項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
下水処理 |
事業決定 |
1957年(S32)~ |
* 1957年(S32)2月、仙台市、下水道処理事業決定
* 1963年(S38)9月、南蒲生の下水週末処理場一部運転開始
* 1964年(S39)2月、下水の南蒲生幹線貫通
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「市民の戦後史(仙台市)」P152~153
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P151(建設中の南蒲生下水処理場)/「市民の戦後史(仙台市)」P152~153(南蒲生下水道終末処理場、下水道清掃車、下水幹線工事完成で握手、澱ポンプ場)
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江陽会館 |
竣工/増築 |
1957年(S32)/1964年(S39)/1973年(S48) |
* 1933年(S8)、後藤江陽(岩切の後藤豆腐店の末っ子)が仙台市内に写真館を開業(「番丁詳伝」P31)
* 1940年(S15)、後藤江陽は、戦時、中支に渡りカメラマンとして活躍
* 1940年(S15)、後藤江陽が、東一番丁森徳座跡に「江陽写場」を開業(「番丁詳伝」P218)
<戦後>
* 1957年(S32)4月、東一番丁(森徳横丁角)の江陽会館が総合結婚会館として竣工(6階建)
* 1964年(S33)9月、増築
* 1964年(S39)5月に増築
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* のちに、江陽パルサー飲食ビルとなる
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)
<江陽グランドホテル開業>
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(広瀬通り / 青葉区本町二丁目3-1)
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江陽グランドホテルHPの「会社概要」/「番丁詳伝」P31、P218/「続・ 宮城県郷土史年表」P25
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99-014、201-45、201-47
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日乃出映画劇場 |
日乃出会館オープン |
1957年(S32) |
日乃出映画劇場出火(S31年2月)後、日乃出会館を新築
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 1973年(S48)7月、日の出興行ビル完成
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版/わが心の仙台駅前史」P40、P89
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P26(S32)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮、日の出会館は画面左の交差点右角のビル)
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住宅団地 |
旭ヶ丘団地 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)、旭ヶ丘団地(130ヘクタール)、東北開発会社が計画、造成開始(仙台の団地開発第1号)
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「仙台市史 年表」P120
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P147の写真37/「市民の戦後史(仙台市)」P190
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ビル建設 |
日乃出会館 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 日乃出映画劇場など館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 2002年(H14)9月17日、映画館は全館閉館
* 2019年(R1)秋、解体完了
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版
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99-031
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駐留軍(米軍) |
川内、苦竹両キャンプ返還 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1957年(S32)11月13日、二の丸跡、米軍より返還(「仙台城」P236) / 同日に川内返還式(「目で見る仙台の歴史」P195)
・川内キャンプ跡は、東北大学と開拓者と仙台市有に分けられ、苦竹キャンプ跡は、自衛隊に3分の2、残り3分の1は工場用地とされた
<その後の、在日米軍施設>
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P586/「仙台市史 年表」P120/「続・ 宮城県郷土史年表」P60/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P801/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P236
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「目で見る仙台の歴史」P195(川内キャンプ返還式で日章旗掲揚)
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ビル建設 |
鳳月ビル |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)12月、青葉通り・東五番丁通り南西角に完成(5階建)
* 1988年(S63)10月、ほうげつビルがオープン
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「わが心の仙台駅前史」P87、P91
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99-031、22-17
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錦章堂ビル |
竣工 |
1957年(S32) |
東一番丁通りに面し、三越の南手前にある小ビル(印舗の錦章堂ビル)はS32年に竣工
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錦章堂主人談
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22-61
