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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市の農村・農業(戦後) |
戦後の緊急開拓事業 |
昭和20年代 |
・ 戦争終結にともない、外地からの引揚者や戦地から復員
した人々の受入れのため、未開発の原野や山林に入植させ、開墾開拓に従事させた。
・ 土地が与えられたとはいえ多くは「飢餓開拓」という様相で、作物の育ちの悪い中で耐乏生活を強いられた。
・ 仙台市内(昭和62~63年に編入した秋保町、泉市、宮城町を除く)の開拓組合は12で昭和23~24年に結成、入植戸数は昭和31年現在で計297戸(各開拓組合あたり10戸前後~36戸)
・ 開拓組合名は、青葉山、小松島、八木山、仙台北部、仙台市鶴谷、三神峯、芦ノ口、仙台市向山、坪沼、茂庭、生出増反、鈎取
・ 青葉山開拓地には1945年の23戸から、1965年までに55戸が入植した(『仙台市史』通史編8(現代1)P59)/ その後、東北大学の川内キャンパスの一部となり消滅した。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P656~657
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農地解放(農地改革) |
1946年(S21)~1952年(S27)頃 |
* 1945年(S20)12月9日、GHQが農地改革を指令
<仙台市内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点の小作地面積は、2591町歩
(2) 1950年(S25)8月時点の小作地面積は、399町歩
(3) 市内田畑総耕地面積に占める小作地割合の変遷
S20年(48.6%)→S24年(12.1%)→S26年(7.2%)→S27年(3.5%)
(4) 農地を買収された地主戸数は、3719戸
(個人地主3490戸、法人地主229)
(在村地主1665戸、不在地主2054戸)
(10町歩以上買収された地主、個人17戸、法人2)
売り渡しを受けた戸数は、4524戸
<宮城県内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点で、自作地40%、小作地59.4%
(2) 改革完了後には、自作地89.5%、小作地10.5%
(3) 自作小作農家の割合変化
小作農 41.6%→3.9%
自作農 19.4%→61.1%
自小作農 15.1%→24.8%
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P606~611、P726
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農業・農村地帯の変化 |
引用した参考資料 |
<参考>
(1)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658の「第八章 農業」は、戦後~昭和43年頃までの、仙台の農業の変遷につき記述。
・ 内容は、農地解放の経緯(S21年~27年ころ)、他産業との所得格差、兼業化、都市拡大に侵食される農用地、農地の基盤整備事業、畜産の推移、林業の変化、農畜産物流通、中央卸売市場開設、農協合併、戦後開拓地(緊急開拓事業)、仙台市育種園など
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658、P723~762
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校専攻部(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校専攻部」は、昭和25年に「短期大学」に移行
・「戦時中は専攻部生徒も勤労奉仕や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用された。」
・「終戦を迎え再び登校できると喜んでいたが、一難去ってまた一難、今度は進駐軍から9月11日突如として72時間以内に校舎を進駐軍に開放せよとの命令が通達された。やむを得ず八幡国民学校と女子師範付属国民学校で授業を続けたが、11月になってやっと返還された。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院短期大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校専攻科(私立) |
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★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称
・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542
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大学・短大 |
東北学院大学 |
1949年(S24) |
→ 項目「東北学院専門学校/東北学院大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537~538
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戦時下の学園 |
東北学院高等学部(私立) |
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★「東北学院高等学部」は、前身が「東北学院専門部」、戦後は昭和21年に「東北学院専門学校」、昭和24年に大学にに昇格して「東北学院大学」となった。
・「昭和16年12月の太平洋戦争突入と同時にキリスト主義学校の受けた苦痛の例は、終戦まで枚挙にいとまがなかった。昭和17年に文科は廃止され高等学部は商科一本となり高等商業部と改称、さらに19年には航空専門学校を設置するなど維持経営に苦しみながら敗戦を迎えた。」
・「昭和21年4月、英文科、経済科を含む東北学院専門学校を開設、米国ミッション・ボードとの提携を回復した。」
▲ 同校の沿革は、項目“東北学院大学”に記載
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537
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大学・短大 |
東北大学 |
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→項目「東北帝国大学」、項目「東北大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532~534
