項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
映画館(戦後) |
中央劇場 |
1946年(S21)3月 |
東一番丁大通り(東一番丁84)に戦後できた映画館(700席、昭和映画)
* 「仙台映画大全集」では、S21年3月28日開場
* 「番丁詳伝」P211でも、S21年開場(洋画専門、のち日活、松竹、東映、新東宝の封切館となる / 跡地は「中央ビル」で地下に飲食、1階にそうご電気、6階まで事務所など入居
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に中央劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
* 「重訂 宮城県郷土史年表」P522では、S22年11月開場
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「仙台映画大全集」P454とP458/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P522
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44-29 /「仙台映画大全集」P455に中央劇場と周辺の写真あり
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日乃出映画劇場 |
戦後再開 |
1946年(S21) |
<戦災焼失後>
* 1946年(S21)8月、青葉通り・東五番丁通り東南角へ移転し開場(三和興行)
* 1946年(S21)8月10日、(旧)東五番丁26(日本通運倉庫跡)で、東宝直営として「命ある限り」などでお目見えした
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「仙台映画大全集」P454
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日乃出映画劇場 |
開館 |
1935年(S10)3月20日 |
東一番丁(横丁の新国町)に杉村多利治が開場
・ 水洗式トイレ、トーキーは35年型トービスと最新式の設備
・ 館名を一般公募で決める
・ PCC特約で洋画ファンを喜ばせ、学生の多いところから独特な雰囲気をもっていた
・ この後、新国町は日の出横丁と呼ばれるようになる
* 1935年(S10)3月20日、東一番丁(新国町)に開館
* 1940年(S15)12月からは東宝と提携、直営となった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し休館
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「仙台映画大全集」P451/「番丁詳伝」P131
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仙集館 |
開館~閉館 |
1909年(M42)~1933年(S8) |
* 1909年(M42)7月5日、仙台初の活動写真(映画)常設館として開館(1987年現在の高山書店向い「のっぽ」の場所) / 東一番丁通りから9m程セットバックした洋風外装、間口が狭く奥行きが深い木造 / 山梨出身で横浜の人、杉本亀太郎が開館
* 1912年(M45)6月、全面改装竣工
* 1915年(T4)7月、改装
・ 大正期・昭和初期には、館主が交代しながら、帝国キネマ、新興キネマの封切館だった
* 1916年(T5)12月1日、「記念館」と改称
* 1917年(T6)6月、「社会館」と改称
* 1918年(T7)6月、再び「仙集館」と改称
* 1918年(T7)7月、改装
* 1933年(S8)3月20日、焼失し閉館 (早暁、仙集館付近より出火、52戸を焼く / 東一番丁大火 / 午前0時半出火 / 「番丁詳伝」P143では、51戸消失、罹災戸数35)
* 仙集館跡地には、金港商会が石造りのビルを建築し1階はキリンビアホールが入る
1922年(T11)年から日活上映、1927年(S2)から帝国キネマ上映、1931年(S6)から新興キネマ上映
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「仙台映画大全集」P451 / 「東一番丁物語 明治編」(柴田量平著)P117~120、P235/「番丁詳伝」P23、P108、P131、P143/「仙台あのころこのころ八十八年」P241/「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台市史 年表」P94
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43-26/ スケッチ画は98-006/柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P118~119(新築当時の仙集館、改築後の仙集館)「目で見る仙台の歴史」P142に、「東一番丁仙集館付近」
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シネマスコープ |
仙台初公開 |
1954年(S29) |
* 1953年(S28)、シネマスコープは日本では東京の有楽座が初公開
* 1954年(S29)、仙台では「文化劇場」(東一番丁大通り)が「聖衣」を上映したのが始まり
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「仙台映画大全集」 昭和26年~30年の項
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18-08
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爆弾三勇士 |
歌発表音楽会開催 |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)4月14日、「爆弾三勇士の歌」発表音楽会、仙台市公会堂で開催 / NHK仙台放送局がラジオ中継放送
* 1934年(S9)2月22日、爆弾三勇士銅像除幕式(東京芝区の青松寺)
【中公文庫「日本の歴史24 ファシズムへの道」P346】 「爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、第1次上海事変で「3人の日本兵が火のついた破壊筒をもって身体ごと敵(中国)の鉄条網に突進し、突破口を開いた」という。(昭和7年2月22日) 当時、国民精神作興のため“美談"として銃後(国内)で大々的に宣伝された。」
【「昭和生活文化年代記・戦前編」P256】
・ 映画5社が「肉弾三勇士」を一斉に封切ったほか、ラジオ、出版、芝居などにもブーム
・ S7年、キリンビールの広告に「爆弾三勇士」
・ S10年、レートクレームの広告「肉弾三勇士」をもじった化粧品広告
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「仙台放送局60年のあゆみ」P5
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53-68(仙台七夕の仕掛け物「爆弾三勇士」)
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仙台駅(戦後) |
第4代駅舎時代 |
1950年(S25)~1972年(S47) |
* 1952年(S27)9月26日、仙台駅東口開通
* 1952年(S27)9月、仙石線仙台駅ホームを東口地下道内から地上へ移す(国体開催に備え)
* 1952年(S27)9月当時の仙台駅発着系統
・一番線、東北本線下り方面
・二番線、東北本線上りおよび下り方面
・三番線、東北本線上り方面
・四番線、仙山線下り方面
・五番線、常磐線上り方面
* 1955年(S30)10月1日、仙台駅火災、一部消失
