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出典/参考資料 |
関連映像 |
防空演習(防空訓練) |
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1940年(S15) |
* 1940年(S15) 東部特別防空訓練
第1次開始6月7日、第2次開始9月2日(20日か?)、第3次実施10月1日(5日間)
* 1940年(S15)11月、仙台市は公会の設置に伴い、家庭防空業務規程制定(翌16年5月から町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39/「仙台市史10 年表」P298~P299
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防空演習(防空訓練) |
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1941年(S16) |
* 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
* 1941年(S16)
8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施
(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦)
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「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111
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防空演習(防空訓練) |
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1942年(S17) |
* 1942年(S17)
4月18日、本土初空襲
(米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
6月、防空指導員に対する防空講習会3回
8月1日、特別防空訓練 6日間
9月28日、総合防空訓練 3日間
12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施
・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151)
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「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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防空演習(防空訓練) |
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1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月、防空警報伝達当直規程を設け、警報を受けたときに市内各変電所とも連絡して一斉にサイレンを鳴らす
* 1943年(S18)
3月15日、仙台市特別防空訓練 6日間
7月10日、仙台市第1期防空訓練 3日間
8月25日、仙台市臨時特別防空訓練(東久邇宮稔彦王殿下が防空状況視察)
10月11日、仙台市第2期防空訓練開始
12月14日、仙台市防空講習所開設
戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P40/「仙台市史10 年表」P305~P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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防空演習(防空訓練) |
甘かった認識 |
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『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より「甘かった認識」
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。
<防火貯水槽>「戦争のころ 仙台、宮城」P154)
・ 仙台市では310カ所 江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路わきや神社仏閣の境内に、隣組総出で数多くの貯水槽を設置した。南町には17カ所、土橋通りには10か所。空襲時に消火活動に役立ったという話はあまり聞かず、熱風の中を逃げ回る人たちが顔や体を防火用水に浸け、かぶっていた布団や毛布を水で浸して難を避けた。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P154
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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ポケットベル |
仙台 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)2月、仙台市にポケットベルの東北通信サービス会社設立
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「続・ 宮城県郷土史年表」P17
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歩行者天国(東一番丁) |
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1970年(S45)/1972年(S47)/1977年(S52)/1979年(S54) |
* 1970年(S45)10月10日から、東一番丁通り、土・日・祝日の歩行者天国始まる
* 1972年(S47)、歩行者天国を全面実施
* 1977年(S52)12月3日~25日、全面歩行者天国(午後0時~6時)
* 1979年(S54)、東一番丁通りが歩行者専用道路となる
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「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9/「仙台市史 年表」P127、P128、P131/「仙台あのころこのころ八十八年」P256
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22-58
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ホテル |
仙台市内でオープン |
1973年(S48)~1975年(S50) |
仙台ホテルは、項目「仙台ホテル」参照
* 1960年(S35)8月、グランドホテル仙台が、同年竣工の東北電力ビルの7~9階にオープン
* 1973年(S48)8月4日、ニューシティーホテルがオープン(国分町2丁目)
* 1973年(S48)10月1日、東京第一ホテル仙台、完成
* 1973年(S48)12月7日、ホテルオーツカがオープン(鉄砲町)
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* 1973年(S48)12月19日、仙台チサンホテルがオープン(仙台駅前)
* 1974年(S49)2月20日、ビジネスホテルのニューホッタがオープン
