項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
山形自動車道 |
部分開通 |
1988年(S63)~ |
* 1981年(S56)4月15日、国道286号笹谷トンネル(笹谷IC ~ 関沢IC)開通(3,385m)
/ 山形自動車道の笹谷IC~ 関沢IC間は、開通当初は国道286号のバイパス有料道路(笹谷トンネル)として供用されたが、4車線化後、1998年(H10)に高速自動車国道に格上げされて、山形自動車道に繰り入れられた
* 1988年(S63)10月13日、村田JCT~宮城川崎間、開通(110.4キロ)
* 1989年(H1)7月26日、山形北~寒河江間、開通
* 1990年(H2)10月4日、宮城川崎~笹谷峠間、開通
* 1991年(H3)7月31日、関沢~山形北(14キロ)開通(これで、村田JCT~寒河江間が全通)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P126、P252、P268、P270
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物価上昇 |
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1980年(S55)~1989年(H1) |
* 1980年(S55)1月9日、冬野菜が高値、白菜、キャベツが10倍、大根5倍
* 1980年(S55)、この年、電気・ガス料金大幅値上げ
* 1981年(S56)3月、宅地高騰、仙台市は9.8%アップ
* 1981年(S56)11月28日、仙台市営バス運賃は、1区間120円(10円値上げ)
* 1982年(S57)6月1日、東北自動車道料金、仙台~盛岡間2700円から3200円に値上げ
* 1983年(S58)12月2日、仙台市内タクシー、初乗り運賃、小型400円から440円にアップ改訂
* 1986年(S61)4月1日、仙台市のハイタク初乗りが460円に改訂
<ガス・電気は値下げ>
* 1986年(S61)7月1日、東北の24社が、ガス料金値下げ
* 1987年(S62)1月、東北電力、電気料金を引き下げ
* 1987年(S62)2月、仙台市ガス局など料金再値下げ
* 1988年(S63)1月6日、仙台市ガスは平均6.22%引き下げ
<消費税>
* 1989年(H1)4月1日、初の消費税導入(3%)
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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「続・ 宮城県郷土史年表」P125、P136、P147、P169、P204、P207、P219、P220、P238、P242、P258、P259/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P74
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シルバー人材センター |
仙台 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)12月13日、仙台市シルバー人材センター開所式
* 1985年(S60)4月1日、仙台駅東のスカイビルに移転
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「続・ 宮城県郷土史年表」P120、P190
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ネオンサイン |
省エネ消灯 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)6月16日、省エネで、ネオン9割近く消灯
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「続・ 宮城県郷土史年表」P112
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戦災記録 |
市民の手でつくる戦災の記録」の会 |
1972年(S47)/1973年(S48)/1995年(H7) |
* 1972年(S47)7月7日、仙台市に「市民の手でつくる戦災の記録」の会発足
* 1973年(S48)8月15日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「空襲」出版
* 1995年(H7)10月16日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「仙台はフェニックス―戦中戦後の証言と聞書集」出版
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「続・ 宮城県郷土史年表」P11
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ペデストリアンデッキ |
仙台駅西口 |
1981年(S56) |
* 1979年(S54)12月22日、ペデストリアン・デッキ使用開始(続・ 宮城県郷土史年表」P105)
* 1981年(S56)8月4日、ペデストリアン・デッキ全面完成(仙台駅と西側のビル群を結ぶ)(「仙台市史 年表」P132)
* 1982年(S57)6月23日、東北新幹線仙台駅が開業(新幹線が、大宮・盛岡間で暫定開業)
* 1985年(S60)10月31日、仙台ホテル前~仙台十文字屋間、開通式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P105/「仙台市史 年表」P132、P133、P196
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37-07、37-08/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P112(S59、カラー)
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定禅寺通り |
彫刻のあるまちづくり |
1979年(S54)~ |
<「仙台市彫刻のあるまちづくり」事業で、中央分離帯(定禅寺通緑地)に彫刻配置>
* 1979年(S54)10月3日、イタリアのエミリオ・グレコ作、踊り子像「夏の想い出」除幕(第1期作品のひとつ)
* 1982年(S57)9月22日、イタリア彫刻家ブェナンツォ・クロツェッティー作「水浴の女」、除幕
* 1986年(S61)10月17日、マンズー作、彫刻「オデュッセウス」除幕
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「続・ 宮城県郷土史年表」P102、P151、P224
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満蒙開拓 |
宮城県関連(1) |
1932年(S7)~ |
<武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる
<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)
* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始
<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子
* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述
・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕
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「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170
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ありのまま舎 |
設立 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)、任意団体「ありのまま舎」設立
* 1975年(S50)、映画「車椅子の青春」制作/第1回日本赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞
* 1982年(S57) 映画「続・車椅子の青春(忘れられた一日)」完成
