項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
東北歴史資料館 |
開館 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)8月1日多賀城町に開館
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「続・ 宮城県郷土史年表」P31
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東北六魂祭 |
第1回 |
2011年(H23) |
* 2011年(H23)、東北六魂祭(第1回)を仙台で開催
東北6県の各県庁所在地の代表的な6つの夏祭りを一同に集めた祭り / 2011年(平成23年)3月11日発生した東日本大震災の鎮魂と復興を願い、同年より2016年(H28)まで東北6県都で持ち回り開催された / 2017年(H29)より「東北絆まつり」へと引き継がれた
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「東北六魂祭」(2020年7月)
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東北絆まつり |
第1回 |
2017年(H29) |
* 2017年(H29)、東北絆まつり(第1回)を仙台で開催
東北六魂祭開催地が6年間(2011~2016年)で各県を一巡したあと、その後継のまつりとして2017年から開催 / 2020年(R2)は5月に山形で開催予定だったが、新型コロナウィルスの影響で、延期となる
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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遠見塚古墳 |
国の史跡に指定 |
1968年(S43) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「遠見塚古墳は、仙台平野のほぼ中央部、広瀬川北岸に発達した標高約10mの自然堤防上に位置している。仙台市内では最大規模の前方後円墳であり、宮城県内においても雷神山古墳に次ぐ大型古墳である。1947年(S22)に駐留米軍の霞目飛行場拡張工事により後円部の北側半分が削られ、さらに仙台バイパスの計画路線に入る等破壊の危機にさらされたが、昭和43年に国の史跡に指定され、昭和55年には周辺部が追加指定となり、史跡公園として整備され、恒久的保存が図られた。昭和50年から昭和57年にかけて古墳の環境整備に伴って発掘調査が行われ、後円部から2基の割竹形木棺と副葬品として碧玉管玉(くだたま)、ガラス製小玉、竹製黒漆塗り竪櫛等が発見された。この古墳に埋葬されたのは、当時仙台平野一帯を支配した豪族と考えられ、構造や出土品から古墳時代末の4世紀末頃に築造されたものと考えられている。」
* 1968年(S43)、国の史跡に指定
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仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」
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「市民の戦後史(仙台市)」P86(古墳空撮)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図88~89(畑地時代空撮、H6空撮カラー)
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特別調達庁 |
仙台支局設立 |
1947年(S22) |
<国立公文書館アジア歴史資料館「アジ歴グロッサリー」より> 特別調達庁は、1947年(S22)年9月、法律第78号「特別調達庁法」により公法人として設置。業務内容は、連合軍関係の設営工事の契約・連合軍需要品の調達・連合軍の需要する労務その他の役務調達・連合軍関係の設営に伴う設計調査の受託など。連合国軍の占領政策の縮小に伴い再編され、1952年(S27)に調達庁と改称、1958年(S33)には防衛庁の外局となり、1962年(S37)に防衛庁建設本部と合わせて防衛施設庁となった。
* 1947年(S22)12月10日(または、翌年1月)、特別調達庁仙台支局設立
* 1948年(S23)1月、特別調達庁仙台支局業務開始(県庁内に事務所)
* 1949年(S24)6月1日、仙台特別調達局と改称
* 1950年(S25)1月14日、仙台特別調達局全焼
* 1952年(S27)4月1日、仙台特別調達局、仙台調達局と改称(駐留軍施設及び区域提供、その損害補償の業務を開始)
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「仙台市史10 年表」P317、P319、P321、P322、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P524、P540、P555
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都市型CATV |
仙台に登場 |
1989年(H1) |
* 1989年(H1)11月、仙台市に都市型CATV(有線テレビ)開局
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「続・ 宮城県郷土史年表」P264
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特急はつかり |
上野~青森間 |
1958年(S33)~1982年(S57) |
* 1958年(S33)10月10日、東北初の特急列車「はつかり」、上野~青森間を常磐線経由で運転開始(「仙台市史 年表」P120)
* 1960年(S35)12月10日、「はつかり」(常磐線経由)が気動車(ディーゼル)特急となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P598)
* 1968年(S43)10月、特急「はつかり」が全列車東北本線経由となる(Wikipedia「はつかり(列車)」)
* 1982年(S57)11月15日、特急「はつかり」、新幹線開業(6月23日)により運行区間を盛岡駅~青森駅間に短縮(Wikipedia「はつかり(列車)」)
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「仙台市史 年表」P120/「重訂 宮城県郷土史年表」P589、P596、P598/Wikipedia「はつかり(列車)
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「市民の戦後史(仙台市)」P104(S33年10月、はつかりの蒸気機関車)/「市民の戦後史(仙台市)」P220(走行する電車特急はつかり)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P58(S37)
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特急ひばり |
上野~仙台間 |
1962年(S37)~1982年(S57) |
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122)
* 1982年(S57)11月22日、特急「ひばり」(上野~仙台)お別れ運転(この年6月23日、東北新幹線が大宮~盛岡間で開業)
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「仙台市史 年表」P122/「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567に、特急「ひばり号」の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P58(S37)
