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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市の消防 |
市民の取組など |
1951年(S26)~1968年(S43)頃 |
<町ぐるみ消防訓練>
* 1956年(S31)4月、第1回烈風時消防演習
* 1960年(S35)2月、大規模な夜間演習
<自営消防隊>
・ 各職場における火災発生防止
<婦人防火クラブ>
* 1962年(S37)5月、生出地区で「萩の台婦人防火クラブ」結成、ポンプ操法など実施
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P827の表198に、S43年4月現在のクラブ一覧(27クラブ)
<少年消防クラブ>
小中学校単位に結成、防火思想と消防一般の知識を学ぶ防火教室開催、器具操作など
* 1951年(S26)4月10日、西多賀小学校少年消防クラブ
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P828の表199に、S43年4月現在のクラブ一覧(20クラブ)
<ハシゴ乗り保存会>
* 1965年(S40)12月、結成 / 後継者難でS39年出初式では中止していたが、S41年出初式から再登場
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P823~828
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仙台市の消防 |
消防団(戦後) |
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* 1948年(S23)、発足 / 北・南消防団で1470人、腕用ポンプ56台、手引きガソリンポンプ11台
* 1950年(S25)9月、原町、岩切など7分団を支団と改称、定員1800人
* 1957年(S32)3月、9支団を再び分団と改称、地域の事情により水防部も併置
* 1967年(S42)末の消防団組織図(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822)計1654人
・ 北消防団に、1本部13分団
・ 南消防団に、1本部14分団
・ 東消防団に、1本部6分団
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P821~822
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火災(地域) |
二日町大火 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221
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40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)/「市民の戦後史(仙台市)」P64(市役所付近の焼け跡)
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二日町大火 |
大火 |
1951年(S26)4月22日 |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
・ 二十日町大火は、市役所、県庁前周辺のバラック建てが再び変貌するきっかけとなった(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221
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40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)
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敗戦後の諸相・仙台 |
石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
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<戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した
<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生
<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82
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伝染病流行 |
仙台・戦後流行 |
昭和20年代以降 |
<昭和20年代>
* 1945年(S20)、腸チフス・パラチフス555人、ジフテリア480人、
* 1946年(S21)、腸チフス・パラチフス313人、ジフテリア293人、発疹チフス383人、戦後引き揚げ者とともに持ち込まれ流行した痘瘡が50人
* 赤痢は、S21~22年に仙台で約1000人、S25~S27には連続して爆発的に発生し、榴岡病院(仙台市立の伝染病専門病院)は、畳敷きの部屋まで病室に転用
・ 結核、社会各層に蔓延、S27年ころから目に見えて患者数、死亡率とも減少
・ 戦後、生活環境がもっとも悪化した時期で、ノミ、シラミ、ハエ、蚊、ダニなどが、S24年頃まで広範囲に発生、その後減少、ノミ、シラミ、ダニの類は全く姿を消した
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったという / 同年冬には仙台駅頭で撒布
<昭和30年代以降>
・ 小児マヒ 1959年(S34)に34人、1960年(S35)に18人 / 生ワクチン普及で発生激減
・ 赤痢、S35年の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)、S37年11月名掛丁に集団赤痢発生、S41年4月の集団赤痢216人
・ 腸チフス・パラチフス、29年以降は年間10人以下だったが、1967年(S42)9月、市内で集団発生あり患者57人
<榴ヶ岡病院(伝染病専門病院)・病名別収容患者数>
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P720に、「S20~42年度の伝染病別収容患者一覧表」 ・・・ S24年以降は、赤痢患者数が全伝染病のトップ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81、P672~676、P682、P718~721
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火災(地域) |
仙台駅前(駅前マーケット) |
1949年(S24)/1953年(S28) |
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前の裏五番丁に火災あり、46戸全焼
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前マーケット、46戸焼失
* 1953年(S28)1月7日、仙台駅前百貨商店街火事、8棟46戸全半焼
