項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
フジビール |
販売開始 |
1921年(T10) |
<東洋醸造>
* 1919年(T8)、仙台の福島揁蔵が仙台市小田原長丁通に、東洋醸造を開業、フジビールを売り出す(「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347)
* 1921年(T10)9月23日、東洋醸造開業(小田原長丁通)(「仙台市史 年表」P100、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
<麒麟ビール仙台工場>
* 1923年(T12)8月に麒麟ビール株式会社に買収され、その仙台工場となる / 従業員224名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P347、「仙台市史 年表」P102、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347/「仙台市史 年表」P100、P102/「新・目で見る仙台の歴史」P153
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「目で見る仙台の歴史」P151と「新・目で見る仙台の歴史」P153に、「東洋醸造工場」(大正10年開業)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P347(大正11年ころ、東洋醸造工場内部)/「仙台はじめて物語」口絵写真(フジビール工場)
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婦人参政権獲得運動 |
全国 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦選獲得運動>
* 1921年(T10)1月、新婦人協会(市川房枝・奥むめお・平塚らいてう達)、355人の署名を集めて婦人参政権の要求を、貴族院・衆議院に提出
* 1923年(T12)2月、婦人参政権同盟結成
* 1924年(T13)12月13日、婦人参政権獲得期成同盟会、発足 / 1925年(T14)4月、婦選獲得同盟と改称
* 1929年(S4)12月、長野県で、婦人参政権の県会決議が実現
<敗戦後の再起>
* 1945年(S20)8月25日、戦後対策婦人委員会結成(市川房枝・山村民子ら30余名の女性) / 9月24日、政府・両院に対し、女性参政権実現、公民権・政党参加権の獲得、行政機関への登用を要求
* 1945年(S20)10月10日、幣原内閣が臨時閣議で婦人参政権付与の方針決定 / 10月13日、国民に発表
* 1945年(S20)10月11日、GHQ、日本民主化のための五大改革の冒頭に「参政権の付与による女性の解放」を掲げる
* 1945年(S20)12月17日、婦人参政権の付与を盛り込んだ衆議院議員選挙法改正案が成立、ただちに公布
* 1945年(S20)12月28日、衆議院解散
* 1946年(S21)4月10日、総選挙(全国で39名の女性代議士誕生 / 東北では、山形・秋田・岩手で1名、福島で2名当選)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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婦人参政権獲得運動 |
宮城県 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦人参政権の芽生え>
* 1880年(M13)、名取郡長町村村会規則(村会議員選挙で、20歳以上の男女に等しく選挙権、ただし被選挙権は女性には認めていない) / 全国的に珍しい
* 1883年(M16)、成田うめ(清元師匠)が仙台自由党結成
<婦選獲得運動>
* 1930年(S5)6月10日、黎明婦人会が仙台婦選講演会(仙台市公会堂、講師:市川房枝) / 学生・未成年含めて300人の女性が参集
* 1931年(S6)、黎明婦人会による婦選獲得同盟演説会(講師:日本産児調節婦人同盟理事長の石本(加藤)静枝) / 毎年開催された婦選大会も戦時体制の強化の中で1937年(S12)1月の第7回で幕を閉じる
<戦後>
* 1945年(S20)10月15日、「河北新報」が「婦人参政権を語る」と題して、県内4人の女性たちの抱負を掲載
* 1945年(S0)11月29日~46年2月6日、「河北新報」が「婦人参政権講座」65回開設(講師:東北帝国大学教授陣15人)
<婦人文化クラブの啓発活動>
* 1946(S21)3月14日、河北新報社主催「婦人参政権座談会」(GHQ民間情報教育局企画部婦人課長のイセル・ウィードを囲み、仙台市中心に国民学校訓導、看護婦、事務員、主婦、農村女性など女性30人) / 参加女性たちが「婦人文化クラブ」結成し、総選挙に向け女性たち自身による啓発活動
* 1946(S21)3月30日、発会式(荒町国民学校講堂)では、各政党の立会演説会や模擬投票
* 1946(S21)4月7日、河北新報社従業員組合婦人部と共催で、市川房枝を招いて懇談会開催(会場:宮城女学校) / 労働組合、民主団体の婦人部、主婦など約60人参加
<戦後初の総選挙>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P507に、当日の様子記述あり ・ 投票率(宮城県): 男性78.6%、女性62.3%
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504(長町村村会規則)/同P507(昭和21年、戦後初の総選挙投票を伝える「河北新報」)
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婦人の社会活動(戦後・仙台) |
仙台の婦人団体 |
1945(S20)~1994年(H6) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439「仙台市婦人のあゆみ」>
・ 昭和20年~43年頃までの運動と団体の動向を記述
・ 市内の婦人団名(昭和40年)~市教委把握数は45団体
・ 活動内容が記述された団体は、日本キリスト教婦人矯風会仙台支部、日本婦人有権者同盟仙台支部、仙台市主婦連合会、仙台婦人懇談会、宮城婦人問題連絡会、仙台市婦人会議、地域婦人会、みやぎ草の実、高砂むつみ会、葉月会、PTA、社会学級、仙台市母子福祉連合会、仙台市農業協同組合婦人部、労働組合婦人部、婦人公務員、仙台教職員組合婦人部 / そのほかに、民間婦人の職場、パートタイマー、公職進出についても触れている
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459>にも、婦人会をはじめ、戦後の女性たちの社会活動組織について記述あり(昭和63年位まで)
* 日本基督教婦人矯風会仙台支部、戦後すぐ活動再開(街娼撲滅運動、平和運動)
* 1946年(S21)、稲村キクエの呼びかけで新日本婦人同盟仙台支部、結成(1950年に、日本婦人有権者同盟仙台支部と改称)
* 1947年(S22)ころ、国鉄労働組合婦人部、日本教職員組合婦人部、農業協同組合婦人部など、活動開始
* 1947年(S22)、仙台市主婦連合会発足(各種団体や労働組合の女性たち、地域の主婦も多数結集)
* 1949年(S24)2月、仙台婦人懇談会結成
* 1959年(S34)、宮城県婦人問題連絡会結成
* 1966年(S41)、仙台市婦人会議発足(55グループが参加)
・ 1960年代以降、婦人防火クラブ誕生(S37、萩の台婦人防火クラブ/S38、高砂戌区婦人消火隊など) / 1978年(S53)の宮城県沖地震後には町内会単位で結成が進む
・ 1975年(S50)、国際婦人年を契機に、仙台では、新たに女性問題・社会問題の学習グループ、消費者グループ、育児および育児ボランティアグループ、高齢者介護など福祉のボランティアサークルなど発足
・ 1987年(S62)3月、エルパーク仙台(仙台婦人文化センター)オープン / 記念して「女たちのメッセージ」開催(参加団体:当初は29 → 1994年(H6)には40団体以上)
・ 「女たちのメッセージ'94」の参加団体名一覧表 / 福祉・ボランティア活動、育児支援活動、学習活動など41団体(「仙台市史 特別編4 市民生活」P459)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459
