項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
瑞鳳殿 |
戦後の再建 |
1974年(S49)~ |
* 1948年(S23)12月、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(重訂 宮城県郷土史年表)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(仙台市史10年表)
* 1966年(S41)8月13日、再建のための基礎調査開始
* 1968年(S43)1月31日、経ヶ峰整備委員会が再建計画案を市に提出
* 1974年(S49)9月11日、再建起工式、再建にともなって墓室発掘調査(9月25日から政宗公の遺体発掘)が実施され、同年10月26日~28日に墓室が一般公開される
* 1975年(S50)5月24日、政宗公の遺体を、瑞鳳殿に再埋葬
* 1975年(S50)7月30日、再建上棟式
* 1977年(S52)7月16日、伊達政宗の殉職者の墓碑復元
* 1988年(S53)3月、再建第1期工事完成
* 1979年(S54)11月30日、竣工
* 1979年(S54)12月4日、瑞鳳殿再建落慶式
* 1980年(S55)、瑞鳳殿資料館開館
* 1981年(S56)10月12日、感仙殿と善応殿発掘調査
* 1983年(S58)8月5日、感仙殿、善応殿を再建、一般公開
* 1985年(S60)5月、感仙殿、善応殿の再建落成式(戦前のとは形が違っている)
* 1986年(S61)5月23日、伊達政宗の座像公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P531、P627、P638/「仙台あのころこのころ八十八年」P258/「仙台市史10 年表」P322/公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 年表」P129、P131、P132、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P32、P41、P43、P70、P104、P134、P164、P205
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第一高等学校 |
1948年(S23) |
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県立仙台第一中学校」が「宮城県仙台第一高等学校」と改称
* 1953年(S28)10月3日、校舎新築起工式(第4代校舎)
* 1958年(S33)3月31日、校舎新築落成(南北校舎)
* 1992年(H4)12月21日、校舎新築竣工(第5代校舎)
* 1994年(H6)4月12日、第二運動場(若林区荒井)竣工落成式
* 2010年(H22)4月1日、男女共学
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「重訂 宮城県郷土史年表」P526/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505/「宮城県仙台第一高等学校」HP
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「目で見る仙台の歴史」P180に、元茶畑の校舎
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銀行(都市銀行) |
住友銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)2月17日、住友銀行仙台支店を新伝馬町に開業
* 1948年(S23)10月1日、株式会社大阪銀行に商号変更
* 1952年(S27)12月1日、商号を株式会社住友銀行に復帰
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「住友銀行」2020年9月13日版
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銀行(都市銀行) |
三菱銀行 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)2月17日、三菱銀行仙台支店を東一番丁に開業
* 1948年(S23)10月、 持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、株式会社千代田銀行に商号変更
* 1953年(S28)7月、再び商号を株式会社三菱銀行に変更
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「三菱銀行」2020年9月版
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銀行(都市銀行) |
三和銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)5月1日、三和銀行仙台支店を東二番丁元寺小路角に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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映画館(戦後) |
公園劇場 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)1月、鉄砲町5に開設(350席)
* 1975年(S50)3月16日、全焼
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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映画館(戦後) |
南街映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)、舟丁64に開設(460席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P515
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奉安殿 |
撤去指示 |
1946年(S21) |
【「日本大百科全書(ニッポニカ)」の用語解説】
学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。敗戦後、「御真影」は焼却され奉安殿は取り壊された。
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* 1946年(S21)7月4日、奉安殿の撤去を指示(教育民生部長通牒)
* 1946年(S21)10月8日、文部省、教育勅語の奉読を廃止(菅家年表)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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54-01、73-04
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戦後開拓 |
東北開拓事務所 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月、東北開拓事務所を仙台に設置(東北6県管轄)、国営の開墾、干拓などの工事、国営工事適地の調査等
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512
