師団(通称号は勲兵団)、仙台において編制
【Wikipedia「第42師団」】 留守第二師団と第62独立歩兵団を基幹に仙台に於て編制
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より転記】 1944年2月、仙台において臨時編成。その後、中千島の得撫島(ウルップトウ)に移動し同地の防衛に任ずる。1945年4月、稚内に移駐し当地の防衛を担当しそのまま終戦を迎えた。1945年9月17日稚内にて復員
* 終戦時は、主力は北海道宗谷、一部は南千島(「仙台市史 続編第1巻」P64)
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ 歩兵第130連隊はソ連軍によってシベリアに連行され、5年後に帰国 / シベリア抑留中に死亡し身元が確認された宮城県出身者は806人(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
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「仙台市史 年表」P113/Wikipedia「第42師団」/国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P238
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空襲(宮城県内) |
塩釜空襲 |
1944年(S19)12月29日 |
<塩釜空襲>
* 1944年(S19)12月29日、塩釜に、B29、1機が油脂焼夷弾約500個を投下、焼失570余戸、被災者3200余人(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56)
* 1944年(S19)12月29日、B29、1機、塩釜市尾島町、南町、本町に小型油脂焼夷弾約500発(570発説も)を投下、441戸(483戸説も)2142人(2240人説も)が焼け出される / 警戒警報が解除になった直後で、早朝の空襲 / 隣組で用意していた防火用水は凍結していて役にたたず / 赤子1人がやけど、死者なし(「戦争のころ 仙台、宮城」P185~187)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P185~187
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(7) |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月24日、関東地方でのスイカ、メロン、まくわうりなどの作付けを2月上旬から禁止
* 1944年(S19)2月、東京に雑炊食堂出現、1人1杯20銭、外食券不要 / 4月には335軒
* 1944年(S19)3月6日、全国の夕刊を廃止
* 1944年(S19)4月28日、閣議、米穀増産及び供出奨励に関する特別措置を決定(供出報奨制)(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)5月5日、東京に国民酒場を開設、1人1合
* 1944年(S19)6月17日、米穀管理要綱を決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)6月21日、新刊雑誌を買うときは古雑誌と交換のこと
* 1944年(S19)7月、包装紙不足で、タバコはバラ売りとなる
* 1944年(S19)8月1日、砂糖の家庭用配給停止
* 1944年(S19)9月10日、ガソリン不足のため東京都内の糞尿を電車で輸送 / 西武鉄道、武蔵野鉄道で1953年(S28)3月31日まで続く
* 1944年(S19)10月23日、松根油緊急増産対策を決定。ガソリン不足のため
* 1944年(S19)11月1日、タバコは隣組配給となる。男1日6本
* 1944年(S19)11月1日、新聞の朝刊2ページとなる
* 1944年(S19)12月20日、畜犬献納運動はじまる。狂犬病予防と皮革増産
* 1944年(S19)、この年、物不足ますます深刻となる
* 1944年(S19)、この年、食糧欠乏で、のら犬野生化(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32、P33/岩波ブックレット「年表 昭和史」P21
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(S19年、長町国民学校校庭でサツマイモやジャガイモを作る児童たち)
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銀行(都市銀行) |
日本興業銀行 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)8月、日本興業銀行東北支店を福島市より仙台市東一番丁に移転
* 1951年(S26)10月、仙台支店と改称
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「重訂 宮城県郷土史年表」P502
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P730(日本興行銀行仙台支店)
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金属回収 |
政宗卿騎馬像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、仙台城跡(天守台)の伊達政宗銅像(騎馬像)の金属供出「出陣式」が行われる
「青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も、金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及び護国神社共同主催のもとに、県下青年団代表参集して盛大なる銅像出陣壮行式を挙行す。この折、詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」(重訂 宮城県郷土史年表)
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「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500
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金属回収 |
市電レール |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月、市電芭蕉の辻線が廃止となり、レールを剥がして、戦時金属回収のため供出
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)
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金属回収 |
伊達安芸銅像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)5月27日、松島瑞巌寺境内の伊達安芸の銅像、金属回収に応召出陣となり「壮行式」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P308
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女子挺身勤労令 |