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商店など |
江陽会館 |
1957年(S32) |
<江陽グランドホテルHPの「会社概要」より>
* 1933年(S8)、仙台市内に営業写真館として創業を開始 * 1957年(S32)、総合結婚会館(東一番丁・森徳横丁北東角)の運営へと営業規模を拡大
* その後、宿泊施設を付帯させたホテル江陽結婚会館
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(青葉区本町二丁目3-1)
<東一番丁・森徳横丁角北東角のビル>
* 1957年(S32)4月、結婚会館として竣工
* 1964年(S33)9月、増築
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)
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江陽グランドホテルHP/他
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店舗配置図 98-124 (東一番丁北部の空襲直前と終戦後)、店舗配置図 98-126(S32) / 99-014、201-45 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮、画面左上の東一番丁・森徳横丁北東角のビル)
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丸光 |
8階建て本館ビル落成 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)10月、青葉通りに面して、丸光本館(8階建て)が落成(増築工事完成) / 地上8階、地下2階、地上12階に相当する展望台、4000坪)
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 別冊 市民生活」P41
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P22(S32、建設中)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮)、P73(S39、カラー)、P74~75(S39、カラー)
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仙台市電 |
昭和30年代~全線廃止まで |
1956年(S31)~1976年(S51) |
* 1956年(S31)11月、「仙台市交通局三十年史」刊行
* 1957年(S32)、電力事情悪化で市電15%間引き運転
* 1958年度(S33)、市電事業赤字(3000万円余)、以後赤字続き
* 1959年(S34)、仙台市電停留所に照明灯がつく
* 1959年(S34)、仙台市電に女性車掌、14年ぶりに登場
* 1966年(S41)2月15日、ワンマンカー導入により職員400人削減等を労組に提示
* 1966年(S41)、一部の車両、ワンマンカーに
* 1970年度(S45年度)、一年間で1億円強の赤字(累積赤字10億円の大台にのる)
* 1972年(S47)2月4日、12億円の累積赤字のため廃止発表
* 1972年(S47)12月1日、市電の均一料金を40円に(10円値上げ)
* 1973年(S48)3月7日、島野市長、市電廃止を声明
* 1975年(S50)10月4日、仙台市議会、市電廃止議案可決
* 1976年(S51)3月31日、仙台市電お別れ式/最終運行(さよなら電車)/替わってグリーンバス運転
* 1976年(S51)4月8日、5両を長崎市へ輸送
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P514、P517、P518、P525、P533/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P130/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P624、P674/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P15、P18、P45、P52、P53
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「市民の戦後史(仙台市)」P106(照明が入った停留所標識)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518に、市電ワンマンカーの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P200(市電のワンマンカー)/「新・目で見る仙台の歴史」P187(渋滞車線を走る市電、最後のサヨウナラ花電車、廃止記念乗車券)/同P211(市電ワンマンカー)/同210(S37年6月現在の市電運転系統図)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P212~213(市役所前でお別れ式、おなごり乗車、廃止記念乗車券、花束持つ運転手、車庫前の花電車群俯瞰、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P101(S51、さようなら運転、カラー)/同P102(S51、ワンマンカー、カラー)/同P103(S51、北二番丁車庫)
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警察学校 |
東北管区警察学校 |
1956年(S31)~1975年(S50)3月 |
場所は、現在(2018年)の榴ケ岡公園内の一角で、かつては(明治時代~昭和20年まで)陸軍第二師団の歩兵第4連隊兵営だったが、戦災にあわず、戦後は進駐軍(米軍)基地(キャンプ・ファウラー)となり、米軍から返還された後に東北管区警察学校が置かれた / 高等部は旗立から、普通部は玉浦から移転
* 1956年(S31)11月30日、開校式
* 1975年(S50)3月、多賀城に移転
* 1975年(S50)5月、跡地(国有地)が、仙台市緑の拠点として払い下げが決まり、榴ヶ岡公園の一部となった
* 移転後の1975年(S50)1月13日から、戦前からの旧・歩兵第4連隊兵舎は解体されたが、一棟だけ残された兵舎が、仙台市歴史民俗資料館となった(S54年11月3日開館)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P800/東北管区警察学校HP/「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P41
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34-47
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青葉まつり |
開始/復活 |
1956年(S31)~1967年(S42)
/ 1985年(S60)~ |
* 1956年(S31)5月24~26日、第一回 / 青葉神社の例祭にあわせて開催
* 1964年(S39)5月、仙台市立第一中学校の生徒らによる「雀踊り」が登場