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同胞援護会 |
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1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)4月18日、恩賜財団同胞援護会宮城県支部創立(事務所は宮城県庁内)/ 4月から、奨学事業開始(156名、主として母子家庭の高等学校卒業生に奨学金500円)
* 1946年(S21)4月25日、同胞援護会仙台更生寮設立
* 1946年(S21)12月1日、同胞援護会小田原更生寮設立
* 1947年(S22)1月20日、小田原母子寮設立
* 1949年(S24)8月10日、恩賜財団宮城県同胞援護会と改名
* 1953年(S28)9月、外記丁に竣工した社会福祉会館に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P516、P567/「仙台市史10 年表」P312、P315
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映画館(戦後) |
松竹映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)4月、南町通12に開設(560席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P510
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映画館(戦後) |
東北劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、本櫓町51に開設(700席)
* 1979年(S54)4月13日、立町の東北劇場焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508/「続・ 宮城県郷土史年表」P94
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「市民の戦後史(仙台市)」P42(NHKのど自慢会場の看板あり)
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労働運動(戦後) |
宮城県内 |
1945年(S20)8月~ |
* 1946年(S21)、労働組合続々と結成(1月3日、仙台鉄道管理局管理部管内従業員1万5千人 / 2月27日、宮城県教員組合結成大会、 など)
* 1946年(S21)9月20日、失業反対宮城県労働者大会
* 1946年(S21)10月8日、宮城地区共同闘争委員会主催、労農者大会
* 1946年(S21)11月28日、宮城県労農市民大会、勤労大衆2万人結集
* 1947年(S22)1月31日、マッカーサー元帥、2・1ストに中止命令
* 1950年(S25)夏~、レッドパ-ジ / 宮城県内では、新聞、電機産業(電産)を中心に民間から160余名、官公庁関係から13名が職場から追放された
<参考>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦後の経過につき記述あり
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604の第七章労働運動」に、昭和20年~43年の宮城県内および仙台の労働運動の経過につき記述あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508、P509、P516/「仙台市史10 年表」P311、P313、P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604/「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533
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44-46、44-55、16-53、16-55
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映画館(戦後) |
錦映画館 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、錦町21に開設(480席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508
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政党県支部など(戦後) |
進歩党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月20日、進歩党宮城県支部を結成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507/「仙台市史10 年表」P310
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政党県支部など(戦後) |
日本社会党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月2日、日本社会党宮城県連合会結成大会開催
* 1950年(S25)2月4日、社会党宮城県連分裂
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507、P540/「仙台市史10 年表」P310、P323
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映画館(戦後) |
第一映画劇場 |
1945年(S20)? |
* 1945年(S20)1月、開設(北日本興業、500席)
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に第一劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
<編者注> 太平洋戦争末期に、映画館開設は考えにくが・・・?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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銀行(都市銀行) |
日本興業銀行 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)8月、日本興業銀行東北支店を福島市より仙台市東一番丁に移転
* 1951年(S26)10月、仙台支店と改称
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「重訂 宮城県郷土史年表」P502
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P730(日本興行銀行仙台支店)
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松根油 |
松を伐採 |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、栗原郡長岡村より高清水町に至る国道筋の古松の並木、“応召”により伐採に取りかかる(「重訂 宮城県郷土史年表」P500)
* 1944年(S19)10月20日、松根油等緊急増産対策措置要綱決定
* 1945年(S20)3月16日、松根油等拡充増産対策措置要綱、閣議決定
