項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・学生たちの抗議 |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536より転記>
「1960年(S35)の日米安全保障条約改定反対闘争(安保闘争)では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生ともに東北大学の教官が抗議デモに参加したことでも注目された。6月15日の国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生樺美智子さんが死亡した事件への抗議デモでは、青葉通りに3000名の学生が集まった。」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P536
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労働運動(戦前) |
宮城県内 |
1898年(M31)~1938年(S13) |
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P528~529「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦前の経過につき記述あり
* 1898年(M31)、日本鉄道争議
* 1911年(M44)、仙台ガスで職工争議
* 1918年(T7)、米騒動後の2年ほどの間に賃上げ争議続く(岩井酒造、東北板紙、東京絹毛紡績会社仙台工場、仙台市役所、仙台畳業組合、片倉組仙台製糸工場、仙台専売支局、北山の瓦製造所)
* 1920年(T9)1月、仙台染色職工会結成(仙台市内8つの染織物工場の職工67名)
* 1925年(T14)末、仙台印刷労働組合結成
* 1926年(T15)、仙台印刷労働組合が、一般労働者・農民・学生などを加え仙台一般労働者組合に発展 / 東北印刷、大正印刷などの印刷会社、旭紡績、塚本硝子、東洋刃物などで争議を指導 / 1928年(S3)~1929年(S4)の共産主義者弾圧のなかで指導者を失い壊滅
* 1934年(S9)、宮城一般労働組合結成(佐々木更三により、仙台市役所勤務の現業労働者や市内の自由労働者ら52名) / S9の仙台合同運送の荷馬車引き子スト、仙台市の塵芥運搬人夫スト、三馬ゴム工業仙台分工場ストを指導し成果 / その後二度にわたる旭紡績仙台工場の待遇改善ストで労働側を勝利に導く / 1938年(S13)2月、委員長佐々木更三が第二次人民戦線事件に連座検挙されたことを契機に解散を余儀なくされた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P528~529
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P529(明治31年、日本鉄道争議の中心人物石田六次郎の解雇辞令)
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婦人参政権獲得運動 |
全国 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦選獲得運動>
* 1921年(T10)1月、新婦人協会(市川房枝・奥むめお・平塚らいてう達)、355人の署名を集めて婦人参政権の要求を、貴族院・衆議院に提出
* 1923年(T12)2月、婦人参政権同盟結成
* 1924年(T13)12月13日、婦人参政権獲得期成同盟会、発足 / 1925年(T14)4月、婦選獲得同盟と改称
* 1929年(S4)12月、長野県で、婦人参政権の県会決議が実現
<敗戦後の再起>
* 1945年(S20)8月25日、戦後対策婦人委員会結成(市川房枝・山村民子ら30余名の女性) / 9月24日、政府・両院に対し、女性参政権実現、公民権・政党参加権の獲得、行政機関への登用を要求
* 1945年(S20)10月10日、幣原内閣が臨時閣議で婦人参政権付与の方針決定 / 10月13日、国民に発表
* 1945年(S20)10月11日、GHQ、日本民主化のための五大改革の冒頭に「参政権の付与による女性の解放」を掲げる
* 1945年(S20)12月17日、婦人参政権の付与を盛り込んだ衆議院議員選挙法改正案が成立、ただちに公布
* 1945年(S20)12月28日、衆議院解散
* 1946年(S21)4月10日、総選挙(全国で39名の女性代議士誕生 / 東北では、山形・秋田・岩手で1名、福島で2名当選)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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婦人参政権獲得運動 |
宮城県 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦人参政権の芽生え>
* 1880年(M13)、名取郡長町村村会規則(村会議員選挙で、20歳以上の男女に等しく選挙権、ただし被選挙権は女性には認めていない) / 全国的に珍しい
* 1883年(M16)、成田うめ(清元師匠)が仙台自由党結成
<婦選獲得運動>
* 1930年(S5)6月10日、黎明婦人会が仙台婦選講演会(仙台市公会堂、講師:市川房枝) / 学生・未成年含めて300人の女性が参集
* 1931年(S6)、黎明婦人会による婦選獲得同盟演説会(講師:日本産児調節婦人同盟理事長の石本(加藤)静枝) / 毎年開催された婦選大会も戦時体制の強化の中で1937年(S12)1月の第7回で幕を閉じる
<戦後>
* 1945年(S20)10月15日、「河北新報」が「婦人参政権を語る」と題して、県内4人の女性たちの抱負を掲載
* 1945年(S0)11月29日~46年2月6日、「河北新報」が「婦人参政権講座」65回開設(講師:東北帝国大学教授陣15人)
<婦人文化クラブの啓発活動>
* 1946(S21)3月14日、河北新報社主催「婦人参政権座談会」(GHQ民間情報教育局企画部婦人課長のイセル・ウィードを囲み、仙台市中心に国民学校訓導、看護婦、事務員、主婦、農村女性など女性30人) / 参加女性たちが「婦人文化クラブ」結成し、総選挙に向け女性たち自身による啓発活動
* 1946(S21)3月30日、発会式(荒町国民学校講堂)では、各政党の立会演説会や模擬投票
* 1946(S21)4月7日、河北新報社従業員組合婦人部と共催で、市川房枝を招いて懇談会開催(会場:宮城女学校) / 労働組合、民主団体の婦人部、主婦など約60人参加
<戦後初の総選挙>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P507に、当日の様子記述あり ・ 投票率(宮城県): 男性78.6%、女性62.3%
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504(長町村村会規則)/同P507(昭和21年、戦後初の総選挙投票を伝える「河北新報」)
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普通選挙要求運動(仙台) |
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1919年(T8)~ |
* 1919年(T8)2月12日、仙台普通選挙期成同盟会結成協議会(メンバーの大部分は、憲政会所属の県会議員と弁護士)
* 1919年(T8)2月15日、仙台普通選挙期成同盟会(仙台普選同盟会)の結成大会・演説会(開明座) / 伊藤彪・新妻胤嘉らの演説後、市中を提灯行列(国分町の開明座~東一番丁~大町4丁目角~新伝馬町・名掛丁~停車場前広場~南町通~南町~芭蕉の辻~大町1丁目~西公園)
* 1919年(T8)4月、普選要求大会(開明座、聴衆2000人余) / 労働党組織宣言可決
* 1920年(T9)2月、普選実行期成大演説会(仙台座)/憲政会宮城支部、仙台普選同盟会主催 / 尾崎行雄、新妻胤嘉、村上亀一郎らの演説に聴衆熱狂 / 雪の中、「国民一般に選挙権を与えよ」などスローガンかかげた旗を押し立て、「普選促進歌」(賀川豊彦作詞)を歌い乍ら、停車場前からデモ行進 / 会場の仙台座は有料にもかかわらず大入り満員、入場できなかった者多数
* 1920年(T9)5月、総選挙(前年度改正した小選挙区制で実施)宮城県内の憲政会候補は全滅
* 総選挙直後、布施辰治が、官権選挙干渉糾弾・金権横暴政治撲滅・普通選挙宣伝のための大演説会開催(開明座)を仙台警察署が中止・解散を命じる / 抗議の大会も普通選挙促進示威提灯行列も治安警察法によって、中止・解散させられる
* 1920年(T9)6月、普選促進・現内閣糾弾県民大会(仙台座) / 聴衆2000人余 / 地方代表も参加し、運動を全県下に拡大するため、名称を普通選挙促進期成同盟会と改称(会長に村上亀一郎) / 普選実現まで運動は続けられた
* 1920年(T9)8月、青年自由革新党結成(仙台普選同盟会の中心メンバーの三浦端・長谷川陸郎や百数十名) / 五城館で発会式、九項目の綱領を確定(満20歳以上の男子に一律に選挙権、婦人参政権の理を認め実現を期す、営業自由の原理、八時間労働制、治安警察法第17条撤廃、司法省廃止し裁判権の独立、陪審制度確立、官僚思想打破、財閥学閥を排撃)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P500~503「普選運動のころ」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P501(大正14年、普選案の帝国議会通過を祝う提灯行列)
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市民利用施設 |
(3)コミュニティーセンター |
1975年(S50)~ |
・ およそ300~500㎡規模、主に集会施設、和室、図書室など
