項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
宮城県旗の図案 |
選定 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、県旗図案を全国的に公募、みやぎの「み」を図案化した作品が当選
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「重訂 宮城県郷土史年表」P626~627
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宮城県弘報誌「みやぎ」 |
第1号 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、宮城県弘報機関誌「みやぎ」1号発行(月刊)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P626
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仙台合同庁舎 |
県庁構内 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月1日、県庁構内外記丁105に竣工開庁(地下2階、地上9階)、東北財務局ほか16官署が入る
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「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「市民の戦後史」P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P40(旧・東北財務局庁舎)/同181(仙台地方合同庁舎)
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国民健康保険 |
仙台市、80歳以上10割給付 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月1日、仙台市国民健康保険は、80歳以上の老人に10割給付実施
* 1966年(S41)10月1日、仙台市国民健康保険、家族給付を7割とする
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「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P628
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台風被害(戦後) |
台風24号 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)9月18日、台風24号東北に接近し、強風のため被害甚大
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「重訂 宮城県郷土史年表」P621
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東京オリンピック(昭和39年) |
開催 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)10月、オリンピック東京大会(参加94か国)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P616
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因んだ七夕飾り(40-04)/「市民の戦後史(仙台市)」P164(聖火リレー、富谷町付近/記念銀貨交換の列)
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青葉城 |
石垣損壊 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)6月16日、新潟地震で、仙台は震度5、青葉城址の石垣の一部が崩れる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P614
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親切運動 |
開始 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)2月1日、仙台市が開始(島野市長ら5氏が提唱)
市民や団体から「親切実行者」を推薦してもらい、個人には親切バッヂ、団体には親切楯を贈り、その行為をたたえるもの
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「重訂 宮城県郷土史年表」P612/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250~251
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新産業都市 |
仙台湾地区を指定 |
1964年(S39) |
<全国総合開発計画>
* 1962年(S37)制定、新産業都市と大規模地方開発都市が車の両輪
<新産業都市>
* 1963年(S38)7月12日、仙台湾地区を新産業都市指定に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区(仙台湾臨海部)、全国15地区とともに新産業都市建設区域に指定(昭和50年目標に計画推進)
「仙台市史 続編第1巻」P369~370に計画概要、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775に、建設基本方針(昭和39年3月3日)、建設基本計画(S39年12月25日)につき記述あり
<大規模地方開発都市>
全国総合開発計画の具体的手法としての新産業都市指定と同時期に、経済企画庁により仙台市は「大規模地方開発都市」に指定された(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P776)
<新全国総合開発計画>
* 1969年(S44)5月、閣議決定
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<仙台新港>
* 1969年(S44)11月13日、仙台新港定礎式
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港、開港式
・ 1973年(S48)の「石油ショック」は高度経済成長路線の転換を迫り、戦後初めてのマイナス成長 / 仙台市の第二次産業の成長と停滞は、そのまま日本経済の歩みを反映し、仙台湾工業地帯への企業進出が鈍り、仙台港も工業港より商業港への色合いを強めていく(「仙台市史 特別編4 市民生活」P370)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P612、P654、P678/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P369~370/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775、P776、P790/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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「市民の戦後史(仙台市)」P156(新産業都市仙台地区の建設計画模型、仙台新港予定地の長浜海岸一帯空撮)
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国定公園 |
蔵王国定公園 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)8月8日、蔵王連峰を国定公園に指定(宮城県、山形県にまたがる)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P609
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隅櫓 |
復元 |
1967年(S42) |
昭和35年頃、仙台市の民生委員をしていた野口増蔵氏が大手門と隅櫓の復元を目指し、一般に呼びかけた / 膨大な資金を要するのでとりあえず隅櫓を復元 / 野口自身棟梁だったので、私財をなげうち乏しい資金に苦しみながらも工事を進め、S42年11月ついに完成(「仙台市史 続編第2巻」P185~186)
* 1963年(S38)2月上旬、隅櫓の復元工事着手
* 1965年(S40)8月、着工の運びとなる(木造漆喰塗込み)
* 1967年(S42)12月25日、隅櫓が民間(仙台城大手門並に隅櫓復興期成会)により外観復元され、復興期成会より仙台市に寄付された