・松根、桧ノ根、針葉樹ノ枝葉樹皮等モ本増産ノ対象
・(要員確保)農山漁村所在労務、農業出身工場労務者ノ帰農、農家ノ子弟タル国民学校卒業者、中等学校学徒動員
・乾溜釜ヲ速カニ設置 ・精製工場ノ急速整備
「仙台市御立場町(現・宮城野区東仙台一丁目)の松原街道(現在の宮城県道8号仙台松島線)の両端に沿って松並木が存在していたが、樹齢300年以上の松もふくむすべての松並木が松根油(しょうこんゆ)採取のために伐採されている」(地元学の会『松原街道にそったまち ひがしせんだい 東仙台一丁目~五丁目・松岡町』(みやぎの区民協議会 仙台市宮城野区役所 2005年刊)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P500/国立国会図書館リサーチナビ/ウィキペディア「松根油」
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仙台国税局 |
開庁 |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)7月、仙台税務監督局を仙台財務局と改称
* 1949年(S24)6月1日、仙台国税局開庁(新設)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P484、P535/「仙台市史10 年表」P321
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16-36
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軍事教練 |
学校教練(中等学校) |
1925年(T14)~1945年(S20) |
<学校教練>
* 1925(T14)年の陸軍現役将校学校配属令に基づき、旧制中等学校以上の教育機関に配属将校を配置し実施された
・ 第1次世界大戦後の軍縮に伴う将校の失業を救済するとともに、思想教育を兼ねた
・ 射撃など武器の使い方や戦史などを教え、演習も行った
・ 軍国主義教育の中心となった
* 1939年(S14)、中学校から大学までの授業に軍事教練が義務化された
* 1940年(S15)10月24日、県下男子中学校生徒(33校の上級生)の紀元二千六百年奉祝記念演習会を仙台付近で行う
* 1942年(S17)11月6日、宮城県下中等学校連合演習(仙台市付近で)
<配属将校>
・ 中学校には尉官級(大尉、中尉、少尉)、旧制高校、大学には佐官級(大佐、中佐、少佐)が配属され、複数の将校がいる学校もあった。
・ 教練は、射撃訓練や長距離行軍、部隊訓練、指揮法、手旗信号、武器保存、救助法、毒ガス防毒面の装脱、手りゅう弾投げ、防空監視など(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P493/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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29-06、29-07、29-08、43-02、43-12、43-14/「新・目で見る仙台の歴史」P161(S11年頃、宮城県工業学校の軍事教練)
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宮城県護国神社 |
新社の遷座祭 |
1942年(S17) |
* 1940年(S15)10月25日、宮城県護国神社の上棟式
* 1942年(S17)5月29日、宮城県護国神社新社の遷座祭挙行
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「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P489/「仙台市史 年表」P112/「仙台市史10 年表」P304
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「目で見る仙台の歴史」P166に、S17年の社殿(手水舎と鳥居)
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戦勝祝賀行事 |
漢口陥落 |
1938年(S13)10月 |
* 1938年(S13)10月27日、武漢三鎮を完全に占領す(「重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 1938年(S13)10月27日、漢口陥落祝捷行列挙行(「仙台市史10 年表」P294)
* 1938年(S13)10月28日、漢口陥落(日中戦争)の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
* (仙台控訴院坂本徴章判事夫人たねさんの日記)「昭和13年10月28日、金曜日 観光陥落につき市内は慶祝気分溢れ大変なにぎわいなり。閲兵式分裂式など壮観なりし模様。主人は午後3時より祝賀式に参列、夜、市役所前で提灯行列を見る。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P32)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「仙台市史10 年表」P294(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P32
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「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128
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ガソリン切符制 |
実施 |
1938年(S13) |
* 「1938年、物資動員計画による消費規制も強化され『揮発油及重油販売取締規則』に基づき、切符制による配給が実施された(第二次消費規制)。この一環として、自動車用等のガソリンへのアルコール混入が実施された」(ENEOS石油便覧「戦時体制下の石油政策」より)
* 1938年(S13)3月(5月?)、商工省令「揮発油及び重油販売取締規則」(のちに「石油販売取締規則」に改定)が公布され、切符制による販売制度採用
* 1938年(S13)5月1日、ガソリン切符制を実施(「重訂 宮城県郷土史年表」P462、「菅家年表」P20))
<影響>
* 1938年(S13)5月1日、「東京では、バス会社が一斉減車、タクシーは3分の1が減少」(「日録20世紀 1938」P15)
* 仙台でも1939年(S14)年以後は木炭バスが走り、戦後もしばらく続いた → 項目「木炭バス」参照
* 1941年(S16)9月11日、警視庁、東京府下のハイヤー、タクシー各社のガソリン使用を全面的に中止と通告(「日録20世紀 1941」P32)
* 1941年(S16)10月1日から乗用車のガソリン使用を全面禁止(「週刊20世紀 1941」P27)
* 自動車も代用品の木炭で(宮城県内3000台)(佐々久「近代みやぎの歩み」P121)
<戦後>
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、木炭タクシーが無くなる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P462/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P20、P45/「日録20世紀 1938」P15/「週刊20世紀 1938」P4、P23/「週刊20世紀 1941」P27、P32/佐々久「近代みやぎの歩み」P121
