項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市の工業 |
戦後期 |
1945年(S20)秋~1969年(S44)頃 |
☆「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
「敗戦直後の仙台市の工業は、ゴムや金属などの一部を除いて、代表とさるべき業種が見当たらない。朝鮮戦争の特需ブームは、国内経済の復興に寄与することになったが、工業の立遅れていた仙台地域の経済にとって物価高という悪影響の方が強く現れている。
☆「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697の記載項目
<昭和20年代> P665~
・ 1946年(S21)12月の市内工業統計(分野別の工場数、従業員数、出荷額)
・ 1947年(S22)、1948年(S23)の市内地区別工場分布
・ 1948年(S23)当時の主要工場名一覧
・ 県総合3か年計画
・ 1950年(S25)末、市内の工場(工員規模)、500人以上は専売公社工場のみ、200人以上は6工場、市内540の工場は大部分が工員数人(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705)
・ 1954年(S29)、仙台市工場設置奨励条例(既存工場を助成し、中小工場の新設増設を支援)
<昭和30年代> P675~
・ 1960年(S35)4月、専売公社仙台工場(たばこ)完成
・ 1961年(S36)、仙台市工場誘致条例(P670~)
<新産業都市指定> P675~
・ 新産業都市指定にむけた運動
* 1963年(S38)7月、仙台湾地区が、他の12地区と共に新産業都市に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区、新産業都市建設区域に指定
・ 新産都市予定地区内に進出立地した新規工場一覧(S36年~44年に操業開始)
・ 仙台周辺住宅用地造成計画表(計画年次はS39~S45)
・ 工業用水道計画(S50)
<新都市計画> P684~
* 1966年(S41)3月、新都市計画(建設大臣より認可)
この計画は、新産都市・広域行政など時代に即応し、市に隣接した泉町、宮城町、秋保町の一部もエリアとした、20年後の都市づくり総合構想で、工業面では、新産都市計画が進行するにあたって、仙台バイパス沿いに内陸工業地帯を、苦竹に流通センターを配置 / 工業地域は、長町・郡山の市内南部、小田原など東仙台地区、仙台新港につづく市東部の3か所、準工業地域として仙台バイパス沿いに鉄鋼団地・自動車団地・印刷団地 / 流通センターは、卸売団地(卸商センター)、トラックターミナル、倉庫団地など
・ 1966年(S41)の市内工業統計
・ 1969年(S44)年4月現在の主要工場一覧
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P368/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697、P705/「市民の戦後史(仙台市)」P90
|
「目で見る仙台の歴史」P192(小田原折沢の専売公社仙台工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(S30年4月、専売公社仙台工場空撮)/同P201(印刷団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P197(印刷・機械金属・自動車の工業団地空撮、カラー)
|
国鉄(東北本線) 2 |
旅客・貨物輸送 |
1945年(S20)秋~1965年(S40) |
<戦後(昭和24年6月からは国鉄=公共企業体日本国有鉄道)>
* 1945年(S20)11月、上野~青森間急行1往復(101・102列車)が運転再開、しかし翌月、深刻な石炭不足になり再び一時運休
* 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始、二等車復活
* 1947年(S22)7月1日、青森行き普通列車に「婦人子ども専用車」登場(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)11月1日、東北で木炭が滞貨となり、輸送のため「木炭列車」を運転 / 国鉄はこの秋、電力、石炭の不足で貨車の入れ替えにも支障が出る(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)7月1日、上野~青森間直通急行は東北本線経由の1往復(103・104列車)運転開始
* 1949年(S24)6月、日本国有鉄道法施行、公共企業体日本国有鉄道発足
* 1958年(S33)10月10日、東北初の特急列車「はつかり」、上野~青森間を常磐線経由で運転開始(「仙台市史 年表」P120) / 蒸気機関車、仙台~上野間5時間25分 / 上野~青森12時間
* 1960年(S35)12月10日、「はつかり」(常磐線経由)が気動車(ディーゼル)特急となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P598)/ 常磐線経由で
* 1961年(S36)3月、仙台まで交流電化完成(「仙台市史 特別編4 市民生活」P201)
* 1961年(S36)5月1日、東京~仙台間電化され、特急電車が走る(「菅家年表」P55)
* 1961年(S36)6月1日、「宮城野駅」(貨物専用駅)開業(同時に、仙台中央卸売市場への引き込み線完成) / 前年10月、長町~東仙台間に貨物線開通
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122)
* 1962年(S37)6月30日、東北本線の山廻線(利府駅経由)を廃止
* 1963年(S38)4月、修学旅行専用の「おもいで号」誕生
* 1963年(S38)10月、市内大梶(仙台駅・東仙台駅中間)に電車基地(または仙台運転所)を設置 / S41年4月全面完成
* 1964年(S39)3月20日、上野~仙台間の全急行を電車化
* 1965年(S40)10月1日、特急「ひばり号」(仙台~上野)を2往復に増便、特急「やまびこ号」(盛岡~上野)運転開始
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P562、P564、P566~567、P571/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P589、P598、P605/Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P55/「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P566に、仙台上野間急行電車の写真
|
国鉄(戦後) 1 |
東北本線以外 |
1945年(S20)夏~1965年(S40) |
<以下は、東北本線、常磐線、仙山線、仙石線を除く、戦後の国鉄関連>
東北本線関連は、→ 項目「国鉄(東北本線)」に
常磐線関連は → 項目「国鉄(常磐線)」に
仙山線関係は、→ 項目「国鉄(仙山線)」に
仙石線関係は、→ 項目「国鉄(仙石線)」に
* 1945年(S20)7月5日、国鉄運賃25割値上げ、仙台・東京間往復乗車賃210円となる
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に(「菅家年表」P35)
