項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
宮城県会議事堂(明治時代) |
完成 |
1882年(M15) |
* 1879年(M12)、宮城県会始まる(宮城師範学校を使用)
* 1882年(M15)3月22日、勾当台通表小路に完成/市役所の向いにあった
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「新・目で見る仙台の歴史」P123/「仙台市史 年表」P84
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116(議事堂外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P123/「いつか見た街・人・暮らし」P20(宮城県会、議事堂議場、大正13年)
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宮城集治監 |
設置 |
1879年(M12) |
* 1879年(M12)4月1日、宮城郡南小泉村(若林城跡)に設置
* 1973年(S48)、改造のため解体
・ 政府が、若林城跡に、西南戦争の国事犯を収容するため設置
・ 中央に見張り所の4階建ての塔がそびえ、6棟の2階建ての雑居房・独居房が放射状に突き出す(雪形六出の構え)
・ 木造ペンキ塗り、和洋折衷で、玄関に唐破風、塔頂の宝珠形など
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「仙台市史 年表」P83/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P143/「目で見る仙台の歴史」P109/「新・目で見る仙台の歴史」P123
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「目で見る仙台の歴史」P109(明治12年建設の集治監)/同P44(若林城跡の土塁)
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練兵場 |
講武所練兵場 |
1878年(M11)頃~廃止年不明 |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 講武所練兵場(こうぶしょ)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場
・ 場所は、川内の各兵営と広瀬川を挟んで対岸にあった
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市全図」(大正元年)には、「追廻練兵場」とともに「講武所練兵場」の記載あり
用地」と記載
・ 「仙台市全図」(昭和11年)には、「追廻練兵場」は記載あるが、「講武所練兵場」の記載はなし
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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位置図は、98-112
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練兵場 |
宮城野練兵場 |
1878年(M11)頃~1945年(S20) |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 宮城野練兵場(みやぎのれんぺいじょう)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場で、追廻練兵場(おいまわし)とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 場所は、仙台市街地東方の宮城野原で、学生・生徒の軍事教練や小学生の遠足の場でもあった
<戦後は>
* 戦後(S25)、跡地が県営宮城野原公園総合運動場用地となり、S27までに県営宮城野原蹴球場、県営宮城球場、県営宮城野原陸上競技場、県営宮城野原総合運動場庭球場が順次開設された → 項目「県営宮城野原公園総合運動場」参照
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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99-126、99-160、99-163、69-06/位置図は、 98-111、98-113、98-115
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人力車 |
台数ほか(宮城県内) |
明治・大正・昭和 |
* 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台
* 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台
* 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子
* 1912年(T1)、2074台
(314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人)
* 1918年(T7)、1720台
* 1925年(T14)、1366台
・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり
・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された
・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた
・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194
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16-27(輪タク)
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商店など |
村上屋餅店 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)、創業
・ 戦前、柳町の大日横丁にあった / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた
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「番丁詳伝」P97
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18-35
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火災(地域) |
長町 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)4月11日、名取郡長町村で火災、68戸が焼失
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「仙台市史 年表」P82
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火災(地域) |