施行 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<「日録20世紀 1943年」P42「女子挺身隊」>
「14歳以上25歳以下の未婚・無職・不在学の女子を勤労動員するため、居住地ごとにまとめた組織 9/21、女子勤労動員の強化と男子職場への代替を打ち出し、女子勤労挺身隊の結成を進めた 当初は自主的組織とされたが、1944年8月女子挺身勤労令が公布され、若い女性は根こそぎ動員された」
* 1944年(S19)年8月23日、女子挺身勤労令(12歳以上40歳未満の未婚女子が対象)を公布、即日施行された
* この日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行 →詳細は、項目「学徒勤労動員」
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「仙台市史 年表」P113
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女子挺身隊 |
結成 |
1944年(S19) |
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P177)
* 1944年(S19)
3月、仙台市内の女学校で女子挺身隊の結成が相次ぐ
3月10日、県下女子挺身隊、各工場に配置
3月12日、県下女子中等学校挺身隊壮行式(宮城県第一高女で)
8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
11月2日、宮城県女子学徒勤労義勇隊壮行式(宮城県第一高女で)
11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長通牒
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P177/仙台市史 年表」P113/「仙台年表」P213/「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P500/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人も軍需工場で弾丸検査)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園猛獣射殺 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月25日、太平洋戦争末期の仙台市動物園で、猛獣12頭(熊4頭、シロクマ・ヒグマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ各1頭)が「空襲の際に危険」と射殺された(仙台市交通局五十年史)/ ただし仙台市史ではシロクマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ・ヒグマ・クマ各1頭の合計8頭 / 自然休園となる / 5月19日、銃殺動物慰霊塔建設
* 1944年(S19)5月19日、空襲にそなえ処分された動物たちの慰霊祭(「戦争のころ 仙台、宮城」P140)
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「仙台はじめて物語」P104~105/「仙台市史10 年表」P307~308/仙台市史 年表」P113/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P140
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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政宗卿騎馬像 |
戦時供出 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、政宗卿騎馬像、戦時中の金属回収で供出(出陣式挙行)
* 1944年(S19)1月22日、政宗銅像、戦時金属回収のため供出、藩祖出陣と称し壮行式行わる(「仙台城P234)
「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500に、「昭和19年1月22日、青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及護国神社共同主催のもとに県下青少年団代表参集して盛大なる銅像出陣式を挙行す。この折詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」
<戦後に発見>
* 1946年(S21)9月9日、仙台郷土研究会員石川謙吾、塩釜市金属集積所より政宗銅像上半身を自費にて払い下げ、青葉神社に奉納す(「仙台城」P235)
戦後、1946年(S21)10月8日、郷土史家石川謙吾が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で、騎馬像の上半身だけが捨てられていたのを偶然の機会に発見、一部を改修し青葉神社に奉納
* 1961年(S36)、仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公像の頭部のみが敷地内に展示されている
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499、500/「仙台市史 年表」P113/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
戦後発見は、「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史続編第2巻経済文化編」 末尾付表(年表)P823/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P184
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国鉄(鉄道省時代) 3 |
戦時輸送(決戦輸送) |
1944年(S19) |
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1944年(S19) この年、国鉄は徴用者、一般疎開、工場疎開、学童疎開、北海道からの石炭輸送、戦時物資などの輸送を重点とした / 戦時貨物輸送増強のため、国鉄長町ヤードを強化 / 4月からは「決戦輸送」
<女性増加>
* 1月、国鉄現場に女性が急激に進出(仙台局管内の8%に) / 出札、改札、小荷物、車掌、列車掃除手、踏切警手など
* 3月、女性が、貨物掛、荷扱手など重労働の職種にも
<急行列車など廃止>
* 4月1日、急行半減、寝台車廃止、一等寝台、食堂車廃止
* 4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ
* 9月、唯一の急行列車も廃止(昭和20年11月20日、仙鉄の急行列車復活)
<疎開輸送>
* 3月28日、東北地方初の疎開輸送用臨時列車(常磐線まわり一関行き)
* 4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間
<旅行制限>
* 4月1日、100キロ以上の長距離旅行制限 / 旅行者は、警察の「旅行証明書」が必要
<旅行制限:以下、Wikipedia「決戦非常措置要綱」より>