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1945年(S20)11月20日、仙台鉄道局、急行列車復活
* 1949年(S24)6月1日、日本国有鉄道(国鉄)と日本専売公社、設立
* 1950年(S25)8月1日、機構改正で、仙台鉄道局は仙台鉄道管理局となる
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止(「菅家年表」P46)
* 1952年(S27)4月1日、進駐軍のRTO(米軍鉄道輸送司令部)廃止、国鉄の自主運行となる(「菅家年表」P46)
* 1952年(S27)9月1日、仙台自動車営業所、貨物運送開始
* 1954年(S29)5月1日、長町操車場営業開始(当時、北日本最大規模、1日3000輌をさばく)
* 1954年(S29)12月20日、国道4号線と東北本線の立体交差橋完成(長町諏訪)
* 1957年(S32)1月16日、仙台に東北支社設置
* 1958年(S33)4月16日、宮城野に仙台貨物駅起工式
* 1960年(S35)7月1日、新運賃制で三等を廃止(2、3等車を1、2等車に改め、3等車の赤切符を廃止)
* 1961年(S36)6月1日、宮城野貨物駅スタート
* 1965年(S40)9月24日、電子計算機による「みどりの窓口」開設
|
「仙台年表」P215/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P544、P558、P573、P575、P584、P588、P597、P600、P621/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46、P54
|
「市民の戦後史(仙台市)」P134(S36年6月営業開始した宮城野貨物駅)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P46(S33年頃、長町操車場)/同P47(S33年頃、長町操車場の転車台)/同P111(S58、長町操車場、カラー)
|
東北学院(沿革) |
戦後期 |
1945年(S20)夏以降 |
* 1945年(S20)12月、東北学院航空工業専門学校を、工業専門学校と改称(S22年に廃止)
* 1946年(S21)4月、東北学院専門学校(英文科・経済科)を設置
* 1947年(S22)4月、新制中学校設置
* 1948年(S23)4月、新制高等学校設置
* 1949年(S24)、東北学院専門学校が昇格し東北学院大学(文経学部)に
* 1951年(S26)3月31日、東北学院専門学校廃止
* 1953年(S28)5月14日、南六軒丁にシュネーダー記念図書館竣工し献堂式(鉄筋コンクリート造3階建、書庫5階建)
* 1959年(S34)4月、榴岡に男子部の高校分校を設置
* 1972年(S47)7月、榴ヶ岡高校新校舎完成
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内(東二番丁)に、シュネーダー記念館完成
* 1986年(S61)10月1日、東北学院大学、泉キャンパス新校舎起工式
* 2005年(H17)1月、中学校・高等学校、宮城野区小鶴に新校舎完成し、東二番丁から移転
|
「東北学院創立七十周年写真誌」P69、P70/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P320、P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P534、P548、P564、P592/「続・ 宮城県郷土史年表」P12、P212/Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
|
シュネーダー記念図書館(南六軒丁)は、「東北学院創立七十周年写真誌」P63と、「目で見る仙台の歴史」P180
|
進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
|
「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
|
90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
|
進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
|
キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
|
進駐軍(米軍) |
地元行政当局への要請・指示/進駐軍要員 |
1945年(S20)9月~ |
・ 占領軍は、占領に必要なことすべてを、自らの行動・命令でなく、日本の行政当局への要請・指示を通じて行うことが原則
・ 進駐軍宿舎その他の施設の接収、設営、保守、警備、荷役、運搬作業も、当該都道府県や市町村の責任で行われた
・ 要求は期限付きで出され、反抗やサボタージュは処罰の対象となった
・ 進駐軍宿舎・施設の警備には、県内の警察官の半分以上を投入、さらに9月末に急きょ警察官を大募集し300人増員、岩手県から50人、秋田県から30名ほど臨時の応援を得た
・ 警察は進駐軍雑役業務作業員調達の責任があり、進駐から1か月余りで約4500人を集めた(仙台その他の兵舎、宿舎、倉庫での労務)
・ 進駐軍要員と言われた雑役作業員は、進駐軍駐屯地の労務管理事務所を通じて、部屋の清掃、倉庫の片づけ、建築資材の運搬などさまざまな作業にかり出されたが、中には復員軍人や徴用解除者が多かった
<進駐軍施設で働いた日本人たち>(「戦争のころ 仙台、宮城」P245~246)
・ 宮城県内では1万数千人といわれる / 身分は国家公務員特別職で、給料は終戦処理費から払われた
・ 宮城県では渉外事務局が、駐留地の施設、労務問題を担当 / 賃金、採用など労務問題を扱うのが「渉外労務事務所」で、仙台(川内、榴岡、原町苦竹、霞目、作並)、矢本、船岡、多賀城に事務所があった
・ 職種は120種あり、通訳、翻訳、書記などの事務職、運転手、ボイラーマン、大工、塗装工、理髪師などの技術職、ハウスメイド、コックなどの家庭住宅要員、消防、警備など
・ 最初の頃は、人が集まらかった / その後、給料は一般の5割増し、職種によっては労務加配米を支給が分かって応募者が増えた
・ 「検閲官」とよばれる日本人もいて、マスメディアだけでなく郵便物も調べた / 進駐してから3年間は徹底した事前検閲制をとり、新聞、ラジオは印刷、放送前に検閲を受けた
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P325/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245~246
|
|
霞目飛行場(仙台飛行場) |
米軍接収、自衛隊基地 |
1945年(S20)9月/1957年(S32)12月 |
<戦後は一時、進駐軍(米軍)が進駐・使用>
* 1945年(S20)9月、米軍が接収し、飛行場として使用(レニアフィールドと称す)
・落下傘部隊の駐屯地になった(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
<接収解除後は自衛隊>
* 1957年(S32)12月10日、陸上自衛隊の飛行場として使用開始(「仙台市史 年表」P120)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「重訂 宮城県郷土史年表」P585/「仙台市史 年表」P120/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155