* 1961年(S36)3月3日、国鉄と建設省、駅前広場問題について、駅舎を9m後退につき話し合いがつく
* 1961年(S36)5月、仙台駅の構内地下道完成
* 1964年(S39)、ホーム間連絡路の北地下道に加え、南地下道完成(南跨線橋は老朽化で廃止)
* 1965年(S40)10月1日、仙台駅に「みどりの窓口」設置
* 1967年(S42)10月、新らたに設けた6、7番ホームを、仙山線発着に充てる
* 1974年(S49)3月5日、大時計を県中央児童館にプレゼント
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「仙台年表」P225、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P558、P579、P599/「続・ 宮城県郷土史年表」P27/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567、P571/「市民の戦後史(仙台市)」P132
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05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05/「市民の戦後史(仙台市)」P132(S36年5月、構内地下道)/「市民の戦後史(仙台市)」P203(S42年10月頃の仙台駅→常磐線電化完成の看板あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図33(S42年、駅周辺一帯空撮)
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P9(S29)、P18~19(S32)、P20(S30年代初め頃)、P41(S33、仙台駅界隈空撮、機関区も写る)、P44(S33頃)、P59(S38、仙台機関区の転車台)、P62(S38、カラー)、P97(S46、カラー)
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仙台市の動物園(戦後) |
河北動物園 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)10月31日、評定河原の旧動物園跡で開催中に象小屋から出火、小象など焼死
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「仙台年表」P225
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停電 |
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昭和20年代 |
* 1951年(S26)9月26日、県内一帯に緊急停電続く
* 1952年(S27)3月17日、北海道を除き電力制限解除(「菅家年表」P46)
<編者注> このほか、戦後(昭和20年代)には、全国的に停電が珍しくなかった / * 1946年(S21)3月6日、電力制限のため4日に1日停電(菅家年表) / * 1947年(S22)1月、全国的に隔日停電を実施
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「仙台年表」P222/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P40、P46
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台風被害(戦後) |
キティー台風 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)9月1日、宮城県下の被害甚大
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「仙台年表」P220/「重訂 宮城県郷土史年表」P537
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サマータイム |
実施 |
1948年(S23)~1952年(S27) |
* 1948年(S23)5月2日~9月11日、初実施
* 1952年(S27)4月11日、夏時刻法(サマータイム)廃止
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「仙台年表」P218/「仙台市史10 年表」P316、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P526/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42、P46
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台風被害(戦後) |
カスリーン台風(カスリン台風) |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)9月14日、カスリーン台風で宮城県下の冠水田畑7000町歩(「仙台年表」P217)
* 1947年(S22)9月16日、カスリン台風で広瀬川氾濫、架替え直後の宮沢橋(根岸橋)が流失(「仙台市史年表」P115)
* 1947年(S22)9月16日、カスリーン台風で県内被害、死者10名、負傷者3人、流失家屋106戸、田畑被害6万町歩(「重訂 宮城県郷土史年表」P521)
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「仙台年表」P217/「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P521
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街灯(東一番丁中央部) |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、街灯が復活(1基3灯型)
・ 戦前に「番街」の名物でもあったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)を取りつけた
・ 同じスズラン灯型であったが、広瀬通角(立町通)以北と、広瀬通り角~大町通角間では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)/「番丁詳伝」P166
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16-41、16-43、18-12
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街灯(東一番丁南部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)?~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)?、街灯が復活(1基3灯型)
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-42、98-013、55-04、55-03、20-01-01、18-34、18-04、18-08
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闇市 |
仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけ望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
戦後、仙台市内で強制撤去された、ヤミ市を含む場所の一覧(S23年3月~27年12月)は、当サイト内「写真データベース」、写真(画像)番号98-034にあります