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戦勝祝賀行事 |
南京陥落 |
1937年(S12)12月 |
南京陥落(日中戦争)では、昭和12年12月14日の夜に東京や大阪などで祝戦捷提灯行列が行われている
<仙台でも祝賀行事が行われた>
* 1937年(S12)12月13日、南京を完全に占領し、この日皇軍南京に入城す(「重訂 宮城県郷土史年表」P460)
* 1937年(S12)12月14日、県市主催、南京陥落記念式挙行(「仙台市史10 年表」P291)
* 1937年(S12)12月14日、南京陥落の祝勝行事が行われる(「市史年表」P109)
* 南京陥落の際は、市を挙げて2万人の提灯行列が行われた(「近代みやぎの歩み」「仙台市史 続編第1巻」)
* 1937年(S12)12月13日(14日の間違いか?)、NHK仙台中央放送局、南京陥落祝賀提灯行列の模様を針金磁気録音機で録音し、ニュースで放送
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「重訂 宮城県郷土史年表」P460/[仙台市史10 年表]P291(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P97/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P8
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木材応召 |
県庁構内の大欅 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)2月頃、宮城県庁構内の大欅(樹齢約300年)、木材応召により伐採(斧入式挙行)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P459
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軍用機献納 |
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「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。
* 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場)
* 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場)
* 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式
* 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納
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「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html
その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf /
海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html
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民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01
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「仙台郷土研究」 |
創刊 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)1月10日、「仙台郷土研究」創刊(月刊)/末永勇四郎編、無一文館書店発行 / 小倉博(斎藤報恩会館)、阿刀田令造(旧制二高)らが中心
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「重訂 宮城県郷土史年表」P424/「目で見る仙台の歴史」P159
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「目で見る仙台の歴史」P159に、創刊号、小倉博氏と阿刀田令造氏肖像
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野球場 |
澱橋野球場 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)10月、澱橋野球場開設(角五郎町、澱橋わき)
* 1940年(S15)5月5日、澱橋総合運動場竣工、落成式
* 澱運動場は、戦後一時、米軍(進駐軍)が接収
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「重訂 宮城県郷土史年表」P422/「仙台市史10 年表」P298/「仙台年表」P210/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328/「仙台あのころこのころ八十八年」P246、P248
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養賢堂 |
国史跡指定 |
1922年(T11)~1951年(S26) |
* 1922年(T11)3月8日、国の史跡に指定
* 1951年(S26)12月26日、史蹟指定を解除(戦災で焼失)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P384、P553
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仙台市街自動車 |
設立~市が買収 |
1919年(T8)~1942年(S17) |
伊勢久治郎が設立、市民に「銀バス」の愛称で親しまれた
* 1919年(T8)7月16日、仙台市街自動車、創設(社長 伊勢久治郎、資本金20万円)
* 1919年(T8)11月10日、乗合自動車の営業開始、仙台停車場を起点に市内の南北、および市外は増田、閖上、深沼などまで走った
* 1930年(S5)7月、市内遊覧バスの運行を開始
* 1942年(S17)7月1日、33万円で仙台市に買収され、8月21日から「仙台市営バス」として営業開始
<参照>[写真98-149]は、昭和11年当時の「仙台市交通網図」で、当時のバス路線網も記載
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P86、P187(市電年表)/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P99、P105/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
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53-46、22-10、53-15、98-104、53-121/仙台市交通網図は、98-149/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(パンフレット「仙台遊覧自動車案内」)
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逓信関連 |