|
戦後の接収時代は、62-06、62-07
|
進駐軍(米軍) |
第14軍団司令部 →第9軍団司令部 |
1945年(S20)9月/1946年(S21)4月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」】
・ 占領初期、東日本の占領は米軍第8軍が担当 / 新潟を含む東北地区は、第8軍指揮下の第14軍団が進駐し、司令部は仙台 / 宮城県に進駐は、第8軍団に属する第11空挺師団
* 1945年(S20)9月、仙台に第14軍団司令部が置かれたが、S20年暮に14軍団は廃止された(札幌に司令部を置く第9軍団に統合)
* 1946年(S21)4月、第9軍団司令部が札幌から仙台に移された(これ以降、第9軍団軍政部が関東以北の占領に責任をもつ)
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」 に、宮城県に進駐した米軍の軍団名、連隊名、その変遷の一部が記述されている
**********************************
【(「戦争のころ 仙台、宮城」P244】
「仙台に米軍が進駐してから3か月もたたない昭和20年12月、東北地方の占領行政を監視する第8軍は突如、北海道に移転、第9軍団と統合 / その3か月後には再び仙台に戻った(第9軍団司令部が仙台へ移転)しかも担当地域は従来の北海道、東北に加えて、東京、横浜を除く関東、甲信越を含む地域に拡大 / 米英とソ連の冷戦は激化しており、ソ連領に近い北海道に司令部を置くことを敬遠したのでしょう」「仙台の拠点性が高まり、米軍の大規模駐屯地の建設が急がれ米軍の要求で、仙台の旧陸軍用地を提供、キャンプ・センダイとなる」
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
|
|
進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324】より
<先遣隊>
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)到着 / 横浜からジープ38台に分乗した先遣隊106名が、同日未明に陸路松島に到着し、松島パ-クホテルに分宿 /知事はじめ県首脳部と会見(進駐軍宿舎や物資集積所のための施設・建物の接収を決める)
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240では、「宮城県には9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 翌日から、米軍と宮城県の間で宿舎、施設利用、警備について協議が始った」
・ 進駐軍との事務的交渉窓口「渉外事務処理本部」は、この会談を機に、知事直結の窓口として「知事官房渉外課」を設置
<海上から>
* 9月15日、東北地区進駐軍最高幹部らが塩釜港に上陸し、松島に入る
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月15日、塩釜港に6席の艦船から約3800人の兵士が上陸用舟艇を使ってまるで敵前上陸のように進駐してきました」
<列車で到着>
* 19月16日、2本の特別列車で約1000名、仙台駅到着 / 塩釜港には艦艇で着いた約3800名上陸 / 仙台(原町苦竹の造兵廠)、多賀城(海軍工廠)、松島に分駐 / 将校以上の幹部たち、ジープで国道6号線経由仙台に到着し、そのまま松島に入る
* 9月17日、1200名、特別列車で仙台着
* 9月18日、2580名、特別列車で仙台着
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月16日朝には東北線、常磐線の特別列車で1100人の兵士が仙台駅に到着したのを皮切りに26日迄に、列車と船舶、ジープ、トラックで合計1万95人が宮城県内に展開しました」
・ 9月26日までに、計約1万名が宮城県に進駐
・ 仙台、多賀城、松島のほか、塩釜石巻、古川、船岡などに駐屯(兵士数は造兵廠と海軍工廠に駐屯が圧倒的に多い)
・ 仙台では、霞ノ目飛行場や榴ケ岡の東部122部隊地にも小部隊が入った
<簡易保険局庁舎接収し、中枢機能を置く>
・ 第14軍団司令部(その後の第9軍団司令部も)、第11空挺師団司令部、宮城県を管轄する軍政団司令部、MP(憲兵隊)本部など
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324、P327 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~240
|
63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)
|
進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
|
63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
|
敗戦後の諸相・仙台 |
女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ |
1945年(S20)9月 |
9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)
* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)
・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243
|
|
労働運動(戦後) |
宮城県内 |
1945年(S20)8月~ |
* 1946年(S21)、労働組合続々と結成(1月3日、仙台鉄道管理局管理部管内従業員1万5千人 / 2月27日、宮城県教員組合結成大会、 など)
* 1946年(S21)9月20日、失業反対宮城県労働者大会
* 1946年(S21)10月8日、宮城地区共同闘争委員会主催、労農者大会
* 1946年(S21)11月28日、宮城県労農市民大会、勤労大衆2万人結集
* 1947年(S22)1月31日、マッカーサー元帥、2・1ストに中止命令
* 1950年(S25)夏~、レッドパ-ジ / 宮城県内では、新聞、電機産業(電産)を中心に民間から160余名、官公庁関係から13名が職場から追放された
<参考>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦後の経過につき記述あり
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604の第七章労働運動」に、昭和20年~43年の宮城県内および仙台の労働運動の経過につき記述あり
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P508、P509、P516/「仙台市史10 年表」P311、P313、P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604/「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533
|
44-46、44-55、16-53、16-55
|
仙台駅(戦後) |
第3代駅舎 |
1945年(S20)8月上旬 |
2代目駅舎が仙台空襲(S20年7月10日)で焼失し、終戦直前の8月上旬に木造バラックの待合室が急ごしらえで建設された
* 1945年(S20)8月上旬、3代目駅舎を急造
