仙台よみとき用語年表
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仙台市電 長町線 延長開通  1936年(S11)12月  東五番丁~荒町間
  1926年(T15)11月25日開通
   (仙台駅前~大町1丁目間と同時開通)  
荒町~長町間4.2キロ
 (S8年~S11年に徐々に延長開通)
  1933年(S8)
 2月12日、荒町~愛宕橋間
    7月5日、愛宕橋~誓願寺通間
    12月14日、誓願寺通~舟丁間
  1934年(S9)
    12月2日、舟丁~河原町間
  1935年(S10)
    8月21日、河原町~新河原町間 
  1936年(S11)
    1月16日、新河原町~長町北町間
    8月6日、長町北町~長町南町間
    12月19日、長町南町~長町駅まで開通
    12月24日、市電と秋保電車の連絡乗車券発売

* 1954年(S29)8月1日、この日から長町線と八幡町線が直通 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P108/「仙台年表」P231  36-01201-30/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図84(S11年、土樋付近の市電線路と街並み)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(S8年、長町線土樋カーブでの架線工事) 
仙台市電 環状線(循環線)完成  1928年(S3)3月  * 1928年(S3)3月28日、県庁前~大学病院間(1.7キロ)が開通、これで環状線(循環線)全線(6キロ)が完成
・ 仙台駅前~錦町~県庁市役所前~北四番丁~西公園~南町通~仙台駅前(停留所名は、1976年市電廃止時の名称)

・ 西公園において開通式挙行 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P104  201-01201-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(循環線が完成したころの乗り換え乗車券)/同211(S49年、仙台駅前停留所の市電、カラー) 
仙台市電 大町1丁目~大学病院 開通  1927年(S2)4月  ・ 1.2キロ / 環状線(循環線)の一部区間

* 1927年(S2)4月1日、開通 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表   
仙台市電 仙台駅前~光禅寺 開通  1927年(S2)11月  ・ 0.7キロ 
・ 駅から駅前電車通りを北へ向かう路線/環状線(循環線)の一部区間

* 1927年(S2)11月24日、開通 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表  99-020/「市民の戦後史(仙台市)」P73(戦後20年代後半?の駅前電車通り) 
仙台市電 光禅寺~県庁前 開通  1927年(S2)2月  ・ 0.9キロ / 環状線(循環線)の一部区間

* 1927年(S2)2月25日、開通 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表   
長町駅(仙台市電) 開業  1936年(S11)  <仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)   
竹槍訓練     * 1943年(S18)2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)
竹槍は1945年(S20)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた  
「昭和・平成家庭史年表」P138/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21  16-08 
仙台偕行社 初代建物竣工  1886年(M19)  仙台偕行社(かいこうしゃ)は、陸軍将校の倶楽部で、戦前は天皇行幸の際は宿舎にもなった / 場所は、桜ケ岡公園(西公園)に隣接、現在(1996年)の仙台市図書館のあたり

* 1886年(M19)8月3日、仙台偕行社竣工(洋風建築)
* 1925年(T14)10月18日、陸軍大演習の間、大本営が仙台偕行社におかれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P399) 
「明治の洋風建築~宮城県~」P39/「仙台市史7(警察)」の仙台部隊年表P691/「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P399  「明治19年落成の偕行社」は、98-060、「新・目で見る仙台の歴史」P134、「市民の戦後史(仙台市)」P22/門柱の形が異なるのは、98-06199-095 
ブラザー軒 2) 移転・新築開店  1910年(M43)  * 1910年(M43)10月1日、東一番丁64(東一番丁・玉沢横丁角よりやや南)に移転し、3階建て新築開店」(洋風木造3階建)
/「M44年仙台市全図」では、東一番丁・玉沢横丁角よりやや南にある 
「明治の洋風建築」P120 /「仙台市史 年表」P95/「明治44年仙台市全図」  62-02 
師範学校 宮城師範学校(県立)に関する記述    <宮城師範学校(県立)に関する下記二資料の記述は、「仙台市史 年表]の記述と、年が1~2年ずれている>

* 「明治の洋風建築-宮城県-」P59
 「M6年に勾当台通り『仙台伝習所』が設けられ、M11年に『宮城県師範学校』と改称。M22に北一番丁に移り校舎を新築」

* 「宮城県百科事典」P1003
 「(校名は数回の変遷を経ていることが詳細に記載され)M30年に『宮城県師範学校』と改称」  
「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「宮城県百科事典」P1003の「宮城師範学校」/   
テレビアンラジオ 発売開始  1936年(S11)7月1日  山中電機が発売した、時計つきのラジオ  「日録20世紀 1936年」P30  53-14に「テレビアンラジオ」の広告看板あり 
戦時中の勤労動員/就労規制(7) 国民勤労動員令  1945年(S20)  * 1945年(S20)3月6日公布、3月10日施行

老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざす
  → 詳細は、項目「国民勤労動員令」参照 
「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P504   
国民勤労動員令 施行  1945年(S20)  <国民勤労動員令> (「日録20世紀 1945年」P13、P42)
* 1945年(S20)3月6日公布、病人にも登録を義務化 / 3月10日施行
/ 本土決戦にそなえ、国民徴用令、女子挺身勤労令、国民勤労報国令、労務調整令、学校卒業者使用制限令の五勅令を統合・強化して発された勅令 病人にも登録を義務化 老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざすものだった

<戦後>
* 1945年(S20)12月20日、国家総動員法・戦時緊急措置令廃止を公布(S21年施行)(「日録20世紀 1945年」P35、「重訂 宮城県郷土史年表」P311) 
「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P311   
軍事教練 高等女学校  1941年(S16)  * 1941年(S16)、高等女学校で軍事教練開始  「日録20世紀 1941年」P33   
俯瞰撮影禁止など 禁止決定  1939年(S14)  * 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止
* 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大 
「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213   
木炭バス(東京・青バス) 東京の青バスが木炭バスへ改造決定  1938年(S13)7月  昭和12年夏からの日中戦争の影響でガソリンの民需用使用が大幅に制限され、代替燃料への切り替えを余儀なくされた

* 1938年(S13)7月、東京の青バスは、すべてのバスを年内に木炭バスは改造することを決定 
「日録20世紀 1938年」P30   
軍事教練 一般青年  1926年(T15)~1945年(S20)  一般青年に対しては、
* 1926年(T15)、全国に青年訓練所を設立し実施
* 1935年(S10)以降は、青年学校に引き継がれ実施された
(S10年、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる)

<青年訓練所>(「日録20世紀 1926年」P42)
1926年(T15)7月1日、全国1万3842カ所に設置 約104万人が入学 前年、軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請した / 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった(4月20日、法令公布) 

<青年学校>(「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)
1935年(S10)4月、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学) 
「日録20世紀 1926年」P42/「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11  青年学校生は、06-06 
青年訓練所 設置  1926年(T15)7月1日  <「日録20世紀 1926年」P42>
1925年(T14)に軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請/ 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった

<「仙台市史 特別編4 市民生活」P451>
1926年(T15)、文部省が管轄し、市町村に設置させた / 16歳~20歳までの男子の勤労青年に、修身・公民・職業・普通学科の教育と、主に在郷軍人による軍事教練を課すもので、兵卒の養成を目的にしたもの / これを終了すると兵隊になった時の在営期間が短縮された
   ***************************************

1926年(T15)4月1日、青年訓練所令及同規則公布 / 同年7月1日、青年訓練所を仙台市内12か所に設置
1931年(S6)7月5日、青年訓練所5周年記念一市三郡連合野外演習(宮城野原で)
1932年(S7)7月13日、青年訓練所連合演習

* 1935年(S10)4月、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる 
「日録20世紀 1926年」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P267、P276、P278/「番丁詳伝」P123   
戦時中の勤労動員/就労規制(3) 学徒勤労動員/学徒勤労動員令  1938年(S13)開始/1944年(S19)強化  1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった児童生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科(現在の小学校)以外の学校は授業停止となる

* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒 / この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付け
* 1944年(S19)8月23日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行

   → 詳細は、項目「学徒勤労動員」へ 
「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269『学都の戦時体制』 など   
学徒勤労動員 その他の文献、年表より(1) ~勤労奉仕を義務付け~  1938年(S13)開始~1943年(S18)  <その他の文献、年表より>

* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
  → この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付けられる
* 1939年(S14)12月、青年団、中学生の「炭焼勤労奉仕」を準正課へ(菅家年表)
* 1940年(S15)10月20日、東北帝大生、八木山で第一回炭焼勤労奉仕(「重訂 宮城県郷土史年表」P477)
* 1941年(S16)1月14日、農繁期の学徒動員が始まる(菅家年表)

* 1941年(S16)12月1日、国民勤労報国協力令施行
* 1942年(S17)1月9日、国民勤労報国施行規則による学徒出動命令

* 1943年(S18)6月25日、学徒戦時動員体制確立要綱決定
 
「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P109/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台年表」P212/「仙台市史10 年表」P302、P303、P306、/「重訂 宮城県郷土史年表」P477、P486/「仙台年表」P10/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313 
98-089 
切手代(ハガキ) ハガキの切手代    ■明治16年1月1日から  1銭
■明治32年4月1日から 1銭5厘
■昭和12年4月1日から  2銭
■昭和19年4月1日から  3銭
■昭和20年4月1日から  5銭
■昭和21年7月25日から 15銭
■昭和22年4月1日から 50銭
■昭和23年7月10日から 2円
■昭和26年11月1日から 5円
■昭和41年7月1日から  7円
■昭和47年2月1日から 10円
■昭和51年1月25日から 20円
■昭和56年1月20日から 30円
■昭和56年4月1日から 40円
■平成元年4月1日から 41円
■平成6年1月24日から 50円
■平成26年4月1日から 52円
■平成29年6月1日から 62円
■令和元年11月1日から 63円 
「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)P964の「郵便料金の変遷」/ほか  (例)1銭5厘の切手が貼ってある絵葉書は、44-10 
住宅団地 将監団地  1968年(S43)  * 1968年(S43)、泉町に造成開始(県開発公社がS50年にかけ造成)
* 1970年(S45)、県営住宅として、泉町に将監住宅412戸を建設
* 1972年(S47)2月、噴水池完成
* 1972年(S47)5月26日、公設小売市場オープン
* 1974年(S49)7月、18業者による協同組合公設小売市場完成
* 1978年(S53)5月20日、ファミリーデパート、オープン 
「新・目で見る仙台の歴史」P186/「仙台市史 年表」P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P10、P31、P81  「仙台市史 特別編4 市民生活」P91(S49年、将監公設小売市場)/「新・目で見る仙台の歴史」P186(H1年頃の将監団地、俯瞰カラー) 
木町通小学校 コンクリート校舎建設  1954年(S29)  北四番丁通りに面する
* 1954年(S29)9月、 木町通り小学校に、仙台市内の小学校では初めて鉄筋コンクリート校舎が完成 
「新・目で見る仙台の歴史」P181  22-1653-60/「目で見る仙台の歴史」P181/「市民の戦後史(仙台市)」P79(鉄筋校舎落成運動会)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(市内初の鉄筋コンクリート校舎) 
敗戦後の諸相・仙台 引揚者、シベリア抑留、傷痍軍人など  1945年(S20)~  <外地からの引揚者>
・ 戦前、多くの人々が日本の植民地や勢力圏になった台湾、満州、中国大陸、樺太、南洋諸島などに移住したが、敗戦により引き揚げを余儀なくされた

