仙台よみとき用語年表
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大学・短大 東北工業大学(2)  2004年(H16)以降 
* 2004年(H16)4月、工学部通信工学科を情報通信工学科に名称変更
* 2005年(H17)4月 情報処理技術研究所を改組 / 新技術創造研究センター、eラーニングセンター及び情報ネットワーク管理室を開設
* 2007年(H19)4月 工学部電子工学科を知能エレクトロニクス学科に名称変更
* 2008年(H20)4月、ライフデザイン学部開設(クリエイティブデザイン学科・安全安心生活デザイン学科・経営コミュニケーション学科開設)、工学部デザイン工学科募集停止
* 2008年(H20)4月、香澄町キャンパスを八木山キャンパスに、二ツ沢キャンパスを長町キャンパスに名称変更
* 2011年(H23)4月、工学部建設システム工学科を都市マネジメント学科に名称変更
* 2012年(H24)4月、工学部環境エネルギー学科を開設、工学部環境情報工学科募集停止 / 大学院ライフデザイン学研究科デザイン工学専攻開設、大学院工学研究科デザイン工学専攻募集停止
* 2013年(H25)1月、 長町キャンパス4号館完成
* 2014年(H26)4月、 新技術創造研究センターを地域連携センターに改称
* 2016年(H28)4月、情報センターにe-ラーニングセンターを統合し、情報サービスセンターに改称
* 2017年(H29)4月、工学部知能エレクトロニクス学科を電気電子工学科に名称変更
* 2020年(R2)4月、工学部環境応用化学科 設置(工学部環境エネルギー学科 募集停止)/ 建築学部建築学科設置(工学部建築学科 募集停止) / ライフデザイン学部クリエイティブデザイン学科を産業デザイン学科に名称変更、ライフデザイン学部 安全安心生活デザイン学科を生活デザイン学科に名称変更 
「東北工業大学」HP  /「市民の戦後史(仙台市)」P179(八木山キャンパス) 
大学・短大 宮城教育大学  1965年(S40)  東北大学教育学部教員養成課程を分離し、国立の宮城教育大学を設立

  年表は → 項目「宮城教育大学」参照 
  「市民の戦後史(仙台市)」P218(S43年10月、青葉山に完成した宮城教育大学校舎群) 
大学・短大 仙台白百合短期大学  1966年(S41)~2002年(H14)  <前史>
* 1892年(M25)、仙台にシャルトル聖パウロ修道女会の修道院設立
* 1893年(M26)、私立仙台女学校が設立
* 1948年(S23)月日、校名が仙台白百合学園と改められ、幼、小、中、高までを備えた教育機関となる

<仙台白百合短期大学>
* 1966年(S41)4月1日、開校(家政科)
* 1966年(S41)4月18日、泉町に開校
* 1987年(S62)、英語科を増設
* 2002年(H14)、短大を大学に統合
 ( → 以下、小項目「仙台白百合女子大学」参照) 
「仙台白百合女子大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P560/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P565  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P546/「市民の戦後史(仙台市)」P179 
大学・短大 仙台白百合女子大学  1996年(H8)~  * 1996年(H8)、「仙台白百合女子大学」創立(人間学部に人間発達学科と人間生活学科)
* 2002年(H14)、短大を大学に統合 / 大学の人間学部が、人間発達学科、総合福祉学科、健康栄養学科、国際教養学科の4学科体制となる
* 2013年(H25)、学科再編し、人間発達学科、心理福祉学科、健康栄養学科、グローバル・スタディーズ学科の4科に 
「仙台白百合女子大学」HP   
大学・短大 仙台大学  1967年(S42)  * 1967年(S42)4月、学校法人朴沢学園が仙台大学を宮城県柴田郡柴田町船岡に開学し、4年制体育学部(体育学科)を開設
* 1968年(S43)2月、体育学部体育学科に教職課程が認可
* 1995年(H7)4月、体育学部に健康福祉学科を開設
* 1998年(H10)4月、大学院スポーツ科学研究科スポーツ科学専攻(修士課程)を開設
* 2001年(H15)4月、仙台大学体育学部運動栄養学科を開設 / 厚生労働省指定栄養士養成施設を併設
* 2007年(H19)4月、大学体育学部スポーツ情報マスメディア学科を開設
* 2008年(H20)4月、大学にスポーツ情報マスメディア研究所を開設
* 2009年(H21)4月、大学院スポーツ科学研究科に1年コースを開設
* 2011年(H23)4月、仙台大学体育学部現代武道学科を開設
* 2013年(H25)4月、大学スポーツ情報マスメディア研究所を「仙台大学スポーツ健康科学研究実践機構」に改編
* 2017年(H29)4月、大学体育学部子ども運動教育学科を開設
* 2017年(H29)11月、大学開学50周年記念IFE(International Friendship Event)を開催
* 2018年(H30)1月、仙台大学開学50周年記念式典・祝賀会
* 2018年(H30)10月、大学にスポーツ局を設置
* 2020年(R2)4月、明成高等学校を仙台大学附属高校とした  
「学校法人朴沢学園」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P565~566   
大学・短大 大学紛争  1969年(S44)  この年、東北大学、宮城教育大学、東北学院大学で大学紛争が盛んになる → 項目「大学紛争」参照  「仙台市史 年表」P126   
大学紛争 仙台(1)  1968年(S43)~1969年(S44)前半  <1968年(S43)>
・ 1月22日、東北学院大学、授業料値上げをめぐり学生の反対運動
・ 2月8日、東北学院大学、新入生の学費値上げをめぐり大学内紛争、12日から期末試験を中止
・ 11月16日、東北大学、大学本部が学生によって封鎖

