項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
飛行大会 |
開催 |
1921年(T10) |
* 1921年(T10)5月23日、宮城野原で仙台協賛会主催の飛行大会が開催される
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「仙台市史 年表」P100
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東京オリンピック(昭和39年) |
開催 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)10月、オリンピック東京大会(参加94か国)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P616
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因んだ七夕飾り(40-04)/「市民の戦後史(仙台市)」P164(聖火リレー、富谷町付近/記念銀貨交換の列)
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復興盆踊り |
開催 |
1946年(S21)8月 |
* 1946年(S21)8月、「復興第一年祝賀盆踊り」
・ 敗戦(S20年8月)の翌年、東一番丁では他の町内に先駆けて、復興盆踊りを開催
・ 場所は、東一番丁大通りの一力邸(河北新報社会長)の空襲焼け跡の原っぱ (その後、この場所は「青葉通り」になった)
・ 「森権五郎氏が中心になり戦後初の盆踊り大会が開かれ毎晩数万人が集まる」(「東一番丁創立五十周年」P8より)
・ 薄田清が「伊達で鳴らした仙台さまの心意気だよ地固めも・・・」と復興盆おどりを作詞し、お囃子は柴田量平が受けもった」(「仙台市史 続編第2巻」P197~198)
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197~198
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53-09、53-26
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東北産業博覧会 |
開催 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)4月15日~6月8日、仙台で、「東北産業博覧会」開催
・ 仙台商工会議所主催
・ 第一会場は川内の元騎兵隊跡(新築早々の仙台第二中学校)
第二会場は桜ケ岡公園(=西公園)
第三会場は榴ケ岡公園
・ 第一と第二の会場間には、広瀬川をまたぐケーブルカー架設、広瀬川に向かってウォーターシュートも設置
・ 「県庁舎(昭和6年)、市庁舎の改築(昭和4年)と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
「東北産業博覧會記念寫眞帖」の記述
→「不景気挽回策と銘打って、延期5日間を加えて55日間開催、入場者は昼間153万1千人、夜間13万2千人。 市民から集めた寄付金十余万円・・・・・・」
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「東北産業博覧會記念寫眞帖」/「番丁詳伝」P123
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「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」/「新・目で見る仙台の歴史」P143、P148/99-149、34-01、61-13、63-10、95-01、95-02/「東北産業博覧會記念寫眞帖」 に関連写真多数/「仙台市史 特別編4 市民生活」P42(東北産業博覧会ポスター2種、カラー)/同P233(博覧会会場全図、カラー)/「新・目で見る仙台の歴史」P148(会場間のケーブルカー、第一会場入場門、ポスター)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P233(会場図、カラー)
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SENDAI光のページェント |
開催 |
1986年(S61)~ |
* 1986年(S61)12月12日~27日、第1回「SENDAI光のページェント」開催(定禅寺通りと青葉通り)
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P215
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「新・目で見る仙台の歴史」P207
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総進軍大会 |
開催 |
1943年(S18)/1944年(S19) |
* 1943年(S18)7月8日、仙台市主催、米英撃滅総進軍大会
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
* 1944年(S19)7月30日、滅敵強行宮城県総進軍大会
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「仙台市史10 年表」P306、P307、P308
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在住朝鮮人大会 |
開催 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月1日、宮城県在住朝鮮人大会
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「仙台市史10 年表」P315
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第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会 |
開催 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)
<「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2「満蒙軍事博覧会」より要約> 展示館は、満州国大パノラマ館、陸軍館(新兵器、満州事変上海事変戦利品)、海軍館(陸軍館と同様)、第二師団戦勝館(各種兵器、軍刀、血染めの軍服、遺品)、産業館、特設館、日本伝説お化け館、お伽の国館、特設海女館(豊麗なる十数名の海女が水中にて種々なる妙技を実演)、演芸館(歌舞、映画、演劇等)