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「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158
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98-034/「新・目で見る仙台の歴史」P171(ヤミ市の風景)
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国鉄(戦後) 1 |
東北本線以外 |
1945年(S20)夏~1965年(S40) |
<以下は、東北本線、常磐線、仙山線、仙石線を除く、戦後の国鉄関連>
東北本線関連は、→ 項目「国鉄(東北本線)」に
常磐線関連は → 項目「国鉄(常磐線)」に
仙山線関係は、→ 項目「国鉄(仙山線)」に
仙石線関係は、→ 項目「国鉄(仙石線)」に
* 1945年(S20)7月5日、国鉄運賃25割値上げ、仙台・東京間往復乗車賃210円となる
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に(「菅家年表」P35)
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1945年(S20)11月20日、仙台鉄道局、急行列車復活
* 1949年(S24)6月1日、日本国有鉄道(国鉄)と日本専売公社、設立
* 1950年(S25)8月1日、機構改正で、仙台鉄道局は仙台鉄道管理局となる
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止(「菅家年表」P46)
* 1952年(S27)4月1日、進駐軍のRTO(米軍鉄道輸送司令部)廃止、国鉄の自主運行となる(「菅家年表」P46)
* 1952年(S27)9月1日、仙台自動車営業所、貨物運送開始
* 1954年(S29)5月1日、長町操車場営業開始(当時、北日本最大規模、1日3000輌をさばく)
* 1954年(S29)12月20日、国道4号線と東北本線の立体交差橋完成(長町諏訪)
* 1957年(S32)1月16日、仙台に東北支社設置
* 1958年(S33)4月16日、宮城野に仙台貨物駅起工式
* 1960年(S35)7月1日、新運賃制で三等を廃止(2、3等車を1、2等車に改め、3等車の赤切符を廃止)
* 1961年(S36)6月1日、宮城野貨物駅スタート
* 1965年(S40)9月24日、電子計算機による「みどりの窓口」開設
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「仙台年表」P215/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P544、P558、P573、P575、P584、P588、P597、P600、P621/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46、P54
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「市民の戦後史(仙台市)」P134(S36年6月営業開始した宮城野貨物駅)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P46(S33年頃、長町操車場)/同P47(S33年頃、長町操車場の転車台)/同P111(S58、長町操車場、カラー)
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博覧会・フェア |
東北振興大博覧会(中止) |
1939年(S14) |
* 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(仙台市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462)
→<編者注>予定したが昭和14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10)
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「仙台年表」P208/仙台市史続編第1巻P10
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ラジオ体操会 |
仙台の発会式 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)8月1日、全国ラジオ体操会始まり、仙台では東六番丁小で発会式
* 1951年(S26)5月6日、NHK、戦後につくられた新ラジオ体操初放送
* 1954年(S29)5月、宮城県ラジオ体操の会発足
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/[NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P30
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気象台 |
仙台測候所/仙台地方気象台/仙台管区気象台 |
1937年(S12)/1939年(S14)/1945年(S20) |
* 1937年(S12)10月28日、中央気象台仙台測候所を仙台に開設
* 1939年(S14)11月1日、仙台測候所、仙台地方気象台と改称
* 1945年(S20)8月1日、仙台管区気象台に昇格
* 1946年(S21)6月10日、仙台地方気象台仙台航空気象観測所を仙台測候所仙台航空気象観測と改名
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台市史10 年表」P309/「続・ 宮城県郷土史年表」P133
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「目で見る仙台の歴史」P193(榴岡の仙台管区気象台)
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映画館(戦後) |
青葉劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)10月8日、東七番丁に開設(9~10日は、戦災市民無料招待)
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「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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市場 |
昭和期 |
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<戦前>
* 1929年(S4)、肴町の「仙台魚市場」と「河原町市場」が卸売市場の開設認可
* 1930年(S5)7月21日、河原町市場が、株式会社「仙台青果市場」として開業
* 1930年(S5)10月3日、「仙台果物市場」開設
* 1943年(S18)1月18日、「仙台鮮魚市場」、東七番丁に完成
<戦後 昭和40年まで>
* 1950年(S25)8月28日、「仙都魚類株式会社の魚市場」開設許可
* 1963年(S38)12月1日、明治25年創設の「長町青果市場」が閉場
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「仙台年表」P208/「仙台市史 年表」P105、P123/「仙台市史10 年表」P275、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P292、P546、P548、P611