* 1968年(S43)から、交通事情変化などを理由に行われなくなる
* 1985年(S60)4月27日~6月2日、伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり開催(没後350年にあたり、祭り復活)
* 1987年(S62)5月10日、青葉祭りで、藤崎デパート前と東宝ビル前に、高さ10mの山鉾を復活
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「仙台市史 年表」P119、P126、P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P581
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「目で見る仙台の歴史」P190(青葉まつりパレード)
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警察署 |
仙台東警察署 |
1956年(S31)~ |
* 1956年(S31)9月1日、発足(原町苦竹/宮城野区南目館21)
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「仙台市史 年表」P119/「重訂 宮城県郷土史年表」P582/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798に、「仙台東警察署庁舎」
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年中行事(まつり) |
青葉まつり |
1956年(S31)~ |
→ 項目「青葉まつり」参照
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医療機関 |
宮城第一・第二病院 |
1956年(S31)/1946年(S21) |
ともに、社会保険連合会による病院
<宮城第一病院>
* 1956年(S31)1月、名掛丁に開院(現地にあった個人病院を買収、10床)
* 1959年(S34)に、150床
* 1960年(S35)、病棟新築(地下1階、地上4階、200床)
* 1963年(S38)、第2病棟(地下1階、地上5階)完成
<宮城第二病院>
* 1946年(S21)、長町西浦に開院(20床)
* 1961年(S36)?、病棟新築(鉄筋コンクリート5階建て、200床)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P732~733
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日乃出映画劇場 |
出火 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)2月5日、日乃出劇場出火 / 午後8時45分頃、ボイラー室付近から出火、北西11mの強風(瞬間最大19m)、出動消防車14台 / 火元の日乃出劇場(地下劇場、ニュース劇場、棟続きの日乃出中華など)891平方mを全焼 / 隣接の仙台ホテル、東宝劇場などの一部も焼いて、午後10時すぎ鎮火 / 火の粉は遠く連坊小路、薬師堂まで飛び、延焼が心配された
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「市民の戦後史」P53/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822~823/「仙台の歴史(80周年)/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P623の写真199(強風化に炎上する日乃出劇場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(炎上する劇場)
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住宅団地 |
小鶴団地 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)、仙台市営小鶴団地(140戸)建設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P584
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藤崎(戦後期) |
屋上遊園地オープン(西館) |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)3月、西館に「屋上遊園地」オープン
(観覧車、モノレール、子ども用自動車などがあった)
<編者注> 屋上観覧車が写る「写真18-09」はS29年夏の写真(理由:東一番丁通りのアーケードが大町角までで、藤崎以南にはまだ完成していない/西館がまだ一部4階建)なので、観覧車はS29年にはすでに出来ていたことがわかる
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「藤崎170年のあゆみ」P196~197
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59-01、18-09
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映画館(戦後) |
仙台東映 |
1956年(S31) |
<Wikipedia「仙台東映」沿革 および「仙台映画大全集」P458より>
* 1948年(S23)7月3日、東一番町29(現在の広瀬通り一番町南東角)に開業した「公共会館」(文化教室、実演劇場)が前身で、主に演劇を上演していた
* わずか半年後の1949年(S24)1月29日に「国際劇場」と改称し東映封切館となる
* その後、1954年(S29)2月3日に「仙台新東宝映画劇場」となり、新東宝の封切館として再出発するも、ビル建て替えのため閉館
(「番丁詳伝」P218では、S29年仙台新東映映画劇場として衣替えし、さらに31年秋にビルを建て直し、地下を東映パラス、1階を東映劇場とし表通りには東映シューズ、コセキ、洋服はコンノが出店)
* 1956年(S31)9月、東映の直営館として再建され、「仙台東映」(邦画系)「仙台東映パラス」(洋画系)となった
* 1994年(H6)6月11日、現在地に飲食店などの商業施設を含んだビル「仙台東映プラザ」がオープン。同ビルの6階に「仙台東映」「仙台メルローズ」が入り、新たなスタート
* 2001年(H13)以降、市内に開業したシネマコンプレックスの影響で次第に業績が低下
* 2005年(H17)4月15日、閉館し、「公共会館」時代から数えて57年の歴史に幕を下ろした。跡地は料亭「寧々家」、居酒屋「いろはにほへと」となった
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「仙台映画大全集」P458/Wikipedia「仙台東映」〈2020年7月13日版)/「番丁詳伝」P218
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201-45、201-43 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮)、P50(S34年)