* 1986年(S61)、社会福祉法人「ありのまま舎」設立
* 1987年(S62)、身体障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」開所(西多賀4丁目) / 4月5日、入居式
* 1989年(S64)、付帯施設「障害者自立センター」開所
* 1999年(H11)、第1回「ありのまま舎自立大賞」設立(以後毎年開催)
* 2013年(H25)、県南ありのまま舎、名取ありのまま舎(相談支援事業)開設
このほか、製作映画、出版、受賞など多数あり
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「社会福祉法人ありのまま舎」ホームページhttp://www.arinomama.or.jp/menu1_2.html
/「続・ 宮城県郷土史年表」P153、P221
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高等学校(新制) |
宮城県農業高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1875年(M8)、県立植物試験所(前身)創設(片平丁)
* 1879年(M12)、県立勧業試験場、名取郡茂ヶ崎村(現太白区根岸町)に設置
* 1881年(M14)7月9日、県立勧業試験場が「宮城農事講習所」と改称
* 1885年(M18)7月1日、宮城県農事講習所を改組し、「宮城農学校」を創設(「重訂 宮城県郷土史年表」P271)
* 1901年(M34)7月5日、「県立宮城農学校」と改称
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立宮城農学校」と改称
* 1919年(T8)11月1日、「宮城県農学校」と改称
* 1928年(S3)、学校所在地の地名が仙台市長町と変更
* 1947年(S22)、専攻科設置(S28年廃止し宮城農業短大設置)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県農業高等学校」と改称 / 同年5月に定時制課程設置、高砂、岩切、広瀬、秋保の4分校設置
* 1961年(S36)~1967年(S42)、5期にわたり鉄筋コンクリート3階建て校舎建設
・ 1969年(S44)現在、農業、園芸、畜産、食品化学、農業工学に在校生836名、
* 1970年(S45)、4分校のうち最後まで残った秋保、高砂両分校廃止
* 1977年(S52)3月1日、名取市に移転
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120/「仙台市史 年表」P85、P91、P92/「重訂 宮城県郷土史年表」P271/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P508~509/「宮城県農業高等学校」HP
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99-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120に、「宮城県農学校」(M18~37年の間)
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天神社 |
移設 |
1667年(寛文7年) |
・ 市内榴岡にある。東照宮造営の際、その地にあった天神社を寛文7年、榴ヶ岡に移す。1795年(寛政7年)に丹塗の向唐門を残して焼失。 その後に社殿再建 / 筆塚、句碑が並ぶ
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「目で見る仙台の歴史」P59
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「目で見る仙台の歴史」P59
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大手門 |
国宝指定/焼失 |
1931年(S6)/1945年(S20) |
・ 豊臣秀吉が朝鮮役で肥前名護屋に陣営を築いた時の城門を、政宗が拝領して仙台に移築したものと伝えられる
・ 仙台城(青葉城)の「大手門」で、西公園側から大橋の先に見えたが仙台空襲で脇にあった隅櫓とともに焼失した/(写真に大橋が写れば、S20年7月以前の撮影)
・ 菊花桐葉の金紋は後水尾天皇から賜ったもの(「仙台の産業と観光 1936年刊」P53、P61)
* 1871年(M4)以降、仙台城二の丸跡に東北鎮台(M6年仙台鎮台、M21年に第二師団と改称)がおかれ、大手門は明治期から師団司令部の正門だった
* 1889年(M22)、この頃、師団司令部の経理部が大手門を破壊せんとす / 師団長佐久間左馬太これを却け、大蔵省に修理予算を請求し、金具の鍍金(めっき)復元等により外観を一新す(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1931年(S6)12月14日、「大手門」と脇にある「隅櫓」がともに旧国宝に指定される
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(「隅櫓」も)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除
* 1967年(S42)、隅櫓のみ、民間の寄付により外観が再建された
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「目で見る仙台の歴史」P50/「重訂 宮城県郷土史年表」P284、P428 /「仙台城」(昭和42年 仙台市教育委員会発行)P234~P235/「仙台の産業と観光」P53、P61/「仙台年表」P201/「仙台市史10 年表」P322
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99-080、64-02など「写真データベース」分類D-12-01の写真全部/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P247に大手門正面(東面)詳細、南面/同P248に門扉詳細/「目で見る仙台の歴史」P50~51(大手門の正面と背面)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
概説 |
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・ 経済統制の結果、食糧・衣料などは統制会社ができて割当制となった。宮城水産株式会社も魚市場を東七番丁に移して魚類配給の元締めをした。衣料も統制会社ができた。
・ 終戦間近には青物も不充分で、市民は野に野草を摘み、南瓜や甘藷のつるまで配給された。買出しに田舎へ出ても物と交換でなければ手に入らなかった。
・ この現象は終戦後も続いた。物資不足のため配給で足りぬ人々は農山漁村へ買出しに出かけた。郊外から物資を買い集めてきてさばく人々もあらわれた。また、衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「目で見る仙台の歴史」P170
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「目で見る仙台の歴史」P170(「家庭用食糧通帳」と「衣料切符」)/同169(買出し列車に必死に乗り込む)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P52(S9年、衣料切符、カラー)/同P53(S18年改正衣料点数早見表、カラー)/同P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園 開園 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)、失業対策事業で、広瀬川沿いの評定河原が埋め立てられ、北半分は東北帝国大学のグラウンドとなり、南隅は動物園用地となった
* 1936年(S11)4月1日、仙台市動物園が評定河原埋立地に開園(当時、東京以北で唯一の動物園で、昭和12年12月までの入場者は31万人)
・ 入園料(昭和11年) 大人15銭、軍人10銭、小人5銭(昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64)
・ 坪数8150坪、収容動物150種500点、初代園長漆沢忠雄(「重訂 宮城県郷土史年表」)
・ 象・虎・ヒョウ・白熊など35種100頭を、閉園した東京浅草の花屋敷動物園から譲り受け、それに加えて200余頭を購入した(「仙台はじめて物語」)