* 1974年(S49)9月20日、仙台ワシントンホテルがオープン(青葉通り)
* 1975年(S50)3月16日、仙台プラザ・ホテル、オープン(本町2丁目)
* 1975年(S50)4月20日、ホテルリッチ、オープン(国分町2丁目
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45/「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P23、P25、P27、P32、P38、P39、
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(グランドホテル仙台)
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ホテル |
仙台市内でオープン |
1976年(S51)~1989年(H1) |
1976年(S51)~1972年(S52)は、特に記事無し
* 1978年(S53)2月1日、ホテル・オペラ、オープン
* 1978年(S53)7月1日、ホテル国分町ビル、オープン
* 1978年(S53)10月28日、ホテル西公園、オープン
* 1979年(S54)5月31日、仙台パシフィックホテル完成
* 1980年(S55)10月23日、東急ホテル完成(一番町3丁目)
* 1981年(S56)8月1日、三井アーバンホテル、オープン(本町2丁目)
* 1982年(S57)4月10日、仙台第2ワシントンホテル、オープン
* 1985年(S60)3月8日、ホテルユニバース仙台店、オープン(一番町)
* 1986年(S61)7月1日、仙台ニューパシフィックホテル開業(中央1丁目)
* 1986年(S61)8月1日、ホテル・アルティア開業(中央2丁目)
* 1986年(S61)10月6日、仙台ターミナルホテル起工式(S63年7月、オープン)
* 1987年(S62)4月21日、ホテルウインブルドン、オープン(仙台市岡田)
* 1988年(S63)7月11日、仙台駅西口に仙台ターミナルホテル開業(20階建、地下2階 高さ86m)、1990年(H2)7月1日にホテルメトロポリタン仙台に改称
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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「続・ 宮城県郷土史年表」P77、P83、P87、P96、P118、P189、P207、P212、P222/「わが心の仙台駅前史」掲載年表
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P122(H2、カラー)
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歩兵第4連隊 |
設置 |
1875年(M8)~1945年(S20) |
歩兵第4連隊は、明治初期から昭和20年敗戦まで、仙台榴ヶ岡に兵営をおいた歩兵部隊(当初は仙台鎮台、明治21年からは第二師団隷下)/ 毎年9月の軍旗祭では市民も兵営内に入ることができるなど、長い間地元に根付いた市民には馴染みの連隊だった
* 1974年(M7)9月11日、榴ケ岡の洋風兵舎竣工し、仙台城の第2大隊の兵移る
* 1875年(M8)5月27日、仙台鎮台に歩兵第4連隊を設置
* 1875年(M8)9月9日、宮中に於いて軍旗親授
明治・大正・昭和敗戦まで、海外出兵や国内出動多数
(→項目「第二師団(出兵記録)」参照)
* 1945年(S20)8月31日、軍旗奉焼
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「仙台市史 年表」P80、P81/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)『仙台部隊関連年表』
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98-085、99-150、98-087、06-23、16-58/「いつか見た街・人・暮らし」P3(第4連隊への入営スナップ、大正13年)/同P16(軍旗祭、大正13年9月9日)/同P19(第4連隊除隊の朝、大正13年)/同P47の写真167(第4連隊兵営空撮、戦前期)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P27(第4連隊除隊の朝、大正13年)
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歩兵第104連隊 |
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1937年(S12)~1945年(S20) |
・ 1937年(S12)、日中戦争開始後に仙台で急きょ編制された陸軍第十三師団隷下にあり、宮城県人を中心に編制された歩兵連隊
・ 当時、仙台の第二師団は、1937年(S12)4月から満州守備(駐箚)のため不在、仙台に一部残っていた第二師団留守部隊に加え新たに召集された兵士を合わせ十三師団(歩兵第104連隊)が編制され、中国戦線へ送られた
* 1937年(S12)9月9日、動員下令
* 1937年(S12)9月16日、軍旗拝受
* 1937年(S12)9月19日、編制完結
* 1937年(S12)9月24日、仙台から「出征」 上海から徐州、南京、武漢、漢口北部など中国各地を転戦し昭和20年敗戦まで帰還せず
* 1945年(S20)8月23日、衡陽郊外の三板橋にて軍旗奉焼
→ 項目「第十三連隊」参照
【「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P96】
「(日中戦争勃発で)仙台市内の兵舎は、動員令と出征準備で忙殺され、次々と動員された応召兵士は仙台に集まり、民家に分宿を割り当てられ、多きは一軒に十人にも及んだ。区長や町の世話役は食料をくばり、兵士は軍服を渡され、現役兵が出征すると、ただちに連隊に移り、この応召兵が出征すると、次の民宿応召兵士が入隊する有様であった。」
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)「仙台部隊関連年表」
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28-01(応召後、仙台の民家に分宿した将兵と民家家族たち)
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本土決戦体制 |
(1)二本柱 |
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1945年(S20)、
・太平洋戦争末期、米軍の日本本土上陸を想定し、国民を本土決戦に総動員するため
(1)本土防衛のため「部隊」を編成~兵士を大量召集し全国に配置~
(2)郷土防衛のため民間人による「国民義勇隊」を組織
( → 項目「国民義勇隊」参照)
(1)本土防衛部隊
* 1945年(S20)4月、本土防衛の総司令部が設置され「本土上陸を図る敵の4分の1は特攻によって海上で、残りは陸上で撃滅する」基本方針決まる / 全国で250万人の兵士、徴用工を召集し、兵役年齢を45歳に引き上げた(「根こそぎ動員」) / ただし、武器、装備などは不足で全員に行き渡らず
(2)国民義勇隊
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業以上(12歳)で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193、198~199
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本土決戦体制 |
(2)陸軍(七十二師団、百四十二師団 ほか) |