* 1947年(S22)3月27日、バラックの仙台駅にネオンがついた。周囲が暗いためか「仙台駅」の文字だけが夜空に輝いていた」(「仙台市史 続編第2巻」P255)
|
「仙台駅百年史年表」P224/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P255
|
16-16、44-50、21-11、22-12/91-22など分類H-30の各写真(1945年9月23日、米軍撮影)/09-09(夜に輝く「仙台駅名ネオン」/「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図2(戦後間もない仮駅舎)
|
空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(3) 小牛田、亘理 / 女川湾の海戦 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<鉄道への攻撃 小牛田、亘理>
8月9日、東北線小牛田駅に停車中の列車が襲われ、機関士と乗客1人が死亡 / 亘理の空襲(8月10日朝、グラマン2機が常磐線の線路に急降下して機銃掃射で6人死亡、8人負傷、空襲警報で急停車した列車から降りて土手のくぼ地に隠れた乗客が犠牲) (「戦争のころ 仙台、宮城」P232)
<女川湾の海戦>
海軍防備隊(横浜港から函館、室蘭むけの船団を三陸沖で護衛、および遭難船救助を担当)が拠点にした女川港に入港中の、標的艦「大浜」、海防艦「天草」など20数隻が攻撃を受ける
・ 8月9日、第1波は朝5時半、空母「ペニントン」の艦上爆撃機と艦載機4機が攻撃、霧に邪魔されたが、中型商船2隻が沈没 / 第2波は、58機が、日本軍の駆逐艦、護衛艦に投弾し沈める / 第3波は29機がドックに停泊中の小型艦船を攻撃するなど、午後5時の第8波まで続く / 攻撃には英国艦隊も参加し、英軍の記録では、駆逐艦3隻、哨戒艇1隻撃沈 /
・ 8月10日、攻撃は10日も続き、湾内の艦艇のほとんどと、関連ある軍の施設も破壊された / 米軍の被害は、撃墜3機(日本側は、「大浜」「天草」の高角砲、陸上からの高角砲部隊などが対空砲火で応戦) / 「天浜」は、グラマン機の爆撃と掃射で転覆沈没、乗組員が船を出て防空壕に退避途中で機銃掃射を受け30人位が倒れる / 「天草」は艦の周辺に爆弾20個くらい投下され、間もなく艦首を先に数分で沈没 / 2日間で158人が戦死
・ 昭和41年、海軍防備隊通信科の神田義男兵曹長夫妻が湾を望む崎山公園に私財を投じて慰霊碑を建設、毎年慰霊祭が営まれている / 近くには英軍機に乗って戦死したカナダ人のグレー大尉慰霊碑もある / 神田さん夫妻は東日本大震災で亡くなった
<女川の町内も被害>
・ 海戦のとばっちりを受けて、国鉄女川駅倉庫、造船所のほか、民家70戸焼失、犠牲者24人
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232、P234~235
|
|
空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<松島海軍航空隊への攻撃>
8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた
<軍の工場への攻撃>
・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷
・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236
|
|
仙台空襲 |
空襲被災者への救援・収容・配給 |
1945年(S20)7~8月 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P323より
<罹災者収容先>
片平丁、八幡、東六番丁、連坊小路、上杉山通、五橋、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁、荒巻の各国民学校、巡査派出所など
<救援物資>(市配給課書類「配給・罹災関係」)
7月10日~11日、各地からの救援物資
・ 握り飯差し入れ 村田・燕沢・吉岡・塩釜・富谷・七北田・高砂・大沢・増田・大河原・根白石の各市町村、及び南警察署を通じて計2万2249個
・ 食糧営団から、米5俵と乾パン3万2250食
・ 山形県から、乾パン1万4000食
・ 漬物組合や納豆組合から、沢庵・納豆
・ 大崎地方事務所などから、むしろや縄
・ 気仙沼や桃生郡・牡鹿郡内から、米飯や干魚、サバ、マグロ
<罹災証明書> 被災者に公布され、非常用の米や味噌・醤油の配給券が配布された
<被災者への配給>
・ 7月10日、米・味噌・醤油
・ 7月14日、乾のり・焼きのり・コンニャク・下駄・石鹸
・ 7月15日、塩・下駄・草履・ろうそく・マッチ
・ 7月19日、タバコ、納豆・中古衣料品
・ 7月20日、ネル・タオルや縫い糸・縫い針・茶
・ 7月24日、ちり紙
・ 7月31日、傘
・ 8月初めになって、重要な工場・事業所の寄宿舎や全焼の被災家族に、鍋や食料品を配布
<病院や救護所へ>
・ 医薬品や冷凍魚、缶詰など配布
<乳幼児の死亡>
・ 救援物資は十分とはいえず、特に乳幼児の消化不良・栄養失調による死亡が増加
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
|
|
電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
|
「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
|
仙台空襲 |
空襲の状況 |
1945年(S20)7月9日~10日 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
<空襲時の状況>
・警戒警報サイレン(7月9日に3回)
午前9:38(5時間後に解除) / 午後9:30頃、米空軍爆撃機B29(2機)松島湾上空を旋回 / 午後10:56(このころ松島湾上空にマリアナ基地発進のB29結集しはじめていた)
・空襲(7月10日)
午前0時ごろ、120機以上が3機ないし5機の編隊で、仙台上空へ到達し焼夷弾投下 / 空襲警報サイレンは(7月10日)午前0時5分から4回鳴らした時点で電力線断絶
仙台北警察署の記録(警察望楼台から当番警察官と学生挺身隊員が観測)では、米機来襲は、午前0:03~2:03の間に、2分~12分以内の間隔で波状攻撃を25回繰り返し、焼夷弾は、最初は市中心部に、後半は東部と南部地域に集中して投下されたように見えたという
・気象状況(10日午前0時~1時)は、快晴、気温15.7度、湿度79%、北西から0.9mの風 / 以後、夜明けまで、風は東2.7m→北北東2.3m→北北西1m→北西1.3m→北北西3.7mと変化、湿度はまず82%まで上がり、その後火災の中で68%まで低下
・「戦災関係綴り」によると、投下されたのは油脂(ナパーム)性焼夷弾50㎏級と100kg級、小型エレクトロン焼夷弾が混用されていた
<米軍の被害 日米の発表比較>
・ 東北軍管区司令部発表(7月11日):来襲した米軍機70機のうち、5機を撃墜、12機を撃破(これは事実ではなかった)
・ 米側の資料(米国立公文書館提供):(B29)6機損傷のみで、迎撃した日本軍機は1機のみ
・ 米軍資料には、「対空砲火で5~6%の損害をうけた」「帰還時に小破した6機と事故、損傷機あわせて13機が中継基地の硫黄島に不時着した」(「戦争のころ 仙台、宮城」P226)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