・ 3月29日に収容動物到着、4月1日開園、165種471点(仙台市史10 年表)
・ 入場者、昭和11年(4月~12月)に31万人
・ 入場者 昭和12年17万人、13年20万人、14年26万人と戦乱(日中戦争)が拡大しても、観客は減るどころか年々増えていった(「戦争のころ 仙台、宮城」P40)
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「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 年表」P108/「仙台はじめて物語」P104~105 /「仙台市史10 年表」P288/「重訂 宮城県郷土史年表」P451/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「市史せんだい Vol2」P15/昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P40
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53-119/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204(仙台市動物園開園記念観覧券と市電乗車券)
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スポーツ大会(昭和戦前期) |
宮城県体操大会 |
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* 1939年(S14)6月4日、第2回宮城県体操大会(宮城野原)
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「目で見る仙台の歴史」P166
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「目で見る仙台の歴史」P166
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仙台簡易保険局/仙台地方簡易保険局 |
開局 |
1936年(S11)/1949年(S24) |
* 1936年(S11)4月、北一番丁(現・上杉3丁目)に「仙台簡易保険支局」が開局 / 同年2月に鉄筋コンクリート4階建て庁舎建設(当時は東北地方随一の大ビルディング)
<戦後、米軍が接収>
* 1945年(S20)9月、進駐軍が接収 / 敗戦後は、関東以北の占領に責任を持つ進駐軍(米軍)の軍団司令部が仙台におかれたが、占領の中枢機能を置くため、簡易保険支局庁舎を接収 / のちに米軍病院(172ステーション・ホスピタル)として使用 / 病院は1950年(S25)からの朝鮮戦争で負傷した兵士で満杯になり、多い時には250病床に500人以上が入院し、廊下までベッドが置かれた / 戦死した遺体を本国に送る前にここできれいにする作業を日本人医師が高額の報酬で手伝った(「戦争のころ 仙台、宮城」P245)
<接収中は移転し業務>
* 簡易保険局は市内の学校(8校)に分散、その後に原町安養寺下の元陸軍造兵廠仙台出張所跡に移転
* 1946年(S21)7月1日、仙台貯金支局・仙台簡易保険支局設置
* 1949年(S24)、郵政省の設置に伴い「仙台地方簡易保険局」と改称
* 1949年(S24)末~1951年(S26)8月、長町新屋敷に庁舎建設し移転(S26年1月17日、工事中に1棟全焼)
<接収解除>
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍・駐留軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビル(北一番丁)が、12年ぶりに返還される / 病院として使用されていたので返還後内部を改修
* 1958年(S33)6月、改修工事完了し、長町から移転(のち、仙台地方貯金局と共同利用)
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「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 年表」P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P585/「仙台市史10 年表」P313、P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P285/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584~585/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245
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99-100/「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584(簡保ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P41(S33、仙台駅界隈空撮、画面右上の白いビル)
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
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「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
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99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
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火災(地域) |
南町大火 |
1919年(T8) |
* 1919年(T8)3月2日未明、南町「電話横丁」北側から出火、折からの強風で南町から東二番丁まで燃えひろがり、12ケ町を焼き払って午前7時半鎮火、明治以降最大の出火災害となった / 仙台郵便局・電話交換局・東北学院中学部校舎・芭蕉館・横浜火災を含む700余戸余が焼失(「仙台市史 続編第1巻」P363では、焼失698戸 / 「仙台あのころこのころ八十八年」P243では707戸焼失) / この大火で南町は拡幅され大通りとなった
* 1927年(S2)、火災地の道路改修、8年がかりの区画整理工事完了
(良覚院丁、南町、南町通、柳町、柳町通、北目町、北目町通、東一番丁の各町内の、全部または一部) / 東一番丁は大町角の藤崎以南が拡幅され、通称「大通り」となった
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「目で見る仙台の歴史」P156/「仙台市史 年表」P98 / 「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P107/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P363~364/「番丁詳伝」P166
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「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P106~107の写真/「目で見る仙台の歴史」P156に「南町大火の焼け跡」
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南町大火 |
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1919年(T8) |
* 1919年(T8)3月2日未明、南町「電話横丁」北側から出火、折からの強風で南町から東二番丁まで燃えひろがり、12ケ町を焼き払って午前7時半鎮火、明治以降最大の出火災害となった / 仙台郵便局・電話交換局・東北学院中学部校舎・芭蕉館・横浜火災を含む700余戸余が焼失(「仙台市史 続編第1巻」P363では、焼失698戸 / 「仙台あのころこのころ八十八年」P243では、焼失707戸) / この大火で南町は拡幅され大通りとなった
* 1927年(S2)、火災地の道路改修、区画整理工事完了
(良覚院丁、南町、南町通、柳町、柳町通、北目町、北目町通、東一番丁の各町内の、全部または一部)
