項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台空襲 |
被災者への援助 / 避難先 |
1945年(S20) |
<被災者への援助、避難先>
・ 家を焼け出された約5万人
・ 仙台圏の多くの町村から非常食や善意の炊き出しを受ける / 避難所は、被災を免れた国民学校や一部焼失した国民学校の講堂 / その後、多くは親類縁者宅に避難 / 仙台市では、追廻練兵場跡に2年間で1876戸の簡易住宅を建設し、空襲被災者や海外からの引揚者に提供された
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
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テレフォンカード |
テレカ公衆電話登場 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)11月19日、テレフォンカード公衆電話を仙台市内6カ所に設置
* 1983年(S58)11月28日、仙台空港に、テレフォンカードによる公衆電話設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P168
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俯瞰撮影禁止など |
禁止決定 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止
* 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大
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「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍教導学校 |
1927年(S2)~1943年(S18) |
* 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた
* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
総説 |
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一番町は南から北へ、1~4丁目まであるが、商店街としての一番町は2丁目以北で、3つの商店街で構成されている。 武家の町だった東一番丁が、明治期以降は次第に商店がつらなる繁華街となり、仙台を代表する商店街「東一番丁」となった。 1970年(S45)2月の新住居表示で、「一番町」となる。
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<参照>旧町名と新住居表示実施後の新町名の対比、実施年月日は、仙台市HPの 「旧町字名(地区名)一覧表と旧・新住所対照表(五十音順)」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/ichiran.html
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以前の空襲 |
1945年(S20)5月29日~7月9日 |
<仙台空襲以前にも、米軍による攻撃>
・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来
・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30
・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷
・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける
・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207
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障害者福祉 |
施設完成など |
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* 1968年(S43)6月16日、宮城県総合福祉センターの合同庁舎を本町1丁目に建設し、業務開始
* 1983年(S58)4月、仙台市幸町の県障害者福祉センター完成
* 1984年(S59)4月28日、仙台市河原町に自閉症児専用施設「南材ホーム」完成
* 1984年(S59)4月、西多賀に仙台市精神薄弱者育成会福祉作業所開設
* 1985年(S60)4月13日、仙台市人来田に、県内初の障害者更生センター完成
* 1988年(S63)3月28日、テクノプラザみやぎ発足(宮城県の委託で「みやぎ障害者ITサポート事業」を実施する第三セクター、2019年に解散)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P641/「続・ 宮城県郷土史年表」P161、P176、P190、P241
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福祉ボランティアのまちづくり事業 |
指定 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)7月8日、仙台市ボランティア連絡協議会結成
* 1985年(S60)10月、「福祉ボランティアのまちづくり事業」、仙台市が国に指定される
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「続・ 宮城県郷土史年表」P193/「仙台市史 年表」P134
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍予備士官学校 |
1938年(S13)~1939年(S14)/1943年(S18)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)8月13日、仙台市川内の陸軍教導学校内に「仙台予備士官学校」設置、開校式 / 1939年(S14)3月に盛岡近郊へ移転