・ 地区住民活動の場で建設段階から市民参加で施設内容を決め、運営管理も住民組織が自主的に行う(住民団体代表など40~80名の市民委員会を設置し、実際の運営は、委員会で選ばれた運営委員会が行う
* 1975年(S50)、上野山コミュニティーセンター(上野山市民の家)、若林コミュニティーセンター(若林会館)開館
・1996年(H8)7月現在、市内のコミュニティーセンターは48か所
<参照> 「コミュニティーセンター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「コミュニティーセンター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470(上野山コミュニティーセンターの上野山市民まつり)
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市民利用施設 |
(4)町内集会所 |
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・ ほぼ町内会単位で、集会所の新築、増改築、修繕費は、町内会ないし連合町内会に一部補助金を交付
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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市民利用施設 |
4区分 |
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(1)~(3)は、市が計画的に設置し、(4)は設置の補助など
管理運営は、財団法人仙台市建築公社に委託されているが、その地域の各種団体代表による運営協議会が結成され、運営に対する住民参加の道が用意されている
(1)全市的および行政区域的(全市を5区に区分)
・ 市民会館、市体育館、婦人文化センターなど
(2)1~2の中学校区の地域対象の地域施設(中規模施設)
・ 地区市民センター ・ 公民館など
(3)単位は、小学校区程度の地域
・ コミュニティーセンター
(4)単位町内会程度の地域
・ 町内会集会所など
<参照> 仙台市の公共施設一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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市民利用施設 |
(2)地区市民センター |
1972年(S47)~ |
・ およそ1500㎡程度の、集会施設、体育施設(会議室、和室、体育館、遊戯室、娯楽室、図書室など)がある多目的施設
・ 公民館、保健センターと併設の場合もある
* 1972年(S47)、鶴ケ谷市民センター、東部市民センター建設
・ 1996年(H8)7月現在、市内に50館
<参照> 「市民センター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「仙台市市民センター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469(鶴ケ谷市民センターの利用案内)
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青年団 |
女子青年団 |
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<未婚女性の組織化>
・ 明治末期~大正期、全国的に「処女会」や「女子青年会」に組織化
* 1927年(S2)、処女会が、大日本連合女子青年団(全国的統一組織)に発展し、女子青年団に編成替え推進
・ 女子青年団は、男性の学校長や教員が主導する形が多い
・ 宮城県女子青年団、「郷土婦人のかがみ」編纂刊行(過去に褒賞された県下の庶民女性たち中心に235人を「婦女の鑑」として讃え紹介、登場女性は大部分が、貧窮生活の中で老親や夫、兄弟を扶養し、あるいは彼らの看護・介護に粉骨砕身の苦労を続けた姿を紹介、当時は日露戦争、第一次世界大戦を経て、経済恐慌や凶作が続き、家が崩壊の危機に瀕していた時代。女子青年団は主婦予備軍である未婚女性たちに、自己犠牲と献身によって家族を支えることを婦徳として教える修養の場として大きな意味を持っていた。
* 1933年(S8)以降、市内の各尋常小学校を拠点に、単位女子青年団の結成が進む
・ 1936年(S11)には東二番丁女子青年団をはじめとして16の単位組織が結成されており、これらを統合して仙台市連合女子青年団を組織(総数2029人)
・ 活動は、建国祭への参加、愛国婦人会と共同で婦人報国祭の開催など教化的事業、ラジオ体操・遠足など集団行動訓練、神社の境内清掃や生活改善講習会などの社会的事業、編み物・漬物講習会など
<戦時下の女子青年団>
* 1939年(S14)、仙台市連合女子青年団が仙台市女子青年団と名称変更
・ 活動は、従来の講習会・遠足・建学などのレクリエーション的行事を自粛
・ 教養部(国籍調査・合同訓練・団報発行など)、奉仕部(勤労奉仕・集団勤労などの公共的活動)を新設
<女子青年義勇隊>
・ 公共的精神を涵養し婦道を発揚させるという目的のもとに女子青年義勇隊も結成
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455、P457
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愛国婦人会 |
宮城支部創設 |
1901年(M34) |
愛国婦人会は、1901年(M34)に軍事援護と社会奉仕、報国運動を目的に、内務省・陸軍省の後援を得て結成された半官制の全国組織(「仙台市史 特別編4 市民生活」P454)
* 1901年(M34)12月12日、宮城支部創設、事務所を日本赤十字社宮城支部内に併置 / 初代支部長は、県知事夫人の小野田安子 / 1904年(M37)の日露戦争勃発で、第二師団所在地として軍事援助事業に動員され、これを通して愛国婦人会の組織が大きく拡充(会員数:創立当初は全県下で100余名→1905年に1万4000余名)
* 1904年(M37)1月6日、愛国婦人会宮城支部は、日本赤十字社篤志看護婦人会など5つの民間団体と合同で、宮城県連合婦人会を結成 / 第二師団への衣類寄贈や出征軍人家族、戦病死者の慰問、寄付金募集などを開始
* 1931年(S6)12月14日、宮城支部主催「満蒙婦人公演会」開催
* 1937年(S12)の市内会員数、1万4882人
* 1938年(S13)、小学校通学区域ごとに支部の分会 / 1939年(S14)に各分会の連絡統制のために仙台市連合分会を組織
* 1939年(S14)3月6日、愛国婦人会宮城支部に於て、婦人報国の赤誠を宣揚す
* 1941年(S16)4月1日、愛国婦人会仙台市連合会、市役所内に事務所を設ける
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P454、P456/「重訂 宮城県郷土史年表」P323、P467/「仙台市史 年表」P91、P92/「市史10年表」P277、P301
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455(愛国婦人会秋保村分会の旗、カラー)
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青年団 |
青年団結成 |
戦前、戦後 |
* 1908年(M41)~1909年(M42)、宮城県青年団体規定準則に基づき、宮城郡に52団体、名取郡に20団体の青年団が結成される
* 1939年(S14)、大日本青年団に改組
* 1941年(S16)、大日本青少年団に改組されるにつれ戦時色が強まる
* 1945年(S20)、戦時教育令によって、本土決戦に備える「大日本学徒隊」戦士とされた
<戦後>
* 1946年(S21)、仙台市男女青年団連合会発足(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
* 1947年(S22)2月11日、宮城県連合青年団結成(各郡市青年団加盟)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1950年(S25)、宮城県青年団解散と新青年団の再発足 / 数年間は参加人数も増え、共同学習、生活記録運動、体育・文化両面にわたる各種青年大会など多彩な運動が、経済復興や民主化の社会的な空気の中で、生き生きとした活動を生み出した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
* 1952年(S27)4月13日、宮城県連合青少年団発足(「重訂 宮城県郷土史年表」P555) / 「仙台市史10 年表」P328では、連合青年団
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P452/「仙台市史 年表」P94/「重訂 宮城県郷土史年表」P516、P555/「仙台市史10 年表」P328
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実業補習学校 |
仙台補習学校 |
1915年(T4) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451>
1893年(M26)から、小学校のみの義務教育を終えるが、あるいはしばしばそれも家庭の事情によって満足に履修できず、社会に出ることが多かった青年たちに、国家の富国強兵の方針に応じて職業教育や一般補習教育を施す必要が唱えられ、実業補習学校の制度が実現した。農村ではかなりの普及をみたが、仙台補習学校が発足するのは遅れて1915年(T4)のことである。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451
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子ども会など(子供の団体) |
昭和戦後期 |
1945年(S20)~1980年(S55) |