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台市史 年表」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台年表」P226
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火災(地域) |
中央マーケット |
1948年(S23)/1961年(S36) |
* 1948年(S23)2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失
* 1948年(S23)5月27日、東一番丁仙台中央市場、72戸焼失
* 1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟焼失
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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火災(地域) |
東一マーケット |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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仙台市の消防 |
自治体消防以前 |
明治~昭和21年 |
* 明治初期、町火消組織化
* 1919年(T8)、南町大火で700戸焼失
<常備消防>
* 1924年(T13)、国分町の仙台警察署内に消防車2台、班員8人を常置
* 1927年(S2)、第二常備班(荒町)開設
* 1935年(S10)、常備消防部設置 / 第一常備部を「仙台常備消防本部」へ、第二(荒町)、第三(原町)、第四(長町)の各常備班を「分遣所」へ改称
<警防団の常備消防部となる>
* 1939年(S14)、警防団令公布 / 消防組は、民間防空組織の「防護団」と合して「警防団」と改称され、「仙台警防団常備消防部」となる
* 1944年(S19)4月、仙台南警察署開設とともに「南警防団常備消防部」設置
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北常備消防部と狐小路分遣所が消失
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P814~815
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仙台市の消防 |
仙台市消防本部 |
1947年(S22)以降 |
<自治体消防>
* 1947年(S22)4月、消防団令公布 / 消防団長は市長が任命し、消防の運営は消防委員会があたる
* 1948年(S23)3月、消防組織法公布
* 1948年(S23)11月1日、自治体消防本部発足 / 従来の常備消防は消防本部のもとに統合、仙台市北・南消防署に改編設置 / 同年12月、常備消防部員を全員、消防吏員として採用 / 北と南の消防署、5分遣所、消防車11台
* 1951年(S26)、北消防署庁舎(鉄筋コンクリート2階建て)を北一番丁の元特別調達庁跡に新築し、消防本部と北消防署が移転
* 1951年(S26)以降、毎年、防火用水を建設、S31年までに計31か所新設
* 1952年(S27)、南消防署の望楼を鉄塔に改築
* 1957年(S32)7月1日、東消防署開庁、ブロック2階建て望楼付き
* 1959年(S34)2月、3段式16mハシゴ車1台を北署に配置
* 1959年(S34)3月、泡消火剤など装備の科学消防車1台を南署に配置
* 1959年(S34)5月、仙台市消防音楽隊(隊員30人)発足
* 1960年(S35)、片平丁出張所を再建(戦災で焼失廃止されていた)
* 1961年(S36)4月1日、仙台市消防局に、初の救急車、救急隊(3人)配置
* 1963年(S38)、南消防署を新弓の町に改築
* 1965年(S40)12月17日、南消防署に化学消防車配置
* 1966年(S41)8月、東北初の特別消防隊(消防レインジャー部隊)編成し、訓練開始
* 1966年(S41)12月1日、北消防署に、32メートル高層梯子車を配備
* 1968年(S43)3月、排煙車配備
* 1969年(S44)5月1日、望楼勤務を廃止(ビル増設とスモッグのため市街の展望不能となる)
* 1975年(S50)11月20日、仙台初の20m級スノーケル車を南消防署連防出張所に配置
* 1983年(S58)8月25日、東消防署は、苦竹3丁目の新庁舎に移転
* 1989年(H1)月日、仙台市泉消防署に36mはしご車配備
* 1996年(H8)4月、仙台市消防局、県内ではじめて女性消防士採用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P813~818、P831~831、P845/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P622、P627、P628、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P165、P258/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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20-04/「目で見る仙台の歴史」P182/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P816に、消防本部・北消防署庁舎/同P846の写真210(排煙車)/「市民の戦後史(仙台市)」P104(16mハシゴ車)/同P130(救急車)/同P180(出初式一斉放水、レインジャー部隊訓練)/同P210(排煙車)
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敗戦後の諸相・仙台 |
主要事件 |
昭和20・30年代 |
仙台地方裁判所・仙台高等裁判所関連では、平事件(S24)、松川事件(S24)、東北大学イールズ事件(S25)、浜旋風事件(S26、魚のヤミ取引事件400件を一挙に処分)、朝鮮人部落集団暴行事件(S27)、小繋事件(高裁S28)、穴ぼこ事件(地裁S35、高裁S37、原付自転車で酒気を帯び市道走行中、道路の穴ぼこで転倒、死亡)、仙台高裁ピケ事件(S35)、智行ちゃん誘拐事件(S40)、労働争議にかかわるものでは、瀬峰事件(S30)、新松島駅事件(S31)、仙台駅事件(S33)、仙台南郵便局事件(S33)、長町駅事件(S33)、全国税事件(S34)、小牛田駅事件(S36)など
* 1961年(S36)8月8日、松川事件差戻し裁判、仙台高裁で全員無罪判決(「仙台市史 続編第2巻」P291)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P811~813/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P291
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「市民の戦後史(仙台市)」P111(松川事件無地判決で裁判所前の支援者たち)
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敗戦後の諸相・仙台 |