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「目で見る仙台の歴史」P156/「仙台市史 年表」P98 / 「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P107/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P363~364
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「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P106~107の写真/「目で見る仙台の歴史」P156に「南町大火の焼け跡」
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博覧会・フェア |
東北遺物博覧会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)4月、東北産業博覧会開催中、宮城県図書館と商品陳列所を会場に、伊達家の宝物を中心に、東北各藩の違宝を陳列した
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「目で見る仙台の歴史」P153
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「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」
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税務署 |
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* 1914年(T3)9月20日、「仙台税務署庁舎」、北一番丁・上杉山通に建設し移転
* 1948年(S23)1月、「仙台税務署」を、東二番丁73(旧憲兵跡)に移転
* 1948年(S23)12月、仙台南税務署新設、仙台税務署は仙台北税務署に名称変更
* 1950年(S25)3月、北仙台税務署庁舎を、東二番丁73に新築
* 1970年(S45)3月25日、旧・仙台北税務署跡(森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)に、仙台中央警察署が庁舎建設
(仙台北税務署は、2020年現在、青葉区上杉1丁目1番1号)
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「目で見る仙台の歴史」P150/「仙台市史10 年表」P245/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P531、P541、P658
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台税務署庁舎(T3建設)/
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松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
オープンとその後の経緯 |
1885年(M18)~1975年(S50) |
松島座(パテー館、仙台日活館)は、東一番丁の立町通り角のすぐ南にあった映画館(戦後は立町通りが拡幅されて広瀬通り角になった)
<明治・大正・昭和前期>
* 1885年(M18)2月、東一番丁28に、松島座開座(芝居小屋)
* 1892年(M25)、洋風に改装
* 1912年(M45)3月13日、仙台パテー館(映画常設館)となる
エムパテー会社取締役の内山梅吉が入手し、電飾輝く洋館仕上げに大改造し、M45年3月、仙台パテー館と改称し映画常設館となる
* 1919年(T8)7月、再び松島座と改称し、歌舞伎でオープン
* 1924年(T13)12月、失火焼失し1年間休座
* 1925年(T14)12月、再建し日活パテー館と改称
<編者注>[写真20-44][写真99-018]では、松島座名ののぼり旗で、T14年6月設立の「マキノプロダクション映画」上映や、『修羅八荒』(T15)上映が確認できるので、T14年12月再建後もしばらくは「松島館」だったことが確認できる
* 1932年(S7)12月、仙台日活館に改称、一部改装して初の椅子席に(「番丁詳伝」P214によれば、仙台初の椅子席映画館)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し閉館
<戦後復活し、仙台日活劇場に>
~場所は、広瀬通り・東一番丁通り交差点の南東角~
* 1946年(S21)12月、仙台日活劇場として、東一番丁26に再オープン(「仙台映画大全集」)
* 1947年(S22)1月、日活映画劇場、東一番丁27に開設(530席)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1975年(S50)5月、閉館 / 跡地にジャスコ開店(1984年(S59)2月に、
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「目で見る仙台の歴史」P146/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史 / <参考>「東一番丁物語」(柴田量平著)P90~106、P235/「重訂 宮城県郷土史年表」P516/「番丁詳伝」P214
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仙台パテー館は、99-015、20-43、20-40/同スケッチ画は98-005/ 松島座は99-016、20-44
/ 戦後は、16-43、18-12、22-01
/「新・目で見る仙台の歴史」P146(パテー館のビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P228(仙台日活週報、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40の右角(S33年、俯瞰、仙台東映と向き合う)
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東北学院(沿革) |
戦前期 |
1891年(M24)~1945年(S20)夏 |
<東北学院>
* 1891年(M24)9月11日、東二番丁南町通角に仙台神学校新校舎(赤煉瓦造2階建スレート屋根、方形五層の塔および円錐形スレート屋根の円塔、城郭風ゴシック建築)が完成 / 仙台神学校、その年に校名を「東北学院」と改称し、予科2年・本科4年・神学部3年とする
* 1895年(M28)、予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、さらにその上に神学部3年を置く
<仙台日本基督教会→東二番丁教会→東一番丁教会>(「番丁詳伝」P193)
* 1902年(M34)10月、仙台日本基督教会献堂式挙行(東二番丁南町通角・仙台神学校校舎に隣接、木骨赤レンガ造り、壁柱と窓縁は御影石、スレート葺きで中央に方形の塔、ドイツ人リチャード・シール設計)
* 1931年(S6)、東二番丁教会と改称、S20年仙台空襲で焼失
* 1951年(S26)5月、敷地を三馬弘進ゴムに売却し道場小路(現・一番町1丁目)に移転、
* 1953年(S28)、献堂式を行い東一番丁教会と改称
* 1955年(S55)、パイプオルガン設置
<東北学院>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部とし、文学部を文科、神学部を神学科と改称 / 東二番丁に普通科校舎完成。
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1918年(T7)、専門部を改組、神学科・文科・師範科・商科とする
* 1919年(T8)3月、南町大火のため中学部校舎(東二番丁)全焼
* 1922年(T11)6月、中学部校舎再建(東二番丁・通称赤レンガ校舎)
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
* 1926年(T15)、専門部校舎落成(南六軒丁)~設計:横浜のモルガン、建築:新田工務店、鉄筋コンクリート3階建~
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、ラーハウザー礼拝堂献堂式(南六軒丁) / シャンデリア、スチーム、鉄柵などは戦時に供出
* 1937年(S12)、神学部廃止(東京日本神学校と合同)
* 1940年(S15)5月、南町通旧神学部校舎および敷地を日産株式会社に売却