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トラックターミナル |
仙台トラックターミナル開業 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)11月20日、仙台トラックターミナル、仙台市苦竹に開業、16業者参加
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「仙台市史 年表」P122 /「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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トラックターミナル |
仙台南トラックターミナル完成 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)10月1日、仙台南トラックターミナル完成(名取市熊野堂に)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P86
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名掛丁商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 名掛丁通り(ナカケチョウ)>
「御名懸組の組士屋敷が置かれたまちである。新伝馬町の東端から東七番丁車町に至るまでの丁をいう。明治二十年の鉄道開通で町内が二分され,駅から西は繁華街となった。駅の東裏には島崎藤村の下宿があり,「若菜集」の作品群が書きつづられた。」
* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成
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「仙台市HP」の「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(名掛丁通り)」/仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271
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99-029、16-28、50-02、22-29、20-30/「市民の戦後史(仙台市)」P47(昭和20年代)/「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図35~36(S26年、H8年カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P371(アーケード、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P11(S29、商店街入口付近)、P52(S35年、俯瞰)
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仲の瀬橋(広瀬川) |
木造橋架橋/ゲルバー型に架け替え/二層構造の橋架橋 |
1927年(S2)/1956年(S31)/1980年(S55)or1983年(S58) |
(旧)中の丁から川内地区を結ぶ橋
* 1885年(M18)11月24日、広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
* 以前は私設の渡銭橋だった
* 1927年(S2)11月11日、第二師団工兵第二大隊の架橋演習により架設され竣工、開通式(S3年の「東北産業博覧会」に備え架橋) / 木造ポニートラス六連の橋で、長さ170.6m、有効橋幅5m
* 1940年(S15)9月5日、大雨による広瀬川氾濫で流失
* 1941年(S16)5月、工兵第二連隊の架橋演習として修築
* 1950年(S25)、出水時に橋桁、橋台など被災 その後復旧
* 1953年(S28)、架け替え着工
* 1956年(S31)9月に、ゲルバー型の鋼板桁橋完工(長さ163.3m、幅9m)
<二重構造の橋>
(注:Wikipedia「西公園」と、Wikipedia「仲の瀬橋」で開通年が異なる)
* 1980年(S55)8月、仙台西道路新仲の瀬橋下り車線完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P116)
* 1980年(S55)8月、二層構造の橋架橋完成(Wikipedia「仲の瀬橋」) / 上層の道路は地上の道路とつながり、下層の道路は仙台西道路(国道48号バイパス)として川内トンネルとつながる
* 1983年(S58)、仙台西道路の建設に伴い、2層構造になる
* 1983年(S58)5月14日、仙台西道路が暫定開通、同時に(新)仲の瀬橋も開通(Wikipedia「西公園」の年表)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412/「仙台市史10、年表」P270/「仙台市史 年表」P85、P104、P110、P111/「仙台年表」P210、P211/Wikipedia「仲の瀬橋」(2019年11月)/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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34-31-01、07-02-01、16-47、16-48 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P87(昭和3年)/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年架橋以前の傷んだ仲の瀬橋、S31年3月完成した新仲の瀬橋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図25~27(S26年木造橋、S54年高架橋工事中、H8高架橋カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P57(S37、カラー)
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長町駅(JR) |
開業 |
1896年(M29) |
<JR東北本線・長町駅>
* 1894年(M27)10月、日本鉄道の長町駅完成
* 1894年(M27)10月30日~11月3日、第2師団が長町から出征(日清戦争)(「仙台市史 年表」P89)
* 1896年(M29)2月21日、一般営業(民用の駅として)開業(「仙台市史 年表」P89)
* 1923年(T12)、2代目駅舎に改築
* 2006年(H18)9月18日、JR駅が高架化(翌日から、2代目駅舎撤去開始)
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「仙台市史 年表」P89/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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長町駅(秋保電鉄) |
開業 |
1914年(T3) |
<秋保電鉄・長町駅>
* 1914年(T3)12月23日、秋保石材軌道(のちの秋保電気鉄道)の駅が開業
* 1961年(S36)5月8日、秋保電気鉄道線廃止(7日にさよなら運転)
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「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 年表」P97/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(仙台市電) |
開業 |
1936年(S11) |
<仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(仙台地下鉄) |
開業 |
1987年(S62) |
<仙台地下鉄南北線・長町駅>
* 1987年(S62)7月15日、仙台市営地下鉄南北線の長町駅が開業
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「仙台市史 年表」P135/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅貨車操車場 |
完成 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)6月11日、東北本線の長町駅貨車操車場(長町ヤード)が完成
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「仙台市史 年表」P102
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奈良原式鳳号 |
仙台で飛行を披露 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)11月15~16日、「大正2年、宮城野原に於いて飛行機(奈良原式)はじめて滑走しわずかに地上を離れたる程度なりき これを見物する為、数萬の群衆宮城野原に殺到す」
/「仙台市史 年表」P96には「大正2年9月22日、宮城野原練兵場で飛行大会開催」とあるが、日付が異なるので別の大会か?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P356
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99-160、99-161、99-162
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西内楽器店 |
開店~焼失 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
繁華街の東一番丁・大町交差点の北東角にあり、中央部が塔屋含めて5層に見える木造建築(大正15年竣工)が、向かい(南東角)の藤崎デパート西館(3階建ビル、昭和7年竣工)とともに特徴ある風景を象づくり、昭和戦前期の仙台の代表的景観のひとつだった
・ 呉服商の「大内屋」が建てた長屋で、数軒の店が入居
・ 木造2階・一部3階・瓦葺・真壁漆喰塗
* 1926年(T15)、竣工(中央正面の目立つ場所に「西内楽器店」が入った)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「古写真に見る仙台の建築」P44
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98-015、53-20、11-03、22-27、20-46、44-69、49-04、64-03、22-52
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西内楽器店 |
コロンビア・マーク |
1932年(S7)~1935年(S10)5月の間に設置された |
西内楽器店の最上層についていた「コロンビアマーク」
* 藤崎西館開店した1932年(S7)11月にはまだなかった(写真53-20)
* 1935年(S10)5月(藩祖公300年祭仮装行列時)にはついている(写真44-69)
・ 従って、S7年11月~S10年5月の間についた
・ 空襲(S20)焼失までついていたかは不明
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44-69 (S10年5月)/22-52、20-46は、S10年12月以降、
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西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦前 |
仙台市中心部、広瀬川東岸にあり、東の榴ケ岡公園とならんで、仙台の代表的な公園
* 1875年(M8)6月、宮城県が設置(市史年表P81)
宮城県県令が旧仙台藩門閥の3つの邸地5447坪を収容し明治8年に公園とし「櫻ケ岡公園」と称した(別に本柳町公園、西公園とも称した)
園内には、
・ 桜ケ岡大神宮のほか、
・ 戦前は仙台市公会堂の木造本館(M42年に市が割烹・挹翠館=ゆうすいかんを買収)と洋館の新館(T5年竣工)
・ 公会堂前付近にS3年5月、地元有志「桜ケ岡会」により、動物園・噴水・池などが新設された。(Wikipedia「西公園」)
・ 軍馬の銅像(日露役殉死軍馬銅像)
・ 朝鮮館(S3年の東北産業博覧会の展示館の1つで、博覧会後に寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
・ 殉職消防組員招魂碑(S6年6月建立)
・ 花壇(S7年11月、市民の寄付で設置)などがあった
軍馬の銅像は戦時中の金属回収で1943年(S18)か1944年(S19)に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた 公会堂(本館、新館)は仙台空襲(S20年7月)で焼失、朝鮮館は焼失を免れたが、1950年(S25)に解体された
<参考>
・ 以上の記述にある「桜ヶ丘大神宮」「仙台市公会堂」「挹翠館」「軍馬の銅像」「朝鮮館」を、キーワードで検索すると、それぞれの詳細な記述あり
・ 「仙台市史本篇2 P371」に戦前期(推定、S5~6年頃)の公園の平面図がある ⇒ 写真[98-074]はその平面図の接写
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「仙台市史 年表」P81/「仙台市史 本編2」P367~373の「桜ガ岡公園」/Wikipedia「西公園」/「仙台あのころこのころ八十八年」P246
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53-63、99-119、44-67など分類D-13-02「桜ケ岡公園(西公園)」の全写真/「公園内見取り図」(昭和5~6年頃)は、98-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P119(桜ケ岡大神宮の鳥居と社殿)
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西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦後 |
<戦後>
・ 仙台空襲後の住宅難対策で一時期は集団公営住宅(60棟)が建てられていたが、戦災復興事業により北方に大拡張し、あわせて3万6230坪の公園として整備された(11.45haに拡張)
* 1947年(S22)3月13日、戦災復興事業による道路・公園名の公募の結果、名称は「西公園」と決定 / S23年から整備開始
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、西公園で、仙台復興祭グランド・フェア開催
* 1950年(S25)6月、軟式野球場
* 1960年(S35)8月、仲の町の「不法占拠住宅」約200世帯のうち、一部を強制立ち退き
* 2015年(H22)12月6日、地下鉄東西線開通し、最寄駅の「大町西公園駅」開業
<天文台>
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(市史年表P119) / 41センチ・マケリン氏反射赤道儀、当時は全国4番目の大きさ(「重訂 宮城県郷土史年表」P575)
* 翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に
* 1968年(S43)5月、プラネタリウム館併設(河北新報社寄贈)
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了(翌年、新天文台が青葉区錦ケ丘にオープン) → 項目「仙台市天文台」参照