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲 |
1945年(S20)7月10日未明 |
→ 項目「仙台空襲」を見よ
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鐘景閣 |
開館 |
1985年(S60) |
* 1984年(S59)10月15日、茂庭荘で、旧伊達邸復元起工式
* 1985年(S60)10月8日、鐘景閣(しょうけいかく/旧伊達邸)を復元・落成
* 1985年(S60)10月10日、茂庭荘の敷地内に移築・復元された一本杉の旧伊達邸、鐘景閣として開館
* 1987年(S62)5月31日、仙台市の保存樹木、明和学院(錦町2丁目)の松・臥竜松(樹齢300年)を茂庭荘に移植
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195
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仙台空襲 |
焼失した学校 / 児童の犠牲者 |
1945年(S20)7月10日 |
<焼失した学校>
☆ 国民学校
・ 全焼(東二番丁、立町、西多賀、北五番丁)、一部焼失(木町通)
・ 上杉山国民学校は、南校舎や西校舎が被弾したが、教職員がバケツリレーで消火、焼失を免れる
☆ 旧制中学校など中等学校(全焼)
・ 育英中学(現・錦町公園の場所)、仙台商業、東北学院中学校(東二番丁)、仙台中学校、常盤木高等女学校(西公園近く)、宮城県第一高等女学校(元寺小路)、仙台女学校(現・白百合学園 元寺小路)
☆ 旧制高等学校など(全焼)
・ 旧制第二高等学校、東北学院神学部(南町通)
☆ 大学
・ 東北帝国大学(片平丁)は、法文学部、理学部、工学部の校舎の40%を焼失
<仙台空襲による児童(国民学校生)の犠牲>
・ 死亡 計86人(木町通国民学校22人、東二番丁18人、立町16人、ほか)
・ けが40人
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P222~223
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リサイクル |
仙台の事例 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)5月25日、仙台市に、空き缶空き瓶選別センター発足
* 1984年(S59)6月、使用済み乾電池の回収箱、店頭に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P177、P178
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
商店街組織 |
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S23.2.20、東一連合会発足 / H10.11.11、東一連合会、50周年記念式典開催(記念誌発行)
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各商店街の年表は、「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9の「年表」による
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(1) 艦載機などから爆弾投下、機銃掃射 |
1945年(S20)7月14日~8月10日 |
<仙台空襲後の空襲(宮城県内)>
・ B29による仙台空襲(昭和20年7月10日 焼夷弾攻撃)の後は、敗戦の8月15日までの間に、県内は艦載機や艦上爆撃機による空襲を受けた
・ グラマンなどの戦闘機とカーチス降下爆撃機、遠く硫黄島からノースアメリカンP51戦闘機も飛来、圧倒的に多かったのはずんぐりむっくり型のグラマンで、このほか英空母から戦闘爆撃機コルセアも参戦した
・ 7月は14日、15日、17日の3回、8月は9日、10日の2回
・ 空母から飛び立った小型機の空襲は、夜間は来ないが、朝早くから日没までの日中だった
・ 空爆対象は、軍事施設に限らず、鉄道、港湾、発電所、工場、船舶に爆弾投下、超低空飛行で人などに機銃掃射
・ 日本軍機は本土決戦を控えてむやみに出動しないよう命じられていた
・ 宮城県の三陸沖には、沖縄戦が終わってから急いで移動してきた米国のエセックスなど空母3,軽空母2,戦艦など22隻、それと英国の空母フォーミダブルなど、計29隻の大艦隊が展開していた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P231
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松根油 |
宮城県への割当て |
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大平洋戦争末期、軍用機の航空燃料の不足を補うため、代替に松の根から油(高性能オクタンの成分が多い)を採るため、全国の松を伐採 / (制海権、制空権を失い、日本軍が占領した南方からの石油輸送が絶望的になる)
* 1944年(S19)10月、政府、松根油(しょうこんゆ)から航空燃料を生産する緊急対策を決定、大政翼賛会の運動として全国都道府県、市町村に発掘量を割当て、宮城県の分は2034万貫(7600トン)と決まる
・ 精製用の乾留釜(高さ1.2m、直径85cm)に、根を小さく割って入れ、ふたを粘土で密封し12~15時間燃やす
・ 釜は、昭和20年3月までに201釜、5月までに432釜完成
・ 陸海軍の協定で、東北地方で生産される松根油は海軍が使うことになっていた
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「戦争のころ 仙台、宮城」P203~204
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仙台空襲 |
