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小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
アーケード |
一番町四丁目買物公園 |
1954年(S29)ほか |
「四丁目買物公園」は、一番町商店街のうち、一番北の「定禅寺通り角から広瀬通り角まで」
<第1代以前>
* 1953年(S28)?、「ズック布張り」のアーケードが、三越南~森徳横丁角の東一番丁東側のみに完成(「番丁詳伝」P178)
<第1代>
* 1954年(S29)7月、第1代アーケード完成(定禅寺通角~広瀬通り角)
* 同年12月11日、定禅寺通角~南町通り角までを含めた東一番丁通り全体に統一デザインの第1代アーケードが完成(東北初の商店街アーケードだった) 奥行4.5m、屋根は一部可動式、銀色の柱、ジュラルミン製、天井に二列の蛍光灯(第1代の特徴は、天井の蛍光灯が道路に対し直角)
* 翌12月12日、完成祝賀仮装行列挙行
<第2代>
* 1970年(S45)12月2日、北振会(森徳横丁角以北)アーケード改築完成(高さ5.5m、照明に水銀灯を使いさらに明るくなる)(「番丁詳伝」P179では、定禅寺通~虎屋横丁間に完成)
* 1971年(S46)、中央会(森徳横丁角~広瀬通り角)のアーケード改築完成(「番丁詳伝」P179では、虎屋横丁間~広瀬通り間に完成)
<第3代>
* 1982年(S57)10月2日、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(高さ7mの透明なアーケード、茶系統を基調にした路面、12種約70本の街路樹、広瀬通角には噴水付き時計塔で世界の姉妹都市5都市の民族衣装人形つき)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「番丁詳伝」P178~179、P201、P203~205 /「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10
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<ズック布張り>
「市民の戦後史(仙台市)」P73の左側(S28年頃)
<第1代>は、99-014、22-61
/ 第1代完成祝賀仮装行列は、51-01、51-02/「新・目で見る仙台の歴史」P178(蛍光灯が点灯したアーケード街)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、空撮)
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アーケード |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」 |
1954年(S29)ほか |
「一番町一番街」は、一番町商店街のうち、「広瀬通り角~中央通り(旧・大町通り)角まで」
・ 大正時代、「大内ビルアーケード街」があった(大町角の大内屋、西内楽器店、玉沢総本店、家庭金物の岡元、銘仙専門店の大丸などが長さ15mほどが広い庇でつながる)(「番丁詳伝」P169)
<第1代>
* 1954年(S29)1月14日、大町通り~広瀬通り間、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229=出典:毎日新聞)
* 1954年(S29)1月、大町通り~広瀬通り間、アーケード新設(長さ26間完成)(「重訂 宮城県郷土史年表」P571)
<第2代>
* 1972年(S47)、一番街アーケード改築(高さ5.2m)
<第3代>
* 1979年(S54)9月1日、「一番街買物公園」完成 街路樹・ストリートファニチャーを設置、歩行者専用道路 / 時計塔2基(モチーフは支倉常長のローマ法王謁見、文字盤盤に世界古地図)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
<第4代>
* 1993年(H5)7月、一番街アーケード完成 (高さ18mの全天候型高層アーケード「ぶらんどーむ一番町」 がオープン)
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「番丁詳伝」P169、P200、P203~205/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P127、P128
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<第1代>は、22-58、18-09、22-01/ 「仙台一番町一番街商店街ぶらんど~むのHP」に、第1代、第2代のアーケードの写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P80(第1代アーケード)
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アーケード |
一番町・サンモール一番町商店街 |
1954年(S29)ほか |
「サンモール一番町」は、一番町商店街のうち、「中央通り(旧・大町通り)角~南町通り角まで」(戦前からの通称は、「大通り」)
<第1代>
* 1954年(S29)12月2日、第1代アーケード完成(これで、東一番丁3商店街すべてに、統一スタイルのアーケード完成)
<第2代>
* 1975年(S50)11月20日、大通りアーケード改築完成(高さ日本一)
* 1977年(S52)に大通りアーケード改築
<第3代>
* 1986年(S61)11月29日、開閉自由の全蓋アーケード完成(高さ13.7m、軒高8mで2階部分をショーウィンドウ化できる)、2つのカラクリ人形時計(テーマは遣欧使節/七夕物語) / 中央通りとの角には四辻ドーム(高さ20m)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P575/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P214/「番丁詳伝」P201、P203~205
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<第1代>は、58-01、53-11
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アーケード |
旧・大町五丁目 |
1965年(S40)ほか |
* 1965年(S40)3月、大町五丁目商店街で完成
<マ-ブルロードおおまち商店街>
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1982年(S57)6月27日、マーブルロードおおまち商店街ゲート除幕式
* 1987年(S62)、大理石舗道が完成、
* 1996年(H8)4月、2代目アーケード竣工(第3代か?)