<シベリア抑留>
・ 戦後多くの軍人たちが戦地から引揚げたが、旧満州で敗戦を迎えた将兵はソ連に抑留され、シベリアの炭鉱や開発工事などに従事されられた
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ シベリアからの引上げは、1950年(S25)までかかり完了

<傷痍軍人>
・ 生きて帰還できた将兵の中には、戦地で負傷した傷痍軍人たちが少なくなく、昭和20年代には、繁華街や電車内などで白衣を着て失った腕や脚を人目にさらしながら、中にはアコーディオンやギターを演奏するなどして市民に生活の援助を求める姿が珍しくなかった 
「新・目で見る仙台の歴史」P170~171/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316  「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太からの引揚者第1陣仙台駅着)/同P171(シベリヤに抑留され仙台駅に到着した復員兵たち、街頭の傷痍軍人) 
博覧会・フェア 満州事情展覧会  1932年(S7)~1934年(S9)頃  * 東北帝国大学報国会が、満州事変勃発(昭和6年9月18日)記念日頃に開催 / 開催場所は県商品陳列所か?(後援が県商品陳列所)/ 会場垂れ幕に満州皇軍慰問金バザー、音楽童謡舞踊の会の字 / 開催年は、昭和7年~10年の間の9月(根拠:宮城県商品陳列所は昭和10年11月11日に「宮城県商工奨励館」に改称なのでそれ以前)  「新・目で見る仙台の歴史」P160/当サイト内「写真データベース」の「商工奨励館」  「新・目で見る仙台の歴史」P160 
アート・スミスの宙返り飛行 宮城野原で公開  1916年(T5)6月14日  アメリカ人飛行士アート・スミスが宙返り飛行で話題をよび来日

仙台でも大正5年6月13日、追廻練兵場で有料公開の予定となり人を集めたが雨天中止 / 翌日、宮城野原で無料公開した 
「新・目で見る仙台の歴史」P155/「仙台はじめて物語」P203/「目で見る仙台の歴史」P157  44-1444-1544-16 
宮城県庁舎 大正の庁舎落成  1915年(T4)  * 1915年(T4)9月、木造2階建の庁舎落成(県会議事堂跡)
(1931年(S6)の新庁舎完成まで使用されたあと、塩釜町役場に移築された)
* 1915年(T4)、県会議事堂を取り壊して、木造2階建ての県庁舎を新築(「新・目で見る仙台の歴史」P153) 
「新・目で見る仙台の歴史」P153/「宮城県の百年」P36、P37  99-00798-054/「新・目で見る仙台の歴史」P153  
堤人形     ・ 市内堤町で17世紀末から作られたといわれる
・ 明治末には芳賀佐四郎家のみとなる 
「新・目で見る仙台の歴史」P152  「新・目で見る仙台の歴史」P152(窯場と製作風景) 
埋木細工     ・ 青葉山・八木山一帯の亜炭層から掘り出される資材を、盆・皿・置物・ブローチなどに加工 / 手工業として藩政時代からつづく  「新・目で見る仙台の歴史」P152  「新・目で見る仙台の歴史」P152(製作風景) 
米騒動     * 1918年(T7)8月富山県魚津町の主婦たちから始まった米騒動が、8月15~16日、米価の暴騰に悩む仙台の民衆にも波及した。シベリア出兵の軍用米買い占めなどが原因だった / 仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった。