伝染病4倍増/空から撒かれたDDT |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲で壊れたままの給水栓>
・ 全給水栓の44%が破壊されたまま
・ S19年比でS20~21年は、ゴミ焼却場(3か所)の扱い数は6割前後、市立消毒所への依頼数は半減
<伝染病4倍増>
・ S19年442件、S20年1260件、S21年1836件
・ S21の内訳(赤痢739件、以下発疹チフス、ジフテリア、腸チフス、パラチフスの順、天然痘も50件) / 死者は赤痢102人(死亡率14.4%)
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったとい
う
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(浮浪者へのDDT撒布)
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警察学校 |
東北管区警察学校 |
1956年(S31)~1975年(S50)3月 |
場所は、現在(2018年)の榴ケ岡公園内の一角で、かつては(明治時代~昭和20年まで)陸軍第二師団の歩兵第4連隊兵営だったが、戦災にあわず、戦後は進駐軍(米軍)基地(キャンプ・ファウラー)となり、米軍から返還された後に東北管区警察学校が置かれた / 高等部は旗立から、普通部は玉浦から移転
* 1956年(S31)11月30日、開校式
* 1975年(S50)3月、多賀城に移転
* 1975年(S50)5月、跡地(国有地)が、仙台市緑の拠点として払い下げが決まり、榴ヶ岡公園の一部となった
* 移転後の1975年(S50)1月13日から、戦前からの旧・歩兵第4連隊兵舎は解体されたが、一棟だけ残された兵舎が、仙台市歴史民俗資料館となった(S54年11月3日開館)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P800/東北管区警察学校HP/「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P41
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34-47
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敗戦後の諸相・仙台 |
小中学生にも流行る「符丁」 |
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・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80
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警察学校 |
宮城県警察学校 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)、宮城県警察学校着工きまる(木造2階建て)、/ 場所は台原(荒巻杉添)の米軍射撃場跡地で、県警察学校は川内から台原(ダイノハラ)に移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P788、P795
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敗戦後の諸相・仙台 |
日陰の花/売春防止 |
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・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた
* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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敗戦後の諸相・仙台 |
天井知らずの物価/死の抗議 |
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・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77
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敗戦後の諸相・仙台 |
「新円」騒動 |
1946年(S21) |
<金融緊急措置令 旧円の預貯金封鎖と新円への切り替え>
・ 戦後の極度なインフレ高進を抑制するため通貨流通量の収縮をはかるのが目的
・ 昭和21年2月中旬には、旧円で618億円あった日銀発行残高が、新円で152億円に激減(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 1946年(S21)2月17日、預金してある金はこの日限りで封鎖、流通している10円以上の紙幣は3月6日までで廃止し、7日以降は、新発行の札(新円)しか使えない(「仙台市史 続編第1巻」P76)
* 2月25日以降、新円と旧円の交換開始、3月3日以降は旧円の流通を禁止(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 封鎖預金からの現金払い戻しは、月に世帯主300円、家族は1人につき100円、給料も現金は500円まで、それ以上は封鎖預金にされる / 預金のない人は月最大500円の給料のみの生活
* タンス預金は紙くず同然になるので、旧円最後の日の金融機関は預け入れる人で大混雑、商店街は使えなくなる心理から、品物、食べ物が飛ぶように売れ、映画館も満員だったと当時の新聞は伝える
* 封鎖預金は、第一封鎖と第二封鎖に分離され、第二封鎖部分は凍結・棚上げされることになった(中略)そうした強硬策でもインフレの収束に至らず、9月に生産の上昇も伸び悩みとなり、インフレはますます高進(「仙台市史 続編第2巻」P729)
* インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債券同様にほぼ無価値になった(Wikipedia「新円切替」2019年2月版)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P76/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P728~729/Wikipedia「新円切替」2019年2月版
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(新円切替で新円と交換)
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
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<東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」
・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。
東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(1)仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