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「市民の戦後史(仙台市)」P186と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P458に、「S41年10月、仙台市婦人会議結成大会」
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婦人標準服 |
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⇒ 項目「戦時衣料」参照
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普通選挙要求運動(仙台) |
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1919年(T8)~ |
* 1919年(T8)2月12日、仙台普通選挙期成同盟会結成協議会(メンバーの大部分は、憲政会所属の県会議員と弁護士)
* 1919年(T8)2月15日、仙台普通選挙期成同盟会(仙台普選同盟会)の結成大会・演説会(開明座) / 伊藤彪・新妻胤嘉らの演説後、市中を提灯行列(国分町の開明座~東一番丁~大町4丁目角~新伝馬町・名掛丁~停車場前広場~南町通~南町~芭蕉の辻~大町1丁目~西公園)
* 1919年(T8)4月、普選要求大会(開明座、聴衆2000人余) / 労働党組織宣言可決
* 1920年(T9)2月、普選実行期成大演説会(仙台座)/憲政会宮城支部、仙台普選同盟会主催 / 尾崎行雄、新妻胤嘉、村上亀一郎らの演説に聴衆熱狂 / 雪の中、「国民一般に選挙権を与えよ」などスローガンかかげた旗を押し立て、「普選促進歌」(賀川豊彦作詞)を歌い乍ら、停車場前からデモ行進 / 会場の仙台座は有料にもかかわらず大入り満員、入場できなかった者多数
* 1920年(T9)5月、総選挙(前年度改正した小選挙区制で実施)宮城県内の憲政会候補は全滅
* 総選挙直後、布施辰治が、官権選挙干渉糾弾・金権横暴政治撲滅・普通選挙宣伝のための大演説会開催(開明座)を仙台警察署が中止・解散を命じる / 抗議の大会も普通選挙促進示威提灯行列も治安警察法によって、中止・解散させられる
* 1920年(T9)6月、普選促進・現内閣糾弾県民大会(仙台座) / 聴衆2000人余 / 地方代表も参加し、運動を全県下に拡大するため、名称を普通選挙促進期成同盟会と改称(会長に村上亀一郎) / 普選実現まで運動は続けられた
* 1920年(T9)8月、青年自由革新党結成(仙台普選同盟会の中心メンバーの三浦端・長谷川陸郎や百数十名) / 五城館で発会式、九項目の綱領を確定(満20歳以上の男子に一律に選挙権、婦人参政権の理を認め実現を期す、営業自由の原理、八時間労働制、治安警察法第17条撤廃、司法省廃止し裁判権の独立、陪審制度確立、官僚思想打破、財閥学閥を排撃)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P500~503「普選運動のころ」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P501(大正14年、普選案の帝国議会通過を祝う提灯行列)
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物価上昇 |
戦後インフレ |
昭和20年代 |
* 1946年(S21)3月、国鉄運賃25割値上げ、仙台~東京間250円に(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702)
* 1946年(S21)秋、物価はウナギのぼり、ヤミ値はつりあがる(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701)
* 1947年(S22)、この年、酒、タバコ、郵便が一斉に値上げ / 消費者物価が終戦時の4倍となる
* 1948年(S23)末、同年3月比の物価
・ 5割以上値上がりした品目(鯨油、黒砂糖、白砂糖、清酒、茶、ポプリン、キャラコ、革靴、練炭、化粧石鹸、ポマード、クリーム、アルコール、紙類、材木、自転車など)
・ 下落した品目(白菜、ホウレンソウ、大根、イカ、蒲鉾、スルメ、りんご、人絹、絹布、靴下、マッチ、サッカリン、ペニシリン、セメント、畳、鉄くぎ など)
* 1949年(S24)3月、物価調査で公定価格割れが続々と出てくる
* 1950年(S25)7月、仙台市、ガス料金を23.8%値上げ
* 1954年(S29)春、前年秋からのデフレ政策が仙台にも波及、市内商店の売り上げは2~3割減、一方デパート売上は堅実に伸びる
* 1954年(S29)秋から翌年6月ごろまで仙台の物価は横ばい
* 1955年(S30)6月の仙台の物価指数、S26年を100として、120 / 市内の標準家庭(5人)の家計支出は月平均2万5000円で食費は半分以下となった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701~702、P710/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P43/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P107
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物価上昇 |
高度成長期 |
1961年(S36)~1973年(S48) |
* 1961年(S36)8月、市内物価指数が前年同月比7.9%上昇
* 1963年(S38)9月、市内のし尿汲み取り料70%値上げ
* 1963年(S38)、物価大幅上昇 / 背景に建築ブーム、生産者米価大幅引き上げ、労賃高騰、公務員のベースアップ
* 1966年(S41)2月27日、春闘共闘委員会、「物価値上げ反対・生活危機突破国民大会」開催(物価メーデー)
* 1966年(S41)3月5日、国鉄運賃値上げ、旅客31%
* 1969年(S44)5月9日、国鉄運賃15%値上げ
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1972年(S47)2月24日、宮城県生活協同組合を中心に物価値上げ反対仙台市民会議結成
* 1972年(S47)4月1日、国鉄運賃改正
* 1972年(S47)秋、物価上昇率(仙台)、前年度同月比で15%超(「仙台市史 特別編4 市民生活」P544)
* 1972年(S47)12月1日、仙台市電の均一料金を40円に(10円値上げ)(「続・ 宮城県郷土史年表」P15)
* 1973年(S48)4月2日、<全国の地価>建設省、1973年1月1日現在の地価発表(前年比30.9%の暴騰)
<第1次オイルショックで、物価上昇、物不足、不況>
* 1973年(S48)10月25日、オイルショック発生
* 1973年(S48)11月5日、物価大幅上昇(チリ紙150%、砂糖51%、牛肉42%上昇)
* 1973年(S48)11月、12月、灯油大幅に値上がりなど、物価急上昇
* 1973年(S48)11月23日、ガソリンスタンド、日曜・休日、休業
* 1973年(S48)秋、ガソリン、紙、洗剤など品不足
* 1973年(S48)12月、紙不足で、新聞・雑誌のページが減る
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P714、P718、P720/岩波ブックレット「年表 昭和史」P46、P54/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P649、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P8、P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67/「仙台市史 特別編4 市民生活」P544
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(S41年物価メーデーで風船を手に婦人たちがデモ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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物価上昇 |
反対運動/行政の対策 |
1973年(S48)~1974年(S49) |