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「仙台市史10 年表」P280/「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2
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梅川漆器舗 |
閉店 |
1935年(S10)? |
* 1935年(S10)?閉店 / 「梅川漆器舗」の場所(東一番丁・大町交差点の北西角)には、S10年に、「藤崎」が「北売場」(木造地下1階地上3階建)を建設し、同年12月14日に開店
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53-20、 53-70-01、98-017、 20-47
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バス |
長距離バス |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)8月1日、東北急行バスが、東京~仙台間の運航開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P605)(「市民の戦後史(仙台市)」P145では、S38年8月運行開始)
* 1989年(H1)9月21日、仙台~盛岡間、高速バス運行開始
* 1989年(H1)10月2日、仙台~青森間(ハイウェイバス・ブルーシティー)運行開始
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「重訂 宮城県郷土史年表」P605/「続・ 宮城県郷土史年表」P262、P263
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「市民の戦後史(仙台市)」P145(東京仙台間の東北急行バス)
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仙台市電 |
長町線 延長開通 |
1936年(S11)12月 |
東五番丁~荒町間
1926年(T15)11月25日開通
(仙台駅前~大町1丁目間と同時開通)
荒町~長町間4.2キロ
(S8年~S11年に徐々に延長開通)
1933年(S8)
2月12日、荒町~愛宕橋間
7月5日、愛宕橋~誓願寺通間
12月14日、誓願寺通~舟丁間
1934年(S9)
12月2日、舟丁~河原町間
1935年(S10)
8月21日、河原町~新河原町間
1936年(S11)
1月16日、新河原町~長町北町間
8月6日、長町北町~長町南町間
12月19日、長町南町~長町駅まで開通
12月24日、市電と秋保電車の連絡乗車券発売
* 1954年(S29)8月1日、この日から長町線と八幡町線が直通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P108/「仙台年表」P231
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36-01、201-30/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図84(S11年、土樋付近の市電線路と街並み)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(S8年、長町線土樋カーブでの架線工事)
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競馬 |
長町競馬場の開設認可 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)4月18日、長町競馬場、開設認可
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「仙台市史 年表」P105
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火災(地域) |
長町八本松 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼
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「仙台市史10 年表」P298
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プール |
長町プール |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)7月4日、仙台市営長町プール、鹿野の長町公園内に開設
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615
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仙台市立病院 |
長町に新築・移転 |
2014年(H26) |
* 2014年(H26)11月1日、長町に移転・開院
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仙台市立病院HP(病院の沿革)/Wikipedia「仙台市立病院」
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火災(地域) |
長町 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)1月17日、名取郡長町で火災、69戸が焼失
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「仙台市史 年表」P79
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火災(地域) |
長町 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)4月11日、名取郡長町村で火災、68戸が焼失
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「仙台市史 年表」P82
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大型店・量販店 |