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「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P148/「マ-ブルロードおおまち商店街」HP
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アーケード |
新伝馬町 |
1964年(S39)ほか |
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁が順にあとを追って完成し、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
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「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
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22-30(S39年完成アーケード)/「市民の戦後史(仙台市)」P158(S39年12月、中央通りアーケード街)
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アーケード |
名掛丁 |
1965年(S40)ほか |
* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成
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「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271
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アーケードがない時代は、22-29と「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/22-30(S40完成名掛丁アーケード)
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アート・スミスの宙返り飛行 |
宮城野原で公開 |
1916年(T5)6月14日 |
アメリカ人飛行士アート・スミスが宙返り飛行で話題をよび来日
仙台でも大正5年6月13日、追廻練兵場で有料公開の予定となり人を集めたが雨天中止 / 翌日、宮城野原で無料公開した
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「新・目で見る仙台の歴史」P155/「仙台はじめて物語」P203/「目で見る仙台の歴史」P157
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44-14、44-15、44-16
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RTO(仙台) |
開所~廃止 |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
* 1945年(S20)9月20日、仙台のRTO開所(宮城、青森、岩手を管轄)
* 1946年(S21)6月21日以降は東北地方と新潟のRTOを管轄
* 1952年(S27)4月1日、廃止(国鉄の自主運行となる)
* 1957年(S32)10月まで、仙台駅北側(RTOの場所)を米軍が占拠 (「仙台市史 続編第1巻」P570)
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16-22(の内容欄、関連情報欄)参照/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P570
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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愛国婦人会 |
宮城支部創設 |
1901年(M34) |
愛国婦人会は、1901年(M34)に軍事援護と社会奉仕、報国運動を目的に、内務省・陸軍省の後援を得て結成された半官制の全国組織(「仙台市史 特別編4 市民生活」P454)
* 1901年(M34)12月12日、宮城支部創設、事務所を日本赤十字社宮城支部内に併置 / 初代支部長は、県知事夫人の小野田安子 / 1904年(M37)の日露戦争勃発で、第二師団所在地として軍事援助事業に動員され、これを通して愛国婦人会の組織が大きく拡充(会員数:創立当初は全県下で100余名→1905年に1万4000余名)
* 1904年(M37)1月6日、愛国婦人会宮城支部は、日本赤十字社篤志看護婦人会など5つの民間団体と合同で、宮城県連合婦人会を結成 / 第二師団への衣類寄贈や出征軍人家族、戦病死者の慰問、寄付金募集などを開始
* 1931年(S6)12月14日、宮城支部主催「満蒙婦人公演会」開催
* 1937年(S12)の市内会員数、1万4882人
* 1938年(S13)、小学校通学区域ごとに支部の分会 / 1939年(S14)に各分会の連絡統制のために仙台市連合分会を組織
* 1939年(S14)3月6日、愛国婦人会宮城支部に於て、婦人報国の赤誠を宣揚す
* 1941年(S16)4月1日、愛国婦人会仙台市連合会、市役所内に事務所を設ける
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P454、P456/「重訂 宮城県郷土史年表」P323、P467/「仙台市史 年表」P91、P92/「市史10年表」P277、P301
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455(愛国婦人会秋保村分会の旗、カラー)
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愛の聖母院 |
設立 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)2月27日、愛の聖母園(少女の町)を、カナダ在住カトリック教徒の浄財により、小田原柳沢に創立
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540
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アインシュタイン |
来仙 |
1922年(T11) |
* 1922年(T11)12月3日、アルベルト・アインシュタイン博士が来仙、東北帝国大学金属材料研究所などを視察
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「仙台市史 年表」P101
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「目で見る仙台の歴史」P148に、「アインシュタイン博士と東北帝大理学部教授たち」
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青葉城 |
石垣損壊 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)6月16日、新潟地震で、仙台は震度5、青葉城址の石垣の一部が崩れる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P614