<敗戦後、教育の転換>
・ アメリカ教育使節団の指導で学校教育が一変 / 教師中心の指導方法から児童生徒中心の指導方法へ / 自分の選択した学習の目標で、真実に興味と関心を満足させる自主的な学習を育てる / 自由な雰囲気の中で、自分の能力を発揮できる個性的な教育 / 自己の中に眠っている可能性を引き出すための教育
・ 高学年児童は、1949年(S24)頃から、クラブ的な組織に自由に参加(読書・音楽・文芸・手芸・珠算・書道・絵画など)
・ グループ学習の採用
* 1946年(S21)4月、仙台児童倶楽部復活(第1回童話・童謡会) / 1949年(S24)頃まで盛ん(S24は毎月開催)
* 1947年(S22)、ボーイスカウト復活
* 1948年(S23)、青少年赤十字団、かなりの学校が参加
* 1949年(S24)、ガールスカウト、塩釜で県内初の結成
* 1950年(S25)1月、仙台児童劇団結成(毎日曜に稽古 / 毎月2・3回、NHKや東北放送のラジオ放送に出演(事実上NHKの嘱託団体でNHK出演では「仙台放送子ども会」 / 公演15回を最後に休団)
* 1954年(S29)ころ、仙台ユネスコ学校開始 / 小学生対象で、美術・社会・理科・科学工作の4クラブに分け学習 / 毎週土曜の3~4時に創作、実物教育、個性尊重を目的に教育
* 1955年(S30)、各地域に子供会(地域全児童対象に班編成で活動)
* 1964年(S39)、スポーツ少年団県本部、発足
* 1965年(S40)、日本海洋少年団県連盟、結成
* 1973年(S48)、「宮城県青年の船」始まる
* 1980年(S55)、「宮城県少年の船」始まる(宮城県青年の船乗船経験者の友の会の主催事業で、県内小学生高学年が対象)
・ このほかに、緑の少年団や郵便友の会など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445~447
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P447(ボーイスカウト連盟宮城第39団発団式 / 昭和51年、緑の少年団大会)
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子ども会など(子供の団体) |
日中戦争・太平洋戦争期 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
☆ 戦争拡大に伴い、子供会の目的が変化し、戦時色が前面に
* 1937年(S12)ころから、子供会が戦傷者慰問
* 1941年(S16)、既存少年団は、戦時体制強化のため1941年(S16)に大日本青少年団に統合され解散
・ 1943年(S17)、図書館童話会のプログラム / 朗読「錦のみはた」、童謡「潜水艦」、童話「地底戦車兵の冒険」など
・ 開催された会のタイトル:「建国こども祭」「愛国童話大会」「興亜童話大会」「戦捷祝賀童話大会」「出征家族児童慰安会」「大東亜戦争記念童話大会」など
・ 東六番丁国民学校少年団(児童を軍隊組織と同様のものに編成)
本団(団長・副団長は、校長・教頭、役員は教職員が分担)
団員(三年生以上の全児童 / 二年生以下を準団員)
学年ごとに三年隊、四年隊・・・と呼び、
学年を男女各一中隊、学級を一小隊に編成
一・二年生を準団員とし、幼年隊と呼ぶ
分団を町内会単位におき、分団内に40人位で班、
10人以内を標準に組に分け、
いずれも各学年にわたり異なった学年の児童で組織
分団に分団長、班に班長、組に組長を置く
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444~445
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(昭和16年 少国民新聞付録「こども隣組双六」)
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子ども会など(子供の団体) |
戦前期 |
大正~昭和初期 |
☆ 大正末期から戦後にかけての子供対象の組織(団体)について、「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~447「子供の組織」に記載あり
・ 1914年(T3)8月、片平丁尋常小学校が夏期林間教養所を向山に開設
・ 1921年(T10)、「おてんとさん社」、仙台で結成(大正7年児童雑誌「赤い鳥」発行で起こった児童芸術運動に共鳴)
・ 1923年(T12)~1931年(S6)、仙台児童倶楽部(県の図書館内)結成(毎月、童謡・童話会・子供むけ音楽会・自由画展覧会など開催)
・ 1923年(T12)前後に結成されたのは、北星少年少女会、空堀丁のヤマバトの家、新寺小路東秀院内に宮城野コドモ会、荒町に皎林寺コドモ会、東二番丁に仙教婦人会少年部、南町のたんぽぽコドモ会、川内山屋敷の山屋敷童謡童話会、鈎取尋常小学校分教場の会
・ 1923年(T12)8月3日~10日、東一番丁教会が桂島で桂島海浜学校開催 / 1940年(S15)まで継続して開催
・ 1924年(T13)4月、「七ツの子供社」(影絵・童謡劇・童話劇などで組織) / 1927年(S2)8月上旬に伊勢堂山で夏期林間学校に58名児童参加、10年間続くが、日中戦争で中止
・ 1926年(T15)4月3日、コドモ花祭り(出演団体は、北稜日曜童園、皎林寺日曜教林、仙台仏教日曜会、東本願寺日曜学校、仏教婦人会少女部、龍宝寺コドモ会、宮城野コドモ会、西本願寺日曜学校など)
<ボーイスカウト>
・ 1922年(T11)、少年赤十字団、発足
・ 1924年(T13)、少年赤十字団宮城県支部ができ、最初に榴岡小学校が加盟
・ 1924年(T13)、宮城少年団結成され、仙台ではYMCA少年団、仙台少年団、仙台中央少年団が加盟 / これらの団体を中心に少年団宮城連盟結成(1941年に戦時体制強化のため、大日本青少年団に統合され、解散)
<昭和初期>
・ 1928年(S3)、NHK仙台放送局、ラジオ放送開始 / 「子供の時間」が組まれ、各種の児童文化団体が成立 / 上杉山通の児童中心にNHK子供会、仙台児童学芸協会(児童劇・童話会劇など子供の劇場グループ)
・ 1928年(S3)、舞踏研究会「お人形社」(5・6歳以上の子ども対象)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~444
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自動車など発売年 |
戦後 |
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* 1951年(S26)、本田技研、4サイクル・オートバイ
* 1952年(S27)、本田技研、原付自転車
* 1952年(S27)、鈴木式織機(のちのスズキ自働車)、バイクエンジン車
* 1955年(S30)、トヨタ、トヨペット・クラウン(100万円以上)
* 1957年(S32)、ダイハツ工業、軽三輪トラック(3000キロ積) / 農家が農事用として購入はじめる
* 1957年(S32)、トヨタ、小型乗用車「コロナ」
* 1959年(S34)、富士精密(にちのプリンス自動車)、グロリア
* 1959年(S34)、富士重工、軽自動車「スバル360セダン」(通称、テントウムシ)
* 1959年(S34)、日産自動車、ブルーバード
*************************
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~417「三種の神器」には、乗用車のほか、各種の家庭電化製品の発売時期の記載、昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率(グラフ)あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~416
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P416(昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率グラフ)
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧事情悪化で米配給減 |
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☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
☆ 戦中戦後の「深刻な食糧難」については、【「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248】に記述あり
・ 戦後、米は大人1日2合3勺配給予定だったが、遅配欠配でヤミに頼らざるを得ず / 仙台では米配給が2週間も遅れ、コメの代わりにトウモロコシや砂糖だったこともあった / 食糧難は戦後の方がひどかった
<主食配給減や欠配>
* 1946年(S21)5月中旬、宮城県でも主食配給量を2.1合→1.8合に減量/しかし、欠配日数が増加し栄養失調者が続出、職場では欠勤者増加の一方だった
<米よこせメーデー>
* 食糧メーデー、東京で5月19日
* 食糧メーデー、仙台では5月31日/木町、榴ヶ岡、南材木町、東北学院専門部の4カ所に、革新政党、労働組合など18団体代表や市民が参加、空腹をこらえて、“米よこせ”と気勢をあげた
<色の黒い代用食パン>
* 1946年(S21)6月半ばから、危機突破用として、代替パンを月に1人当たり1~3個づつ主食がわりに配給/小麦粉5割、こぬか2.5割、雑粉2.5割で、少し塩味がつけてあり、1個(36匁)36銭、色の黒い丸形のパンだった
<主婦たちが嘆願書>
アメリカの放出物資も続いたが深刻さ解消にはならず、市内連坊地区の七つの公会の主婦たち代表8人が県庁に押しかけ嘆願書を千葉三郎知事に提出
