項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
電話 |
仙台の市内局番 |
1954年(S29)/1963年(S38) |
* 1954年(S29)4月29日、仙台市内の電話番号に「局番」がつく (「2」と「3」局誕生) / 東北初
* 1960年(S35)、局番「5」新設
* 1961年(S36)、局番「6」新設(榴ヶ岡に東分局開局)
* 1962年(S37)8月、仙台の市外局番が「0222」となる / 仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1963年(S38)1月20日、仙台市内の電話局番が「2桁」になる(22・32・42・52・65局などに)
* 1963年(S38)、長町分局開局、局番「48」新設
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局、局番「34」新設
* 1963年(S38)11月~1968年(S43)1月、局番9つ新設(設置順に、57,29,21,58,33,86,88,24,27)
************************************
* 1986年(S61)7月1日、仙台地区の電話「市外局番022」となる / 同日、仙台・岩沼・大河原・古川地区の市外電話局番3桁実施
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P575~578/「仙台年表」P230/「重訂 宮城県郷土史年表」P607/「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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スポーツ大会(戦後復興期) |
国民体育大会(第7回) |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)9月、夏季大会(松島湾でヨット競技)
* 1952年(S27)、聖炎旗リレー 広島~(日本海側経由)~山形県内~宮城県内(10月7日~13日)~福島県内
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国体秋季大会、宮城・山形・福島県で開催 / 開会式は福島市の信夫山競技場、宮城野原総合運動場が宮城県の主会場 / 仙台では、陸上、サッカ-、ラグビー、自転車、野球、テニス、卓球、レスリング、バドミントンの9種目で、5日間で観客6万人
・ 宮城野原総合運動場の開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
・宮城県勢は自転車総合優勝、卓球一般男女軟式団体優勝、ボート・ナックルフォアで東北高校4連勝など
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「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P225/「仙台市史10 年表」P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271、P470~472
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「新・目で見る仙台の歴史」P181(陸上競技場を出る20キロロードレース)/「市民の戦後史(仙台市)」P66~67(各種の競技風景、昭和天皇)
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仙台駅(戦後) |
第4代駅舎時代 |
1950年(S25)~1972年(S47) |
* 1952年(S27)9月26日、仙台駅東口開通
* 1952年(S27)9月、仙石線仙台駅ホームを東口地下道内から地上へ移す(国体開催に備え)
* 1952年(S27)9月当時の仙台駅発着系統
・一番線、東北本線下り方面
・二番線、東北本線上りおよび下り方面
・三番線、東北本線上り方面
・四番線、仙山線下り方面
・五番線、常磐線上り方面
* 1955年(S30)10月1日、仙台駅火災、一部消失
* 1961年(S36)3月3日、国鉄と建設省、駅前広場問題について、駅舎を9m後退につき話し合いがつく
* 1961年(S36)5月、仙台駅の構内地下道完成
* 1964年(S39)、ホーム間連絡路の北地下道に加え、南地下道完成(南跨線橋は老朽化で廃止)
* 1965年(S40)10月1日、仙台駅に「みどりの窓口」設置
* 1967年(S42)10月、新らたに設けた6、7番ホームを、仙山線発着に充てる
* 1974年(S49)3月5日、大時計を県中央児童館にプレゼント
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「仙台年表」P225、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P558、P579、P599/「続・ 宮城県郷土史年表」P27/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567、P571/「市民の戦後史(仙台市)」P132
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05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05/「市民の戦後史(仙台市)」P132(S36年5月、構内地下道)/「市民の戦後史(仙台市)」P203(S42年10月頃の仙台駅→常磐線電化完成の看板あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図33(S42年、駅周辺一帯空撮)
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P9(S29)、P18~19(S32)、P20(S30年代初め頃)、P41(S33、仙台駅界隈空撮、機関区も写る)、P44(S33頃)、P59(S38、仙台機関区の転車台)、P62(S38、カラー)、P97(S46、カラー)
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銀行(地域の銀行) |
三徳無尽/徳陽相互銀行/德陽シティ銀行 |
1942年(S17)/1951年(S26)~1998年(H10) |
* 1942年(S17)4月1日、 宮城無尽・太陽無尽・東北無尽の三社が合併し、「三徳無尽」として設立
* 1951年(S26)10月20日、三徳無尽株式会社が改組、徳陽相互銀行に商号変更
* 1982年(S57)5月24日、一番丁支店オープン
<以下、Wikipedia「徳陽シティ銀行」より>
* 1990年(H2)8月、 第二地方銀行となる / 商号を「株式会社德陽シティ銀行」に変更
* 1994年(H6)3月、「1995年をもって、北日本銀行および殖産銀行と合併し、新名称を『平成銀行』とする」と発表したが、後に徳陽シティ銀行の財務内容がネックとなり、破談となる
* 1997年(H9)11月26日、経営破綻 / 仙台銀行、七十七銀行、北日本銀行などに営業譲渡を決定
1998年(H10)11月16日、 営業を終了
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「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P552/「続・ 宮城県郷土史年表」P146/Wikipedia「徳陽シティ銀行」(2020年10月22日版)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P742(徳陽相互銀行)
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興亜奉公日/大詔奉戴日 |