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青葉城恋歌 |
全国的ヒット |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)5月、佐藤宗幸の「青葉城恋歌」がレコード化
* 1978年(S53)11月22日、大ヒットし、佐藤宗幸がレコード大賞受賞
作詞:星間船一、編詩・作曲・唄:さとう宗幸 / キング・レコードから、1978年(昭和53)5月5日にさとうのメジャー・デビュー曲としてシングル発売され、同年6月1日にダークダックスもシングル発売した。さとうはこの年の「第20回日本レコード大賞・新人賞」「第7回FNS歌謡祭・最優秀新人賞」にも選ばれ、さらに『第29回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たした。
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P82、P88/Wikipedia「青葉城恋歌」
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青葉城資料展示館 |
開館 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)4月、仙台城本丸跡に開館
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「仙台市史 年表」P131
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青葉神社 |
認可/本殿完成、鎮座祭 |
1874年(M7) |
* 1973年(M6)、藩祖政宗公の霊を敬うため旧家臣が中心になり願い出て、M7年1月認可、M7年6月25日に県社となる
* 1874年(M7)11月11日、本殿拝殿などが完成、11月16日に鎮座祭
* 1927年(S2)、社殿新築完成
* 1935年(S10)、政宗公三百年祭が盛大に行われた
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「青葉神社」HP/「宮城県百科事典」P5~6/「仙台市史 年表」P80、P81/「目で見る仙台の歴史」P166
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99-132、99-133/「目で見る仙台の歴史」P166/「いつか見た街・人・暮らし」P26(大正14年5月24日青葉神社祭典)/「目で見る仙台の歴史」P109と「新・目で見る仙台の歴史」P132に「明治15年の青葉神社大祭典神幸式之図」
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青葉神社 |
神輿渡御復活 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)5月23日、青葉祭 / 春の例祭で神輿渡御が13年ぶりに行われ、あわせて甲冑の武者行列も
* 1961年(S36)5月のゴールデンウィーク、全市あげて青葉神社祭典(武者行列、神輿渡御、相馬浪江の相撲甚句や宝財おどり)
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「仙台市史 年表」P115/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182、P714
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182の写真49/「市民の戦後史(仙台市)」P226(5月の青葉神社例祭の武者行列)
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青葉通り |
概要 |
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仙台市は、1945年(S20)7月10日の仙台空襲で広範な中心市街地を焼失したが、「青葉通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、仙台駅前から焼失地域を東西に貫き大橋へつながる幹線として新たに生まれた
長さ1.5km、幅員は、仙台駅前から東二番丁角までが50m、それ以西の西公園までが36m / 開通時には車道の両端近くに2本の分離帯があったが、その後交通渋滞解消のため取り払い、中央分離帯1本にした / 1965年(S40)に1本化工事着手
<曲直問題>
路線計画策定段階で、東五番丁交差点の前後を10度屈折か直線かで利害対立あり、半年余り紛糾、1948年(S23)5月建設院総裁裁定で10度屈折で決着(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P324~328に詳述)
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「戦災復興余話」P27~P55/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~328
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14-07、99-031など「写真データベース」A-05-05「青葉通り」の写真全部/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P762(銀行が立ち並ぶ青葉通り(S40年代前半)/「目で見る仙台に歴史」P188(S33頃、駅前から伸びる青葉通り俯瞰)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(S32年、青葉通り)/同P185(H1頃、俯瞰)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S26年10月、青葉通りと南町通り一帯空撮)/同P108(S32年、雪化粧の青葉通り空撮)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P36~37(S33年頃、東三番丁角付近から西方向)/同72~73(S39年、カラー、駅前から西方向)/同P76~77(S39、カラー、藤崎から東方向)/P79(S39、カラー、藤崎屋上から西方向)/同P104(S51、東五番丁角以西)
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青葉通り(築造) |
築造 |
1947年(S22)~1950年(S25)末 |
全長1.5kmの築造は、S22年はじめ~S25年末で完了
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「戦災復興余話」P50~51
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「市民の戦後史(仙台市)」P58~59
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青葉通り(築造) |
用地確保で代執行 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)3月~1951年(S26)年9月、駅前から東五番丁西側付近までの青葉通り予定地には、空襲跡の土地に戦後できた3つのマーケット(ヤミ市)や無届建築物が集中していたが、S24年3月~26年9月にかけ、しばしば市や県による強制代執行で取り壊され、50m幅の用地が確保された