河原町、南小泉村 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)3月27日、河原町より出火し、宮城郡南小泉村に延焼し、220戸焼失
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「仙台市史 年表」P82
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乗合馬車 |
開業 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)11月14日、仙里軒(国分町)が仙台(国分町)~岩沼間の乗合馬車を開業
* 1878年(M11)、萬里軒、開業 / 仙台~福島間2円30銭(「番丁詳伝」P29)
* 1881年(M14)4月21日、万里軒(萬里軒)が国分町に本店、仙台~白石間の乗合馬車を開業 / 同年12月15日から、仙台・福島間運行、仙台~福島間2円30銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195)
* 1884年(M17)3月、万里軒が、福島(盛運社)と宇都宮(手塚舎)の業者と共同で、乗り継ぎ制で、仙台~東京間の乗合馬車を開業 / 仙台~福島間1円70銭、仙台~東京間7円67銭(「番丁詳伝」P29) / 料金については「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195にも詳述
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195によれば、、仙里軒、万里軒のほかに、この時期には、宝來軒(東一番丁)、盛運社(福島)、旅館菊平(国分町)、自由軒(国分町)と乗合馬車事業が競合関係にあった
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「仙台市史 年表」P82、P84、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195/「番丁詳伝」P29
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(万里軒の引札)
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火災(地域) |
北山 |
1876年(M9) |
* 1876年(M9)3月5日、北山で火災、一帯が焼失し、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、寂光寺なども類焼
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「仙台市史 年表」P81
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桜ケ岡大神宮 |
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1875年(M8) |
* 1875年(M8)5月、元柳町の神明社が県社となり、桜岡大神宮と改称 / 桜ケ岡公園(西公園)内にある
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「仙台市史 年表」P81
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師範学校 |
小学校教員伝習学校/仙台師範学校/県立宮城師範学校(県立)/宮城県尋常師範学校/宮城県師範学校/宮城師範学校(官立)/東北大学に |
1875年(M8)/1876年(M9)/1879年(M12)/1886年(M19)/1898年(M31)/1942年(S17)/ |
* 1875年(M8)3月22日、小学校教員伝習学校を宮城県が外記丁に設置
* 1876年(M9)3月3日、小学校教員伝習学校を仙台師範学校と改称
* 1877年(M10)8月、仙台師範学校が女子師範科を設置
* 1879年(M12)6月、前年に廃止された官立宮城師範学校の校舎(勾当台通)や機能を継承し、県立宮城師範学校と改称
* 1886年(M19)2月、制服が洋服に改められる
* 1886年(M19)8月28日、宮城県尋常師範学校と改称
* 1889年(M22)、北一番丁に校舎新築し移転
* 1898年(M31)年4月、宮城県師範学校と改称
* 1913年(T2)4月1日、宮城県師範学校から女子部が独立し、仙台市中島丁に開校
* 1942年(S17)4月1日、宮城県師範学校が宮城県女子師範学校を合併して官立の宮城師範学校となる
* 1949年(S24)5月31日、東北大学に包括(統合)
* 1950年(S25)4月1日、東北大学教育学部となる
* 1951年(S26)4月、宮城師範学校附属小学校、制度改正で、東北大学教育学部附属小学校となる(北七番丁校舎、中島丁校舎)
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「仙台市史 年表」P81、P85、P86、P90、P96、P112、P116/「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P549
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99-070(撮影は大正前半期)/「目で見る仙台の歴史」P121に、北一番丁の宮城県師範学校校舎
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大橋(広瀬川) |
洪水で木橋が流失 |
1874年(M7)/1889年(M22) |
* 1874年(M7)7月20日、大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
* 1889年(M22)9月11日、暴風雨あり大洪水となり、大橋・澱橋・広瀬橋などが流失
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「仙台市史 年表」P81、P87/「仙台あのころこのころ八十八年」P238/「重訂 宮城県郷土史年表」P284
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電信開始(仙台) |
電信局開設 |
1874年(M7) |
* 1872年(M5)、日本縦貫電信線の東京・青森線架設工事開始
<電信局>
* 1973年(M6)、仙台国分町に「電信局」を開設す / 東京との間に1本の電線を引き、また電柱は市内のみにて、郊外は樹木等を利用して架設す(「重訂 宮城県郷土史年表」P243、「仙台年表」P147)
* 1974年(M7)、仙台伝信局開設され、のち仙台電信局となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350)
* 1974年(M7)9月25日、仙台電信分局設置、業務開始(「仙台市史10 年表」P176)
* 1974年(M7)9月25日、仙台市国分町2丁目(戦後の瀬戸勝パーキングの場所)に仙台電信分局(3階建、ペンキ塗り、西洋式構造)を設置(「仙台年表」P147)
* 1893年(M26)10月、仙台郵便電信局を設置 / 宮城・福島・山形を管轄(「仙台あのころこのころ八十八年」P239)
<電信線>
* 1874年(M7)9月15日、仙台・東京間に「電信線」架設(「仙台市史 年表」P80)