|
|
仙台空襲 |
米軍機、テニアン島を発進 / 警報発令 |
1945年(S20)7月9日 |
<仙台空襲(米軍機発進)>
* 1945年(S20)7月9日午後5時14分、マリアナ諸島テニアン島の西基地から、第58航空団B29爆撃機123機が離陸(1機は離陸に失敗し離脱) / 午後11時半すぎ、千葉県房総半島沖に到達、福島県相馬市松川浦上空からやや西に転じ亘理、岩沼を経て仙台へ
<警報発令>
* 1945年(S20)7月9日午後9時30分、東北南地区(宮城、福島両県)に警戒警報発令、10時22分に解除(仙台周辺の天候、風向き観測のため飛来したB29(1機)に対応した警報だった)
* 大編隊に対しては空襲警報発令が遅れた
午後10時56分警戒警報発令、10日午前零時5分に空襲警報発令され、仙台では市役所屋上からのサイレンが4回鳴ったところで途絶える(すでに空襲始まっており、爆撃で電線が切断されたため) / 警報が遅れたのはこの夜の当番の判断ミス
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210~212
|
|
空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(1) 艦載機などから爆弾投下、機銃掃射 |
1945年(S20)7月14日~8月10日 |
<仙台空襲後の空襲(宮城県内)>
・ B29による仙台空襲(昭和20年7月10日 焼夷弾攻撃)の後は、敗戦の8月15日までの間に、県内は艦載機や艦上爆撃機による空襲を受けた
・ グラマンなどの戦闘機とカーチス降下爆撃機、遠く硫黄島からノースアメリカンP51戦闘機も飛来、圧倒的に多かったのはずんぐりむっくり型のグラマンで、このほか英空母から戦闘爆撃機コルセアも参戦した
・ 7月は14日、15日、17日の3回、8月は9日、10日の2回
・ 空母から飛び立った小型機の空襲は、夜間は来ないが、朝早くから日没までの日中だった
・ 空爆対象は、軍事施設に限らず、鉄道、港湾、発電所、工場、船舶に爆弾投下、超低空飛行で人などに機銃掃射
・ 日本軍機は本土決戦を控えてむやみに出動しないよう命じられていた
・ 宮城県の三陸沖には、沖縄戦が終わってから急いで移動してきた米国のエセックスなど空母3,軽空母2,戦艦など22隻、それと英国の空母フォーミダブルなど、計29隻の大艦隊が展開していた
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P231
|
|
空襲(釜石艦砲射撃) |
釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅 |
1945年(S20)7月14日、8月9日 |
<釜石に艦砲射撃、773人が犠牲>
・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237
|
|
空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(2) 陸海軍基地、鉄道、船舶を攻撃 |
1945年(S20)7月14日 |
・ 7/14は、県内の18か所で空襲
<陸海軍基地への攻撃>
7/14、矢本の海軍松島基地に20機来襲、爆弾やロケット弾を撃ち込み2機が破損 / 玉浦の陸軍基地(現・仙台空港)も攻撃を受けるが、戦闘機や爆撃機はすでに疎開しており、飛行場付属施設が焼失 / 霞目の仙台飛行場にも来襲 / 航空基地と軍需工場への空襲は、その後も継続
<鉄道への攻撃>
7/14朝5時半、国鉄仙石線高砂駅で停車中の電車に5機のグラマンが機銃掃射し、死亡6人、負傷9人 / この日は東北線岩切駅舎も攻撃され、近くで農作業中の2人が機銃掃射で死亡
<船舶への攻撃>
7/14、本吉郡十三浜村沖の海上で船舶2隻が米英軍機の攻撃で6人が死亡、9人負傷 / 名取郡沖の海上では漁船乗組員2人死亡、8人負傷 / 桃生郡追波川河口で運送船が被弾し、2人死亡、3人負傷 / 唐桑で漁船2隻沈没 / 志津川では湾内の船舶3隻が被害
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232~234
|
|
空襲(宮城県内) |
仙台空襲 |
1945年(S20)7月10日未明 |
→ 項目「仙台空襲」を見よ
|
|
|
仙台空襲 |
空襲の概要、被害規模 |
1945年(S20)7月10日 |
(1) 『仙台市戦災復興誌』(仙台市開発局 1981年)では、「1945年7月10日、仙台市は米軍のB29、100機による空襲をうけ、中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失。 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」
(編者注: 死者901人、負傷者1689人、行方不明者の数もあるが、空襲間もなくの統計で正確でないと思われる)
(2) 『仙台はフェニックス』(1995年発行 P341)では、「死者は 約1400名近い(確認1064名、身元不明など335名)」
/ ただし、7月17日午前5:30頃の高砂駅停車中列車と周辺民家への機銃掃射、福田町付近爆弾投下による、死者6名、重軽傷者9名、および8月9日の仙台飛行場・原町陸軍造兵廠など銃撃による死者4~5名を含む)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P320)
(3) 『重訂 宮城県郷土史年表』P505では、「仙台市、米空軍の空襲を受く。9日深夜より10日(午前0時5分頃より約2時間30分)未明にかけ前後約3時間に亘り、B29爆撃機7・80機の波状的来襲により無差別焼夷弾攻撃を受け、市の中心部及び川内地帯焦土と化す。この日の戦災により、行政・教育・商業・軍事・金融・交通等の中枢部殆ど焼失、死者911名、罹災戸数11,642、罹災人口57,321、被害面積150万坪に達す。喪失したる史跡、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、青葉城大手門、養賢堂講堂、芭蕉の辻等の古建築物」
(4) 『仙台市史 続編第2巻(経済文化編)』(1969年発行)P763では、「昭和20年7月10日、B29、100機の爆撃によって、仙台市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。被災面積約500ha、全焼家屋1万1650戸、半焼252戸、死傷者約2600人に及び、被災人口の総数は5万7000人、全人口の26%にも達した。」
同書P315では、「房総沖、鹿島灘を北上して、仙台湾に集結したB29約100機は、午前零時5分から約2時間半にわたって仙台市中心部に対して波状的爆撃を加えてきた。このため、特に商業、行政の中心をなす繁華街や川内をはじめ各所にあった軍事施設の大部分が破壊され、家屋その他の建物はほとんど焼失し焦土と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。」
|
「仙台市戦災復興誌」(仙台市開発局) /「仙台はフェニックス」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P505 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P315、P763
|
仙台空襲の焼失区域図は、98-092、98-147
/空襲被害は、35-15、35-14、35-13など「写真データベース」分類G-28の全写真