* 1973年(S48)7月、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急外に関する法律」制定
* 1973年(S48)11月7日、宮城県生活協同組合連合会、仙台通産局に、灯油確保、便乗値上げ防止を陳情
* 1973年(S48)11月11日、物価メーデー(宮城県春闘共闘委員会主催)「インフレ防止、物価値上げ反対、生活防衛」を掲げて、デモ行進と集会(県労評主婦の会など市民団体、労働団組合など24団体、6000人参加)
* 1973年(S48)11月14日、衆議院物価問題等に関する特別委員会地方懇談会(於:宮城県庁) / 宮城県各種婦人団体連絡協議会など発言
・ 仙台市消費者団体連絡会(市内8団体)が行政当局と話し合い / 消費者団体が街頭で呼びかけ
* 1973年(S48)11月、宮城県、生活物資等需給安定緊急対策要綱策定
* 1973年(S48)12月、国民生活安定緊急措置法制定、物価統制令改正
* 1974年(S49)5月、仙台市物価監視委員制度主婦モニター制度、制定
* 1974年(S49)12月、仙台市消費生活をまもる条例、制定
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544~545
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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物価上昇 |
狂乱物価 |
1974年(S49) |
<岩波ブックレット「年表 昭和史」P55>
1974年(S49)は、
・ 狂乱物価(卸売物価指数31.3%、消費者物価指数34.5%上昇)
・ 戦後初のマイナス成長(実質成長率、マイナス0.5%)
・ スタグフレーション問題化
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)1月25日、物価が前年同月比20.6%上昇
* 1974年(S49)3月13日、仙台、タクシー初乗り210円に
* 1974年(S49)3月31日、インフレ反対国民集会、全国270カ所で130万人参加
* 1974年(S49)4月11日、春闘で空前の交通スト(600万人参加、国鉄初の全面運休)
* 1974年(S49)4月30日、仙台市の物価上昇率は全国第2位(1位は札幌)
* 1974年(S49)5月1日、<全国の地価>建設省、1月1日現在の土地公示価格(前年比32.4%上昇、宅地は2年で倍)
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)8月、「千円亭主」多数、500円昼飯、ほか
* 1974年(S49)8月17日、政府、石油緊急事態を解除
* 1974年(S49)10月11日、仙台市内、ハイヤータクシー料金がアップ
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P55/「続・ 宮城県郷土史年表」P27、P28、P30、P33/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P68
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物価上昇 |
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1975年(S50)
~1979年(S54) |
* 1975年(S50)2月、不況が深刻化、完全失業者100万人を突破
* 1975年(S50)3月7日、前年のGNP初のマイナスとなる、1.8%減
* 1975年(S50)7月、仙台市のタクシー料金は初乗り270円に、迎え料金100円実施
* 1975年(S50)9月1日、仙台市営バス、均一区間料金、50円から70円に値上げ
* 1975年(S50)10月、仙台市で汲取り料金1人120円に改定
* 1975年(S50)12月5日、11月は戦後最高の企業倒産となる、1315件
* 1975年(S50)12月13日、宮城交通バスは、最低料金50円に改訂
* 1976年(S51)、この年、国鉄、電話、郵便、電気、ガスなど公共料金一斉値上げ
* 1976年(S51)2月1日、牛乳は52円(前は47円)
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1977年(S52)12月1日、宮城交通バス運賃値上げ(塩釜~利府が220円)
* 1978年(S53)9月8日、仙台市バス、市内均一料金を10円値上げし90円に
* 1979年(S54)1月17日、第2次オイルショック
* 1979年(S54)3月10日、国鉄運賃、近距離大幅アップ、(仙台~石巻間590円申請)
* 1979年(S54)4月1日、ふろ代、大人150円・小学生80円に値上げ
* 1979年(S54)5月27日、ガソリンスタンド、日曜祝日全面休業
* 1979年(S54)12月12日、仙台市のタクシー代値上げ
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「続・ 宮城県郷土史年表」P43、P44、P46、P48、P50、P73、P74、P85、P93、P94、P104/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P69、P70、P73
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物価上昇 |
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1980年(S55)~1989年(H1) |
* 1980年(S55)1月9日、冬野菜が高値、白菜、キャベツが10倍、大根5倍
* 1980年(S55)、この年、電気・ガス料金大幅値上げ
* 1981年(S56)3月、宅地高騰、仙台市は9.8%アップ
* 1981年(S56)11月28日、仙台市営バス運賃は、1区間120円(10円値上げ)
* 1982年(S57)6月1日、東北自動車道料金、仙台~盛岡間2700円から3200円に値上げ
* 1983年(S58)12月2日、仙台市内タクシー、初乗り運賃、小型400円から440円にアップ改訂
* 1986年(S61)4月1日、仙台市のハイタク初乗りが460円に改訂
<ガス・電気は値下げ>
* 1986年(S61)7月1日、東北の24社が、ガス料金値下げ
* 1987年(S62)1月、東北電力、電気料金を引き下げ
* 1987年(S62)2月、仙台市ガス局など料金再値下げ
* 1988年(S63)1月6日、仙台市ガスは平均6.22%引き下げ
<消費税>
* 1989年(H1)4月1日、初の消費税導入(3%)
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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「続・ 宮城県郷土史年表」P125、P136、P147、P169、P204、P207、P219、P220、P238、P242、P258、P259/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P74
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物価上昇 |
地価狂乱(バブル) |
1987年(S62)~1991年(H3) |
<東京>
* 1987年(S62)1月、東京で地上げが始まって地価上昇
* 1987年(S62)4月、東京の地価狂乱、53.9%上昇
* 1987年(S62)9月30日、東京の地価、1年で85.7%上昇
* 1988年(S63)9月14日、大都市の地価、狂乱高騰
<仙台>
* 1988年(S63)4月1日、国土庁発表地価公示で、仙台市は29%上昇
* 1989年(H1)1月27日、仙台国税局が最高路線価格発表、平均17.8%上昇
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
* 1991年(H3)7月1日、都道府県地価(基準地価)は、仙台で、住宅地6.7%、商業地8.5%上昇
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P82、P83、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P242、P258、P272