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「戦災復興余話」
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98-032/「新・目で見る仙台の歴史」P185/「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(東五番丁での代執行)
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青葉通り(築造) |
グリーンベルト撤去開始 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)10月5日、交通量激増のため青葉通りの車道の2本の側方分離帯(グリーンベルト)を撤去開始 / 新たに中央分離帯1本のみとした
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「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P621
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・側方分離帯2本があった頃は、「市民の戦後史(仙台市)」P240(国分町通り交差点付近の青葉通り)/
・中央分離帯1本のみは、22-05
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青葉通り(舗装) |
車道中央部分の舗装 |
1949年度(S24)~1953年(S28) |
* 1949年度(S24)、車道の中央部分(幅9m)の舗装、失業対策事業で開始
* 1950年度(S25)、国庫補助で本格的な舗装開始
* 1954年(S29)年3月、中央部分のコンクリート舗装(幅9m)が完了
* 1958年(S33)現在、緩行車線は未舗装(「仙台クロニクル」P23の写真)/ 当時車道は、2本の分離帯で3つの部分に分けられており、分離帯の両外側が緩行車線だった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「戦災復興余話」P50~51
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98-048、98-030、22-07/仙台クロニクル(風の時編集部 2020年刊)P9(S29年、駅前)、P10(S29、東五番丁角から西、俯瞰)、P12(S29、藤崎より東、俯瞰)、P23(S33、東一番丁より駅方向)
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青葉通り(植栽) |
枝垂れ柳、ケヤキを植栽 |
1950年(S25)~1966年(S41) |
<街路樹の植栽樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P253~254)
・ 高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
助役はネムノキかサルスベリに、課長は大木になる樹種が良い
・ 一市会議員の提案「台原の仙台営林署所有のケヤキを、失業対策事業で移植」をうけて、仙台駅前~東一番丁間にケヤキを植樹、その後西公園までの両側歩道などに計180本ほどのケヤキを植樹
・ 助役は駅前から東二番丁通り角までの中央グリーンベルトには、シュロとユッカラン植栽を指示し、植栽したが、東京農大井上教授視察時に評価低く、ケヤキは高評価だった
* 1949年(S24)4月、植樹式(ケヤキ植え初め式)
・ 台原の国有林から、樹齢15~35年の成木を移植
・ 「東五番丁~西公園間」の両側歩道に計180本のケヤキを植えたが、このうち50本は市会議員全員により市に寄付されて東三番丁~国分町間の歩道に植えられた
* 1949年(S24)5月、東三番丁~東四番丁間の分離帯(中央グリーンベルト)にモデル植樹(高麗芝を地にしてシュロ、さつき、玉伊吹、雪柳、紫南天など約200本)
* 1950年(S25)4月3日、青葉通りでケヤキ植え初め式(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)、仙台駅前~国分町角の歩道、80本のケヤキ植樹 / 当時の市会議員48人が1本ずつ寄贈
* 1950年(S25)末から、しだれ柳植栽
「仙台駅前~東五番丁間」の歩道には、S25年末から100本のしだれ柳を植栽した(写真14-07)
* 1951年(S26)9月、駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される
* 東二番丁通りとの交差点付近の青葉通りの車道にあった分離帯(グリーンベルト)には、高麗芝を地にしてシュロなどを植えていた(写真50-01) / その後、生育が悪くなり、トウカエデを植える→その後、ケヤキに
* 1966年(S41)、青葉通りの植栽が完了(「仙台市史 年表」P125)
* 1971年(S46)、ケヤキの並木にも赤信号(車の排気と車歩道の全面アスファルト化による公害)(「重訂 宮城県郷土史年表」P678)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P253~254/「仙台市史 続編1(行政建設編)」P324、P468/「戦災復興余話」P51~P53/「仙台市史 年表」P116、P125
座談会「仙台 戦中戦後を語る」/「重訂 宮城県郷土史年表」P678
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14-07、18-21、14-01、22-17、201-11、50-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P163(S26年、ケヤキ植栽セレモニー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P23(S33、東五番丁角付近)、P44(S33頃、仙台駅近くの枝垂れ柳並木)/同P92(S45、緑の欅並木、カラー)/同P98(S46、中央分離帯あり、ケヤキ並木)
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青葉まつり |
開始/復活 |
1956年(S31)~1967年(S42)
/ 1985年(S60)~ |
* 1956年(S31)5月24~26日、第一回 / 青葉神社の例祭にあわせて開催
* 1964年(S39)5月、仙台市立第一中学校の生徒らによる「雀踊り」が登場
* 1968年(S43)から、交通事情変化などを理由に行われなくなる
* 1985年(S60)4月27日~6月2日、伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり開催(没後350年にあたり、祭り復活)
* 1987年(S62)5月10日、青葉祭りで、藤崎デパート前と東宝ビル前に、高さ10mの山鉾を復活
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「仙台市史 年表」P119、P126、P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P581
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「目で見る仙台の歴史」P190(青葉まつりパレード)
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青葉山 |