/「新・目で見る仙台の歴史」P164~167(炎上する市内、焼け野原、座り込む市民、焼け跡整理作業、市民に呼びかける警官)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P61(焼け跡に建つ女性)/「市民の戦後史(仙台市)」P18(焼け跡整理作業など)/同P166(仙台空襲20年追悼式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図42(S20年空襲後、天守台より一面焼け野原の仙台市街俯瞰)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270(敗戦後の焼け跡整理)
|
仙台空襲 |
空襲被害の状況 |
1945年(S20)7月10日 |
(5) 『仙台市史 続編第1巻(行政建設編)』P56~62より
<仙台空襲>
・仙台空襲時には、全市5万1630余世帯の約35%が疎開中
・「昭和20年、仙台市内には、本土決戦に備え東北軍司令部など数々の司令部が設置され、形の上の迎撃態体制は一応つくられていたが、それに伴うべき武器弾薬に乏しく、軍司令部所在地たる仙台に一門の高射砲もなく、木造の模擬高射砲がむなしく空をにらんでいたのである。」
・「7月10日深夜から早暁の仙台空襲では、B29の小編隊(2~5機)が20数回波状的に来襲、投下された焼夷弾は、油脂50キロ、100キロ、小型エレクトロン1号、2号混用などで、市内各所に火災発生後は50mもの烈風となり火勢はたけり狂った。」
・「市電環状線内は見るかげもなく壊滅、地をはいからっみあった電線、トタン、カワラ、ガラスの破片、まちかどにうずくまる重軽傷者、わが子を探し求める母親、性別もわからぬほどに焼けただれた遺体、焼け落ちたビルの残骸からはなお煙と異臭を吐き出す。都心のビルが焼き払われたため、仙台駅前から県庁方面が一望できる始末であった。」
・「死傷者の多くは防空壕内でやられたのである。都心のある防空壕では、ここに避難した老若男女20人が、外の熱気のためむごたらしく死んでいた。東一番丁北端と定禅寺通交差点では、家財を背負って避難途中の市民が折り重なって死んでいた。」
・その他、全焼・半焼した地域(公会別)、焼失した古建築などの記述あり
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P56~62
|
仙台空襲の焼失区域図は、98-147
|
仙台空襲 |
空襲の概要 |
1945年(S20)7月10日 |
<7月10日未明の仙台大空襲>
* 1945年(S20)7月10日未明、米軍第58航空団のB29、123機、2時間にわたって仙台市街地を空襲 / 先導機12機に誘導され高度3000~3200mで市南西部から侵入、事前設定した爆撃中心点に焼夷爆弾投下、目標区域周辺に反復し投下 / 爆撃の範囲は市電循環線の内側と、陸軍施設が集中する川内地区 / 3~5機が編隊で爆撃、何分か後に別の編隊が攻撃を繰り返す / 午前0時3分~2時5分までの2時間に25回周辺に反復し投下
* 避難で市民が向かった避難先は、広瀬川河畔、評定河原、大年寺山、愛宕神社、西公園、大崎八幡、北山、北仙台、台原、東照宮、宮城野原、遠くでは根白石、落合
・ 空襲の夜、軍管区副官部の将校たち、料亭で飲酒、2~3人が焼夷弾の直撃で亡くなった(「戦争のころ 仙台、宮城」P212~213)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P212~213、P214~216、P218
|
|
仙台空襲 |
投下された3種の焼夷弾 |
1945年(S20)7月10日 |
<投下された3種の焼夷弾>
・ M47焼夷爆弾
落ちるとものすごい音がして火が噴き出す / 空襲の手始めに攻撃目標に対し集中的に投弾し火災を発生させる / 先導機群と2個群団が1万800発を投下
・ M17集束焼夷弾
ザアーと雨のように降ってきて、あたりかまわず青白い炎を出して燃える / 1個の中に直径5cm、長さ35cmの六角棒状のテルミット・マグネシウム焼夷弾が110本はいっていて、地上300mになると自動的にまき散らされる / 総数23万7000個を投下)
・ 小型油脂焼夷弾
6個のガソリン、ナフサ入りナパーム弾が集束しており、これも途中で分かれて落下、地上で燃え上がると火を振り払っても落ちない
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P216~217
|
|
仙台空襲 |
仙台北警察署の報告 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲避難中の状況>
【仙台北警察署『仙台空襲の被害と民防空機関の活動状況』より】「東一番丁巡査派出所の後藤、佐藤両巡査にして東一番丁界隈の避難者約百名を誘導、台原方面に向かいつつありたるが、北一番丁野沢醤油店前広場に至るや、前途は火焔にて進む事不能、風の為火焔は渦巻き、行く事は完全に阻まれ如何とも成難き状況に至りたり。 両巡査は此処は安全なりとは謂ひ兼ぬるも避難不能なり。 俺達と此処へ止れ、此処より動くと死ぬぞと連呼し狂象の如き避難者を沈静せしめ事なきを得たり。」
|
「番丁詳伝」P151
|
|
仙台空襲 |
東北軍管区司令部発表 |
1945年(S20)7月10日 |
<仙台空襲につき、東北軍管区司令部発表>
(空襲から8時間後の昭和20年7月10日午前10時)
「敵B29約百機は、今10日午前零時5分ごろより約2時間30分にわたり仙台中心部に対し無差別焼夷攻撃を加え来たり。市内各所に火災発生するも午前5時頃にはおおむね鎮火せり。市民はかねて準備したる食料ならびに付近町村よりの炊き出しにより直ちに配給を受け、指定収容所に復帰し、鎮静に帰しつつあり」
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
|
|
仙台空襲 |
東北軍管区発表/号外記事 |
1945年(S20)7月10日 |
<東北軍管区発表 7月10日午前8時>
「B29百機来襲/仙台市街猛爆/各所に火災、生産陣異状なし 敵約百機は今十日零時五分頃より約二時間三十分に亘り仙台市中心部に対し無差別焼夷攻撃を加へ来り市内各所に火災発生せるも概ね五時頃には鎮火せり。市民はかねて準備せられありたる食糧並附近町村よりの炊出しにより本朝直ちに配給を受け逐次指定収容所に復帰し鎮静に帰しつつ市の再建設に向ひ猛進しつつあり。仙台市民は東北一般民衆の粘り強さを如実に発揮しつつあり。」
<河北新報号外 7月10日付>には、
「上記の東北軍管区発表のほか、集団避難の戦災者に、米、味噌、醤油の無料配布を行うこと、片平丁、上杉山通、八幡、東六番丁、連坊小路、五橋、南材木町、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁小学校と第二中学校の十三カ所を罹災者収容所とし臨時市役所出張所を設けて罹災証明書、一般物資配給券を交付することにしたことを報じている。」
・ 「救援物資の配給が本格的になされるのは14日からだが、焼のり、コンニャク、塩、茶などで腹を満たすものはなかった。中古衣料は5人以上の家族に1点、タオル1枚、縫い針2本というもので、ちり紙はひとり25枚というような数量であった。」
|
「番丁詳伝」P150~151
|
|
仙台空襲 |
焼失した学校 / 児童の犠牲者 |
1945年(S20)7月10日 |
<焼失した学校>
☆ 国民学校
・ 全焼(東二番丁、立町、西多賀、北五番丁)、一部焼失(木町通)
・ 上杉山国民学校は、南校舎や西校舎が被弾したが、教職員がバケツリレーで消火、焼失を免れる
