項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
長町駅(仙台市電) |
開業 |
1936年(S11) |
<仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(仙台地下鉄) |
開業 |
1987年(S62) |
<仙台地下鉄南北線・長町駅>
* 1987年(S62)7月15日、仙台市営地下鉄南北線の長町駅が開業
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「仙台市史 年表」P135/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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仙台庶民金庫 |
開業 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)7月、仙台市街地信用組合として開業、同年12月に仙台庶民金庫と改称(「仙台市史 年表」P102)
* 1923年(T12)4月、定禅寺通りに(有)信用組合仙台庶民金庫、設立(「仙台市史 特別編4 市民生活」P515)
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「仙台市史 年表」P102/「仙台市史 特別編4 市民生活」P515
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乗合馬車 |
開業 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)11月14日、仙里軒(国分町)が仙台(国分町)~岩沼間の乗合馬車を開業
* 1878年(M11)、萬里軒、開業 / 仙台~福島間2円30銭(「番丁詳伝」P29)
* 1881年(M14)4月21日、万里軒(萬里軒)が国分町に本店、仙台~白石間の乗合馬車を開業 / 同年12月15日から、仙台・福島間運行、仙台~福島間2円30銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195)
* 1884年(M17)3月、万里軒が、福島(盛運社)と宇都宮(手塚舎)の業者と共同で、乗り継ぎ制で、仙台~東京間の乗合馬車を開業 / 仙台~福島間1円70銭、仙台~東京間7円67銭(「番丁詳伝」P29) / 料金については「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195にも詳述
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195によれば、、仙里軒、万里軒のほかに、この時期には、宝來軒(東一番丁)、盛運社(福島)、旅館菊平(国分町)、自由軒(国分町)と乗合馬車事業が競合関係にあった
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「仙台市史 年表」P82、P84、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195/「番丁詳伝」P29
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(万里軒の引札)
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仙台トラック輸送センター |
開業 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月、仙台トラック輸送センター、仙台流通センター地区内に開業(「続・ 宮城県郷土史年表」P16では、仙台トラック事業協同組合が12月完成)
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「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P16
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仙台陸奥館(陸奥ホテル) |
開業 |
1890年(M23) |
* 1890年(M23)、仙台駅前には、最初のホテルで日本鉄道経営の「仙臺陸奥館」ができるなど、明治年間に旅館やホテルの開業が相次いだ(「仙台はじめて物語」P90)
* 1894年(M27)、陸奥ホテル開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
・日本鉄道が経営
・洋風木造3階建て、東北初の洋風ホテル
1階はビリヤードとロビー
2階は食堂、3階は客室(洋食)
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「仙台はじめて物語」P90/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
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06-23、16-57
/「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に「陸奥ホテル」(仙台停車場前)と陸奥ホテル支店(仙台停車場正面、西洋料理)の写真あり
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七十七銀行 |
開業 |
1878年(M11) |
<国立銀行>
* 1878年(M11)6月、第七十七国立銀行仮取扱所、勾当台通1番地に設置(「仙台年表」P151)
* 1887年(M11)12月、旧仙台藩士族の大部分が出資した第七十七国立銀行開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P349)
* 1878年(M11)12月9日、第七十七銀行国立銀行、大町1丁目に開業(「仙台市史 年表」P83)
<国立→私立>
* 1896年(M29)10月29日、国立から私立に移管(「仙台年表」P171)
* 1898年(M31)3月1日、株式会社七十七銀行となる(「仙台市史 年表」P90、「仙台老舗百点史」P106)
* 1898年(M31)3月1日、私立銀行に転換(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)
<本店、芭蕉の辻の洋館に>
* 1903年(M36)8月1日、新式店舗を芭蕉の辻東北角に新築移転 / 地下室付き2階建ドイツルネッサンス式準洋風建築 / 設計者松崎万長、工費は基礎工事3万円、上部構造等6万円(「重訂 宮城県郷土史年表」P328)
<本店移転>
* 1929年(S4)8月11日、大町4丁目75の旧宮城商業銀行本店跡に本店を移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P416)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P349、P350/「仙台市史 年表」P83、P90/「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P328、P416/「仙台年表」P151、P171/「仙台老舗百点史」P106
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P339(七十七銀行が明治12年に発行した壱圓紙幣)
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仙台高等工業学校 |
開校 |
1907年(M40)~1951年(S26) |
官立の仙台高等工業学校は、(旧制)中学校卒業者が入学した3年制の専門学校
・「SKK」は校名の略称(仙台、高等、工業の頭文字を並べた)
・「SSKと萩の葉」を組み合わせ校章とした
* 1906年(M39)3月29日、文部省直轄学校一つとして設置
* 1907年(M40)4月20日、仙台高等工業学校開校(敷地,校舎は、南六軒丁の宮城県立仙台第一中学校を充当) / 名古屋、熊本につぎ3番目 / 土木、機械、電気の3工学科と採鉱冶金学科
* 1912年(M45)3月29日~1921年(T10)3月31日の間、東北帝国大学に包摂され、東北帝国大学工学専門部と改称
* 1921年(T10)4月、再び仙台高等工業学校として独立、再発足
* 1939年(S14)3月29日、工業化学科を新設(定員35名)
* 1944年(S19)4月、仙台工業専門学校に改称
* 1948年(S23)6月25日、同盟休校(教育防衛闘争)
* 1949年(S24)、東北大学に包摂された(工学部に合併され、東北大学仙台工業専門学校と改称)