<仙台の米騒動>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499「米騒動と仙台」に詳述有)
・ 推定のべ6000~7000人の市民が参加
* 1918年(T7)8月11日、廉米払下請願市民大会(五城閣、400名参加) / 東華新聞社長小野平一郎らが主催、外米買入の陳情と売り惜しみへの警告を決議
* 同年8月13~14日、仙台停車場など市内各所の電柱・板塀によびかけビラ
* 同年8月15日夜、西公園、青葉神社、東三番丁、宮城野原、伊勢堂山、仙台停車場前広場、新常磐町と、市内7カ所に市民が参集、約13組の集団をつくり行動、大米穀商、高利貸、酒味噌醤油業など37軒以上に押しかけ、米の廉売、金や在庫米の寄付などを交渉・強要、当時1升42銭の米を25銭から20銭に、味噌醤油の廉売する承諾書の貼紙を出させた / 西公園からは約500名出発、途中各所で演説、名掛丁に達するころには1400名
* 16日、仙台警察署は、盆火を禁止、日没後の禁足令(外出禁止令)を出す / 市は発注した外米を市内各所で1升15銭で廉売、米穀商の多くは約束履行を渋っていた
* 16日夜、西公園から、警官の解散命令を無視して、行動 / 米穀商、高利貸、その他資産家宅で、米・味噌醤油・薪炭の値下げ要求もあったが、貧民救済資金の寄付集めを目的とした行動が多かった / 知事の要請で軍隊(歩兵第4連隊)が出動、市民の集団が大町の藤崎呉服店付近で銃に着剣した兵士と衝突、拘引された市民の奪還に出るなど険悪な状態 / 鉄砲町の高利貸宅で前夜予約した寄付金につき再交渉、主人の態度が曖昧で、数十人が侵入し戸障子を破壊、火の手が上がる(但しこれは稀有な例で、「著しき暴行に至るものなし」(報知新聞)、「彼の細谷を除くの外、破壊を試むることなかった」(公判での検事の論告)のように市民の行動は秩序と分別をは持ったものであった)
* 17日、警官223名、町内青年会・警火組合・在郷軍人会・消防組合など約1200人動員し警戒、歩兵第4連隊、歩兵第29連隊兵士も出動 / 警察は禁足令を出し、前夜までの参加者の検挙強行 / 午後9時ころ、大町の藤埼呉服店前と停車場前広場に、あわせて約1000名の市民集合したが、厳しい警戒態勢の前に解散、騒動は山を越えた
・ 仙台の集団行動は、交渉は代表者が警察官立会の上で直談判し、集団行動の秩序を保っていた / 交渉・決定した米の値段は冒頭以前の標準米価 / 貧民救済基金の寄付要求も資産家から市役所へ寄付金をとほぼ統一した要求と理由を代表者を立てて提示・交渉、寄付金は直接受け取らず、必ず寄付承諾書を書かせている 
「新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499  「新・目で見る仙台の歴史」P148(仙台・8月15日の米騒動移動ルート図、新聞記事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P495(T7年8月、米騒動を伝える「河北新報」、同群衆の移動コース) 
日本農民組合 宮城県連合会大会  1928年(S3)  * 1928年(S3)、日本農民組合宮城県連合会第3回大会(仙台市公会堂) / ビラに書かれたスローガン(俺達の大会を守れ! 働く農民に土地を保証せよ! 土地取上絶対反対! 耕作権を確立せよ!)  「新・目で見る仙台の歴史」P148  「新・目で見る仙台の歴史」P148(大会ビラにスローガン) 
ハリストス正教会堂 建設  1892年(M25)  * 1892年(M25)、東二番丁に建設(木造)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 
「新・目で見る仙台の歴史」P125  「新・目で見る仙台の歴史」P125 
宮城県会議事堂(明治時代) 完成  1882年(M15)  * 1879年(M12)、宮城県会始まる(宮城師範学校を使用)
* 1882年(M15)3月22日、勾当台通表小路に完成/市役所の向いにあった 
「新・目で見る仙台の歴史」P123/「仙台市史 年表」P84  「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116(議事堂外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P123/「いつか見た街・人・暮らし」P20(宮城県会、議事堂議場、大正13年) 
青葉通り(築造) 築造  1947年(S22)~1950年(S25)末  全長1.5kmの築造は、S22年はじめ~S25年末で完了  「戦災復興余話」P50~51  「市民の戦後史(仙台市)」P58~59 
青葉通り 概要    仙台市は、1945年(S20)7月10日の仙台空襲で広範な中心市街地を焼失したが、「青葉通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、仙台駅前から焼失地域を東西に貫き大橋へつながる幹線として新たに生まれた

長さ1.5km、幅員は、仙台駅前から東二番丁角までが50m、それ以西の西公園までが36m / 開通時には車道の両端近くに2本の分離帯があったが、その後交通渋滞解消のため取り払い、中央分離帯1本にした / 1965年(S40)に1本化工事着手

<曲直問題>
路線計画策定段階で、東五番丁交差点の前後を10度屈折か直線かで利害対立あり、半年余り紛糾、1948年(S23)5月建設院総裁裁定で10度屈折で決着(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P324~328に詳述) 
「戦災復興余話」P27~P55/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~328  14-0799-031など「写真データベース」A-05-05「青葉通り」の写真全部/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P762(銀行が立ち並ぶ青葉通り(S40年代前半)/「目で見る仙台に歴史」P188(S33頃、駅前から伸びる青葉通り俯瞰)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(S32年、青葉通り)/同P185(H1頃、俯瞰)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S26年10月、青葉通りと南町通り一帯空撮)/同P108(S32年、雪化粧の青葉通り空撮)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P36~37(S33年頃、東三番丁角付近から西方向)/同72~73(S39年、カラー、駅前から西方向)/同P76~77(S39、カラー、藤崎から東方向)/P79(S39、カラー、藤崎屋上から西方向)/同P104(S51、東五番丁角以西) 
こけし塔(仙台駅前) 設置  1949年(S24)  * 1949年(S24)、仙台駅前広場のこけし塔、仙台復興祭グランドフェア(S24年4月20日~5月31日)の歓迎用に建てられ、その後も広告塔として使われた
・ S26年当時の写真にも写る 
「戦災復興余話」P101~102に、グランド・フェアーにつき記述あり  16-2016-1816-1920-08 
青葉通り(築造) 用地確保で代執行  1949年(S24)~1951年(S26)  * 1949年(S24)3月~1951年(S26)年9月、駅前から東五番丁西側付近までの青葉通り予定地には、空襲跡の土地に戦後できた3つのマーケット(ヤミ市)や無届建築物が集中していたが、S24年3月~26年9月にかけ、しばしば市や県による強制代執行で取り壊され、50m幅の用地が確保された