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「重訂 宮城県郷土史年表」P607、P620、P636/「仙台市史 年表」P125/仙台市HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185~186/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P186の写真52(復元された隅櫓)/「市民の戦後史(仙台市)」P202(復元された隅櫓)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P71(S39、工事中断中の隅櫓)
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バス |
長距離バス |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)8月1日、東北急行バスが、東京~仙台間の運航開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P605)(「市民の戦後史(仙台市)」P145では、S38年8月運行開始)
* 1989年(H1)9月21日、仙台~盛岡間、高速バス運行開始
* 1989年(H1)10月2日、仙台~青森間(ハイウェイバス・ブルーシティー)運行開始
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「重訂 宮城県郷土史年表」P605/「続・ 宮城県郷土史年表」P262、P263
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「市民の戦後史(仙台市)」P145(東京仙台間の東北急行バス)
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蔵王エコーライン |
開通 |
1962年(S37) |
* 1960年(S35)1月7日、着工
* 1962年(S37)7月14日、開通
* 1962年(S37)11月9日、全線開通(全長26キロ)
* 1967年(S42)8月4日、全線の舗装完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P605、P606、P633
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「市民の戦後史(仙台市)」P143
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住宅団地 |
四郎丸団地 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)、市営住宅四郎丸団地(784戸)6か年に亘り建設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P603
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青葉山 |
国天然記念物に指定 |
1972年(S47) |
* 1961年(S36)11月3日、県営青葉山ゴルフ場を青葉山に開設落成
* 1972年(S47)7月11日、国の天然記念物に指定される
→ 項目「青葉山植物園」参照
* 1981年(S56)10月21日、青葉山の遊歩道完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P602/「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P134
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スポーツ大会成績 |
全国優勝/五輪メダルなど |
1958年(S33)~1968年(S43) |
* 1958年(S33)11月、世界柔道選手権で神永昭夫選手2位
* 1960年(S35)5月1日、宮城県出身の神永昭夫五段、全日本柔道選手権大会で優勝
* 1960年(S35)5月8日、東北大学、全日本レガッタエイトで優勝、オリンピック出場決まる
* 1960年(S35)、ローマ・オリンピックで、レスリング・フライ級松原正之(仙台高-日本大)、重量あげ・バンタム級三宅義信(大河原高-法政大)がともに準優勝
* 1964年(S39)、東京オリンピックで、重量あけ・フェザー級三宅義信が金メダル、柔道無差別級神永昭夫(東北高ー明治大)が銀メダル
* 1965年(S40)国体サッカーで、仙台育英高校が決勝で浦和西高と引分け、両校優勝
* 1968年(S43)、メキシコ・オリンピック重量あげフェザー級で、三宅義信が優勝(二連勝)、弟の三宅義行が銅メダル
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「重訂 宮城県郷土史年表」P596/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P475~477
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「市民の戦後史(仙台市)」P124(S35年5月、柔道の神永5段が全日本で優勝)(東北大レガッタクルー)/「目で見る仙台の歴史」P195(S33年11月の世界柔道選手権2位で表彰される神永昭夫選手)
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チリ地震津波 |
被害 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)5月24日、三陸沿岸に来襲し、大船渡市、志津川町、女川町などに大被害(三陸一帯で死者119人、流失家屋1,571)
・ 仙台市は被害なし(「仙台市史 続編第2巻」P288)
* NHKテレビ、七ヶ浜村、花渕浜から中継 / 特別番組を6月1日まで実施 / NHKたすけあい、医療巡回実施
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「重訂 宮城県郷土史年表」P596/[NHK仙台放送局60年のあゆみ」P35/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P288
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火災(地域) |
川内追廻 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P595
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住宅団地 |
高砂団地 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)、市営住宅高砂団地(東3822戸、西544戸)を、6か年間に亘り建設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P594
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土井晩翠 |
晩翠忌/晩翠賞 |
1959年(S34) |
* 1952年(S27)10月19日、晩翠逝去(81歳) / 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏
* 1959年(S34)10月19日、制定し、第1回晩翠賞表彰式
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「重訂 宮城県郷土史年表」P594
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東北学院榴ケ岡高校 |
榴ケ岡に高校分校/東北学院榴ケ岡高等学校 |
1959年(S34)/1972年(S47) |
* 1959年(S34)4月、高等学校榴ケ岡校舎を開設(高校生急増対策として県市の要望もあり、榴ヶ岡に男子部の高校分校を設置)
* 1972年(S47)4月、榴ケ岡校舎が独立して東北学院榴ケ岡高等学校となり、8月に泉市市名坂に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P592/「東北学院」HP/「東北学院榴ケ岡高等学校」HP
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高等学校(新制) |
榴ケ岡に高校分校/東北学院榴ケ岡高等学校 |
1959年(S34)/1972(S47)年 |
* 1959年(S34)4月、東北学院高等学校榴ケ岡校舎を開設(高校生急増対策として県市の要望もあり、榴ヶ岡に男子部の高校分校を設置)