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置(S20年12月、工業専門学校と改称、S22年廃止)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半を失う
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「目で見る仙台の歴史」P122、P164/「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P36、P65~P69/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P84、P85、P87、P91/「仙台市史10 年表」P268、P278/「番丁詳伝」P193
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(仙台神学校)/「東北学院創立七十周年写真誌」P11とP50に、南町通の仙台神学校校舎、P11に同玄関と講堂内景/「目で見る仙台の歴史」P112に南町通りの仙台神学校(東北学院神学部)/同P149に「専門部校舎(大正15年)」/99-068(神学部校舎)、43-30(神学部校舎と東二番丁教会)/「目で見る仙台の歴史」P138と「市民の戦後史(仙台市)」P23に、「日本基督教会」/目で見る仙台の歴史」P164に「ラーハウザー礼拝堂」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P124(日本基督教会堂)
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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商店など |
永楽園(茶舗) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)、山形市からきて、国分町で開業
* 大正初期に家具販売も、銘茶・漆器・家具を扱う家庭洋品百貨店に
* 漆器や家具販売部門が独立 / 茶は一番町
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「番丁詳伝」P99
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永楽園の七夕飾り物(79-01 ほか)
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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商店など |
よろづ園(茶舗) |
1829年(文政12年) |
* 1829年(文政12年)、創業
* 1897年(M30)、藤崎と土地を交換
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「番丁詳伝」P99
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77-19 、77-17 / よろづ園の七夕飾り物(77-10 ほか)
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商店など |
大竹園(茶舗) |
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・ よろづ園とともに、仙台の二大茶商とうたわれ、一族が市内各所に茶舗をひらく
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「番丁詳伝」P99
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53-98
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商店など |
村上屋餅店 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)、創業
・ 戦前、柳町の大日横丁にあった / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた
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「番丁詳伝」P97
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18-35
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仙台七夕 |
明治・大正期/七つ道具 |
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【「番丁詳伝」P94~95】
・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり
・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている
・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった
・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている
<七つ道具>
・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期
・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった
(1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。
(2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという
(3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。
(4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。
(5)巾着 富貴を祈りつくられる。
(6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。
(7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。
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「番丁詳伝」P94~95
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南町通り(多門通り) |
概要 |
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・「南町通り」は、仙台駅前から裁判所(戦前は宮城控訴院、戦後は仙台高等裁判所)へ向かう通りで、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路だった
・ 仙台で初めて街路樹が植栽され、歩車道の区別が設けられるなど、大正期から昭和期にかけ整備がすすんだ(「番丁詳伝」P81)
・ 仲見世(南町通り) 大正年間、毎年年末25日頃より、道路真ん中に一間くらいに仕切った板囲いの小屋が両側にできた。(露天商が東京など全国からやってきた)
・ 戦前から、コンクリート舗装されていた
・ 1933年(S8)1月、第二師団(多門師団長)が満州事変から「凱旋」し、これを機に「多門通り」と改称され、1945年(S20)日本敗戦後、再び「南町通り」となった
* 1926年(T15)11月、仙台初の市電が、「仙台駅前」から南町通りを経由し、大橋や川内の第二師団への入口である「大町一丁目」まで開通した
* 1933年(S8)1月、 第二師団(師団長の名を関して、通称多門師団)が「凱旋行進」 / 「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを行進
* 1933年(S8)1月、「多門通り」と改名(「凱旋」を記念して、仙台市会が当時の師団長の名を冠した改名を決議)
* 1945年(S20)7月、 仙台空襲で南町通り周辺一帯も焼失し壊滅的な被害
* 戦後は「南町通り」に復名
* 1953年(S28)月日、南町通り・西公園線の一部の舗装が、日米行政協定による事業として、一気にすすむ
* 1963年(S38)、仙台初の地下ケーブルの水銀灯点灯、歩道の舗装も完成、街路樹もヤナギから唐カエデに植え替えられた(「仙台市史 続編第2巻」P167)