* 1951年(S26)3月:東北大学仙台工業専門学校、廃止。
「写真53-120」の校舎は、1908年(M41)竣工~1926年(T15)6月全焼
「写真18-03」の校舎は、東北大学発足後は、第二教養部校舎となり、その後は、東北大学通信研究所が使用した
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「重訂 宮城県郷土史年表」P335、P337、P467/「宮城県百科事典」P579『仙台工業専門学校』 /「明治の洋風建築-宮城県-」 P69とP78『仙台高等工業学校』 /「仙台市史 年表」P94、P100、P113/「仙台市史10 年表」P318/Wikipedia「仙台高等工業学校」(2020年3月)
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53-120、18-03/「新・目で見る仙台の歴史」P141/「新・目で見る仙台の歴史」P141(校門と校舎)/「市民の戦後史(仙台市)」P39(仙台工業専門学校)
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仙台自動車学校 |
開校 |
1924年(T13) |
* 1924年(T13)3月、仙台自動車学校が新寺小路に開校
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「仙台市史 年表」P102
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東北学院大学 |
開校 |
1949年(S24) |
<前身の専門学校>
* 1946年(S21)4月、東北学院専門学校(英文科・経済科)および同二部を設置 / 1951年(S26)、廃止
<大学に昇格>
* 1949年(S24)4月1日、東北学院大学、南六軒丁で開校(英文、経済の2科)
* 1959年(S34)、文経学部二部を設置
* 1962年(S37)、工学部(機械工学科・電気工学科・応用物理学科)を多賀城市旭ヶ丘に新設
* 1964年(S39)、文経学部を文学部一部(英文学科・基督教学科・史学科)、同二部(英文学科)、経済学部一部(経済学科・商学科)、同二部(経済学科)に分離。
* 1965年(S40)、法学部を設置
* 1966年(S41)9月、東北学院大学登山隊がヒマラヤ・パンダコール登頂成功
* 1986年(S61)、創立100周年記念式典を挙行。
* 1988年(S63)、文・経済・法学部の教養課程を泉キャンパスに移転
* 1989年(H1)、教養学部(教養学科人間科学専攻・言語科学専攻・情報科学専攻)を泉キャンパスに新設
~以降の大学学部内の学科および専攻の新設、名称変更、廃止などは、「東北学院大学」HPの「大学のあゆみ」参照~
<短期大学>
* 1950年(S25)、東北学院大学短期大学部併置(2年制、英文科と経済科)
* 1959年(S34)、短期大学部を東北学院大学文経学部二部(英文学科・経済学科)に改組
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東北学院大学HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表/「仙台市史 年表」P116/「続・ 宮城県郷土史年表」P212、P241/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P536~538
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537/「市民の戦後史(仙台市)」P187(パンダコール登頂隊への寄書き日の丸)/「新・目で見る仙台の歴史」P142(東北学院大学泉キャンパス)
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宮城教育大学 |
開校 |
1965年(S40)~ |
東北大学教育学部教員養成課程を分離し、国立の宮城教育大学を設立
* 1965年(S40)4月1日、国立宮城教育大学開校(東北大学富沢分校が仮校舎)、4月30日、東北大学川内記念講堂で入学式 / 小学校教員、中学校教員、盲学校教員各養成課程、および附属理科教育研究施設生物部門を設置
~ 以下、大学および大学院の各専攻科、各教員養成課程、付属研究センター、研究機構等の設置、名称変更、廃止などは、「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」参照~
* 1966年(S41)10月8日、宮城教育大学、青葉山裏久保田山に建設することが決定
* 1967年(S42)4月、 北七番丁の東北大学教育学部附属小学校、附属中学校及び附属幼稚園を、宮城教育大学に移管 / 同年6月、附属養護学校(小学部及び中学部)設置
* 1968年(S43)4月1日、仮校舎(太白区富沢字金山)から、荒巻字青葉久保田山に新築移転
* 1968年(S43)10月18日、全校舎等竣工落成
* 1969年(S44)、附属養護学校高等部増設
* 1971年(S46)、附属養護学校(仙台市青葉区上杉六丁目)を青葉区荒巻字青葉在地に移転
* 1988年(S63)、大学院教育学研究科(修士課程)設置 / 4月21日、大学院、初の入学式
* 1991年(H3)、情報処理センター設置
* 2000年(H12)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース設置
* 2004年(H16)、国立大学法人法により国立大学法人宮城教育大学発足
* 2005年(H17)、附属学校部設置
* 2007年(H19)、附属養護学校を附属特別支援学校に名称変更
* 2008年(H20)、大学院教育学研究科専門職学位課程高度教職実践専攻(教職大学院)設置
* 2010年(H22)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース廃止
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「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」/「仙台市史 年表」P124、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P628、P631、P639、P643/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P338~339、P535~536
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P535/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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RTO(仙台) |
開所~廃止 |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
* 1945年(S20)9月20日、仙台のRTO開所(宮城、青森、岩手を管轄)
* 1946年(S21)6月21日以降は東北地方と新潟のRTOを管轄
* 1952年(S27)4月1日、廃止(国鉄の自主運行となる)
* 1957年(S32)10月まで、仙台駅北側(RTOの場所)を米軍が占拠 (「仙台市史 続編第1巻」P570)
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16-22(の内容欄、関連情報欄)参照/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P570
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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朝鮮戦争 |
開戦~休戦 |
1950年(S25)~1953年(S28) |
* 1950年(S25)6月25日、開戦(北緯38度線で戦闘開始)
* 1950年(S25)8月25日、朝鮮特需はじまる(菅家年表)
* 1951年(S26)7月10日、休戦会談、開城で開く(~8.23戦闘は続く)
* 1951年(S26)10月25日、朝鮮休戦会談、板門店で再開(会談中戦闘続く、戦局膠着状態)
* 1953年(S28)7月27日、朝鮮休戦協定調印
戦後(S20年9月から)仙台など県内に進駐した占領軍(進駐軍=米軍)将兵は多い時で1万5000人(2万人説もある→後述)に達したが、朝鮮戦争開始後は、大幅に減った /「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P30、P32/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P551/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/「市民の戦後史(仙台市)」P72