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NHK仙台放送局 |
テレビ放送開始 |
1956年(S31) |
* 1955年(S31)3月1日、NHK仙台中央放送局、テレビ試験放送を開始
* 1956年(S31)3月22日、NHK仙台中央放送局、テレビ放送を開始(総合テレビ / 仙台市電がテレビ開局記念花電車運行)
* 1956年(S31)8月6日、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1961年(S36)7月25日、仙台放送会館落成
* 1964年(S39)9月24日、カラーテレビ本放送開始
* 1970年(S45)1月~12月、大河ドラマ「樅ノ木は残った」放送(山本周五郎原作 主演:平幹二朗)
* 1971年(S46年)7月1日、 組織改正で、NHK仙台中央放送局を東北本部に改称
* 1980年(S55)7月25日、 組織改革で地方本部制度を廃止、NHK仙台放送局に改称
* 1987年(S62)1月~12月、大河ドラマ「独眼竜政宗」放送(主演:渡辺謙)
* 2018年(H30)2月4日、青葉区本町二丁目20番1号に新設された放送会館に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P581、P667/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31、P35、P45、P55、P71/NHKのHP
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「目で見る仙台の歴史」P195(NHKテレビ塔)/NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/同P180(街頭でテレビ放送公開)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S31年、街頭テレビ前に集まった黒山の人、NHKテレビ送信アンテナ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P238(S27,大一楽器店の街頭テレビに集まる人々)
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マナスル登頂成功 |
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1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月9日、日本人登山隊がヒマラヤのマナスル登頂(8125m)に成功(マナスル第3次登山隊)
・ 日本人が8000メートル峰の登頂に成功したのは初めてで、この年のニュースだった
・ 特に、槇有恒隊長が仙台出身、(旧制)仙台第二中学校卒業なので、宮城県内ではビッグな話題となった
・ 1956年(S31)7月15日、槇有恒氏を仙台市名誉市民に推挙
・ 1956年(S31)10月13日、文化功労章受章
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「重訂 宮城県郷土史年表」P581、P582/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
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75-01(七夕仕掛物のテーマとなった)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282の写真91(マナスル峰)/「目で見る仙台の歴史」P186(山を背景にマナスル登山隊記念撮影)/「市民の戦後史(仙台市)」P93(マナスル峰、山頂を仰ぐ登山隊員)
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丸光 |
旧館全焼 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月、丸光旧館全焼(増築中だった)
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Wikipedia「丸光」/わが心の仙台駅前史」年表
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勾当台公園 |
開園 |
1956年(S31) |
仙台空襲で焼失した、旧陸軍病院や宮城県図書館などの跡地に、戦災復興事業で造成
* 1956年(S31)、勾当台公園として開園 (Wikipedia「勾当台公園」)
* 1958年(S33)、東側1.5haを合同庁舎用地にあてる
* 1959年(S34)8月1日、「平和像」(翁朝盛彫刻)を建立
(県内各学校児童生徒・職員並びに県民有志等の協力)
* 1962年(S37)10月、東北放送が、噴水を寄贈
* 1963年(S38)10月25日、公園内に記念碑「宮城師範学校発祥之地」を宮城師範学校同窓会が建立
* 1968年(S43)4月13日、公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1977年(S52)6月21日、公園内に、林子平像建立、除幕式
* 1987年(S62)1月、「杜の清流」再現に着手
* 1986年(S61)、勾当台公園の南西端を削り、それまでクランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りを、ゆるいカーブで繋ぐ(ウィキペディア「東二番丁通り」2018年)
* 1987年(S62)5月9日、仙台ロータリクラブが雨宮敬子作「織姫像」寄贈
* 1989年(H1)4日、公園に、彫刻「季の杜に」建立
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Wikipedia「勾当台公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P593、P610、P639/「続・ 宮城県郷土史年表」P69、P219、P260
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「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P213(S43年5月、野外音楽堂で市民演説会)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37年、俯瞰、カラー)、P66(S38、カラー、俯瞰)、P94~95(S45、カラー、俯瞰)
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水道事業 |
深刻な水不足 |
1955年(S30)~1961年(S36) |
<水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
・累積給水人口30万人
<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸)
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仙台市天文台 |
西公園に開台 |
1955年(S30)/2008年(H20) |
