項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
幹線道路 |
青葉通り |
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→ 項目「青葉通り」参照
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幹線道路 |
広瀬通り |
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→ 項目「広瀬通り」参照
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幹線道路 |
南町通り |
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→ 項目「南町通り」参照
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幹線道路 |
東二番丁通り |
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→ 項目「東二番丁通り」参照
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幹線道路 |
東五番丁通り(長町堤町線) |
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* 1949年度(S24)、車道の中央部分の舗装、失業対策事業で開始
* 1952年度(S27)、国庫補助で本格的な中央部分舗装開始
* 1987年(S62)5月27日、東五番丁通(愛宕~上杉線)の中央分離帯に水銀灯設置
* 1987年(S62)7月10日、東五番丁通りにガス灯87基設置される
* 1988年(S63)4月、五番街ガス灯、110基完成
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「続・ 宮城県郷土史年表」P224/「仙台市史 年表」P135/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(S24年頃、東五番丁での強制代執行)/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅工事前後の東五番丁通リ(堤町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年、拡幅工事中の東五番丁通り・南町通り交差点
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幹線道路 |
仙台北環状道路 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)11月16日、仙台北環状線(宮城県道37号、都市計画道路八乙女・折立線)、開通
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「仙台市史 年表」P135
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幹線道路 |
宮城県道22号仙台泉線 |
1985年(S60) |
宮城県道22号仙台泉線(元寺小路~七北田線)は、青葉区本町から、仙台市泉区将監に至る県道(主要地方道)で、青葉区と泉区を結ぶ幹線
* 1953年(S28)、広瀬通り角から北にイチョウ91本植栽(以降、計240本に)
* 1985年(S60)12月25日、拡幅完了し開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P198)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P468?/「続・ 宮城県郷土史年表」P198
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幹線道路 |
東部復興道路 |
2019年(R1) |
* 2019年(R1)11月30日、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路、総延長10.2㎞)が全線開通
「東部復興道路は、仙台市宮城野区蒲生から若林区藤塚までの延長10.2km(県道区間6.8km、市道区間3.4km)からなり、約6mかさ上げし、海岸堤防、海岸防災林との多重防御で津波被害を軽減し、内陸側の既存集落や防災集団移転先の安全確保を図るためのもので、津波に対する多重防御の要となるものです。」(復興庁HPより)
仙台市が東日本大震災で被災した沿岸部に整備 / 約6メートル盛り土をして堤防機能を持たせた / 30日、若林区の震災遺構荒浜小学校で記念式典
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河北新報記事(2019年12月1日)/復興庁HP
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紀元2600年 |
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1940年(S15) |
1940年(S15)
* 2月11日、紀元二千六百年奉祝建国祭
* 4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
* 6月19日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公祈誓大会
* 11月5日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公展
* 11月10日、皇紀二千六百年奉祝式典(宮城外苑)祝賀行事5日間(この日、宮城県をはじめ、各市町村、官衙、銀行、会社銀行等において一斉に挙行 / 午前11時25分、全国民が宮城遙拝、駅待合室やホームでは駅長の指揮で、列車の中では車掌の通報と汽笛の合図で全員が起立して遙拝し万歳を三唱した)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史10 年表」P297~299/佐々久「近代みやぎの歩み」P107/「ものがたり東北本線史」P512
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気象台 |
仙台測候所/仙台地方気象台/仙台管区気象台 |
1937年(S12)/1939年(S14)/1945年(S20) |
* 1937年(S12)10月28日、中央気象台仙台測候所を仙台に開設
* 1939年(S14)11月1日、仙台測候所、仙台地方気象台と改称
* 1945年(S20)8月1日、仙台管区気象台に昇格