「手持ち金はなくなりタンスの中もカラになりました。児童の犯罪が増え体力が低下してきました。ヤミ商人が増え買出し時間や燃料・調理時間の空費で教育ができません。思想の悪化で家庭の円満さえ懸念されます。以上のように私たちは、不安と暗黒の中に追われています。これはただただ主食の不足によるものです。なにとぞ主食配給の即時実施をお願いします・・・・」
<昭和22年正月の配給>
「もち米1人7合、清酒1世帯5合、ビール1世帯1本、サッカリン各家庭1個、かずのこ見込みなし・・・」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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「新・目で見る仙台の歴史」P174(食糧難で労働者の提灯デモ)/同P170(食糧難で食物支給される人たち)/同P172(中田町の青年団、食糧難に市民に野菜類を贈る)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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民生委員/児童委員 |
制度発足 |
1946年(S21)/1947年(S22) |
<前史>
* 1925年(T14)、宮城県で、奉仕委員制度開始(東北で4番目)
* 1928年(S3)、仙台市社会事業協会設立
* 1932年(S7)、救護法、実施
/ 仙台市内では奉仕委員の市内一区一名制
* 1936年(S11)4月1日、方面委員と改称 / 同年11月3日、方面委員令公布
<戦後>
・ 荒廃した都市・農村に大量の戦災者、失業者、復員軍人、引揚者など多数の生活困窮者出現
・ GHQ、「救済並に福祉計画に関する覚書」 / 生活困窮者の救済は国家の責任など4原則を指令
* 1946年(S21)10月1日、(旧)生活保護法施行/民生委員令施行 / 1948年(S23)7月29日、民生委員法制定
* 1947年(S22)12月12日、児童福祉法公布
* 1950年(S25)5月、生活保護法(全面改正) / 国民に生活保護の請求権を認め、不服申立制度を規定 / 公務員である社会福祉主事の全国配置きまる
「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403「民生委員の始まり」に、民生委員制度の前史にあたる、戦前の方面委員(奉仕委員)以来の戦前戦後の制度の変遷、趣旨など記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P401に表「宮城県における方面カード登録件数と奉仕委員の割合」、P403(S46、民生委員児童委員大会)
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衛戍病院(陸軍病院) |
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1871年(M4)/1890年(M23)/1936年(S11) |
資料によって、改称年がことなっている
【「重訂 宮城県郷土史年表」P250】
* 1976年(M9)11月、仙台鎮台病院、仙台に創設
* 1981年(M14)3月、仙台陸軍病院と改称
* 1898年(M21)5月、仙台衛戍病院
* 1940年(S15)、仙台第一陸軍病院と改称
【Wikipedia「国立病院機構仙台医療センター」】
* 1871年(M4)、仙台鎮台病院設置(仙台城二の丸北西の亀岡御殿辺り)
* 1877年(M10)12月、外記丁の定禅寺跡地に移転
* 1890年(M23)、仙台衛戍病院に改称、のち、仙台陸軍病院に改称。
<衛戍病院 → 陸軍病院>
* 1936年(S11)、仙台陸軍病院に改称
(編者注) 東京などの衛戍病院は、昭和11年に陸軍病院に改称しているので、仙台衛戍病院も同時と思われる
* 1937年(S12)、日中戦争が始まった昭和12年、仙台第一陸軍病院と改称、負傷者が急増したので、宮城野原に臨時の分院が建てられました。それだけでは病院が足りず、現大崎市、川渡ホテルを譲りうけ、鳴子臨時病院を開設して対応しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P37~38)
* 1938年(S13)4月16日、朝香宮鳩彦殿下、仙台陸軍病院慰問(「仙台市史10 年表」P293)
* 1945年(S20)7月10日、仙台陸軍病院、仙台空襲で焼失
<陸軍病院宮城野原分院 → 仙台第一陸軍病院>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院宮城野分院、開設 / 昭和12年日中戦争勃発により激増した傷病兵を収容 / 宮城野原練兵場の片隅に応急的に建設 /(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
* 1939年(S14)1月12日、仙台陸軍病院榴ケ岡分院開設(「仙台市史10」年表P295)
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<地図では>
・「改正仙臺市明細全圖](明治22年5月印刷)では、「陸軍病院」
・「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)と、「最新仙臺市全地圖」(昭和11年5月現在 仙臺市土木課)では「衛戍病院」
* 1945年(S20)、終戦とともに厚生省に移管され、国立仙台病院となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
→ 以下、大項目「国立仙台病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「重訂 宮城県郷土史年表」P250/「仙台市史10 年表」P293、P295/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P37~38/「改正仙臺市明細全圖」(明治22年5月印刷)/「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)
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仙台衛戍病院は、53-18、「市民の戦後史(仙台市)」P21/仙台衛戍病院伝染病棟は、99-158/仙台陸軍病院は、53-122/仙台陸軍病院宮城野原分院は、53-118
<関連映像> 98-111(仙台の兵営配置図 明治44年)と98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、衛戍病院の場所がわかる
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医療機関 |
東北労災病院 |
1954年(S29) |
財団法人労災協会東北労災病院として、台原で発足
・ 労働災害による負傷に対する診療
・ 特に、脊髄損傷に対する診療と機能回復の指導で有数
* 1953年(S28)12月15日、「東北労災病院」落成式
* 1954年(S29)1月25日、開院、診療開始
* 1957年(S32)7月、労働福祉事業団の経営となる
* 1965年(S40)7月、労働者災害補償保険リハビリテーション施設として50床設置、作業療法棟、回復棟完成
* 1983年(S58)2月、新病棟落成式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P733~734/「重訂 宮城県郷土史年表」P569/東北労災病院HP/Wikipedia「東北労災病院」/「続・ 宮城県郷土史年表」P158
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医療機関 |
仙台社会保険病院 |
1952年(S27) |
結核対策として全国社会保険連合会が設置
* 1952年(S27)8月、堤町に開院(結核病床129)
* 1955年(S30)過ぎると、患者急速に減少
* 1960年(S35)、一般病床も併置
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P733
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医療機関 |
宮城第一・第二病院 |
1956年(S31)/1946年(S21) |
ともに、社会保険連合会による病院
<宮城第一病院>
* 1956年(S31)1月、名掛丁に開院(現地にあった個人病院を買収、10床)
* 1959年(S34)に、150床
* 1960年(S35)、病棟新築(地下1階、地上4階、200床)
* 1963年(S38)、第2病棟(地下1階、地上5階)完成
<宮城第二病院>
* 1946年(S21)、長町西浦に開院(20床)
* 1961年(S36)?、病棟新築(鉄筋コンクリート5階建て、200床)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P732~733
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医療機関 |
宮城野病院 |
1951年(S26)?~2016年(H28) |
国家公務員共済組合連合会が運営 / 戦後、国家公務員の結核患者治療対策のため設立(市内原町小田原高平)
* 1953年(S28)3月、開院(148床)と共に満床
* 増床を続け。1954年(S29)には、284床となる
* 1955年(S30)頃を境に結核患者目立って減少、一部を一般病床に転用
* 1968年(S43)ころ、新病棟建設(鉄筋コンクリート6階建)
その後、東北公済病院の分院となり、2016年(H28)3月末で閉院し、東北公済病院に移転統合
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P732
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医療機関 |