* 1972年(S47)4月、榴ケ岡校舎が独立して東北学院榴ケ岡高等学校となり、8月に泉市市名坂に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P592/「東北学院」HP/「東北学院榴ケ岡高等学校」HP
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谷風の墓所 |
改修・公開 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)3月28日、霞目の谷風の墓地を改修し、小公園造成して公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P591
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青葉山植物園 |
開設 |
1958年(S33) |
* 1958年(S33)11月15日、東北大学理学部附属青葉山植物園開設~仙台城址背後の御裏林(おうらばやし)、通称青葉山と呼ばれる丘陵地~
* 1959年(S34)4月から一般公開
* 1972年(S47)、植物園としてはわが国で初めて天然記念物に指定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P590/「仙台市史 年表」P120/東北大学植物園HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P105(青葉山植物園俯瞰)
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住宅団地 |
袋原団地 |
1958年(S33) |
* 1958年(S33)、市営住宅袋原団地(294戸)、3か年に亘り建設
* 1966年(S41)、建設(第二次、338戸)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P590、P629
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東北電力 |
仙台火力発電所/新仙台火力発電所 |
1960年(S35)/1971年(S46) |
* 1957年(S32)6月29日、七ヶ浜町で起工式
* 1959年(S34)7月2日、1号機に火入れ/11月に完成
* 1960年(S35)2月20日、運転開始(17万5000KW)
* 1960年(S35)12月1日、2号機完工式
* 1962年(S37)6月、3号機完成(1・2・3号機で計52.5万KW)
* 1969年(S44)7月、新仙台火力発電所1号機、工事着手
* 1971年(S46)8月20日、新仙台火力発電所1号機、営業運転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P585、P593、P594、P595、P598、P605、P651/「続・ 宮城県郷土史年表」P1
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P599の写真137(仙台火力発電所)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S37年6月、仙台火力発電所(1・2・3号機)外観)
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住宅団地 |
小鶴団地 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)、仙台市営小鶴団地(140戸)建設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P584
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NHK仙台放送局 |
テレビ放送開始 |
1956年(S31) |
* 1955年(S31)3月1日、NHK仙台中央放送局、テレビ試験放送を開始
* 1956年(S31)3月22日、NHK仙台中央放送局、テレビ放送を開始(総合テレビ / 仙台市電がテレビ開局記念花電車運行)
* 1956年(S31)8月6日、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1961年(S36)7月25日、仙台放送会館落成
* 1964年(S39)9月24日、カラーテレビ本放送開始
* 1970年(S45)1月~12月、大河ドラマ「樅ノ木は残った」放送(山本周五郎原作 主演:平幹二朗)
* 1971年(S46年)7月1日、 組織改正で、NHK仙台中央放送局を東北本部に改称
* 1980年(S55)7月25日、 組織改革で地方本部制度を廃止、NHK仙台放送局に改称
* 1987年(S62)1月~12月、大河ドラマ「独眼竜政宗」放送(主演:渡辺謙)
* 2018年(H30)2月4日、青葉区本町二丁目20番1号に新設された放送会館に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P581、P667/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31、P35、P45、P55、P71/NHKのHP
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「目で見る仙台の歴史」P195(NHKテレビ塔)/NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/同P180(街頭でテレビ放送公開)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S31年、街頭テレビ前に集まった黒山の人、NHKテレビ送信アンテナ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P238(S27,大一楽器店の街頭テレビに集まる人々)
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マナスル登頂成功 |
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1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月9日、日本人登山隊がヒマラヤのマナスル登頂(8125m)に成功(マナスル第3次登山隊)
・ 日本人が8000メートル峰の登頂に成功したのは初めてで、この年のニュースだった
・ 特に、槇有恒隊長が仙台出身、(旧制)仙台第二中学校卒業なので、宮城県内ではビッグな話題となった
・ 1956年(S31)7月15日、槇有恒氏を仙台市名誉市民に推挙
・ 1956年(S31)10月13日、文化功労章受章
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「重訂 宮城県郷土史年表」P581、P582/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
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75-01(七夕仕掛物のテーマとなった)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282の写真91(マナスル峰)/「目で見る仙台の歴史」P186(山を背景にマナスル登山隊記念撮影)/「市民の戦後史(仙台市)」P93(マナスル峰、山頂を仰ぐ登山隊員)
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無線中継所 |
完成 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月26日、仙台市国見峠に完成、東京・仙台間のマイクロウェーブ全通し、テレビ中継も可能になる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P579
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駐留軍(米軍) |
進駐軍から駐留軍へ |
1952年(S27) |
☆ 駐留軍以前の「進駐軍時代」は → 項目「進駐軍(米軍)」参照
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、対日講和条約発効し、連合国軍(米軍)の日本占領終る / 占領軍(進駐軍)だった米軍は、以後は駐留軍として日本に基地を置く
* 1955年(S30)4月15日、駐留米軍、労務者250人を解雇し社会問題化
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「重訂 宮城県郷土史年表」P578
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アーケード |