<バラック建ての仙台駅周辺>
・ 終戦直後いちはやくヤミ市が出現、物流はもっぱらこの“まちの卸屋”で行われ、「東北の上海」などといわれた
* 1945年(S20)9月、露店にヤミ市が並ぶ(「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋(エックスバシ)間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけに望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
・ 名掛丁には、通称“浅草楽天地”と呼ばれたバラックのマーケット街が出現、軍物資、ヤミたばこ、覚醒剤などが密売され、夜の女や不良の温床でもあった(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
・ 「仙台でのやみ市は、仙台駅前地区、東一番丁地区に10カ所あまりの青空市場ができたが、そば、ウドン、パン、いもなどの食べ物を中心に、食料品、衣料品、雑貨など統制物資までをも加えて法外な値をつけていた。市(いち)とまではならないが、東一番丁の空き地、大道に露天商が並び、戦後しばらく定職をもたないものはヤミ商人になったとまでいわれるようになる。(中略) 昭和21年5月の一斉取締りで仙台北警察署は東一番丁、仙台駅前、大学病院前の3か所から45名を検挙」(番丁詳伝」P159)
・ 仙台駅前(西側)のヤミ市(「戦災復興余話」P45~49より)
青葉通りなどの新設道路予定地や不在者宅地内にできたヤミ市で、ビッグ・スリーは、駅前マーケット(東五番丁/昭和24.10.10~31に市が代執行し80戸を強制撤去)、新興マーケット(仙台駅前/昭和25.3に14戸撤去)、国際マーケット(裏五番丁/昭和25.7に、28戸強制撤去) / 国際マーケット(203坪)の所有者は野路清蔵市会議員
【参照】 ヤミ市など不法建築物の強制撤去は、
項目「戦災復興事業」の小項目「不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺」、小項目「不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町」に詳述
<青空市場>
・ ヤミ市には、クツみがき、輪タク、街の女がたむろし、スイトン、しるこ、カストリ焼酎などは引っ張りダコ、なんとか飢えをしのごうという人たちで食べ物屋は大繁盛した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196/「戦災復興余話」P45~49/「わが心の仙台駅前史」P38/「仙台あのころこのころ八十八年」P250(年表)/「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158~159
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P772に、「町を行くやみ屋の列」(S25年3月、仙台駅前付近)
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敗戦後の諸相・仙台 |
住宅難 |
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・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75
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火葬場 |
仙台市営火葬場 |
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* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管
* 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置
* 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態
* 1947年(S22)2月、電気炉5基設置
* 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真
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敗戦後の諸相・仙台 |
生活抄から |
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生 活 抄 通子
・ 子供等が食にいやしくなり来つる
叱りつつあわれ国敗れたり
・ 配給日まで耐えこしあらな米をひき
糊にして食い三たび三度を
・ 今少し食あらばかく病ませじを
蒼白き鼻尖りて見ゆる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P73~74
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仙台市ミートプラント |
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<前史>
* 1909年(M42)、仙台市営屠場開設(市内小田原牛小屋丁)、この施設で、仙台食肉組合が屠殺
・処理頭数(明治は年に1600頭、大正は3000~4000頭、昭和初期で5000頭(1日、牛1頭、豚10頭程度)、昭和20年牛馬あわせて、1700頭)
* 1940年(S15)、市直営、職員7人はそのまま市が引き継ぐ / 汚水は、付近の川(藤川)へ調節放流
<戦後>
駐留米兵の需要、牛豚飼育普及で処理数増
* 1949年(S24)~1950年(S25)ころから、爆発的に増加 / S28年1万超、S30年頃から1万2000~1万4000頭
<ミートプラント>
* 1959年(S34)6月1日、仙台市ミートプラント操業開始(市内中田)/エアカーテンで仕切られた屠場で、すべて流れ作業で屠殺・解体 / S34年度は2万頭で、県内の処理頭数の4割、S40年度に5万頭超
* 1967年(S42)12月、活性汚泥浄化槽建設
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P740に、年度別処理頭数一覧表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P737~741
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「目で見る仙台の歴史」P144(牛小屋丁の市営屠場)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P739(市営ミートプラント屠場内部の写真)/「目で見る仙台の歴史」P183(中田のミートプラント外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P106と「新・目で見る仙台の歴史」P19と「仙台市史 特別編4 市民生活」P90に、「S30年代、市営ミートプラント内部」
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血液センター |
日赤宮城県血液センター |
1965年(S40) |