<1969年(S44)前半>
 (1月19日、機動隊、東大安田講堂の封鎖解除、631人逮捕)
・ 5月23日、東北大学、大学立法に反対し、教養部で2週間スト
・ 6月2日、東北大学に学生により構内に引きずり込まれた私服警官を救出するため、機動隊出動して救出
・ 6月5日、東北大学、事務局封鎖解除をめぐり、学生同士が乱闘、二百数十人負傷
・ 6月25日、東北大学、反代々木系学生等、同大学理科実験棟を封鎖
 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P49/「重訂 宮城県郷土史年表」P637、P638、P644、P649、P650/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538  「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、仙台市の中央通りに座り込む学生たち、大学講義棟封鎖) 
大学紛争 仙台(2)  1969年(S44)後半  <1969年(S44)後半> 
・ 7月1日、宮城教育大学、反代々木系学生が、同大学人文棟を封鎖
・ 7月7日、東北学院大学に機動隊出動し、封鎖中の押川記念館を解除
・ 9月18日、東北大学、教養部無期限スト、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 9月19日、宮城教育大学、反代々木系学生が講義棟封鎖、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 10月10日、「十月十日統一行動日」、仙台においてはじめてデモ隊が乗用車に放火、路上にバリケードを築き街頭闘争、学生9人逮捕
・ 10月16日、東北大学工学部管理棟、全共闘学生が封鎖
・ 10月19日、仙台市で、反代々木系学生宮城県反戦青年委員会のデモ、94人逮捕
・ 10月21日、国際反戦デー、東北は7万人参加、仙台では反代々木系学生74人逮捕
・ 10月29日、東北大文学部、教育学部を全共闘派封鎖
・ 11月14日、東北大学の臨時評議会において封鎖解除のため機動隊導入を決定
・ 11月22日、本川東北大学長、県警察本部に文書で学内封鎖解除のため機動隊導入を要請
・ 11月23日、宮城県警察機動隊、東北大学構内に出動、封鎖されていた教養部理科実験棟など5つの建物全部の封鎖を解除
・ 11月27日、東北大学、法・経・理の3学部授業再開
・ 12月1日、東北大学教養部ロックアウト解除、文学部・教育学部も授業再開 
 (12月17日、文部省、大学紛争白書を発表、紛争大学合計124校) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P650、P652、P653、P654、P655  「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、学生が大学講義棟を封鎖、 
大学紛争 仙台(3)  1970年(S45)~1976年(S51)  <1970年(S45)>
・ 3月9日、宮城教育大学、教授会で卒業式中止を決める
・ 3月30日、東北大学、臨時評議員会で、この年の入学式中止決定
・ 6月19日、仙台三高にゲバ装備の高校生十数人乱入、職員室や窓ガラスなどを破壊

<1972年(S47)>
・ 東北大学学費値上げに抗議した全学ストが長時間続き、2年生全体の3分の2にあたる1500名が新旧単位不足で留年
・ 6月12日、学生が東北大学教養部講義棟封鎖

<1976年(S51)>
・ 2月10日、東北大学教養部、紛争のため講義棟破壊
・ 3月25日、東北大学、卒業式で、演壇占拠事件 
「重訂 宮城県郷土史年表」P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P50、P52/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538   
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 宮城県内の動き(1)  1940年(S15)  * 1940年(S15)4月20日、紀元2600年奉祝、興亜時局博覧会開催(西公園、41日間、市商工会議所主催)/ 「同博覧会に37万人が入場」(佐々久「近代みやぎの歩み」P107)
* 1940年(S15)9月17日、仙台市会の五会派、新体制に添うため会派解消を申し合わせる
* 1940年(S15)9月18日、宮城県庁総務部に国民精神総動員課新設、11月19日に国民精神総動員課を廃して振興課を新設
* 1940年(S15)10月12日、大政翼賛会発会式、近衛首相臣道実践を力説
* 1940年(S15)10月13日、大政翼賛・三国同盟記念宮城県民大会(追廻練兵場)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝大では新体制に即応し報国団結成
* 1940年(S15)11月23日、大日本産業報国会、創立

<産業報国会> 「国家総動員体制-翼賛体制のもとに、国民は居住地域での公会・隣組などに組織されたほか各職域を通じてそれぞれの「報国会」に組み入れられた。中でも従来、各事業場で自主的に組織されていた労働組合は官民一体の「産業報国会」(総裁は厚生大臣)に吸収された(昭和15年11月)」(「仙台市史 続編第1巻」P42)

* 1940年(S15)11月26日、仙台市の公会は18区、341公会成立し、各公会は直ちに隣組を結成す
* 1940年(S15)12月23日、大政翼賛会宮城支部結成式(県会議事堂) 
* 1941年(S16)1月、大政翼賛会仙台支部結成(支部長は渋谷徳三郎仙台市長)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314) 
佐々久「近代みやぎの歩み」P107/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P474、P477、P479~480/「仙台市史10 年表」P298~300/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314   
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 宮城県内の動き(2)  1941年(S16)  <商人・自営業者などの転・廃業> 「産業、経済の戦時再編成に伴い、配給以外の品物しか取り扱うことができなくなった商人をはじめ軍需関係以外の自営業者(中小企業)、職人、官公吏、会社員などは余剰労力とみなされ、これを国策産業へ動員するため“職域奉公の臣道を実践する国策戦士”とおだてられて転・廃業をしいられ、やがて軍需工場、あるいは鉱山へ、はては遠く満州へ農業開拓戦士(→ 参考:項目「満蒙開拓」)として送り込まれていった。」(「仙台市史 続編第1巻」P42~43)

* 1941年(S16)1月24日、大政翼賛会仙台市支部結成
* 1941年(S16)4月20日、逓信報国団仙台支部結成
* 1941年(S16)4月22日、大日本産業報国会仙台地方鉱山部会設立
* 1941年(S16)5月11日、仙台鉄道局奉公会結成
* 1941年(S16)5月26日、宮城県産業報国会創立
* 1941年(S16)7月19日、仙台市内単位商業報国会結成、市商業報国連合会(会長は市長)結成

<商業報国会> 「なかでも、戦前は城下町で繁栄した商家の多くの人々は、座して自滅を待つより新体制の公益機関に奉公すべきであると勧められ、従来の商業組合を中心に仙台市内で60余の商業報国会を結成した。市連合会も結成され、新商業道の確立をめざして“商業報国の赤誠”を発揮することを宣言、店員の錬成道場などを開催するかたわら勤労奉仕にも繰り出したが、戦争が激化するにつれ、これら余剰労力はどしどし軍需工場はおろか常磐炭鉱などへツルハシ戦士として送り込まれた」(「仙台市史 続編第1巻」P43)