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ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
開店~閉店 |
1912年(M45)~1933年(S8) |
・ 東一番丁通の立町通角と大町通角の間、道の西側に面していた(戦後の靴店「アピアまんぞくや」の辺り)
・ 1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーンで西洋料理や喫茶(仙台最初の洋風喫茶店)、夜はイルミネーションが点灯
・ 洋館造り、設計は東北帝国大学の文部技官中島仙太郎
* 1912年(M45)7月27日、開店(大正に改元の3日前)
大町5丁目の写真機販売業・桜井常吉が東一番丁通りに進出、電飾の輝く洋館2階でカフェ・クレーンを開業(1階のツルヤ洋菓子店は義弟の中林源助にまかせる)
* 1933年(S8)3月19日、近くの映画館「仙集館」近くから出火した火事で類焼し、閉店
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「重訂 宮城県郷土史年表」P352/「仙台はじめて物語」P74~75
/「東一番丁物語」(柴田量平著)P126~129/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P135/「仙台市史 年表」P96
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20-19、20-41、22-56、45-02、45-03、99-017
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金富士(料理店) |
開店~閉店 |
1930年(S5)~1971年(S46) |
玉澤横丁にあった、西洋料理と中華料理の店
・戦前、「銀のスプーンで」食べるカレーライスが人気だった
・「崑崙(こんろん)山」と名付けた庭で有名だった /
<崑崙山(息女の石井直子さん談)>
「この庭は、初代の経営者石井金三朗が全国を回って集めた天然石で築造、昭和初期に1000円もした高価な石も使われた。 庭の地下に水槽をつくり電動ポンプで水をくみ上げた滝もあった。庭にある鳥居も石で出来ていた。帽子をかぶった人が腰かけているのうな石もあった。トイレにも自然石が使われていた。土井晩翠が詩に詠んだほどの名所だった。」
* 1930年(S5)開店(玉沢横丁)
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1948年(S23)、再建し1971年(S46)まで営業した
【「仙台年表」P201】「昭和5年、仙台国分町の金富士寿司経営者、石井金三郎氏、石崑崙を築く。面積260平方尺、高さ20尺、集石に5年、築造に1年、大小の石は北海道アイヌから九州迄に及び10万円を費やす」
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金富士の家族談/仙台年表P201
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戦前は98-110、71-01、71-02、71-03、71-04、71-05、71-06、戦後は71-07、71-08、71-09、201-43
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西内楽器店 |
開店~焼失 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
繁華街の東一番丁・大町交差点の北東角にあり、中央部が塔屋含めて5層に見える木造建築(大正15年竣工)が、向かい(南東角)の藤崎デパート西館(3階建ビル、昭和7年竣工)とともに特徴ある風景を象づくり、昭和戦前期の仙台の代表的景観のひとつだった
・ 呉服商の「大内屋」が建てた長屋で、数軒の店が入居
・ 木造2階・一部3階・瓦葺・真壁漆喰塗
* 1926年(T15)、竣工(中央正面の目立つ場所に「西内楽器店」が入った)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「古写真に見る仙台の建築」P44
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98-015、53-20、11-03、22-27、20-46、44-69、49-04、64-03、22-52
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
明治期 |
<明治期>
・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
→ 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
大正~昭和初期 |
<大正期>
・ 1913年(T2)の「仙台案内」掲載店
内藤洋食店(大町3丁目)
・ 1920年(T9)の「仙台商工案内」掲載店
仙台カフェ・パウリスタ(東一番丁)
・ 1923年(T12)、精養軒(東京上野精養軒の仙台支店)が東一番丁弥生軒跡で開業 → 項目「精養軒」参照
・ 1925年(T14)、カルトン食堂開業(大町5丁目)
→ 項目「カルトン食堂」参照
<昭和初期>
・ 1937年(S12)の「仙台商工名鑑」掲載
ミウラ(勾当台通り)、金富士(国分町)、ブラザー軒(東一番丁)、小原(元寺小路)、カフェライト(裏五番丁) → 項目「ブラザー軒」、項目「金富士」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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和田床屋 |
開店 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)、和田専助が仙台初の床屋を東一番丁に開店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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44-04(西洋理髪師 和田専助夫妻)、22-28(和田床屋、大正末期、大町5丁目)
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三越(仙台店) |
開店 |
1933年(S8) |
<前史>
* 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁)
* 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203)
* 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開
* 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂)
・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり
・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施
<東一番丁に開店>
* 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」
【「番丁詳伝」P144~145】
・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」
・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」
・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」
・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」
・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼
* 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開
* 1963年(S38)11月1日、新館新装開店
(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり)
* 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置