大詔奉戴日 |
1942年(S17)1月~ |
* 1942年(S17)1月2日、興亜奉公日を廃止し、以降毎月8日を「大詔奉戴日」とし、職場での詔書奉戴式、国旗掲揚、必勝祈願の日とする
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28
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蛍光灯 |
普及始まる |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)、東芝が“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売
* 1949年(S24)、この年、白色蛍光灯(40W)、発売、商店、事務所に普及
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Wikipedia「蛍光灯」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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防空演習(防空訓練) |
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1940年(S15) |
* 1940年(S15) 東部特別防空訓練
第1次開始6月7日、第2次開始9月2日(20日か?)、第3次実施10月1日(5日間)
* 1940年(S15)11月、仙台市は公会の設置に伴い、家庭防空業務規程制定(翌16年5月から町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39/「仙台市史10 年表」P298~P299
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(4) |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争協議会、約20名各組合代表仙台市役所にデモ、夜、東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
* 1934年(S9)6月1日、文部省、学生部を拡充,思想局設置
* 1934年(S9)6月27日、宮城県特高課、共産青年同盟関係者東北帝大生ら6名検挙
* 1934年(S9)7月11日、仙台合同運送、荷馬車挽子約80名スト(待遇改善、賃金値上げ要求)
* 1934年(S9)7月17日、非合法右翼団体振頭塾急襲、大久保政夫ほか3名逮捕
* 1934年(S9)9月3日、三馬ゴム工業職工262名、賃上げ要求(翌日スト)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P283、P284
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江陽会館 |
竣工/増築 |
1957年(S32)/1964年(S39)/1973年(S48) |
* 1933年(S8)、後藤江陽(岩切の後藤豆腐店の末っ子)が仙台市内に写真館を開業(「番丁詳伝」P31)
* 1940年(S15)、後藤江陽は、戦時、中支に渡りカメラマンとして活躍
* 1940年(S15)、後藤江陽が、東一番丁森徳座跡に「江陽写場」を開業(「番丁詳伝」P218)
<戦後>
* 1957年(S32)4月、東一番丁(森徳横丁角)の江陽会館が総合結婚会館として竣工(6階建)
* 1964年(S33)9月、増築
* 1964年(S39)5月に増築
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* のちに、江陽パルサー飲食ビルとなる
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)
<江陽グランドホテル開業>
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(広瀬通り / 青葉区本町二丁目3-1)
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江陽グランドホテルHPの「会社概要」/「番丁詳伝」P31、P218/「続・ 宮城県郷土史年表」P25
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99-014、201-45、201-47
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(3) |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)
* 1933年(S8)2月28日、特高警察、宮城県消費組合仙台支部を急襲、5名逮捕
* 1933年(S8)3月23日、社会大衆党仙台支部結成(宮城県全農大衆党と社民党が合同)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など)/東北帝大法文学部同盟休校
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙
* 1933年(S8)10月7日、仙台署特高警察、共産青年同盟再建運動を探索、市内数カ所急襲
* 1933年(S8)10月17日、広瀬川改修工事労働者300余名、デモを企つ、25日に首謀者2名解雇
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)
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宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P280、P281、P282/「宮城百年」(毎日新聞社)年表
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和期(20年まで) |
* 1931年(S6)10月11日、満州事変最初の戦闘で戦死した第二師団兵士32人のうち20人の遺骨が、仙台駅に到着。(十五年戦争初の戦死者は第二師団の兵士だった) 仙台駅頭には陸軍大臣代理、湯沢三千男知事ら300人が出迎え、沿道には市民約5万人が戦友の胸に抱かれて原隊に変える英霊を見送りました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、川内の追廻練兵場で、県、第二師団など主催の合同慰霊祭が行われました。(満州事変では)戦死者が合計300人、このほか負傷700人、凍傷800人を出しました。宮城県では遺骨が到着するたびに慰霊祭が7回にわたり行われました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)
* 1931年(S6)10月12日、榴岡の歩兵第4連隊の営門を出た霊柩車(弾薬車であったという)と遺族の胸に抱かれた遺骨の行列は、葬送行進曲の吹奏に送られて市内を行進した。軍部のほか青年団や小中学校生徒なども加わり、沿道に人垣をつくり、会場には列車や市電・バスで詰めかけた約5万人が参列した。合同慰霊祭は以降7回に及んだ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P309)
* 1931年(S6)10月12日、第二師団第4連隊の満州事変戦没者合同慰霊祭が追廻練兵場で行われる(「「仙台市史年表」P106、「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)12月18日、第二師団、昭忠会主催、戦没者慰霊祭(「仙台市史10年表」P277)
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送(12月18日か?)