* 1976年(S51)3月、仙台市電廃止
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「番丁詳伝」P81/「わが心の仙台駅前史」P43/「仙台市史 年表」P103、P106、P130/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
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53-91、65-01-01、20-02など分類A-05-06「南町通り」の全写真 / 戦災焼失後の様子は、63-04/「目で見る仙台の歴史」P198(南町通り東五番丁交差点、朝のラッシュ、S30年代前半)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P100(S51、東一番丁角以東、カラー)
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自警団 |
発足 |
1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より>
・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった
・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71)
* 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足
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「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101
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22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字)
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自動車など各種車両台数 |
自転車(仙台市/宮城県内) |
1889年(M22)~1935年(S10)頃/1918年(T7) |
<仙台市内>
* 1889年(M22)、5台(「番丁詳伝」P63)
* 1897年(M30)、30台(「番丁詳伝」P63)
* 1905年(M38)、213台(「番丁詳伝」P63)
* 1916年(T5)、1652台(「番丁詳伝」P63)
* 1935年(S10)頃、2万1978台(「仙台の産業と観光」P27)
<宮城県内>
* 、1万台を越える(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
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「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)/「仙台の産業と観光」P27/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193
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、
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自動車など各種車両台数 |
馬車(仙台市) |
明治・大正 |
* 1889年(M22)、二頭立、8輌
* 1897年(M30)、一頭立、2輌
* 1905年(M38)、一頭立、1輌
* 1916年(T5)頃、12輌
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「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)
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商店など |
かき徳 |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)、仙台市東一番丁に開店 / 仙台初のかき専門店 / 当時、本店の塩釜で種牡蠣を養殖し、仙台支店で販売した
・ 戦後はドリアン・キャンディーなどを扱った、
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「番丁詳伝」P220~221
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44-03
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ビル建設 |
興和ビル |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)、青葉通りに面した興和ビル完成 / 地上15階建て、高さ63.8mで、当時は仙台3番目の高さ / 日本興業銀行がある / 建物南側の滝と緑の「フラタニテ・パーク」が市民に開放されている
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「番丁詳伝」P211
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商店など |
大一楽器店 |
創業年不詳 |
・ 大町4丁目で和楽器店開業
・ 2回目孝吉が戦前、東一番丁の「大通り」に移転し、音楽ホールつきのビルを建設 / 杮落しは藤原義江のリサイタル、以後仙台の音楽愛好家の殿堂となった
・ 店主孝吉夫人の「いとさん」は、番街三美人の一人と言われ、いつもきりっとした身嗜みで物故するまで店頭に立っていた
・ 戦後まもなく(進駐軍がいた時代)、2階に米軍下士官兵専用のキャバレー「「セント・クイーン」があった(写真番号44-35に、その入口が写る)
・ ホールは、戦後「名画座」(洋画のリバイバル館)となる
* 1984年(S59)、野村大一ビルを完工 / 長崎屋(カステラ)、マクドナルド、文明堂などが入居
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「番丁詳伝」P211
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戦前は、20-45、22-55、53-117/戦後は、53-08、44-35/「市民の戦後史(仙台市)」P70
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
一番町の年中行事 |
1987年(S62)現在 |
・ 初売り 1月3日
・ どんと祭 1月14日
・ 節分会(4丁目) 2月初旬(豆まき、厄払い)
・ 青葉くじセール 2月~3月
・ 春の売り出し(4丁目) 3月~4月
・ なんじゃもんじゃ広場(4丁目) 5月5日、昭和51年開始(屋台、ゲーム、音楽会やおどり、小イベント15~20種展開)
・ 三社まつり 7月 昭和55年開始(三社まつりは、大町のえびす神社、一番街の和合神社、大通りの野中神社の三社の神輿が一番町と中央通りを渡御 / 前夜祭の土曜は、一番街では夜店を出しうなぎつかみ、大通りはチャリティー・オークヨンとカラオケ大会、おおまちでは音楽祭と大町小町コンテスト)
・ 七夕まつり 8月6~8日
・ 金蛇水神社祭典(4丁目) 8月下旬(神輿渡御、夜店)
・ 体育まつり(一番街) 10月体育の日 S58年開始(体力測定、栄養相談など)
・ 市民まつり(一番街) 11月1日~3日
・ 青葉くじセール 12月
・ 年末チャリティー歳の市(一番街) 12月26~30日
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「番丁詳伝」P198~199
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流行歌「ミス仙台」 |
発売 |
1936年(S11)夏 |
* 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。
(「番丁詳伝」P197)
<歌詞>
一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川
若きひと夜の恋ごころ
仙台 仙台 なつかしや
二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露
君と歩みし思い出や
仙台 仙台 なつかしや