長崎屋 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)6月、仙台店開店 / 場所は、東一番丁北部、戦後の三陸(大型雑貨店)の跡地
* 1983年(S58)10月にファッションビル「長崎屋仙台シャル」に業態転換(ウィキペディア「長崎屋」)
* 2000年(H12)2月に長崎屋が会社更生法を適用したことに伴い、同年9月に撤退(ウィキペディア「長崎屋」)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「番丁詳伝」P221/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/ウィキペディア「長崎屋」2021年3月30日版
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映画館(戦後) |
錦映画館 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、錦町21に開設(480席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508
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金属回収 |
銅像「壮行式」 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出
元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112
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銀行(地域の銀行) |
銀行一覧(明治34年時点/昭和10年時点) |
1901(M34)/1935年(S10) |
(1) 明治34年時点の仙台の銀行(仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図の裏面より) いずれも株式会社
・ 七十七銀行(大町1丁目33)
・ 宮城商業銀行(大町3丁目31)
・ 仙台銀行(大町2丁目)
・ 宮城貯蓄銀行(大町3丁目20)
・ 国民貯蓄銀行(大町5丁目)
・ 宮城銀行(大町4丁目10)
・ 通商貯蓄銀行(名掛丁)
・ 仙台貯蓄銀行(大町2丁目)
(2) 昭和9年度末の仙台の銀行(「仙台市大観」P19~20) 地名は本店所在地、数字は支店及び出張所数
<地元4行>
・ 七十七銀行(大町 / 84)
・ 宮城銀行(元寺小路 / 6)
・ 東北貯蓄銀行(大町 / 4)
・ 宮城県農工銀行(東二番丁 / 1)
<県外銀行の支店>
・ 安田銀行仙台支店(大町)
・ 常磐銀行仙台支店(元寺小路)
・ 安田貯蓄銀行仙台支店(大町)
・ 不動貯蓄銀行仙台支店(東二番丁)
(3) 昭和11年時点(「仙台の産業と観光」P22)
・地元銀行、県外銀行の支店とも、昭和10年と全く同じ
ただし、常磐銀行は常陽銀行と記載されている
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仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図~ / 「仙台市大観」(昭和10年刊)P19~20 / 「仙台の産業と観光」(仙台市役所 昭和11年刊)P22
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映画館(戦後) |
銀映画劇場 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、旅籠町に開設(200席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P546
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文字・漢字の表記 |
鉄道駅 |
1940年(S15)/1945年(S20) |
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35
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澱橋(広瀬川) |
鉄橋架橋/新たな橋架設 |
1892年(M25)/1951年(S26)? |
* 1889年(M22)9月10日・11日、大雨で広瀬川が氾濫し澱橋・大橋・広瀬橋が流失
* 1892年(M25)10月11日、大橋とともに鉄橋に架け替えられる
* 1951年(S26)11月、新たな橋に架け替え / 橋長137m、橋幅12m
* 1961年(S36)11月28日、新たな澱橋が完成、渡り初め式
(「重訂 宮城県郷土史年表」P602 / S26年架け替えの橋と混同か?)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412~413/「仙台市史 年表」P87、P88/「重訂 宮城県郷土史年表」P602
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「目で見る仙台の歴史」P130に、「澱橋」(撮影年代不詳)
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大橋(広瀬川) |
鉄橋架橋 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)8月24日、大橋の鉄橋竣工す(「仙台城」P233)
* 1892年(M25)8月、木橋流失後に第二師団の強い要請で鉄橋に架け替え(M23年9月起工、ハウトラス式鉄橋)
「仙台はじめて物語」P289では、鉄材ベルギー製の鉄橋完成、1895年(M28)8月24日と記載
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P292/「仙台年表」P167/「仙台あのころこのころ八十八年」P239/「宮城県の百年」 P11/「新・目で見る仙台の歴史」P134/「仙台市史 年表」P88
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鉄橋は、99-102、99-103、44-23、99-104、99-105、64-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図56
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空襲(釜石艦砲射撃) |
釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅 |
1945年(S20)7月14日、8月9日 |
<釜石に艦砲射撃、773人が犠牲>
・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237
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軍馬の銅像 |
金属回収で供出 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
・ 桜ケ岡公園(西公園)にあった
・ 軍馬の銅像は当時の公園の平面図に「日露役殉死軍馬銅像」と表記されている
・ 戦時中の金属回収でS18年か19年に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた
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「仙台市史 本編2」P371
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99-120、53-63 /桜ケ岡公園(西公園)の公園の平面図は、98-074
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戦災復興事業 |
都市計画道路 |
1946年(S21)~ |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P251~252】
* 1946年(S21)11月、中心部の19本の都市計画道路、国の復興院が承認
・ 当初計画は、青葉通り、広瀬通りともに幅員50m → 予算の関係で、50m幅は青葉通りの仙台駅前から東二番丁まで、それ以西の青葉通りと広瀬通りは幅36mに変更(これまでの最大幅員は南町通りの23mだった)
・ 都市計画道路での正式名称は、青葉通りは「仙台駅-川内二の丸隅櫓線」、広瀬通りは「元寺小路-立町・川内線」
* 1947年1月、河北新報社が愛称を募集し、応募6000通以上から、「青葉通」「広瀬通」「西公園」「中央公園」と決定 / 中央公園は定着せず、「勾当台公園」が定着
* 1950年(S25)、青葉通り、広瀬通り完成したが、まだ未舗装で、強風に砂塵舞い上がり、雨降れば泥んこ道となるので「青葉砂漠」「広瀬たんぼ」と悪口を言われた
・ 東二番丁通りも幅員50m(江戸時代以来幅員は8mだった) 6倍以上に拡張したのは防火帯とするため(江戸時代から昭和30年代まで市中心部で、蔵王おろしの西北風邪が吹く12月~3月の間にたびたび大火があった)
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324】
<幹線街路計画>
* 1946年(S21)11月決定、25路線、幅員(50~15m)、延長5万894m(うち、復興事業関係は23線)
* 1954年(S29)、16路線(1万9103m)に計画変更
→写真データベースの98-026に「一覧表と一覧地図」(路線名、起点、終点、幅員など記載)
* 16路線中、清水小路光禅寺線以外は、S35年度までに完了
・ その後、清水小路光禅寺線は起点部分221mを除外
<グリーンベルト設置>
・ 幅員27m以上の街路に植樹帯造成
・ 7路線(青葉通、東二番丁線、細横丁線、長町堤町線、定禅寺錦町線、狐小路連坊小路線)は車道の両側または中央にグリーンベルト(木と芝生)
・ 11路線の一部歩道に街路樹植栽(上記7路線+多門通常盤丁線、北目町通線、北二番丁線、勾当台通)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P251~252/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324
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・S29年に決定した「戦災復興事業の都市計画街路一覧表と一覧図」 →写真98-026
/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅された細横丁(晩翠通り)
/「市民の戦後史(仙台市)」P60(拡幅工事中の細横丁)
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東北自動車道 |
部分開通/全線開通 |
1973年(S48)/1986年(S61) |
* 1970年(S45)5月20日、東北縦貫自動車道、起工式(蔵王町で)
* 1973年(S48)11月27日、仙台南~白石間、開通
* 1975年(S50)4月1日、仙台南インターチェンジ~岩槻間、開通
* 1975年(S50)11月28日、仙台南~泉インターチェンジ間、開通、同日に仙台宮城インターチェンジ開業
* 1976年(S51)12月9日、泉~古川インターチェンジ間、開通(29キロ)
* 1977年(S52)11月15日、古川~築館間開通(16.1キロ)
* 1978年(S53)12月2日、築館~一関間開通(岩槻~盛岡間全面開通)
* 1982年(S57)3月29日、若柳金成インターチェンジ完成
* 1986年(S61)7月30日、十和田~碇ヶ関間使用開始(浦和~青森間開通)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P660/「仙台市史 年表」P129、P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P24、P39、P47、P61、P74、P89、P93、P95、P208/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P72
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(東北自動車道上下線、カラー)
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山形自動車道 |
部分開通 |
1988年(S63)~ |
* 1981年(S56)4月15日、国道286号笹谷トンネル(笹谷IC ~ 関沢IC)開通(3,385m)
/ 山形自動車道の笹谷IC~ 関沢IC間は、開通当初は国道286号のバイパス有料道路(笹谷トンネル)として供用されたが、4車線化後、1998年(H10)に高速自動車国道に格上げされて、山形自動車道に繰り入れられた
* 1988年(S63)10月13日、村田JCT~宮城川崎間、開通(110.4キロ)
* 1989年(H1)7月26日、山形北~寒河江間、開通