一番町・サンモール一番町商店街 |
1954年(S29)ほか |
「サンモール一番町」は、一番町商店街のうち、「中央通り(旧・大町通り)角~南町通り角まで」(戦前からの通称は、「大通り」)
<第1代>
* 1954年(S29)12月2日、第1代アーケード完成(これで、東一番丁3商店街すべてに、統一スタイルのアーケード完成)
<第2代>
* 1975年(S50)11月20日、大通りアーケード改築完成(高さ日本一)
* 1977年(S52)に大通りアーケード改築
<第3代>
* 1986年(S61)11月29日、開閉自由の全蓋アーケード完成(高さ13.7m、軒高8mで2階部分をショーウィンドウ化できる)、2つのカラクリ人形時計(テーマは遣欧使節/七夕物語) / 中央通りとの角には四辻ドーム(高さ20m)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P575/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P214/「番丁詳伝」P201、P203~205
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<第1代>は、58-01、53-11
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市町村合併 |
昭和の大合併 |
1954年(S29)
~1955年(S30)に合併した県内新自治体名 |
通称「昭和の大合併」は、昭和28年の町村合併促進法=町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準=、及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法による市町村合併で、1953年(S28)~1961年(S36)に実施された。1954年(S29)4月以降、宮城県内でも町村合併が相次いだ。以下は、昭和30年までに合併が行われ誕生した新市町村名(31年以降は略)
<1954年(S29)>
4月には、白石市(新市誕生)、岩出山町、鳴子町、小牛田町 / 7月には、大郷村、宮崎町 / 8月には、中新田町、築館町 / 11月に、津山町 / 12月に丸森町、若柳町
<1955年(S30)>
昭和30年1月~12月に、金成町、亘理町、山元町、宮城村、志津川町、三本木町、河北町、河南町、桃生町、牡鹿町、北上村、本吉町、松山町、蔵王町、岩沼町、名取町、栗駒町、一迫町、迫町、泉村、村田町、川崎町、大和町、鳴瀬町、矢本町、涌谷町
******(S31年以下、略)******
<参考>明治以降、昭和末年までの宮城県内市町村合併の全貌は、「第4 市町村変遷等の状況」http://www.mygsk.or.jp/sityouson/pdf/siryou/04_shichosonhensenjoukyou.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5%E4%B8%80%E8%A6%A7+%E6%98%AD%E5%92%8C%27
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「重訂 宮城県郷土史年表」P572~579
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日米野球 |
全米オールスターズ対全パシフィック |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月22日、宮城県営野球場で、全米オールスターズ対全パシフィック軍(米3-日0)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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宮城県社会福祉事業会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月27日、落成式(外記丁北一番丁角)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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宮城県町村会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月26日、落成式(県庁構内外記丁側)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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映画館(戦後) |
連坊映画劇場 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)2月、連坊小路61に開設(双葉興行、200席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P561
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土井晩翠 |
名誉市民/文化勲章/逝去/胸像除幕 |
1949年(S24)/1952年(S27)/1976年(S51) |
* 1949年(S24)5月2日、土井林吉(晩翠)が、本多光太郎、志賀潔と共に、仙台市名誉市民の称号を贈られる
* 1950年(S25)、文化勲章受章
* 1952年(S27)10月19日、詩人土井晩翠(81歳)晩翠草堂において逝去(「重訂 宮城県郷土史年表」P559)
* 1952年(S27)10月、名誉市民土井晩翠先生市葬
* 1976年(S51)5月9日、青葉山公園で土井晩翠胸像除幕式
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「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「続・ 宮城県郷土史年表」P54
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駐留軍(米軍) |
施設提供と返還 |
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* 1952年(S27)7月26日、日米安全保障条約により、在日合衆国軍に提供する施設及び区域決定(宮城県内)
/ <無期限使用> キャンプ仙台川内地区(川内)、キャンプ・ファウラー(榴ヶ岡)、第172病院(北一番丁の仙台簡易保険局ビル)、レニア・フィールド(南小泉霞の目)、キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)、司令官副司令官官舎(新坂通)、七北田演習場、 <一時使用> 安田ビル兵員クラブ(国分町)、住宅施設(北二番丁)
* 1956年(S31)6月15日、榴ヶ岡キャンプを、日本に返還
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
* 1957年(S32)8月、川内キャンプの接収解除を決定(「仙台市史 続1」P465)
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビルが、S20年9月に接収されて以来12年ぶりに正式返還される
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
<編者注> キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P328では、「キャンプ・シメルフィニヒ」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P582、P585、P586/「仙台市史10 年表」P328/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P465/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282、P285、P854/「市民の戦後史」年表
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レジャーセンター |
竣工 |
1952年(S27)~1998年(H10) |
* 1951年(S26)4月2日、起工式
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター、錦町公園内(東三番丁62)に完成し落成式、あわせて同施設内にサイエンスルームが設置される / 競技場200坪、観覧席2000名(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