* 1954年(S29)12月23日、桜ケ岡公園に建築完成(41cm反射望遠鏡、当時全国4番目の大きさ) / 国分町の板垣金造氏が望遠鏡製作費100万円を寄付
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に)
* 1956年(S31)11月18日、仙台市天文台として観覧業務を開始
* 1968年(S43)5月15日、東北初のプラネタリウム館(250席)が併設される / S42年東北大博覧会(会場:苦竹)で展示された東北初のプラネタリウムを終了後、主催者河北新報社が市に寄付、市が西公園に移設
<観測機器>
41cm反射望遠鏡、運転時計付赤道儀架台に10cm屈折望遠鏡、20cm天体写真儀、20cm反射移動用望遠鏡、人工衛星望遠鏡など
<業務>
・ 学校教育:プラネタリウム学習や天文台実習(市内中学3年生全員、希望する小・高校対象)、課外クラブ利用、教員対象講習、東北各県に講師派遣、資料提供
・ 社会教育:市民、修学旅行団体の有料観覧、夜間天体観察、夏期には町内会・子供会など対象にに移動天文教室
・ 研究観測:人工衛星観測所として国際登録、彗星位置、太陽観測、変光星観測など世界の天文台に速報
<年間利用数 1968年度(S43)>
・ 一般観覧(有料) 2万6161人(半数が団体利用)
・ 市内学校教育利用(無料) 1万3781人
* 1974年(S49)1月10日、新型プラネタリウムを導入
* 1975年(S50)8月、仙台市天文台愛子観測所開設
* 2001年(H13)12月9日、来場者300万人を達成
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了、閉館(H20年に、錦が丘の新天文台開館)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P195、P441~444/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P632、P640、P650/「仙台あのころこのころ八十八年」P252/「仙台年表」P232/「仙台市史 年表」P119、P125、P129、P130/Wikipedia「仙台市天文台」/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「仙台市天文台」HP
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「目で見る仙台の歴史」P185(西公園内の天文台、望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P78(外観、41センチ反射望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P208(プラネタリウム)/「新・目で見る仙台の歴史」P180(41センチ反射望遠鏡)/同P193(天文台内の星のジオラマ)
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藤崎(戦後期) |
西館増築し一部5階建に |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月15日、「西館」を増改築し一部5階建てに(第二次増築工事完成) / 仙台で初めてのエスカレーターを新設
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「藤崎170年のあゆみ」P256
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医療機関 |
光ヶ丘スペルマン病院 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)9月、開院(カトリック仙台司教直属の病院、財団法人愛世会経営 原町小田原) / 当初は、結核患者中心、その後は一般患者の診療も
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398
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宮城県青年会館 |
開館 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)12月23日、元寺小路に開館
* 1969年(S44)4月、銀杏町に移転
* 1977年(S52)9月1日、原町小田原の宮城県立農業試験場跡地に新築移転して開館
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「仙台市史 年表」P119、P126、P131
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無線中継所 |
完成 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月26日、仙台市国見峠に完成、東京・仙台間のマイクロウェーブ全通し、テレビ中継も可能になる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P579
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自衛隊 |
宮城県内(自衛隊) |
1954年(S29)~ |
<陸上自衛隊>
* 1954年(S29)、保安隊から「陸上自衛隊」への改編にあわせ、第六管区(東北6県と新潟県を管轄)を新設(総監部は暫定的に福島) / S31年に、青森と岩手は管轄外に
* 1954年(S29)12月5日、陸上自衛隊多賀城駐屯地創設
* 1955年(S30)3月19日、第六管区総監部駐屯各部隊の主力が福島から多賀城駐屯地に移動(宮城県内は、多賀城に総監部、普通科連隊、武器・通信・補給部隊、船岡に補給整備支援群部隊、大和に特車と偵察部隊を配置)
* 1955年11月1日、米軍松島キャンプ跡に自衛隊第二操縦学校を開設
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
* 1958年(S33)3月25日、原町苦竹(旧苦竹米軍キャンプ)に陸上自衛隊南仙台駐屯地を設置
* 1958年(S33)6月、原町苦竹に北仙台駐屯地設置
* 1960年(S35)1月13日、仙台駐屯地に東北方面総監部が発足(全国を5つの方面管区制に移行、東北地方は東北方面隊が統括)
* 1960年(S35)、仙台南と仙台北駐屯地を統合し、「仙台駐屯地」に
* 1962年(S37)、第六管区隊を第六師団、第九混成隊を第九師団と改称)、第六管区隊の総監部は、山形県東根市の神町(じんまち)に移され、多賀城には第22普通科連隊が残る
****************************
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P452の表207に「東北方面隊の部隊配置表」(S35年頃?) → 宮城県内には、第6師団が多賀城(第22普通科連隊・第1教育大隊ほか)と大和(第6戦車大隊ほか)/ 霞の目に東北方面航空隊ほか、船岡に第2施設団ほか、岩沼に航空学校岩沼分校ほか
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