三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁
三味の音いろも泣きぬれて
仙台 仙台 なつかしや
*「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
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「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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アーケード |
一番町四丁目買物公園 |
1954年(S29)ほか |
「四丁目買物公園」は、一番町商店街のうち、一番北の「定禅寺通り角から広瀬通り角まで」
<第1代以前>
* 1953年(S28)?、「ズック布張り」のアーケードが、三越南~森徳横丁角の東一番丁東側のみに完成(「番丁詳伝」P178)
<第1代>
* 1954年(S29)7月、第1代アーケード完成(定禅寺通角~広瀬通り角)
* 同年12月11日、定禅寺通角~南町通り角までを含めた東一番丁通り全体に統一デザインの第1代アーケードが完成(東北初の商店街アーケードだった) 奥行4.5m、屋根は一部可動式、銀色の柱、ジュラルミン製、天井に二列の蛍光灯(第1代の特徴は、天井の蛍光灯が道路に対し直角)
* 翌12月12日、完成祝賀仮装行列挙行
<第2代>
* 1970年(S45)12月2日、北振会(森徳横丁角以北)アーケード改築完成(高さ5.5m、照明に水銀灯を使いさらに明るくなる)(「番丁詳伝」P179では、定禅寺通~虎屋横丁間に完成)
* 1971年(S46)、中央会(森徳横丁角~広瀬通り角)のアーケード改築完成(「番丁詳伝」P179では、虎屋横丁間~広瀬通り間に完成)
<第3代>
* 1982年(S57)10月2日、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(高さ7mの透明なアーケード、茶系統を基調にした路面、12種約70本の街路樹、広瀬通角には噴水付き時計塔で世界の姉妹都市5都市の民族衣装人形つき)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「番丁詳伝」P178~179、P201、P203~205 /「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10
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<ズック布張り>
「市民の戦後史(仙台市)」P73の左側(S28年頃)
<第1代>は、99-014、22-61
/ 第1代完成祝賀仮装行列は、51-01、51-02/「新・目で見る仙台の歴史」P178(蛍光灯が点灯したアーケード街)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、空撮)
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アーケード |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」 |
1954年(S29)ほか |
「一番町一番街」は、一番町商店街のうち、「広瀬通り角~中央通り(旧・大町通り)角まで」
・ 大正時代、「大内ビルアーケード街」があった(大町角の大内屋、西内楽器店、玉沢総本店、家庭金物の岡元、銘仙専門店の大丸などが長さ15mほどが広い庇でつながる)(「番丁詳伝」P169)
<第1代>
* 1954年(S29)1月14日、大町通り~広瀬通り間、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229=出典:毎日新聞)
* 1954年(S29)1月、大町通り~広瀬通り間、アーケード新設(長さ26間完成)(「重訂 宮城県郷土史年表」P571)
<第2代>
* 1972年(S47)、一番街アーケード改築(高さ5.2m)
<第3代>
* 1979年(S54)9月1日、「一番街買物公園」完成 街路樹・ストリートファニチャーを設置、歩行者専用道路 / 時計塔2基(モチーフは支倉常長のローマ法王謁見、文字盤盤に世界古地図)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
<第4代>
* 1993年(H5)7月、一番街アーケード完成 (高さ18mの全天候型高層アーケード「ぶらんどーむ一番町」 がオープン)
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「番丁詳伝」P169、P200、P203~205/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P127、P128
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<第1代>は、22-58、18-09、22-01/ 「仙台一番町一番街商店街ぶらんど~むのHP」に、第1代、第2代のアーケードの写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P80(第1代アーケード)
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市場 |
駅前マーケット |
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戦後のヤミ市からできたマーケットの1つでバラック小屋が集まっていた / 場所は東五番丁・南町通り交差点北側 / 経営は仙台駅前商業組合
<火災>
* 1949年(S24)3月16日、46戸焼失
* 1949年(S24)10月10日、駅前マーケット(青葉通り)67戸に撤去代執行(「仙台市史 別冊2」P382)
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「番丁詳伝」P168/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<年表> |
明治期~平成10年 |
M30.2.11、藤崎が東一番丁に進出 / T8.3、南町大火 / 南町大火後の道路改修計画(T9~S2)で、東一番丁では大町角の「藤崎」以南が拡幅され、通称「大通り」となった / T14.12、大映文化シネマがオープン / S23.2.20、東一番丁に昼火事あり、東一中央市場と南松竹映画全焼 / S29.12.2、第1代アーケード完成 /S50.11.20、大通りアーケード改築完成、藤崎以南にクリスタル製シャンデリア点灯 / S52、大通りアーケード改築 / S53、大通り30周年記念行事 / S61.11.29、電動式全蓋(ドーム型)アーケード完成 / H9.11.19、藤崎アネックス開店
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「番丁詳伝」P166/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「仙台市史 年表」P115、134、218 / 「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P575
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20-45、22-55、22-59、53-117、20-01-01、64-03など写真分類A-02-03(東一南部)の全写真
/ 戦後間もない東一番丁南部は、「目で見る仙台の歴史」P172、「市民の戦後史(仙台市)」P25
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街灯(東一番丁北部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217)
・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)
・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去
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「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-38、16-39、16-40、18-16
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仙台七夕 |