 
「戦災復興余話」  98-032/「新・目で見る仙台の歴史」P185/「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(東五番丁での代執行) 
戦没者慰霊 仙台市内(一部、県内を含む)  昭和期(20年まで) 
* 1931年(S6)10月11日、満州事変最初の戦闘で戦死した第二師団兵士32人のうち20人の遺骨が、仙台駅に到着。(十五年戦争初の戦死者は第二師団の兵士だった) 仙台駅頭には陸軍大臣代理、湯沢三千男知事ら300人が出迎え、沿道には市民約5万人が戦友の胸に抱かれて原隊に変える英霊を見送りました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、川内の追廻練兵場で、県、第二師団など主催の合同慰霊祭が行われました。(満州事変では)戦死者が合計300人、このほか負傷700人、凍傷800人を出しました。宮城県では遺骨が到着するたびに慰霊祭が7回にわたり行われました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)
* 1931年(S6)10月12日、榴岡の歩兵第4連隊の営門を出た霊柩車(弾薬車であったという)と遺族の胸に抱かれた遺骨の行列は、葬送行進曲の吹奏に送られて市内を行進した。軍部のほか青年団や小中学校生徒なども加わり、沿道に人垣をつくり、会場には列車や市電・バスで詰めかけた約5万人が参列した。合同慰霊祭は以降7回に及んだ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P309)
* 1931年(S6)10月12日、第二師団第4連隊の満州事変戦没者合同慰霊祭が追廻練兵場で行われる(「「仙台市史年表」P106、「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)12月18日、第二師団、昭忠会主催、戦没者慰霊祭(「仙台市史10年表」P277)
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送(12月18日か?)

<日中戦争 昭和12年7月勃発>
* 1937年(S12)12月、日中戦争、故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(仙台市公会堂)
*「(開戦から2年足らずの)1939年(S14)4月現在で、宮城県関係の戦死者は2552人、負傷して内地帰還された兵は3131人と「知事引継書」にあります。遺骨が仙台駅に到着するたびに駅前広場では、県、仙台市、軍主催の奉迎式が行われ、その後、西公園内の仙台市公会堂で通夜、翌日、合同慰霊祭が開始されました。昭和14年3月時点で県主催の合同慰霊祭は22回に上り、遺骨がふるさとに帰ると、今度は市町村主催の葬儀が行われました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
* 1940年(S15)11月17日、日中戦争北中支各地に於て陣没せる管内出身将兵の慰霊祭を東二番丁小学校に於て行う / 引き続き、追廻練兵場の昭忠塔前で、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭を行う
* 「宮城県知事事務引継書(昭和17年)によると、日中戦争勃発後は毎月1回、県、仙台市、第二師団の共催で慰霊祭(前夜に通夜法要)を行い、県では知事代理が弔問、葬祭料として将校30円、下士官以下20円を贈ること、その後の市町村葬には知事代理が出席することを決めています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)

<太平洋戦争>
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル戦、戦没者慰霊祭(追廻練兵場)→ 写真16-57、16-59に説明文あり
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P26/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P309、P361/「仙台市史10 年表」P277、P306、P308/「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P460、P479/「仙台放送局60年のあゆみ」P5/「私にとっての戦争」末尾年表P183/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34、P79  ガダルカナル戦、戦没者遺骨奉迎式は、16-5716-6716-66 /同遺骨原隊へは、16-58 /同慰霊祭は、16-5916-6016-6516-6416-6116-62 /同感謝献金呼びかけは、16-68 
松根油 宮城県への割当て    大平洋戦争末期、軍用機の航空燃料の不足を補うため、代替に松の根から油(高性能オクタンの成分が多い)を採るため、全国の松を伐採 / (制海権、制空権を失い、日本軍が占領した南方からの石油輸送が絶望的になる)

* 1944年(S19)10月、政府、松根油(しょうこんゆ)から航空燃料を生産する緊急対策を決定、大政翼賛会の運動として全国都道府県、市町村に発掘量を割当て、宮城県の分は2034万貫(7600トン)と決まる

・ 精製用の乾留釜(高さ1.2m、直径85cm)に、根を小さく割って入れ、ふたを粘土で密封し12~15時間燃やす
・ 釜は、昭和20年3月までに201釜、5月までに432釜完成
・ 陸海軍の協定で、東北地方で生産される松根油は海軍が使うことになっていた 
「戦争のころ 仙台、宮城」P203~204   
朝鮮人移入労働者 宮城県関連  昭和10年代後半  ・ 「朝鮮人の移動防止に関する件」(「特高警察から宮城県知事への報告」 昭和17年10月?)→「県内には朝鮮人が2550人住んでいて、うち労務動員計画による移入朝鮮人は、大谷鉱山(現・気仙沼市、439人)、細倉鉱山(現・栗原市、474人)、鹿島組細倉出張所(63人)の合計976人。このうち3割強にあたる362人が逃亡中とあります。逃亡は宮城県だけでなく、全国的傾向だったようです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P74)