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「目で見る仙台の歴史」P165に「河原町青物市場」/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S38年12月、長町青果市場最後のセリ)
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陸海軍の工場(宮城県内) |
第一海軍火薬廠 |
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<海軍火薬廠>
* 1938年(S13)1月9日、海軍火薬廠を柴田郡船岡町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1938年(S13)1月9日、海軍軍需部特殊工場、柴田郡船岡村に設置 (「仙台年表」P208)
* 1939年(S14)8月1日、船岡村に海軍火薬支廠設置 (「仙台年表」P209)
* 1939年(S14)、船岡の第一海軍火薬廠完成。 2万坪(約6.6ha)あり東北最大の火薬製造工場(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
・ 海軍は、平塚に第二、舞鶴に第三火薬廠を持っていた
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)
・ 跡地は、陸上自衛隊、仙台大学が使用(2020年現在)(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157、P173)
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「仙台年表」P208、P209
/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P704/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156~157、P173
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洞雲寺 |
焼失 |
1943年(S18) |
仙台市泉区山の寺(旧・七北田村)にある曹洞宗の寺院で、山形の立石寺、近江の石山寺とともに日本三大山寺の一つと言われた。仙台近郊の名所のひとつだった。
* 1935年(S10)、汽車の飛び火で洞雲寺山寺が3度目の炎上(「仙台年表」P206=出典は「河北新聞」)
* 1942年(S17)11月6日、戦時中の金属回収で仙台の寺社の鐘が供出されるが、洞雲寺の鐘は国宝級としてまぬかれた県内3か所の鐘の1つ(応召より除かれた県内の三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
* 1943年(S18)4月20日(28日?)、野火に全焼す/門前付近の芝草より出火し延焼、山門・本堂・庫裡などを焼失/仙台鉄道山ノ寺駅付近で機関車の排煙から山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が類焼(建物全て焼失)、その後コンクリート造りで再建(「仙台年表」P212=出典は「七北田村誌」、「重訂 宮城県郷土史年表」P496、Wikipedia「洞雲寺(仙台)」、Wikipedia「仙台鉄道」)
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災でコンクリート柱破壊され建物解体
* 2017年(H29)5月9日、本堂及び山門の落慶式
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「仙台年表」P206、P212/「重訂 宮城県郷土史年表」P493、P496/Wikipedia「洞雲寺(仙台)」(2009.2現在)/Wikipedia「仙台鉄道」
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99-135、76-14
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斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) |
博物館竣工~取壊し |
1933年(S8)~2015年(H27) |
・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強
* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 → 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された)
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「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46
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戦前は、53-110、99-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-14、62-04、53-71、35-09、35-10 /戦後は53-50、07-01-04
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三越(仙台店) |
開店 |
1933年(S8) |
<前史>
* 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁)
* 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203)
* 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開
* 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂)
・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり
・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施
<東一番丁に開店>
* 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」
【「番丁詳伝」P144~145】
・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」
・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」
・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」
・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」
・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼
* 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開
* 1963年(S38)11月1日、新館新装開店
(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり)
* 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置
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「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145