<市民プール>
* 1961年(S36)7月20日、市民プール(西公園プール)が西公園西下の中瀬に竣工し、落成式(22日に開園)(市史年表P112)
* 2006年(H18)、西公園プール廃止
<市民図書館>
* 1962年(S37)10月27日、公園内に、市民図書館が設置された(市史年表P112)
* 1962年(S37)10月、浜夢助の句碑「雪国にうまれ無口に馴らされる」市民図書館付近に建立
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転
<こけし塔>
* 1961年(S36)3月27日、仙台市の戦災復興都市計画事業完了を記念して、西公園で「こけし塔」除幕式がおこなわれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P600)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P464~465/「仙台市史 年表」P119、P122/「仙台市史 本編2」P36~37の「桜ガ岡公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P601、P606、P607/Wikipedia「西公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P601
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「目で見る仙台の歴史」P178(戦後の西公園)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(戦災復興都市計画事業完了記念こけし塔)/同P136~137(市民プール)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール、カラー)
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西本願寺別院(東一番丁) |
東一番丁に落成/元常盤町へ移転 |
1883年(M16)~1954年(S29) |
<Wikipedia「本願寺仙台別院」より>
・ 戦前期は、仙台陸軍病院に近いこともあり、仙台の陸軍第二師団の殉職者のうち無援仏を慰霊する役割も担った
・ 1933年(S8)、近くに三越が開店、本堂は東一番丁から参道を通って奥まった場所にあったため、東一番丁に面する参道両側の土地は、庶民に貸し出して商売をさせた
・ 戦後、仙台市が戦災復興事業によって中心市街地から寺院や墓地を移転させる方針を採ったため元常盤町(のちの支倉町)へ移転した(Wikipedia「本願寺仙台別院」では、昭和29年移転)
<主に、「本願寺仙台別院」HPより>
* 1877年(M10)、仙台・南町に、本願寺東京事務所宮城支局設置、6県下の事務取扱を行う / 同時に、東一番丁に本堂新築開始
* 1878年(M11)、仙台説教所設立、宮城小学校を設置
* 1880年(M13)、仙台説教所を別院とする
* 1883年(M16)、仙台区東一番丁に仮本堂落成
* 1910年(M43)、洋風の本堂が落成
* 1929年(S4)、無優樹幼稚園開園(S12に、あそか幼稚園と改称)
* 1938年(S13)、戦没者追悼法要(日中戦争)
* 1945年(S20)7月、仙台空襲により本堂など焼失、幼稚園休園
* 1947年(S22)、仮本堂新築落成
* 1950年(S25)、元常盤町(現・仙台市青葉区支倉町)を移転復興の地と定め、仮本堂庫裡を新築
* 1954年(S29)、元常盤町へ移転
* 1956年(S31)、幼稚園舎を新築、「あそか幼稚園」再開
* 1959年(S34)、新本堂新築落成
* 2011年(H23)、東日本大震災で、本堂など被災、幼稚園閉園
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「本願寺仙台別院」HP/Wikipedia「本願寺仙台別院」 (出典: 「本願寺仙台別院 沿革」)/参考「東一番丁物語」(柴田量平著)P205~206によれば、最初の本堂落成は、M15年/「番丁詳伝」P64
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西本願寺別院(東一番丁)の位置は、98-122/西本願寺がつくり商店を入居させた長屋は、47-06
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二十人町 |
戦前 |
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「二十人町」は東北線の東側にある商店街
(仙台駅東口がなかった1952年(S27)夏までは)仙台駅からは、駅西側の駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋エックスバシ)で越えるのが経路だった
・ 藩政時代に、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる
・ 戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客で賑わい、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第4連隊の兵隊さんや連隊に出入りの人々相手の商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設、昭和31年1月閉鎖)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた
・ 1937年(S12)の日中全面戦争以降は、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足でやむなく店を閉鎖したり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた
・ 1945年(S20)7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失
<二十人町と鉄砲町>
・「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121に、両町の由来、沿革の記述あり
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「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121
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写真分類A-05-07二十人町の全写真(34-05、34-06、34-04、75-04、98-142など)/16-04、16-10ほか/「目で見る仙台の歴史」P138に「二十人町教会堂」
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二十人町 |
戦後 |
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・ 戦後、昭和20年9月~31年6月に、近くの歩兵第4連隊兵営跡地に米占領軍が駐留(キャンプ・ファウラー)
・ 市中心部が戦災で壊滅した中で二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという
・ 商店数はS10年頃が54店、S30年頃が70店
しかし、
* 1952年(S27)、最寄駅の仙石線東七番丁駅(昭和19年に仙台東口駅と改称)が廃止
* 1956年(S31)6月、米軍キャンプ・ファウラーが返還
* 1956年(S31)、片倉工場閉鎖 などで
商店街はそれまでの存立基盤を失うが、S20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、青年会もS32~35年には七夕仕掛物で毎年、全市商店街コンクールで2等賞を獲得などが明るい話題となった
