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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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ライオンズクラブ |
仙台 |
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* 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑を仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1967年(S42)、市民記念植樹実施(篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈)(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
* 1968年(S43)4月13日、勾当台公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1970年(S45)6月5日、全国大会を仙台で開催(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
* 1978年(S53)5月2日、「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」を、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建(「続・宮城県郷土史年表」P81) / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている →「政宗卿騎馬像」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P639、P661/「続・宮城県郷土史年表」P81
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梅田川清掃運動 |
開始 |
1965年(S40) |
<梅田川浄化運動>
梅田川は、急速に発展した住宅街を流れるため、ごみが投げ捨てられ、汚水が流れ込み、きたない川の代名詞のようにいわれていたが、市民が汚水と悪臭の追放に取り組む / 毎月16日の「町ぐるみ清掃の日」に、流域住民総出で清掃 / 当初3年計画だったが、1年半で目標を達成した
* 1964年(S39)10月(S40年3月?)、苦竹、中江地区の12町内会4200世帯と地域の衛生団体、東保健所などが参加して、梅田川浄化推進協議会結成
* 1965年(S40)3月29日、梅田川浄化運動大会
* 1965年(S40)5月、小田原から荒巻神明町にかけての29町内会による、北部地区梅田川環境美化推進協議会発足
* 1965年(S40)夏、ドジョウやフナを放流
* 1966年(S41)10月、美しい町づくり全国コンクール最優秀賞受賞(テレビで全国に紹介)
<他の地域へ波及>
このあと、六郷堀清掃運動(1968年3月~)、広瀬川、七郷堀、郡山堀など市内各地に河川浄化の取り組みが生まれる
* 1968年(S43)5月、これら運動団体で仙台市愛護会結成
* 1980年代までに河川愛護会の構成団体は10団体となり、梅田川、広瀬川、七北田川、郡山堀、六郷堀、七郷堀、藤川で運動継続、毎年1万人以上が清掃の参加
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P248~249、P680/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 特別編4 市民生活」P541~542
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(ごみ捨て場となった梅田川)/同P430(S41年、市民が梅田川清掃)/「市民の戦後史(仙台市)」P189と「新・目で見る仙台の歴史」P191に「市民総出で梅田川清掃作業」/「市民の戦後史(仙台市)」P189(フナを放流)
/同P212(住民たちが六郷堀川さらいで清掃)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(七郷堀を市民が清掃作業)
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姉妹都市(仙台市) |
国内姉妹都市 |
1967年(S42)~ |
<音楽姉妹都市>
* 1967年(S42)1月18日、仙台市(土井晩翠生地)が、大分県竹田市(滝廉太郎生地)と音楽姉妹都市に(「荒城の月」の縁) / S42年11月18日には、中山晋平生地の長野県中野市も加わり、三姉妹都市の縁を結ぶ
<観光姉妹都市>
* 1970年(S45)4月15日、徳島市と、七夕・阿波踊りという全国に誇る代表的な祭りをもつ縁で、観光姉妹都市に
<歴史姉妹都市>
* 1975年(S50)11月3日、宇和島市と歴史姉妹都市締結
* 1981年(S56)5月8日、北海道白老町と歴史姉妹都市調印
<参考> 詳細(各都市との提携動機など)は、仙台市ホームページの「仙台市の国内姉妹都市」に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230/仙台市HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P636/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P128
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仙台市役所庁舎 |
第3代庁舎 |
1965年(S40) |
第2代庁舎の北側に建てられた(鉄骨鉄筋コンクリート 地上8階・塔屋3階、地下2階、総建坪3万1237㎡、軒高30.4m、塔屋最上部40.25m)
* 1964年(S39)3月24日、新庁舎建設起工式
* 1965年(S40)10月31日、新庁舎が竣工
* 1965年(S40)11月8日、落成式(開扉式)
* 1965年(S40)11月22日、新庁舎で執務開始(マイクロフィルムシステム、電子計算機等導入)
* 1966年(S41)12月1日、庁舎前庭落成(噴水池を中心に岩石や花木を配置)
* 1972年(S47)9月1日、市役所前広場と水道局隣の二日町に市営有料駐車場設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P219~220/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P622、P628/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P13/「市民の戦後史」P175
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40-05、201-02、201-05/「市民の戦後史(仙台市)」P174~175(新庁舎全景、窓口、議場、玄関、ロビー、電算機室、和風中庭)/「新・目で見る仙台の歴史」P200(第3代庁舎と噴水)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図60(H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S45、カラー)
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やりなおし市長選挙 |
仙台市 |
1958年(S33) |