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「市民の戦後史(仙台市)」P123(自衛隊東北総監部設置関連映像)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P331(S32年、苦竹キャンプ跡地に自衛隊の看板をかける)
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電話 |
仙台の市内局番 |
1954年(S29)/1963年(S38) |
* 1954年(S29)4月29日、仙台市内の電話番号に「局番」がつく (「2」と「3」局誕生) / 東北初
* 1960年(S35)、局番「5」新設
* 1961年(S36)、局番「6」新設(榴ヶ岡に東分局開局)
* 1962年(S37)8月、仙台の市外局番が「0222」となる / 仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1963年(S38)1月20日、仙台市内の電話局番が「2桁」になる(22・32・42・52・65局などに)
* 1963年(S38)、長町分局開局、局番「48」新設
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局、局番「34」新設
* 1963年(S38)11月~1968年(S43)1月、局番9つ新設(設置順に、57,29,21,58,33,86,88,24,27)
************************************
* 1986年(S61)7月1日、仙台地区の電話「市外局番022」となる / 同日、仙台・岩沼・大河原・古川地区の市外電話局番3桁実施
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P575~578/「仙台年表」P230/「重訂 宮城県郷土史年表」P607/「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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アーケード |
一番町四丁目買物公園 |
1954年(S29)ほか |
「四丁目買物公園」は、一番町商店街のうち、一番北の「定禅寺通り角から広瀬通り角まで」
<第1代以前>
* 1953年(S28)?、「ズック布張り」のアーケードが、三越南~森徳横丁角の東一番丁東側のみに完成(「番丁詳伝」P178)
<第1代>
* 1954年(S29)7月、第1代アーケード完成(定禅寺通角~広瀬通り角)
* 同年12月11日、定禅寺通角~南町通り角までを含めた東一番丁通り全体に統一デザインの第1代アーケードが完成(東北初の商店街アーケードだった) 奥行4.5m、屋根は一部可動式、銀色の柱、ジュラルミン製、天井に二列の蛍光灯(第1代の特徴は、天井の蛍光灯が道路に対し直角)
* 翌12月12日、完成祝賀仮装行列挙行
<第2代>
* 1970年(S45)12月2日、北振会(森徳横丁角以北)アーケード改築完成(高さ5.5m、照明に水銀灯を使いさらに明るくなる)(「番丁詳伝」P179では、定禅寺通~虎屋横丁間に完成)
* 1971年(S46)、中央会(森徳横丁角~広瀬通り角)のアーケード改築完成(「番丁詳伝」P179では、虎屋横丁間~広瀬通り間に完成)
<第3代>
* 1982年(S57)10月2日、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(高さ7mの透明なアーケード、茶系統を基調にした路面、12種約70本の街路樹、広瀬通角には噴水付き時計塔で世界の姉妹都市5都市の民族衣装人形つき)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「番丁詳伝」P178~179、P201、P203~205 /「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10
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<ズック布張り>
「市民の戦後史(仙台市)」P73の左側(S28年頃)
<第1代>は、99-014、22-61
/ 第1代完成祝賀仮装行列は、51-01、51-02/「新・目で見る仙台の歴史」P178(蛍光灯が点灯したアーケード街)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、空撮)
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アーケード |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」 |
1954年(S29)ほか |
「一番町一番街」は、一番町商店街のうち、「広瀬通り角~中央通り(旧・大町通り)角まで」
・ 大正時代、「大内ビルアーケード街」があった(大町角の大内屋、西内楽器店、玉沢総本店、家庭金物の岡元、銘仙専門店の大丸などが長さ15mほどが広い庇でつながる)(「番丁詳伝」P169)
<第1代>
* 1954年(S29)1月14日、大町通り~広瀬通り間、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229=出典:毎日新聞)
* 1954年(S29)1月、大町通り~広瀬通り間、アーケード新設(長さ26間完成)(「重訂 宮城県郷土史年表」P571)
<第2代>
* 1972年(S47)、一番街アーケード改築(高さ5.2m)
<第3代>
* 1979年(S54)9月1日、「一番街買物公園」完成 街路樹・ストリートファニチャーを設置、歩行者専用道路 / 時計塔2基(モチーフは支倉常長のローマ法王謁見、文字盤盤に世界古地図)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
<第4代>
* 1993年(H5)7月、一番街アーケード完成 (高さ18mの全天候型高層アーケード「ぶらんどーむ一番町」 がオープン)
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「番丁詳伝」P169、P200、P203~205/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P127、P128
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<第1代>は、22-58、18-09、22-01/ 「仙台一番町一番街商店街ぶらんど~むのHP」に、第1代、第2代のアーケードの写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P80(第1代アーケード)
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アーケード |
一番町・サンモール一番町商店街 |
1954年(S29)ほか |
「サンモール一番町」は、一番町商店街のうち、「中央通り(旧・大町通り)角~南町通り角まで」(戦前からの通称は、「大通り」)
<第1代>
* 1954年(S29)12月2日、第1代アーケード完成(これで、東一番丁3商店街すべてに、統一スタイルのアーケード完成)
<第2代>
* 1975年(S50)11月20日、大通りアーケード改築完成(高さ日本一)
* 1977年(S52)に大通りアーケード改築