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<陸軍>
・ 全国を5ブロックに編成(東北、関東甲信越、中部北陸、中国四国、九州) / 東北担当は、第十一方面軍
・ 第十一方面軍
司令部は、仙台市青葉山に地下防空壕、7月までに兵力整備、10月以降は速やかに行動できるよう計画したが、途中で敗戦(8月) / 地下壕の場所は特定できず(2015年に、東北大学付属植物園がけ下(傾斜地)に本格的な地下壕発見、幅1.8mの3本のトンネルや30坪ほどの広い部屋、排水溝もあり)
仙台市川内には、第二師団(仙台師団と改称)の各部隊、防空担当の東北軍管区司令部、など三つの管理、監督機関を設置
・ 第十一方面軍の指揮下に、
☆ 第七二師団(通称:伝部隊 / 福島、宮城両県) 宮城県内では、岩沼・名取・亘理・山元などの学校や公共施設、民家に兵隊が宿泊して作業 / 名取郡では、山間部にトンネルやタコツボ(個人用の小さな塹壕)の陣地構築や道路建設 / 亘理吉田海岸では、杉の丸太を伐採して海岸線に上陸阻止のくいを立てる / 逢隈国民学校では、常磐線の鉄道を守るため高射機関砲の射撃訓練 / 大河原町には野戦病院を設置
☆ 第一四二師団(通称:護仙部隊 / 仙台中心) 司令部は仙台の旧制二高校舎におく / 宮城、福島、山形三県出身者で構成 / 石巻海岸を中心に志津川町から七ヶ浜まで要所要所に壕を掘り機関銃を据え、主要道路には戦車爆破用のタコツボを多くつくる / 訓練内容は、敵戦車に向かって爆弾や地雷を抱いて突っ込む、敵戦車に速射砲発射訓練、小牛田では鉄道空襲に対する防空訓練 / 鹿島台には野戦病院 / 仙台市内の学校、寺には小規模部隊が駐屯し、八木山に壕を掘る、町内の婦人に消防訓練、戦車への体当たり自爆訓練、白兵戦用の短剣術などを教えた
☆ 第一五七師団(八戸)に配置
・ 第十一方面軍の指揮下にはさらにS20年6月に、第二二二師団、第三二二師団、独立混成一一三旅団、独立混成十二連隊を編制
・ 第一四二師団(護仙部隊)入隊者の体験談(武器・装備不足、作業や訓練内容、乏しい食事や寝具)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P195,196)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193~197
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本土決戦体制 |
(3)海軍/航空部隊 |
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<海軍の特攻作戦>
・ 牡鹿半島中心に、特攻艇「震洋」、小型潜航艇「海竜」人間魚雷「回天」91隻配備を計画 / ただし、敗戦までに配備されたのは11隻
<航空部隊の対応>
宮城県内の陸海軍航空基地は3か所 / 基本方針は、敵が上陸してきたら全機が特攻となって敵輸送船団に突っ込む / このため(戦力温存のため)、米軍機が来襲(空襲)しても日本軍機は迎撃しなかった
(1) 増田飛行場(現・仙台空港) 戦闘機の「隼(はやぶさ)」「鐘馗(しょうき)」「疾風(はやて)」や偵察機、重爆撃機が多数配備されたが、1945年(S20)6月には1機も姿が見られなくなった(最初は、名取郡愛島国民学校の桜並木の下に「隼」「鐘馗」など3~4機に偽装網をかぶせ分散駐機するなど飛行場近くに疎開 / のちに全機が白石町の森林内に疎開(解体して運搬し現地で組み立てる) / その作業のため約1300人の部隊が、近くの複数の国民学校に分宿
(2) 霞目飛行場の軍用機も、白石町の森林に疎開
(3) 海軍松島航空隊は、米軍B29の出撃地点(マリアナ諸島サイパン島)をほかの陸海軍部隊と共同で空襲計画(剣作戦、烈作戦)に参加予定 / このため戦闘機、爆撃機群が温存されていたが、実施前に敗戦 / 米軍艦載機などからの執拗な攻撃うけるが、敗戦時には、一式陸上攻撃機39機、陸上爆撃機「銀河」36機、艦上爆撃機「彗星」6機など百機以上の航空機が残っていた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P195、P197~198
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本土決戦体制 |
(4)学校は、軍や軍需産業が使用 |
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<学校は、軍や軍需産業が使用>
* 1945年(S20)4月、中学校以上の学校は授業停止、学生生徒は軍需工場などに通年動員となり、学校は陸海軍の施設として使用
・ 第二高等学校=第一四二師団司令部(護仙部隊) / 東北学院高等部=被服廠、海軍人事部 / 同学院中学部=出征部隊編成所、鉄道輸送部隊 / 同学院礼拝堂=特設非常電話局 / 尚絅女学校専攻科=陸軍糧秣廠 / 宮城学院家政科教室=仙台連隊区司令部 / 同各院専攻科教室=日本電気学校工場 / 仙台一中=臨時兵舎 / 仙台二中=陸軍造兵廠工場 / 仙台高等工業学校=仙台陸軍燃料部 / 宮城県女子専門学校=軍需品廠
・ 学校以外では、仙台市役所(現青葉区役所)=東北地方海軍部、仙台地方海軍人事部 / 三越百貨店=防衛通信東北施設部、通信機械資材庫 / 斎藤報恩館=東北方面軍需部 / 日本キリスト教会=海軍経理部
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P197
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政宗卿騎馬像 |
建立 |
1935年(S10) |
「藩祖政宗公三百年祭」(S10年、没後300年)に先立ち、宮城県青年団員たちが資金を集め青葉山の天守台に建立した (完成した像は東京から仙台までトラクターで運搬)
* 1935年(S10)5月14日、青年団員たちがトラクターに乗せた騎馬像とともに仙台市内を行進し、青葉山天守台まで運んだ
* 同年5月23日、除幕式(三百年祭の行事としてに盛大に行われた) (「仙台城)」P234)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史 年表」P108/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
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青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83 / 像は99-116、53-87、「目で見る仙台の歴史」P159
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政宗卿騎馬像 |
戦時供出 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、政宗卿騎馬像、戦時中の金属回収で供出(出陣式挙行)
* 1944年(S19)1月22日、政宗銅像、戦時金属回収のため供出、藩祖出陣と称し壮行式行わる(「仙台城P234)
「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500に、「昭和19年1月22日、青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及護国神社共同主催のもとに県下青少年団代表参集して盛大なる銅像出陣式を挙行す。この折詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」
<戦後に発見>
* 1946年(S21)9月9日、仙台郷土研究会員石川謙吾、塩釜市金属集積所より政宗銅像上半身を自費にて払い下げ、青葉神社に奉納す(「仙台城」P235)