* 1955年(S30)4月30日仙台市長選、岡崎栄松4期目当選に対し、革新系島野武候補側が、市選管に異義申し立て / 市選管は票再点検の結果、却下(この過程で投票総数増加等の疑惑) / 仙台地検捜査開始 / 県選管も投票用紙点検し、選挙無効と裁定 / 岡崎派が行政訴訟
* 1956年(S31)12月25日、仙台高裁、選挙無効判決
* 1957年(S32)12月17日、最高裁が、仙台市長選挙無効の判決
* 1958年(S33)2月2日、やりなおし選挙で、島野武当選
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P116~118/「重訂 宮城県郷土史年表」P586、P587
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「市民の戦後史(仙台市)」P103と、「新・目で見る仙台の歴史」P182に「S33年2月、初当選し登庁する島野武市長」
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健康都市宣言 |
仙台市 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)3月16日、健康都市宣言発表(島野市長2期目)
基本目標は、「人口集中、産業高度化、交通激化などに伴う問題を克服し、市民すべてが健康で文化的な生活を営むことのできる都市づくり」
・ 昭和39年以降、とくに工業化を先兵として拠点的地域開発がすすめられるであろうことを想定して、あらかじめ健康な仙台を保存して、開発と保存のバランスを前もってとることにした (「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P778)
* 1962年(S37)5月、健康都市建設協議会発足
* 1962年(S37)7月25日、市公会堂で第1回健康都市建設市民大会開催(1700人参加) / 以後毎月16日を「健康都市の日」と定め、4月~12月には早朝、市民総出で「町ぐるみ清掃」(町ぐるみで道路、広場、公園などの公共的場所の清掃)を8月16日から実施、第1回は78トンのごみ回収、第2回は倍の138町参加しごみ200トン、回ごとに参加町内は増えるがごみ量は急カーブで減少)
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P245に、3項目の目標、宣言文
* 1963年(S38)9月、第1回健康都市子ども大会(レジャーセンター)2400人参加 / 以後毎年開催
* 1963年(S38)9月8日、仙台市は健康都市の一環として「市民ラジオ体操会」開催
* 1965年(S40)8月8日、第1回「歩け歩け運動」(仙台市が実施)
* 1969年(S45)11月15日、仙台市が「健康都市仙台のあゆみ」刊行
・ 梅田川清掃運動(1964年10月)、広瀬川、六郷堀(1968年3月)、七号堀の清掃運動など各地に河川浄化運動が生まれ、1968年(S43)4月には連合組織として仙台市河川愛護会結成、この間下水道の普及もあって、市内河川の水質は目に見えて良くなり、アユがつれ、フナが泳ぐきれいな川が復活し全国からの見学に訪れるようになった → 項目「梅田川清掃運動」参照
・ 緑と花いっぱい運動へも発展 → 項目「緑と花いっぱい運動」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P115、P245~250/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P777~778/「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P604、P605、P609、P621、P654/「市民の戦後史(仙台市)」P138(町ぐるみ清掃)
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201-01/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P247~249に、「こども大会」、市民による「道路清掃」「六郷堀清掃」の写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P138(第4回健康都市建設市民大会、学童パレード、町ぐるみ清掃、市民ラジオ体操会、歩け歩け運動、花いっぱい運動の花壇)/「新・目で見る仙台の歴史」P190と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P428に「市民が横断幕掲げてパレード」
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金属回収 |
銅像「壮行式」 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出
元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112
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戦勝祝賀行事 |
大平洋戦争中 |
1942年(S17) |
<シンガポール陥落>
* 1942年(S17)2月15日、日本軍がシンガポール占領
* 1942年(S17)2月15日、シンガポール島要塞の敵軍、皇軍に無条件降伏す、17日に昭南島と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P487)
* 1942年(S17)2月18日、シンガポール陥落戦捷第一次祝賀会開催(「仙台市史10、年表」P303)
/ 仙台でも祝賀行事が行われた / 河北新報記事「歓喜と日章旗のうずまき、感激を軍歌に乗せて、軍都仙台に音楽大行進がくりひろげられた」(「仙台市史 続編第1巻」P36)
・「シンガポール陥落を祝って仙台では提灯行列が行われました。お父さんたちには清酒2合、家庭には砂糖、小豆が特配されました。5月になると児童たちに、そのころ貴重品になっていたゴムまりが配られました。占領地のマレー半島はゴムの産地です。武器弾薬を届けた輸送船が帰りにゴムの材料を積んで帰ってきたのです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P66~67)
* 1942年(S17)3月12日、戦捷第二次祝賀記念式典(「仙台市史10年表」P304)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争一周年記念県民大会(「仙台市史10 年表」P305)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争第一周年記念県民大会を開催、この日、武道大会を挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P493/「仙台市史10 年表」P303~304(出典:河北新報)、同P305/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P66~67)
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シンガポール陥落祝捷行列(仙台)は、16-05
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第十三師団 |
編制 |
1937年(S12)9月~1945年(S20) |
* 1937年(S12)9月9日、日中戦争勃発(同年7月7日)により急きょ、仙台において編制される(第二師団留守部隊を根幹とする十三師団=青葉師団)
* 1937年(S12)9月24日、宮城県人を中心に編制された歩兵第104連隊(十三師団隷下)が仙台から「出征」
・出動に際し仙台に集まる将兵は市内の民家に分宿した