旅行制限では100km以下の乗車券の発売枚数の割当による数量の制限のほか、100km以上(乗車時間2時間以上)の遠距離列車の切符について居住地の警察署発行の旅行証明書がないと購入できないようにする措置(買い出しや遊興旅行の制限が目的)が東京都区内・横浜市内・川崎市内駅発に限り試行されたが、警察署の第一線事務増加からの反対から5ヶ月後に廃止され全国施行はされなかった。(上田卓爾「戦時下における旅行制限とガイドブックについて」)
<これ以降は、項目「国鉄(戦後)」へつづく>
<戦後の東北線関連は、項目「国鉄(東北本線)」へ>
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/Wikipedia「決戦非常措置要綱」
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学童疎開 |
県内割り当て |
1944年(S19) |
* 1943年(S18)12月10日、文部省、学童の縁故疎開促進を発表
* 1944年(S19)6月30日、学童疎開促進要綱、閣議決定(国民学校初等科児童の集団疎開) 7月下旬~9月上旬で全国46万人が集団疎開
******************************
<「仙台市史 続編第1巻」P41、P53>
* 1944年(S19)7月、東京の学童1万5000人の集団疎開、宮城県に割当(遠刈田、鳴子などの温泉や松島の旅館などに収容)(P41) / 同書P53では、東京から宮城県内への学童集団疎開数は1万1500人
<「重訂 宮城県郷土史年表」P502>
* 1944年(S19)8月10日、東京方面からの疎開児童1万1115人が宮城県に割りてられる
<「ものがたり東北本線史」P531~532>
宮城県内へは、東京都浅草区、小石川区、杉並区の児童が、秋保、白石、小原、鎌先、鳴子、川渡、松島、古川などへ疎開
<「目で見る仙台の歴史」P169>
* 1944年(S19)8月11日~17日、第1陣(浅草、小石川の学童)、付き添い含め1万1800余名、県内各温泉や松島へ
* 1944年(S19)8月下旬中心に、第2陣(杉並区の学童)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P144~150>
* 1944年(S19)夏~秋にかけ、東京都(小石川区と浅草区)の26の国民学校生(3~6年生)が学校ぐるみで1万7535人、教職員1196人、計1万8731人が宮城県内に学童集団疎開(東京都編「資料・東京都の学童疎開」))
・ 宮城県の資料では、1万5471人
・ 疎開先は、県内30市町村、戦争が終わるまでほぼ1年間、温泉地や観光旅館、寺院、民家などで過ごす
・ 1994年(S19)8月4日~9月24日、臨時列車で13時間かけて到着
・ 第1次分 小石川区学童6700人が鳴子温泉と松島町、浅草区学童6700人は遠刈田、川渡、小原,鎌先、作並の各温泉と松島町
・ 1994年(S19)暮れまでには、杉並区の学童(11国民学校)が高舘村、松山、若柳、吉岡、角田、涌谷、金成、築館、登米、米谷、佐沼の各町へ、浅草区の学童(3国民学校)が秋保温泉へ、東京第一師範付属が中新田町へ疎開
・ 翌年3月、6年生が卒業して帰京すると、4月から新3年生が到着
・ 疎開先での生活の記述あり(日課、食糧事情、親の面会、寂しさからの脱走、地元の受け入れ、帰郷した6年生が空襲で犠牲など)
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* 1945年(S20)9月26日、疎開児童の復帰を指令、学徒隊を解体
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41、P53/「ものがたり東北本線史」P531~532/「重訂 宮城県郷土史年表」P502、P506/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P144~150
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「目で見る仙台の歴史」P169に「学童疎開列車内風景」
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国民徴用令(2) |
女子の徴用は? |
1944年(S19) |
<女子の徴用>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)(岩波年表P21、仙台市史年表P113)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長を通牒(「岩波年表」P21)
<女子の徴用はなかった>
☆ 「女子の徴用是非も議論になったが最後まで施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)
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岩波ブックレット「昭和史年表」P21/「仙台市史 年表」P113/「日録20世紀 1943年」P42『女子挺身隊』
<参考> 「週刊20世紀 1939年」P8~9『白紙が来る! 労働力調達の国民徴用令公布』
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「新・目で見る仙台の歴史」P162(原町の陸軍工廠で働く若い女子挺身隊員たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人たちも軍需工場で弾丸検査)
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戦時中の勤労動員/就労規制(6) |
女子挺身勤労令 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<女子の勤労義務化>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令、公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子挺身隊の期間1年延長を通牒/女子徴用実施
<編者注>「女子徴用は検討されたが施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)という解説もある
→ 項目「女子挺身勤労令」参照
項目「女子挺身隊」参照
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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仙台市電 |
戦時対応 |
1943年(S18)~1944年(S19) |
* 1937年(S12)3月、応召者の欠員補充のため、初めて女性車掌の採用(見習生に67名応募、20名採用 / 同年8月に2回目募集(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 戦時中の1日当たりの利用者
S16年度 6万2600人 S17年度 7万200人
S18年度 7万5700人
特に、民間の軍需工場が集中していた長町へは市電利用者が多く始発時間を5時と10分間繰上げ、ラッシュ時は長町線の車両を7両増発して10分に3本運行、乗降客数の少ない9つの停留所を通過する「急行列車」を運行、近距離を電車通学する中学生・女学生には徒歩通学を勧めた
午後10時の終電車発車後は野菜などの食糧を輸送
S19年以降は一般家庭が防空壕を作るための木材を運搬(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1943年(S18)4月1日、戦時下輸送確保のため、市電停留所15カ所廃止(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188)