国天然記念物に指定 |
1972年(S47) |
* 1961年(S36)11月3日、県営青葉山ゴルフ場を青葉山に開設落成
* 1972年(S47)7月11日、国の天然記念物に指定される
→ 項目「青葉山植物園」参照
* 1981年(S56)10月21日、青葉山の遊歩道完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P602/「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P134
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青葉山公園 |
開設 |
1925年(T14)/1954年(S29) |
仙台市が管理している都市公園 / 青葉山の東端から広瀬川右岸にかけての40.6haで、仙台城(青葉城)の跡地の一部やその堀であった五色沼、長沼を園内に含む
* 1925年(T14)10月、第二師団より大手門等を含む2,957坪を借地し、仙台市青葉山自然公園とし、大手門への出入り自由となる(「仙台城」P233、「重訂 宮城県郷土史年表」P399) / 旧青葉城の大手門は、明治期から昭和戦前期には陸軍第二師団の正門だった
* 1925年(T14)10月、仙台市が、仙台城の大手門を含む2957坪を青葉山公園として開設(「仙台市史 年表」P103)
* 1937年(S12)9月3日、多門将軍銅像、青葉公園に建設、除幕式(「仙台市史10 年表」P291) (注)多門将軍は、満州事変当時の第二師団長多門二郎中将
<戦後>
* 1945年(S20)、連合国軍(米軍)が第二師団の敷地を接収(キャンプ・センダイ)したために青葉山公園は事実上の休園状態
・ 川内の旧軍跡地の接収は、第9軍団司令部が札幌から仙台に移転した、1946年(S21)(「戦争のころ 仙台、宮城」P224)
・ 米軍が二の丸跡に、米軍人軍属の住宅、クラブなど建築、二の丸遺跡は徹底的に破戒され、三の丸巽門(櫓門)破却、中島池、奥方庭園池泉、藩主居間前庭の瓢箪池、中奥外の濠、筋違橋付近深谷みな埋め立てらる(「仙台城」P235)
・ 中島池は埋め立てられゴルフ場に(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
* 1950年(S25)10月、護国神社が、本丸一帯の国有地の払い下げを受ける(「仙台城」P235)
* 1954年(S29)2月、護国神社所有地本丸の一部、2万0933坪を仙台市管理に移し、五色沼、長沼一帯国有地1万2643坪を加え、3万3576坪を公園地とす(「仙台城)」P236)
* 1954年(S29)4月1日、青葉山公園が川内に開園(再開)
* 1955年(S30)、追廻を公園地に編入(「仙台城)」P236)/ 旧第二師団の練兵場だった追廻地区は、戦後、米軍の接収をまぬがれ、住宅営団が戦災者・引揚者用の応急簡易住宅団地(追廻住宅 / 賃貸約620戸)を建設、その後居住者に払い下げられていた(追廻地区住民は、同地区の公園化に反対した)
* 1957年(S32)9月、仙台市が五色沼、長沼を浚渫(「仙台城)」P236)
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1960年(S35)6月10日、仙台郷土博物館建設(翌年10月10日開館)=博物館第1期工事
* 1961年(S36)10月、仙台市博物館開館(三の丸跡に)
→ 詳細は、項目「仙台市博物館」参照
* 1964年(S39)8月18日、宮城県スポーツセンターが青葉山公園内に開館(1万人収容、東北一の規模)
* 1965年(S40)7月、元東北大学教授山田孝雄先生の碑を建設期成会が護国神社裏に建立
* 1991年(H3)月日、仙台国際センターが開館
→ 詳細は、項目「仙台国際センター」参照
* 2015年(H27)、仙台市地下鉄東西線国際センター駅開業
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P235、P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P571、P621/「仙台市史 年表」P103、P118、P123/Wikipedia「青葉山公園」(2019年6月)/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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* 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失
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青葉山植物園 |
開設 |
1958年(S33) |
* 1958年(S33)11月15日、東北大学理学部附属青葉山植物園開設~仙台城址背後の御裏林(おうらばやし)、通称青葉山と呼ばれる丘陵地~
* 1959年(S34)4月から一般公開
* 1972年(S47)、植物園としてはわが国で初めて天然記念物に指定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P590/「仙台市史 年表」P120/東北大学植物園HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P105(青葉山植物園俯瞰)
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青葉山遊歩道 |
完成 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)12月6日、広瀬川沿いの青葉山遊歩道(幅6m、580m)完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P628
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「市民の戦後史(仙台市)」P183
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秋保電鉄 |
秋保石材軌道開通 |
1914年(T3) |
* 1914年(T3)10月、覗橋~茂庭間開通
* 1914年(T3)12月23日、秋保馬車軌道、長町~湯元(後の秋保温泉)間16キロが開通 / 秋保石(凝灰岩の一種)と旅客の輸送が目的 / 箱型の客車を馬が曳いて走った
・ 停車場は、長町、西多賀、鈎取、太白山、茂庭、北赤石、覗橋
・ 所要時間は1時間半
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353/8「仙台年表」P189/「仙台市史 年表」P97 /「仙台きょうはなんの日」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198
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22-45 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P51/「目で見る仙台の歴史」P156と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「秋保馬車軌道」/同P156(秋保石の運搬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198
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秋保電鉄 |