・第十三師団は、上海上陸、南京攻略、徐州占領、大別山越え、宣昌作戦、大陸打通作戦と、日中戦争・太平洋戦争期を通して中国大陸を転戦、敗戦時は華南にあった(「仙台市史 続編第1巻」P64)
・大陸打通作戦は、1944年(S19)4月~45年2月。兵力50万を投入、第十三師団も組み込まれた。作戦距離1500キロ。ねらいは、中国の華北から華南までの鉄道を確保し南方からの資源輸送を船舶から鉄道へ切換え、かつ沿岸の大都市、長沙、衡陽、桂林を占領し、周辺に建設された米軍基地をたたき、北九州地区への空襲を防ぐもくろみだった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P136~137)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、中国華南に駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
→ 項目「歩兵第104連隊」参照
* 1939年(S14)12月9日、荻洲立平中将(オギス リッペイ)、仙台市公会堂で講演会(荻洲中将の十三師団長在任期間は、昭和12年9月10日~14年8月1日なので、師団長離任後になる)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P30~31>
「第十三師団は日露戦争末期に編成され樺太を占領した師団ですが軍縮により廃止されました。日中戦争開戦2か月後に復活、仙台に司令部、仙台、会津若松、新潟県高田に部隊が置かれ、仙台は歩兵104連隊です。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P64/「仙台市史 年表」P109/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P184/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P30~31、P136~137、P238
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金属回収 |
寺院の梵鐘など |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)11月6日、大年寺の名鐘、白銀混鋳の「開静鐘」など(仙台市内の)各寺院神社等の撞鐘をはじめ金属製の調度品(国宝級のものを除く)を戦時資材として回収開始(“応召”より除かれた三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)
* 1942年(S17)11月12日、各寺院より“応召”した梵鐘の壮行供養会を東一番丁の西本願寺に於いて挙行
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/「重訂 宮城県郷土史年表」P493/「仙台年表」P214
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「目で見る仙台の歴史」P168(各寺院供出物の山)
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金属回収 |
街灯 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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街灯(東一番丁北部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型)
・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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61-16、22-51、53-34、53-13、53-23、99-041、99-052
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街灯(東一番丁中央部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁中央部(立町通角~大町通角の間)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置
・ 東一番丁通り中央部(立町通角~大町通角の間)の「スズラン灯」は1基5灯型(電球が球形と釣鐘型がある)
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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99-018、61-11、11-03、/傘が釣鐘型は、20-25、99-037
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街灯(東一番丁南部) |
戦前 4灯型 |
設置年不詳~1945年(S20)
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東一番丁南部(旧大通り地区=大町通角~南町通角の間)の街灯
戦前>
* 設置年不詳(ただし、S7年の絵葉書(20-37 藤崎西館完成記念)では、1基4灯型の街灯が写る)
・ 同じ東一番丁のスズラン灯でも、中央通(大町通)角を境に街灯の形が違った
・ 大町角以南の通称「大通り」は統一され、4灯タイプ(上1、下3)で、「わかもと」の遠景の宣伝看板がついていた
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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20-37、20-45、22-55、53-38、22-59、夜景は99-019、52-01
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公会と隣組 |
発足~廃止 |
1940年(S15)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した
「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461)
・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案
・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施
・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460)
* 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂)
「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう
親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」
大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人
当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、
これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51)
・6月に日本コロンビアからレコード化される
(唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子)
* 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合
* 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18)