☆ 旧制中学校など中等学校(全焼)
・ 育英中学(現・錦町公園の場所)、仙台商業、東北学院中学校(東二番丁)、仙台中学校、常盤木高等女学校(西公園近く)、宮城県第一高等女学校(元寺小路)、仙台女学校(現・白百合学園 元寺小路)
☆ 旧制高等学校など(全焼)
・ 旧制第二高等学校、東北学院神学部(南町通)
☆ 大学
・ 東北帝国大学(片平丁)は、法文学部、理学部、工学部の校舎の40%を焼失
<仙台空襲による児童(国民学校生)の犠牲>
・ 死亡 計86人(木町通国民学校22人、東二番丁18人、立町16人、ほか)
・ けが40人
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P222~223
|
|
仙台空襲 |
焼失した学校 / 校舎再建 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲で焼失>
☆ 国民学校 5校(全焼4、半焼1)
・全焼・・・北五番丁、立町、東二番丁、西多賀
・半焼・・・木町通
☆ 中等学校13校(全焼)
・全焼(公立)・・・仙台、仙台商業、仙台図南、県第一高女、県仙台第二、県工業、
・全焼(私立)・・・仙台育英、東北学院、宮城女学校、栴檀、仙台女学校、常盤木高女、朴沢松操
☆ 高等専門学校 3校(全焼)
・全焼・・・第二高等学校、県立女子専門学校、宮城学院女子専門学校
☆ 大学 3学部
・一部焼失・・・東北帝国大学理学部、工学部、法文学部
<二部授業や青空教室>
・ 焼失を免れた学校の一部をかりて、二部授業
・ 西多賀国民学校のように、近くの神社の社務所や部落公民館などを仮校舎として二部授業や複式授業
・ 間借りの場所がない学校は、野外授業(青空教室)
<校舎再建>
・ 国民学校(小学校)は、1950年(S25)までに7校の校舎が建ち、二部授業、青空教室はほぼ解消した
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P316「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270~271
|
|
仙台空襲 |
米軍機が偵察 / 米軍が空襲予告 / 空襲前日に高射砲陣地構築 / 警報発令の体制 |
1945年(S20)5月~7月9日 |
<仙台空襲の前触れ>
* 1945年(S20)5月25日、米軍F13A(写真偵察機)、仙台市街地を撮影
* 米軍が事前に空襲予告(日本むけ米軍短波放送で「7月9日、仙台にお邪魔しますから疎開するように」と繰り返し放送 / 空襲予告ビラを投下「仙台よい町森の町 七月十日は灰の町」など / 空襲前日にも上空からビラを撒き予告
<前日に高射砲陣地構築>
* 1945年(S20)7月9日朝早く、仙台駅に軍用列車で高射砲21門、探照灯18基と、高射砲隊(2個大隊)が到着 / 列車は長町操車場へ回送、長町諏訪と広瀬川河畔の飯田団地、原町の現NHKアンテナ付近に高射砲陣地を構築(「戦争のころ 仙台、宮城」P210)
<警報発令の体制>
・ 東北軍管区司令部防空作戦室(仙台市川内)が新潟を含む東北7県の防空を担当 / 軍人や女子防空通信隊ら100人が交代で勤務 / 各県の防空監視哨から警察を通じて敵機の動静が電話で入ると、空襲警報が作成され、隣の部屋に待機している日本放送協会のアナウンサーに渡され、ラジオで警報が放送される仕組み(「戦争のころ 仙台、宮城」P212)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P207~P210、P212
|
|
空襲(宮城県内) |
仙台空襲以前の空襲 |
1945年(S20)5月29日~7月9日 |
<仙台空襲以前にも、米軍による攻撃>
・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来
・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30
・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷
・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける
・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207
|
|
学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
|
|
空襲(宮城県内) |
霞目陸軍飛行場を爆撃 / 米軍機、蔵王山中に墜落 |
1945年(S20)3月10日~11日 |
<霞目陸軍飛行場(仙台)>
* 1945年(S20)3月10日夜、米軍機が霞目陸軍飛行場(仙台)と太白区四郎丸地区を爆撃、ほとんど被害なし / 霞目には仙台少年飛行学校があり、油脂焼夷弾1371発投下、うち248発は不発弾、西風が強く、焼夷弾は目標を外れて周辺の田んぼに落ち燃え上がる
・ この夜(3月10日)、東北地方では、いわき市、盛岡市、青森県上北郡もB29が空襲 / いわき市で16人、盛岡市で4人死亡
<米軍機、蔵王山中に墜落>
・ この夜(S20年3月10日)、吹雪の蔵王連峰不忘岳に3機の米軍B29が間をおいて激突、34人の乗員全員が死亡 / 時刻は、午後9時50分ころ、その1時間後、翌11日午前2時頃 / 翌日、地元七が宿村横川集落の警防団十数人が吹雪と積雪1mのなか現場へ向かい墜落した1機と死亡した搭乗員を発見
・ 1945年(S20)5月、仙台の藤崎百貨店で、不忘岳に墜落した機内から回収した救命具、携行食品などを展示
・ 1961年(S36)9月、登山グループ「不忘会」が呼びかけ、地元婦人会、キリスト協会、仏教会、航空自衛隊などが協力し、現地にB29搭乗員の慰霊碑「不忘の碑」を建立
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P191~192
|
|
進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
|
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
|
|
戦時中の勤労動員/就労規制(7) |
国民勤労動員令 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)3月6日公布、3月10日施行
老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざす
→ 詳細は、項目「国民勤労動員令」参照
|
「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P504
|
|
戦時中の疎開者受入れ |
仙台市/宮城県 |
1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人
<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201
|
|
戦時中の物資統制、使用規制 |
(8) |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)6月25日、東京神田で水田が作られた
* 1945年(S20)7月17日、旅行者用外食券が交付されることになる
<仙台> (「仙台市史 特別編4 市民生活」P99)
* 1945年(S20)8月、仙台でも外食券制度施行され、旅行用16軒、三食用20軒を外食券食堂に指定