* 1985年(S60)、再開発事業に着手(「仙台クロニクル」P120)
<二十人町教会>
商店街の真ん中に1895年(M28)年から二十人町教会があった
* 1982年(S57)6月、1909年(M42)建築の教会堂、取壊し始まる
* 1988年(S63)、教会が原町5丁目に移転
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「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120
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二十人町の七夕仕掛け物、75-01、75-02/「目で見る仙台の歴史」P189(戦後20年代の二十人町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図67~68(二十人町S32年、H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、カラー)
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日米野球 |
米大リーグ選抜対明治大学 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)11月10日、八木山球場で、「アメリカ大リーグ選抜(グローブ投手やゲーリッグら)対明治大学チーム」の日米野球試合(米13-明治2)が行われた
(【「仙台はじめて物語」P235~241】に詳述あり)
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「仙台はじめて物語」P235~241/「重訂 宮城県郷土史年表」P428/「仙台年表」P202
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98-064 (「新・目で見る仙台の歴史」P155の米チーム一行記念撮影と同じ)
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日米野球 |
米大リーグ選抜対全日本選抜 |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)11月9日、八木山球場で、「米大リーグ選抜と全日本選抜」が対戦、ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ
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「仙台市史 年表」P107
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日米野球 |
シールズ対六大学選抜 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)秋、サンフランシスコ・シールズ(オドール監督)対六大学選抜(評定河原球場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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日米野球 |
米大リーグ選抜対巨人軍 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球、米大リーグ選抜対巨人戦、宮城県営野球場で開催 / オドール監督以下ディマジオ兄弟ら
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「仙台市史10年表」P326/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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日米野球 |
全米オールスターズ対全パシフィック |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月22日、宮城県営野球場で、全米オールスターズ対全パシフィック軍(米3-日0)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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日米野球 |
来仙チーム |
1953年(S28)?~1956年(S31) |
* 1953年(S28)?、ニューヨーク・ジャイアンツ来仙試合
* 1955年(S30)、ニューヨーク・ヤンキース
* 1956年(S31)、ブルックリン・ドジャース
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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ニッカウイスキー工場 |
仙台工場 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)5月10日、仙台工場を宮城町新川地内に完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P649
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日本銀行 |
仙台支店(芭蕉の辻)開設 |
1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店
(2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店
(3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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戦前は、16-01/戦災焼失は、35-13、53-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後)
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日本生命館 |
落成 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)
* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った
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渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209
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戦前は、53-91/戦後は、63-04、18-14、36-08
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日本生命館 |
取壊し |
1968年(S43) |
・「S43.11 消えるレンガ館 仙台日生館」の写真あり(「市民の戦後史」P202)
・ 解体はS42年(か?)(「仙台クロニクル」P89)
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P88~89(カラー、S42年、解体中)
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日本農民組合 |
宮城県連合会大会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)、日本農民組合宮城県連合会第3回大会(仙台市公会堂) / ビラに書かれたスローガン(俺達の大会を守れ! 働く農民に土地を保証せよ! 土地取上絶対反対! 耕作権を確立せよ!)