* 1874年(M7)12月15日、仙台・一関間に電信線架設(「仙台市史 年表」P81)
* 1892年(M25)、宮城より山形県まで電信を架設(「仙台年表」P167、「宮城町史」)
<以下は、「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」より>
* 1874年(M7)9月25日、仙台の「電信局」、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通し、公衆電報の取り扱い開始
(S40年、この地に、「仙台電信局創立記念の碑」建立)
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(<編者注>明治36年に移転)
* 1947年(S22)、また電信局に分離し、東二番丁の青葉通り角へ移る(<編者注>昭和24年に、仙台電報局に名称変更)
* 1963年(S38)、東二番丁の逓信病院の隣へ新庁舎を建設、6月22日に移転と同時に「中央電報局」に昇格
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P243、P623/「仙台市史 年表」P80、P81、P123/「仙台市史10 年表」P176、P147/「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580/「仙台あのころこのころ八十八年」P239
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77-18、77-22に電信用の柱が写る
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人力車 |
台数ほか(仙台) |
明治・大正・昭和 |
* 1872年(M5)、新河原町で人力車営業が開始(伊藤清次郎と清水稔)(「仙台市史 年表」P80、「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
* 1873年(M6)、国分町の竹虎が開業(10台保有)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
<「仙台あのころこのころ八十八年」P16>
* 1878年(M11)、市内に671台(大部分が営業用)
* 1980年(M13)、市内に755台
・ 人力車は当時の花形であり、隣県の業者と連絡して継ぎたてをしてゆくと、仙台から6日間で東京へ行けた
* 日本鉄道(現・東北本線)開業の明治20年頃、559台に減る(「番丁詳伝」P110)
<「番丁詳伝」P63より>
* 1889年(M22)、一人乗り596台、二人乗り8台
* 1897年(M30)、一人乗り1050台、二人乗り5台
* 1905年(M38)、一人乗り977台、二人乗り2台
* 1916年(T5)、一人乗り1055台
* 大正時代末期には、仙台の人力車は900台ほど / 市電開通(大正14年末)やバスの普及で減る(「新・目で見る仙台の歴史」P146)
* 1930年(S5)には327台(「番丁詳伝」P110)
* 1935年(S10)頃、210台({仙台の産業と観光」P27)
* 1941年(S16)10月4日、15年ぶりに人力車復活(「仙台年表」P211)
<「仙台市史 続編1」P88より>
・1943年(S18)、197台
・1944年(S19)、169台
・1945年(S20)、69台
・1946年(S21)、40台
* 戦後しばらくも人力車が活躍
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194/「仙台市史 年表」P80、P211/「新・目で見る仙台の歴史」P146/「仙台年表」P211/「仙台あのころこのころ八十八年」P16/「仙台の産業と観光」(S11、仙台市役所刊)P27/「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)P110/「仙台市史 続編1 行政建設編」P88
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99-004、22-44、19-02、16-21、22-10、44-50、22-12、16-19/「新・目で見る仙台の歴史」P146(人力車のある風景))/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193に人力車
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郵便局 |
仙台郵便局 |
1872年(M5) |
* 1872年(M5)7月、仙台郵便取扱所を国分町に設置(「仙台市史 年表」P80)
* 1875年(M8)1月、仙台郵便局と改称し、南町に移転
* さらにその後大町に移り、1882年(M15)に再び南町に移転(以上、「重訂 宮城県郷土史年表」P240)
* 1890年(M23)、仙台郵便電信局として南町に新築移転
* 1899年(M32)以降は、仙台郵便局として、郵便・電信・電話・貯蓄・保険、および三県の管理を担当
* 1919年(T8)3月2日の南町大火で焼失
* 1919年(T8)5月12日、仙台郵便局、東一番丁に移転(「仙台市史10 年表」P252、「仙台市史 年表」P98)
* 1920年(T9)8月6日、仙台郵便局、再び南町に再建移転(「仙台市史 年表」P99)(建物は三角屋根が3つになった)
<戦災焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で郵便局、北隣の仙台電話局ともに焼失 / 郵便課は市内霊屋下の仙台逓信講習所に移転、電信課は東北学院専門部礼拝堂地下に移転し、業務続行(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)
<戦後>(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582)
* 1946年(S21)2月9日、郵便局から電信課が分離し、仙台電信局に昇格
* 1946年(S21)12月20日、郵便局は南町に庁舎(木造2階建)再建し移転
* 1949年(S24)6月、逓信省が郵政省と電気通信省に分離 / 仙台逓信局は、仙台郵政局と東北電気通信局に分かれる
* 1955年(S30)11月、仙台郵便局木造庁舎を建て替え、南町通りに新庁舎落成(地上4階地下1階)
* 1957年(S32)11月、仙台郵政局、新庁舎に移転(南町通5番地/鉄筋コンクリート地上6階地下1階)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P240/「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真キャプション/「仙台市史 年表」P80、P98、P99/「仙台市史10 年表」P252、P311/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582
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「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真/再建移転後は、53-95/「目で見る仙台の歴史」P177に、南町通りの仙台郵便局/同P193に、南町通りの仙台郵政局