東北公済病院 |
1951年(S26)~ |
国家公務員共済組合連合会が運営
* 1951年(S26)3月、開設(5科、40床 / 元櫓丁、配炭公団の建物を買収)
* 1958年(S33)7月、病棟新築(地下1階、地上6階) / 9科、200床 / 妊婦ドック、小児ドック、未熟児センターなど特色ある施設や相談所を開設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P731~732
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国立仙台病院 |
開院 |
1945年(S20) |
<前身>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院の宮城野原臨時分院(宮城野分院?)、発足
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所(宮城野原)に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<戦後は、国立病院へ>
* 1945年(S20)12月、旧陸軍省から厚生省に移管され国立仙台病院となる / 木造で、内科、外科など5科、500床
* 1952年(S27)から、本格的な病棟建設に着手
* 1954年(S29)11月、高血圧センター開設
* 1957年(S32)、総合病院となる
* 1958年(S33)1月、心臓診療センター開設
* 1958年(S33)10月25日、「国立仙台病院」(原町南目)完工式(着工は、S26年12月)
* 1959年(S34)1月1日、ガンセンターを設置
* 1960年(S35)1月、小児診療センター開設 / 2月、小児マヒ治療用「鉄の肺」
* 1965年(S40)3月、救急病院指定
* 1967年(S42)7月、脳神経センター開設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P728~729/「重訂 宮城県郷土史年表」P590
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P729/「目で見る仙台の歴史」P192
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医療機関 |
仙台逓信診療所/仙台逓信病院 |
1922年(T11)/1942年(S17) |
* 1922年(T11)、10月1日「仙台逓信診療所」が東二番丁に設置される
* 1942年(S17)、「仙台逓信病院」と改称
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 年表」P101
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医療機関 |
仙台鉄道病院 |
1921年(T10) |
* 1919年(T8)12月、仙台鉄道管理局開局に伴い、鉄道治療所が清水小路に開所 / 目的は、公傷患者の治療
* 1921年(T10)、仙台鉄道病院
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で全焼
* 1948年(S23)12月、再建
* 1950年(S25)、看護婦養成開始(仙台鉄道病院看護婦養成所認可)
・ 国鉄民営化にともない「JR仙台病院」となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398
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医療機関 |
光ヶ丘スペルマン病院 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)9月、開院(カトリック仙台司教直属の病院、財団法人愛世会経営 原町小田原) / 当初は、結核患者中心、その後は一般患者の診療も
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398
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仙台赤十字病院 |
開設/改称/移転 |
1924年(T13)/1940年(S15)/1943年(S18)/1945年(S20)/1956年(S31)/1982年(S57 |
* 1924年(T13)10月18日、財団法人斎藤報恩会(桃生郡河南町の斎藤善右衛門)の寄付金により、「日本赤十字社宮城支部常設救護所(診療所)」が北一番丁に開設される(内科・外科・小児科で、対象は救急患者のみ)
* 1940年(S15)1月、日赤宮城支部仙台病院と改称(一般患者も受入れ)
* 1941年(S16)、看護婦養成所開設
* 1943年(S18)1月、「仙台赤十字病院」と改称
* 1945年(S20)3月、横須賀海軍仙台赤十字病院として、海軍傷病兵300人収容 / 一般患者は外来のみとなる
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で全焼、患者12人など18人死亡
* 空襲後移転先 愛子国民学校→青根温泉内の分院→S20年10月、片倉製糸工場(東八番丁)の一部借受け、一般患者診療開始(病床115)
* 1954年(S29)11月3日、病院建設起工式(清水小路)
* 1956年(S31)9月25日、県立病院を併置して清水小路に新築移転完了/ S36年10月、併設の県立仙台病院廃止
* 1982年(S57)3月20日、新病院が八木山本町2丁目に竣工、翌月14日診療開始
* 1982年(S57)4月14日、併設の東北初、「小児医療センター」新病棟完成
・ 戦時中は、応召看護婦101人
・ 災害地への出動、無医村、開拓地への巡回診療、戦後、中国や朝鮮からの帰還者の添い乗り診療なども実施
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P397/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P730~731/「仙台市史 年表」P102、P119、P132/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「続・ 宮城県郷土史年表」P145
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医療機関 |
仙台区立施薬院 |
1883年(M16) |
* 1883年(M16)、仙台区立施薬院(貧民施庵所)開設 / 病院に行けない貧しい人々のために、開業医の鈴木亦人らの尽力で、櫓丁の東京庵跡に建設 / 仙台区で発行する施療券を持った患者の治療が目的 / 医者はすべて無報酬で交代で診療
* 1885年(M18)6月、仙台区会の決議で廃止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P397
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医療機関 |
西多賀病院 |
1934年(S9)/1947年(S22) |
<前身>
* 1934年(S9)10月、仙台市が結核専門診療所、仙台市立西多賀病院を設置
* 1943年(S18)4月、日本医療団に統合され、日本医療団西多賀病院となる
<国立へ>
* 1947年(S22)4月、厚生省に移管、国立西多賀病院となる * 1954年(S29)、新病棟完成 / その後、玉浦療養所を統合
結核患者の減少と共に、カリエス、心身障碍児収容施設へ
* 1957年(S32)4月、玉浦診療所内にベッドスクール開設
* 1967年(S42)3月、重症心身障碍児収容
* 1968年(S43)1月、進行性筋萎縮症患者収容
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P396/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P729~730
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P730に、西多賀ベッドスクールの卒業式写真/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年3月、西多賀ベッドスクール誕生)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P396(西多賀療養所療養所兼教室)
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医療機関 |
仙台厚生病院 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)、財団法人生命保険厚生会が結核病院として仙台厚生病院を開設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P396
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医療機関 |
県立愛宕病院 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)、性病治療のため、県立愛宕病院、設立
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P396
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医療機関 |
避病院/仙台市伝染病院 |
1881年(M14)/1895年(M28)/1899年(M32) |
* 1881年(M14)、仙台市に腸チフス流行、外記丁の宿舎にチフス患者を収容する避病院開設
* 1882年(M15)、コレラ大流行し、台原にも避病院開設
* 1890年(M23)、コレラ発生し、北山称覚時に患者を隔離