* 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始
* 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる
* 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行
* 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止
* 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51
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公会の慰安演芸大会は、06-17、06-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板)
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殉国勇士の家 |
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日中戦争以降 |
仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
<参照> → 項目「兵事義会/銃後奉公会」
「誉輝く軍国の家」(河北新報) 「河北新報は中国と戦争を始めてから5年目の昭和17年7月、1家族で2人以上の戦死者を出した宮城県内の12家族を「誉輝く軍国の家」として取り上げています。・・・「お国のために散ったこと、親としてこんなうれしいことはありません」・・・・肉親を戦争で失った家族には、涙と絶望が数多くありましたが、人々はそれを平静というオブラートに包んで冷静を装っていました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12/「仙台市史 特別編4 市民生活」P315/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P79
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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遺児の日 |
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1939年(S14) |
<戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~>
* 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年)
* 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年)
* その後も回を重ねるごとに人数が増えた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23
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定禅寺通り |
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戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった
* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹
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「仙台市史 続編1」P462
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東二番丁通り(拡幅) |
はみ出し建物撤去 |
1958年(S33年)7月 |
拡幅予定地にかかり、街路にはみ出していた、逓信病院、宮城学院、東北学院中学校は、S33年3月~7月末に取り壊し完了(東北学院中学校赤レンガ校舎の道路側部分はS33年4月撤去)
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「仙台市史 続1」P349
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98-027、98-109、22-23、36-03、36-04、36-06
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大型店・量販店 |
ジャスコ/フォーラス |
1975年(S50)/1984年(S59) |
* 1975年(S50)5月、仙台店進出(一番町の仙台日活の跡地)
* 1984年(S59)、ジャスコ仙台店からの業態転換「仙台フォーラス」開業 / イオングループのファッションビル「フォーラス」の第1号店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/ウィキペディア「仙台フォーラス」2021年1月24日版
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大型店・量販店 |
アムス西武 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)4月15日、ams西武仙台店、仙台駅前の再開発ビルにオープン / 西武クレジット(元緑屋、のちのクレディセゾン)の仙台市内の緑屋2店舗(東一番丁店、仙台駅前店)を統合し、駅前再開発ビルに入店することで開業 / 2003年(H15)に業態変更し、仙台ロフト
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「続・ 宮城県郷土史年表」P145/「わが心の仙台駅前史」掲載年表
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P112(S59、カラー)
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大型店・量販店 |
長崎屋 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)6月、仙台店開店 / 場所は、東一番丁北部、戦後の三陸(大型雑貨店)の跡地
* 1983年(S58)10月にファッションビル「長崎屋仙台シャル」に業態転換(ウィキペディア「長崎屋」)
* 2000年(H12)2月に長崎屋が会社更生法を適用したことに伴い、同年9月に撤退(ウィキペディア「長崎屋」)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「番丁詳伝」P221/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/ウィキペディア「長崎屋」2021年3月30日版
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大型店・量販店 |
イトーヨーカドー |
1992年(H4) |
* 1992年(H4)7月、イトーヨーカドー仙台泉店開店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41
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戦時衣料 |
衣料品購入価格高騰 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
<公定価格>
・ 1937年(S12)→1945年(S20)7月に、2倍近くに
<ヤミ価格>