<日中戦争 昭和12年7月勃発>
* 1937年(S12)12月、日中戦争、故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(仙台市公会堂)
*「(開戦から2年足らずの)1939年(S14)4月現在で、宮城県関係の戦死者は2552人、負傷して内地帰還された兵は3131人と「知事引継書」にあります。遺骨が仙台駅に到着するたびに駅前広場では、県、仙台市、軍主催の奉迎式が行われ、その後、西公園内の仙台市公会堂で通夜、翌日、合同慰霊祭が開始されました。昭和14年3月時点で県主催の合同慰霊祭は22回に上り、遺骨がふるさとに帰ると、今度は市町村主催の葬儀が行われました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
* 1940年(S15)11月17日、日中戦争北中支各地に於て陣没せる管内出身将兵の慰霊祭を東二番丁小学校に於て行う / 引き続き、追廻練兵場の昭忠塔前で、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭を行う
* 「宮城県知事事務引継書(昭和17年)によると、日中戦争勃発後は毎月1回、県、仙台市、第二師団の共催で慰霊祭(前夜に通夜法要)を行い、県では知事代理が弔問、葬祭料として将校30円、下士官以下20円を贈ること、その後の市町村葬には知事代理が出席することを決めています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
<太平洋戦争>
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル戦、戦没者慰霊祭(追廻練兵場)→ 写真16-57、16-59に説明文あり
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P26/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P309、P361/「仙台市史10 年表」P277、P306、P308/「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P460、P479/「仙台放送局60年のあゆみ」P5/「私にとっての戦争」末尾年表P183/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34、P79
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ガダルカナル戦、戦没者遺骨奉迎式は、16-57、16-67、16-66
/同遺骨原隊へは、16-58
/同慰霊祭は、16-59、16-60、16-65、16-64、16-61、16-62
/同感謝献金呼びかけは、16-68
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野球場 |
スポーツマン球場 |
1929年(S4)~1933年(S8) |
* 1929年(S4)6月、杉村多利治氏(のちの日乃出映画劇場社長)が国分寺薬師堂北隣につくる / ライトの塀外は薬師堂の杉木立でファンは木に登って見物した
* 1929年(S4)6月(7月)、スポーツマン球場設立(宮城野原南部、国分寺薬師堂北隣)
* 1933年(S8)、廃止
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「仙台市史 年表」P105/「重訂 宮城県郷土史年表」P416/「仙台あのころこのころ八十八年」P70
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商店など |
繁田園(茶舗)/お茶の井ケ田 |
1920年(T9) |
* 1920年(T9)、繁田園が国分町で茶舗創業
* 1928年(S3)、東一番丁通りへ移転(住所は大町5丁目)
* 1948年(S23)、『お茶の井ケ田』に改称
ただし、[写真16-41](S25年頃撮影)には、まだ「繁田園」の看板がある
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「お茶の井ケ田」社長の井ケ田徳治氏談/「番丁詳伝」P98
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49-01、49-02、49-03
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医療機関 |
仙台鉄道病院 |
1921年(T10) |
* 1919年(T8)12月、仙台鉄道管理局開局に伴い、鉄道治療所が清水小路に開所 / 目的は、公傷患者の治療
* 1921年(T10)、仙台鉄道病院
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で全焼
* 1948年(S23)12月、再建
* 1950年(S25)、看護婦養成開始(仙台鉄道病院看護婦養成所認可)
・ 国鉄民営化にともない「JR仙台病院」となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398
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仙台平 |
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1918年(T7) |
* 1918年(T7)、仙台平工場、琵琶首に開業
* 1956年(S31)4月、精好仙台平を重要無形文化財に指定し、甲田榮佑を重要無形文化財保持者として認定
* 1967年(S42)7月20日、人間国宝甲田榮佑「精好仙台平保存館」を建築落成
・ 「仙台平」については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P34に記述あり
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「仙台平」HP/「目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P283/「重訂 宮城県郷土史年表」P633