焼失した学校 / 校舎再建 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲で焼失>
☆ 国民学校 5校(全焼4、半焼1)
・全焼・・・北五番丁、立町、東二番丁、西多賀
・半焼・・・木町通
☆ 中等学校13校(全焼)
・全焼(公立)・・・仙台、仙台商業、仙台図南、県第一高女、県仙台第二、県工業、
・全焼(私立)・・・仙台育英、東北学院、宮城女学校、栴檀、仙台女学校、常盤木高女、朴沢松操
☆ 高等専門学校 3校(全焼)
・全焼・・・第二高等学校、県立女子専門学校、宮城学院女子専門学校
☆ 大学 3学部
・一部焼失・・・東北帝国大学理学部、工学部、法文学部
<二部授業や青空教室>
・ 焼失を免れた学校の一部をかりて、二部授業
・ 西多賀国民学校のように、近くの神社の社務所や部落公民館などを仮校舎として二部授業や複式授業
・ 間借りの場所がない学校は、野外授業(青空教室)
<校舎再建>
・ 国民学校(小学校)は、1950年(S25)までに7校の校舎が建ち、二部授業、青空教室はほぼ解消した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P316「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270~271
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藤崎(戦前期) |
創業/大町4丁目へ進出 |
1819年(文政2年)/1879年(M12) |
* 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした
* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店
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「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40
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流行歌「ミス仙台」 |
発売 |
1936年(S11)夏 |
* 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。
(「番丁詳伝」P197)
<歌詞>
一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川
若きひと夜の恋ごころ
仙台 仙台 なつかしや
二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露
君と歩みし思い出や
仙台 仙台 なつかしや
三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁
三味の音いろも泣きぬれて
仙台 仙台 なつかしや
*「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
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「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
一番町の年中行事 |
1987年(S62)現在 |
・ 初売り 1月3日
・ どんと祭 1月14日
・ 節分会(4丁目) 2月初旬(豆まき、厄払い)
・ 青葉くじセール 2月~3月
・ 春の売り出し(4丁目) 3月~4月
・ なんじゃもんじゃ広場(4丁目) 5月5日、昭和51年開始(屋台、ゲーム、音楽会やおどり、小イベント15~20種展開)
・ 三社まつり 7月 昭和55年開始(三社まつりは、大町のえびす神社、一番街の和合神社、大通りの野中神社の三社の神輿が一番町と中央通りを渡御 / 前夜祭の土曜は、一番街では夜店を出しうなぎつかみ、大通りはチャリティー・オークヨンとカラオケ大会、おおまちでは音楽祭と大町小町コンテスト)
・ 七夕まつり 8月6~8日
・ 金蛇水神社祭典(4丁目) 8月下旬(神輿渡御、夜店)
・ 体育まつり(一番街) 10月体育の日 S58年開始(体力測定、栄養相談など)
・ 市民まつり(一番街) 11月1日~3日
・ 青葉くじセール 12月
・ 年末チャリティー歳の市(一番街) 12月26~30日
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「番丁詳伝」P198~199
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(2) 陸海軍基地、鉄道、船舶を攻撃 |
1945年(S20)7月14日 |
・ 7/14は、県内の18か所で空襲
<陸海軍基地への攻撃>
7/14、矢本の海軍松島基地に20機来襲、爆弾やロケット弾を撃ち込み2機が破損 / 玉浦の陸軍基地(現・仙台空港)も攻撃を受けるが、戦闘機や爆撃機はすでに疎開しており、飛行場付属施設が焼失 / 霞目の仙台飛行場にも来襲 / 航空基地と軍需工場への空襲は、その後も継続
<鉄道への攻撃>
7/14朝5時半、国鉄仙石線高砂駅で停車中の電車に5機のグラマンが機銃掃射し、死亡6人、負傷9人 / この日は東北線岩切駅舎も攻撃され、近くで農作業中の2人が機銃掃射で死亡
<船舶への攻撃>
7/14、本吉郡十三浜村沖の海上で船舶2隻が米英軍機の攻撃で6人が死亡、9人負傷 / 名取郡沖の海上では漁船乗組員2人死亡、8人負傷 / 桃生郡追波川河口で運送船が被弾し、2人死亡、3人負傷 / 唐桑で漁船2隻沈没 / 志津川では湾内の船舶3隻が被害
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232~234
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松根油 |