日本赤十字社宮城県支部が支部内に設置
* 1965年(S40)2月5日、宮城県血液センター開所、4月から献血車「いずみ号」稼働開始
* 1966年(S41)5月、民間血液閉鎖、売血制度廃止
* 1966年(S41)8月、県内6カ所に出張所開所
* 1967年(S42)、「第二いずみ号」配置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P736/「重訂 宮城県郷土史年表」P618
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「市民の戦後史(仙台市)」P166(献血の様子)
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がん検診センター(宮城県対がん協会) |
協会結成/検診センター完成 |
1958年(S33)/1968年(S43) |
* 1958年(S33)9月、宮城県対がん協会結成(北七番丁)
* 1960年(S35)、集団検診車登場、東北各地に出張診断
* 1963年(S38)8月、第1回がん対策推進全国大会、仙台で開催
* 1963年(S38)9月、第15回保健文化賞受賞(間接撮影装置の開発とその車両化、広範ながん対策推進の功績に対し)
* 1964年(S39)9月、婦人科がん検診車完成(農協婦人部中心に拠出)
* 1966年(S41)6月、検診車「第二きぼう号」稼働
* 1967年(S42)1月、河北文化賞受賞
* 1967年(S42)9月2日、宮城県対がん協会検診センター着工
* 1968年(S43)6月10日、宮城県がん検診センター完成(北六番丁、鉄筋コンクリート5階建て / 全国初)
* 1979年(S54)12月3日、乳がん検診車稼働
* 1981年(S56)5月11日、新らたながん検診センター(上杉6丁目)診療開始
* 1986年(S61)9月5日、対がん協会に、きぼう18号・しあわせ3号の検診車両配備
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P734~736/「重訂 宮城県郷土史年表」P634、P640/「続・ 宮城県郷土史年表」P104、P128、P210/「市民の戦後史(仙台市)」P146
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P735(がん検診車)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(第1回がん対策推進全国大会)/「新・目で見る仙台の歴史」P195(胃の集団検診車「きぼう」、カラー)
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敗戦後の諸相・仙台 |
アルコール添加で三倍増醸 |
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<米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった
<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた
<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧買い出し |
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・ 欠配続きで、農村へ食糧買出しのため列車は連日超満員 / 仙鉄局が無蓋貨車を臨時運転し人を運ぶ
・ 子どもも買出しに動員されたため、県は国民学校、中学校に対し校長の自由裁量で午前授業だけで打ち切るよう通達
・ 郊外から物資を買い集めてきてさばくカツギ屋とよばれる人々もあらわれた。
・ 衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
・ 1953年(S28)10月、凶作によりヤミ米横行、菓子工場、旅館など一斉取締り(「仙台あのころこのころ八十八年」P252)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72/「仙台あのころこのころ八十八年」P252
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「仙台市史 続編第1巻」P72の写真(満員の買出し列車)/「新・目で見る仙台の歴史」P173(仙山線ホームのカツギ屋の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P104(仙台駅で押収されたヤミ米の山)/同105(列車で買出しに行く「カツギ屋」たち)
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敗戦後の諸相・仙台 |
家畜も激減 |
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<市立屠場(市内小田原泉町)では>
・扱った牛馬豚羊が、1944年(S19)5000頭超、S20は2000頭、S22は746頭と激減
<飼育頭数も激減>
・市内の飼育数(牛馬豚羊)、S20は3475頭、S21は272頭
・深刻な食糧事情で、食いつぶされてしまった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72
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敗戦後の諸相・仙台 |
欠食児童 |
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・ 荒町国民学校、全児童2000人中、食糧事情による欠席が1割近くあり、授業は午前中のほか体操は休ませる措置 / 十日間も野菜だけを食べ、米を一粒も口にしない児童が50人いた
・ 東六番丁国民学校では、昼食抜きの児童が3分の1に達し、子供らしくはしゃぎまわる姿もない
・ 仙台中学では、週5日授業で山菜とり、県立一高女など各校でも野草・山菜つみに近郊へ出かけた
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P405(敗戦直後に野外で食事する子供たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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敗戦後の諸相・仙台 |
米、大減収 |
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* 1945年(S20)は凶作で、20年産米の供出量は、21年3月で66%
* 1946年(S21)産米は、前年に比べやや持ち直す
* 1947年(S22)、大減収(7、8月の豪雨と9月のカスリーン台風)
* 1948年(S23)、大減収(アイオン台風)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70、P72
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仙台市立病院 |
戦後復旧 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、看護婦養成所本館裏に、木造病舎とともに新築 / S23年から、養成再開