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「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145
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22-51、47-06、53-34、22-53、53-23、16-39、20-33/「目で見る仙台の歴史」P165
/三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館)
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仙台国税局 |
開庁 |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)7月、仙台税務監督局を仙台財務局と改称
* 1949年(S24)6月1日、仙台国税局開庁(新設)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P484、P535/「仙台市史10 年表」P321
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16-36
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進駐軍放送局(仙台) |
開局~閉局 |
1945年(S20)~1953年(S28) |
* S20年9月23日、進駐軍放送局AFRS仙台(WLKE、1450kc/s 3KW)が開局(NHK仙台局に同居)
* キャンプ・センダイ(仙台城二の丸の旧第二師団跡地)に移転
* 1953年(S28年)10月3日閉局
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19 →「昭和20年9月23日、進駐軍のために施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始」
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「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19
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25-01
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仙台簡易保険局/仙台地方簡易保険局 |
開局 |
1936年(S11)/1949年(S24) |
* 1936年(S11)4月、北一番丁(現・上杉3丁目)に「仙台簡易保険支局」が開局 / 同年2月に鉄筋コンクリート4階建て庁舎建設(当時は東北地方随一の大ビルディング)
<戦後、米軍が接収>
* 1945年(S20)9月、進駐軍が接収 / 敗戦後は、関東以北の占領に責任を持つ進駐軍(米軍)の軍団司令部が仙台におかれたが、占領の中枢機能を置くため、簡易保険支局庁舎を接収 / のちに米軍病院(172ステーション・ホスピタル)として使用 / 病院は1950年(S25)からの朝鮮戦争で負傷した兵士で満杯になり、多い時には250病床に500人以上が入院し、廊下までベッドが置かれた / 戦死した遺体を本国に送る前にここできれいにする作業を日本人医師が高額の報酬で手伝った(「戦争のころ 仙台、宮城」P245)
<接収中は移転し業務>
* 簡易保険局は市内の学校(8校)に分散、その後に原町安養寺下の元陸軍造兵廠仙台出張所跡に移転
* 1946年(S21)7月1日、仙台貯金支局・仙台簡易保険支局設置
* 1949年(S24)、郵政省の設置に伴い「仙台地方簡易保険局」と改称
* 1949年(S24)末~1951年(S26)8月、長町新屋敷に庁舎建設し移転(S26年1月17日、工事中に1棟全焼)
<接収解除>
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍・駐留軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビル(北一番丁)が、12年ぶりに返還される / 病院として使用されていたので返還後内部を改修
* 1958年(S33)6月、改修工事完了し、長町から移転(のち、仙台地方貯金局と共同利用)
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「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 年表」P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P585/「仙台市史10 年表」P313、P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P285/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584~585/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245
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99-100/「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584(簡保ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P41(S33、仙台駅界隈空撮、画面右上の白いビル)
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青葉まつり |
開始/復活 |
1956年(S31)~1967年(S42)
/ 1985年(S60)~ |
* 1956年(S31)5月24~26日、第一回 / 青葉神社の例祭にあわせて開催
* 1964年(S39)5月、仙台市立第一中学校の生徒らによる「雀踊り」が登場
* 1968年(S43)から、交通事情変化などを理由に行われなくなる
* 1985年(S60)4月27日~6月2日、伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり開催(没後350年にあたり、祭り復活)
* 1987年(S62)5月10日、青葉祭りで、藤崎デパート前と東宝ビル前に、高さ10mの山鉾を復活
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「仙台市史 年表」P119、P126、P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P581
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「目で見る仙台の歴史」P190(青葉まつりパレード)
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住居番号表示制 |
開始年(全国/仙台) |
1962年(S37)/1965年(S40) |
* 1962年(S37)5月10日、住居番号表示制始まる
* 1965年(S40)4月1日、仙台市旭ヶ丘地区で新住居表示制度を実施(仙台市初)
・ 仙台市内各地区の新住居表示実施年一覧 → 項目「新住居表示制度(仙台)」
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P56
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午砲 |
開始(大砲で) |
1871年(M4)~1929年(S4) |
* 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す / この日より虎ノ門に午砲を始む(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月から仙台城二の丸跡の東北鎮台(のちの第二師団)で毎日大砲を撃ち正午の時を報せた(市民は「ドン」とよんでいた)
* 1922年(T11)年8月15日から軍縮のため午砲が廃止され、輪王寺・本願寺・愛宕山の打鐘で正午を報せた
* 同年12月8日、午砲復活
* 1929年(S4)、廃止(2月1日から市役所からの電気サイレンにかわる)
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「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/仙台市史 年表」P79、P101、P104