松を伐採 |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、栗原郡長岡村より高清水町に至る国道筋の古松の並木、“応召”により伐採に取りかかる(「重訂 宮城県郷土史年表」P500)
* 1944年(S19)10月20日、松根油等緊急増産対策措置要綱決定
* 1945年(S20)3月16日、松根油等拡充増産対策措置要綱、閣議決定
・松根、桧ノ根、針葉樹ノ枝葉樹皮等モ本増産ノ対象
・(要員確保)農山漁村所在労務、農業出身工場労務者ノ帰農、農家ノ子弟タル国民学校卒業者、中等学校学徒動員
・乾溜釜ヲ速カニ設置 ・精製工場ノ急速整備
「仙台市御立場町(現・宮城野区東仙台一丁目)の松原街道(現在の宮城県道8号仙台松島線)の両端に沿って松並木が存在していたが、樹齢300年以上の松もふくむすべての松並木が松根油(しょうこんゆ)採取のために伐採されている」(地元学の会『松原街道にそったまち ひがしせんだい 東仙台一丁目~五丁目・松岡町』(みやぎの区民協議会 仙台市宮城野区役所 2005年刊)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P500/国立国会図書館リサーチナビ/ウィキペディア「松根油」
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仙台空襲 |
焼失した国宝 など |
1945年(S20) |
<焼失した国宝文化財>
・ 国宝 仙台城大手門、仙台城隅櫓、伊達政宗霊廟瑞鳳殿、伊達忠宗霊廟感仙殿
<被災後、よみがえった樹木>
・ 東二番丁国民学校校庭のクスノキ(戦災から3年後に小さな新芽を吹き、のちに大木に)
・ 西公園の大町交番と桜ケ岡大神宮の間に立つイチョウ(樹齢推定300年)(のちに新芽を吹く、往時をしのぐ樹勢に)
<土井晩翠宅(本荒町)>
焼失し、蔵書3万冊も焼失 / 晩翠は「五十余年 心を込めて集めたる 東西の書 皆灰となる」と詠んだ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P223~224
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伝染病流行 |
コレラ |
1882年(M15)/1895年(M28) |
* 1882年(M15)7月19日、仙台区でコレラ患者発生、大流行となる
・ 7月24日に宮城郡荒巻村台原に避病院設置
・ 罹病者数930名のうち410人が死亡
(当時の仙台市人口は5万4585人)
* 1895年(M28)7月19日~9月、小田原の考勝寺に収容されていた日清戦争復員軍人からコレラが発生し流行
・ 9月5日に東十番丁裏に避病院設置
・ 仙台市の死亡者数365名
(当時の仙台市人口は6万3952人)
<参考文献> 「仙台あのころこのころ八十八年」P18~19「コレラ猛威を振う」
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「仙台市史 年表」P84、P89/「仙台市史 特別編4 市民生活」P384
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<概要> |
平成20年時点 |
定禅寺通角~広瀬通角間の商店街(アーケード街)
道の両脇にのみアーケードがかかり、晴れた日には太陽光が直に差し込み、青空を望める明るい雰囲気となる / 降雨時の開口部からの横雨の入りを少なくするため、アーケードの高さは「1階分+看板分」程度の高さになっており、一番町の他のアーケード街と比べると低い / この街区と交差する定禅寺通の西洋風煉瓦造りの中央緑地帯の雰囲気にあわせ、旧車道部の舗装は石畳、旧歩道部は煉瓦風カラー舗装となっている
冬季には、旧車道の開口部に豆電球のイルミネーション装飾をいくつも渡し、日没後は北欧の街路のような雰囲気となる / 1982年(S57)から2003年(H15)7月まで、「水時計」と呼ばれる落水で動くからくり時計が街区の南東端に設置されていた
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より要約
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(3) 小牛田、亘理 / 女川湾の海戦 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<鉄道への攻撃 小牛田、亘理>
8月9日、東北線小牛田駅に停車中の列車が襲われ、機関士と乗客1人が死亡 / 亘理の空襲(8月10日朝、グラマン2機が常磐線の線路に急降下して機銃掃射で6人死亡、8人負傷、空襲警報で急停車した列車から降りて土手のくぼ地に隠れた乗客が犠牲) (「戦争のころ 仙台、宮城」P232)
<女川湾の海戦>
海軍防備隊(横浜港から函館、室蘭むけの船団を三陸沖で護衛、および遭難船救助を担当)が拠点にした女川港に入港中の、標的艦「大浜」、海防艦「天草」など20数隻が攻撃を受ける
・ 8月9日、第1波は朝5時半、空母「ペニントン」の艦上爆撃機と艦載機4機が攻撃、霧に邪魔されたが、中型商船2隻が沈没 / 第2波は、58機が、日本軍の駆逐艦、護衛艦に投弾し沈める / 第3波は29機がドックに停泊中の小型艦船を攻撃するなど、午後5時の第8波まで続く / 攻撃には英国艦隊も参加し、英軍の記録では、駆逐艦3隻、哨戒艇1隻撃沈 /
・ 8月10日、攻撃は10日も続き、湾内の艦艇のほとんどと、関連ある軍の施設も破壊された / 米軍の被害は、撃墜3機(日本側は、「大浜」「天草」の高角砲、陸上からの高角砲部隊などが対空砲火で応戦) / 「天浜」は、グラマン機の爆撃と掃射で転覆沈没、乗組員が船を出て防空壕に退避途中で機銃掃射を受け30人位が倒れる / 「天草」は艦の周辺に爆弾20個くらい投下され、間もなく艦首を先に数分で沈没 / 2日間で158人が戦死
・ 昭和41年、海軍防備隊通信科の神田義男兵曹長夫妻が湾を望む崎山公園に私財を投じて慰霊碑を建設、毎年慰霊祭が営まれている / 近くには英軍機に乗って戦死したカナダ人のグレー大尉慰霊碑もある / 神田さん夫妻は東日本大震災で亡くなった
<女川の町内も被害>