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二日町大火 |
大火 |
1951年(S26)4月22日 |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
・ 二十日町大火は、市役所、県庁前周辺のバラック建てが再び変貌するきっかけとなった(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221
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40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)
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復興盆踊り |
開催 |
1946年(S21)8月 |
* 1946年(S21)8月、「復興第一年祝賀盆踊り」
・ 敗戦(S20年8月)の翌年、東一番丁では他の町内に先駆けて、復興盆踊りを開催
・ 場所は、東一番丁大通りの一力邸(河北新報社会長)の空襲焼け跡の原っぱ (その後、この場所は「青葉通り」になった)
・ 「森権五郎氏が中心になり戦後初の盆踊り大会が開かれ毎晩数万人が集まる」(「東一番丁創立五十周年」P8より)
・ 薄田清が「伊達で鳴らした仙台さまの心意気だよ地固めも・・・」と復興盆おどりを作詞し、お囃子は柴田量平が受けもった」(「仙台市史 続編第2巻」P197~198)
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197~198
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53-09、53-26
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仏舎利塔 |
落慶 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)5月21日、荒巻国見台で仏舎利塔落慶
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「続・ 宮城県郷土史年表」P29
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ブラザー軒 |
概要 |
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ブラザー軒は、仙台初の本格的な西洋料理店(高級レストラン)
1) 1901年(M34)か1902年(M35)、新国町で創業
2) 1910年(M43)、東一番丁通りに新築移転するが3年後に焼失
3) その後は森徳横丁で営業
第二師団の将校たちがよく利用したほか、東北帝国大学や仙台高等工業学校の学生たちも送別会や歓迎会などで利用した
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「東一番丁物語」(柴田量平著)P112/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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62-14
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ブラザー軒 |
1) 開業(新国町) |
1901年(M34)または1902年(M35) |
1-1「M35年11月3日の河北新報に開業広告掲載 →仙台市新国町とある」
1-2「M35年、新国町に開店。新国町は、M35年6月8日開通」
1-3「M35年11月3日新国町に開業」
1-4「M34年5月11日、新国町南側中央に開業(前田常吉経営)、新国町はM34年6月8日に新たに開通した街路」
1-5「M34年11月3日、東一番丁に移転開業、洋風な3階建て
1階は食堂と4つの部屋、
2階は大広間と貴賓室
3階は大広間、ビリヤード場
・ 一品料理(10銭均一)
・ ハイカラ好みの人気の的で、師団関係者も多かった
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1-1「仙台老舗百店史P192~193「ブラザー軒」 / 1-2、「明治の洋風建築 宮城県」P120 / 1-3、「番丁詳伝」P36 / 1-4、「東一番丁物語」P112、P120、P125 / 1-5、「仙台市史 特別編4 市民生活」P84
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ブラザー軒 |
2) 移転・新築開店 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)10月1日、東一番丁64(東一番丁・玉沢横丁角よりやや南)に移転し、3階建て新築開店」(洋風木造3階建)
/「M44年仙台市全図」では、東一番丁・玉沢横丁角よりやや南にある
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「明治の洋風建築」P120 /「仙台市史 年表」P95/「明治44年仙台市全図」
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62-02
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ブラザー軒 |
3)焼失 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)11月6日、ブラザー軒から出火し、40分で焼失、周辺15棟を全半焼した
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「東一番丁物語」P112
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ブラザー軒 |
4)森徳横丁(憲兵横丁)へ移転 |
新築・移転は、1935年(S10)より前 |
「地図」によると、ブラザー軒はS10年には現在地あたり(森徳横丁)にあり、以後、S20年、32年、45年、58年の各地図も同じ / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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(建物外観は不詳)
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ブラザー軒 |
5)戦後、森徳横丁で再建 |
1947年(S22)頃 |
・ 戦後、店主と従業員は、進駐軍霞の目キャンプの食事担当として働く
・ 戦後の店は、S22年頃に完成したが、当時は材料の食品が統制のため営業できず、部屋を貸す(貸席)のみだった その後は、進駐軍相手のバーのようなものをやった
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前田津惠子さん(ブラザー軒経営)談
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霞の目キャンプ時代は、62-05、62-06、62-07、62-08 /戦後営業再開後は62-10、62-12
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文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
開館/移転・改称/改称/空襲焼失・休館/再建/改称 |
1925年(T14)/1936年(S11)/1938年(S13)/1945年(S20)/1950年(S25)/1958年(S33 |
<大映文化キネマ>
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設(「東一番丁物語」P219」
* 1925年(T14)11月、文化キネマ(活動写真)、東一番丁に開設(「重訂 宮城県郷土史年表」P400)
* 1925年(T14)12月1日、阿部三郎が「大映文化シネマ」を始める(「東一番丁創立五十周年」P8)
* 1925年(T14)12月11日、阿部来太郎、「大映文化キネマ」を文化横丁の中央南側に新築開館(松竹映画と洋画を上映)(「仙台映画大全集」P450)