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高等学校(新制) |
聖ドミニコ学院高等学校 |
1960年(S35) |
<前史>
* 1931年(S6)、聖ドミニコ女子修道会本部より5人の修道女が来日、仙台に修道院を設立
* 1933年(S8)、 暁の星学院(外国語教育)を設立
* 1937年(S12)、暁の星幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院幼稚園)を開園 / 戦争のため一時休園
<戦後>
* 1949年(S24)、私立北仙台幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院北仙台幼稚園)を開園
* 1953年(S28)、学校法人聖ドミニコ学院創立、聖ドミニコ学院小学校設立、暁の星幼稚園を聖ドミニコ学院幼稚園と改名
* 1959年(S34)4月、聖ドミニコ学院中学校を開校(S56年、生徒数の減少により休校 / H21年、中学校再開)
<高等学校>
* 1960年(S35)4月、聖ドミニコ学院高等学校を設立(北五十人町、のちの角五郎丁6丁目)
* 1983年(S58)、学院創立30周年 / 新校舎落成
* 2003年(H15)、学院創立50周年
* 2008年(H20)、高等学校のコース制再編(2コースより、特別進学コース、総合進学コース、幼児保育進学コース、キャリアデザインコースの4コースとなる)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P531/Wikipedia「聖ドミニコ学院中学校・高等学校」
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高等学校(新制) |
聖ウルスラ学院高等学校/聖ウルスラ学院英智高等学校 |
1959年(S34)/2005年(H17) |
<前史>
* 1936年(S11)、カナダから来仙した修道女が北四番丁で家庭学校の前身を創設
* 1940年(S15)、市内木ノ下に修道院を開設
* 太平洋戦争中、修道女たちは拘束され、修道院は軍の無線通信講習所として接収、戦後は戦災を受けた白百合学園に貸与
* 終戦後、修道女たちは一旦カナダに帰国、1947年(S22)に再来日
* S23年に木ノ下に家庭学校、S24年に幼稚園、S25年に小学校開設 / S30年に、一本杉の旧伊達伯爵邸跡に中学校創設
<高等学校>
* 1959年(S34)、学校法人聖ウルスラ学院が高等学校を開校(一本杉の旧伊達伯爵邸跡に)
* 2003年(H15)、一般と特別志学のコース制を導入
* 2005年(H17)、高校の新校舎完成
<校名変更>
* 2005年(H17)、校名を、聖ウルスラ学院英智高等学校に変更 / 特別志学コースを男女共学制とする
* 2007年(H19)、特別志学コースType2を新設し、特別志学コースType1、尚志コースの3コースとする
* 2012年(H24)、校舎一体型の小・中学校と併設型高等学校の一貫教育(4・3・2+3)の実現
* 2017年(H29)、南小泉総合グラウンド完成
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P530~531
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高等学校(新制) |
朴沢女子高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1879年(M12)1月、朴沢三代治が松操裁縫塾創設(のちの、一番町2丁目の東急ホテルの場所)
・ 以来、戦前には私立松操学校(M17)、朴沢松操学校(T15)、朴沢松操女学校、朴沢女子実業学校と改称
* 1916年(T15)、本科と師範科を増設
* 1931年(S6)、高等師範科を新設
* 1944年(S19)、職業学校令改正に伴い、朴沢女子実業学校と改称、高等師範科を専攻科一部と改称
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で校舎全焼
* 1947年(S22)3月、第1期復興建築落成
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、「朴沢女子高等学校」と改称(新制高等学校へ移行切替)
* 1951年(S26)3月、学校法人松操裁縫学園を設立
* 1967年(S42)3月、学校法人朴沢学園と改称、校舎を川平に移転
* 1967年(S42)4月、「仙台大学」を開学、4年制体育学部(体育学科)を開設
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P529~530/「朴沢学園」HP
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「目で見る仙台の歴史」P121に、朴沢松操学校(明治27年卒業生記念写真)
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戦時下の学園 |
吉田高等女学校(私立) |
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★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称
・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」
▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校」は、昭和23年に「尚絅女学院高等学部」、昭和36年からは「尚絅女学院高等学校」、平成20年から男女共学となり「尚絅学院高等学校」
・「昭和12年の日華事変(日中戦争)から苦難が続いた。15年にキリスト教系学校への県の通達で、御真影(ごしんえい)を奉戴すること、聖書を課外に用いることなどが要請された。」
・「このころ(昭和18年ころ?)からモンペ姿の登校も珍しくなく、軍需工場で働くことを求められ、上級生は遠く千葉の海軍航空庁(編者注:航空廠か?)や茅ケ崎の軍需工場へ行ったものもあった。」
・「20年7月の仙台空襲では陸軍糧秣支廠に占有されていた寄宿舎が全焼したほかは被害がなかったが、同窓生3人が被災死している」
・「戦後の昭和20年米軍の仙台進駐のあおりで全校舎が一時的に接収されるというさわぎもあったが、クリスマスまでに半分が解除された。それにしても物資・食糧不足に悩まされながら、授業は女子師範付属国民学校と八幡国民学校の一部を借りて継続することができた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校(私立) |
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★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」