・ 海戦のとばっちりを受けて、国鉄女川駅倉庫、造船所のほか、民家70戸焼失、犠牲者24人
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232、P234~235
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定禅寺通り |
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戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった
* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹
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「仙台市史 続編1」P462
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仙台空襲 |
軍隊、学徒動員して遺体収容 |
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<軍隊、学徒動員して遺体収容>
・ 軍隊や警察、消防団、市内の中学校、女学校の生徒も動員される
・ 平貞次郎さん談(当時・歩兵第4連隊 榴ケ岡の兵舎から出向いて5日間遺体収容作業)「仙台駅から西の方は焼け野原で、特に元寺小路から現在の錦町公園にかけての道路に遺体が多くあった。井戸の中に遺体が折り重なっていたり、大きな防空壕では沢山の人が亡くなっていた。 お棺がないので、焼けトタンに1体ずつ遺体を乗せて運び、軍のトラックで新寺と北山の火葬場に運んだ。 あまりに数が多くていつになるか分からないといわれて、自分で火葬にした人もいた。」
・ 室田六郎さん(当時北山火葬場勤務)談「上半身とか片手、片足というのもあって大半は焼死体だが、防空壕で亡くなった人は衣服も体も無傷だった。 釜は16基あったが、燃料不足で1体焼くのに5時間はかかる。一番困ったのは燃料で、新坂通りの街路樹を切ってナマ木のまま使用した。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P225~226
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伝染病流行 |
天然痘 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)1月9日~5月、天然痘が流行、仙台市を含む宮城県の罹患者数766名
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「仙台市史 年表」P89
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<松島海軍航空隊への攻撃>
8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた
<軍の工場への攻撃>
・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷
・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236
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定禅寺通り |
戦後の拡幅工事完了 |
1967年(S42) |
* 1894年(M27)7月15日、仙台市会、市内の新道の名称を決議(定禅寺通、新常盤丁、桜小路など)
* 1954年(S29)4月、定禅寺通り、広瀬通りとも、東一番丁付近の拡幅が完成
* 1967年(S42)1月25日、定禅寺通り・広瀬通りとも全線開通
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「仙台市史 年表」P88/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
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伝染病流行 |
腸チフス |
1909年(M42) |
* 1909年(M42)、仙台で流行
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「仙台市史 年表」P94
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藤崎(戦前期) |
改称 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)5月1日、株式会社藤崎呉服店、株式会社藤崎と改称
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「仙台市史 年表」P105/藤崎170年のあゆみ」P255
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<商店街組織> |
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「北振会」の名称は戦前から使われてぃた / S26.1.1、北振会発足(S28.7、仙台東一北振繁華街協同組合設立認可) / S38.8.9、「仙台東一北振繁華街協同組合」を「仙台東一北振商店街振興組合」に改組 / S54、「仙台東一北振商店街振興組合」が「東一中央会」を吸収(北振会は森徳横丁以北、中央会は森徳横丁~広瀬通り間) / S55.6.16、「東一北振商店街振興組合」を「一番町四丁目商店街振興組合」に改称
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 |
1945年(S20) |
<県内の空襲犠牲者>
仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害
<筆者石澤友隆氏の体験>
戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236