戦後、1946年(S21)10月8日、郷土史家石川謙吾が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で、騎馬像の上半身だけが捨てられていたのを偶然の機会に発見、一部を改修し青葉神社に奉納
* 1961年(S36)、仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公像の頭部のみが敷地内に展示されている
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499、500/「仙台市史 年表」P113/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
戦後発見は、「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史続編第2巻経済文化編」 末尾付表(年表)P823/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P184
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政宗卿騎馬像 |
戦後の復元 |
1964年(S39) |
* 1953年(S38)5月31日、仙台市観光協会が、政宗公騎馬像の復元を決める
* 1964年(S39)10月9日、復元騎馬像除幕式
・ 仙台観光協会が1700万円をもって政宗公の旧銅像を鋳型(元の原型)により再鋳造し、旧位置(青葉城本丸)に再建して除幕式を挙行
・ 市役所内に再建委員会が設けられ、島野市長が委員長となって広く募金 / 原型は、製作者小室翠雲の郷里柴田町船岡に保存されていた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P616/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185の写真51と、「市民の戦後史(仙台市)」P158に「復元なった騎馬像」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P85(S39)
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政宗卿平服像 |
建立 |
1953年(S28) |
* 1952年(S27)、小野田セメントから寄贈の申し出(柳原義達制作)
* 1953年(S28)10月9日、白色コンクリート造伊達政宗立像、小野田セメント会社より仙台市に寄贈、本丸に除幕式を行う。作者柳原義達、像高4.5m(「仙台城」P235)
* 1953年(S28)10月9日、仙台市青年会が、青葉城跡に伊達政宗卿の像(白色セメント製、平服姿)を旧騎馬像台座の上に再建し、翌日に除幕式
(作者は柳原義達、高さ4m65cm、平服のため「平和像」とも呼ばれる)
* 1964年(S39)8月、政宗コンクリート像、本丸跡より岩出山城跡に移さる(「仙台城」P237)
* 1964年(S39)9月8日、平服像が岩出山町城址へ移転
同年10月に政宗卿騎馬像(銅像)が天守台に再建されることになり、平服像は岩出山城址(宮城県岩出山町、2019年現在大崎市)へ移された / 岩出山城は、仙台城築城まで12年間伊達政宗の居城だった
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235、P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P568、P615/「仙台市史 年表」P118、P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185
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99-118/「目で見る仙台の歴史」P190
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松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
オープンとその後の経緯 |
1885年(M18)~1975年(S50) |
松島座(パテー館、仙台日活館)は、東一番丁の立町通り角のすぐ南にあった映画館(戦後は立町通りが拡幅されて広瀬通り角になった)
<明治・大正・昭和前期>
* 1885年(M18)2月、東一番丁28に、松島座開座(芝居小屋)
* 1892年(M25)、洋風に改装
* 1912年(M45)3月13日、仙台パテー館(映画常設館)となる
エムパテー会社取締役の内山梅吉が入手し、電飾輝く洋館仕上げに大改造し、M45年3月、仙台パテー館と改称し映画常設館となる
* 1919年(T8)7月、再び松島座と改称し、歌舞伎でオープン
* 1924年(T13)12月、失火焼失し1年間休座
* 1925年(T14)12月、再建し日活パテー館と改称
<編者注>[写真20-44][写真99-018]では、松島座名ののぼり旗で、T14年6月設立の「マキノプロダクション映画」上映や、『修羅八荒』(T15)上映が確認できるので、T14年12月再建後もしばらくは「松島館」だったことが確認できる
* 1932年(S7)12月、仙台日活館に改称、一部改装して初の椅子席に(「番丁詳伝」P214によれば、仙台初の椅子席映画館)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し閉館
<戦後復活し、仙台日活劇場に>
~場所は、広瀬通り・東一番丁通り交差点の南東角~
* 1946年(S21)12月、仙台日活劇場として、東一番丁26に再オープン(「仙台映画大全集」)
* 1947年(S22)1月、日活映画劇場、東一番丁27に開設(530席)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1975年(S50)5月、閉館 / 跡地にジャスコ開店(1984年(S59)2月に、
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「目で見る仙台の歴史」P146/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史 / <参考>「東一番丁物語」(柴田量平著)P90~106、P235/「重訂 宮城県郷土史年表」P516/「番丁詳伝」P214
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仙台パテー館は、99-015、20-43、20-40/同スケッチ画は98-005/ 松島座は99-016、20-44
/ 戦後は、16-43、18-12、22-01
/「新・目で見る仙台の歴史」P146(パテー館のビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P228(仙台日活週報、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40の右角(S33年、俯瞰、仙台東映と向き合う)
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松島パークホテル |
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* 1913年(T2)8月15日、開業
・ 松島への外国人観光客誘致のために、東北地方初のリゾートホテルとして宮城県が建設 / 宮城県から借り受けた精養軒(東京)が運営した
・ 松島パークホテルは、景勝松島に建設した木造洋館風の建物で、県の迎賓館ともいえるものです / 占領軍撤退後の昭和44年3月、火災で全焼しています(「戦争のころ 仙台、宮城」P240)