・ 晒(さらし)木綿は、S18年12月に公定価格の6倍、S20年7月には更に8.5倍に(衣料切符を持っていても品不足で買えず、ヤミ市場では高値で購入困難)
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「仙台市史 特別編5 市民生活」P54
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」などより |
1944年(S19)~1945年(S20)敗戦まで |
・ 1944年(S19)1月、宮城県第一高等女学校、モンペ、ズボン姿を制服に(仙台のモンペ時代に先べん)
・ 1944年(S19)2月6日、政府、女学生の戦時標準服を制定 / 上下衣に分かれ、裾と膝を皮紐で締める / 上衣は婦人標準服乙型、下衣はモンペ
・ 1944年(S19)4月、農林省、野生の苧麻(チョマ)、桑皮、竹の幹などで衣料品70万着製造
・ 1944年(S19)4月19日、宮城県経済部、繊維資源供出として、桑皮、生苧、麻、竹皮、藺草(イグサ)、ひま、柳枝、蒔枝、葛、かわむぐら、蒲類の大増産運動を広げると発表 / 農業会、翼賛壮年団、中等学校、国民学校、青少年団、大日本婦人会を総動員して
・ 1944年(S19)5月21日、仙台市街地で、警官や警防団員が通行人の服装チェックし、注意する(河北新報記事)
・ 1944年(S19)、衣料切符支給さらに減る / 市街地では、30歳以上は年40点、30歳未満は年50点と、従来の約半分に
・ 1944年(S19)、足袋と靴下の配給は、一人1足、男性用パンツは13人に1人しか行き渡らず
・ 1945年(S20)、衣料切符、新発行停止
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「仙台市史 特別編4市民生活」P53~54/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P123
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モンペ姿は、16-72、41-02、76-10、16-10など(写真データベースで、キーワード“モンペ”で検索) / 「仙台市史 特別編5 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
戦後 1946年(S21)~1950年(S25) |
・ 戦後、繊維製品も進駐軍の統治下におかれたいたが、1946年(S21)9月、GHQが復旧を認める
・ 1945年(S20)、繊維製品1人あたり消費量は、1930年(S5)~1934年(S9)の12.6%
・ 1946年(S21)3月、衣料切符制度廃止し、4月から割当購入制度
・ 1947年(S22)4月1日、国内向け繊維に一応の見通しが得られ、衣料点数切符制度を復活 / 一人1年12点(背広1着が70点)
・ 1929年(S24)6月、衣料切符1人30点に(10点は純綿生地、20点は人絹スフ)、絹製品は自由販売に
・ 1930年(S25)1月、繊維製品の価格統制撤廃(衣料事情が急速に好転)
・ 1930年(S25)9月、衣料切符制廃止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P54~55
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1943年(S18) |
・ 1943年(S18)2月1日、新衣料切符(全衣料の点数を25%引上げ)
・ 1943年(S18)2月、商工省、決戦下衣料生活最低標準案
・ 1943年(S18)5月30日、大政翼賛会が、衣生活の刷新、新調の見合せ、更生利用運動を全国展開 / 短袂の実行、国民服着用、モンペ着用、衣類融通交換奨励
・ 1943年(S18)6月3日、政府、衣料簡素化実施要綱、閣議決定
・ 1943年(S18)8月10日、商工省、長袖、長帯の生産を禁止
・ 1943年(S18)8月31日、大日本婦人会、9月以降の毎月8日を「短袖、モンペの日」と決め、「決戦です。すぐ長袖を切りましょう」が合言葉
・ 1943年(S18)12月5日、東北帝国大学、学生に新調の服を禁止 / やむを得ない場合は、男子は国民服乙型、女子は婦人標準服を調整と決定
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P52~53
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衣料切符は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P52/衣料点数早見表(S18年改正時)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P53
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1942年(S17) |
・ 1942年(S17)2月1日、衣料切符制度実施
(1月中は、全衣料品の移動禁止し、在庫品調査)
年間に、市では1人100点、郡部は80点
・ 宮城県、繊維製品の取引団体を指定
三越、藤崎や繊維製品関係小売商業組合などの諸組合
指定取引団体のみが、県に新しく設立された繊維製品
統制会社から、配給を受けて消費者の手に渡す
・ 1942年(S17)2月、厚生省、婦人の標準服(和・洋)を指定
甲型、乙型、活動着も甲型と乙型
他に下着と付属品
・ 1942年(S17)2月4日、文部省、青年学校生徒の制服制帽を、前年制定した中学校の制服と同型とした
・ 1942年(S17)年、外出時のゲートル使用が強制され、
ゲートル姿や白はちまき姿が街にあふれるようになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51~52
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婦人標準服は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図56)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1941年(S16) |
・ 1941年(S16)4月、中等学校新入生の制服改訂、制服新調の際は
男子は、国民服と戦闘帽
女子は、セーラー服を廃止し、白い覆いをつけたヘチマ型のカラー、ベルト付のジャケットとスカート
・ 1941年(S16)5月、国民学校児童に抽選で学童服や靴下を配給
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1940年(S15) |
・ 1940年(S15)1月、女学生服の日本化運動(腕と脚を隠す)
・ 1940年(S15)3月、紙糸を使った洋服登場
・ 1940年(S15)7月7日、七・七禁令(奢侈品等製造販売禁止規則) / 洋服の最高価格制限など
・ 1940年(S15)9月13日、中学校の制服、男子は国防色、女子は紺色
・ 1940年(S15)11月2日、国民服令が勅令で定められる / 型は4種 / 上着1号(甲号)は三揃背広を軍服化、2号は1号に準じた型、3号は一般背広の裁断によるもの、4号(乙号)はステンカラー5つボタンの軍服調のもので運動・作業用 / 上着も中衣も軍服に日本調をとりいれ動きやすい形にした
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50~51
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国民服は、60-40、乙号は、24-01、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図55)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1936年(S11) |