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仙台空襲 |
空襲体験記 |
1945年(S21) |
<空襲体験記>
「番丁詳伝」P151に、『仙台空襲』に載せられた、空襲体験者の手記、空襲直後の状況の抜粋あり
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「番丁詳伝」P151
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伝染病流行 |
仙台・戦後流行 |
昭和20年代以降 |
<昭和20年代>
* 1945年(S20)、腸チフス・パラチフス555人、ジフテリア480人、
* 1946年(S21)、腸チフス・パラチフス313人、ジフテリア293人、発疹チフス383人、戦後引き揚げ者とともに持ち込まれ流行した痘瘡が50人
* 赤痢は、S21~22年に仙台で約1000人、S25~S27には連続して爆発的に発生し、榴岡病院(仙台市立の伝染病専門病院)は、畳敷きの部屋まで病室に転用
・ 結核、社会各層に蔓延、S27年ころから目に見えて患者数、死亡率とも減少
・ 戦後、生活環境がもっとも悪化した時期で、ノミ、シラミ、ハエ、蚊、ダニなどが、S24年頃まで広範囲に発生、その後減少、ノミ、シラミ、ダニの類は全く姿を消した
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったという / 同年冬には仙台駅頭で撒布
<昭和30年代以降>
・ 小児マヒ 1959年(S34)に34人、1960年(S35)に18人 / 生ワクチン普及で発生激減
・ 赤痢、S35年の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)、S37年11月名掛丁に集団赤痢発生、S41年4月の集団赤痢216人
・ 腸チフス・パラチフス、29年以降は年間10人以下だったが、1967年(S42)9月、市内で集団発生あり患者57人
<榴ヶ岡病院(伝染病専門病院)・病名別収容患者数>
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P720に、「S20~42年度の伝染病別収容患者一覧表」 ・・・ S24年以降は、赤痢患者数が全伝染病のトップ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81、P672~676、P682、P718~721
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<概要> |
平成20年時点 |
広瀬通り角と中央通り角の間、一番町三丁目にあるアーケード街
1993年(H5)、高さ19.5mの高層アーケードに建て替えられた / この新アーケードは、旧車道部の上を覆う中央ドーム部が5階建て程度、両脇の旧歩道部の上が4階建て程度の高さになっており、ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを模した
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋
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空襲(釜石艦砲射撃) |
釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅 |
1945年(S20)7月14日、8月9日 |
<釜石に艦砲射撃、773人が犠牲>
・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237
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定禅寺通り |
彫刻のあるまちづくり |
1979年(S54)~ |
<「仙台市彫刻のあるまちづくり」事業で、中央分離帯(定禅寺通緑地)に彫刻配置>
* 1979年(S54)10月3日、イタリアのエミリオ・グレコ作、踊り子像「夏の想い出」除幕(第1期作品のひとつ)
* 1982年(S57)9月22日、イタリア彫刻家ブェナンツォ・クロツェッティー作「水浴の女」、除幕
* 1986年(S61)10月17日、マンズー作、彫刻「オデュッセウス」除幕
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「続・ 宮城県郷土史年表」P102、P151、P224
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伝統町名保存 |
保存運動 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)7月3日、仙台市中央南地区、南鍛冶町・荒町など伝統的町名保存でシンポジウム
* 1988年(S63)7月22日、仙台市が、伝統町名変更を見送ることを表明
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「続・ 宮城県郷土史年表」P248、P249
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冷害・凶作 |
冷害年の稲作減収率(宮城県内) |
明治~1944年(S19) |
北海道・東北の明治~昭和19年の主な冷害年の「宮城県の米減収率」
(「図説:東北の稲作と冷害」の棒グラフより読み取り)
M35年(50%位)、M38(80%余)、T2年(50%余)、
S6年(10%以下)、S9年(15%位)、S10(20%弱)、S16年(40%弱)
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東北農業研究センター水稲冷害研究チーム「図説:東北の稲作と冷害」www.regai.affrc.go.jp/zusetu/reigai/l より要約
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軍事教練 |