* 1945年(S20)9月、宮城県に進駐した米軍が接収 / ドン准将ら幹部の宿舎となった。(「宮城県史 警察兵事」P249)
* 1969年(S44)、火災で2階を焼失後に撤去された
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「宮城県史 警察兵事」P249/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240
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35-01
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松永正敏中将 |
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第5代第二師団長
* 任期は1906年(M39)7月6日~1912年(M45)2月18日
* 1912年(M45)1月16日、死去
第二師団が朝鮮派遣(駐剳)中に京城(現・ソウル)で死去
* 1912年(M45)、葬儀(仙台・追廻練兵場で)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P351
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99-077/ 葬儀は、99-011-2、99-103
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松原街道 |
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・ 古代の官道「東山道」とされ、藩制時代に仙台市中心部と塩釜神社を結んだ塩釜街道の一部
・ 数百本の松並木があったことが名称の由来
・ 松並木は太平洋戦争末期に伐採され、燃料用に供出された
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河北新報記事(2017年01月11日)「古代の官道 松原街道」
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34-04/「仙台市史 特別編4 市民生活」P523(戦前の塩釜街道・案内付近)
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マナスル登頂成功 |
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1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月9日、日本人登山隊がヒマラヤのマナスル登頂(8125m)に成功(マナスル第3次登山隊)
・ 日本人が8000メートル峰の登頂に成功したのは初めてで、この年のニュースだった
・ 特に、槇有恒隊長が仙台出身、(旧制)仙台第二中学校卒業なので、宮城県内ではビッグな話題となった
・ 1956年(S31)7月15日、槇有恒氏を仙台市名誉市民に推挙
・ 1956年(S31)10月13日、文化功労章受章
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「重訂 宮城県郷土史年表」P581、P582/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
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75-01(七夕仕掛物のテーマとなった)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282の写真91(マナスル峰)/「目で見る仙台の歴史」P186(山を背景にマナスル登山隊記念撮影)/「市民の戦後史(仙台市)」P93(マナスル峰、山頂を仰ぐ登山隊員)
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丸光 |
雑貨店開店 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月1日、 仙台駅前の空襲焼け跡(裏五番丁15)に丸光合資会社として雑貨店を開き、「MARUMITU DEPT.STORE」の文字を掲げて営業を開始 / 木造平屋で50坪
* 1948年(S23)6月1日、株式会社に改組
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 年表」P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P511
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丸光 |
平屋の店 |
1947年(S22)ころ |
* 戦後、昭和天皇仙台行幸時の写真(S22年8月5日)では、木造平屋
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27-01
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丸光 |
3階建完成 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)
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16-27、98-048、53-82
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丸光 |
青葉通りへ進出(本館) |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月、青葉通りに新館落成 / 百貨店として営業開始(地下1階、地上3階建て)
* 1956年(S28)12月11日、この日から丸光屋上よりミュージックサイレン(荒城の月)を市内に放送開始(34年間続く)
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P570/わが心の仙台駅前史」P40
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丸光 |
旧館全焼 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月、丸光旧館全焼(増築中だった)
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Wikipedia「丸光」/わが心の仙台駅前史」年表
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丸光 |
8階建て本館ビル落成 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)10月、青葉通りに面して、丸光本館(8階建て)が落成(増築工事完成) / 地上8階、地下2階、地上12階に相当する展望台、4000坪)
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 別冊 市民生活」P41
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P22(S32、建設中)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮)、P73(S39、カラー)、P74~75(S39、カラー)
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丸光 |