・ 1936年(S11)、東日本洋服組合、ステープル・ファイバー(スフ)の利用を決議(オーストラリアとの間に通商制限問題が起こり、ラシャの原料でもある羊毛の輸入が制限されたため、その代用として)
・ 1936年(S11)?、国会で黒無地の背広を着るよう申し合わせ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1937年(S12) |
・ 1937年(S12)、陸軍被服協会、反毛報国運動展開(毛織物廃品物の再生利用)
・ S12年、綿織物にスフ混用規制公布 / 軍需・輸出品以外は、3割以上のスフ混入義務づけ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1938年(S13) |
・ 1938年(S13)3月1日、県糸配給統制規則公布 / 切符制の始まり
・ 1938年(S13)6月29日、線製品の製造販売を制限 / 主婦が綿製品の買いだめしたため、商工省が一人1品を厳命
・ S13年11月、国民精神総動員中央連盟は、カーキ色のチョッキ、ネクタイなしの国民服の着用を提唱
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1939年(S14) |
・ 1939年(S14)3月、織物用原紙として紙糸の利用はじまる
・ 1939年(S14)4月24日、国産羊毛の購買禁止 / 洋服はすべてスフ時代に
・ 1939年(S14)8月、商工省による染色価格の統制により、男子用服地はカーキ色を主とした濃紺あるいは黒の3種に、女子用服地は柄物減少し10種類以内に
・ 1939年(S14)11月、国民服制定権限が陸軍被服廠に移り即時実行された
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50
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霞目飛行場(仙台飛行場) |
米軍接収、自衛隊基地 |
1945年(S20)9月/1957年(S32)12月 |
<戦後は一時、進駐軍(米軍)が進駐・使用>
* 1945年(S20)9月、米軍が接収し、飛行場として使用(レニアフィールドと称す)
・落下傘部隊の駐屯地になった(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
<接収解除後は自衛隊>
* 1957年(S32)12月10日、陸上自衛隊の飛行場として使用開始(「仙台市史 年表」P120)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「重訂 宮城県郷土史年表」P585/「仙台市史 年表」P120/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155
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戦後の接収時代は、62-06、62-07
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進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
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進駐軍(米軍) |
第14軍団司令部 →第9軍団司令部 |
1945年(S20)9月/1946年(S21)4月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」】
・ 占領初期、東日本の占領は米軍第8軍が担当 / 新潟を含む東北地区は、第8軍指揮下の第14軍団が進駐し、司令部は仙台 / 宮城県に進駐は、第8軍団に属する第11空挺師団
* 1945年(S20)9月、仙台に第14軍団司令部が置かれたが、S20年暮に14軍団は廃止された(札幌に司令部を置く第9軍団に統合)
* 1946年(S21)4月、第9軍団司令部が札幌から仙台に移された(これ以降、第9軍団軍政部が関東以北の占領に責任をもつ)
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」 に、宮城県に進駐した米軍の軍団名、連隊名、その変遷の一部が記述されている
**********************************
【(「戦争のころ 仙台、宮城」P244】
「仙台に米軍が進駐してから3か月もたたない昭和20年12月、東北地方の占領行政を監視する第8軍は突如、北海道に移転、第9軍団と統合 / その3か月後には再び仙台に戻った(第9軍団司令部が仙台へ移転)しかも担当地域は従来の北海道、東北に加えて、東京、横浜を除く関東、甲信越を含む地域に拡大 / 米英とソ連の冷戦は激化しており、ソ連領に近い北海道に司令部を置くことを敬遠したのでしょう」「仙台の拠点性が高まり、米軍の大規模駐屯地の建設が急がれ米軍の要求で、仙台の旧陸軍用地を提供、キャンプ・センダイとなる」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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仙台市電 |
戦時対応 |
1943年(S18)~1944年(S19) |
* 1937年(S12)3月、応召者の欠員補充のため、初めて女性車掌の採用(見習生に67名応募、20名採用 / 同年8月に2回目募集(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 戦時中の1日当たりの利用者
S16年度 6万2600人 S17年度 7万200人
S18年度 7万5700人
特に、民間の軍需工場が集中していた長町へは市電利用者が多く始発時間を5時と10分間繰上げ、ラッシュ時は長町線の車両を7両増発して10分に3本運行、乗降客数の少ない9つの停留所を通過する「急行列車」を運行、近距離を電車通学する中学生・女学生には徒歩通学を勧めた
午後10時の終電車発車後は野菜などの食糧を輸送
S19年以降は一般家庭が防空壕を作るための木材を運搬(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1943年(S18)4月1日、戦時下輸送確保のため、市電停留所15カ所廃止(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188)
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188) / 軌道(レール)を戦時供出(金属回収)のため撤去(「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)
* 1944年(S19)ころ、男性運転手不足から女性車掌を運転手に転用(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 男性運転手は徴兵による入隊や徴用が増えて117人のうち50人が欠員となり、18人の女性運転手が取って代わった / 勤労動員の市立仙台工業学校機械化4年生30余人も運転練習1日後には運転したが、その後まもなく別の軍需工場へ動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1944年(S19)(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188)
1月10日、早朝割引制度廃止
7月1日、工員定期券新設、料金10銭均一に
回数券式から定期券式に改正
急行電車運転(8時30分まで)
8月1日、産業戦士輸送のため、循環線朝夕運休