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98-066の左上に「寅ノ門」/仙台市全図(大正元年 東洋造畫館)では、川内の旧仙台城寅ノ御門脇に「號砲所」の記載あり(午砲を撃った場所)
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電話開始(仙台) |
開始(仙台) |
1900年(M33) |
* 1884年(M17)、宮城県庁・仙台警察署・宮城県監獄に電話が架設される(「仙台市史 年表」P85)
* 1895年(M28)3月20日、藤崎呉服店の藤崎三郎助、宮城県内の民間で初めて電話を架設(「仙台市史 年表」P89)
<電話交換開始>
* 1900年(M33)12月27日、南町の仙台市電話交換局開設、仙台市内の電話交換を開始(加入者170名、170台、市内通話のみだった)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台市史 年表」P91、「仙台はじめて物語り」P181、「仙台あのころこのころ八十八年」P240、)
* 1901年(M34)、塩釜電話所と市外通話が可能になる
<長距離電話> 下記記述、時期に矛盾あり
* 1906年(M39)4月、東京・福島・仙台・盛岡・青森間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P335、「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1924年(T3)6月1日、東京・仙台間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P358、「宮城県の百年」年表)
・ この時代の電信電話は真空管の発明以前でもあり、多重通信の技術はほとんど存在せず、1回線につき1本の通信線が必要で、1本の電信電話柱に数十本の架線がなされていた
・ 1901年(M34)の仙台市内の電話番号・電信略号が、「名家実業家一覧地図(明治34年)」の裏面に記載あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142/「仙台市史 年表」P85、P89、P91/「重訂 宮城県郷土史年表」P320、P335、P358/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台はじめて物語り」P181
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数多くの電話線が張られている → 44-22、77-21、44-19、44-18
/「仙台市史 特別編4 市民生活」P142(郵便局電話課での電話交換風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P349(M36年、仙台商工家電話寿語録、カラー)
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市民土曜音楽会 |
開始 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)7月、始まる(市役所庁舎前で)
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「市民の戦後史(仙台市)」P125
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「市民の戦後史(仙台市)」P125(S35年7月、土曜音楽会)
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彫刻のあるまちづくり事業 |
開始 |
1977年(S52)10月 |
* 1977年(S52)10月、仙台市、市制施行八十八周年を記念し開始
<仙台市HP 「彫刻のあるまちづくり」より>
平成13年3月までに、第1期12作品、第2期12作品を設置し、24年間にわたり1年に1作品ずつ設置してきた彫刻のあるまちづくり事業が完了(全作品一覧あり)
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P73/仙台市HP「彫刻のあるまちづくり」
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金属回収 |
開始 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)2月16日、商工省、鉄製不急品の回収開始
* 1939年(S14)4月7日、宮城県内で金の提出運動始まる(各家庭は7月5日までに保有内容を申告)
* 1940年(S15)、米国などが、鉄くずや銅鉱石の日本向け輸出禁止
* 1941年(S16)9月1日、金属類回収令により金属回収開始
<仙台市では>
* 1941年(S16)10月1日(興亜奉公日)、仙台市では「戦争物資動員の日」と定め、回収強化 / 家庭の門扉、欄干、手すり、鉄瓶、傘立て、火鉢、洗面器、置物、花器、文房類まで回収
* 1942年(S17)1月20日、仙台市で一般家庭金属類特別回収(第2回特別回収、買上げ班が各戸を回り買上げ伝票に記入、財団法人・戦時物資活用協会が買上げ)
「1月20日、公会役員や中学生が14班に分かれて荷車やリヤカーに「金属特別回収訪問班」と書いた小旗を立てて各家庭をまわり供出を呼びかけました。 床の間の花瓶、仏壇に供えてあった花立て、大鍋、青銅の火鉢、傘立てなどの金属が提供されました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117)
* 1942年(S17)5月12日、工場、会社、商店、旅館、寺院などから金属回収が始まる(菅家年表)
* 1942年(S17)11月16日、ニッケル、銅貨も回収(10銭と5銭ニッケル貨、白銅貨)(菅家年表)
* 1942年(S17)11月~1943年(S18)2月、火の見櫓や家庭必需品を除く一切の銅鉄製品を回収
* 1943年(S18)8月、勅令改正で強化された
・「1943年8月、「金属類非常回収実施要領」が閣議決定され回収はより強化。 鉄製品では、門扉、鉄製ベッド、物干し、ストーブ、ロッカーなど、銅製品では新聞受け、シャンデリア、洗面機などが加えられ、公共物ではマンホール、交通標識、橋の欄干など。
仙台市立病院は昭和14年に鉄筋5階建てのビルに改修し、170台のベッドを購入したばかりでしたがこれも供出され木製に、片平の東北帝大キャンパスの周りを取り囲んでいた鉄製欄干もやはり木造に変わりました。
回収方法はよりシステム化され、隣組ごと日程を組み、会場では公会役員立ち合いのもと、買上げ者が物品を鑑定して値段をつけていきました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117~118)
* 1944年(S19)3月、仙台市電「芭蕉の辻線」のレールを回収
* 1944年(S19)9月15日、白金の強制買い上げ
* 1944年(S19)9月25日、銀の買上げ(まず、東京から始まる)
* 1944年(S19)、松島町字高城の松島橋、金属回収のため解体
* 1945年(S20)10月22日、金属回収令廃止
写真16-57と16-69は、金属回収で店の看板がなくなった仙台駅前
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仙台市での金属回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P25~27に記述あり
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台年表」P209、P214/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28~29/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P117~118
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16-71、16-57、16-69/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)/同P462(東裏丁公会の供出の様子、昭和17年)
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いのちの電話 |
開始 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月、仙台市で「いのちの電話」開始
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「続・ 宮城県郷土史年表」P154
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親切運動 |