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仙台市(名称変遷) |
名称の変遷(第一大区/仙台区/仙台市) |
1872年(M5)/1878年(M11)/1889年(M22) |
* 1872年(M5)4月、県下に区制が布かれて仙台城下一円が「第一大区」に
* 1878年(M11)7月、郡区町村編成法発布により「仙台区」
* 1889年(M22)4月1日、市制が施行され「仙台市」と改称(この時の範囲は、旧城下町のほぼ全域にあたり、面積17.27平方キロ、戸数1万6800戸、人口8万6352人)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P362
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和田床屋 |
開店 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)、和田専助が仙台初の床屋を東一番丁に開店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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44-04(西洋理髪師 和田専助夫妻)、22-28(和田床屋、大正末期、大町5丁目)
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養賢堂 |
講堂を県庁舎として使用 |
1871年(M4)~ |
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)1月8日、仙台県を宮城県と改称
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-051、98-052、53-54/地図が98-055
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火災(地域) |
長町 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)1月17日、名取郡長町で火災、69戸が焼失
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「仙台市史 年表」P79
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東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団 |
設置/改称/改称 |
1871年(M4)/1973年(M6)/1888年(M21) |
* 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
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「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685からの「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86
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午砲 |
開始(大砲で) |
1871年(M4)~1929年(S4) |
* 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す / この日より虎ノ門に午砲を始む(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月から仙台城二の丸跡の東北鎮台(のちの第二師団)で毎日大砲を撃ち正午の時を報せた(市民は「ドン」とよんでいた)
* 1922年(T11)年8月15日から軍縮のため午砲が廃止され、輪王寺・本願寺・愛宕山の打鐘で正午を報せた
* 同年12月8日、午砲復活
* 1929年(S4)、廃止(2月1日から市役所からの電気サイレンにかわる)
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「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/仙台市史 年表」P79、P101、P104
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98-066の左上に「寅ノ門」/仙台市全図(大正元年 東洋造畫館)では、川内の旧仙台城寅ノ御門脇に「號砲所」の記載あり(午砲を撃った場所)
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仙台鎮台 |
東北鎮台を改称 |
1973年(M6) |
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月、全国六鎮台となり、東北鎮台を仙台鎮台と改称(「仙台城」P231)
* 仙台鎮台は、福島県、宮城県、水沢県を徴兵を行う管轄県として、歩兵第4連隊、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵を常備し、また岩手・秋田・山形・青森県から徴兵して青森におかれた歩兵第5連隊をあわせて管轄、函館にも一隊を分遣 / 兵力は、平時4460人、戦時6560人
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営(司令部)火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1884年(M17)、仙台鎮台に、新発田(新潟県)の分衛を附属
* 1884年(M17)、司令部庁舎新築(「目で見る仙台の歴史」P113)
1945年(S20)の敗戦まで仙台は日本の軍都の一つでもあった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P292~298/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P231/「いつか見た街・人・暮らし」P232/「目で見る仙台の歴史」P113/「仙台市史 年表」P79、P80、P86
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P294(鎮台御用の米搗精所だった六合社)
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冷害・凶作 |
明治年間 |
1869年(M2)
1874年(M7)
1897年(M30)
1902年(M35)
1905年(M38)
1910年(M43) |
* 1869年(M2)秋、冷害のため凶作となる
* 1874年(M7)、冷害のため凶作となる
* 1897年(M30)秋、冷害と水害のため凶作となる。
10月16日、仙台市会、凶作のため臨時米穀売買所開設を決議
10月27日、市が臨時米穀売買所で外国米の低価販売開始
* 1902年(M35) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治35年」へ
* 1905年(M38) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治38年」へ
* 1910年(M43)、この年水害のため凶作となる