・ 文化キネマは松竹映画とともに、洋画も上映 / 東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだ(「番丁詳伝」P113)
<文化映画劇場>
* 1936年(S11)12月、東一番丁(大通り)へ新築移転し「文化映画劇場」と改称 / 洋風建築、椅子席、3階建、2階に楽屋、3階に食堂とホール(「仙台映画大全集」P140)
<文化キネマ>
* 1938年(S13)、再び「文化キネマ」に改称
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で外壁を残し焼失、休館
<戦後復活し、文化劇場>
* 1950年(S25)12月、大通り(東一番丁88)で「文化劇場」として復活(松竹映画を上映、943席)
<仙台松竹映画劇場>
* 1958年(S33)11月、「仙台松竹映画劇場」と改称
* 2001年(H13)、閉館
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史P450ほか /「重訂 宮城県郷土史年表」P400、P546/「番丁詳伝」P87、P113/参考:「東一番丁物語」(柴田量平著)P219、P236~237
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・戦前は、22-59、53-38、61-24、61-25/「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P106~107/「いつか見た街・人・暮らし」P44(昭和12年頃)
・戦後は、18-04、18-08
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文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
弁士/トーキー |
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「文化キネマは東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだという / 日本初のトーキー映画「マダムと女房」もここで上映 / トーキーが盛んになるにつれ、文化キネマ説明部の弁士は職を失うとストライキを行い、これを他館の弁士たちが応援した」
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「番丁詳伝」P113
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文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
ラジオ出演 |
1932年(S7)ころ |
S7年頃、文化キネマの楽団員たちが、NHK仙台放送局のラジオドラマ(生放送)で伴奏を担当
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67-01、67-04
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文学碑など(仙台) |
土井晩翠歌碑、詩碑 |
1952年(S27) |
<樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<天地有情>
* 1949年(S24)4月、市内本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置
<荒城の月>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、晩翠会が、「荒城の月」の銅板をはめた詩碑を仙台城址天守台(天主台)につくり、除幕式
(「仙台市史 続編第2巻」P270、「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台年表」P210、「仙台城」P235)
* 1952年(S27)10月19日、晩翠逝去(81歳) / 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が「荒城の月」詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189)
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佐々久著「仙台の散策」/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189~190、P270~271/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235
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「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(晩翠詩碑「荒城の月」)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑)
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文学碑など(仙台) |
魯迅の碑 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)12月4日竣工 / 仙台博物館わきに、熊谷岱蔵(東北大学名誉教授、文化勲章受章者、仙台市名誉市民)らの手で建てられた / 除幕式には魯迅夫人許広平女史出席
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190
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文学碑など(仙台) |
藤村の詩碑 |
1936年(S11)/1965年(S40) |
* 1936年(S11)、八木山の一角に建立 / 戦後荒廃し、碑が雑草と雑木林に埋もれる
* 1965年(S40)10月、八木山動物公園開園に伴い敷地内に入り、自由に参観出来ないため、天守台跡に移転
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190~191
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「新・目で見る仙台の歴史」P151(八木山の詩碑を見る藤村夫妻)/「目で見る仙台の歴史」P167
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文学碑など(仙台) |
石川善助の詩碑 |
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* 1958年(S33)9月27日、詩碑建立 / 愛宕山神社のかたわら、仙台市を一望できる場所にある
「化石を拾ふ。 光の澱む切り通しの中に、童子が化石を捜してゐた。 黄赭の地層のあちこちに、白いうづくまる貝を掘り、遠い古生代の景色を夢み、母の母なる匂ひを嗅いでゐた。 もう日は翳るよ、空に鴉は散らばるよ。 だのに、なほも探してゐる。探してゐる。 外界のこころを、生の始めを、母を、母を」
・ 「番丁詳伝」P104~105に、国分町生まれの詩人石川善助の生い立ち、経歴、詩の世界につき記述あり
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191/「番丁詳伝」P104~105
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文学碑など(仙台) |
原阿佐緒の歌碑 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)6月、除幕式 / 歌碑「家ごとにすもも花咲くみちのくの 春べをこもり病みて久しも」 / 野草園に近い、仙台放送の放送所とNHKTVアンテナの中間、道に東側に建つ
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292の写真96
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文学碑など(仙台) |
浜夢助の句碑 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)12月、川柳宮城野社一同の手で、西公園内に句碑建立 / 「雪国にうまれ 無口に馴らされる」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192