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22-51、47-06、53-34、22-53、53-23、16-39、20-33/「目で見る仙台の歴史」P165
/三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館)
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幼稚園 |
仙台幼稚園(私立) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)5月、仙台幼稚園を東三番丁に設立(写真23-01に「宮城婦人会附属」の字あり)(「仙台年表」P180)
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「仙台年表」P180(出典:仙台市教育会の「仙台郷土史」、S8刊)/明治42年の「仙台市統計一班」
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23-01
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仙台平 |
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1918年(T7) |
* 1918年(T7)、仙台平工場、琵琶首に開業
* 1956年(S31)4月、精好仙台平を重要無形文化財に指定し、甲田榮佑を重要無形文化財保持者として認定
* 1967年(S42)7月20日、人間国宝甲田榮佑「精好仙台平保存館」を建築落成
・ 「仙台平」については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P34に記述あり
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「仙台平」HP/「目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P283/「重訂 宮城県郷土史年表」P633
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「目で見る仙台の歴史」P151に、「仙台平工場(大正7年竣工)」/同P105(工房)/「市民の戦後史(仙台市)」P94(制作中の甲田榮佑氏)/「新・目で見る仙台の歴史」P152(織工場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P34(仙台平袴カラー)/同P46(仙台平織工場の看板)
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仙台空襲 |
空襲の概要、被害規模 |
1945年(S20)7月10日 |
(1) 『仙台市戦災復興誌』(仙台市開発局 1981年)では、「1945年7月10日、仙台市は米軍のB29、100機による空襲をうけ、中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失。 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」
(編者注: 死者901人、負傷者1689人、行方不明者の数もあるが、空襲間もなくの統計で正確でないと思われる)
(2) 『仙台はフェニックス』(1995年発行 P341)では、「死者は 約1400名近い(確認1064名、身元不明など335名)」
/ ただし、7月17日午前5:30頃の高砂駅停車中列車と周辺民家への機銃掃射、福田町付近爆弾投下による、死者6名、重軽傷者9名、および8月9日の仙台飛行場・原町陸軍造兵廠など銃撃による死者4~5名を含む)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P320)
(3) 『重訂 宮城県郷土史年表』P505では、「仙台市、米空軍の空襲を受く。9日深夜より10日(午前0時5分頃より約2時間30分)未明にかけ前後約3時間に亘り、B29爆撃機7・80機の波状的来襲により無差別焼夷弾攻撃を受け、市の中心部及び川内地帯焦土と化す。この日の戦災により、行政・教育・商業・軍事・金融・交通等の中枢部殆ど焼失、死者911名、罹災戸数11,642、罹災人口57,321、被害面積150万坪に達す。喪失したる史跡、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、青葉城大手門、養賢堂講堂、芭蕉の辻等の古建築物」
(4) 『仙台市史 続編第2巻(経済文化編)』(1969年発行)P763では、「昭和20年7月10日、B29、100機の爆撃によって、仙台市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。被災面積約500ha、全焼家屋1万1650戸、半焼252戸、死傷者約2600人に及び、被災人口の総数は5万7000人、全人口の26%にも達した。」
同書P315では、「房総沖、鹿島灘を北上して、仙台湾に集結したB29約100機は、午前零時5分から約2時間半にわたって仙台市中心部に対して波状的爆撃を加えてきた。このため、特に商業、行政の中心をなす繁華街や川内をはじめ各所にあった軍事施設の大部分が破壊され、家屋その他の建物はほとんど焼失し焦土と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。」
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「仙台市戦災復興誌」(仙台市開発局) /「仙台はフェニックス」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P505 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P315、P763
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仙台空襲の焼失区域図は、98-092、98-147
/空襲被害は、35-15、35-14、35-13など「写真データベース」分類G-28の全写真
/「新・目で見る仙台の歴史」P164~167(炎上する市内、焼け野原、座り込む市民、焼け跡整理作業、市民に呼びかける警官)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P61(焼け跡に建つ女性)/「市民の戦後史(仙台市)」P18(焼け跡整理作業など)/同P166(仙台空襲20年追悼式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図42(S20年空襲後、天守台より一面焼け野原の仙台市街俯瞰)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270(敗戦後の焼け跡整理)
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セコイヤの化石 |
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100万年前の第四紀洪積世に死滅したといわれるセコイヤが、霊屋橋(おたまやばし)下の広瀬川の中に、数十本残存しており、天然記念物に指定されている
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「仙台市市史 続編1」P410
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仙台市天文台 |
新天文台開館 |
2008年(H20) |
* 2008年(H20)、新天文台開館(青葉区錦ケ丘9丁目29-32)
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「仙台市天文台」HP