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P305(図310)は、明治30~39年の宮城県の米収穫量(グラフ)
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「仙台市史 年表」P79、P81、P90、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P304
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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三原時計店 |
戦後 |
1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年
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三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217
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商店など |
よろづ園(茶舗) |
1829年(文政12年) |
* 1829年(文政12年)、創業
* 1897年(M30)、藤崎と土地を交換
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「番丁詳伝」P99
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77-19 、77-17 / よろづ園の七夕飾り物(77-10 ほか)
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藤崎(戦前期) |
創業/大町4丁目へ進出 |
1819年(文政2年)/1879年(M12) |
* 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした
* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店
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「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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大型店・量販店 |
エスパル |
1978年(S53) |
*1978年(S53)3月18日、仙台駅ビル内にS-PAL(エスパル)開店 / ファッション・雑貨・食品・おみやげ・レストランなどが揃うショッピングセンター
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「続・ 宮城県郷土史年表」P79/「わが心の仙台駅前史」年表/「エスパル仙台」HP
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P106~107(S53、カラー)
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丸光 |
青葉通りへ進出(本館) |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月、青葉通りに新館落成 / 百貨店として営業開始(地下1階、地上3階建て)
* 1956年(S28)12月11日、この日から丸光屋上よりミュージックサイレン(荒城の月)を市内に放送開始(34年間続く)
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P570/わが心の仙台駅前史」P40
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丸光 |
3階建完成 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)
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16-27、98-048、53-82
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銀行(地域の銀行) |
銀行一覧(明治34年時点/昭和10年時点) |
1901(M34)/1935年(S10) |
(1) 明治34年時点の仙台の銀行(仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図の裏面より) いずれも株式会社
・ 七十七銀行(大町1丁目33)
・ 宮城商業銀行(大町3丁目31)
・ 仙台銀行(大町2丁目)
・ 宮城貯蓄銀行(大町3丁目20)
・ 国民貯蓄銀行(大町5丁目)
・ 宮城銀行(大町4丁目10)
・ 通商貯蓄銀行(名掛丁)
・ 仙台貯蓄銀行(大町2丁目)
(2) 昭和9年度末の仙台の銀行(「仙台市大観」P19~20) 地名は本店所在地、数字は支店及び出張所数
<地元4行>
・ 七十七銀行(大町 / 84)
・ 宮城銀行(元寺小路 / 6)
・ 東北貯蓄銀行(大町 / 4)
・ 宮城県農工銀行(東二番丁 / 1)
<県外銀行の支店>
・ 安田銀行仙台支店(大町)
・ 常磐銀行仙台支店(元寺小路)
・ 安田貯蓄銀行仙台支店(大町)
・ 不動貯蓄銀行仙台支店(東二番丁)
(3) 昭和11年時点(「仙台の産業と観光」P22)
・地元銀行、県外銀行の支店とも、昭和10年と全く同じ
ただし、常磐銀行は常陽銀行と記載されている
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仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図~ / 「仙台市大観」(昭和10年刊)P19~20 / 「仙台の産業と観光」(仙台市役所 昭和11年刊)P22
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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宮城県庁舎 |
養賢堂を使用 |
1871年(M4) |
養賢堂は、北一番丁・勾当台通りの一角にあった仙台藩の学問所
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)年1月8日、仙台県を宮城県と改称により、宮城県庁舎となる
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-053/「新・目で見る仙台の歴史」P121(高橋由一画)
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宮沢橋(広瀬川) |
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1946年(S21)/1949年(S24)/1955年(S30) |
項目「宮沢の一銭橋」よりつづく