* 1941年(S16)12月27日、宮城・福島昭徳会、思想国防報国団結成 
「仙台市史10 年表」P301、P303/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42~43   
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 宮城県内の動き(3)  1942年(S17)以降  * 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)3月24日、翼賛政治体制協議会宮城県支部発会式
* 1944年(S19)1月18日、翼賛政治会、国民決戦生活要綱決定
* 1944年(S19)2月25日、東条内閣、決戦非常措置要綱決定(生徒学生1年間勤労動員、校舎軍需工場化、女子勤労動員、疎開促進、高級料飲店等禁止と施設転用、旅行徹底制限、官庁平時事務1年間停止、官庁休日の縮減など15項目) 
「仙台市史 年表」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P488/「仙台市史10 年表」P307/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P177『決戦非常措置要綱』   
第二高等学校(旧制) 第二高等中学校/第二高等学校(片平丁校舎時代)  1887年(M20)/1894年(M27)  <前身の第二高等中学校>
* 1886年(M19)公布の中学校令により、仙台市に第二高等中学校設  / 翌年9月、本科、予科、医科の3科で開校、同市東二番丁、荒町、片平丁へと移転した(「宮城県百科事典」P637)
* 1887年(M20)4月1日、第二高等中学校を19年4月発布の中学校令により仙台に創設す(7月仮事務所を宮城県尋常中学校に設け、8月荒町小学校内に移る(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1887年(M20)4月18日、文部省、第二高等中学校を仙台に設置 / 同年8月19日、第二高等中学校に医学部設置(「仙台市史 年表」P86)

<片平丁校舎へ>
* 1889年(M22)8月、片平丁に新校舎本館落成し、本部・医学部ともに東二番丁尋常中学校跡より移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1889年(M22)8月3日、片平丁に第二高等中学校校舎が完成(「仙台市史」P87) / 本館はゴシック風木造2階建、黒褐色のペンキ塗りで北欧風 / 1891年(M24)、盛大な開校式(「明治の洋風建築-宮城県-」P62) 

<第二高等学校 片平丁校舎時代>
* 1894年(M27)9月、第二高等学校と改称(「宮城県百科事典」P637)  
* 1994年(M27)6月25日、高等学校令を公布し「第二高等学校」と改称、さらに医学部と大学予科とを置く(「「重訂 宮城県郷土史年表」P298) / 開校記念日10月26日(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1994年(M27)9月11日、「第二高等学校」と改称(「仙台市史 年表」P89)
第二高等学校開校当時の組織(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)は、医学部(4年・定員200人)、本部(定員460人)、本科(2年・尋常中学校卒業程度)、予科(3年・尋常中学校第二学年修了程度) / 第1回の入学試験受験者73名、入学許可者7名
* 1901年(M34)4月1日、第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として独立(「仙台市史 年表」P91)
* 1910年(M43)、片平丁に書庫が完成(「仙台市史 年表」P95) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P276、P284、P298/「宮城県百科事典」P637「第二高等学校」/「明治の洋風建築-宮城県-」P62「第二高等学校」/「仙台市史 年表」P86、P87、P89、P91、P95  99-058 / 「新・目でみる仙台の歴史」P141の写真(第二高等中学校の開校式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P253(M24年5月の第二高等中学校校舎完成記念開校式の図)/「いつか見た街・人・暮らし」P18(学生服学帽の二高生が写る、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」P128(仙台医学専門学校校門と校舎)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P363(M44年ころ、仙台医学専門学校授業風景、女性看護婦も)/同P395(M44年ころ、仙台医学専門学校=旧宮城病院バックに学生たち) 
第二高等学校(旧制) 北六番丁校舎時代  1926年(T15)~1945年(S20)  <北六番丁校舎時代>
東北帝国大学法文学部設置にあたり片平丁の校地を提供して、北六番丁(現・東北大学農学部)に移転した
* 1925年(T14)7月、北六番丁校舎へ移転(「宮城県百科事典」P637)
* 1926年(T15)10月9日、二高新築校舎、尚志会運動場落成(「重訂」P404、「仙台年表」P197、「市史10 年表」P268)
* 1927年(S2)、自治問題や明善寮管理問題をめぐり校長排斥のストライキ
* 1934年(S9)12月28日、旧制二高7名と東北帝大ボート部員3名、松島湾で突風吹雪のため遭難、10人死亡(「重訂」P443、「市史10 年表」P284)

<護国尚志会>
* 1941年(S16)1月8日、第二高等学校護国尚志会発会式(「市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)7月20日、第二高等学校護国尚志会、二高総蹶起大会挙行(「重訂」P502、「市史10 年表」P308)

<戦時中、修業年限短縮>
* 1941年(S16)10月16日、勅令第924号「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」により、大学・高等専門学校、中等学校での就業年限を6か月短縮 / この年は12月に、翌年3月卒業予定者を繰上げ卒業
* 1942年(S17)8月21日、修業年限3年から2年に短縮(中等学校は5年を4年に短縮)
* 1943年(S18)1月21日、大学令改正で、大学予科、高等学校の修業年限を3年間から2年間に短縮(「市史10 年表」P304、「菅家」P30)

<終業年限短縮 ​Wikipedia「旧制高等学校」より転記>
「太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び修業年限3年に改められたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。 」

<校舎焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北六番丁校舎焼失(その後、三神峯に移転) 
「宮城県百科事典」P637/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「重訂 宮城県郷土史年表」P404、P443、P502/「仙台年表」P197 /「仙台市史10 年表」P268、P284、P300、P304、P308/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P10/「菅家年表」P36/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P536

​Wikipedia「旧制高等学校」2020年8月版 
53-4153-42/「新・目で見る仙台の歴史」P148(S2年、校長排斥スト、講堂で集会と決議文)/「目で見る仙台の歴史」P160(松島湾ボート遭難30分前の写真) 
第二高等学校(旧制) 戦後、三神峯校舎時代/東北大に包括  1945年(S20)~1949年(S24)  <戦後 三神峯校舎時代>
* 1945年(S20)、仙台空襲(7月10日)で北六番丁校舎焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転
* 1946年(S21)2月23日、昭和18年から修業年限が1年短縮されていた中等学校を5年間に、高等学校と大学予科を3年間に復活(菅家年表P36)
* 1946年(S21)12月28日、第二高等学校寄宿舎(西多賀)焼失(「市史10 年表」P314)

<東北大学に包括>
* 1949年(S24)5月:新制東北大学設立にともない包括される(旧制二高三神峯校舎は分校第一教養部として引き継がれる)(東北大学HP掲載「沿革図」)