戦後エピソード |
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* 1949年(S24)、商工会議所を中心に、市、県、各商店会で七夕協賛会が結成され、開催期間を8月5日から3日間と決定(「番丁詳伝」P157)
* 1953年(S28)から、仙台商工会議所が公募してミス七夕コンテスト
* 1954年(S29)、東一番丁にアーケード設置され、親竹・子竹と大小の七夕飾り(高さ制限、歩道で2.1m、車道で4.5m以下)
* 1955年(S30)、壱岐紙店が雨に強いシリコン加工の七夕紙の試作成功
・ 七夕流しの習慣は清掃法の強化でなくなる
・ 七夕音頭、七夕踊り制定され、一番町をパレード(開始年不詳)
* 1956年(S31)8月6日、NHK仙台放送局が、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1958年(S33)、山下清が来仙、仙台七夕を描く
* 1971年(S46)、音と光を取り入れて「動く七夕パレード」開催(会場は定禅寺通り)
* 1986年(S61)、ミス七夕コンクールが13年振りに復活(5人のミス七夕選出)
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「番丁詳伝」P157、P187/「市民の戦後史(仙台市)」P92/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31
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「市民の戦後史(仙台市)」P92(S48年のミス七夕たち/七夕を描く山下清画伯)
NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P17(東一番丁北部の七夕飾り)
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ひらつか(東一番丁) |
戦後、進駐軍専用店を経営 |
1948年(S23) |
【「番丁詳伝」P152より】
* 1918年(T7)、平塚長蔵氏、塩釜で「ひらつか製菓舗」創設
* 戦時中は、多賀城にある海軍工廠の御用商人として自由に農産物を入手でき、漬物などを大量に生産
* 戦後、仙台・東一番丁(大通り)の一力邸の焼け跡を取得
* 1948年(S23)、敷地内に50m幅の青葉通りが造成しつつあった当時、敷地はヤミ市商人の密集中心地であったが、撤去後、「コックドール」(2階建ての洋風店舗)を建築、開業 / アメリカ進駐軍家族専用の店舗(レストランとフードマーケット)で日本人はオフリミット / 子息の長治氏が英語が話せたことから、進駐軍民生部に日参し、ヤミ市撤去と米軍関係者の利用施設を実現 / 進駐軍専用施設なので原材料の入手に困ることはなかった
・ 1950年(S25)の朝鮮戦争開始により在仙台米軍の大半が引上げ後は、方針を日本人向けに転換した
・ 仙台市高砂に最新技術を取り入れた東北初のオートメーション工場を建設
・ 一番町店舗の改築を行い、和・洋・中の総合レストランビルを完成
・ 平塚製パン、平塚物産、ひらつか、平塚販売等を展開
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・ 昭和26年の絵葉書(写真20-01-01)でも、「ひらつか」は表示塔に「ON LIMITS RESTAURANT」とあるように、進駐軍専用のフードマーケット(1階)とレストラン(2階)だった
・ 昭和28年からは、パン・洋菓子販売と日本人むけに喫茶・レストランを経営
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「番丁詳伝」P152/昭和26年発売の絵葉書20-01-01の内容から
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20-01-01、22-07、58-01、58-03
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警察(戦後) |
自治体警察 |
1948年(S23)2月~1954年(S29)6月 |
<戦後の警察官>
* 1920年(S20)秋~1946年(S21)11月、警察官は識別を容易にするため、上部に「警察」、下部に「POLICE」と書かれた白布腕章をつけたが、1年有余後に汚損等外観上不体裁ということで廃止(「番丁詳伝」P151)
* 1946年(S21)1月、GHQ覚書により、警察官、佩刀とりさられて丸腰に(かわりに警棒) / 特別に拳銃形態の場合あり(「仙台市史」本編2」P654)
* 1946年(S21)12月24日、仙台北警察署に初の婦人警察官11名配属(「番丁詳伝」P151)
<自治体警察>
* 1947年(S22)12月17日、警察法公布(地方分権化・民主化を目的に国家地方警察・自治体警察設置)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P26)
* 1947年(S22)12月22日、宮城県警察部の機構改正 / 従来の警察署が、「地区警察署」と「市町村警察署」の2本立てとなる / 地区警察署は、仙台地区警察署以下19ケ署 / 市町村自治体署は、仙台市北署以下41ケ署を新設(重訂 宮城県郷土史年表P523)
* 1948年(S23)2月11日、自治体警察発足(重訂 宮城県郷土史年表P525)
* 1948年(S23)3月7日、新警察制度発足、仙台市警察開庁(仙台市史10年表、岩波ブックレット「年表 昭和史」P27、「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1948年(S23)3月7日、自治体警察である仙台市警察本部を設立
* 1950年(S25)1月17日、仙台市警察本部庁舎新築落成移転
* 1954年(S29)6月8日、警察法改正公布(国家地方警察と自治体警察を、都道府県警察に一元化、中央集権化を強める)
* 1954年(S29)7月1日、仙台市警察が廃止され宮城県警察に引き継がれる
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「番丁詳伝」P151/「仙台市史」本編2」P654/岩波ブックレット「年表 昭和史」P26、P27、P33/「仙台市史 年表」P115、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P523、P525/「仙台市史10 年表」P318、P323/「仙台あのころこのころ八十八年」P250
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「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市警察本部)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(仙台市警察本部旗)/「市民の戦後史(仙台市)」P80(S29年6月、仙台地区警察署閉庁式看板)
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仙台空襲 |
仙台北警察署の報告 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲避難中の状況>
【仙台北警察署『仙台空襲の被害と民防空機関の活動状況』より】「東一番丁巡査派出所の後藤、佐藤両巡査にして東一番丁界隈の避難者約百名を誘導、台原方面に向かいつつありたるが、北一番丁野沢醤油店前広場に至るや、前途は火焔にて進む事不能、風の為火焔は渦巻き、行く事は完全に阻まれ如何とも成難き状況に至りたり。 両巡査は此処は安全なりとは謂ひ兼ぬるも避難不能なり。 俺達と此処へ止れ、此処より動くと死ぬぞと連呼し狂象の如き避難者を沈静せしめ事なきを得たり。」
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「番丁詳伝」P151
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仙台空襲 |
空襲体験記 |
1945年(S21) |
<空襲体験記>
「番丁詳伝」P151に、『仙台空襲』に載せられた、空襲体験者の手記、空襲直後の状況の抜粋あり
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「番丁詳伝」P151
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