* 1947年(S22)10月、復旧し、屋上で市立病院戦災復興式 / 本館および南側地下1階、地上3階が復旧 / ベッド230床、外来患者1日400人以上 / 焼け野原の一角にクリーム色の病院が復興
* 1951年(S26)~1954年(S29)、増築・増床
・ S26年、南側病棟屋上に4階を増築
・ S28年6月、東二番丁に面した本館北側に鉄筋コンクリート5階建を増築
・ S29年7月、さらに北側に、地下1階、地上2階増築
(本館裏の木造病棟取り壊す)
・ S30年3月、前年度完成した上に3~5階部分が完成
* 東二番丁通り拡幅に伴い、玄関が道路拡幅部分にかかる
* 1956年(S31)10月3日、人間ドック開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P583)
* 1960年(S35)、人間ドックを、1週間から2日間に短縮
* 1960年(S35)、救急車購入
* 1963年(S38)6月、救急業務開始
* 1966年(S41)1月10日、救急センター落成(地下1階、地上4階建て、東北初の専門施設、一度に5人の手術可能)、
* 1980年(S55)7月、五橋に移転
* 1980年(S55)9月2日、建物解体始まる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P708~710、P712、P714、P716~717/「仙台年表」P217/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史10 年表」P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P583、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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22-24(東二番丁通りの拡幅部分にはみ出した市民病院玄関)/ 「市民の戦後史(仙台市)」P182(救急病棟外観、手術室)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29)の左上の白いビル/同P40(S33年、空撮、画面上のL字型ビル)/同P60(S38、カラー)/同P86(S41)
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仙台市立病院 |
改築竣工~戦災焼失 |
1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設
* 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工
(鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階
5,211平方メートル 病床数170床)
* 後に増床も行われた
* 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129
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35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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清掃工場 |
清掃工場 |
1966年(S41)以降 |
* 1967年(S42)2月9日、今泉ゴミ焼却場起工式
* 1968年(S43)7月、今泉ゴミ焼却場完成(2基で、1日180トン処理) / 鶴ケ谷と合わせ1日250トンで、埋め立ては不燃物含め1日50トン以下に
* 1971年(S46)6月15日、松森清掃工場完成、焼却開始(宮城郡泉町松森に)
* 1986年(S61)1月18日、今泉清掃工場落成式
* 1986年(S61)4月10日、今泉清掃工場に、ごみ・PAL開館
* 1987年(S62)4月、今泉清掃工場の温水プール使用開始
2020年現在、仙台市には、今泉、葛岡、松森の3清掃工場がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P675/「続・ 宮城県郷土史年表」P201、P204、P223
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「市民の戦後史(仙台市)」P213(今泉清掃工場外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P196
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧危機で転入抑制 |
1946年(S21)3月~11月 |
<仙台への転入者急増>
・ 市の人口、1946年(S21)4月末で25万3655人に対し、5月中の転入者が5699人/疎開先からの復帰のほか、東京・横浜など食糧事情の極度に悪い大都市からの“再疎開”も多かった
<都会地転入抑制緊急措置令を適用>
* 1946年(S21)3月~、東北地方ではただ1か所、仙台市内への転入抑制措置開始/復員・引揚者や復興工事労務者など特別な場合を除いて転入不可 / 9月末の解除予定が、食糧事情、住宅事情から11月末まで延期
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P69~70
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清掃事業(行政) |
開始 |
1918年(T7)~1965年(S40) |
* 1918年(T7)、仙台市が清掃事業を開始、一部地域は市直営、その他は請負業者による収集と、2本立て
* 1924年(T13)6月、市営焼却場建設
* 1925年(T14)9月、原町に新焼却場建設
* 1929年(S4)、請負制廃止しすべて市直営に、馬車付き人夫35人を直雇いに
* 1931年(S6)、請負制に復帰、市と二本立て / 戦後も二本立てが続く
* 1956年(S31)10月、請負業者による収集を廃止し、全て市直営収集とする
* 1957年(S32)9月、鶴ケ谷焼却場、稼働開始 / 従来の市営焼却場廃止
* 1962年(S37)6月、定時容器収集(ポリ容器に入れたごみを各家庭が持ち出し決まった時間に市の清掃部員が収集)、土樋など5町内会で試験実施
* 1963年度(S38)、定時容器収集を全地域に広げ、収集を週2回に増やす
このころごみ収集量は1日200トン、約60トンは鶴ケ谷焼却場で焼却、残りは埋め立て
* 1964年(S39)3月、新埋め立て地、六郷地内の子牛沼6000㎡を買収し埋め立て
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P690~691、P701~704
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「目で見る仙台の歴史」P183(鶴ケ谷の塵芥焼却場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(ゴミ収集作業作業/鶴ケ谷焼却場)