開始 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)2月1日、仙台市が開始(島野市長ら5氏が提唱)
市民や団体から「親切実行者」を推薦してもらい、個人には親切バッヂ、団体には親切楯を贈り、その行為をたたえるもの
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「重訂 宮城県郷土史年表」P612/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250~251
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梅田川清掃運動 |
開始 |
1965年(S40) |
<梅田川浄化運動>
梅田川は、急速に発展した住宅街を流れるため、ごみが投げ捨てられ、汚水が流れ込み、きたない川の代名詞のようにいわれていたが、市民が汚水と悪臭の追放に取り組む / 毎月16日の「町ぐるみ清掃の日」に、流域住民総出で清掃 / 当初3年計画だったが、1年半で目標を達成した
* 1964年(S39)10月(S40年3月?)、苦竹、中江地区の12町内会4200世帯と地域の衛生団体、東保健所などが参加して、梅田川浄化推進協議会結成
* 1965年(S40)3月29日、梅田川浄化運動大会
* 1965年(S40)5月、小田原から荒巻神明町にかけての29町内会による、北部地区梅田川環境美化推進協議会発足
* 1965年(S40)夏、ドジョウやフナを放流
* 1966年(S41)10月、美しい町づくり全国コンクール最優秀賞受賞(テレビで全国に紹介)
<他の地域へ波及>
このあと、六郷堀清掃運動(1968年3月~)、広瀬川、七郷堀、郡山堀など市内各地に河川浄化の取り組みが生まれる
* 1968年(S43)5月、これら運動団体で仙台市愛護会結成
* 1980年代までに河川愛護会の構成団体は10団体となり、梅田川、広瀬川、七北田川、郡山堀、六郷堀、七郷堀、藤川で運動継続、毎年1万人以上が清掃の参加
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P248~249、P680/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 特別編4 市民生活」P541~542
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(ごみ捨て場となった梅田川)/同P430(S41年、市民が梅田川清掃)/「市民の戦後史(仙台市)」P189と「新・目で見る仙台の歴史」P191に「市民総出で梅田川清掃作業」/「市民の戦後史(仙台市)」P189(フナを放流)
/同P212(住民たちが六郷堀川さらいで清掃)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(七郷堀を市民が清掃作業)
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右側通行 |
開始 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)11月1日、それまでの左側通行から、「人は右、車は左」の対面交通に切り替えられた
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昭和24年道路交通取締法改正
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16-28、16-43
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緑と花いっぱい運動 |
開始 |
1963年(S38) |
目標「ビルがならぶ都心には、工夫をこらして緑と花を、郊外や一般家庭にはできるだけ植樹をし、潤いのある環境を」
* 1963年(S38)、仙台市が「緑と花いっぱい運動」開始
* 1963年(S38)3月、市民ラジオ体操祭、参加者に花の種1万袋配布
・ 宣言記念式店出席者に苗木1500本配布
・ 園芸協会の協力で、苗木即売会、地域・職域団体による花壇づくり
・ 健康都市協議会直営の公園を、榴ヶ岡公園下と国道4号線土樋三角地帯の2か所に開設
* 1964年(S39)4月、フラワーポット町角に登場
・ 1965年(S40)月日、消防局の花いっぱい運動が、日本花いっぱい協会の最優秀賞受賞
* 1967年(S42)~、市民記念植樹実施(入学、卒業、長寿、転勤など記念し、市が指定する場所に記念植樹)
・篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
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仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P249~250/ 「市民の戦後史(仙台市)」P158
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「市民の戦後史(仙台市)」P158(街角のフラワーポット)
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清掃事業(行政) |
開始 |
1918年(T7)~1965年(S40) |
* 1918年(T7)、仙台市が清掃事業を開始、一部地域は市直営、その他は請負業者による収集と、2本立て
* 1924年(T13)6月、市営焼却場建設
* 1925年(T14)9月、原町に新焼却場建設
* 1929年(S4)、請負制廃止しすべて市直営に、馬車付き人夫35人を直雇いに
* 1931年(S6)、請負制に復帰、市と二本立て / 戦後も二本立てが続く
* 1956年(S31)10月、請負業者による収集を廃止し、全て市直営収集とする
* 1957年(S32)9月、鶴ケ谷焼却場、稼働開始 / 従来の市営焼却場廃止
* 1962年(S37)6月、定時容器収集(ポリ容器に入れたごみを各家庭が持ち出し決まった時間に市の清掃部員が収集)、土樋など5町内会で試験実施
* 1963年度(S38)、定時容器収集を全地域に広げ、収集を週2回に増やす
このころごみ収集量は1日200トン、約60トンは鶴ケ谷焼却場で焼却、残りは埋め立て
* 1964年(S39)3月、新埋め立て地、六郷地内の子牛沼6000㎡を買収し埋め立て
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P690~691、P701~704
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「目で見る仙台の歴史」P183(鶴ケ谷の塵芥焼却場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(ゴミ収集作業作業/鶴ケ谷焼却場)
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八木山球場 |
開場 |
1929年(S4) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が所有する土地に私費を投じて建設し、宮城県に寄付し「宮城県営野球場」となる / 工費40万円
* 1927年(S2)9月、八木山球場を起工
* 1929年(S4)6月23日、開場(開場同日に宮城県に寄付し、「宮城県営八木山球場」となる(「仙台市史 年表」P105、「重訂 宮城県郷土史年表」P415、「宮城県の百年」年表、「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
* 1930年(S5)6月、八木山球場で、三田・稲門野球戦(三田は慶応大学、稲門は早稲田大学)
<開催された日米野球>
* 1931年(S6)11月10日、米大リーグ選抜対明治大学(米13-明治2) / 大リーグ選抜にはグローブ投手やゲーリッグらが参加( →「仙台はじめて物語」P235~241に詳述あり)
* 1934年(S9)11月6日、米大リーグ選抜と全日本選抜 ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ(「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
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「仙台市史 年表」P105、P107/「重訂 宮城県郷土史年表」P415、P420、P428 / 「新目で見る仙台の歴史 P155」/「仙台はじめて物語」P235~241/「仙台あのころこのころ八十八年」P70/「宮城県の百年」年表