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練兵場 |
追廻練兵場 |
明治~1945年(S20) |
・ 追廻練兵場(おいまわしれんぺいじょう)は、陸軍第二師団の練兵場で、宮城野練兵場とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 兵士の軍事訓練のほか戦没者慰霊祭会場ともなった
・ 場所は、広瀬川西岸沿いで、仙台市川内の師団司令部と各連隊兵営に隣接
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市名家及実業家一覧図」(地図、明治34年4月24日印刷)には、「追廻練兵場」と記載あり
<戦後は>
・ 戦後は戦災者・引揚者用住宅が建てられ、その後住宅地となった → 項目「戦災者・引揚者用住宅の小項目「住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅)」を参照
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「仙台市名家及実業家一覧図」(明治34年)
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99-011-1、22-02-01、53-101/位置図は、98-111,98-112、98-114
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逓信関連 |
仙台逓信局 |
戦前期 |
・ 東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1910年(M43)4月1日、仙台逓信管理局を仙台市に設置
* 1913年(T2)6月、北部逓信局と改称
* 1919年(T8)5月、仙台逓信局と改称
・ 終戦後、焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟のマーケット、建坪3000坪)ができたが、S27年1月22日の仙台銀座大火で140戸焼失
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「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「重訂 宮城県郷土史年表」P345、P554
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53-53/「目で見る仙台の歴史」P144/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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ガス |
仙台市ガス局 |
1961年(S36) |
* 1941年(S16)4月1日、市営ガス事業開始(仙台瓦斯を買収) / 需要戸数は、1942年(S17)に3389戸
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大打撃受けるが、10月10日から供給再開 / 需要戸数は戦災後は1500戸、1952年(S27)に4134戸
* 1957年(S32)9月、ガス局原町工場完成
* 1961年(S36)、仙台市ガス局でプロパンガス取扱開設
* 1973年(S48)、港工場竣工
* 1978年(S53)、宮城県沖地震、原町工場廃止
* 1997年(H9)、LNG船第一船入港、新港工場竣工
* 2005年(H17)、新港工場を港工場に名称変更
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生、港工場に甚大な被害 / 災害復旧に1ヵ月余を要す
* 2012年(H24)3月、港工場、震災による被害から復旧
<仙台市ガス事業実績グラフ(S16~42年)> →「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P539の図30 (導管延長、需要家戸数、販売量の推移)
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「仙台市史本編2」P760、P764、P769/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315、P539/「重訂 宮城県郷土史年表」P601
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「目で見る仙台の歴史」P183(小田原念仏壇の仙台市ガス局工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P101(ガス局原町工場)
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NTT東北支社 |
民営化スタート |
1985年(S60) |
<これ以前は、項目「日本電信電話公社」に>
* 1985年(S60)4月1日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
* 1988年(S63)4月1日、NTT東北支社が、仙台周辺地区で、伝言ダイヤルサービス開始
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「仙台市史年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P242
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日本生命館 |
取壊し |
1968年(S43) |
・「S43.11 消えるレンガ館 仙台日生館」の写真あり(「市民の戦後史」P202)
・ 解体はS42年(か?)(「仙台クロニクル」P89)
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P88~89(カラー、S42年、解体中)
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警察(戦後) |
宮城県警察 |
1954年(S29)7月~ |
* 1954年(S29)7月1日、新警察法施行に伴い、国家地方警察宮城県本部と、仙台市警察などの自治体警察が統合し宮城県警察が発足
(2020年現在、宮城県警察本部庁舎は、宮城県庁舎に隣接)
* 1973年(S48)5月11日、県警にヘリコプター「あおば」配備
* 1975年(S50)2月7日、ヤングテレホン設置
* 1985年(S60)5月21日、県警、少年相談電話スタート
* 1986年(S61)4月11日、県警、仙台市内の交差点にセンター・ブロック埋設
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「仙台市史」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P37、P191、P204
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県営宮城野原公園総合運動場 |
各施設の開場 |
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宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン、昭和20年代半ばに以下のスポーツ施設が完成
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場開場
* 1951年(S26)5月、県営宮城野原蹴球場完成
* 1951年(S26)8月10日、県営宮城野原陸上競技場開場
* 1952年(S27)10月21日、県営宮城野原総合運動場庭球場落成(「重訂 宮城県郷土史年表」P557では、8月21日落成)