・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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戦時下の学園 |
宮城県第三高等女学校(県立) |
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★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」
・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第三女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522
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戦時下の学園 |
宮城県第一高等女学校(県立) |
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★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」
・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第一女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519
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高等学校(新制) |
県立聾学校/宮城県立 聴覚支援学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1902年(M35)、宮城県師範学校附属小学校に唖生部開設
* 1906年(M39)、同唖生部廃止
* 1914年(T3)5月、「宮城県立盲唖学校」開校式(外記丁の旧宮城師範構内)
* 1925年(T14)9月、北七番丁に新校舎落成、
* 1935年(S10)8月、東九番丁校舎に移転
* 1937年(S12)3月、「盲部」および「聾唖部」を置き、各部を初等部・中等部に分ける
<学制改革後>
* 1948年(S23)4月、学校教育法制定で、盲・聾学校教育の義務制施行 / 「宮城県立盲唖学校」が学制改革で小・中学部、高等部専攻科を編制、同時に同校盲部が「宮城県立盲学校」、聾啞部が「宮城県立聾学校」となる
* 1951年(S26)6月、聾学校が分離し、長町鹿又の新築校舎に移転
・ 高等部には、普通教育のほか、被服、理容、工芸、塗装の各科 / 高等部専攻科では、職業科目、保健体育に重点、社会生活に必要な聴能訓練、言語能力の拡充を目指す
* 2009年(H21)4月1日、校名を、宮城県立ろう学校から宮城県立聴覚支援学校に校名変更
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P518
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高等学校(新制) |
栴檀学園高等学校/東北福祉大学付属高校 |
1948年(S23)~1975年(S50) |
<前史>
* 1896年(M19)、曹洞宗仙台専門支校、東二番丁で発足
* 1902年(M35)、曹洞宗第二中学校と改称、南鍛冶町へ新築移転
* 1926年(T15)、栴檀中学と改称、伊勢堂山(国見1丁目)に移転(鉄筋コンクリート3階建て)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎の約6割を焼失
<学制改革で高等学校に>
* 1948年(S23)、栴檀学園高等学校設置、中学校も併置
* 1958年(S33)、東北福祉短大設立に伴い、同附属高校に改称
* 1960年(S35)、商業科を併置、校舎も完備
* 1962年(S37)、短大廃止、東北福祉大学設立に伴い、その付属高校となる
* 1968年(S43)4月、名称を栴檀学園高等学校へ戻す / 男女共学制採用
* 1975年(S50)、廃校
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P516~517/「東北福祉大学」HP
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「目で見る仙台の歴史」P149に「栴檀中学校舎(大正15年)」
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高等学校(新制) |
仙台電波高等学校(国立) |
1949年(S24)~1974年(S49) |
<前史>
* 1943年(S18)4月、「財団法人東北無線電信講習所」、仙台市木ノ下に設置
* 1943年(S18)11月、運輸通信省に移管され、「官立無線電信講習所仙台支所」となる
* 1945年(S20) 4月、(官立)「仙台無線電信講習所」として独立
<学制改革で高校に>
* 1949年(S24)5月、国立学校設置法施行により、仙台無線電信講習所から「仙台電波高等学校」に改組
* 1951年(S26)、専攻科(修業年限1年間、入学資格は高校卒業者)
* 1952年(S27)3月、八木山緑町の東北大学第三教養部跡地(のちの向山高校校地)に移転
* 1971年(S46)4月、国立仙台電波工業高等専門学校(現・仙台高専)に改組のため、募集停止する。
* 1974年(S49)6月7日 、廃校
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P516~517/Wikipedia「仙台電波高等学校」2019年8月4日版
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戦時下の学園 |
東北学院中学校(私立) |
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★「東北学院中学校」は、昭和23年以降の「東北学院高等学校」
・「昭和6年、満州事変が起きてから軍事思想の涵養、精神訓練がやかましくいわれ、昭和8年に柔道場、13年には剣道場が新設された。」
・「18年には中学の2年生以上が勤労奉仕作業に従事、さらに校舎も軍や鉄道局に接収されたため高等部での間借り授業が続いた。校舎正面の学院の標語「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