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「新・目で見る仙台の歴史」P148
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(大会ビラにスローガン)
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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ネオンサイン(全廃) |
全廃決定 |
1939年(S14) |
* 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された
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岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16
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ネオンサイン
(戦後復活) |
戦後復活 |
1950年(S25) |
* 1949年(S24)3月、(全国)ネオン広告を全面解除
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
* 1951年(S26)2月、電力事情悪化 / ネオン、エレベーターなどの使用禁止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43/仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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53-82(S26~27年頃の仙台駅前夜景)
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ネオンサイン |
オイルショック後復活 |
1975年(S50) |
* 1973年(S48)10月25日、石油ショック発生
* 1973年(S48)11月5日、石油ショックで東京など大都市のネオンが消える(「菅家年表」P67)
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)10月6日、東京・銀座にネオンが復活(「菅家年表」P68)
* 1975年(S50)11月、オイルショック以来消えていた仙台のネオンが点灯復活(「続・ 宮城県郷土史年表」P47)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P47
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ネオンサイン |
省エネ消灯 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)6月16日、省エネで、ネオン9割近く消灯
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「続・ 宮城県郷土史年表」P112
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年賀郵便 |
戦時中に廃止 |
1941年(S16)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止
* 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42
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年中行事(まつり) |
仙台七夕 |
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* 毎年8月6日~8日開催 → 項目「仙台七夕」を参照
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写真分類E「仙台七夕」の全写真
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年中行事(まつり) |
仙台祭 |
1887年(M20)~ |
* 1887年(M20)10月、招魂祭に合わせて桜岡大神宮祭礼や青葉神社祭礼などの仙台祭がおこなわれる。 この年以降、招魂祭と仙台祭は合同開催となる
* 1899年(M32)、仙台まつりの山鉾は路上の電線その他の関係によりこの年限り廃止となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P315)
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「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P315
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年中行事(まつり) |
青葉まつり |
1956年(S31)~ |
→ 項目「青葉まつり」参照
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年中行事(まつり) |
東北三大まつり |
1969年(S44)~ |
* 1969年(S44)5月30日、仙台七夕、秋田竿灯、青森ねぶた、仙台市内でパレードを行う
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「重訂 宮城県郷土史年表」P649
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年中行事(まつり) |
仙台市民まつり |
1975年(S50)~ |
* 1975年(S50)11月1日~3日、第1回開催
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P46
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「新・目で見る仙台の歴史」P207
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年中行事(まつり) |
SENDAI光のページェント |
1986年(S61)~ |
* 1986年(S61)12月12日~27日、第1回「SENDAI光のページェント」開催(定禅寺通りと青葉通り)
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P215
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乗合馬車 |
開業 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)11月14日、仙里軒(国分町)が仙台(国分町)~岩沼間の乗合馬車を開業
* 1878年(M11)、萬里軒、開業 / 仙台~福島間2円30銭(「番丁詳伝」P29)
* 1881年(M14)4月21日、万里軒(萬里軒)が国分町に本店、仙台~白石間の乗合馬車を開業 / 同年12月15日から、仙台・福島間運行、仙台~福島間2円30銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195)
* 1884年(M17)3月、万里軒が、福島(盛運社)と宇都宮(手塚舎)の業者と共同で、乗り継ぎ制で、仙台~東京間の乗合馬車を開業 / 仙台~福島間1円70銭、仙台~東京間7円67銭(「番丁詳伝」P29) / 料金については「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195にも詳述
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195によれば、、仙里軒、万里軒のほかに、この時期には、宝來軒(東一番丁)、盛運社(福島)、旅館菊平(国分町)、自由軒(国分町)と乗合馬車事業が競合関係にあった
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「仙台市史 年表」P82、P84、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195/「番丁詳伝」P29
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(万里軒の引札)
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パーマネント |
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1934年(S9)頃~ |
* 1934年(S9)頃から、一般家庭婦人の間に流行りだす
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P314/岩波ブックレット「年表昭和史」P12
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