* 1946年(S21)6月10日、仙台地方気象台仙台航空気象観測所を仙台測候所仙台航空気象観測と改名
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台市史10 年表」P309/「続・ 宮城県郷土史年表」P133
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「目で見る仙台の歴史」P193(榴岡の仙台管区気象台)
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北山五山 |
輪王寺 |
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<輪王寺>
藩祖政宗に従って米沢~会津若松~岩出山~仙台と移動した伊達家の一門寺
・ 4代藩主綱村治下に、大造営
・ 1876年(M9)、山火事で焼失
・ 焼け残った山門(仁王門)は、元禄盛期の建築
北山五山は、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125~126
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「目で見る仙台の歴史」P155(輪王寺)、P71(輪王寺山門)
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切手代(ハガキ) |
ハガキの切手代 |
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■明治16年1月1日から 1銭
■明治32年4月1日から 1銭5厘
■昭和12年4月1日から 2銭
■昭和19年4月1日から 3銭
■昭和20年4月1日から 5銭
■昭和21年7月25日から 15銭
■昭和22年4月1日から 50銭
■昭和23年7月10日から 2円
■昭和26年11月1日から 5円
■昭和41年7月1日から 7円
■昭和47年2月1日から 10円
■昭和51年1月25日から 20円
■昭和56年1月20日から 30円
■昭和56年4月1日から 40円
■平成元年4月1日から 41円
■平成6年1月24日から 50円
■平成26年4月1日から 52円
■平成29年6月1日から 62円
■令和元年11月1日から 63円
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)P964の「郵便料金の変遷」/ほか
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(例)1銭5厘の切手が貼ってある絵葉書は、44-10
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木町通小学校 |
コンクリート校舎建設 |
1954年(S29) |
北四番丁通りに面する
* 1954年(S29)9月、 木町通り小学校に、仙台市内の小学校では初めて鉄筋コンクリート校舎が完成
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「新・目で見る仙台の歴史」P181
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22-16、53-60/「目で見る仙台の歴史」P181/「市民の戦後史(仙台市)」P79(鉄筋校舎落成運動会)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(市内初の鉄筋コンクリート校舎)
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義務教育期間 |
小学校令/国民学校令/6・3制 |
1907年(M40)/1941年(S16)/1944年(S19)/1947年(S22) |
* 1907年(M40)3月21日、小学校令改正により、尋常小学校の義務教育期間が、4年から6年へ変更(「仙台市史 年表」P94)
* 1941年(S16)4月1日、国民学校令施行、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)(「重訂 宮城県郷土史年表」P482)
* 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
* 1947年(S22)4月1日、六・三制の学校制度開始、国民学校を小学校と改称、義務教育期間は小学校・中学校の9年間に(「仙台市史 年表」P114)
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「仙台市史 年表」P94、P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P482/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/
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キリンビアホール(東一番丁) |
竣工 |
1935年(S10) |
* 1931年(S6)、東一番丁にキリンビアホール開店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
* 1935年(S10)、キリンビール(1階がキリンビアホール)建設 / 場所は東一番丁・日の出横丁南西角で、昭和8年の東一番丁大火の跡地
【「番丁詳伝」P131】東一番丁大火で焼失した仙集館跡は、昭和10年に金港商会が石造りのビルを建設、1階はキリンビアホールとして、また人々を集めることになった。
【「番丁詳伝」P164~165】キリンビール・ビルは昭和10年建造、鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、843平方メートル、1階がビアホールで風格ある外観ながら番街の代表的な建物の1つであった。仙台空襲(昭和20年7月)では焼け残り、道路拡張のため曳行工事(昼夜通し見物人の人垣)が行われ、昭和27年9月に地下室ごと移転完了
* 1974年(S49)、閉店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P80/「番丁詳伝」P131、P164~165
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20-35、53-71、49-05、22-58/戦後は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13の左端
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禁煙 |