<第3代>
* 1986年(S61)11月29日、開閉自由の全蓋アーケード完成(高さ13.7m、軒高8mで2階部分をショーウィンドウ化できる)、2つのカラクリ人形時計(テーマは遣欧使節/七夕物語) / 中央通りとの角には四辻ドーム(高さ20m)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P575/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P214/「番丁詳伝」P201、P203~205
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<第1代>は、58-01、53-11
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警察(戦後) |
宮城県警察 |
1954年(S29)7月~ |
* 1954年(S29)7月1日、新警察法施行に伴い、国家地方警察宮城県本部と、仙台市警察などの自治体警察が統合し宮城県警察が発足
(2020年現在、宮城県警察本部庁舎は、宮城県庁舎に隣接)
* 1973年(S48)5月11日、県警にヘリコプター「あおば」配備
* 1975年(S50)2月7日、ヤングテレホン設置
* 1985年(S60)5月21日、県警、少年相談電話スタート
* 1986年(S61)4月11日、県警、仙台市内の交差点にセンター・ブロック埋設
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「仙台市史」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P37、P191、P204
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シネマスコープ |
仙台初公開 |
1954年(S29) |
* 1953年(S28)、シネマスコープは日本では東京の有楽座が初公開
* 1954年(S29)、仙台では「文化劇場」(東一番丁大通り)が「聖衣」を上映したのが始まり
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「仙台映画大全集」 昭和26年~30年の項
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18-08
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木町通小学校 |
コンクリート校舎建設 |
1954年(S29) |
北四番丁通りに面する
* 1954年(S29)9月、 木町通り小学校に、仙台市内の小学校では初めて鉄筋コンクリート校舎が完成
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「新・目で見る仙台の歴史」P181
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22-16、53-60/「目で見る仙台の歴史」P181/「市民の戦後史(仙台市)」P79(鉄筋校舎落成運動会)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(市内初の鉄筋コンクリート校舎)
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野草園 |
開園 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)7月21日、開園(面積3.4ha) / 仙台市営 / 大年寺山の一隅19,620坪を20ブロックに分かち、東北地方などに自生している600数種に及ぶ野草を各適地に植栽
* 1976年(S51)9月、野草園で、大賀ハス開花
* 1983年(S58)4月29日、野草園で「杜と彫刻の風の音」除幕
* 1989年(H1)7月21日、佐藤よしの依頼で彫刻家鈴木政夫制作による花地蔵安置
* 1989年(H1)9月14日、萩にちなんだ石の彫刻「萩の守」を除幕
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P368/絵葉書99-127の説明文/「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P261、P262
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99-127/「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P78/「新・目で見る仙台の歴史」P192/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(S38、カラー)
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愛宕堰 |
完成 |
1954年(S29) |
広瀬川の河川改修にともない完成 / 愛宕堰は広瀬川から、七郷堀(農業用などの幹線水路)への取水口
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「仙台市史 年表」P119
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広瀬通り |
東一番丁付近の拡幅が完成 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)4月、広瀬通り、定禅寺通りとも、東一番丁付近の拡幅が完成
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「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、広瀬通・東一番丁角、空撮)
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警察学校 |
宮城県警察学校 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)、宮城県警察学校着工きまる(木造2階建て)、/ 場所は台原(荒巻杉添)の米軍射撃場跡地で、県警察学校は川内から台原(ダイノハラ)に移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P788、P795
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医療機関 |
東北労災病院 |
1954年(S29) |
財団法人労災協会東北労災病院として、台原で発足
・ 労働災害による負傷に対する診療
・ 特に、脊髄損傷に対する診療と機能回復の指導で有数
* 1953年(S28)12月15日、「東北労災病院」落成式
* 1954年(S29)1月25日、開院、診療開始
* 1957年(S32)7月、労働福祉事業団の経営となる
* 1965年(S40)7月、労働者災害補償保険リハビリテーション施設として50床設置、作業療法棟、回復棟完成
* 1983年(S58)2月、新病棟落成式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P733~734/「重訂 宮城県郷土史年表」P569/東北労災病院HP/Wikipedia「東北労災病院」/「続・ 宮城県郷土史年表」P158