<記念碑など>
* 1976年(S51)10月23日、堤通雨宮町に、旧制二高創立90周年記念「雄大剛健之碑」除幕(続・郷土史年表P59)
* 1982年(S57)月日、上杉6丁目の旧制二高明善寮閉鎖(明治39年清水小路に、大正15年現在地へ移転)(「続・郷土史年表」P144)
* 1986年(S61)4月23日、仙台市三神峯に「二高尚志の碑」、除幕(「続・郷土史年表」P204)
* 1986年(S61)10月25日、仙台旧制二高創立百年で片平丁の東北大学キャンパスに「青年の像」除幕(続・郷土史年表P212)

<番外編>
* 1967年(S42)8月、仙台寮歌祭 
「仙台市史10 年表」P314/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P144、P204、P212/「菅家年表」P36/東北大学HP掲載「沿革図」/「仙台あのころこのころ八十八年」P255  「市民の戦後史(仙台市)」P198(S42年8月の仙台寮歌祭) 
第二師団 仙台鎮台を改称  1888年(M21)~1945年(S20)  ・ 1945年(S20)の敗戦まで仙台は日本の軍都の一つだった
・ 明治初期以来、東北鎮台・仙台鎮台・第二師団の時代を通じ、仙台市川内(旧仙台城二の丸跡)に司令部を置き、市内の川内、榴ヶ岡、宮城野原に、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各種部隊(連隊・大隊)を配置、県外では時代により変遷はあるが、福島県内、新潟県内などの連隊も隷下においた

* 1871年(M4)年11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台本営を第二師団司令部とす(「仙台城」P232)
* 明治、大正、昭和(20年まで)、海外出兵、国内出動多数
    → 項目「第二師団(出兵記録)」参照
    → 項目「歩兵第4連隊」参照
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯

<参考> 当サイト内、写真ベータベースの【関連資料】G-26「仙台の兵営」には、仙台関連の陸軍師団、各連隊などの一覧、学校、工廠など軍関連施設一覧と、それぞれの年表が記載されている
 
「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685以降の「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232  師団司令部は、98-084、「市民の戦後史(仙台市)」P22、「新・目で見る仙台の歴史」P135/「いつか見た街・人・暮らし」P47の写真169(大正7年度軍旗祭、歩兵第29連隊)/同P169の写真171(大正15年、陸軍特別大演習での観兵式、宮城野原練兵場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P295(M30年、川内兵営の図)/ 95-02 
第二師団(出兵記録)(1) 出兵記録(仙台鎮台時代)  明治年間(1)  <西南戦争>
* 1877年(M10)3月20日、仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊の2個中隊が西南戦争へ出征(「仙台部隊関連年表」P689) 
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。(「仙台市史 年表」P82)
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される(「仙台市史 年表」P82~83)

<朝鮮の甲申事件に際し、韓国駐箚公使館護衛>
* 1884年(M17)10月、韓国駐箚公使館護衛として歩兵第4連隊第1中隊を京城(ソウル)に派遣(「重訂 宮城県郷土史年表」P270)
* 1884年(M17)10月、仙台鎮台の第4連隊の1個中隊が朝鮮半島情勢の緊張にともなって漢城(現・ソウル)に派遣される(「仙台市史 年表」P85)

 ~ 以下は、「仙台部隊関連年表」P691より~
* 1884年(M17)10月10日、韓国駐箚公使館護衛のため、歩兵第4連隊第1中隊、仙台出発
* 1884年(M17)12月4日、京城の日本公使館、焼かれる
* 1884年(M17)12月4日~6日、第1中隊が戦闘
* 1885年(M18)7月4日、第1中隊、仙台に帰営
 
<第二師団発足>
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台を廃し、師団編制に改組、第二師団となる(「仙台部隊関連年表」P691) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P270/「仙台部隊関連年表」(宮城県史・兵事の末尾P689、P691)/「仙台市史 年表」P82~83、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300   
第二師団(出兵記録)(2) 出兵記録(凱旋・慰霊などを含む)  明治年間(2)  <日清戦争>
* 1894年(M27)10月29日~11月3日、第二師団が遼東半島・山東半島への出征のため、長町軍用駅から出発(「市史年表」P89) 
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月22日、宮城県凱旋部隊歓迎会(挹翠館)
(「仙台市史10年表」P210)

<日露戦争>
* 1904年(M37)2月17日、第二師団、長町駅から出兵を始める(「市史年表」P92)
* 1905年(M38)12月24日、第二師団師団司令部凱旋、日露戦役凱旋式を挙行(「仙台年表」P180 =出典:第二師団司令部「仙台城沿革」S12年刊) 
* 1906年(M39)4月1日、第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる(「市史年表」P93)

<韓国駐箚>
* 1910年(M43)4月、第二師団、韓国守備に派遣される(市史年表P95)
* 1910年(M43)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を発つ(Wikipedia「第二師団」)
* 1912年(M45)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着(Wikipedia「第二師団」) 
「仙台市史10 年表」P210/「仙台市史 年表」P89、P92、P93、P95/「仙台年表」P180/Wikipedia「第二師団」/「宮城県の百年」P99  「新・目で見る仙台の歴史」P136(日清戦争で長町臨時停車場からの出発風景/「出征」する軍馬)/「目で見る仙台の歴史」P131(日清戦争で「長町から乗車出征する第二師団」「凱旋門」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P302~303(長町停車場で日清戦争出征将兵見送り、絵図「同戦争からの帰還を迎える市民たち」)/同P306(日露戦争凱旋門と帰還兵士を迎える市民たち)/「新・目で見る仙台の歴史」P136(「日露戦争将兵の帰還」/「正装の日赤従軍看護婦たち」)/同P137(「仙台の日露戦争凱旋門」/「軍事郵便」)「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?) 
第二師団(出兵記録)(3) 出兵記録  大正年間  <第一次世界大戦>
* 1914年(T3)9月、4個中隊が、中国方面の守備に派遣される
* 1917年(T6)9月、1個中隊、山東半島青島の守備を命じられる