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仙台座 |
開場 |
1890年(M23) |
* 1890年(M23)11月22日、「仙台座」開場 / 南町通・東四番丁角にできた仙台初の本格的劇場 / 木造平屋建漆喰塗、外観は洋風であったが内部には幅十間の舞台と桝席・桟敷・花道を持っていた / 歌舞伎、のちには新劇、映画も上演され、政談演説会場にも利用された
* 1945年7月10日、仙台空襲で焼失
<仙台座で、仙台初の映画公開>
(「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』より)
* 1897年(M30)、仙台座で、仙台初の映画公開 / 主催は東一番丁の白崎写真店主(白崎民治)
(1)4月28日~5月8日
映写機は、フランス・リュミエールのシネマトグラフ / 人物や風景など、毎夜30分上映 / 入場料10銭、しばしば電気が切れたため、少年音楽隊の演奏でつなぐ
(2)8月4日~10日(夜7時開演)「活動大写真会」
映写機は米国製ヴァイタスコープ / 入場料は大人8銭、軍人・学生4銭(当時、新聞1部が1銭2厘) / 「パリの風景や軍隊の行進」「衣装をさまざまに着替えて踊る少女」「日本美人の布ざらし」など100余本を毎晩取り替えて上映 / フィルムには部分的に赤、緑、褐色など彩色あり/ 7日には、第二師団将兵1600余人、9日に歩兵4連隊など1000余人が観覧 / 余興には音楽隊の吹奏や蓄音機で仙台芸妓連の唄を聞かせた / 事前に、円太郎馬車(乗合馬車)が旗なびかせ、賑やかな楽隊をのせて街を走り宣伝、各所でまいたチラシには「電気作用、活動着色大写真 発音器(蓄音機)付」と書かれていた
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「仙台あのころこのころ八十八年」P238、P239/「仙台市史 年表」P87/「目で見る仙台の歴史」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P308/「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』
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「市民の戦後史(仙台市)」P22/「仙台市史 特別編4 市民生活」P227(仙台座、M25年芝居番付)
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県営宮城野球場(宮城球場) |
開場 |
1950年(S25) |
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン
<開場式、記念のプロ野球戦試合>
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場グランド開き / 5月5日、観客殺到し、圧死3名、重軽症23名(「仙台市史10 年表」P323)
* 1950年(S25)5月3日、開場式 / 5月5日、仙台初のプロ野球公式戦(毎日対大映、毎日対南海)(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)5月3日、球場開きの際、入場者殺到し、作ったばかりの金網の柵が倒れ、死者3人、負傷者23人という惨事(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266)
* 1950年(S25)5月5日、開場式(記念試合として、毎日・大映・南海の公式試合あり)(「重訂 宮城県郷土史年表」P542)
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球米選抜軍対巨人軍
* 1973年(S48)4月20日、照明塔6基点灯式
* 1973年(S48)5月22日、ナイター開幕
* 1974年(S49)1月、プロ野球ロッテ球団が、宮城県営野球場を本拠地とする
* 1974年(S49)4月6日、東北初のプロ野球開幕試合(ロッテ対阪急)
* 1977年(S52)9月13日、ロッテ球団、本拠地を川崎ヘ移す
* 1985年(S60)6月18日、県営宮城球場、大改造完成
* 2004年(H16)、全面改修され、プロ野球団東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(施設は宮城県が所有し、東北楽天ゴールデンイーグルスの運営法人・株式会社楽天野球団が都市公園法に基づく管理許可制度により運営管理)
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「仙台市史 年表」P116、P129/「仙台市史10 年表」P323、P326/「重訂 宮城県郷土史年表」P542/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P20、P71、P192/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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20-06、25-15、25-16
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県営宮城自転車競技場 |
開場 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)、第7回国民体育大会(東北3県国体)の開催のため、同年に開場
* 2014年(H26)5月7日、廃止(北隣にある国立病院機構仙台医療センターの建て替え用地になったため)
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Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版
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水の森スケート場 |
開場 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)12月29日、仙台市が「水の森スケート場」を設置
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「仙台市史 年表」P129
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八木山ベニーランド |
開園 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)4月14日、仙台市八木山にある総合遊園地、八木山ベニーランド開園(所有者は株式会社エイトリー)
/ 前身は、1930年(S5)開園した「八木山遊園地」
( → 項目「八木山遊園地」参照)
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「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史 年表」P125
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台原森林公園 |
開園 |
1973年(S48) |
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1973年(S48)4月、開園
* 1978年(S53)4月22日、公園入口に、舟越保武、高台に佐藤忠良製作の像、除幕
* 1980年(S55)4月1日、野外運動施設(フィールド・アスレチック・コース)完成
* 1987年(S62)11月6日、公園に、岩野勇三作彫刻「牧歌」除幕
* 1990年(H2)9月27日、仙台市科学館が、日本長期信用銀行ビル地下から台原森林公園の中に新築移転し開館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P632/「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P80、P110、P232、P268
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「新・目で見る仙台の歴史」P192
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野草園 |
開園 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)7月21日、開園(面積3.4ha) / 仙台市営 / 大年寺山の一隅19,620坪を20ブロックに分かち、東北地方などに自生している600数種に及ぶ野草を各適地に植栽