* 1895年(M28)、日清戦争帰還兵が持ち込んだコレラが全国的に流行、仙台でもコレラ罹患した兵隊を小田原避病院(宮城野原につらなる原野の一角に避病院設置)に収容、軍では鷺ヶ森にも避病院つくり、善応寺、仙岳院も避病院として使用
* 1899年(M32)4月1日、仙台市、東九番丁の孝勝寺裏の伊達家の土地1800坪に「仙台市避病院」を整備し患者を収容 / のち、1922年(T11)に「仙台市伝染病院」と改称
→ 項目「医療機関」の小項目「仙台市立榴ケ岡病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P395/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717/「仙台市史 年表」P90
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医療機関 |
宮城病院 |
1879年(M12) |
<施薬所→共立社病院→宮城病院→宮城医学校附属病院→再び宮城病院→東北帝国大学医学専門部附属医院>
* 1869年(M2)、仙台藩によって創設された医学校が、旧町奉行役宅に移り「施薬所」と称し、医者の養成と診療にあたる / 1971年(M4)7月、廃藩置県とともに廃止
* 1972年(M5)5月、中田斉と石田真、宮城県初の病院「共立社病院」を南町に創設(以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P394)
* 1879年(M12)5月1日、「共立社病院」が宮城県に移管される。
* この後に国分町に移転し、
* 1879年(M12)7月、病院を「宮城病院」、附属学舎を「宮城病院附属医学校」と改称 / コレラなど伝染病予防と治療に注力、県内の開業医対象に各地で医学講習会実施
* 1882年(M15)7月、宮城病院附属医学校が「宮城医学校」と改称 / 内科・外科・眼科
* 1882年(M15)9月、東二番丁に移転
* 1884年(M17)7月1日、宮城病院が「宮城医学校附属病院」となる
* このあとに元貞坂に移転し1884年(M17)9月29日に開院
* 1887年(M20)3月、宮城医学校廃止(文部省に移管)
* 1887年(M20)4月1日、附属病院は、再び「宮城病院」として開院(県が経営) / 旧制二高医学部の臨床実習場を兼ねる
* 1911年(M44)4月6日、宮城病院が北4番丁に移転(本館新築)、
* 1913年(T2)4月1日、宮城病院、東北帝国大学に委譲され、「東北帝国大学医学専門部附属医院」となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P394~395/「仙台市史 年表」P83、P84、P85、P86、P95、P96
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敗戦後の諸相・仙台 |
赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯 |
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【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた
<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた
<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた
* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた
【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159
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新常盤町(遊郭) |
(2)移転開業 |
1894年(M27) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
1892年(M25)、192人・21軒
1900年(M33)、325人・32軒
1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)
<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%
* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391
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目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿)
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勧工場・商館 |
仙台商館/仙台勧工場/東奥商館/改良勧工場/停車場勧工場/伊沢勧工場/共同商館/博品館/名掛丁勧工場/仙台物産陳列所/仙台織物陳 |
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* 1890年(M23)11月13日、「仙台商館」、東一番丁・定禅寺通り突き当りに開館
* 1890年(M23)11月21日、「仙台勧工場」、虎屋横丁に開場
* 1891年(M24)6月13日、「東奥商館」、新伝馬町に開設
* 1891年(M24)10月5日、「改良勧工場」、東一番丁に開設
* 1891年(M24)?または1895年(M28)?12月、「停車場勧工場」、仙台駅前(北向かい)に開設
* 1901年(M34)8月、「伊沢勧工場」(伊沢商館)、大町4丁目と東一番丁の交差点に開設(木造3階建で近代的な陳列法) / 1925年(T14)6月30日に焼失(「明治の洋風建築~宮城県~」P112)
* 1908年(M41)5月、「共同商館」、新伝馬町に開設
* 1909年(M42)5月、「博品館」、東一番丁に開設
(明治15年~42年の間に、東一番丁に4軒の勧工場ができた)
<「番丁詳伝」P38~39より>
・ このほかに、名掛丁勧工場、仙台物産陳列所、仙台織物陳列所(国分町)
・ 「番丁詳伝」P39に、「勧工場一覧表」
・ 火災にあうことも多く、明治40年には「伊沢勧工場」と「駅前陳列場」のほかは見るべき勧工場はない有様
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P37~38/「仙台市史 年表」P87/「明治の洋風建築~宮城県~」P112/「番丁詳伝」P38~39
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勧工場・商館 |
芭蕉辻勧業場 → 芭蕉の辻商館 |
1882年(M15)/1891年(M24)~1900年(M33) |
<芭蕉辻勧業場>
* 1882年(M15)7月16日、大町四丁目13に開設
* 1890年(M23)1月14日、火災焼失
<芭蕉の辻商館>
* 1891年(M24)9月19日、芭蕉辻勧業場が「芭蕉の辻商館」と改称して再建
* 1900年(M33)4月、焼失
* 1901年(M34)1月、再建中に再度出火し閉鎖
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P36~37/「仙台市史 年表」P84、P87/「古写真にみる仙台の建築」P122
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P37(芭蕉の辻商館、同火災図)
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勧工場・商館 |
宮城勧工場 → 東一番丁勧工場 |
1881年(M14)/1882年(M15)~1883年(M26) |
勧工場は勧商場ともよばれ、開発者が建物を建て出店者を募って営業させるのもので、明治期に始まったショッピングセンター
* 1881年(M14)7月20日~10月27日、宮城県(松平正直県令布達)が「宮城勧工場」を片平丁公園(のちの桜ケ丘公園)に開設、正札販売が義務づけられた / 閉場後に出店者有志が借受け11月末まで継続 / 12月4日に民設に移行(出店者32人) / 翌年、東一番丁(「都川」跡地)へ移転し、「宮城勧工場」跡地は料亭「梅林」に
* 1882年(M15)10月8日、「東一番丁勧工場」、宮城勧工場を引継いで東一番丁42(旧「都川」跡地)に開設 / 舶来小間物、日本小間物、絹綿織物、陶器、漆器、筆紙墨、靴、帽子、頭飾、埋木細工、鉄瓶、金具など / のち、「第一勧工場」と改称 / 1893年(M26)、閉鎖
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P36/「仙台市史 年表」P84/「番丁詳伝」P38
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仙台市の工業 |
戦後期 |
1945年(S20)秋~1969年(S44)頃 |
☆「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
「敗戦直後の仙台市の工業は、ゴムや金属などの一部を除いて、代表とさるべき業種が見当たらない。朝鮮戦争の特需ブームは、国内経済の復興に寄与することになったが、工業の立遅れていた仙台地域の経済にとって物価高という悪影響の方が強く現れている。
☆「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697の記載項目
<昭和20年代> P665~
・ 1946年(S21)12月の市内工業統計(分野別の工場数、従業員数、出荷額)
・ 1947年(S22)、1948年(S23)の市内地区別工場分布
・ 1948年(S23)当時の主要工場名一覧
・ 県総合3か年計画