<シベリア出兵>
* 1918年(T7)8月2日、第二師団山砲兵第一連隊および輜重兵第二大隊がシベリアに派遣される
* 1921年(T10)6月、歩兵第3旅団が前年のニコラエフスク(尼港)事件を受けてサハリンと沿海州の守備に派遣される
* 1922年(T11)6月、歩兵第25旅団、歩兵第3旅団と交代するためサハリンと沿海州に派遣される 

<米騒動に出動>
* 1918年(T7)、仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった(「新・目で見る仙台の歴史」P148) / 仙台の米騒動では、歩兵第4連隊やこの当時には仙台にいた歩兵第29連隊の1000名を超す兵が鎮圧のため出動、要所要所で銃剣をもって市民の通行を監視し、まるで戒厳令が布かれたような物々しさであった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497) 
「仙台市史 年表」P97、P98、P100、P101/「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497/「新・目で見る仙台の歴史」P148  「いつか見た街・人・暮らし」P8(満州守備派遣兵帰る、仙台駅前、大正13年)/同P21(初観兵式、大正13年1月8日、宮城野原練兵場) 
第二師団(出兵記録)(4) 出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む)  昭和戦前期(1)  <満州駐箚、満州事変>
* 1931年(S6)3月18日、満州守備へ出発開始(在仙台の歩兵第4連隊など各部隊の他、会津若松の歩兵第29連隊、新潟県高田の歩兵第30連隊、新発田の歩兵第16連隊など第二師団管下の部隊) / 第二師団の渡満で、仙台不景気に(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)9月からの満州事変では、満州各地を転戦、占領 / 日本側の最初の戦死者は、歩兵第4連隊の兵士29名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308)
* 1931年(S6)10月、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で第二師団など主催の慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)  
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送
* 1933年(S8)1月7~9日と13日、満州から仙台に凱旋(→詳細は、写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述) / 1月7日、NHK仙台放送局が歓迎式を仙台駅前からラジオ中継放送

<軍事演習>
* 1932年(S7)9月18日、満州事変勃発一周年記念、第二師団留守部隊、学生の大演習
* 1933年(S8)3月10日、第二師団が国分町中心に大規模な模擬市街戦実施
* 1934年(S9)3月10日、陸軍記念日により、模擬弾・タンク・照空灯を市民に公開
* 1935年(S10)9月13日、騎兵第二連隊200騎、蔵王山突破す(遠刈田→上山を3日間で)

   *****************
* 1933年(S8)8月14日、東久邇宮稔彦王殿下、第二師団長として着任(S9年8月1日、第四師団長に転任)

<2・26事件警備>
* 1936年(S11)2月26日、歩兵第4連隊、2・26事件警備で上京(6月6日帰還)(重訂 宮城県郷土史年表」P451)
   「歩兵第4連隊混成大隊208人、118日間にわたって決起将校らが収容されている代々木の陸軍刑務所の警備にあたる(「戦争のころ 仙台、宮城」P39)     
* 1936年(S11)6月6日、2・26事件戒厳令下、歩兵第4連隊帰還(「仙台市史 10 年表」P288) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P308~311、P361/「宮城県史 7」P685の『仙台部隊関連年表』/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P434、P436、P441、P447、P451/「仙台市史 年表」P105/「仙台放送局60年のあゆみ」P5、P7/「仙台市史10 年表」P279、P280、P281、P282、P288/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P183/「仙台年表」P202、P204/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P39   
第二師団(出兵記録)(5) 出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む)  昭和戦前期(2)  <満州駐箚>
* 1937年(S12)4月、満州守備(駐箚)のため出発
* 「1937年(S12)4月9日から10日間、多数の第二師団「渡満」兵の行進が市街を通り抜けていく。銃後の市民の間には、社寺のお守りを真綿でくるんで弾除けにするお守り袋や雑貨を詰め込んだ慰問袋を、郷土の在満兵士たちに贈る運動が盛んになっていた。7月7日の日中戦開始まで間もない頃である」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P311)
   
<日中戦争>
* 1937年(S12)7月の日中戦争開始後は、駐箚中の満州から第二師団の一部(歩兵第4連隊第1大隊=大泉部隊)を北京へ急派 / 1938年(S13)には、その他の第二師団も満州から中国戦線へ
* 1937年(S12)9月、日中戦争勃発により急きょ、第二師団留守部隊を根幹とする十三師団(歩兵104連隊)が仙台で編制され、中国戦線へ ( →項目「第十三師団」参照 )
* 1937年(S12)12月、歩兵第4連隊第1大隊の故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(市公会堂)

<仙台へ帰還>
* 1940年(S15)8月1日、第二師団を仙台師団と改称(「仙台城」P234)
* 1940年(S15)10月、内地帰還
* 1940年(S15)11月、仙台師団は任務を終えて帰国(昭和17年宮城県知事事務引継書)
* 1940年(S15)10月21日、仙台師団において紀元2600年奉祝観兵式(宮城野原練兵場)
* 1940年(S15)11月17日、日華事変(=日中戦争)以来の管内出身将兵の慰霊祭(東二番丁小学校で)、引き続き、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭(追廻練兵場の昭忠塔前で)

<太平洋戦争> 第二師団=勇兵団 
* 1941年(S16)12月の太平洋戦争突入
* 1942年(S17)1月、日本を出発、インドネシアのジャワ島(17年2月上陸) /「戦争のころ 仙台、宮城」P68では、3月1日上陸「2月になってから海軍艦艇の護衛のもとフランス領カムラン湾(現ベトナム)へ進出、60隻の大輸送船団は巡洋艦、駆逐艦32隻に守られ目的地に向かいます。途中で2回にわたって敵艦隊と遭遇、これを撃退する間退避行動をとったので上陸は3月1日に延期されました。3月1日ジャワ島上陸、わずか12日間で8万2000人のオランダ、英国軍を降伏させ占領。現地では日本軍はオランダからの解放者と受け取られ、日本軍への協力がありました。」
・ その後はニューブリテン島、ソロモン諸島のガダルカナル島(17年10月~)、フィリピン諸島、マレー、ビルマ(インパール作戦)などを転戦、終戦時は南部仏印(一部はビルマ)
・ ガダルカナル戦では、歩兵第4連隊第2、第3大隊が「青葉支隊」として投入される(「仙台市史 続編第1巻」P37) / ガダリカナル戦で第二師団の死者・戦病死者は7671人(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1944年(S19)3月、ビルマ進攻、インパール作戦(北部ビルマから2000m級のアラカン山脈を越え、インドのインパールへの進攻作戦)に、第二師団も投入されるが、5月、雨季を迎えたフーコン峡谷の沼や密林の中で、食糧や弾薬不足、疫病に苦しみ次第に後退。 / インパール作戦での第二師団の戦死、戦病死者は、1万2748人(師団兵力の3分の2を失う)(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)1月、仏印に転戦を命じられる。同師団の歩兵第16連隊、野砲、工兵、衛生兵で編成された青葉兵団と歩兵第4連隊はビルマに残り戦闘継続(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)