秋保石材電気軌道/秋保電気軌道(通称、秋保電鉄)/仙南鉄道秋保線/秋保線廃止 |
1922年(T11)/1925年(T14)/1959年(S34)~1961年(S36) |
* 1922年(T11)10月29日、秋保石材軌道株式会社が株式会社となる
* さらに、T14年1月12日に秋保電気軌道株式会社と改称
* 1925年(T14)6月13日、電気鉄道に切り替え(全線の電化と軌道拡幅が完成し電車に)
<バスも運行>
* S24年4月に長町~鈎取、S26年4月に長町~秋保温泉、同8月に仙台駅前~秋保温泉など、S33年までに順次6路線運行開始(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P601)
<仙南自動車>
* 1950年(S25)、仙台市交通部から岩沼以南の路線を譲り受けて、仙南自動車が営業開始 / 以後、仙台と荒浜・白石・角田・相馬・青根などを結ぶ路線開設
<仙南交通秋保線となる>
* 1959年(S34)7月3日、秋保電気軌道が仙南交通自動車と合併し、仙南交通となる(鉄道は仙南鉄道秋保線と改称)
* 1961年(S36)5月7日、秋保線廃止、長町駅から「さよなら列車」運行
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「仙台市史 年表」P101、P102、P103、P121、P122/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P600~601に、旧秋保電鉄、旧仙南交通自動車、仙南交通について記述あり/「重訂 宮城県郷土史年表」P591/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P527(S14年、沿線の様子を伝える秋保電気軌道リーフレット)
/さよなら電車(S36年5月)は、22-09、「市民の戦後史(仙台市)」P124)/「新・目で見る仙台の歴史」P187
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愛宕大橋(広瀬川) |
開通 |
1975年(S50) |
愛宕上杉通り(国道286号)の広瀬川にかかる橋 / 青葉区土樋(つちとい)と太白区越路(こえじ)とを結ぶ / 橋の南詰が愛宕上杉通りと広瀬河畔通りとの境目
* 1975年(S50)10月1日、開通(交通渋滞緩和のため、愛宕橋のやや上流に建設、長さ228m、幅26m)
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45/Wikipedia「愛宕大橋」
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愛宕堰 |
完成 |
1954年(S29) |
広瀬川の河川改修にともない完成 / 愛宕堰は広瀬川から、七郷堀(農業用などの幹線水路)への取水口
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「仙台市史 年表」P119
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愛宕橋(広瀬川) |
吊り橋開通 |
1901年(M34) |
* 古くは誓願寺渡し
* 1901年(M34)に吊り橋(仙台初)
* 1903年(M36)2月11日、架設
* 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋)
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愛宕橋(広瀬川) |
木造橋 |
1916年(T5) |
* 1916年(T5)8月、レンガのピアノ木造橋となる
(「重訂 宮城県郷土史年表」P362では、愛宕橋、霊屋橋の竣工は、T4と記載)
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362
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99-110
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愛宕橋(広瀬川) |
コンクリート橋 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日、上部を失対事業でコンクリート橋に架け替え / 橋長93.42m、橋幅8.9m、歩車道の区別あり / 「仙台市史10 年表」P285では、S10年5月20日架換工事竣工、式典挙行(出典:仙台市報)と記載
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述 /「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史10 年表」P285
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06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図101~102(S40年、H8年カラー)
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アメリカシロヒトリ防除 |
防除開始 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)7月2日、防除本部設置し駆除開始(アメリカシロヒトリが、八木山、北山、東仙台など郊外にも広がる)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P633
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ありのまま舎 |
設立 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)、任意団体「ありのまま舎」設立
* 1975年(S50)、映画「車椅子の青春」制作/第1回日本赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞
* 1982年(S57) 映画「続・車椅子の青春(忘れられた一日)」完成
* 1986年(S61)、社会福祉法人「ありのまま舎」設立
* 1987年(S62)、身体障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」開所(西多賀4丁目) / 4月5日、入居式
* 1989年(S64)、付帯施設「障害者自立センター」開所
* 1999年(H11)、第1回「ありのまま舎自立大賞」設立(以後毎年開催)
* 2013年(H25)、県南ありのまま舎、名取ありのまま舎(相談支援事業)開設
このほか、製作映画、出版、受賞など多数あり
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「社会福祉法人ありのまま舎」ホームページhttp://www.arinomama.or.jp/menu1_2.html
/「続・ 宮城県郷土史年表」P153、P221
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・仙台の動き |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対闘争」より転記>
* 1959年(S34)3月、安保改定阻止国民会議結成
* 1959年(S34)4月、第1次全国統一行動 / 翌年10月まで23回にわたる統一行動