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・ 青少年を対象とした軍事予備教育のうち、特に歩兵操典に基づく訓練をさす
* 1928年(S3)2月24日、陸軍省、教練及び青年訓練修了者検定規定公布、この結果、教練も成績に加え合否が判定される
* 1944年(S19)2月4日、文部省、軍事教育強化方針発表
<第2次世界大戦の敗戦で廃止>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P8、P35
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藤崎(戦後期) |
戦災復興館(木造平屋) 開店 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)、藤崎「戦後復興館」建設
・ T8年建設の旧本館(洋風木造2階建)が仙台空襲(S20年7月)で焼失
・ その跡地に建設(木造1階建)
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藤崎170年のあゆみ」P196~197
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冷害・凶作 |
明治年間 |
1869年(M2)
1874年(M7)
1897年(M30)
1902年(M35)
1905年(M38)
1910年(M43) |
* 1869年(M2)秋、冷害のため凶作となる
* 1874年(M7)、冷害のため凶作となる
* 1897年(M30)秋、冷害と水害のため凶作となる。
10月16日、仙台市会、凶作のため臨時米穀売買所開設を決議
10月27日、市が臨時米穀売買所で外国米の低価販売開始
* 1902年(M35) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治35年」へ
* 1905年(M38) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治38年」へ
* 1910年(M43)、この年水害のため凶作となる
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P305(図310)は、明治30~39年の宮城県の米収穫量(グラフ)
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「仙台市史 年表」P79、P81、P90、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P304
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<商店街組織> |
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大町角(中央通り角)以北の東一番丁は、戦前から「東一振興会」の名称が使われていたことが、[写真 49-04 で確認できる / S29、「東一振興会」を「東一一番街」に改称 (ただし、写真 77-02 (S31)ではまだ「東一振興会」の字が確認できる) / S45.7.27、一番町一番街商店街振興組合設立
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9
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仙台合同庁舎 |
五輪1丁目 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
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「続・ 宮城県郷土史年表」P133
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冷害・凶作 |
明治35年 |
1902年(M35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P358より>
「明治35年は春からヤマセ(北東の冷たい風)が吹き、7月中旬から8月中旬にかけて雨が多く気温の低い日が続いた。 米の収穫高は予想を上回る減収で、1897年から1901年に至る過去5年間の平均収穫高の32%にすぎなかった。」
* 1902年(M35)、冷害のため凶作となる
(仙台市会、凶作のため外国米売渡手続を決議)
(外国米を698戸に配布)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305、P358/「仙台市史 年表」P92
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<概要> |
概要(平成20年頃) |
中央通り角から南町通角の間のアーケード街 / 一番町二丁目、および三丁目の一部に跨る
現在のアーケードは1986年(S61年)に設置された高さ13.7mのもので、当時は日本で最も高さのあるアーケードであった / 天井付近に仕掛け時計が設置されており、時間になると人形が動く / 「文化横丁」や「壱弐参(いろは)横丁」などの横丁がある
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋
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軍事教練 |
大学も必須に |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする
* 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属
<東北帝国大学>
軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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