* 1976年(S51)9月、野草園で、大賀ハス開花
* 1983年(S58)4月29日、野草園で「杜と彫刻の風の音」除幕
* 1989年(H1)7月21日、佐藤よしの依頼で彫刻家鈴木政夫制作による花地蔵安置
* 1989年(H1)9月14日、萩にちなんだ石の彫刻「萩の守」を除幕
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P368/絵葉書99-127の説明文/「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P261、P262
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99-127/「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P78/「新・目で見る仙台の歴史」P192/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(S38、カラー)
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養種園 |
開園 |
1900年(M33) |
<伊達家が開設>
* 1900年(M33)年4月、伊達家養種園、伊達邦宗により開設(保春院前丁) / 品種改良を目的に国内、欧米各地から種子・苗木を求めて品種改良をはかり、仙台白菜の品種としての固定化、ソールダムの紹介普及、めん羊の試験飼育など各種の先駆的試験栽培、飼育を行い、これを県農会や各農家に分譲配布
<仙台市が借受け → 買収>
* 1943年(S18)、戦時中中断したので、仙台市が借受け、本来の研究とともに市立動物園の動物用餌を栽培(動物園は戦争激化によりS20年4月閉園)
* 戦後、「仙台市指導農場養種園」と改称
* 1955年(S30)(またはS31年)12月、仙台市、伊達家から借用していた養種園を買収(4万㎡)、「仙台市養種園」とする / 育種研究を都市近郊農業にふさわしい果樹、球根、花き類に重点を置き、あわせて市民対象の園芸講習会、バラまつり、チューリップまつり開催、球根、種苗の販売、植物ドック開設など
* 1973年(S48)9月1日、養種園に真山青果文学碑除幕式
<仙台市農業園芸センター>
* 1989年(H1)6月17日、仙台市、仙台市養種園を発展・改称した仙台市農業園芸センターを荒井に開設
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206、P658/「仙台市史 年表」P91、P119、P136/「続・ 宮城県郷土史年表」P23/「市民の戦後史(仙台市)」P95(バラ祭り)
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勾当台公園 |
開園 |
1956年(S31) |
仙台空襲で焼失した、旧陸軍病院や宮城県図書館などの跡地に、戦災復興事業で造成
* 1956年(S31)、勾当台公園として開園 (Wikipedia「勾当台公園」)
* 1958年(S33)、東側1.5haを合同庁舎用地にあてる
* 1959年(S34)8月1日、「平和像」(翁朝盛彫刻)を建立
(県内各学校児童生徒・職員並びに県民有志等の協力)
* 1962年(S37)10月、東北放送が、噴水を寄贈
* 1963年(S38)10月25日、公園内に記念碑「宮城師範学校発祥之地」を宮城師範学校同窓会が建立
* 1968年(S43)4月13日、公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1977年(S52)6月21日、公園内に、林子平像建立、除幕式
* 1987年(S62)1月、「杜の清流」再現に着手
* 1986年(S61)、勾当台公園の南西端を削り、それまでクランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りを、ゆるいカーブで繋ぐ(ウィキペディア「東二番丁通り」2018年)
* 1987年(S62)5月9日、仙台ロータリクラブが雨宮敬子作「織姫像」寄贈
* 1989年(H1)4日、公園に、彫刻「季の杜に」建立
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Wikipedia「勾当台公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P593、P610、P639/「続・ 宮城県郷土史年表」P69、P219、P260
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「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P213(S43年5月、野外音楽堂で市民演説会)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37年、俯瞰、カラー)、P66(S38、カラー、俯瞰)、P94~95(S45、カラー、俯瞰)
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宮城県県民の森 |
開園 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)10月、開園 / 仙台市と泉町(当時)、利府町にまたがる
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「仙台市史 年表」P126
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三居沢交通公園 |
開園 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)1月26日、三居沢動物公園跡地に開園
* 1977年(S52)9月7日、改装しオープン
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「仙台市史 年表」P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P630/「続・ 宮城県郷土史年表」P71
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「市民の戦後史(仙台市)」P198(三居沢交通公園)/「新・目で見る仙台の歴史」P192(南小泉の交通公園)
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河北遊園地 |
開園 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)7月2日、開園(仙台市史10年表」P323)
(「重訂 宮城県郷土史年表」P542では、「昭和25年4月、河北新報社計画のもとに子どものため天神社境内西隣に榴ケ岡遊園地を特設し、河北遊園地と称す」)
* 1950年(S25)4月、河北新報社では、榴ケ岡公園などに「東北子供博覧会」を開いた。博覧会終了後、同社は榴ケ岡の天神社境内に博覧会の施設を活用して「河北遊園地」を開園した。」(「仙台市史 続編第2巻」P199)
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P542/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
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16-50
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東一番丁百年祭大仮装行列 |
開催 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日~17日、開催
・ 武家の町だった東一番丁が、明治維新後に商業の町として一歩を踏み出して一世紀になるのを記念して開催された
・ またS41年は、藩祖政宗公生誕(永禄10年=1567年)から400年目にあたる
・ 大仮装行列は、東一番丁の商店主たちが藩政時代から現代までの歴史を、仮装で表した
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東一番丁創立五十周年」P9の「連合会の歴史」欄/東一番丁の粟村寅之助氏談/「市民の戦後史」P185/「重訂 宮城県郷土史年表」P626
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47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
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