・ 戦争がはじまって日本国内で労働力が不足すると、政府は国内の鉱山、土木作業の経営者に朝鮮人労働者の集団連行を許可します。昭和19年2月の「宮城県知事引継書」によると、宮城県内には朝鮮人が6405人住んでおり、このうち「国民動員計画による移入労働鮮人」は1601人、内訳は菅原組多賀城出張所728人、同矢本出張所115人、三菱細倉鉱業所365人、西松組塩釜出張所349人、小原出張所44人。県全体で137人(4.9%)が逃亡しており「特高警察」は一斉取締りを実施して探しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P160)

・ 移入朝鮮人労務者(「特高警察から宮城県知事への報告 昭和20年」より) 国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている(「戦争のころ 仙台、宮城」P202) 

・ 「なぐられ、監禁されて働かされた朝鮮人労働者」
当時、多賀城海軍工廠の現場(菅原組多賀城出張所)で働いた朝鮮人の道然圭(グヨンギュ)さんの証言(「多賀城市史」から引用)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P160) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P74、P160、P202   
戦災復興事業 不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺  1949年(S24)~1952年(S27)  <不法建築物の強制撤去>
・ 「(敗戦後の仙台では)仙台駅前周辺や東一番丁、南町通りには不法建築のバラックが約1000軒、中でも仙台駅周辺では密集してヤミ商売が横行、「東北の上海」と呼ばれていた / 市は、立ち退き勧告に従わない露店を強制撤去
* 昭和24年4月、全国ではじめての代執行が行われた / 当日は約100人の作業員がトラック十数台を用意して待機し、不法占拠者が家財道具を運び出すのを待ってから建物を強制撤去 / 泣き叫ぶ女性、怒号が乱れ飛んだが、200人の警察官が動員されたほか、米軍MP(憲兵)も出て監視したのでそれ以上の抵抗はありませんでした / 以後数回、建築物の強制撤去が実施された。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P255~256)

・ 1949年(S24)3月~1952年(S27)12月に実施
・ 街路用地や不在者宅地内に無許可で建てたバラックなど集団的不法建築(仙台駅前の2つのマーケット街など)
・ 立ち退きに応じず、強制執行された一覧表に19件
   →「仙台市史 続編第1巻」P346の表80(写真番号98-034)
* 中でも、S24年4月18日、駅前の東五番丁・南町通り交差点東北角(26戸)の強制撤去は、警察官500人出動しものものしい警備の中で、県と市の職員が代執行
* S24年3月、東一番丁・広瀬通交差点付近8戸
* S24年3月16日、東五番丁・南町通角付近の商店街火災(47戸全半焼)→同年4月18日、道路予定地に残った26戸を県が代執行、住民を臨時仮収容所に収容(市警察の警官250人出動、米軍憲兵が鳳月ビル2階から監視) / 退去した住民の大半は、西公園拡張予定地として空き地だった仲ノ町(のちの市民プール付近)周辺に住みつく→その後にまた代執行(S33年7月~年末)
* S24年4月18日、東五番丁・南町通り東北角26戸
* S24年10月10日~31日、青葉通り予定地の仙台駅前マーケット80戸に対し、市が撤去代執行
* S24年12月3日、青葉通りの不法建築28戸に退去代執行し、青葉通り貫通(東五番丁・名掛丁付近の36戸のうち立退きに応じない28戸に開始しようとしたら、自発的に立ち退く)
* S25年3月、仙台駅前の新興マーケット14戸
* S25年5月22日、仙台駅前青葉通りの露天商立ち退き問題で小競り合い、警官出動し強制撤去
* S25年7月、東五番丁の国際マーケット28戸
* S25年7月27日、青葉通りの違反建築30戸に代執行、警官も出動し緊迫
* S25年11月27日、南町通りの区画整理で27戸を代執行、東二番丁教会を除き貫通
* S25年12月8日、東一番丁拡張工事反対の120戸に立退き命令
* S26年7月4日、元寺小路・日吉町45戸
* S26年9月11日、青葉通・東五番丁角付近以西の69戸、市が代執行 
* S27年4月11日、日吉町・名掛丁45戸

<立ち退き者の住宅対策>
・ S24年、花京院通に115㎡の臨時収容所設置、のにち小田原裏山本丁に移転 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P255~256/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345~348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P830、P832~835/「戦災復興余話」P46~49/「番丁詳伝」P165  98-034(不法建築物の強制撤去一覧表)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール) 
定禅寺通り ケヤキ植樹  1958年(S33)  <グリーンベルトの樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P254~255)
・ 両側歩道にはケヤキを植樹したが、中央分離帯(幅12mのグリーンベルト)の樹種は、高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
・ 助役は、サルスベリかモミジを指示、課長は「大きい街路樹によって勾当台公園と西公園を結ぶ緑のトンネル」にしたい
・ 岡崎市長時代には結論が出ず、次の島野市長時代にケヤキと決まった
   ***********************************