・ 外食券制度は、米の配給通帳制と同時に発足したが、新聞などの記事による限り、一般の人に良く利用されるようになったのは、敗戦が近くなり食糧難が深刻になったころからのようである
<敗戦 8月15日>
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1945年(S20)秋、鉄かぶとを鍋に再生
* 1945年(S20)秋、タバコ巻機が大流行
<戦後の統制撤廃>
→ 項目「戦後の物資・価格統制撤廃」参照
|
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P34、P35/「仙台市史 特別編4 市民生活」P99
|
|
仙台駅(戦前) |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で駅舎、仙台鉄道局、仙台鉄道管理局が焼失 / 本局は仙台鉄道教習所に移り、さらに東二番丁の東北学院中学校の建物借用し移転
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P561
|
「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台鉄道局庁舎(大正8年)
|
銀行(都市銀行) |
住友銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)2月17日、住友銀行仙台支店を新伝馬町に開業
* 1948年(S23)10月1日、株式会社大阪銀行に商号変更
* 1952年(S27)12月1日、商号を株式会社住友銀行に復帰
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「住友銀行」2020年9月13日版
|
|
銀行(都市銀行) |
三和銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)5月1日、三和銀行仙台支店を東二番丁元寺小路角に開設
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P516
|
|
仙台偕行社 |
2代目?、空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 2代目?に建替え(年不詳)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
|
|
養賢堂 |
戦災で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
|
|
仙台空襲 |
事前に防火帯づくり |
1945年(S20) |
<事前に防火帯づくり(仙台)>
・ 鉄道沿線や込み入った住宅街などが指定され、建物を取り壊す
・ 第1次分 対象は1067戸
「重要施設周辺」=清水沼、長町八本松など
「消防道路」=南光院丁西側
「鉄道沿線」=元寺小路X橋(エックスバシ)からキリンビール工場までと、五橋、専売局前から南染師町までの2地区
・ 解体作業は建設業者や、隣組を母体に編成された国民義勇隊、学徒勤労動員の学生生徒 / 仙台駅付近は7月9日が完了予定
・ 第2次分を7月9日に指定(仙台市中心部約2万4000坪、2063戸、8294人を指定し、細横丁、元寺小路など狭い道路に面した家屋を第二師団の工兵隊が取り壊す予定だったが、翌日(7月10日未明)の空襲で対象地域は全焼
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210
|
|
仙台空襲 |
被害状況 / 死因 |
1945年(S20) |
<被害状況>
・焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う
・死者・負傷者はいまもって確定せず、最新(2020年現在)のデータでは、死者1399人、負傷者1683人
<死因> (1980年、岩倉政城医師による調査)
仙台北署に出された死亡届のうち、医師が死亡原因を記載した599人について、医師や看護婦、入院患者から聞き取り調査
・焼死303人、やけどによる死亡103人(火傷3~4の重傷者が多く、中には肌が黒褐色に炭化した人も)、焼夷弾直撃74人、防空壕内の炭酸ガス中毒死60人、やけどと破傷風併発5人、やけどと敗血症併発2人、やけどと細菌感染2人、溺死12人(大半は、飛び込んだ井戸内から出られずに)
<病院では>
・東北帝大附属病院
当夜は11の診療科で5~6人の当直医師が勤務 / 回復見込みのない患者は内科へ、やけどのひどい人は外科へ、早急に手術が必要な人は手術室へ振り分け / 手術した人の大部分は手足の複雑骨折で、消毒液がなく、井戸水をバケツリレーし、患部の泥を流しながら20数人を手術
・仙台逓信病院
ほとんどがやけどの人でその夜のうちに10人ほどが死亡 / 薬品も包帯も不足で、数日たつと患者の腐敗臭が部屋に充満した
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220~222
|
|
仙台空襲 |
被災者への援助 / 避難先 |
1945年(S20) |
<被災者への援助、避難先>
・ 家を焼け出された約5万人
・ 仙台圏の多くの町村から非常食や善意の炊き出しを受ける / 避難所は、被災を免れた国民学校や一部焼失した国民学校の講堂 / その後、多くは親類縁者宅に避難 / 仙台市では、追廻練兵場跡に2年間で1876戸の簡易住宅を建設し、空襲被災者や海外からの引揚者に提供された
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
|
|
仙台空襲 |
被災した区域/身元不明遺体/甘かった認識 |
1945年(S20) |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
・ 全焼は13公会の区域(東一番丁、東二・三番丁、元寺小路、新伝馬町、多門通、東二・四番丁、二日町、大町、国分町、立町、肴町、本櫓丁、北目町)
・ 半焼は37公会の区域(勾当台通、外記丁通、杉山通、上杉山通、光禅寺通、錦町、東六番丁、小田原中部、宮城野橋西部、新屋敷、八塚、二十人町、南町、元柳町、清水小路、土樋、田町、米ケ袋、花壇・枇杷首、霊屋下、向山東部、向山西部、鹿野、西多賀、川内、荒巻、八幡町、伊勢堂、春日、北六番丁中部、支倉、土橋、本材木町、木町通中部、木町通南部、北鍛冶町、北堤通)
『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より
・ 「9月28日現在身元不明とされた遺体は、その埋葬にあたった半子町の寿徳寺、北山火葬場と大願寺、新寺小路の松音寺の3か所で213体(一時仮に土葬されたが、身元判明し引き取られた遺体を除く) / なかには発掘したものの、ほかの遺体との区別が判然とせず、やむなく埋葬した土を持ち帰る遺族もあった / 医療も埋葬も人手や資材の不足に悩まされ、人間としての満足な処遇を与えられなかったのである」
・ 甘かった認識「『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵(むしろ)をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。」
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319
|
<仙台空襲焼失区域図> 98-092(「仙台市史 特別編4 市民生活」319の図320をスキャン)/98-147(「仙台市史 第二巻本編2」P680~681掲載の第24図「戦災焼失地域図」をスキャン)
|