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敗戦後の諸相・仙台 |
英語標識設置 |
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・ 仙台駅、占領軍の要請で駅名をローマ字表示(写真16-16)
・ 西公園前・南町通はメープル街、南町・国分町はエルバリ街、光前寺通・駅前はインディアナポリス街などの標識設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68~69
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16-42、16-44、16-46、16-36、16-23、16-16、25-14、53-31、44-45、44-29-01、25-10、99-148
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
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敗戦後の諸相・仙台 |
女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ |
1945年(S20)9月 |
9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)
* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)
・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243
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敗戦後の諸相・仙台 |
宮城県出身者の従軍数(召集数)、戦死者数、復員数 |
1931年(S6)~1945年(S20) |
<宮城県出身者の従軍数と復員数>
(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66)
陸軍17万人 外地 12万人 → 復員数 9万6000人
内地 5万人 → 復員数 5万人
海軍4万人 外地 2万人 → 復員数 1万3000人
内地 2万人 → 復員数 2万人
<宮城県からの召集数、県出身者の戦死数>
(「宮城県史」より 「戦争のころ 仙台、宮城」P239)
召集数
陸軍 約17万
海軍 約4万
戦死者数(死亡公報が発行された人数)
陸軍 約2万8000人(全体の16%)
海軍 約7000人(全体の18%)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(シベリア抑留軍人が仙台着)
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仙台空襲 |
仮埋葬/供養碑/追悼式 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
* 「仙台北署が県下各署の応援を得て死体検視や収用に奔走、北山仮葬場と寿徳時(半子町)を収容所にあて、第1日(7月10日)はトラックで4台150体を収容、第2日は606体、第3日は169体、第4日は228体とおびただしい犠牲者を収容した。・・・・市内の各所に横たわる黒こげ死体のうち625体は身元不明のため大願寺・寿徳寺、松音寺の三寺院にして仮埋葬した。・・・毎年7月10日の戦災記念日には、北山霊園内の供養碑前に香華を手向ける遺族、市民が少なくない。」(「仙台市史 続編第1巻」P60、P62)
* 1945年(S20)、仙台市当局に於て死体を収容し、大願寺、寿徳寺、松音寺等に仮埋葬せるもの625人(「重訂 宮城県郷土史年表」P550)
* 1951年(S26)7月10日、仙台空襲七回忌にあたるこの日、北山霊園に戦災死没者供養碑建立(松音寺、大願寺、寿徳寺の戦災死没者181体を北山霊園に移して)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P60、P62/「重訂 宮城県郷土史年表」P550、P620/「仙台市史10 年表」P326
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「新・目で見る仙台の歴史」P166(戦災死没者慰霊碑)
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東北電力 |
会社設立/東北電力ビル |
1951年(S26)/1960年(S35) |
* 1951年(S26)、会社設立(本社は、藤崎の近く、大町5丁目の旧カルトン食堂ビル)
* 1952年(S27)、仙台はまだ電力不足で、週2日の節電日があった(「仙台市史 続編第2巻」P706)
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地下1階一部2階、地上9階、塔屋3階 / グランドホテル仙台、電力ホール、貸室を併設、市民図書館分室も併設)が東二番丁70に完成 / 当時は東北一の大型ビル / 本社を、大町5丁目藤崎わきから電力ビルに移転
* 「電力ホール」のオープンもS35年 / こけら落としは、尾上松緑の日本舞踊
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596~597/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P706/東北電力HP/「仙台市史 年表」P121/「重訂 宮城県郷土史年表」P597/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206
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22-20/「目で見る仙台の歴史」P199(東北電力ビル建設工事)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P597の写真135(東北電力ビル)/「市民の戦後史(仙台市)」P125(東北電力ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S35年、電力ビル)
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ビル建設 |
東北電力ビル |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地下1階一部2階、地上9階建、塔屋3階)が東二番丁70に完成 / 東北電力本社 / グランドホテル仙台、電力ホール、貸室、市民図書館分室を併設 / 当時は東北一の大型ビル
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S35年)、P60(S38、カラー)
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郵便局 |
仙台中央郵便局 |
1965年(S40) |
<改称>
* 1965年(S40)11月26日、南町通りの仙台郵便局が仙台中央郵便局と改称
* 1968年(S43)7月1日、郵便番号制、実施
* 1969年(S44)11月25日、郵便番号自動読み取り機、稼働(東北初)
<北目町に移転>