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市町村合併 |
昭和の大合併 |
1954年(S29)
~1955年(S30)に合併した県内新自治体名 |
通称「昭和の大合併」は、昭和28年の町村合併促進法=町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準=、及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法による市町村合併で、1953年(S28)~1961年(S36)に実施された。1954年(S29)4月以降、宮城県内でも町村合併が相次いだ。以下は、昭和30年までに合併が行われ誕生した新市町村名(31年以降は略)
<1954年(S29)>
4月には、白石市(新市誕生)、岩出山町、鳴子町、小牛田町 / 7月には、大郷村、宮崎町 / 8月には、中新田町、築館町 / 11月に、津山町 / 12月に丸森町、若柳町
<1955年(S30)>
昭和30年1月~12月に、金成町、亘理町、山元町、宮城村、志津川町、三本木町、河北町、河南町、桃生町、牡鹿町、北上村、本吉町、松山町、蔵王町、岩沼町、名取町、栗駒町、一迫町、迫町、泉村、村田町、川崎町、大和町、鳴瀬町、矢本町、涌谷町
******(S31年以下、略)******
<参考>明治以降、昭和末年までの宮城県内市町村合併の全貌は、「第4 市町村変遷等の状況」http://www.mygsk.or.jp/sityouson/pdf/siryou/04_shichosonhensenjoukyou.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5%E4%B8%80%E8%A6%A7+%E6%98%AD%E5%92%8C%27
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「重訂 宮城県郷土史年表」P572~579
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戦没者遺骨調査・収集 |
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1953年(S28)~ |
* 1953年(S28)2月、南海調査団派遣
* 1953年(S28)7月、アッツ島玉砕地の遺骨収集
* 1955年(S30)、大成丸のガダルカナル遺骨収集
* 1956年(S31)2月、ビルマの遺骨収集
* 1956年(S31)6月、ニューギニア方面の遺骨収集
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P272、P279、P282
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日米野球 |
来仙チーム |
1953年(S28)?~1956年(S31) |
* 1953年(S28)?、ニューヨーク・ジャイアンツ来仙試合
* 1955年(S30)、ニューヨーク・ヤンキース
* 1956年(S31)、ブルックリン・ドジャース
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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国道45号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道45号は、仙台市から太平洋沿岸を経て青森市に至る一般国道
<111号 →45号>
* 1953年(S28)5月、仙台・八戸線が二級国道111号に
* 1962年(S37)5月、二級国道の111号(八戸・仙台間)を含む仙台・青森間が国道45号に
* 1963年(S38)4月、二級国道45号線を一級国道に格上げ
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「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P644
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国道48号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道48号は、仙台市青葉区から山形市に至る一般国道
<110号 →48号>
* 1953年(S28)5月、仙台・山形線(旧関山街道)が 二級国道110号に
* 1962年(S37)5月、仙台・山形間が、二級国道110号 →国道48号に
* 1963年(S38)6月4日、国道48号線(仙台~山形)を一級国道に指定
* 1968年(S43)11月21日、国道48号線の新関山トンネル完成(仙台~山形間が車で1時間半となる)
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「仙台市史 年表」P118、P122、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P644
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冷害・凶作 |
昭和戦後期 |
1953年(S28)/1954年(S29)/1976年(S51)/1980年(S55) |
* 1953年(S28)10月29日、仙台市が冷害凶作を受けて冷害臨時対策本部を設置
* 1953年(S28)、この年、東北・北海道は冷害、前年比19%減で、昭和9年以来の凶作(菅家年表)
* 1954年(S29)7月17日、県農地課発表、県下高冷開拓地の陸稲大豆夏作物で収穫皆無が690町歩(総面積の4分の1)、特に蔵王山麓、栗駒山麓
* 1976年(S51)、東北、北海道は冷害
* 1980年(S55)、東北地方は冷害
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「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P47、P70、P74
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ビル建設 |
仙台ビルヂング |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)、仙台初の高層建築物となる地上6階建ての「仙台ビルヂング」が東一番丁と南町通りの交差点角に完成
(仙台の本格的貸ビル第1号)
<編者注> S28年12月完成し協和銀行が入居
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「仙台市史 年表」P118/「市民の戦後史(仙台市)」P75/ 「番丁詳伝」P210
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36-08/「市民の戦後史(仙台市)」P75 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P181
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