* 1952年(S27)、県営宮城自転車競技場開場
* 1973年(S48)4月28日、宮城野原公園に総合運動場の標識除幕
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「仙台市史」P117/「仙台市史10 年表」P323、P328/「仙台市史 年表」P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P542、P551、P557/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版
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「目で見る仙台の歴史」P189(運動公園全域空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(同空撮)/「市民の戦後史(仙台市)」P62(S25年5月、空撮)
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愛宕橋(広瀬川) |
木造橋 |
1916年(T5) |
* 1916年(T5)8月、レンガのピアノ木造橋となる
(「重訂 宮城県郷土史年表」P362では、愛宕橋、霊屋橋の竣工は、T4と記載)
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362
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99-110
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愛宕橋(広瀬川) |
吊り橋開通 |
1901年(M34) |
* 古くは誓願寺渡し
* 1901年(M34)に吊り橋(仙台初)
* 1903年(M36)2月11日、架設
* 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋)
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愛宕橋(広瀬川) |
コンクリート橋 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日、上部を失対事業でコンクリート橋に架け替え / 橋長93.42m、橋幅8.9m、歩車道の区別あり / 「仙台市史10 年表」P285では、S10年5月20日架換工事竣工、式典挙行(出典:仙台市報)と記載
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述 /「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史10 年表」P285
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06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図101~102(S40年、H8年カラー)
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日米野球 |
米大リーグ選抜対巨人軍 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球、米大リーグ選抜対巨人戦、宮城県営野球場で開催 / オドール監督以下ディマジオ兄弟ら
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「仙台市史10年表」P326/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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仙台ホテル |
仙台ホテル開業 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)5月15日、仙台ホテル開業式挙行(「仙台市史10年表」P210)
<編者注> 大泉旅館が仙台駅前に、大泉支店の建物とは別に、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に建築し、開業
* 1896年(明治29年)、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に開業 / 2階建ての和洋折衷建築であり、東北地方初の洋式ホテルであった(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1903年(M36)6月、洋食開始(この年、陸奥ホテルは洋食を廃業)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P84)
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「仙台市史10年表」P210/「仙台はじめて物語」P90/Wikipedia「仙台ホテル」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P84
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98-062(「仙台市老舗百店史」P129のスケッチ画)と「目で見る仙台の歴史」P124に『明治29年建築の仙台ホテル』 <編者注>両書とも説明文に明治28年頃とあるが、明治29年完成のホテル第1代
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東北大学 |
学園にみる時代相 |
昭和20年代~40年代 |
* 1950年(S25)5月、イールズ声明反対闘争 / 「共産主義思想をもった教授を大学から追放せよ」というGHQ教育局イールズ顧問の大学での講演会に反対し、学生が抗議、中止させた → 参照:項目「イールズ事件」
* 1952年(S27)5月30日、東北大学反ファシズム委員会主催、5・30記念デモ行進
* 1952年(S27)6月14日、破防法反対東北大学経済学部大会、スト決議/17日スト分裂し、一部学生が街頭デモ
* 1952年(S27)7月21日、破壊活動防止法公布施行、東北公安調査局設置
* 1952年(S27)9月29日、東北大学生約100名、無届デモ
* 1960年(S35)、日米安全保障条約改定反対闘争
「60年安保闘争では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生とともに東北大学の教官が講義デモに参加したことでも注目された。」(「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536)
* 1960年(S35)、国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生が死去した事件への抗議デモ、青葉通に3000名の学生が参加
* 1965年(S40)9月15日、教養部は授業放棄
* 1965年(S40)9月19日、石津照璽学長辞任
* 1966年(S41)2月1日、教育学部、宮城教育大学設置に反対し、期末試験を拒否
* 昭和43年~45年の大学紛争 → 項目「大学紛争」参照
* 1970年(S45)4月14日、教養部で留年学生479人(これまでの最高数)
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「仙台市史10 年表」P328、P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P621、P624、P659/「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536~538