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文学碑など(仙台) |
阿部みどり女の句碑 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)10月1日、仙台城址、宮城護国神社南の池のはたに建立 / 「初蝶の流れ光陰ながれけり みどり女」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192
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文学碑など(仙台) |
菊地養之輔の歌碑 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)9月、西公園の公会堂西南隣に建設 / 「新しき世界のために靴の紐、結ぶしもべと我をならしめ」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192~193
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文化勲章 |
宮城県関係受賞者 |
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* 1937年(S12)2月11日、文化勲章令公布
(昭和12年)本多光太郎 / (昭和19年)志賀潔、(昭和25年)土井林吉(晩翠) / (昭和27年)熊谷岱蔵 / (昭和28年)矢部長克、宇井伯寿 / (昭和30年)増本量 / (昭和31年)村上武次郎 / (昭和33年)野副鉄男 / (昭和43年)黒川利雄
****** 以上、昭和50年まで ******
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P12/「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P545、P560、P569
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文化財指定(平成年間) |
国宝、史跡、ユネスコ記憶遺産、日本遺産 |
平成年間 |
* 2001年(H13)、「慶長遣欧使節関係資料」、国宝指定
* 2003年(H15)、「仙台城跡」、国史跡指定、
* 2006年(H18)、「仙台郡山官衙遺跡群」、国史跡指定
* 2012年(H24)、 国宝「慶長遣欧使節関係資料」がユネスコ記憶遺産登録
* 2016年(H28)、「政宗が育んだ“伊達”な文化」が、日本遺産認定
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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文化横丁 |
新設 |
1924年(T13)12月12日 |
・ 東一番丁南部(通称・大通り)と西側の南町を結ぶ横丁
・ 開設当初の名称は「東南横丁」だが、翌1925年(T14)に活動写真の「文化キネマ」ができて文化横丁と呼ばれるようになった
【「東一番丁物語」P219】「大正13年、阿部太助が所有地を開放して東一番丁と南町を貫通し、両側に百軒店街を開設すべく貸家を建築し東南横丁と名づける。12月12日に開通式」
* 1924年(T13)12月12日、文化横丁が新設される(「仙台市史 年表」P102)
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に映画常設館「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設 / 阿部太助、昭和2年他界後、遺志は子息の阿部来太郎に引き継がれ、文化キネマ経営、文化横丁の新興がはかられた(「番丁詳伝」P119)
(「仙台年表」P206には、昭和10年開館とあるが間違い)
* 1936年(S11)12月、「文化キネマ」が東一番丁(大通り)・文化横丁角へ新築移転し「文化映画劇場」と改称
<参照> 項目「文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場」
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「東一番丁物語り」(柴田量平著)P219/「仙台市史 年表」P102/「仙台映画大全集」P450/「重訂 宮城県郷土史年表」P395/「番丁詳伝」P119
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61-24/98-134(大正末~昭和初期の商店配置図に、文化横丁と文化キネマの位置が記載)/98-135(S32年の店舗配置図に、東一番丁・文化横丁角の文化劇場記載) / 昭和30年代初め頃は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P28
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兵役制度 |
昭和年代(1) |
1926年(T15)~1941年(S16) |
<大正末期~昭和初期>
* 1926年(T15)7月21日、1年志願兵及び1年現役兵服務特例公布(教練の検査とその合格者の在営機関短縮)(菅家年表)=「生活の変わりようをみる昭和の年表」
* 1927年(S2)4月1日、徴兵法を改正し兵役法を公布、現役期間1年短縮(菅家年表)
<満州事変勃発 1931年(S6)9月18日>
* 1931年(S6)11月10日、兵の名称改正(1等卒が1等兵に、輸卒が特務兵に)(菅家年表)
* 1933年(S8)2月16日、特別志願士官制度採用(予備、後備からの志願)(菅家年表)
* 1933年(S8)4月28日、少年航空兵制度実施、少年の志願兵に道を開く(菅家年表)
* 1937年(S12)2月19日、兵役法施行令改正、徴兵検査合格基準を5cm緩和、視力、聴力の基準も引き下げ(菅家年表)
<日中戦争勃発 1937年(S12)7月7日>
* 1938年(S13)2月25日、兵役法改正、学校教練修了者の在営期間短縮の特典を廃止(菅家年表)
* 1939年(S14)3月9日、兵役法改正公布、兵役期間延長(短期現役制廃止)(岩波)=岩波ブックレット「年表 昭和史年表」
* 1939年(S14)7月15日、少年戦車兵150名(15~18歳)募集を閣議決定(菅家年表)
* 1939年(S14)11月11日、兵役法施行令改正公布、第一乙種は現役兵、第二乙種は補充兵、第三乙種を設けて第二補充兵へ(菅家年表)、短期現役制廃止(市史10 P297)
* 1940年(S15)4月24日、陸軍志願兵令公布(岩波)(市史10 P298)
* 1941年(S16)11月15日、兵役法施行令改正公布、丙種合格で第二国民兵編入者も召集へ/ 同日、朝鮮志願兵を募集、25万人が応募(岩波P18)(菅家年表P27)
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P4、P16、P18、/【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6~7、P12、P14、P18、P22、P27/「仙台市史10 年表」P297~298/「重訂 宮城県郷土史年表」P507
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兵役制度 |
昭和年代(2) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<太平洋戦争開戦 1941年(S16)12月8日>
* 1942年(S17)3月、少年砲兵の志願兵を募集(菅家年表)
* 1943年(S18)3月2日、兵役法改正、朝鮮に徴兵制(岩波)(菅家年表)
* 1943年(S18)9月21日、兵役法施行規則改正、5年以前の徴兵検査の第二国民兵も召集、学生の一般徴兵猶予も停止(菅家年表)
* 1943年(S18)11月1日、兵役法改正、国民兵役を45歳まで延長(岩波)(菅家年表)
<学生・生徒の徴集猶予停止>
* 1943年(S18)10月2日、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴集猶予停止)(岩波)