・ 1950年(S25)末、市内の工場(工員規模)、500人以上は専売公社工場のみ、200人以上は6工場、市内540の工場は大部分が工員数人(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705)
・ 1954年(S29)、仙台市工場設置奨励条例(既存工場を助成し、中小工場の新設増設を支援)
<昭和30年代> P675~
・ 1960年(S35)4月、専売公社仙台工場(たばこ)完成
・ 1961年(S36)、仙台市工場誘致条例(P670~)
<新産業都市指定> P675~
・ 新産業都市指定にむけた運動
* 1963年(S38)7月、仙台湾地区が、他の12地区と共に新産業都市に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区、新産業都市建設区域に指定
・ 新産都市予定地区内に進出立地した新規工場一覧(S36年~44年に操業開始)
・ 仙台周辺住宅用地造成計画表(計画年次はS39~S45)
・ 工業用水道計画(S50)
<新都市計画> P684~
* 1966年(S41)3月、新都市計画(建設大臣より認可)
この計画は、新産都市・広域行政など時代に即応し、市に隣接した泉町、宮城町、秋保町の一部もエリアとした、20年後の都市づくり総合構想で、工業面では、新産都市計画が進行するにあたって、仙台バイパス沿いに内陸工業地帯を、苦竹に流通センターを配置 / 工業地域は、長町・郡山の市内南部、小田原など東仙台地区、仙台新港につづく市東部の3か所、準工業地域として仙台バイパス沿いに鉄鋼団地・自動車団地・印刷団地 / 流通センターは、卸売団地(卸商センター)、トラックターミナル、倉庫団地など
・ 1966年(S41)の市内工業統計
・ 1969年(S44)年4月現在の主要工場一覧
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P368/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697、P705/「市民の戦後史(仙台市)」P90
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「目で見る仙台の歴史」P192(小田原折沢の専売公社仙台工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(S30年4月、専売公社仙台工場空撮)/同P201(印刷団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P197(印刷・機械金属・自動車の工業団地空撮、カラー)
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仙台育児院 |
開設 |
1906年(M39) |
・ 「明治35年、38年の大凶作のころ、米国婦人フェルプスは凶作地児童の惨状に乗じた誘拐者が多いことを聞き、明治39年2月に孤児8人を引き取り、仙台市北四番丁に東北育児院を開設した」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P359)
・ 「明治39年2月27日、凶作で困窮した根白石(現・泉区内)の児童7人が、東三番丁の新田文右衛門宅に収容された。この日が米国人フェルプス女史創設の「仙台基督教育児院」の誕生日である」(逸見英夫著「仙台はじめて物語」P107)
* 1906年(M39)2月27日、メソジスト教会のフェルプスら、東三番丁に東北育児院を開設
* 同年11月3日に、仙台育児院と改称
* 1907年(M40)3月に北四番丁に移転
* 1909年(M42)12月、仙台基督教育児院と改称
* 1935年(S10)3月、キリスト教育児院丘の家建つ(小松島に)
* 1978年(S53)4月26日、育児院による小松島子ども療養センター、オープン
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P359/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P107/「仙台市史 年表」P93、P94/「仙台年表」P206/「続・ 宮城県郷土史年表」P80
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P425(M41年ころ、キリスト教育児院)
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冷害・凶作 |
明治38年(その2) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P358の「出稼ぎと身売り」より
<凶作、農村の窮乏>
・ 「明治35年の凶作の痛手を回復しえないまま、明治38年に、天明・天保以来の大凶荒と言われた凶作が東北地方を襲い、特に宮城・福島・岩手の3県で大きな被害を出した。米収穫高平年に比べ、福島は24%、宮城14%、岩手34%」
・ (明治三十八年宮城県凶荒誌)「盛夏尚綿布を着け気候の異常に一種の畏怖の念懐きて憂慮せしもの、九月下旬に至りては至る処収穫皆無を唱え、米価の騰貴甚だしき加ふると共に、窮民の惨状は見るに忍びざるものありき」
・ 下級農民の多くは、米の収穫どころか、労働の途も絶たれ、飢餓寸前に追い込まれるという状態であった / 特に山間の村落の住民は、木の実を拾い草の根を掘って食糧とするが、積雪の季節に入るとそれもままならず、救いを待つしかなかったのである
・ 中産農家の土地家屋に身分不相応の負債が生じると、移住者として郷里を捨てる動きがみられる。 / 働く場を求めて、宮城県内から県外への移住件数が明治38年に5220人、39年に1万3312人、40年に1万6212人(3年間計、3万4744人) / 仙台市でも、65人、315人、837人
・ M35年の仙台市内貧民調査表
<救済事業>は、耕地整理や土木工事の執行、里道改修、ため池修繕、用水路改修、上水工事および廃沼田地開墾、町有林開墾、河川改修、堤防修繕、道路改修
<児童救済>では、岡山孤児院石井十次来仙し養育困難児143人を一時引き取りや、メソジスト教会のフェルプスらが「東北育児院」を開設(同年11月3日に、仙台育児院と改称)
<身売り>
・ 凶作地に於ては、婦人を欺き連れ出し、あるいは本人が知らないうちに職工や売春婦にされ、不本意な労働を強いられるということが起きている
・ 日露戦争下での経済不況は賃金の低落が著しく(中略)職を失った場合には、生活の困窮は目も当てられないというありさまがこのような事態をも生じさせたといえる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P358~359
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東北振興/農村更生 |
4 |
1937年(S12)~1940年(S15) |
<日中戦争開始 1937年(S12)7月7日>
戦時体制への移行とともに、東北振興計画自体が、「広義国防」の理念のもとに戦時経済の中に編成替えされてしまい、また財政支出も大きく削減されて、内閣東北局と東北振興株式会社と東北振興電力株式会社の2つの国策会社が残ったにすぎなかった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357)
* 1937年(S12)9月、NHK仙台、「東北振興講座」放送(17回シリーズ)
* 1937年(S12)12月、第二次農山漁村経済更生事業を実施(経済の安定と主食の増産を図る)
* 1938年(S13)3月31日、東北振興調査会官制廃止
* 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462) →<編者注>予定したがS14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10)
* 1939年(S14)6月1日、東北6県知事会議、東北振興問題につき協議
* 1939年(S14)6月6日、東北振興促進連合創立
* 1940年(S15)1月17日、仙台市会、東北振興促進役員会、工事誘致、区画整理組合の結成、釜房ダム建設を協議
* 1940年(S15)6月、東北振興連絡協議会組織す(6県総務部長、在仙官庁首脳部会議で)
~ 以後、各種年表に関連記事見当たらず ~
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P357/「宮城県百科事典」P754/「仙台市史 年表」P109/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P468/「仙台市史10 年表」P292、P296/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P10
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20-33(昭和12年仙台七夕飾り物で三越の「東北振興」)/ 83-04(昭和12年仙台七夕の飾り物で東北貯蓄銀行の「東北振興丸」)
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東北振興/農村更生 |
3 |
1935年(S10)~1936年(S11) |
* 1934年(S9)10月19日、閣議が東北振興調査会(政府の諮問機関)設置を決定、12月26日公布(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357、P519)
* 1935年(S10)1月10日、東北振興調査会総会(東京)
* 1935年(S10)1月11日、日本学術協会、東北振興考査会(学士会館)
* 1935年(S10)2月14日、東京で東北振興連盟創立
* 1935年(S10)2月15日、東北の凶作地で食糧難が深刻化
* 1935年(S10)5月、内閣に東北振興局(のち、内閣東北局と改称)