仙台逓信講習所 |
1919年(T8) |
* 1919年(T8)5月、仙台逓信講習所を霊屋下(おたまやした)に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373
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43-06(校舎)、53-93(寄宿舎)
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ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
開店~閉店 |
1912年(M45)~1933年(S8) |
・ 東一番丁通の立町通角と大町通角の間、道の西側に面していた(戦後の靴店「アピアまんぞくや」の辺り)
・ 1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーンで西洋料理や喫茶(仙台最初の洋風喫茶店)、夜はイルミネーションが点灯
・ 洋館造り、設計は東北帝国大学の文部技官中島仙太郎
* 1912年(M45)7月27日、開店(大正に改元の3日前)
大町5丁目の写真機販売業・桜井常吉が東一番丁通りに進出、電飾の輝く洋館2階でカフェ・クレーンを開業(1階のツルヤ洋菓子店は義弟の中林源助にまかせる)
* 1933年(S8)3月19日、近くの映画館「仙集館」近くから出火した火事で類焼し、閉店
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「重訂 宮城県郷土史年表」P352/「仙台はじめて物語」P74~75
/「東一番丁物語」(柴田量平著)P126~129/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P135/「仙台市史 年表」P96
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20-19、20-41、22-56、45-02、45-03、99-017
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松永正敏中将 |
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第5代第二師団長
* 任期は1906年(M39)7月6日~1912年(M45)2月18日
* 1912年(M45)1月16日、死去
第二師団が朝鮮派遣(駐剳)中に京城(現・ソウル)で死去
* 1912年(M45)、葬儀(仙台・追廻練兵場で)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P351
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99-077/ 葬儀は、99-011-2、99-103
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仙台高等工業学校 |
開校 |
1907年(M40)~1951年(S26) |
官立の仙台高等工業学校は、(旧制)中学校卒業者が入学した3年制の専門学校
・「SKK」は校名の略称(仙台、高等、工業の頭文字を並べた)
・「SSKと萩の葉」を組み合わせ校章とした
* 1906年(M39)3月29日、文部省直轄学校一つとして設置
* 1907年(M40)4月20日、仙台高等工業学校開校(敷地,校舎は、南六軒丁の宮城県立仙台第一中学校を充当) / 名古屋、熊本につぎ3番目 / 土木、機械、電気の3工学科と採鉱冶金学科
* 1912年(M45)3月29日~1921年(T10)3月31日の間、東北帝国大学に包摂され、東北帝国大学工学専門部と改称
* 1921年(T10)4月、再び仙台高等工業学校として独立、再発足
* 1939年(S14)3月29日、工業化学科を新設(定員35名)
* 1944年(S19)4月、仙台工業専門学校に改称
* 1948年(S23)6月25日、同盟休校(教育防衛闘争)
* 1949年(S24)、東北大学に包摂された(工学部に合併され、東北大学仙台工業専門学校と改称)
* 1951年(S26)3月:東北大学仙台工業専門学校、廃止。
「写真53-120」の校舎は、1908年(M41)竣工~1926年(T15)6月全焼
「写真18-03」の校舎は、東北大学発足後は、第二教養部校舎となり、その後は、東北大学通信研究所が使用した
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「重訂 宮城県郷土史年表」P335、P337、P467/「宮城県百科事典」P579『仙台工業専門学校』 /「明治の洋風建築-宮城県-」 P69とP78『仙台高等工業学校』 /「仙台市史 年表」P94、P100、P113/「仙台市史10 年表」P318/Wikipedia「仙台高等工業学校」(2020年3月)
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53-120、18-03/「新・目で見る仙台の歴史」P141/「新・目で見る仙台の歴史」P141(校門と校舎)/「市民の戦後史(仙台市)」P39(仙台工業専門学校)
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル2代目) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)、 4階建ての擬洋風建築に建て替え /
出羽三山・本道寺(神仏分離により口之宮湯殿山神社。山形県西川町)の仁王像一対を1875年(M8)から所有していた弥勒院(山形県河北町)から買い取り、ホテルの1階玄関に安置(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1905年(M38)、「明治20年頃、仙台駅前に進出せる大泉旅館は、この年、三階建て旅館に設備を拡大し、仙台ホテルと改称す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P334)
<編者注> 大泉支店の仙台ホテル改称はホテル1代目建物ができた明治29年で、38年ではない/ 38年は、ホテル2代目建物(3階建一部2階建て擬洋風建築)に建て替えた年/ 看板「仙台ホテル」の他に、壁面に「大泉館」表示もある
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「重訂 宮城県郷土史年表」P334/Wikipedia「仙台ホテル」
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44-05、98-063/「目で見る仙台の歴史」P124と「新・目で見る仙台の歴史」P130に『明治38年建築の仙台ホテル』
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藩祖政宗公の記念祭 |
仙台開府三百年記念祭 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)5月23~24日、本丸跡と追廻において挙行 / 追廻広場や国分町には山鉾が飾られて壮観を極めた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P315/「目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P132に「奠城三百年祭」(屏風絵?)