1958年(S33)に初当選した島野市長の「西公園と勾当台公園を結ぶ大樹林帯にしよう」という意向で、定禅寺通りにケヤキ植樹

* 1958年(S33)、ケヤキ植樹を開始(中央分離帯に76本、歩道を含めて計157本)
* 1958年(S33)末までに植え終わる 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P254~255/「仙台市史 年表」P120/「戦災復興余話」P87  22-06/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(S29~33年頃)/「目で見る仙台の歴史」P188(中央分離帯に植木植樹したばかりの頃) 
青葉通り(植栽) 枝垂れ柳、ケヤキを植栽  1950年(S25)~1966年(S41)  <街路樹の植栽樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P253~254) 
・ 高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
  助役はネムノキかサルスベリに、課長は大木になる樹種が良い
・ 一市会議員の提案「台原の仙台営林署所有のケヤキを、失業対策事業で移植」をうけて、仙台駅前~東一番丁間にケヤキを植樹、その後西公園までの両側歩道などに計180本ほどのケヤキを植樹
・ 助役は駅前から東二番丁通り角までの中央グリーンベルトには、シュロとユッカラン植栽を指示し、植栽したが、東京農大井上教授視察時に評価低く、ケヤキは高評価だった    

* 1949年(S24)4月、植樹式(ケヤキ植え初め式)
・ 台原の国有林から、樹齢15~35年の成木を移植
・ 「東五番丁~西公園間」の両側歩道に計180本のケヤキを植えたが、このうち50本は市会議員全員により市に寄付されて東三番丁~国分町間の歩道に植えられた

* 1949年(S24)5月、東三番丁~東四番丁間の分離帯(中央グリーンベルト)にモデル植樹(高麗芝を地にしてシュロ、さつき、玉伊吹、雪柳、紫南天など約200本)
* 1950年(S25)4月3日、青葉通りでケヤキ植え初め式(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)、仙台駅前~国分町角の歩道、80本のケヤキ植樹 / 当時の市会議員48人が1本ずつ寄贈
* 1950年(S25)末から、しだれ柳植栽
「仙台駅前~東五番丁間」の歩道には、S25年末から100本のしだれ柳を植栽した(写真14-07)
* 1951年(S26)9月、駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される
 
* 東二番丁通りとの交差点付近の青葉通りの車道にあった分離帯(グリーンベルト)には、高麗芝を地にしてシュロなどを植えていた(写真50-01) /  その後、生育が悪くなり、トウカエデを植える→その後、ケヤキに

* 1966年(S41)、青葉通りの植栽が完了(「仙台市史 年表」P125)
* 1971年(S46)、ケヤキの並木にも赤信号(車の排気と車歩道の全面アスファルト化による公害)(「重訂 宮城県郷土史年表」P678) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P253~254/「仙台市史 続編1(行政建設編)」P324、P468/「戦災復興余話」P51~P53/「仙台市史 年表」P116、P125

座談会「仙台 戦中戦後を語る」/「重訂 宮城県郷土史年表」P678 
14-0718-2114-0122-17201-1150-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P163(S26年、ケヤキ植栽セレモニー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P23(S33、東五番丁角付近)、P44(S33頃、仙台駅近くの枝垂れ柳並木)/同P92(S45、緑の欅並木、カラー)/同P98(S46、中央分離帯あり、ケヤキ並木) 
戦災復興事業 公園緑地造成  ~1961年(S36)  【「戦争のころ 仙台、宮城」P252~253】
・ 当初計画は、11万坪(市中心部の1割)
・ 予算の関係で、14か所から9か所(計8万5000坪)に変更
・ 実現しなかったのは、県庁周辺の大公園化(勾当台通り-錦町-外記丁-北一番丁)と勾当台公園と西公園を結ぶ60m幅の緑地帯構想
・ 定禅寺通は幅員46mとし、中央に12m幅の緑地帯が設置された

【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330】
・ 戦災復興区画整理事業により13の公園・緑地が造成された / 勾当台公園(2.4ha)、西公園(11.4ha)、青葉山公園(50.3ha)、錦町公園(1.7ha/旧育英中学や大聖寺などの寺院跡地)、定禅寺通緑地(0.8ha)など(一覧は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P329)
・ 1961年(S36)3月の戦災復興事業完了までに、復興区域内では、西公園の拡張整備のほか11の公園・緑地(20.6ha)が造成され、戦前からあった公園を合わせ約30haとなり、面積、数とも大幅に拡大した 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P252~253/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330   
戦災復興事業 都市計画道路  1946年(S21)~ 
【「戦争のころ 仙台、宮城」P251~252】
* 1946年(S21)11月、中心部の19本の都市計画道路、国の復興院が承認
・ 当初計画は、青葉通り、広瀬通りともに幅員50m → 予算の関係で、50m幅は青葉通りの仙台駅前から東二番丁まで、それ以西の青葉通りと広瀬通りは幅36mに変更(これまでの最大幅員は南町通りの23mだった)
・ 都市計画道路での正式名称は、青葉通りは「仙台駅-川内二の丸隅櫓線」、広瀬通りは「元寺小路-立町・川内線」
* 1947年1月、河北新報社が愛称を募集し、応募6000通以上から、「青葉通」「広瀬通」「西公園」「中央公園」と決定 / 中央公園は定着せず、「勾当台公園」が定着  
* 1950年(S25)、青葉通り、広瀬通り完成したが、まだ未舗装で、強風に砂塵舞い上がり、雨降れば泥んこ道となるので「青葉砂漠」「広瀬たんぼ」と悪口を言われた 
・ 東二番丁通りも幅員50m(江戸時代以来幅員は8mだった) 6倍以上に拡張したのは防火帯とするため(江戸時代から昭和30年代まで市中心部で、蔵王おろしの西北風邪が吹く12月~3月の間にたびたび大火があった)