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仙台七夕 |
天皇を七夕飾りで歓迎 |
1947年(S22) |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察) / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「5日の夕、常磐炭鉱・平市を経て仙台入りをなされた陛下御一行が予定外のを五彩の吹流しがトンネルをつくる飾りつけの中を一本杉の伊達邸に入られた。市中のコースについては各商店ともぜひわが町をご通過いただきたいとその要望合戦は激烈であったが、予定外の新伝馬町も加えられている。河北新報は「紙吹雪のなかを歓呼にゆれて進む御料車」の見出しで伝えた。この年七夕飾りを行った家は約五千軒、中心部の商店の中には1本に2万円もかけた店もあった。」(「番丁詳伝」P157)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町のさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520/「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180/「番丁詳伝」P156~157
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S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「番丁詳伝」P157)
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
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<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
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第二高等学校(旧制) |
戦後、三神峯校舎時代/東北大に包括 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
<戦後 三神峯校舎時代>
* 1945年(S20)、仙台空襲(7月10日)で北六番丁校舎焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転
* 1946年(S21)2月23日、昭和18年から修業年限が1年短縮されていた中等学校を5年間に、高等学校と大学予科を3年間に復活(菅家年表P36)
* 1946年(S21)12月28日、第二高等学校寄宿舎(西多賀)焼失(「市史10 年表」P314)
<東北大学に包括>
* 1949年(S24)5月:新制東北大学設立にともない包括される(旧制二高三神峯校舎は分校第一教養部として引き継がれる)(東北大学HP掲載「沿革図」)
<記念碑など>
* 1976年(S51)10月23日、堤通雨宮町に、旧制二高創立90周年記念「雄大剛健之碑」除幕(続・郷土史年表P59)
* 1982年(S57)月日、上杉6丁目の旧制二高明善寮閉鎖(明治39年清水小路に、大正15年現在地へ移転)(「続・郷土史年表」P144)
* 1986年(S61)4月23日、仙台市三神峯に「二高尚志の碑」、除幕(「続・郷土史年表」P204)
* 1986年(S61)10月25日、仙台旧制二高創立百年で片平丁の東北大学キャンパスに「青年の像」除幕(続・郷土史年表P212)
<番外編>
* 1967年(S42)8月、仙台寮歌祭
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「仙台市史10 年表」P314/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P144、P204、P212/「菅家年表」P36/東北大学HP掲載「沿革図」/「仙台あのころこのころ八十八年」P255
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「市民の戦後史(仙台市)」P198(S42年8月の仙台寮歌祭)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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政宗卿騎馬像 |
戦時供出 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、政宗卿騎馬像、戦時中の金属回収で供出(出陣式挙行)
* 1944年(S19)1月22日、政宗銅像、戦時金属回収のため供出、藩祖出陣と称し壮行式行わる(「仙台城P234)
「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500に、「昭和19年1月22日、青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及護国神社共同主催のもとに県下青少年団代表参集して盛大なる銅像出陣式を挙行す。この折詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」
<戦後に発見>
* 1946年(S21)9月9日、仙台郷土研究会員石川謙吾、塩釜市金属集積所より政宗銅像上半身を自費にて払い下げ、青葉神社に奉納す(「仙台城」P235)
戦後、1946年(S21)10月8日、郷土史家石川謙吾が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で、騎馬像の上半身だけが捨てられていたのを偶然の機会に発見、一部を改修し青葉神社に奉納
* 1961年(S36)、仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公像の頭部のみが敷地内に展示されている
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499、500/「仙台市史 年表」P113/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
戦後発見は、「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史続編第2巻経済文化編」 末尾付表(年表)P823/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P184
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養賢堂 |
県民錬成道場として使用/ |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月10日、県民錬成道場養賢堂開堂式(学頭 阿刀田令造)
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499
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総進軍大会 |
開催 |
1943年(S18)/1944年(S19) |
* 1943年(S18)7月8日、仙台市主催、米英撃滅総進軍大会
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
* 1944年(S19)7月30日、滅敵強行宮城県総進軍大会
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「仙台市史10 年表」P306、P307、P308
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