* 1946年(S21)7月12日、宮沢橋落成(着工は4月31日) / 本格的な木造橋が「一銭橋」の100m程上流に架けられた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1947年(S22)4月31日、一銭の渡り賃で「一銭橋」の異名のあった宮沢橋が木造橋に架け替えの起工式(「仙台市史 続編2」P825)
* 1948年(S23)アイオン台風と、1950年(S25)に、広瀬川が氾濫し、被害をうける
* 1949年(S24)7月17日、宮沢橋落成(「仙台市史 続編2」P831)
* 1949年(S24)、宮沢橋、堰場・根岸間に復旧架設(「重訂 宮城県郷土史年表」P539)
* 1955年(S30)8月、元の渡し場付近に、今(1995年現在)の宮沢橋が完成(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1990年(H2)8月、宮沢橋付近で、広瀬川の灯篭流し復活(13年ぶり)(「続・ 宮城県郷土史年表」P268)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編2(経済文化編)」P825、P831/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P539/「続・ 宮城県郷土史年表」P268
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99-110、06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図24(H8年)
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自動車専用道 |
仙台西道路 |
1983年(S58)/1987年(S62) |
青葉区を東西に走る自動車専用道路(国道48号)で、仙台市都心部と仙台都市圏環状自動車専用道路とを結ぶ唯一の自動車専用道路(5.15km)
* 1978年(S53)5月20日、青葉山トンネル貫通式
* 1980年(S55)8月、新仲ノ瀬橋下り車線完成
* 1983年(S58)5月14日、部分供用開始(暫定2車線、4.9km) / 仙台宮城IC入口交差点(折立IC)~立町交差点(西公園通と広瀬通との交差点)の区間(延長4.9 km)
* 1984年(S59)9月1日、立町トンネル開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P184では、12月20日開通)
* 1987年(S62)11月30日、全線4車線で全面供用開始
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「仙台市史 年表」P131、P133、P135/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P116、P162、P184、P233/Wikipedia「仙台西道路」(2020年7月)
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多門師団凱旋 |
仙台帰還(凱旋) |
1933年(S8)1月 |
陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160)
* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された → 項目「多門通り」参照
・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
・3月27日、日本、国際連盟を脱退
・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去
<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述)
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「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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65-02、65-04、65-01、98-081、98-082、98-083、65-03、65-05、65-06、65-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
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「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
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99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
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釜房湖(ダム) |
給水開始 |
1970年(S45) |
釜房ダムは貯水量4500万トン、仙台市と周辺市町村に飲料水1日20万トンと工業用水10万トン供給、洪水調節、発電などの多目的ダム
* 1966年(S41)、釜房ダム建設開始
* 1970年(S45)7月10日、川崎町の釜房ダム、給水開始
* 1973年(S48)12月、釜房湖畔に、レジャーランドのバリハイセンターがオープン
* 1976年(S51)6月22日、湖畔に「鎮魂の碑」除幕
* 1978年(S53)10月15日、釜房湖畔公園誕生
* 1984年(S59)9月15日、湖畔で国営公園起工式
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「市民の戦後史(仙台市)」P219/「重訂 宮城県郷土史年表」P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P86、P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P219(工事現場俯瞰、導水路トンネル)
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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市町村合併 |
昭和の大合併 |
1954年(S29)
~1955年(S30)に合併した県内新自治体名 |
通称「昭和の大合併」は、昭和28年の町村合併促進法=町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準=、及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法による市町村合併で、1953年(S28)~1961年(S36)に実施された。1954年(S29)4月以降、宮城県内でも町村合併が相次いだ。以下は、昭和30年までに合併が行われ誕生した新市町村名(31年以降は略)
<1954年(S29)>
4月には、白石市(新市誕生)、岩出山町、鳴子町、小牛田町 / 7月には、大郷村、宮崎町 / 8月には、中新田町、築館町 / 11月に、津山町 / 12月に丸森町、若柳町
<1955年(S30)>
昭和30年1月~12月に、金成町、亘理町、山元町、宮城村、志津川町、三本木町、河北町、河南町、桃生町、牡鹿町、北上村、本吉町、松山町、蔵王町、岩沼町、名取町、栗駒町、一迫町、迫町、泉村、村田町、川崎町、大和町、鳴瀬町、矢本町、涌谷町