* 1990年(H2)10月4日、宮城川崎~笹谷峠間、開通
* 1991年(H3)7月31日、関沢~山形北(14キロ)開通(これで、村田JCT~寒河江間が全通)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P126、P252、P268、P270
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医療機関 |
避病院/仙台市伝染病院 |
1881年(M14)/1895年(M28)/1899年(M32) |
* 1881年(M14)、仙台市に腸チフス流行、外記丁の宿舎にチフス患者を収容する避病院開設
* 1882年(M15)、コレラ大流行し、台原にも避病院開設
* 1890年(M23)、コレラ発生し、北山称覚時に患者を隔離
* 1895年(M28)、日清戦争帰還兵が持ち込んだコレラが全国的に流行、仙台でもコレラ罹患した兵隊を小田原避病院(宮城野原につらなる原野の一角に避病院設置)に収容、軍では鷺ヶ森にも避病院つくり、善応寺、仙岳院も避病院として使用
* 1899年(M32)4月1日、仙台市、東九番丁の孝勝寺裏の伊達家の土地1800坪に「仙台市避病院」を整備し患者を収容 / のち、1922年(T11)に「仙台市伝染病院」と改称
→ 項目「医療機関」の小項目「仙台市立榴ケ岡病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P395/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717/「仙台市史 年表」P90
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宮城県旗の図案 |
選定 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、県旗図案を全国的に公募、みやぎの「み」を図案化した作品が当選
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「重訂 宮城県郷土史年表」P626~627
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戦後教育・仙台 |
道徳の時間/特殊教育/視聴覚教育 |
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<道徳の時間>
* 1958年(S33)月日、学校教育法一部改訂、小中学校に「道徳の時間」特設
<特殊教育>
* 1955年(S30)~1956年(S31)、七郷地区小・中学校に精薄学級開設
・ 仙台市の特殊学級設置経過一覧表(S30~S44)、精神薄弱、肢体不自由、言語障害、病弱、難聴の5種
→ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P350
<視聴覚教育>
・ 戦後まもなく、アメリカ文化センターの所有のUSIS映画の活用、16ミリ映写機の全学校配布
* 1959年(S34)、仙台市小学校フィルム・ライブラリー設置
・ 学級にテレビ導入し、NHK学校放送番組を活用
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P348~350、361~362
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「市民の戦後史(仙台市)」P88(七郷小学校の特殊学級)
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郵便馬車 |
運行開始 |
1884年(M17) |
* 1884年(M17)12月、仙台~東京間の運行開始
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「仙台市史 年表」P85
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仙台臨海鉄道 |
運行開始 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)10月、貨物専用線の私鉄「仙台臨海鉄道」営業開始 / 陸前山王始発、駅は仙台港・仙台北港・仙台埠頭・仙台西港
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「仙台市史 年表」P150/Wikipedia「仙台臨海鉄道」(2020年6月)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
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敗戦後の諸相・仙台 |
進駐軍相手の「特殊慰安施設」 |
1945年(S20)秋~1946年3月 |
<特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)
・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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東邦生命ビル |
進駐軍が接収(CIDなど) |
1946年(S21) |
・第一徴兵保険が戦後、東邦生命と改称され、仙台支店ビルは、「第一徴兵館」から「東邦生命ビル」に名称変更
・南町(芭蕉の辻の南)にあった
青葉通り開通後は、青葉通りと南町(国分町通り)の東南角になった
* 仙台空襲(1945年7月)で焼け残る
* 1946年(S21)2月、米軍が接収(当初はAmrican post officeが使用)
* 1947年(S22)6月頃からは、進駐軍のCID(軍事犯罪捜査機関 Criminal Investigation Command)が規模拡大により、東邦生命ビルに移転、
* 1952年(S27)7月、接収解除
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「宮城県警察史 第二巻」P30
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44-37、18-21、22-07
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駐留軍(米軍) |
進駐軍から駐留軍へ |
1952年(S27) |
☆ 駐留軍以前の「進駐軍時代」は → 項目「進駐軍(米軍)」参照