仙台最大の売り場面積に |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)、藤崎や三越仙台店を上回る仙台最大の売場面積となる
* 1972年(S47)11月2日、新装オープン
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Wikipedia「丸光」 / あれから50年「戦争と丸光」(今泉清)/「続・ 宮城県郷土史年表」P14
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丸光 |
ダックシティー丸光/ビブレ/さくら野百貨店/店舗閉鎖 |
1985年(S60)/1991年(H3)/2002年(H14)/2017年(H19) |
* 1975年(S50)、ニチイ傘下に (「続・ 宮城県郷土史年表」P72では、1977年(S52)9月、スーパー・ニチイと業務提携)
* 1982年(S57)9月30日、百貨店連合と丸光(仙台)・武田山田(青森)・小美屋(川崎市)合併
* 1985年(S60)、「ダックシティー丸光仙台店」に改称
* 1991年(H3)、「ダックシティ丸光」から「仙台ビブレ」に改称
* 2002年(H14)10月、「さくら野百貨店仙台店」に変更、その後、一時休業
* 2003年(H15)、再オープン
* 2017年(H19)、倒産、売り場閉鎖
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「続・ 宮城県郷土史年表」P72、P151/Wikipedia「丸光」
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ダックシティー丸光は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P118(S62、カラー)
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満年齢 |
使用開始 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)1月1日、「年齢のとなえ方に関する法律」施行(昭和24年5月24日法律第96号)、それまでの数え年から満年齢に変更するために制定された。(Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」)
* 1950年(S25)1月1日より、年令を満で数えることになる(「重訂 宮城県郷土史年表」P540、「菅家年表」P44)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」
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満蒙開拓 |
宮城県関連(1) |
1932年(S7)~ |
<武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる
<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)
* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始
<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子
* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述
・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕
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「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170
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満蒙開拓 |
宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト |
1932年(S7)~ |
<(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>
・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した
・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」
・宮城県から渡満開拓団のリスト
昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人 11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人 12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人 13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人 14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人 15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人 16年、第8、9、10次補充210人 17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(3)南郷村の分村 |
1936年(S11)~1945年(S20) |
・ 南郷村(現・美里町)は県内で満州開拓(移住)に最も熱心だったと言われ、満州の各地に数十戸ずつの移住者を送り「南郷集落」を展開(分村計画)
・ 提唱者は南郷村の国民学校校長松川五郎氏、米作地帯の南郷で安定した経営を図るには1戸3ha必要とし、計算上はみ出す農家405戸を満州移住させる計画に多くの村民が応じた
・ 1936年(S11)以降、第5次黒台村50戸、第6次宮城村、第7次安拝村など、各地に数十戸ずつ、計約300戸、1500人
・ 1944年(S19)には、第13次南郷開拓団122人をソ連国境付近に
・ 大陸の花嫁のはしりとなる乙女たちが渡満したのも南郷村が先駆
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-1)仙台村 |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)>
【仙台市市 年表」P111~112】
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設
【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】
1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】
* 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28)
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「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-2)仙台村(つづき) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり
・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽
・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる
・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた
・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした
<敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170
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満蒙開拓 |
宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団 |
1940年(S15)~1945年(S20) |
・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団
* 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人
・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地
・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人
・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168
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満蒙開拓 |
宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す
・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る
・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった
・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練
・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた
・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169
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右側通行 |
開始 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)11月1日、それまでの左側通行から、「人は右、車は左」の対面交通に切り替えられた
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昭和24年道路交通取締法改正
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16-28、16-43
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水の森スケート場 |
開場 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)12月29日、仙台市が「水の森スケート場」を設置
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「仙台市史 年表」P129
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三越(仙台店) |
開店 |
1933年(S8) |
<前史>
* 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁)
* 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203)
* 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開
* 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂)
・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり
・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施
<東一番丁に開店>
* 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」
【「番丁詳伝」P144~145】
・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」
・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」
・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」
・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」
・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼
* 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開
* 1963年(S38)11月1日、新館新装開店
(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり)
* 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置
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「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145
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22-51、47-06、53-34、22-53、53-23、16-39、20-33/「目で見る仙台の歴史」P165
/三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館)
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緑と花いっぱい運動 |
開始 |
1963年(S38) |
目標「ビルがならぶ都心には、工夫をこらして緑と花を、郊外や一般家庭にはできるだけ植樹をし、潤いのある環境を」
* 1963年(S38)、仙台市が「緑と花いっぱい運動」開始
* 1963年(S38)3月、市民ラジオ体操祭、参加者に花の種1万袋配布
・ 宣言記念式店出席者に苗木1500本配布
・ 園芸協会の協力で、苗木即売会、地域・職域団体による花壇づくり
・ 健康都市協議会直営の公園を、榴ヶ岡公園下と国道4号線土樋三角地帯の2か所に開設
* 1964年(S39)4月、フラワーポット町角に登場
・ 1965年(S40)月日、消防局の花いっぱい運動が、日本花いっぱい協会の最優秀賞受賞
* 1967年(S42)~、市民記念植樹実施(入学、卒業、長寿、転勤など記念し、市が指定する場所に記念植樹)
・篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
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仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P249~250/ 「市民の戦後史(仙台市)」P158
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「市民の戦後史(仙台市)」P158(街角のフラワーポット)