      ***************************************
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P311、P314/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P37、P64/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P476~477、P479/「仙台市史10 年表」P306、P308/「仙台市史年表」P104/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P185/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P67~68、P136、238   
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会 開催  1933年(S8)  * 1933年(S8)4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)

<「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2「満蒙軍事博覧会」より要約> 展示館は、満州国大パノラマ館、陸軍館(新兵器、満州事変上海事変戦利品)、海軍館(陸軍館と同様)、第二師団戦勝館(各種兵器、軍刀、血染めの軍服、遺品)、産業館、特設館、日本伝説お化け館、お伽の国館、特設海女館(豊麗なる十数名の海女が水中にて種々なる妙技を実演)、演芸館(歌舞、映画、演劇等)  
「仙台市史10 年表」P280/「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2   
第十三師団 編制  1937年(S12)9月~1945年(S20)  * 1937年(S12)9月9日、日中戦争勃発(同年7月7日)により急きょ、仙台において編制される(第二師団留守部隊を根幹とする十三師団=青葉師団)
* 1937年(S12)9月24日、宮城県人を中心に編制された歩兵第104連隊(十三師団隷下)が仙台から「出征」

・出動に際し仙台に集まる将兵は市内の民家に分宿した
・第十三師団は、上海上陸、南京攻略、徐州占領、大別山越え、宣昌作戦、大陸打通作戦と、日中戦争・太平洋戦争期を通して中国大陸を転戦、敗戦時は華南にあった(「仙台市史 続編第1巻」P64)

・大陸打通作戦は、1944年(S19)4月~45年2月。兵力50万を投入、第十三師団も組み込まれた。作戦距離1500キロ。ねらいは、中国の華北から華南までの鉄道を確保し南方からの資源輸送を船舶から鉄道へ切換え、かつ沿岸の大都市、長沙、衡陽、桂林を占領し、周辺に建設された米軍基地をたたき、北九州地区への空襲を防ぐもくろみだった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P136~137)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、中国華南に駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)

   → 項目「歩兵第104連隊」参照

* 1939年(S14)12月9日、荻洲立平中将(オギス リッペイ)、仙台市公会堂で講演会(荻洲中将の十三師団長在任期間は、昭和12年9月10日~14年8月1日なので、師団長離任後になる)

<「戦争のころ 仙台、宮城」P30~31>
「第十三師団は日露戦争末期に編成され樺太を占領した師団ですが軍縮により廃止されました。日中戦争開戦2か月後に復活、仙台に司令部、仙台、会津若松、新潟県高田に部隊が置かれ、仙台は歩兵104連隊です。」
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P64/「仙台市史 年表」P109/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P184/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P30~31、P136~137、P238   
第三十三師団 編制  1939年(S14)3月~1945年(S20)  * 1939年(S14)3月、仙台市で編制、通称号は「弓兵団」

【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より要約】1939年3月編成完結、武漢地区警備などに従事していたが、太平洋戦争開戦後は南方に転用。1942年2月ビルマ作戦、1944年3月インパール作戦、1945年1月イラワジ会戦などに参加。1945年5月中旬以降テナデリゥム地区の守備に従事。
* 敗戦時は、ビルマのタンザビア(「仙台市史 続編第1巻」P64) 

<「戦争のころ 仙台、宮城」P31~32、P68>
「日中戦争で、中国に派遣された郷土部隊は第二師団、第十三師団、第三十三師団の三個師団。第三十三師団(甘粕重太郎師団長)は中国中部に派遣、宇都宮と仙台の部隊で構成していました。」
「第三十三師団は太平洋戦争では、1942年(S12)2月、第五十五、第五十六、第十八の各師団とともに、中国から国境を超えてビルマ(現ミャンマー)に進撃。6月までに全土から敵を掃討しました。英国の植民地だったビルマの北部は連合国が中国国民党政府へ戦略物質を送る輸送路になっており、遮断と英国植民地のインドを英国から離反させるもくろみがありました。 最初のうちは火砲、弾薬も十分でないまま戦闘が続き、分厚い装甲の英国戦車に悩まされましたが、得意の夜襲、航空部隊の空襲、それにビルマ人の協力もあって、数十倍の英国軍、インド軍を破ることができました。」 
国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P31~32、P68   
第四十二師団 編制  1944年(S19)2月~1945年(S20)  * 1944年(S19)2月1日、第四十二師団(通称号は勲兵団)、仙台において編制

【Wikipedia「第42師団」】 留守第二師団と第62独立歩兵団を基幹に仙台に於て編制
 
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より転記】 1944年2月、仙台において臨時編成。その後、中千島の得撫島(ウルップトウ)に移動し同地の防衛に任ずる。1945年4月、稚内に移駐し当地の防衛を担当しそのまま終戦を迎えた。1945年9月17日稚内にて復員
* 終戦時は、主力は北海道宗谷、一部は南千島(「仙台市史 続編第1巻」P64)

・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ 歩兵第130連隊はソ連軍によってシベリアに連行され、5年後に帰国 / シベリア抑留中に死亡し身元が確認された宮城県出身者は806人(「戦争のころ 仙台、宮城」P238) 
「仙台市史 年表」P113/Wikipedia「第42師団」/国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P238   
大日本国防婦人会 設立  1934年(S9)12月  * 1934年(S9)12月13日、「大日本国防婦人会」設立

・ 満州事変勃発の翌年1932年(S7)3月18日に陸軍の後援で結成された大阪国防婦人会と、東京国防婦人会を母体として設立 / 満州事変、日中戦争、太平洋戦争期に「銃後」の戦争協力を担う(出征兵士の見送り、出征留守家族の支援、遺骨の出迎え、慰問袋調達と発送、防空演習など)
・ 活動時には、割烹着に(大日本国防婦人会○○分会と書かれた)たすきを掛けた
・ 全国に支部をもち、S16年(1941年)には会員は公称 1000万人に達した
・ 愛国婦人会は、上流の家庭婦人が会員、国防婦人会は庶民の主婦スタイルで地域女性を結集