・ 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、普通教室、特別教室、柔剣道場など12棟を焼失、からくも焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂を生じた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“東北学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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高等学校(新制) |
東北電子工業高等学校/東北工業大学電子工業高等学校/東北工業大学高等学校/仙台城南高等学校 |
1960年(S35)/1965年(S40)/1994年(H6)/2013年(H25) |
<東北電子工業高等学校>
* 1960年(S35)10月、学校法人東北電子学院、設立
* 1961年(S36)4月、東北電子工業高等学校を開校
* 1961年(S36)4月、 東北大学片平キャンパス中央講堂で、開校式、第1回入学式 / 電子工学科、無線通信科、別科 / 東二番丁通りの仙台地方貯金局庁舎(現 仙台中央郵便局)とその元庁舎が仮校舎 / 二学期から太白区八木山松波町の校舎に移転
* 1964年(S39)4月、電子工学科を電子科に改称、無線通信の募集停止
* 1964年(S39)6月、普通科教室、体育館完成
<東北工業大学電子工業高等学校>
* 1965年(S40)4月、法人名を学校法人東北工業大学に改称(前年に東北工業大学を開学) / 学校名を東北工業大学電子工業高等学校に改称。
* 1966年(S41)4月、無線通信科を廃止、普通科を設置(普通科、電子科の2学科となる)
<東北工業大学高等学校>
* 1994年(H6)4月、 東北工業大学高等学校に改称 / 普通科を4コース(英数/文系/理系/教養)、電子科を4コース(制御技術/情報技術/電子技術/理数工学)とする
* 1999年(H11)4月、普通科を男女共学とする
* 2004年(H16)4月、電子科を男女共学とする
<仙台城南高等学校>
* 2013年(H25)4月、学校名を仙台城南高等学校に改称。特進科(文系/理系)、探究科(文系/理系)、科学技術科(メカトロニクス/情報通信/情報デザイン/電力技術)の3学科を設置
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P511/Wikipedia「仙台城南高等学校」2020年9月2日版
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第三高等学校 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)4月16日、東仙台中学校で開校式
* 1963年(S38)5月、校地(原町小田原安養寺中地内)に南校舎完成 / 翌年6月、北校舎完成
* 1968年(S43)4月、理数科1学級を県内で初めて設置(普通科7学級、理数科1学級)
* 1971年(S46)3月、西校舎完成(理数科教室)
* 1992年(H4)3月、南校舎新築完成(鉄筋造2階建て)
* 1993年(H5)9月、第2運動場造成
* 2009年(H21)1月、新校舎(4階建)、新屋内運動場完成
* 2009年(H21)4月、男女共学開始
・ 文部科学省より、スーパーサイエンススクール(SSH)指定
H22年~5年間、H24年~3年間(コアSSH)、H29~5年間〈第2期SSH)
・ 国立台湾師範大学付属高級中学と、H25年にSSHプロジェクトの協定締結、H25年に姉妹校締結
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P507~508/宮城県仙台第三高等学校HP
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戦時衣料 |
中等学校以上の制服 |
1935年(S10)~1944年(S19) |
* 1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506)⇒ この項、S10年が正しいのか要検証
* 1941年(S16)4月、中等学校以上の制服を統一、国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1943年(S18)6月4日閣議決定「戦時衣生活簡素化実施要項」で、新規仕立ては、
<男子学生生徒>は、「国民服乙号」、外套は「国民服用外套」に限定
<女子学生生徒> 装飾部分の除去に考慮し、専門学校以上は、「婦人標準服」
* 1944年(S19)2月8日、女学生の戦時型制服決定、下衣(ズボン式)の膝、足首を皮紐で締める(菅家年表P32)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506/国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/「仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P32
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第二中学校(県立) |
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★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」
・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第二高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第一中学校 |
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★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」
・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第一高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505
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高等学校(新制) |
仙台図南高等学校/仙台図南萩陵高等学校/仙台大志高等学校 |
1948年(S23)/1983年(S58)/2009年(H21) |
<前史>
* 1925年(T14)6月、夜間仙台明善中学校
* 1934年(S9)4月、仙台市立夜間中学
* 1939年(S14)3月、仙台図南中学
* 1943年(S18)4月、仙台市立図南中学校
<学生改革で定時制高校に>
* 1948年(S23)4月、仙台図南高等学校(新制高等学校へ移行切替)
<統合>
* 1983年(S58)3月1日 仙台図南高等学校と仙台市立女子高等学校を統合し、仙台図南萩陵高等学校創立、共学の定時制高校として開校 / 図南萩陵の校名は旧校名である「図南」、市立女子高の校章に使われてシンボルであった「萩」と、学校があることを表す「陵」を合わせて「図南萩陵」と命名