11月22日、物資輸送用電車運転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92、P366/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161
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「新・目で見る仙台の歴史」P163(女性車掌たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P209(モンペ姿の女性運転手たち・S19年頃、乗客長蛇の列)、P366(戦時中の市電女性運転手たち、モンペ姿)
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金属回収 |
市電レール |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月、市電芭蕉の辻線が廃止となり、レールを剥がして、戦時金属回収のため供出
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
大正~昭和初期 |
<大正期>
・ 1913年(T2)の「仙台案内」掲載店
内藤洋食店(大町3丁目)
・ 1920年(T9)の「仙台商工案内」掲載店
仙台カフェ・パウリスタ(東一番丁)
・ 1923年(T12)、精養軒(東京上野精養軒の仙台支店)が東一番丁弥生軒跡で開業 → 項目「精養軒」参照
・ 1925年(T14)、カルトン食堂開業(大町5丁目)
→ 項目「カルトン食堂」参照
<昭和初期>
・ 1937年(S12)の「仙台商工名鑑」掲載
ミウラ(勾当台通り)、金富士(国分町)、ブラザー軒(東一番丁)、小原(元寺小路)、カフェライト(裏五番丁) → 項目「ブラザー軒」、項目「金富士」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
明治期 |
<明治期>
・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
→ 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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キリンビアホール(東一番丁) |
竣工 |
1935年(S10) |
* 1931年(S6)、東一番丁にキリンビアホール開店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
* 1935年(S10)、キリンビール(1階がキリンビアホール)建設 / 場所は東一番丁・日の出横丁南西角で、昭和8年の東一番丁大火の跡地
【「番丁詳伝」P131】東一番丁大火で焼失した仙集館跡は、昭和10年に金港商会が石造りのビルを建設、1階はキリンビアホールとして、また人々を集めることになった。
【「番丁詳伝」P164~165】キリンビール・ビルは昭和10年建造、鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、843平方メートル、1階がビアホールで風格ある外観ながら番街の代表的な建物の1つであった。仙台空襲(昭和20年7月)では焼け残り、道路拡張のため曳行工事(昼夜通し見物人の人垣)が行われ、昭和27年9月に地下室ごと移転完了
* 1974年(S49)、閉店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P80/「番丁詳伝」P131、P164~165
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20-35、53-71、49-05、22-58/戦後は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13の左端
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フジビール |
販売開始 |
1921年(T10) |
<東洋醸造>
* 1919年(T8)、仙台の福島揁蔵が仙台市小田原長丁通に、東洋醸造を開業、フジビールを売り出す(「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347)
* 1921年(T10)9月23日、東洋醸造開業(小田原長丁通)(「仙台市史 年表」P100、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
<麒麟ビール仙台工場>
* 1923年(T12)8月に麒麟ビール株式会社に買収され、その仙台工場となる / 従業員224名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P347、「仙台市史 年表」P102、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347/「仙台市史 年表」P100、P102/「新・目で見る仙台の歴史」P153
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「目で見る仙台の歴史」P151と「新・目で見る仙台の歴史」P153に、「東洋醸造工場」(大正10年開業)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P347(大正11年ころ、東洋醸造工場内部)/「仙台はじめて物語」口絵写真(フジビール工場)
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物価上昇 |
反対運動/行政の対策 |
1973年(S48)~1974年(S49) |
* 1973年(S48)7月、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急外に関する法律」制定
* 1973年(S48)11月7日、宮城県生活協同組合連合会、仙台通産局に、灯油確保、便乗値上げ防止を陳情
* 1973年(S48)11月11日、物価メーデー(宮城県春闘共闘委員会主催)「インフレ防止、物価値上げ反対、生活防衛」を掲げて、デモ行進と集会(県労評主婦の会など市民団体、労働団組合など24団体、6000人参加)
* 1973年(S48)11月14日、衆議院物価問題等に関する特別委員会地方懇談会(於:宮城県庁) / 宮城県各種婦人団体連絡協議会など発言
・ 仙台市消費者団体連絡会(市内8団体)が行政当局と話し合い / 消費者団体が街頭で呼びかけ
* 1973年(S48)11月、宮城県、生活物資等需給安定緊急対策要綱策定
* 1973年(S48)12月、国民生活安定緊急措置法制定、物価統制令改正
* 1974年(S49)5月、仙台市物価監視委員制度主婦モニター制度、制定
* 1974年(S49)12月、仙台市消費生活をまもる条例、制定
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544~545
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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スパイクタイヤ粉塵公害 |
脱スパイクタイヤ推進 |
1981年(S56)~1986年(S61) |
* 1981年(S56)1月27日、「河北新報」への投書が発端
* 1982年(S57)、仙台弁護士会、道路粉塵問題小委員会が検討開始
* 1982年(S57)10月、仙台市消費者協会、粉塵公害追放運動展開 / 仙台など各都市でスパイクタイヤ自粛運動
* 1982年(S57)11月2日、仙台市宮町商店街は、粉塵公害スパイクタイヤ自粛決議
・ 中江商工振和会、仙台ゴミ追放婦人ロビー、環境運動団体などが脱スパイク運動
* 1982年(S57)11月22日、多賀城市はスパイクタイヤ使用自粛指示