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「目で見る仙台の歴史」P151に、「仙台平工場(大正7年竣工)」/同P105(工房)/「市民の戦後史(仙台市)」P94(制作中の甲田榮佑氏)/「新・目で見る仙台の歴史」P152(織工場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P34(仙台平袴カラー)/同P46(仙台平織工場の看板)
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東北帝国大学医学部付属病院 |
開院 |
1913年(T2)~1947年(S22) |
* 1911年(M44)4月、北四番丁(現星陵地区)に県立宮城病院の新病院棟が開院(宮城病院本館として建築)
<東北帝国大学時代>
* 1913年(T2)4月1日、宮城病院、東北帝国大学に委譲され、医学専門部附属医院となる / 内科(2科)、外科、眼科、産科婦人科、小児科、皮膚科及び耳鼻咽喉科の8診療所(340床)を開設
* 1915年(T4)7月、東北帝国大学医科大学附属医院と改称
* 1919年(T8)4月、東北帝国大学医学部附属医院と改称
* 1944年(S19)12月、鳴子分院開設(温泉医療目的)
<戦後>
* 1946年(S21)3月1日、長町分院開設(臨床講義のため)
* 1947年(S22)9月、東北大学医学部付属医院に名称変更
→ 以降は、項目「東北大学医学部付属医院」参照
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「宮城県百科事典」P759「東北大学医学部付属病院」/「仙台市史 年表」P96/「明治の洋風建築-宮城県- P73「宮城病院」/「重訂 宮城県郷土史年表」P509/「仙台市史10 年表」P312/東北大学病院HPの「沿革」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P727~728
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99-067、53-60/「目で見る仙台の歴史」P144/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図30(T5年)
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル2代目) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)、 4階建ての擬洋風建築に建て替え /
出羽三山・本道寺(神仏分離により口之宮湯殿山神社。山形県西川町)の仁王像一対を1875年(M8)から所有していた弥勒院(山形県河北町)から買い取り、ホテルの1階玄関に安置(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1905年(M38)、「明治20年頃、仙台駅前に進出せる大泉旅館は、この年、三階建て旅館に設備を拡大し、仙台ホテルと改称す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P334)
<編者注> 大泉支店の仙台ホテル改称はホテル1代目建物ができた明治29年で、38年ではない/ 38年は、ホテル2代目建物(3階建一部2階建て擬洋風建築)に建て替えた年/ 看板「仙台ホテル」の他に、壁面に「大泉館」表示もある
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「重訂 宮城県郷土史年表」P334/Wikipedia「仙台ホテル」
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44-05、98-063/「目で見る仙台の歴史」P124と「新・目で見る仙台の歴史」P130に『明治38年建築の仙台ホテル』
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隅櫓 |
復元 |
1967年(S42) |
昭和35年頃、仙台市の民生委員をしていた野口増蔵氏が大手門と隅櫓の復元を目指し、一般に呼びかけた / 膨大な資金を要するのでとりあえず隅櫓を復元 / 野口自身棟梁だったので、私財をなげうち乏しい資金に苦しみながらも工事を進め、S42年11月ついに完成(「仙台市史 続編第2巻」P185~186)
* 1963年(S38)2月上旬、隅櫓の復元工事着手
* 1965年(S40)8月、着工の運びとなる(木造漆喰塗込み)
* 1967年(S42)12月25日、隅櫓が民間(仙台城大手門並に隅櫓復興期成会)により外観復元され、復興期成会より仙台市に寄付された
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「重訂 宮城県郷土史年表」P607、P620、P636/「仙台市史 年表」P125/仙台市HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185~186/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P186の写真52(復元された隅櫓)/「市民の戦後史(仙台市)」P202(復元された隅櫓)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P71(S39、工事中断中の隅櫓)
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敗戦後の諸相・仙台 |
欠食児童 |
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・ 荒町国民学校、全児童2000人中、食糧事情による欠席が1割近くあり、授業は午前中のほか体操は休ませる措置 / 十日間も野菜だけを食べ、米を一粒も口にしない児童が50人いた
・ 東六番丁国民学校では、昼食抜きの児童が3分の1に達し、子供らしくはしゃぎまわる姿もない
・ 仙台中学では、週5日授業で山菜とり、県立一高女など各校でも野草・山菜つみに近郊へ出かけた
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P405(敗戦直後に野外で食事する子供たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
開店~閉店 |
1912年(M45)~1933年(S8) |