* 2006年(H18)4月1日、高校商業科の生徒募集が停止される。(2009年閉講)
* 2009年(H21)4月1日 仙台市立仙台大志高等学校創立(定時制高校) / それまでの仙台図南萩陵高等学校は仙台市立仙台図南萩陵高等学校に校名が変更され、生徒募集が停止される
* 1948年度(S23)で閉校
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P500~502、P503
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「目で見る仙台の歴史」P180に図南高校校舎(五ツ橋)
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高等学校(新制) |
仙台市立女子高等学校/仙台図南萩陵高等学校/仙台大志高等学校 |
1948年(S23)/1983年(S58)/2009年(H21) |
<前史>
* 1936年(S11)6月、「仙台夜間女学校」、北五番丁に創立
* 1939年(S14)4月、「仙台市立昭和女学校」
* 1943年(S18)4月、「仙台市立昭和高等女学校」
* 1944年(S19)4月、「仙台女子商業学校」と合併し、「第二部」となる
<学制改革で定時制高校に>
* 1948年(S23)4月、仙台女子商業学校から独立し、「仙台市立女子高等学校」と改称(女子単独の定時制高校)
・ 昭和30年代前は「制服のない学校」「試験のない学校」「罰則のない学校」が特徴
<統合>
* 1983年(S58)3月1日 仙台図南高等学校と仙台市立女子高等学校を統合し、仙台図南萩陵高等学校創立、共学の定時制高校として開校 / 図南萩陵の校名は旧校名である「図南」、市立女子高の校章に使われてシンボルであった「萩」と、学校があることを表す「陵」を合わせて「図南萩陵」と命名
* 2006年(H18)4月1日、高校商業科の生徒募集が停止される。(2009年閉講)
* 2009年(H21)4月1日 仙台市立仙台大志高等学校創立(定時制高校) / それまでの仙台図南萩陵高等学校は仙台市立仙台図南萩陵高等学校に校名が変更され、生徒募集が停止される
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P497~500、P502
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戦時下の学園 |
仙台女子商業学校(市立) |
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★「仙台女子商業学校」は、昭和23年度に「仙台商業高等学校女子部」と「仙台市立女子高等学校」に分かれ、前者は昭和32年9月に「仙台女子商業高等学校」となった。
・「当時のすべての学生生徒は勤労動員によって学業に専念することは不可能であった。幸いなことに本校の生徒全員が仙台貯金局に動員され、家庭から通勤することができ、犠牲者を出さなかった。」
・「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台女子商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495
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高等学校(新制) |
仙台商業高等学校第二部/仙台女子商業高等学校/仙台商業高等学校に再統合 |
1948年(S23)/1957年(S32)/2009年(H21) |
<前史>
<1>
* 1918年(T7)4月、「仙台市東二番丁実科高等女学校」
* 1922年(T11)4月、「仙台市五橋実科高等女学校」
* 1923年(T12)5月、「仙台市第一実科高等女学校」
* 1943年(S18)4月、「仙台市五橋高等女学校」
<2>
* 1921年(T10)4月、「仙台市北五番丁実科高等女学校」
* 1923年(T12)5月、「仙台市第二実科高等女学校」
* 1943年(S18)4月、「仙台北五番丁高等女学校」
*******************************
* 1944年(S19)4月、「仙台市女子商業学校」発足 / <1>と<2>を合わせて「仙台市女子商業学校第一部」とし、同時に「仙台市立昭和女子高等学校」も合併し「仙台市女子商業学校第二部とする」
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、「仙台商業高等学校」発足 / 「仙台商業学校」を「男子部」に、「仙台女子商業学校第一部」を「女子部」とする / 「仙台女子商業学校第二部」は独立して、「仙台市立女子高等学校」となる / 当時の校舎は五橋中学校と同一敷地内で、校庭は手狭だった
* 1957年(S32)9月、仙台商業高等学校の男子部、女子部を分け、男子部は「仙台商業高等学校」、女子部は独立して「仙台女子商業高等学校」となる(校地は新たに国見台)
* 2009年(H21)3月、 仙台商業高等学校と仙台女子商業高等学校が統合し、「仙台市立仙台商業高等学校」を新設
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P494~497、P502
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高等学校(新制) |
仙台工業高等学校第二部/仙台第二工業高等学校/仙台工業高等学校定時制課程 |
1948年(S23)/1965年(S40)/2010年(H22) |
<前史>
* 1915年(T4)5月、「市立仙台工業補習学校」
* 1919年(T8)10月、「仙台工業補習学校」
* 1929年(S4)7月、「仙台工業専修学校」
* 1935年(S10)8月、「仙台工業青年学校」
* 1941年(S16)3月、「仙台工業第三本科」
* 1943年(S18)1月、「仙台工業学校専修科」
* 1944年(S19)3月、「仙台工業学校専修科」(夜間過程)を「仙台工業学校第二部」と改称
<学制改革で定時制高校に>
* 1948年(S23)月、学制改革で「仙台工業高等学校第二部」と改称(修業年限4年の夜間定時制高校)
* 1965年(S40)4月、仙台工業高等学校から独立し、「仙台第二工業高等学校」となる
* 1969年(S44)4月、南の目北宮城野に移転
* 2010年(H22)、「仙台第二工業高等学校」は閉校、「仙台工業高等学校定時制課程」となる / これにより、1965年以来、全日制課程と定時制課程が同一学校に再度併設されることになった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~494、P503/「仙台市立仙台工業高等学校」HP/仙台市立仙台工業高等学校定時制課程」HP