* 1983年(S58)6月13日、仙台市、スパイクタイヤ対策本部を発足
* 1983年(S58)9月11日、宮城県がスパイクタイヤ対策本部発足
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1983年(S58)12月、市民による「脱スパイクタイヤ推進モデル地区」で折立地区を指定(ピン抜きや積雪時の門前雪かき)
* 1984年(S59)1月20日、仙台市が、粉塵汚染で緊急事態宣言
* 1984年(S59)3月16日、名取市でタイヤのピン抜き所開設
* 1985年(S60)ころ、仙台市民によるスパイクタイヤのピン抜き活動が盛んになる
* 1985年(S60)8月22日、仙台タクシー協会、スパイクタイヤ全廃方針たてる
* 1985年(S60)10月、高橋栄(八木山本町)が、無公害スパイクピン実用化
* 1985年(S60)12月5日、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦
* 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P543~544/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P58/「仙台市史 年表」P133、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P152、P153、P166、P168、P172、P174、P194、P196、P197、P198、P204/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P84
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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東北新幹線 |
開業 |
1982年(S57) |
<新幹線公害にたいする市民運動>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P542~543)
* 1972年(S47)3月、仙台市公害対策審議会に新幹線公害について諮問 / 騒音レベルの目標値70ホン以下とするなど答申
* 1973年(S48)3月、東北新幹線沿線都市協議会、答申を支持して、国鉄に騒音防止について要望
* 1973年(S48)6月16日、河原町二丁目新幹線公害対策連絡協議会など市内沿線住民7団体が全仙台新幹線公害対策連絡協議会結成
・ 住居地域において開業後5年以内に達成したいとしていた環境基準(騒音70ホン以下に抑制)は達成困難となる
<着工~開通>
* 1971年(S46)6月1日、新幹線工事局(宮城・福島両県内工事担当)開設(五橋1丁目の国鉄ビル内)
* 1971年(S46)10月24日、東北新幹線、上越新幹線の建設認可
* 1971年(S46)11月28日、起工式を仙台駅で実施
* 1982年(S57)3月21日、大宮・盛岡間で試運転
<開業>
* 1982年(S57)6月23日、大宮~盛岡間で開業、465.6㎞、3時間17分
* 1985年(S60)3月14日、上野~大宮間が開業
* 1985年(S60)10月17日、仙台~一関間の試験走行で時速270キロを達成(当時、世界一)
* 1986年(S61)11月10日、仙台~北上間で、時速271キロ達成
* 1991年(H3)6月20日、東京駅まで乗り入れ開始
* 2010年(H22)、全線開通(新青森駅開業)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P542~543/「重訂 宮城県郷土史年表」P674/「仙台市史 年表」P127、P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P4、P143、P149、P189、P214/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P65、P76
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安保反対闘争(1970年) |
70年安保闘争・仙台の動き |
1970年(S45) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対運動」より転記>
* 1970年(S45)6月23日、安保破棄県民集会(仙台市錦町公園)、社会・共産両党、労働組合、学生など125団体1万1000人参加 / 安保破棄を目指す宮城県学生総決起集会(東北大学構内)には在仙台各大学の学生3000人が集会・デモ行進後、県民集会に合流 / 6・23仙台学労総決起集会(全共闘系、仙台ベ平、反戦青年委員会など2800人)
・このほか、大学のストや討論集会も盛ん
・6月23日、安保条約は自動延長となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P541
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・仙台の動き |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対闘争」より転記>
* 1959年(S34)3月、安保改定阻止国民会議結成
* 1959年(S34)4月、第1次全国統一行動 / 翌年10月まで23回にわたる統一行動
宮城県、仙台市での日米安全保障条約改定反対闘争
・ 宮城県安保廃棄、改定阻止県民会議結成
* 1959年(S34)11月27日の第8次全国統一行動では、宮城県庁前広場大集会とデモ行進
* 1960年(S35)4月23日、東北大学川内と東分校両自治会が、安保問題討論集会(800人規模)、400人の学生が仙台市内で反対署名運動
* 1960年(S35)5月16日、仙台で、衆議院安保問題特別委員会の公聴会 / 県庁前で安保阻止県民会議(労組員、学生ら4000人集会)、安保条約批准反対の請願署名
* 1960年(S35)5月19日、20日未明、衆議院で強行採決
・ 翌20日から強い反対運動展開、宮城県民会議では、国会解散と岸内閣打倒を重点に、総決起大会(6000人)とデモ行進 / 各労働組合が職場集会、東北大学生総決起集会(1500人)とジグザクデモ
* 1960年(S35)6月4日、第17次統一行動 / 「安保条約阻止、岸内閣打倒、国会即時解散県民会議」総決起集会(政党・労組・仙台商工業者連合会・婦人団体・文化団体など1万5000人参加)/仙台市役所前で、安保婦人抗議集会(安保反対婦人協議会)/東北大学では、学生デモと有志教官団(250名)デモが大学本部から県庁前広場まで行進
* 1960年(S35)6月11日、第18次統一行動では、地区ごとの労組や婦人団体による抗議集会後に、県庁前広場に89団体、6500人
* 1960年(S35)6月17日、樺美智子さん県民追悼集会と追悼行進 / 6月18日、「安保批准阻止、岸内閣打倒、国会解散要求県民集会」、東北大学教養部ではストが続き、片平丁本部の学生も授業放棄して集会とデモ、一部学生が自民党県連事務所前に座り込み / 宮城学院女子大・短大有志が県民集会に参加
* 1960年(S35)6月19日、国会で自然承認され、23日に批准書交換 / 7月15日、岸内閣退陣
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P540~541
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P537(S35年、60年安保闘争で広瀬通りをゆくデモ隊、宮城県庁前での統一スト)/同541(安保反対を訴えるマッチラベル)
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