宮城県、仙台市での日米安全保障条約改定反対闘争
・ 宮城県安保廃棄、改定阻止県民会議結成
* 1959年(S34)11月27日の第8次全国統一行動では、宮城県庁前広場大集会とデモ行進
* 1960年(S35)4月23日、東北大学川内と東分校両自治会が、安保問題討論集会(800人規模)、400人の学生が仙台市内で反対署名運動
* 1960年(S35)5月16日、仙台で、衆議院安保問題特別委員会の公聴会 / 県庁前で安保阻止県民会議(労組員、学生ら4000人集会)、安保条約批准反対の請願署名
* 1960年(S35)5月19日、20日未明、衆議院で強行採決
・ 翌20日から強い反対運動展開、宮城県民会議では、国会解散と岸内閣打倒を重点に、総決起大会(6000人)とデモ行進 / 各労働組合が職場集会、東北大学生総決起集会(1500人)とジグザクデモ
* 1960年(S35)6月4日、第17次統一行動 / 「安保条約阻止、岸内閣打倒、国会即時解散県民会議」総決起集会(政党・労組・仙台商工業者連合会・婦人団体・文化団体など1万5000人参加)/仙台市役所前で、安保婦人抗議集会(安保反対婦人協議会)/東北大学では、学生デモと有志教官団(250名)デモが大学本部から県庁前広場まで行進
* 1960年(S35)6月11日、第18次統一行動では、地区ごとの労組や婦人団体による抗議集会後に、県庁前広場に89団体、6500人
* 1960年(S35)6月17日、樺美智子さん県民追悼集会と追悼行進 / 6月18日、「安保批准阻止、岸内閣打倒、国会解散要求県民集会」、東北大学教養部ではストが続き、片平丁本部の学生も授業放棄して集会とデモ、一部学生が自民党県連事務所前に座り込み / 宮城学院女子大・短大有志が県民集会に参加
* 1960年(S35)6月19日、国会で自然承認され、23日に批准書交換 / 7月15日、岸内閣退陣
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P540~541
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P537(S35年、60年安保闘争で広瀬通りをゆくデモ隊、宮城県庁前での統一スト)/同541(安保反対を訴えるマッチラベル)
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・学生たちの抗議 |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536より転記>
「1960年(S35)の日米安全保障条約改定反対闘争(安保闘争)では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生ともに東北大学の教官が抗議デモに参加したことでも注目された。6月15日の国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生樺美智子さんが死亡した事件への抗議デモでは、青葉通りに3000名の学生が集まった。」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P536
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安保反対闘争(1970年) |
70年安保闘争・仙台の動き |
1970年(S45) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対運動」より転記>
* 1970年(S45)6月23日、安保破棄県民集会(仙台市錦町公園)、社会・共産両党、労働組合、学生など125団体1万1000人参加 / 安保破棄を目指す宮城県学生総決起集会(東北大学構内)には在仙台各大学の学生3000人が集会・デモ行進後、県民集会に合流 / 6・23仙台学労総決起集会(全共闘系、仙台ベ平、反戦青年委員会など2800人)
・このほか、大学のストや討論集会も盛ん
・6月23日、安保条約は自動延長となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P541
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イールズ事件 |
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1950年(S25) |
GHQのイールズ博士による「大学制度についての講演会」開催に反対抗議しデモなど行う(「目で見る仙台の歴史」P186)
* 1950年(S25)5月2日、東北大学生、イールズ博士演説反対闘争開始 / GHQ宮城県軍支部が仙台市警察に対し、職務執行妨害の疑いで、学生4人の逮捕を命じる / 6月5日、学生14名処分(3名は退学、停学、譴責あり)/ 7月6日、学生2名追加処分
・ 連合国総司令部CIE教育顧問のイールズ博士は全国各地で「赤色教授は学問の自由に反する。学問と学園の自由のために大学は共産主義思想を持つ教授を追放する権利をもつ」と講演してまわった。東北大学での講演には600名参集、学生と押し問答あり、公演中も妨害あり中断、流会となった。」(「番丁詳伝」P171)
<参照> 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98に、イールズ事件の詳述あり
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P542~543/「番丁詳伝」P171/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98
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・「目で見る仙台の歴史」P186(学内の掲示を見る学生たち)
/・「東北大学本部前で学生たち座り込み」は、「市民の戦後史(仙台市)」P62と「仙台市史 特別編4 市民生活」P535と「新・目で見る仙台の歴史」P179に
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遺児の日 |
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1939年(S14) |
<戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~>
* 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年)
* 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年)
* その後も回を重ねるごとに人数が増えた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23
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泉ヶ岳勤労者野外活動センター |
開館 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)9月、泉ヶ岳勤労者野外活動センターが開館
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「仙台市史 年表」P132
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泉岳少年自然の家 |
開設 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)6月15日、泉ヶ岳に仙台市泉岳少年自然の家を開設