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188) / 軌道(レール)を戦時供出(金属回収)のため撤去(「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)
* 1944年(S19)ころ、男性運転手不足から女性車掌を運転手に転用(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 男性運転手は徴兵による入隊や徴用が増えて117人のうち50人が欠員となり、18人の女性運転手が取って代わった / 勤労動員の市立仙台工業学校機械化4年生30余人も運転練習1日後には運転したが、その後まもなく別の軍需工場へ動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1944年(S19)(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188)
1月10日、早朝割引制度廃止
7月1日、工員定期券新設、料金10銭均一に
回数券式から定期券式に改正
急行電車運転(8時30分まで)
8月1日、産業戦士輸送のため、循環線朝夕運休
11月22日、物資輸送用電車運転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92、P366/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161
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「新・目で見る仙台の歴史」P163(女性車掌たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P209(モンペ姿の女性運転手たち・S19年頃、乗客長蛇の列)、P366(戦時中の市電女性運転手たち、モンペ姿)
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総進軍大会 |
開催 |
1943年(S18)/1944年(S19) |
* 1943年(S18)7月8日、仙台市主催、米英撃滅総進軍大会
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
* 1944年(S19)7月30日、滅敵強行宮城県総進軍大会
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「仙台市史10 年表」P306、P307、P308
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金属回収 |
軍馬銅像 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
* 1943年(S18)か1944年(S19)、桜ケ岡公園(西公園)にあった軍馬の銅像「日露役殉死軍馬銅像」が、S18年か19年に供出された
・ 戦後しばらくは台座のみが残っていた
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99-120、53-63
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軍馬の銅像 |
金属回収で供出 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
・ 桜ケ岡公園(西公園)にあった
・ 軍馬の銅像は当時の公園の平面図に「日露役殉死軍馬銅像」と表記されている
・ 戦時中の金属回収でS18年か19年に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた
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「仙台市史 本編2」P371
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99-120、53-63 /桜ケ岡公園(西公園)の公園の平面図は、98-074
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戦時衣料 |
戦時衣生活簡素化実施要項 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月4日、戦時衣生活簡素化実施要項を閣議決定
<男性>は、新規仕立ては「国民服乙号」またはそれに準ずるものに限定(茶褐色以外も可)/ 背広、ダブルの外套、合着の新規仕立ては禁止
<女性>は、婦人標準服の普及が図られた
・ 和服は、<男性>は筒袖、<女性>は元禄袖で、長袖は禁止
<戦後の変化>
* 1947年(S22)、この年、モンペ姿が減り、スカートが増加(「菅家年表」P41)
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国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー)
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ガダルカナル戦 |
慰霊祭 |
1943年(S18)7月 |
* 1943年(S18)7月23日、仙台駅前広場で、ガダルカナル島戦の英霊奉迎式
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
<「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P103~106より>
「1943年(S18)7月23日、宮城県出身者の英霊は2274人。いままで聞いたことも見たこともないほど多くの英霊が白木の箱に収められて帰ってきました。 国鉄仙台駅前で奉迎式が行われた後、英霊は儀仗隊に守られ、哀悼のラッパと共に榴岡の歩兵第4連隊など原隊に帰って行きました。
7月30日夜7時から川内の追廻練兵場で合同通夜、翌31日朝8時から合同慰霊祭が行われました。会場の中央には仮設の大テントが張られ、祭壇にまつられた白木の棺が、人の背丈の何倍もある高さの天井まで重なっています。国鉄は慰霊祭に参加する遺族のために列車を増発し、慰霊祭を前に仙台市内の中学、高等女学校の男女生徒は会場になる追廻で遺族が座る椅子の運搬に終日汗を流しました。
戦後、ガタルカナル島からの生還者を中心に毎年のように遺骨収集作業が行われてきました。皆さん高齢化して、2006年(平成18年)で終わりとなりましたが、島にはまだ多くの遺骨が残っています。」
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「仙台市公報」(昭和18年8月1日) P287/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P103~106
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奉迎式は、16-57、16-67、16-66/遺骨原隊へは、16-58/慰霊祭は、16-59、16-60、16-65、16-64、16-61、16-62/感謝献金呼びかけは、16-68
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