「法学、文学、経済など文科系学生の猶予を停止、満20歳になれば在学中でも出陣。学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
* 1943年(S18)10月21日、神宮外苑競技場で学徒出陣壮行大会(岩波)
<徴兵年齢19歳に>
* 1943年(S18)12月24日、徴兵適齢臨時特例法公布施行、徴兵年齢の1歳引き下げ、翌19年度に満19歳と20歳の者も受検することに改正 (岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月16日、陸軍特別志願兵令改正公布(17歳未満の志願を認める)(岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月18日、陸軍省、兵役法施行規則改正公布(17歳以上を兵役に編入)(岩波) / 防衛召集の対象が在郷軍人および国民兵役にある17歳以上45歳までの大部分の者にまで拡大された / 防衛召集は、空襲や撹乱を目的とした敵小部隊の上陸に備えるためのもの(ウィキペディア「兵役」)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(仙台市史年表) → 項目「国民義勇隊」参照
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(仙台市史10 年表)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波)
<戦後>
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(菅家年表)
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(仙台市史年表P113~114))
* 1945年(S20)11月17日、兵役法廃止
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21、P24/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/「「仙台市史10 年表」P309~310/「仙台市史 年表」P113~P114/ウィキペディア「兵役」?/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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米軍進駐 |
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⇒ 項目「進駐軍」参照
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (1)明治期 |
1894年(M27)~1901年(M34)/1904年(M37)~1908年(M41) |
軍隊に志願する青年の育成勧誘、兵役に就く者およびその家庭への援助・救援活動、出征兵士の歓送迎、祝賀行事、戦病死・負傷者に対する弔慰行事などを行う民間の組織体で、軍の意向に応じて、行政機関と地域の有力者を中心に結成された
<仙台市兵事義会、日清戦争契機に結成>
* 1894年(M27)7月29日、仙台市兵事義会結成(7月25日日清戦争勃発、8月1日に正式宣戦布告)
・ 日清戦争開始を契機に、市内有力者や勝間田稔県知事の要望により結成 / 会長は遠藤庸治仙台市長、市役所が事務所 / 里美良顕、伊沢平蔵、岩崎総十郎、藤崎三郎助、早川智寛らの幹事と若干名の常議員によって運営
・ 経費は義援金で、地区の有力者を勧誘委員に任命 / 地方税中の戸数割負担が中等以上の8869戸に勧誘状を送り、金の出納は七十七銀行と仙台銀行に委託 / 6121名から1万1497円42銭7厘と、刀剣1060振が寄付された
・ 事業は、軍隊の歓送迎や便宜の供与、従軍者および戦病死者家族の保護援助、軍功をあげた者の顕彰など
・ 市が募集した従軍人夫156人へ衣料類の支給、市出身の将校・兵士に対する餞別、歓送迎行事への動員と祝賀会費用、傷病兵慰問、戦病死者の合同慰霊祭や弔慰金
・ 仙台市から招集された従軍兵士247名のうち、兵事義会の保護援助を必要とした家庭が約100戸(支出6621円)、援助不要家庭104戸、他は病気などにより入営未定の者
* 1901年(M34)1月、仙台市兵事義会解散
<仙台市兵事義会、日露戦争戦争を前に再興>
* 1904年(M37)1月12日、仙台市兵事義会、日露戦争を前に第二師団司令部の要望で拡大再興(2月10日から日露戦争)
・ 寄付金、団体・個人8511名から3万864円31銭7厘
・ 仙台市出身兵1508名出征 / 戦病死は134名(将校52名、下士官・兵卒82名)
・ 保護援助を必要とした下士官・兵卒の留守家庭は347戸 / 救援は米の贈与が中心 / 生活困難な従軍兵士家庭の婦女子は、兵事義会が開設した付属工場などで、陸軍使用の軍服などの縫製作業、マッチ製造、封筒製造に従事(工賃は僅か)
* 1908年(M41)、仙台市兵事義会、活動休止
* 兵事義会がまた活発な動きを始めるのは昭和の戦争期
<大沢村の兵事組合>
* 1889年(M22)、結成(第二師団発足の翌年) / (仙台市は任意加入だが)大沢村は全戸強制加入で、経費の半分は村税中の等級別個別割り、半分は戸数均等割りで徴収
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P301~302に、大沢村と秋保村の詳細記述あり>
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「仙台市史 年表」P89、P91、P92/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300~303
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P302(長町停車場で日清戦争出征見送り)、P303(日清戦争第二師団帰還出迎え)、P306(日露戦争から帰還する兵士を迎える市民たち)
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (2)日中戦争期 |
1337年(S12)~1939年(S14)3月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入
* 1337年(S12)7月17日、仙台では、市内の各種団体、在郷軍人会、農家組合、銀行などの代表者、市会議員、商工会議所議員が集会し、第二師団留守司令官、県や市の吏員が臨席して、戦時体制に備える「銃後」の物資動員懇談会を開催
* 1337年(S12)9月、仙台市兵事義会が国の軍事扶助法を補助するという趣旨で、3万8000円の募金計画 / 愛国婦人会・国防婦人会・女子青年団員らが街頭募金、新聞社の飛行機が5万枚のビラを撒き、小学児童も4万枚のビラを配布、交通整理員がメガホンで宣伝しながら自動車5台で3万枚のビラを配布、さらに各区長の指揮のもと、役員が各戸をまわって募金 / 9月1日からの「銃後週間」中に、すでに5万円に達しようとする勢いであった
・ このころから、兵事義会の活動は経済的援助に集中
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市銃後奉公会 |
1939年(S14)4月~ |
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
* 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称
・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
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「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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ベガルタ仙台 |
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1999年(H11)~ |
仙台市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ / 1988年(S63)創部の東北電力サッカー部が前身 / ホームスタジアムは、1997年(H9)6月に泉区七北田にオープンした「仙台スタジアム」(2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」に改称)