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戦時下の学園 |
仙台工業学校専修科(市立) |
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★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」
・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台第二工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493
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戦時下の学園 |
仙台工業学校(市立) |
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★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」
・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490
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戦時下の学園 |
仙台中学校(市立) |
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★「市立仙台中学校」は、昭和23年以降の「市立仙台高等学校」
・「太平洋戦争勃発後も施設、設備の拡充は勧められていたが、国家総動員体制の下、生徒は勤労動員され、勉学に時間は極度に制約されていた。敵性語である英語の廃止論も盛んであったが、校長の信念でこのような意見に耳をかさなかったという。」
・「第1回(昭和15年)入学生は苦竹造兵廠に、第2回入学生は川崎市の軍需工場に動員され、それぞれ動員先で卒業式を行うという変則的なことも行われた。」
・「戦局が不利となるにつれ本土空襲は頻繁となり、ついに昭和20年7月10日未明、仙台市も空襲を受け、第一波爆撃による数発の直撃弾で校舎、校具のいっさいを焼失した。」
・「戦災後さしあたり片平丁国民学校に一時、間借りした。その後20年7月末にも、荒町、南材木町国民学校および斎藤記念館に再び借家ずまいすることとなったが、生徒数が多いため二部授業を行わざるを得なかった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P486~487
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高等学校(新制) |
仙台市立仙台高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1940年(S15)4月10日、市立仙台中学校開校(定員750名、荒町の斎藤記念館と荒町小学校を仮校舎に)
* 1941年(S16)6月、仲ノ町に本校舎落成し移転
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で校舎全焼し、片平丁国民学校に一時間借り後、7月末に荒町、南材木町両国民学校、斎藤記念館に間借りし二部授業
* 1948年(S23)2月、北八番丁に新校舎落成
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、学制改革で仙台高等学校となる
* 1965年(S40)9月、国見台に第二運動場完成
* 1974年(S49)、男子校から男女共学になる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274)
* 1975年(S50)4月、国見東山に新校舎落成し、移転開校式
* 2009年(H21)4月1日、仙台市立仙台高等学校に改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P485~489、P503/「仙台市立仙台高等学校」HP/「仙台市史 特別編4 市民生活」P274
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「目で見る仙台の歴史」P165に中ノ丁の「市立仙台中学校」
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高等学校(新制) |
仙台市内の高校一覧 |
1969年(S44)現在 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531に、以下の各高校について、概要、沿革などを紹介(昭和45年時点)
<仙台市立>
仙台商業高校(P482~485)、仙台高校(P485~489)、仙台工業高校(P489~492)、仙台第二工業高校(P492~494)、仙台女子商業高校(P494~497)、仙台女子高校(P497~500)、仙台図南高校(P500~501)
・ 「仙台市立7高校の系譜図」→「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P502~503
<宮城県立>
宮城県仙台第一高校(P504~505)、宮城県仙台第二高校(P506~507)、宮城県仙台第三高校(P507~508)、宮城県農業高校(P508~509)、宮城県工業高校(P509~510)、宮城県第二工業高校(P510~511)、県立盲学校(P517~518)、県立聾学校(P518)、宮城県第一女子高校(P518~520)、宮城県第二女子高校(P520~521)、宮城県第三女子高校(P522~523)
<私立>
東北工業大学電子工業高校(P511)、東北学院高校(P512~513)、東北高校(P513~514)、仙台育英学園高校(P514~515)、栴檀学園高校(P516)、宮城学院高校(P523~524)、仙台白百合学園高校(P524~525)、常盤木学園高校(P525~526)、尚絅女学院高校(P526~527)、三島学園女子高校(P527~528)、聖和学園吉田高校(P528~529)、朴沢女子高校(P529~530)、聖ウルスラ学院高校(P530~531)、聖ドミニコ学院高校(P531)
<国立>
仙台電波高校(P516~517)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531
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戦時下の学園 |
仙台商業学校(市立) |
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★「仙台商業学校」は、昭和23年以降の「仙台商業高等学校」