* 1935年(S10)7月17日、河北新報社創立40周年事業、「東北振興歌」「東北新民謡」募集
* 1935年(S10)8月、愛国婦人会など、凶作地の子女身売り防止運動はじめる/助けた女子、宮城県152人(支払額11000円)など、新潟含む東北7県の実数掲載(菅家年表P16)
* 1935年(S10)9月、東北振興調査会、特殊会社の必要性を政府に答申
* 1935年(S10)9月17日、仙台市郷倉条例公布
* 1935年(S10)、東北地方は2年連続の冷害(菅家年表P16)
* 1935年(S10)12月1日、東北振興号(河北年鑑)刊行(11年度版も発行)
* 1935年(S10)12月5日、仙台市、恩賜郷倉(おんしごうぐら)を7カ所に設置 / 郷倉は救荒備蓄のための共同倉庫
/ 「恩賜の郷倉」は、更生運動指定町村に、天皇の内帑金(ないどきん)の支出をもって建設された
* 1936年(S11)5月27日、東北興行株式会社法公布、同年10月7日、東北興行株式会社設立(勾当台通り)
* 1936年(S11)10月7日、「東北興業株式会社」が仙台に創設され、産業起こしがスタート
<東北振興第一期総合計画>
・ 1937年以降5年継続の計画策定(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P357、P517~519/「宮城県百科事典」P754/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P16/「仙台市史 年表」P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P447~449、P452、P454~455/「仙台市史10 年表」P285~287
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P519(泉区実沢に残る「恩賜の郷倉」、カラー)
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東北振興/農村更生 |
2 |
1931年(S6)~1934年(S9) |
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4,昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
・欠食児童が増加、青森県上北郡で1300名中700名が欠食
・青森県上北・下北・三戸地方収穫皆無、人身売買が横行
・山形県のある村では、15~24歳の娘467人中110人が売られた
* 1932年(S7)、不況さらに深刻になり、官吏や教員の給料の遅配や減給も生じ、県下には税が納入されず廃村を決議した村もあると新聞などで報じられた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
・ 仙台周辺の農村では、地主の所有する小作地が多くなる(原町で54.1%、岩切46.3%、七郷42.3%など) / 市内の商業資本家たちがこれらの村々の水田を買い、不在地主になっていた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1932年(S7)7月、欠食児童が激増/北海道10899人、青森県6107人、秋田県996人、岩手県3539人、全国で20万人
* 1932年(S7)7月4日、宮城県農村自力更生運動連盟結成(宮城県販売購買組合連合会、産業組合中央会宮城支会など14団体参加)
* 1932年(S7)、小作争議が各地で激化
* 1932年(S7)、農山漁村経済更生事業開始(昭和7年以降、毎年20ケ町村づつを指定して、経済更生特別指導町村となし、農山漁村の経済更生事業を実施す)
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す(8年3月27日、霞目の仙台飛行場竣工、落成式)
* 1933年(S8)、農家は豊作となったが、豊作貧乏に泣く
* 1934年(S9)秋、台風・冷害のため大凶作となる(「仙台市史 年表」P107)
* 1934年(S9)の凶作、米減収率、岩手県56.4%、青森県46.4%、山形県45.9%、宮城県38.3%、福島県33.4%、秋田県25.6%(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
* 1934年(S9)、東北地方大凶作、娘の身売り増加(岩波P11)
* 1934年(S9)10月26日、仙台市、凶作による仙台市内窮民救済のため、市吏員、職員および市立学校職員臨時恤救金拠出規約を制定
* 1934年(S9)、婦女子の出稼ぎ(昭和9年、警視庁管下の調査)、宮城県では1万962人(芸妓228人、娼妓520人、酌婦1264人、女給643人、女中・子守3860人、女工3346人、その他1101人)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P360)
* 1934年(S9)11月、東北地方大凶作で、女子出稼ぎ者は芸妓らを含め5万8173人(芸者2196、酌婦5961、娼妓4521、女給3271、女中15534、子守19244、女工1726、その他5720) / 秋田県横手駅、午後3時41分発の列車は「身売り列車」と呼ばれ、毎日女の子が銘仙に白足袋をはきマダラ化粧で発つ
* 1934年(S9)11月、NHK仙台中央放送局が、「農山漁村経済更生実績講座」(冷害対策として、14回シリーズ放送)
* 1934年(S9)12月26日、東北地方窮乏対策のため、政府が「東北振興調査会」を設置(S13年3月31日に廃止)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356、P360、P361、P517~518/「宮城県百科事典」P754/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P12、P13、P14、P15/岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/「仙台市史 年表」P106、P107/「仙台放送局60年のあゆみ」P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P433
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P517(「宮城県に於ける経済更生運動の概要」表紙、パンフレット「自力更生」)/同P518(S9年、「東北地方の飢饉救援に関する全国農民組合総本部通達」)
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森徳座 |
開業~焼失閉館 |
明治時代~1931年(S6) |
東一番町北部の森徳横丁角にあった
* 1977年(M10)、大新亭(別名、合唱亭)開座
* 1983年(M16)10月、中嶋座に改称
* 1884年(M17)11月、東座に改称
* 1892年(M25)10月、森民座に改称(M30年10月に活動写真興業)
* 1900年(M33)9月、森徳座に改称し活動写真で開座
<映画専門館となる>
* 1915年(T4)7月25日、錦輝館に改称 → のち森徳座と改称
* 1922年(T11)12月5日、森徳キネマに改称
* 1923年(T12)3月25日、森徳座に改称
* 1931年(S6)1月12日、失火焼失(全焼)し閉座(午後0時15分、試写中の映写機の故障で発火近くのフィルムに引火)、延焼はせず
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P352/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史/「東一番丁物語」(柴田量平著)P199~203/「重訂 宮城県郷土史年表」P424/「仙台年表」P202/「番丁詳伝」P23、P130、P142
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「目で見る仙台の歴史」P142(東一番丁森徳座付近)
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和田床屋 |
開店 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)、和田専助が仙台初の床屋を東一番丁に開店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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44-04(西洋理髪師 和田専助夫妻)、22-28(和田床屋、大正末期、大町5丁目)
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銀行(地域の銀行) |
東北実業銀行 |
1910年(M43)~1932年(S7) |
* 1910年(M43)6月15日、東北実業銀行が涌谷町で開業
* 1911年(M44)2月11日、本店を仙台市名掛丁に移転
* 1918年(T7)、名掛丁に竣工(秋保石積の荘重なルネッサンス風)
* 1932年(S7)1月31日、五城銀行と共に、七十七銀行と合併
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P346、P348、P429/「宮城県百科事典」P750/「仙台市史 年表」P95、P106/「目で見る仙台の歴史」P151
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33-05/「目で見る仙台の歴史」P151(大正7年竣工の社屋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138(社屋)
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