******(S31年以下、略)******
<参考>明治以降、昭和末年までの宮城県内市町村合併の全貌は、「第4 市町村変遷等の状況」http://www.mygsk.or.jp/sityouson/pdf/siryou/04_shichosonhensenjoukyou.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5%E4%B8%80%E8%A6%A7+%E6%98%AD%E5%92%8C%27
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「重訂 宮城県郷土史年表」P572~579
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戦災者・引揚者用住宅 |
住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅) |
1946年(S21) |
追廻練兵場跡に、応急木造住宅620戸を建設
* 1945年(S20)10月、追廻に住宅営団の戦災者住宅着工、翌21年4月に621戸成る(「仙台城」P235)
* 1946年(S21)3月、住宅営団が戦災者・引揚者用の木造応急住宅620戸を建設(河北新報1996.11.21)
* 1945年(S20)11月~翌年3月、進駐軍の接収を免れた大日本帝国陸軍第2師団用地の1つである追廻練兵場跡地において、住宅営団が賃貸用の応急簡易住宅を約620戸建設(Wikipedia「川内追廻」)
・仙台市では戦後、追廻の陸軍練兵場跡に2年間で簡易住宅1876戸を建築して被災者や海外からの引揚者に提供(「戦争のころ 仙台、宮城」P227)
* 1946年(S21)11月11日、仙台市の戦災復興計画において、「追廻住宅」を含む当地(約22.5ha)が「仙台総合運動場」として都市計画決定(戦災復興院告示 第244号)
* 1946年(S21)12月23日、住宅営団が閉鎖機関に指定せられ、同時に解散(以降は清算法人) / これにより住宅営団の賃貸住宅だった「追廻住宅」では、建物は入居者に払下げられ、国有地である土地は東北財務局が管理して入居者と賃貸契約を結んだ(Wikipedia「川内追廻」)
* 1951年(S26)10月、住宅営団が4月に解散、建物を入居者に売却し、(土地は東北財務局が)時価貸付契約締結、契約期間は3年間(河北新報1996.11.21)
* 1954年(S29)10月、追廻地区住民が、同地区の公園化に反対して総決起大会
* 1960年(S35)3月13日、追廻住宅で火災49戸焼失
仙台市の戦後の応急住宅対策は、「仙台市史特別編4 市民生活」P160~161に記述あり
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P109/「市民の戦後史(仙台市)」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P595/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
/Wikipedia「川内追廻」(出典: 旧軍用地に係る土地政策と転用実態 ―終戦直後から戦災復興期の都市部における旧軍用地転用― (PDF) (土地総合研究 2015年夏号)P152-153)/「河北新報」(1996.11.21)」
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「目で見る仙台の歴史」P174に「追廻住宅」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P110(S54、画面下部、カラー)
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (1)明治期 |
1894年(M27)~1901年(M34)/1904年(M37)~1908年(M41) |
軍隊に志願する青年の育成勧誘、兵役に就く者およびその家庭への援助・救援活動、出征兵士の歓送迎、祝賀行事、戦病死・負傷者に対する弔慰行事などを行う民間の組織体で、軍の意向に応じて、行政機関と地域の有力者を中心に結成された
<仙台市兵事義会、日清戦争契機に結成>
* 1894年(M27)7月29日、仙台市兵事義会結成(7月25日日清戦争勃発、8月1日に正式宣戦布告)
・ 日清戦争開始を契機に、市内有力者や勝間田稔県知事の要望により結成 / 会長は遠藤庸治仙台市長、市役所が事務所 / 里美良顕、伊沢平蔵、岩崎総十郎、藤崎三郎助、早川智寛らの幹事と若干名の常議員によって運営
・ 経費は義援金で、地区の有力者を勧誘委員に任命 / 地方税中の戸数割負担が中等以上の8869戸に勧誘状を送り、金の出納は七十七銀行と仙台銀行に委託 / 6121名から1万1497円42銭7厘と、刀剣1060振が寄付された
・ 事業は、軍隊の歓送迎や便宜の供与、従軍者および戦病死者家族の保護援助、軍功をあげた者の顕彰など
・ 市が募集した従軍人夫156人へ衣料類の支給、市出身の将校・兵士に対する餞別、歓送迎行事への動員と祝賀会費用、傷病兵慰問、戦病死者の合同慰霊祭や弔慰金
・ 仙台市から招集された従軍兵士247名のうち、兵事義会の保護援助を必要とした家庭が約100戸(支出6621円)、援助不要家庭104戸、他は病気などにより入営未定の者
* 1901年(M34)1月、仙台市兵事義会解散
<仙台市兵事義会、日露戦争戦争を前に再興>
* 1904年(M37)1月12日、仙台市兵事義会、日露戦争を前に第二師団司令部の要望で拡大再興(2月10日から日露戦争)
・ 寄付金、団体・個人8511名から3万864円31銭7厘
・ 仙台市出身兵1508名出征 / 戦病死は134名(将校52名、下士官・兵卒82名)
・ 保護援助を必要とした下士官・兵卒の留守家庭は347戸 / 救援は米の贈与が中心 / 生活困難な従軍兵士家庭の婦女子は、兵事義会が開設した付属工場などで、陸軍使用の軍服などの縫製作業、マッチ製造、封筒製造に従事(工賃は僅か)
* 1908年(M41)、仙台市兵事義会、活動休止
* 兵事義会がまた活発な動きを始めるのは昭和の戦争期
<大沢村の兵事組合>
* 1889年(M22)、結成(第二師団発足の翌年) / (仙台市は任意加入だが)大沢村は全戸強制加入で、経費の半分は村税中の等級別個別割り、半分は戸数均等割りで徴収
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P301~302に、大沢村と秋保村の詳細記述あり>
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「仙台市史 年表」P89、P91、P92/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300~303
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P302(長町停車場で日清戦争出征見送り)、P303(日清戦争第二師団帰還出迎え)、P306(日露戦争から帰還する兵士を迎える市民たち)
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仙台市電 |
モハ1型 導入 |
1926年(T15)~1934年(S9) |
車両モハ1型はT15~S9に導入、このうち7号はS39年10月に廃車