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明治生命館 |
竣工~解体 |
1920年(T9)~1977年(S52) |
大町通り(旧・大町五丁目)にあった明治生命館(明治生命仙台支店)は、鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、ロマネスク様式、赤レンガの壁にみかげ石が張られていた
* 1898年(M31)8月28日、明治生命仙台支店を(旧)大町5丁目に開設
* 1919年(T7)、明治生命館(ロマネスク様式)着工(2年3か月間工事) / 設計は曽根達蔵、中条精一郎
* 1920年(T9)7月旧、竣工
* 戦後、進駐軍に接収された
* 1947年(S22)11月1日、明治生命宮城支部と改称
* 1953年(S28)4月1日、仙台外務部と改組
* 1977年(S52)6月、明治生命館(ロマネスク様式)解体
(5年後のS57年9月、跡地に「藤崎リビング館」がオープン)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P313/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「藤崎 170年のあゆみ]P95/「番丁詳伝」P215
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16-44、22-28、43-25/「目で見る仙台の歴史」P151
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金属回収 |
伊達安芸銅像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)5月27日、松島瑞巌寺境内の伊達安芸の銅像、金属回収に応召出陣となり「壮行式」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P308
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博覧会・フェア |
紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15
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第二高等学校(旧制) |
第二高等中学校/第二高等学校(片平丁校舎時代) |
1887年(M20)/1894年(M27) |
<前身の第二高等中学校>
* 1886年(M19)公布の中学校令により、仙台市に第二高等中学校設 / 翌年9月、本科、予科、医科の3科で開校、同市東二番丁、荒町、片平丁へと移転した(「宮城県百科事典」P637)
* 1887年(M20)4月1日、第二高等中学校を19年4月発布の中学校令により仙台に創設す(7月仮事務所を宮城県尋常中学校に設け、8月荒町小学校内に移る(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1887年(M20)4月18日、文部省、第二高等中学校を仙台に設置 / 同年8月19日、第二高等中学校に医学部設置(「仙台市史 年表」P86)
<片平丁校舎へ>
* 1889年(M22)8月、片平丁に新校舎本館落成し、本部・医学部ともに東二番丁尋常中学校跡より移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1889年(M22)8月3日、片平丁に第二高等中学校校舎が完成(「仙台市史」P87) / 本館はゴシック風木造2階建、黒褐色のペンキ塗りで北欧風 / 1891年(M24)、盛大な開校式(「明治の洋風建築-宮城県-」P62)
<第二高等学校 片平丁校舎時代>
* 1894年(M27)9月、第二高等学校と改称(「宮城県百科事典」P637)
* 1994年(M27)6月25日、高等学校令を公布し「第二高等学校」と改称、さらに医学部と大学予科とを置く(「「重訂 宮城県郷土史年表」P298) / 開校記念日10月26日(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1994年(M27)9月11日、「第二高等学校」と改称(「仙台市史 年表」P89)
第二高等学校開校当時の組織(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)は、医学部(4年・定員200人)、本部(定員460人)、本科(2年・尋常中学校卒業程度)、予科(3年・尋常中学校第二学年修了程度) / 第1回の入学試験受験者73名、入学許可者7名
* 1901年(M34)4月1日、第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として独立(「仙台市史 年表」P91)
* 1910年(M43)、片平丁に書庫が完成(「仙台市史 年表」P95)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P276、P284、P298/「宮城県百科事典」P637「第二高等学校」/「明治の洋風建築-宮城県-」P62「第二高等学校」/「仙台市史 年表」P86、P87、P89、P91、P95
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99-058 / 「新・目でみる仙台の歴史」P141の写真(第二高等中学校の開校式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P253(M24年5月の第二高等中学校校舎完成記念開校式の図)/「いつか見た街・人・暮らし」P18(学生服学帽の二高生が写る、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」P128(仙台医学専門学校校門と校舎)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P363(M44年ころ、仙台医学専門学校授業風景、女性看護婦も)/同P395(M44年ころ、仙台医学専門学校=旧宮城病院バックに学生たち)
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挹翠館(ゆうすいかん) |
建設~焼失 |
1886年(M19)~1945年(S20) |
桜ケ岡公園(西公園)にあった木造の割烹(和洋料理店)だったが、M42年に仙台市が買収し、戦前は仙台市公会堂として使用された
* 1886年(M19)1月24日 建設(木造2階建て、寄棟造瓦葺、真壁漆喰塗)