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「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P20
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イズミティ21 |
開館 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)11月1日、泉市文化創造センター(イズミティ21)開館
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「仙台市史 年表」P135
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市場 |
明治期 |
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* 1880年(M13)12月16日、「長町青物市場」を名取郡の野菜生産農家が開設
* 1881年(M14)10月25日、青物市場が「河原町市場」に一本化され、長町市場は閉鎖される
* 1892年(M25)6月25日、「長町青物市場」を名取郡茂ケ崎村長町に開設
* 1892年(M25)7月30日、「共同八百屋市場」、河原町・新河原町に開設
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「仙台市史 年表」P83、P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P87(明治期の長町青物市場)
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市場 |
大正期(公設市場) |
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* 1919年(T8)9月15日、公設市場として南町通りに「仙台市南市場」、表小路に「仙台市北市場」を開設
* 1920年(T9)9月28日、両市場を閉鎖
* 1920年(T9)12月17日、新たな公設市場として「名掛丁市場」を開設
* 1921年(T10)12月24日、名掛丁市場を閉鎖し、翌日、定禅寺通に「中央公設市場」、清水小路に「南公設市場」、北一番丁に「北公設市場」を開設
* 1922年(T11)8月4日、宮城県公設市場増設し、木町通に「西公設市場」開設
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「仙台市史 年表」P99、P100/「仙台市史10年表」P259
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市場 |
昭和期 |
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<戦前>
* 1929年(S4)、肴町の「仙台魚市場」と「河原町市場」が卸売市場の開設認可
* 1930年(S5)7月21日、河原町市場が、株式会社「仙台青果市場」として開業
* 1930年(S5)10月3日、「仙台果物市場」開設
* 1943年(S18)1月18日、「仙台鮮魚市場」、東七番丁に完成
<戦後 昭和40年まで>
* 1950年(S25)8月28日、「仙都魚類株式会社の魚市場」開設許可
* 1963年(S38)12月1日、明治25年創設の「長町青果市場」が閉場
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「仙台年表」P208/「仙台市史 年表」P105、P123/「仙台市史10 年表」P275、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P292、P546、P548、P611
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「目で見る仙台の歴史」P165に「河原町青物市場」/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S38年12月、長町青果市場最後のセリ)
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市場 |
駅前マーケット |
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戦後のヤミ市からできたマーケットの1つでバラック小屋が集まっていた / 場所は東五番丁・南町通り交差点北側 / 経営は仙台駅前商業組合
<火災>
* 1949年(S24)3月16日、46戸焼失
* 1949年(S24)10月10日、駅前マーケット(青葉通り)67戸に撤去代執行(「仙台市史 別冊2」P382)
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「番丁詳伝」P168/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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市場 |
仙台東一公設市場(東一マーケット) |
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* 1946年(S21)?、「仙台東一公設市場」(東一マーケット)は、戦後、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道の東側に面してあった
* 1956年(S31)、鉄筋2階建に改築され、その後も「東一市場」の名で存続
<火災>
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼
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<火災>
「市民の戦後史」P50/「仙台年表」P221/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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16-38、16-39
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市場 |
中央マーケット(戦前) |
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昭和戦前期、東一番丁南部(通称大通り)にあった。
【「仙台大観(昭和10年刊」P43】
「大通りには1年を通じて毎夜、夜店が開かれ、夜の一番丁に一層の賑わいを呈し、傍らの「中央マーケット」には、コリントゲーム、玉突き、輪投げ、射的、演芸(無料公開)等があり遊芸場として昼夜雑踏を極めている。」
<参照>当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみ に、戦前期の大通りの夜店、中央マーケットの思い出あり
なお、戦後(昭和21年)に通称大通りに開設された「仙台中央公設市場」も、通称「中央マーケット」と呼ばれた。
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「仙台大観(昭和10年刊」P43
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