* 1973年(S48)9月15日、南町通から北目町に新築移転
* 1975年(S50)8月24日、仙台中央郵便局で、日曜配達休止実施
* 1987年(S62)4月23日、中央郵便局に、自動引受機登場
* 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P582/「仙台市史 年表」P124、P128/「重訂 宮城県郷土史年表」P654/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P223、P227/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62
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電話 |
仙台の市内局番 |
1954年(S29)/1963年(S38) |
* 1954年(S29)4月29日、仙台市内の電話番号に「局番」がつく (「2」と「3」局誕生) / 東北初
* 1960年(S35)、局番「5」新設
* 1961年(S36)、局番「6」新設(榴ヶ岡に東分局開局)
* 1962年(S37)8月、仙台の市外局番が「0222」となる / 仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1963年(S38)1月20日、仙台市内の電話局番が「2桁」になる(22・32・42・52・65局などに)
* 1963年(S38)、長町分局開局、局番「48」新設
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局、局番「34」新設
* 1963年(S38)11月~1968年(S43)1月、局番9つ新設(設置順に、57,29,21,58,33,86,88,24,27)
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* 1986年(S61)7月1日、仙台地区の電話「市外局番022」となる / 同日、仙台・岩沼・大河原・古川地区の市外電話局番3桁実施
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P575~578/「仙台年表」P230/「重訂 宮城県郷土史年表」P607/「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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電話 |
日本電信電話公社時代 |
1952年(S27)8月~1985年(S60)4月 |
* 1952年(S27)8月1日、電気通信省廃止され、「日本電信電話公社」設立
* 1952年(S27)9月16日、仙台電話局、自動ダイヤル化
* 1953年(S28)9月、長町分室開局
* 1954年(S29)4月29日、仙台電話局、東北初の市内局番制採用( → 小項目「仙台の市内局番」参照)
* 1955年(S30)5月1日、117番(天気予報サービス)開始
* 1955年(S30)7月1日、東北初の依託自動公衆電話機(通称ダルマ型)第1号を藤崎デパート内に設置
* 1956年(S31)、電話マイクロウェーブが2月、東京~仙台間、10月に仙台~札幌間完成
* 1958年(S33)7月、仙台駅に公衆電話サービスステーション設置、「丹頂型電話」と「赤電話」をおく
* 1959年(S34)4月、仙台電話局、南町の構内に局舎新築(鉄筋5階建)し、営業開始
* 1961年(S36)、榴ヶ岡に東分局開局
* 1963年(S38)、長町分局開局
* 1963年(S38)6月、仙台中央電報局、東二番丁・南町通り南側に新築(東二番丁・青葉通り角の木造庁舎から移転)
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局
* 1964年(S39)10月、電話ダイヤルで東京へ即時通話化(「仙台あのころこのころ八十八年」P254)
* 1964年(S39)11月、仙台から、東京、秋田、青森へも自動即時通話となる
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1965年(S40)11月、仙台電話局内の加入電話4万台を突破(開局後の10年間で4倍に)
* 1968年(S43)6月、電話加入数6万192、公衆電話1533台
******************************
* 1985年(S60)4月10日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
<これ以降は、→ 項目「NTT東北支社」へ>
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P574~579/「仙台市史 年表」P117/「続・ 宮城県郷土史年表」P189/「仙台あのころこのころ八十八年」P254
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー、画面左端に仙台電話局)
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電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
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仙台空襲 |
空襲被害の状況 |
1945年(S20)7月10日 |
(5) 『仙台市史 続編第1巻(行政建設編)』P56~62より
<仙台空襲>
・仙台空襲時には、全市5万1630余世帯の約35%が疎開中
・「昭和20年、仙台市内には、本土決戦に備え東北軍司令部など数々の司令部が設置され、形の上の迎撃態体制は一応つくられていたが、それに伴うべき武器弾薬に乏しく、軍司令部所在地たる仙台に一門の高射砲もなく、木造の模擬高射砲がむなしく空をにらんでいたのである。」
・「7月10日深夜から早暁の仙台空襲では、B29の小編隊(2~5機)が20数回波状的に来襲、投下された焼夷弾は、油脂50キロ、100キロ、小型エレクトロン1号、2号混用などで、市内各所に火災発生後は50mもの烈風となり火勢はたけり狂った。」
・「市電環状線内は見るかげもなく壊滅、地をはいからっみあった電線、トタン、カワラ、ガラスの破片、まちかどにうずくまる重軽傷者、わが子を探し求める母親、性別もわからぬほどに焼けただれた遺体、焼け落ちたビルの残骸からはなお煙と異臭を吐き出す。都心のビルが焼き払われたため、仙台駅前から県庁方面が一望できる始末であった。」
・「死傷者の多くは防空壕内でやられたのである。都心のある防空壕では、ここに避難した老若男女20人が、外の熱気のためむごたらしく死んでいた。東一番丁北端と定禅寺通交差点では、家財を背負って避難途中の市民が折り重なって死んでいた。」
・その他、全焼・半焼した地域(公会別)、焼失した古建築などの記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P56~62
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仙台空襲の焼失区域図は、98-147
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