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、対日講和条約発効し、連合国軍(米軍)の日本占領終る / 占領軍(進駐軍)だった米軍は、以後は駐留軍として日本に基地を置く
* 1955年(S30)4月15日、駐留米軍、労務者250人を解雇し社会問題化
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「重訂 宮城県郷土史年表」P578
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政党県支部など(戦後) |
進歩党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月20日、進歩党宮城県支部を結成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507/「仙台市史10 年表」P310
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映画館(戦後) |
連坊映画劇場 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)2月、連坊小路61に開設(双葉興行、200席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P561
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銀行(地域の銀行) |
通商貯蓄銀行 |
1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、通商貯蓄銀行、開業
* 1905年(M38)、通商貯蓄銀行、休業
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350
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練兵場 |
追廻練兵場 |
明治~1945年(S20) |
・ 追廻練兵場(おいまわしれんぺいじょう)は、陸軍第二師団の練兵場で、宮城野練兵場とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 兵士の軍事訓練のほか戦没者慰霊祭会場ともなった
・ 場所は、広瀬川西岸沿いで、仙台市川内の師団司令部と各連隊兵営に隣接
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市名家及実業家一覧図」(地図、明治34年4月24日印刷)には、「追廻練兵場」と記載あり
<戦後は>
・ 戦後は戦災者・引揚者用住宅が建てられ、その後住宅地となった → 項目「戦災者・引揚者用住宅の小項目「住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅)」を参照
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「仙台市名家及実業家一覧図」(明治34年)
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99-011-1、22-02-01、53-101/位置図は、98-111,98-112、98-114
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仙台の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(3) |
1960年(S35)~1968年(S43)頃 |
・ 連続の豊作記録と、消費の拡大によって、S34年のはじめから拡大をはじめていた東北の経済は、35年も引き続き高水準の成長を示し、民間企業317工場の設備投資額が、S33~35年には、毎年2倍くらいずつ伸び、事業所得も順調に伸長した。このような景気上昇を支えていたのは、いぜんとして農村を中心とする消費需要であった。
・ 昭和37年は、東北は全体として鉱工業生産の若干の伸び悩みがみられたものの、米の連続豊作や底堅い消費によってささえられている仙台の経済活動はますます活発になったのであり、その中で中央資本と結びついた大型スーパーの進出が相次いだ。
・ 日本経済は、昭和39年~40年に戦後最大の不況を迎えるが、当初は影響はそう大きくなく、昭和38年もまた連続豊作が続き農村での堅調な消費が、年末から再び行われた金融引き締めによる鉱工業生産の出荷のびなやみを大幅にカバーすることになった。
・ しかし、工業製品の出荷や在庫の動きを手始めに、次第に景気後退があらわれ、39年秋には企業倒産が深刻、不渡り手形も激増、市内百貨店の売り上げ増も39年12月は前年同月の8%増にとどまり、米代金の流入停滞や漁業不振も重なり、東北にも不況の波が押し寄せた。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P745~762の「第九章第三節 景気と金融の三 飛躍への道」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(2) |
1950年(S25)~1959年(S34) |
・ 全国的には、昭和25年勃発した朝鮮戦争による特需が、停戦により景気後退が始まる中で、26年は米の大豊作、豊漁、27年も農水産物好調で、仙台の商業も活況、第一次産業の堅調にもっぱら依存しながら、仙台の経済は本格的な復興の段階にはいる。
・ 昭和28年の冷害凶作、29年の米価切下げによるデフレ浸透のあと、30年は空前の豊作で農家経済は一挙に好転(宮城県内の稲作収入は前年比46%増)、ナタネ、麦、繭なども豊作、サンマ中心に水産業の水揚実績は戦前戦後通じて最高を記録、このため工業も食品加工業が活況、他の工業は中央の動向を反映し依然不況ではあったが、東北では工業の比重が低いため他の先進地に比べ不況の程度は少なく、東北の全体経済には影響が少なかった。
・ 仙台のデパートは、29年末の売上から戦後最高を記録、東一番丁や中央通りの商店街の増改築が目立って増え始める
・ 昭和31~32年も、米作3年続きの豊作、水産業はサンマ漁獲減にもかかわらず比較的順調で、消費需要の堅調に支えられ商業中心に伸長を続けた(全国的にはこの時期の景気は重化学工業の発展による消費需要だったが、仙台や東北はそれに直接依存するものではなかった。31年の工業出荷額、全国は前年比23%増、宮城はわずか5%と自然増程度。)
・ 昭和30年代は、食管制度に支えられて、ともかくも安定している米作を中心とする第一次産業へ流れ込んだ資金が、農村を背景とする消費の堅調を通じて第三次産業を媒介にしながら、仙台を中軸とする都市の金融機関に集中する。この資金が都市銀行に集められて、太平洋ベルト地帯などの先進地域における重化学工場の成長資金として利用された。