* 1952年(S27)6月、東三番丁にレジャーセンター建設 / 2階に競技場、競技場中央にボクシングのためのせり上げ舞台を設置、1階に脱衣場やシャワー室 / ラジオ仙台の放送室、録音室も併設 / 各種の集会、展示場としても使用(「仙台市史 続編第2巻」P203)
* 1959年(S34)8月14日、大時計をレジャーセンター前に建設し除幕式(郵便友の会東北地連が皇太子ご成婚記念に)
* 1968年(S43)3月、サイエンスルームは新設される仙台市科学館(東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開設)へ移転統合
* 1998年(H10)6月、レジャーセンター閉館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P593/「仙台市史 年表」P117、P125/「仙台年表」P224/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203
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53-50/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203の写真58/「目で見る仙台の歴史」P184/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 特別編4 市民生活」P287(S28年撮影)
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銀行(地域の銀行) |
宮城県労働金庫/東北労働金庫 |
1951年(S26)/2003年(H15) |
* 1951年(S26)12月8日、宮城県労働金庫創設(<編者注>宮城労働金庫が正しい)
* 2003年(H15)10月1日 - 東北6労働金庫が合併し、「東北労働金庫」を設立(Wikipedia「東北労働金庫」より)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P553/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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国民金融公庫 |
仙台支所 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)6月1日、仙台市に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P550
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映画館(戦後) |
仙台劇場 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、東三番丁40に開設(大映、888席) / 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P198では、場所は定禅寺通・櫓町
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「重訂 宮城県郷土史年表」P546/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P198
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映画館(戦後) |
銀映画劇場 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、旅籠町に開設(200席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P546
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満年齢 |
使用開始 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)1月1日、「年齢のとなえ方に関する法律」施行(昭和24年5月24日法律第96号)、それまでの数え年から満年齢に変更するために制定された。(Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」)
* 1950年(S25)1月1日より、年令を満で数えることになる(「重訂 宮城県郷土史年表」P540、「菅家年表」P44)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」
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ロータリー・クラブ |
再発足 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)1月18日、仙台ロータリー・クラブ再発足
* 1951年(S26)9月、青葉通りの仙台駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される(「戦災復興余話」P53)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540/「戦災復興余話」P53
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愛の聖母院 |
設立 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)2月27日、愛の聖母園(少女の町)を、カナダ在住カトリック教徒の浄財により、小田原柳沢に創立
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540
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新聞社(戦後) |
創刊年 |
戦後 |
* 1949年(S24)、「人民新聞」を「東北日報」と改題して続刊
* 1960年(S35)5月25日、福島民友新聞社が、「民友新聞・宮城」朝夕刊を発行
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「重訂 宮城県郷土史年表」P535/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P290
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仙台の裁判所 |
仙台家庭裁判所 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)1月1日、発足(片平丁大町頭) / 旧少年審判所を併合して少年問題や家庭に関する調停・審判にあたる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P808
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「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P40
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国旗掲揚 |
戦後 |
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* 1945年(S20)8月、太平洋戦争で日本敗戦
* 1945年(S20)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止
* 1947年(S22)12月27日、GHQ,新年の国旗掲揚を許可
* 1948年(S23)4月1日、GHQ、国民の祝日の国旗掲揚を許すと通告
* 1949年(S24)1月1日、無制限に許可(「重訂 宮城県郷土史年表」P532)
<Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)より>
占領下における日章旗の掲揚禁止、祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、
* 1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」
* 1950年(S25)10月17日、文部省、祝日に国旗、君が代をすすめる通達
* 1977年(S52)7月23日、文部省、小学校の学習指導要領で「君が代」を国歌と規定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)/岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P42、P71
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