* 1887年(M20)、桜ケ岡公園内に開業 / 木造2階建ての和洋料理店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
* 1909年(M42)5月18日、市が買収し、仙台市公会堂となる
* 1916年(T5)に、隣接して洋館の公会堂新館が竣工したあと、挹翠館は公会堂本館とよばれた
* 1945年(S20)7月10日、公会堂本館(挹翠館)、洋風新館とも、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273/「仙台市史 年表」P85、P94/「古写真に見る仙台の建築」P43/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
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98-058、98-059/「目で見る仙台の歴史」P117
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第二師団(出兵記録)(1) |
出兵記録(仙台鎮台時代) |
明治年間(1) |
<西南戦争>
* 1877年(M10)3月20日、仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊の2個中隊が西南戦争へ出征(「仙台部隊関連年表」P689)
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。(「仙台市史 年表」P82)
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される(「仙台市史 年表」P82~83)
<朝鮮の甲申事件に際し、韓国駐箚公使館護衛>
* 1884年(M17)10月、韓国駐箚公使館護衛として歩兵第4連隊第1中隊を京城(ソウル)に派遣(「重訂 宮城県郷土史年表」P270)
* 1884年(M17)10月、仙台鎮台の第4連隊の1個中隊が朝鮮半島情勢の緊張にともなって漢城(現・ソウル)に派遣される(「仙台市史 年表」P85)
~ 以下は、「仙台部隊関連年表」P691より~
* 1884年(M17)10月10日、韓国駐箚公使館護衛のため、歩兵第4連隊第1中隊、仙台出発
* 1884年(M17)12月4日、京城の日本公使館、焼かれる
* 1884年(M17)12月4日~6日、第1中隊が戦闘
* 1885年(M18)7月4日、第1中隊、仙台に帰営
<第二師団発足>
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台を廃し、師団編制に改組、第二師団となる(「仙台部隊関連年表」P691)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P270/「仙台部隊関連年表」(宮城県史・兵事の末尾P689、P691)/「仙台市史 年表」P82~83、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300
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宮城県図書館(戦前) |
宮城書籍館/宮城県立図書館/勾当台へ/宮城県図書館(戦前)/空襲焼失 |
1881年(M14)/1907年(M40)/1912年(T1)/1919年(T8)/1945年(S20) |
<宮城書籍館/宮城県立図書館>
* 1881年(M14)7月25日、「宮城書籍館(しょじゃくかん)」が県立宮城師範学校図書庫に開館
* 1892年(M25)12月、宮城書籍館を師範学校の旧校舎に修繕を加えて移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P293)
* 1907年(M40)4月1日、「宮城書籍館」が、「宮城県立図書館」と改称
<勾当台へ移転>
* 1912年(T1)11月、「宮城県立図書館」が斎藤善右衛門の寄付により勾当台(現在の勾当台公園の南西角)に建てられ、県立宮城師範学校内から移転
<宮城県図書館>
* 1919年(T8)11月、「宮城県立図書館」を「宮城県図書館」に改称
* 1937年(S12)11月3日、図書館前に二宮尊徳像(除幕式)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P262、P293/「仙台市史 年表」P84、P94、P96/「宮城県の百年」P37/仙台市史10 年表」P291/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年現在)
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99-091と「仙台市史 特別編4 市民生活」P139は宮城県立図書館/22-36は宮城県図書館/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城県図書館」
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郵便局 |
仙台郵便局 |
1872年(M5) |
* 1872年(M5)7月、仙台郵便取扱所を国分町に設置(「仙台市史 年表」P80)
* 1875年(M8)1月、仙台郵便局と改称し、南町に移転
* さらにその後大町に移り、1882年(M15)に再び南町に移転(以上、「重訂 宮城県郷土史年表」P240)
* 1890年(M23)、仙台郵便電信局として南町に新築移転
* 1899年(M32)以降は、仙台郵便局として、郵便・電信・電話・貯蓄・保険、および三県の管理を担当
* 1919年(T8)3月2日の南町大火で焼失
* 1919年(T8)5月12日、仙台郵便局、東一番丁に移転(「仙台市史10 年表」P252、「仙台市史 年表」P98)
* 1920年(T9)8月6日、仙台郵便局、再び南町に再建移転(「仙台市史 年表」P99)(建物は三角屋根が3つになった)
<戦災焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で郵便局、北隣の仙台電話局ともに焼失 / 郵便課は市内霊屋下の仙台逓信講習所に移転、電信課は東北学院専門部礼拝堂地下に移転し、業務続行(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)
<戦後>(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582)
* 1946年(S21)2月9日、郵便局から電信課が分離し、仙台電信局に昇格
* 1946年(S21)12月20日、郵便局は南町に庁舎(木造2階建)再建し移転
* 1949年(S24)6月、逓信省が郵政省と電気通信省に分離 / 仙台逓信局は、仙台郵政局と東北電気通信局に分かれる