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市電の各型の使用期間は、「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P180~181
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201-36、99-002
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仙台城二の丸焼失 |
焼失 |
1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163
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衛戍病院(陸軍病院) |
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1871年(M4)/1890年(M23)/1936年(S11) |
資料によって、改称年がことなっている
【「重訂 宮城県郷土史年表」P250】
* 1976年(M9)11月、仙台鎮台病院、仙台に創設
* 1981年(M14)3月、仙台陸軍病院と改称
* 1898年(M21)5月、仙台衛戍病院
* 1940年(S15)、仙台第一陸軍病院と改称
【Wikipedia「国立病院機構仙台医療センター」】
* 1871年(M4)、仙台鎮台病院設置(仙台城二の丸北西の亀岡御殿辺り)
* 1877年(M10)12月、外記丁の定禅寺跡地に移転
* 1890年(M23)、仙台衛戍病院に改称、のち、仙台陸軍病院に改称。
<衛戍病院 → 陸軍病院>
* 1936年(S11)、仙台陸軍病院に改称
(編者注) 東京などの衛戍病院は、昭和11年に陸軍病院に改称しているので、仙台衛戍病院も同時と思われる
* 1937年(S12)、日中戦争が始まった昭和12年、仙台第一陸軍病院と改称、負傷者が急増したので、宮城野原に臨時の分院が建てられました。それだけでは病院が足りず、現大崎市、川渡ホテルを譲りうけ、鳴子臨時病院を開設して対応しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P37~38)
* 1938年(S13)4月16日、朝香宮鳩彦殿下、仙台陸軍病院慰問(「仙台市史10 年表」P293)
* 1945年(S20)7月10日、仙台陸軍病院、仙台空襲で焼失
<陸軍病院宮城野原分院 → 仙台第一陸軍病院>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院宮城野分院、開設 / 昭和12年日中戦争勃発により激増した傷病兵を収容 / 宮城野原練兵場の片隅に応急的に建設 /(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
* 1939年(S14)1月12日、仙台陸軍病院榴ケ岡分院開設(「仙台市史10」年表P295)
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<地図では>
・「改正仙臺市明細全圖](明治22年5月印刷)では、「陸軍病院」
・「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)と、「最新仙臺市全地圖」(昭和11年5月現在 仙臺市土木課)では「衛戍病院」
* 1945年(S20)、終戦とともに厚生省に移管され、国立仙台病院となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
→ 以下、大項目「国立仙台病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「重訂 宮城県郷土史年表」P250/「仙台市史10 年表」P293、P295/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P37~38/「改正仙臺市明細全圖」(明治22年5月印刷)/「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)
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仙台衛戍病院は、53-18、「市民の戦後史(仙台市)」P21/仙台衛戍病院伝染病棟は、99-158/仙台陸軍病院は、53-122/仙台陸軍病院宮城野原分院は、53-118
<関連映像> 98-111(仙台の兵営配置図 明治44年)と98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、衛戍病院の場所がわかる
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医療機関 |
東北労災病院 |
1954年(S29) |
財団法人労災協会東北労災病院として、台原で発足
・ 労働災害による負傷に対する診療
・ 特に、脊髄損傷に対する診療と機能回復の指導で有数
* 1953年(S28)12月15日、「東北労災病院」落成式
* 1954年(S29)1月25日、開院、診療開始
* 1957年(S32)7月、労働福祉事業団の経営となる
* 1965年(S40)7月、労働者災害補償保険リハビリテーション施設として50床設置、作業療法棟、回復棟完成
* 1983年(S58)2月、新病棟落成式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P733~734/「重訂 宮城県郷土史年表」P569/東北労災病院HP/Wikipedia「東北労災病院」/「続・ 宮城県郷土史年表」P158
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昭忠碑 |
建立 |
1902年(M35) |
西南戦争や日清戦争などで戦死した陸軍第二師団所属の戦没者の慰霊顕彰碑
* 1902年(M35)11月22日、天守台(青葉城本丸址)に建立
【「重訂 宮城県郷土史年表」P326】「碑はゴシック式高塔、陸軍大将西寛二郎の意匠にして、東京美術学校に於いて鋳造、工費総額2万4033円余」
【ふるさとの昭和史 「新仙台」案内記P35】「明治34年、第二師団と第八師団(弘前)合同の陸軍大演習が宮城県下であり、昭忠標は、その演習の際に明治天皇から100円を下賜され建てられた」
* 戦時中の金属回収では、同じ天守台の「政宗卿騎馬像」は対象にされたが、昭忠碑の「金鵄」は回収を免れた
* 1936年(S11)11月3日、朝、強震あり、金鵄の翼折れて落下
* 東日本大震災(2011年3月11日)で頭頂部の金鵄像が落下破損したが、修復されて2016年に「昭忠碑」前の基台に据え付けられた
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P326、P454/「ふるさとの昭和史」(「新仙台」案内記)P35/青葉城資料展示館HP/東京文化財研究所HP/「仙台市史 年表」P92
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99-112、99-113、99-114、99-115、44-24/「目で見る仙台の歴史」P137に、「昭忠碑の鵄」
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