・ 先進地帯の重化学工業中心の経済成長のために、東北は農業、特にコメを中心とする食糧の供給、次に東北開発の一環として行われた各種自然資源の供給、さらに農村からの労働力の供給、そして金融面では成長資金の供給をも担当することになったのであり、仙台はそれらの供給業務に伴う管理中枢の機能を集積していくことになるわけである。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P732~745の「第九章第三節 景気と金融の二 再建の足取り」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(1) |
昭和20年終戦~昭和24年頃 |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732>
・ 昭和20年は明治38年以来の凶作で米が大減収、農家は供出よりも自家飯米の確保に忙殺された。
・ 昭和21年には米をはじめ水産業でも収穫が急速に回復、その上、インフレと食料不足にもとづくヤミ取引の横行により生産県である宮城県の農家経済は異常な現金収入に恵まれ、昭和22年、23年と連続して台風被害による米の減収があったとはいえ、全体として農家はヤミ取引による現金収入で潤い、戦後という異常な時期の特色を示していた。
・ 終戦から昭和24年ごろまでの特徴は、戦争による経済の破壊は大きかったが、仙台の経済が農村に依存していたために、農家のインフレ景気に支えられて、都市部の疲弊にもかかわらず相対的には商業を中心に活動が開始されていた。特に金融は農村からの預金の集中があったために、それを貸し出しに回すことができた。
・ 昭和24年のドッジ・ライン以降、デフレへの経済転換の中で、農村の景気が終わりを告げ、そのために経済が沈滞し金融面にも大きく影響した。
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P368>
・ 第二次大戦後の仙台市の経済は、ほとんど休眠の状態に陥ったといえる。産業は沈滞を極め、農業も労働力の絶対的不足で農地は荒れ、食糧事情は窮迫していた。
しかし、都市部の経済がまだ混乱が続く中で、米の生産量は増加し、仙台近郊の農家は、現金収入を増加させていった。 農村景気の出現である。この農村の余剰資金が仙台に集中し、それが産業復興の資金としての役割の一部をになったといえる。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732の「第九章第三節 景気と金融の一 復興のあゆみ」から、農業にかかわる部分のみを抜粋/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農業・農村地帯の変化 |
引用した参考資料 |
<参考>
(1)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658の「第八章 農業」は、戦後~昭和43年頃までの、仙台の農業の変遷につき記述。
・ 内容は、農地解放の経緯(S21年~27年ころ)、他産業との所得格差、兼業化、都市拡大に侵食される農用地、農地の基盤整備事業、畜産の推移、林業の変化、農畜産物流通、中央卸売市場開設、農協合併、戦後開拓地(緊急開拓事業)、仙台市育種園など
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658、P723~762
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農地解放(農地改革) |
1946年(S21)~1952年(S27)頃 |
* 1945年(S20)12月9日、GHQが農地改革を指令
<仙台市内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点の小作地面積は、2591町歩
(2) 1950年(S25)8月時点の小作地面積は、399町歩
(3) 市内田畑総耕地面積に占める小作地割合の変遷
S20年(48.6%)→S24年(12.1%)→S26年(7.2%)→S27年(3.5%)
(4) 農地を買収された地主戸数は、3719戸
(個人地主3490戸、法人地主229)
(在村地主1665戸、不在地主2054戸)
(10町歩以上買収された地主、個人17戸、法人2)
売り渡しを受けた戸数は、4524戸
<宮城県内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点で、自作地40%、小作地59.4%
(2) 改革完了後には、自作地89.5%、小作地10.5%
(3) 自作小作農家の割合変化
小作農 41.6%→3.9%
自作農 19.4%→61.1%
自小作農 15.1%→24.8%
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P606~611、P726
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北山五山 |
輪王寺 |
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<輪王寺>
藩祖政宗に従って米沢~会津若松~岩出山~仙台と移動した伊達家の一門寺
・ 4代藩主綱村治下に、大造営
・ 1876年(M9)、山火事で焼失
・ 焼け残った山門(仁王門)は、元禄盛期の建築
北山五山は、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125~126
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「目で見る仙台の歴史」P155(輪王寺)、P71(輪王寺山門)
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金属回収 |
軍馬銅像 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
* 1943年(S18)か1944年(S19)、桜ケ岡公園(西公園)にあった軍馬の銅像「日露役殉死軍馬銅像」が、S18年か19年に供出された
・ 戦後しばらくは台座のみが残っていた
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99-120、53-63
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