<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された)  →項目「大日本婦人会」参照 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456   
大日本国防婦人会 仙台支部結成  1937年(S12)  <銃後女性の組織化>
* 1935年(S10)頃から、国防婦人会分会が、多くは在郷軍人会仙台市分会の区域内の女性で組織された
・小学校女教員、市街自動車、女給矯風会員など職場ごとの分会もできた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)

* 1937年(S12)2月、大日本国防婦人会仙台支部結成、小学校通学区域ごとに分会が設置されている(「仙台市史 特別編4 市民生活」P456) / 青年団や青年訓練所とあわせ、戦勝祈願祭や出征兵士歓送迎などの動員を支える御三家が揃う(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)3月16日、大日本国防婦人会仙台支部結成(「仙台市史 年表」P109) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456/「仙台市史 年表」P109  「仙台市史 特別編4 市民生活」P456(大日本国防婦人会の女性たち) 
大日本婦人会 発足  1942年(S17)2月2日  「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった

* 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演)
* 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成

* 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された

Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16  16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ) 
大日本連合婦人会 結成  1931年(S6)  * 1931年(S6)、文部省系の大日本連合婦人会、結成
* 1931年(S6)2月7日、宮城県連合婦人会、結成

<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された)  →項目「大日本婦人会」参照 
「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P202(出典:毎日新聞)   
台原森林公園 開園  1973年(S48)  * 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1973年(S48)4月、開園
* 1978年(S53)4月22日、公園入口に、舟越保武、高台に佐藤忠良製作の像、除幕
* 1980年(S55)4月1日、野外運動施設(フィールド・アスレチック・コース)完成
* 1987年(S62)11月6日、公園に、岩野勇三作彫刻「牧歌」除幕
* 1990年(H2)9月27日、仙台市科学館が、日本長期信用銀行ビル地下から台原森林公園の中に新築移転し開館 
「重訂 宮城県郷土史年表」P632/「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P80、P110、P232、P268  「新・目で見る仙台の歴史」P192 
台風被害(戦後) カスリーン台風(カスリン台風)  1947年(S22)  * 1947年(S22)9月14日、カスリーン台風で宮城県下の冠水田畑7000町歩(「仙台年表」P217)
* 1947年(S22)9月16日、カスリン台風で広瀬川氾濫、架替え直後の宮沢橋(根岸橋)が流失(「仙台市史年表」P115)
* 1947年(S22)9月16日、カスリーン台風で県内被害、死者10名、負傷者3人、流失家屋106戸、田畑被害6万町歩(「重訂 宮城県郷土史年表」P521)
 
「仙台年表」P217/「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P521   
台風被害(戦後) ユーニス(ユーリス?)台風  1948年(S23)  * 1948年(S23)8月11日~13日、で、宮城県内被害、家屋流失倒壊23戸、浸水4300余戸、田畑冠水2万2900余町歩  「仙台市史10 年表」P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P528   
台風被害(戦後) アイオン台風  1948年(S23)  * 1948年(S23)9月16日~17日、広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / (仙台で?)堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送 / (県内で)家屋流失121戸、倒壊254戸、浸水家屋3万3000余戸、田畑被害も甚大  「仙台市史10 年表」P319/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P529   
台風被害(戦後) キティー台風  1949年(S24)  * 1949年(S24)9月1日、宮城県下の被害甚大  「仙台年表」P220/「重訂 宮城県郷土史年表」P537   
台風被害(戦後) 台風24号  1965年(S40)  * 1965年(S40)9月18日、台風24号東北に接近し、強風のため被害甚大  「重訂 宮城県郷土史年表」P621   
多賀城跡 特別史跡指定  1966年(S41)  多賀城市にあった日本の古代城柵
* 1961年(S36)8月、東北大学考古学教室が多賀城跡の発掘調査に着手
* 1966年(S41)3月25日、多賀城址を特別史蹟に指定 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292/「重訂 宮城県郷土史年表」P624   
高橋是清 暗殺  1936年(S11)  <仙台との縁> 1854年(嘉永7年)閏7月27日、江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩の足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる(Wikipedia「高橋是清」より)

日銀総裁、蔵相、政友会総裁、首相を歴任
* 1936年(S11)2月26日、2・26事件で暗殺される 
Wikipedia「高橋是清」  82-01 
タクシー 大正時代    * 1923年(T12)8月、仙台タクシー自動車合資会社、名掛丁に設立、営業開始
* 1925年(T14)、合名会社実用タクシー(裏五番丁)設立、営業開始

・ 大正11年~昭和8年に開業した東一番丁界隈のタクシー業者 / 清水自動車部(清水源太郎、立町通、大正11年)、トモエタクシー(国分町、大正15年)、柳タクシー(本柳町、昭和元年)、サカタタクシー(東二番丁、昭和2年)、キングタクシー(東一番丁、昭和5年、高級車のエセックスとハドソン数台を使用)、第一タクシー(南町)、など9業者あり

* 1925年(T14)12月25日、仙台自動車運転手会、やよい軒に集まり設立(タクシ-、バス運転手、官庁自家用運転手)