* 1955年(S30)11月、仙台郵便局木造庁舎を建て替え、南町通りに新庁舎落成(地上4階地下1階)
* 1957年(S32)11月、仙台郵政局、新庁舎に移転(南町通5番地/鉄筋コンクリート地上6階地下1階)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P240/「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真キャプション/「仙台市史 年表」P80、P98、P99/「仙台市史10 年表」P252、P311/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582
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「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真/再建移転後は、53-95/「目で見る仙台の歴史」P177に、南町通りの仙台郵便局/同P193に、南町通りの仙台郵政局
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍教導学校 |
1927年(S2)~1943年(S18) |
* 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた
* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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戦時中の勤労動員/就労規制(2) |
国民徴用令 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布
戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えた / S16年以降は拡大、S18年からは、会社ぐるみ徴用も始まる
→ 詳細は、項目「国民徴用令(1)」参照
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「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25 など
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軍事教練 |
大学も必須に |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする
* 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属
<東北帝国大学>
軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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青年学校 |
発足 |
1935年(S10) |
<「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)>
1935年(S10)4月1日、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311>
・普通科(尋常小学校卒対象)は2年間(科目は、修身および公民科、普通学科、職業科、体操科、女子にはこのほかに家事および裁縫科)
・本科(高等小学校卒対象)は男子5年間(体操の代わりに教練)、女子3年間 / 土地の事情により1年短縮可
・昭和14年から義務化され、第1期検閲までの訓練を入営前に完了が目標で、実業補修の影が薄れ、教練のみが強化された
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P452>
・ 陸軍省の強い要請に基づき、在郷軍人会・青年団・青年学校を軍事的な統一組織にしてゆくためのものだったことを物語っている
*************************************
* 1935年(S10)7月31日、デパート藤崎に私立藤崎青年学校(男子38人)、片倉製糸工場内に私立片倉仙台青年学校(男子30人、女子570人)設置
* 1935年(S10)8月1日、仙台市青年学校16校開校(16あった実業補修学校や青年訓練所を所在の町名の青年学校とする、補習学校と青年訓練所の両方があったのは、南小泉・長町・西多賀・原町の4つで、原町以外の3つには青年学校となってからも女子部があった) / 仙台市工業専修学校が仙台市工業青年学校に、仙台市商業専修学校が仙台市商業青年学校になる(工業青年学校、商業青年学校は、S16年3月10日廃止)
* 1939年(S14)4月26日、青年学校、男子のみが義務制になる
* 1942年(S17)3月31日、仙台市立青年学校、17校廃止
* 1942年(S17)4月1日、仙台市立独立青年学校4校設置
* 1947年(S22)、青年学校廃止(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
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「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451~452/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史10 年表」P286、P304/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/
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06-06/仙台市史 特別編4 市民生活」P451(秋保村青年学校の旗、カラー)
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戦時中の勤労動員/就労規制(1) |
国民職業能力申告令 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)年1月7日、公布 / 当初は、申告を義務づけられた特定の職種の技術者などが対象
* 1941年(S16)12月、改正(男子16~40歳未満 女子未婚者16~25歳未満が登録対象に)
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「週刊20世紀 1339年」P8~P9
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