・ 東一番丁通の立町通角と大町通角の間、道の西側に面していた(戦後の靴店「アピアまんぞくや」の辺り)
・ 1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーンで西洋料理や喫茶(仙台最初の洋風喫茶店)、夜はイルミネーションが点灯
・ 洋館造り、設計は東北帝国大学の文部技官中島仙太郎
* 1912年(M45)7月27日、開店(大正に改元の3日前)
大町5丁目の写真機販売業・桜井常吉が東一番丁通りに進出、電飾の輝く洋館2階でカフェ・クレーンを開業(1階のツルヤ洋菓子店は義弟の中林源助にまかせる)
* 1933年(S8)3月19日、近くの映画館「仙集館」近くから出火した火事で類焼し、閉店
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「重訂 宮城県郷土史年表」P352/「仙台はじめて物語」P74~75
/「東一番丁物語」(柴田量平著)P126~129/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P135/「仙台市史 年表」P96
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20-19、20-41、22-56、45-02、45-03、99-017
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戦災復興事業 |
都市計画道路 |
1946年(S21)~ |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P251~252】
* 1946年(S21)11月、中心部の19本の都市計画道路、国の復興院が承認
・ 当初計画は、青葉通り、広瀬通りともに幅員50m → 予算の関係で、50m幅は青葉通りの仙台駅前から東二番丁まで、それ以西の青葉通りと広瀬通りは幅36mに変更(これまでの最大幅員は南町通りの23mだった)
・ 都市計画道路での正式名称は、青葉通りは「仙台駅-川内二の丸隅櫓線」、広瀬通りは「元寺小路-立町・川内線」
* 1947年1月、河北新報社が愛称を募集し、応募6000通以上から、「青葉通」「広瀬通」「西公園」「中央公園」と決定 / 中央公園は定着せず、「勾当台公園」が定着
* 1950年(S25)、青葉通り、広瀬通り完成したが、まだ未舗装で、強風に砂塵舞い上がり、雨降れば泥んこ道となるので「青葉砂漠」「広瀬たんぼ」と悪口を言われた
・ 東二番丁通りも幅員50m(江戸時代以来幅員は8mだった) 6倍以上に拡張したのは防火帯とするため(江戸時代から昭和30年代まで市中心部で、蔵王おろしの西北風邪が吹く12月~3月の間にたびたび大火があった)
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324】
<幹線街路計画>
* 1946年(S21)11月決定、25路線、幅員(50~15m)、延長5万894m(うち、復興事業関係は23線)
* 1954年(S29)、16路線(1万9103m)に計画変更
→写真データベースの98-026に「一覧表と一覧地図」(路線名、起点、終点、幅員など記載)
* 16路線中、清水小路光禅寺線以外は、S35年度までに完了
・ その後、清水小路光禅寺線は起点部分221mを除外
<グリーンベルト設置>
・ 幅員27m以上の街路に植樹帯造成
・ 7路線(青葉通、東二番丁線、細横丁線、長町堤町線、定禅寺錦町線、狐小路連坊小路線)は車道の両側または中央にグリーンベルト(木と芝生)
・ 11路線の一部歩道に街路樹植栽(上記7路線+多門通常盤丁線、北目町通線、北二番丁線、勾当台通)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P251~252/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324
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・S29年に決定した「戦災復興事業の都市計画街路一覧表と一覧図」 →写真98-026
/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅された細横丁(晩翠通り)
/「市民の戦後史(仙台市)」P60(拡幅工事中の細横丁)
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芭蕉の辻の洋館 |
七十七銀行本店 |
1903年(M36)~1929年(S4) |
・1900年(M33)に焼失した「芭蕉の辻商館」(芭蕉の辻・東北角)の跡地に七十七銀行が建設
・ ドイツ・ルネッサンス式純洋風建築で地下室付き2階建て、2本の3階建て塔屋をもつ
<「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載、小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)>
「明治35年2月起工、36年8月1日竣工。松崎という技師がドイツへ留学し習って帰って建てた。ドイツ風のルネッサンス式を模した純洋風建築。大体は石造りで、一部煉瓦を用い、屋根にはスレートを葺いてある。八角形の尖塔と四角錘の塔が屋根に変化を与え、ベランダあり塔あり、形の変化に苦心しております。特徴は屋根裏に室を有することと地下室があることであります。」
* 1902年(M35)2月、起工
* 1903年(M36)8月1日、竣工
七十七銀行が(旧)大町1丁目から本店を移転
* 1929年(S4)7月10日まで使用
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「重訂 宮城県郷土史年表」P328/「仙台市史 年表」P92/「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載の小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)
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99-021、99-022、99-024、99-025、53-49、43-27
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