・ 宮城県の運転手免許番号簿(昭和4年現在)には、2547号まで記録されている    
「番丁詳伝」P110~111   
タクシー 福祉タクシー  1977年(S52)  * 1977年(S52)4月(11月?)、仙台市の個人タクシー事業協同組合、福祉タクシー120台実施
* 1977年(S52)12月5日、仙台市のフタバタクシー、車いすのまま乗車できる障害者用タクシー開始 
「続・ 宮城県郷土史年表」P66、P76、P74   
タクシー 無線配車  1983年(S58)  * 1983年(S58)2月10日、仙台市の個人タクシー、無線で配車実施  「続・ 宮城県郷土史年表」P159   
宅地造成ブーム   1960年(S35)頃~  「昭和35年頃から始まった(仙台の)宅地造成ブームは、この頃(昭和40年代)頂点に達し、仙台市北部や南西部一帯の一帯の丘陵地帯は、緑をはぎ取られ、瞬く間に住宅地に化けていった。これは、仙台の膨張を如実に示すものだが、一方、無計画な宅地造成や粗悪な住宅地、杜の都の破壊、上下水道の問題など大きな都市問題となりつつあり、発展期にある仙台にとって、「住」の解決が最大の課題となっている。」(昭和44年発行の「市民の戦後史(仙台市)」P190)  「市民の戦後史(仙台市)」P190  「市民の戦後史(仙台市)」P190~191(八木山地区、旭ヶ丘地区、南光台地区、北部丘陵地帯に広がる住宅団地群、危険な石垣、がけの上の家) 
竹槍訓練     * 1943年(S18)2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)
竹槍は1945年(S20)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた  
「昭和・平成家庭史年表」P138/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21  16-08 
立町小学校     * 1945年(S20)、仙台空襲で焼失    「市民の戦後史(仙台市)」P22(戦前の校舎) 
谷風の墓所 改修・公開  1959年(S34)  * 1959年(S34)3月28日、霞目の谷風の墓地を改修し、小公園造成して公開  「重訂 宮城県郷土史年表」P591   
多門師団凱旋 仙台帰還(凱旋)  1933年(S8)1月  陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160) 

* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
 ・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
 ・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
 ・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された  → 項目「多門通り」参照
 ・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
 ・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
 ・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
 ・3月27日、日本、国際連盟を脱退 
 ・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
 昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去

<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述) 
「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160  65-0265-0465-0198-08198-08298-08365-0365-0565-0665-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310 
多門通り 南町通りを改称  1933年(S8)1月7日  南町通りは、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路
*1933年(S8)1月には、「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを「凱旋行進」した 

・ 「凱旋」を記念して、1933年(S8)1月7日市会の決議により南町通りは、当時の師団長の名を冠した「多門通り」と改名された
・ 戦後は南町通りに復名
・ 敗戦後、進駐してきた米軍はこの道路を「メープル街(かえで)と名付けた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P28) 
「仙台市史 年表」P106/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P28  65-01-0153-9153-9663-04-0198-148(被占領時代の仙台市街地図 米軍用) 
男女共学 県内高校で初  1973年(S48)  <戦後学制改革で>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P275)
* 宮城県第三高等女学校が、戦後学制改革で宮城県第三女子高等学校となり男女共学実施(2年間で共学廃止)
* 仙台商業と仙台女子商業が形の上で合併し男女共学としたが、実質の伴わない共学で、1957年(S32)に元の2校に分離独立

* 1973年(S48)開校の県立泉高校が、公立私立を問わず、仙台市内では初の男女共学高校(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274)

* 1950年(S25)4月8日、県立仙台第三高校、県内初の男女共学を採用(「仙台市史10 年表」P323)→これは間違い(県立仙台第三高校の開校は1963年(S38)年1月 同校HPより) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P274~275/「仙台市史10 年表」P323   
地価狂乱(バブル)   1987年(S62)~1991年(H3)  * 1987年(S62)1月、東京で地上げが始まって地価上昇
* 1987年(S62)4月、東京の地価狂乱、53.9%上昇
* 1987年(S62)9月30日、東京の地価、1年で85.7%上昇
* 1988年(S63)9月14日、大都市の地価、狂乱高騰

<仙台>
* 1988年(S63)4月1日、国土庁発表地価公示で、仙台市は29%上昇
* 1989年(H1)1月27日、仙台国税局が最高路線価格発表、平均17.8%上昇
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
* 1991年(H3)7月1日、都道府県地価(基準地価)は、仙台で、住宅地6.7%、商業地8.5%上昇 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P82、P83、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P242、P258、P272   
乳銀杏(苦竹のイチョウ) 国の天然記念物に指定  1925年(T15)  <仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。  樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」

* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」  99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86 
ちびっこ広場 第1号  1966年(S41)  * 1966年(S41)11月3日、「ちびっこ広場」第1号を北七番丁に完成

民間から提供された敷地に、市が遊具などを貸しつける事業 / 子どもの健全育成、交通事故防止がねらい / S43年度までに108カ所誕生 
「重訂 宮城県郷土史年表」P628/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P251  「市民の戦後史(仙台市)」P188(S41年11月、ちびっこ広場第1号オープンセレモニー、遊具で遊ぶ子ら) 

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芭蕉の辻
芭蕉の辻商館
芭蕉の辻の城櫓風建物
芭蕉の辻の洋館
バス
バスプール
バス優先レーン
支倉常長(記念碑/銅像)
発電事業
パテー館
花火大会
針久旅館支店(仙台駅前)
ハリストス正教会堂
藩祖政宗公三百年祭
藩祖政宗公の記念祭
東一番丁(商店街)
東一番丁大火
東一番丁百年祭大仮装行列
東二番丁尋常小学校
東二番丁通り(拡幅)
東日本大震災
光ヶ丘天使園
飛行船「雄飛号」
飛行大会
ひとにやさしいまちづくり条例
ヒトラーユーゲント一行が来県
日乃出映画劇場
ひらつか(東一番丁)
ビル建設
広瀬川の清流を守る条例
広瀬通り
広瀬橋(広瀬川)
プール
フェリー
俯瞰撮影禁止など
福祉ボランティアのまちづくり事業
富国生命館(国分町)
藤崎
フジビール
婦人参政権獲得運動
婦人の社会活動(戦後・仙台)
婦人標準服
普通選挙要求運動
物価上昇
二日町大火
復興盆踊り
仏舎利塔
ブラザー軒
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場
文学碑など(仙台)
文化勲章
文化財指定
文化横丁
兵役制度
米軍進駐
兵事義会/銃後奉公会
ベガルタ仙台
ペデストリアンデッキ
ヘレンケラー女史
奉安殿
防空演習
ポケットベル
歩行者天国(東一番丁)
ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
松島パークホテル
松永正敏中将
松原街道
マナスル登頂成功
丸光
満年齢
満蒙開拓
右側通行
水の森スケート場
三越(仙台店)
緑と花いっぱい運動
緑の団地条例
南町大火
南町通り(多門通り)
三原時計店
宮城学院
宮城教育大学
宮城県沖地震
宮城県会議事堂(明治時代)
宮城県旗の図案
宮城県弘報誌「みやぎ」
宮城県県民の森
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館
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