【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324】
<幹線街路計画>
* 1946年(S21)11月決定、25路線、幅員(50~15m)、延長5万894m(うち、復興事業関係は23線)
* 1954年(S29)、16路線(1万9103m)に計画変更
  →写真データベースの98-026に「一覧表と一覧地図」(路線名、起点、終点、幅員など記載)
* 16路線中、清水小路光禅寺線以外は、S35年度までに完了
・ その後、清水小路光禅寺線は起点部分221mを除外

<グリーンベルト設置>
・ 幅員27m以上の街路に植樹帯造成
・ 7路線(青葉通、東二番丁線、細横丁線、長町堤町線、定禅寺錦町線、狐小路連坊小路線)は車道の両側または中央にグリーンベルト(木と芝生)
・ 11路線の一部歩道に街路樹植栽(上記7路線+多門通常盤丁線、北目町通線、北二番丁線、勾当台通) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P251~252/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324  ・S29年に決定した「戦災復興事業の都市計画街路一覧表と一覧図」 →写真98-026 /「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅された細横丁(晩翠通り) /「市民の戦後史(仙台市)」P60(拡幅工事中の細横丁) 
空襲(釜石艦砲射撃) 釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅  1945年(S20)7月14日、8月9日  <釜石に艦砲射撃、773人が犠牲>
・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 
1945年(S20)  <県内の空襲犠牲者> 
 仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害

<筆者石澤友隆氏の体験>
 戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 
1945年(S20)8月9日~10日  <松島海軍航空隊への攻撃>
 8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた

<軍の工場への攻撃>
・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷
・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける
 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(2) 陸海軍基地、鉄道、船舶を攻撃 
1945年(S20)7月14日  ・ 7/14は、県内の18か所で空襲

<陸海軍基地への攻撃> 
 7/14、矢本の海軍松島基地に20機来襲、爆弾やロケット弾を撃ち込み2機が破損 / 玉浦の陸軍基地(現・仙台空港)も攻撃を受けるが、戦闘機や爆撃機はすでに疎開しており、飛行場付属施設が焼失 / 霞目の仙台飛行場にも来襲 / 航空基地と軍需工場への空襲は、その後も継続

<鉄道への攻撃>
 7/14朝5時半、国鉄仙石線高砂駅で停車中の電車に5機のグラマンが機銃掃射し、死亡6人、負傷9人 / この日は東北線岩切駅舎も攻撃され、近くで農作業中の2人が機銃掃射で死亡
 
<船舶への攻撃>
 7/14、本吉郡十三浜村沖の海上で船舶2隻が米英軍機の攻撃で6人が死亡、9人負傷 / 名取郡沖の海上では漁船乗組員2人死亡、8人負傷 / 桃生郡追波川河口で運送船が被弾し、2人死亡、3人負傷 / 唐桑で漁船2隻沈没 / 志津川では湾内の船舶3隻が被害 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232~234   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(3) 小牛田、亘理 / 女川湾の海戦 
1945年(S20)8月9日~10日  <鉄道への攻撃 小牛田、亘理>
 8月9日、東北線小牛田駅に停車中の列車が襲われ、機関士と乗客1人が死亡 / 亘理の空襲(8月10日朝、グラマン2機が常磐線の線路に急降下して機銃掃射で6人死亡、8人負傷、空襲警報で急停車した列車から降りて土手のくぼ地に隠れた乗客が犠牲) (「戦争のころ 仙台、宮城」P232)

<女川湾の海戦> 
 海軍防備隊(横浜港から函館、室蘭むけの船団を三陸沖で護衛、および遭難船救助を担当)が拠点にした女川港に入港中の、標的艦「大浜」、海防艦「天草」など20数隻が攻撃を受ける
・ 8月9日、第1波は朝5時半、空母「ペニントン」の艦上爆撃機と艦載機4機が攻撃、霧に邪魔されたが、中型商船2隻が沈没 / 第2波は、58機が、日本軍の駆逐艦、護衛艦に投弾し沈める / 第3波は29機がドックに停泊中の小型艦船を攻撃するなど、午後5時の第8波まで続く / 攻撃には英国艦隊も参加し、英軍の記録では、駆逐艦3隻、哨戒艇1隻撃沈 /    
・ 8月10日、攻撃は10日も続き、湾内の艦艇のほとんどと、関連ある軍の施設も破壊された / 米軍の被害は、撃墜3機(日本側は、「大浜」「天草」の高角砲、陸上からの高角砲部隊などが対空砲火で応戦) / 「天浜」は、グラマン機の爆撃と掃射で転覆沈没、乗組員が船を出て防空壕に退避途中で機銃掃射を受け30人位が倒れる / 「天草」は艦の周辺に爆弾20個くらい投下され、間もなく艦首を先に数分で沈没 / 2日間で158人が戦死
・ 昭和41年、海軍防備隊通信科の神田義男兵曹長夫妻が湾を望む崎山公園に私財を投じて慰霊碑を建設、毎年慰霊祭が営まれている / 近くには英軍機に乗って戦死したカナダ人のグレー大尉慰霊碑もある / 神田さん夫妻は東日本大震災で亡くなった

<女川の町内も被害>
・ 海戦のとばっちりを受けて、国鉄女川駅倉庫、造船所のほか、民家70戸焼失、犠牲者24人 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232、P234~235   

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