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緑の団地条例(仙台市) |
指定第1号 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月9日、第1号に茂庭台1丁目~5丁目を指定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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南町大火 |
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1919年(T8) |
* 1919年(T8)3月2日未明、南町「電話横丁」北側から出火、折からの強風で南町から東二番丁まで燃えひろがり、12ケ町を焼き払って午前7時半鎮火、明治以降最大の出火災害となった / 仙台郵便局・電話交換局・東北学院中学部校舎・芭蕉館・横浜火災を含む700余戸余が焼失(「仙台市史 続編第1巻」P363では、焼失698戸 / 「仙台あのころこのころ八十八年」P243では、焼失707戸) / この大火で南町は拡幅され大通りとなった
* 1927年(S2)、火災地の道路改修、区画整理工事完了
(良覚院丁、南町、南町通、柳町、柳町通、北目町、北目町通、東一番丁の各町内の、全部または一部)
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「目で見る仙台の歴史」P156/「仙台市史 年表」P98 / 「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P107/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P363~364
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「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P106~107の写真/「目で見る仙台の歴史」P156に「南町大火の焼け跡」
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南町通り(多門通り) |
概要 |
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・「南町通り」は、仙台駅前から裁判所(戦前は宮城控訴院、戦後は仙台高等裁判所)へ向かう通りで、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路だった
・ 仙台で初めて街路樹が植栽され、歩車道の区別が設けられるなど、大正期から昭和期にかけ整備がすすんだ(「番丁詳伝」P81)
・ 仲見世(南町通り) 大正年間、毎年年末25日頃より、道路真ん中に一間くらいに仕切った板囲いの小屋が両側にできた。(露天商が東京など全国からやってきた)
・ 戦前から、コンクリート舗装されていた
・ 1933年(S8)1月、第二師団(多門師団長)が満州事変から「凱旋」し、これを機に「多門通り」と改称され、1945年(S20)日本敗戦後、再び「南町通り」となった
* 1926年(T15)11月、仙台初の市電が、「仙台駅前」から南町通りを経由し、大橋や川内の第二師団への入口である「大町一丁目」まで開通した
* 1933年(S8)1月、 第二師団(師団長の名を関して、通称多門師団)が「凱旋行進」 / 「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを行進
* 1933年(S8)1月、「多門通り」と改名(「凱旋」を記念して、仙台市会が当時の師団長の名を冠した改名を決議)
* 1945年(S20)7月、 仙台空襲で南町通り周辺一帯も焼失し壊滅的な被害
* 戦後は「南町通り」に復名
* 1953年(S28)月日、南町通り・西公園線の一部の舗装が、日米行政協定による事業として、一気にすすむ
* 1963年(S38)、仙台初の地下ケーブルの水銀灯点灯、歩道の舗装も完成、街路樹もヤナギから唐カエデに植え替えられた(「仙台市史 続編第2巻」P167)
* 1976年(S51)3月、仙台市電廃止
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「番丁詳伝」P81/「わが心の仙台駅前史」P43/「仙台市史 年表」P103、P106、P130/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
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53-91、65-01-01、20-02など分類A-05-06「南町通り」の全写真 / 戦災焼失後の様子は、63-04/「目で見る仙台の歴史」P198(南町通り東五番丁交差点、朝のラッシュ、S30年代前半)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P100(S51、東一番丁角以東、カラー)
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南町通りの電柱(戦前) |
木製 →金属製 |
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[写真65-01](多門師団凱旋3)をみると、1933年(S8)1月には、このあたりの南側の電柱は木製だった/ その後に、道の南側が金属製の柱にかわる
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65-01、98-037、43-30は木製 / 73-03、53-53、53-91、 53-96、63-04は道の南側が金属製
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三原時計店 |
国分町で創業 |
1887年(M20) |
<国分町の建物>
* 1887年(M20)3月、仙台市国分町(肴町角)に創業開店(三原本店HP)、戦後の徳陽シティー銀行の場所
* 1887年(M20)、三原時計店が国分町で時計塔付の建物を建設し開業(M22年開業説もある)(「目で見る仙台の歴史」P118では、明治18年)
* 1889年(M22)、国分町に時計塔のある洋風建築を建設(「古写真にみる仙台の建築」P43)
* (M29年に三原時計店が大町に移転後、建物は大正信託、第八銀行が使用した)
* 時計塔の文字盤には、1915年(T4)にはすでに針が無く、模様が描かれている
* 1921年(T10)、国分町の旧三原時計店の建物は取り壊された(「古写真にみる仙台の建築」P43)
<編者注> 「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217や「仙台老舗百店史の三原本店」の記述では、1896年(M29)に大町へ移転と記載されているが、「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)では、地図上も同裏面の実業家一覧表でも、三原時計店はまだ「国分町肴町角」となっている
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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77-21、44-19、99-022 /「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に当時の三原時計店(国分町五丁目)の写真あり
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