・「戦時中生徒は食料増産はおろか兵器増産のため勤労動員され、教師と生徒は、隊を組んで川崎の工場まで出勤する一方、少年航空兵として多くの生徒が志願していった。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で、上杉の校舎は一夜にして灰と化した。隣接の上杉山国民学校の一部を借り、小学生の机を使って二部授業を行ったが、ガラス窓が破損しても補充がつかず、紙や板をはってしのいだ。そのうちに戦場にあった教師たちが復員し、また若い教師も着任して、校内も次第に活気を取り戻していった」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482
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スポーツ少年団 |
発足 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)、仙台市スポーツ少年団発足 / クラブ活動を行っていない子弟対象 / 地域別(学区、町内会、子供会ごと)と種目別の少年団
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P481
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スポーツ大会 |
市民総合体育大会 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)10月1日~3日、第1回仙台市民総合体育大会(学区対抗などの形で、18競技)/ 1968年(S43)には25種目
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479~480
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スポーツ大会(戦後復興期) |
仙台市体育まつり |
1946年(S21)~1964年(S39) |
* 1946年(S21)から毎年秋に、小・中・高校、青年団など対象の大運動会 / その後、各競技別の市民大会となり、 1965年(S40)以降は市民総合体育大会へと発展
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479
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スポーツ大会(戦後復興期) |
市立三高校体育祭発足 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)春、仙台商、仙台工、仙台高の市立三高校体育祭発足
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479
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スポーツ大会(戦後復興期) |
東北・北海道対抗柔道大会 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)、東北・北海道対抗柔道大会復活大会(仙台)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P472
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P472の写真139
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スポーツ大会(戦後復興期) |
東北一周自転車競走 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)、第1回東北一周自転車競走
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P472
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スポーツ大会(戦後復興期) |
東日本軟式野球 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)秋、第1回東日本軟式野球大会(宮城球場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
社会人野球 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)秋、第2回社会人野球四地区オールスター大会
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本サッカー選手権 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)5月、第31回全日本サッカー選手権大会(宮城野原サッカー場) / 地元仙台サッカーは4位
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本学生ヨット選手権 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)7月、全日本学生ヨット選手権(松島湾)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
日米対抗陸上競技大会 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)8月15日~17日、日米対抗陸上競技大会(会場は、8月10日に開場した宮城県営宮城野原陸上競技場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全国高校レスリング選手権 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月、全国高校レスリング選手権(レジャーセンター)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本自転車競技選手権 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月、全日本自転車競技選手権(宮城野原自転車競技場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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日米野球 |
シールズ対六大学選抜 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)秋、サンフランシスコ・シールズ(オドール監督)対六大学選抜(評定河原球場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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