* 1995年(H7)、Jリーグ準会員
* 1999年(H11)からのJリーグの2部制開始とともにJ2に参加
* 1999年(H11)~2001年(H13)、J2
* 2002年(H14)~2003年(H15)、JI
* 2004年(H16)~2009年(H21)、J2
* 2010年(H22)以降、J1 (2020年現在)
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Wikipedia「ベガルタ仙台」2020年7月18日版
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ペデストリアンデッキ |
仙台駅西口 |
1981年(S56) |
* 1979年(S54)12月22日、ペデストリアン・デッキ使用開始(続・ 宮城県郷土史年表」P105)
* 1981年(S56)8月4日、ペデストリアン・デッキ全面完成(仙台駅と西側のビル群を結ぶ)(「仙台市史 年表」P132)
* 1982年(S57)6月23日、東北新幹線仙台駅が開業(新幹線が、大宮・盛岡間で暫定開業)
* 1985年(S60)10月31日、仙台ホテル前~仙台十文字屋間、開通式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P105/「仙台市史 年表」P132、P133、P196
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37-07、37-08/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P112(S59、カラー)
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ヘレンケラー女史 |
来仙 |
1937年(S12)/1948年(S23) |
* 1937年(S12)6月31日、仙台市公会堂で講演を行い、翌日に宮城県立盲亜学校を訪問
* 1948年(S23)9月8日、二度目の来仙(盲学校訪問、宮城学院で講演)
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「仙台市史 年表」P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P458、P529/「仙台市史10 年表」P319/「目で見る仙台の歴史」P185
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S23年(2度目の来仙)は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校訪問)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34
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奉安殿 |
撤去指示 |
1946年(S21) |
【「日本大百科全書(ニッポニカ)」の用語解説】
学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。敗戦後、「御真影」は焼却され奉安殿は取り壊された。
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* 1946年(S21)7月4日、奉安殿の撤去を指示(教育民生部長通牒)
* 1946年(S21)10月8日、文部省、教育勅語の奉読を廃止(菅家年表)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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54-01、73-04
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防空演習(防空訓練) |
宮城県で初の防空演習 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)11月4日、第二師団司令部、仙台市を中心に1市4町18カ村で防空演習を実施させる(仙台で初の防空演習)/ NHK仙台放送局が防空演習を中継放送
(* 1931年(S6)9月18日、満州事変勃発)
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台放送局60年のあゆみ」P3/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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防空演習(防空訓練) |
灯火管制訓練 |
1935年(S10) |
<訓練>
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
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「仙台市史 年表」P107
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防空演習(防空訓練) |
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1936年(S11)~1938年(S13) |
<防護団>
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)8月17日、仙台中央街防空演習
* 1936年(S11)9月18日、仙台市で大防空演習(満州事変5周年記念)
(* 1937年(S12)7月7日、日中戦争勃発)
* 1937年(S12)
4月5日、防空法公布(10月1日施行)/9月15日、宮城県灯火管制規程公布/9月17日、仙台市防空演習/10月1日、仙台市役所に防空係設置/11月16日、関東東北地方防空訓練
<家庭防火群>
「1937年(S12)10月頃から、家庭防火群組織開始。5~20戸で1ブロック、数ブロックで町家庭防火団を結成、防護分団がこれを統制する。家庭には防火担当者、群には群長を選任、工場やアパートなど特殊建物には特別家庭防護群をおく / 各家庭は常時防水用として水槽やたらい、バケツ、ホースなどを備え、戸外には防火土砂を用意。訓練警戒警報が出ると婦人はモンペ姿でバケツ・リレーの演習に引っ張り出された。」(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1938年(S13)
3月、仙台市防空委員会設置/ 8月27日、防空訓練/9月13日、東部防空訓練/11月26日、東部防衛司令部防空演習
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P37~39/「仙台放送局60年のあゆみ」P12/「仙台市史10 年表」P289、P290、P291、P294/「重訂 宮城県郷土史年表」には防空訓練関連記述なし
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防空演習(防空訓練) |
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1939年(S14) |
* 1939年(S14)5月18日、第一次防空訓練開始
* 同年7月24日、第二次防空訓練(5日間実施)
* 同年8月24日、内務省、家庭防空隣保組織要綱通牒(町内防空業務を隣組へ統合)
* 同年10月22日、第三次防空訓練(一週間実施)
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* 同年7月22日~一週間、仙台を中心とする防空演習(仙台駅が爆撃をうけたという想定で消火避難訓練)(「ものがたり東北本線史」P510)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台市史 10 年表」P295、P296/「ものがたり東北本線史」P510/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39
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