列車内 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)2月20日、東北線郡山行普通列車で禁煙実施
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「続・ 宮城県郷土史年表」P173
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銀行(地域の銀行) |
銀行一覧(明治34年時点/昭和10年時点) |
1901(M34)/1935年(S10) |
(1) 明治34年時点の仙台の銀行(仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図の裏面より) いずれも株式会社
・ 七十七銀行(大町1丁目33)
・ 宮城商業銀行(大町3丁目31)
・ 仙台銀行(大町2丁目)
・ 宮城貯蓄銀行(大町3丁目20)
・ 国民貯蓄銀行(大町5丁目)
・ 宮城銀行(大町4丁目10)
・ 通商貯蓄銀行(名掛丁)
・ 仙台貯蓄銀行(大町2丁目)
(2) 昭和9年度末の仙台の銀行(「仙台市大観」P19~20) 地名は本店所在地、数字は支店及び出張所数
<地元4行>
・ 七十七銀行(大町 / 84)
・ 宮城銀行(元寺小路 / 6)
・ 東北貯蓄銀行(大町 / 4)
・ 宮城県農工銀行(東二番丁 / 1)
<県外銀行の支店>
・ 安田銀行仙台支店(大町)
・ 常磐銀行仙台支店(元寺小路)
・ 安田貯蓄銀行仙台支店(大町)
・ 不動貯蓄銀行仙台支店(東二番丁)
(3) 昭和11年時点(「仙台の産業と観光」P22)
・地元銀行、県外銀行の支店とも、昭和10年と全く同じ
ただし、常磐銀行は常陽銀行と記載されている
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仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図~ / 「仙台市大観」(昭和10年刊)P19~20 / 「仙台の産業と観光」(仙台市役所 昭和11年刊)P22
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銀行(地域の銀行) |
七十七銀行 |
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→ 内容は、項目「七十七銀行」参照
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銀行(地域の銀行) |
仙台銀行(明治年間) |
1892年(M25)~1901年(M34) |
* 1892年(M25)、仙台銀行設立
* 1901年(M34)6月28日、仙台銀行破綻 / 平成の仙台銀行とは関連なし
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P91
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銀行(地域の銀行) |
仙台貯蓄銀行 |
1893年(M26)~1901年(M34) |
* 1893年(M26)3月4日、仙台貯蓄銀行開業
* 1901年(M34)6月28日、破綻
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P88、P91
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銀行(地域の銀行) |
宮城商業銀行 |
1897年(M30) |
* 1897年(M30)4月27日、株式会社宮城商業銀行、仙台に設立 / 資本金5万円、頭取は佐和正(「重訂 宮城県郷土史年表」P308)
* 1897年(M30)7月1日、宮城商業銀行、開業(「仙台市史 年表」P90)
* 1898年(M31)2月21日、頭取に手島雄八郎就任
* 1912年(M45)2月29日、仙台市の金庫事務取扱銀行指定
第一本金庫(東北実業銀行)、第二本金庫(宮城商業銀行)、第三本金庫(七十七銀行)(「重訂 宮城県郷土史年表」P351)
* 1912年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P308、P311、P351、P409/「仙台市史 年表」P90
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「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
宮城県農工銀行 |
1898年(M31) |
* 1898年(M31)4月1日、宮城県農工銀行、設立認可 / 東二番丁に開設(木造下見板張りの洋風建築)
* 1898年(M31)4月10日、宮城県農工銀行を創設し、4月より東三番丁に開業す(初代頭取遠藤温 / 不動産を担保とする農・工・商及び養蚕業の金融機関)
* 1898年(M31)、東二番丁に設立 / 政府の施策により中小規模の農家や商工業の振興を目指したが、地主・富商金融に重点が移った(「新・目で見る仙台の歴史」P132)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P90/「目で見る仙台の歴史」P136/「重訂 宮城県郷土史年表」P311/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
宮城商業貯蓄銀行 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)3月、宮城商業貯蓄銀行、開業
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「仙台市史 年表」P90
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銀行(地域の銀行) |
国民貯蓄銀行 |
1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、国民貯蓄銀行、開業
* 1905年(M38)、国民貯蓄銀行、解散
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350
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銀行(地域の銀行) |
通商貯蓄銀行 |
1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、通商貯蓄銀行、開業
* 1905年(M38)、通商貯蓄銀行、休業
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350
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銀行(地域の銀行) |
松良銀行 |
1900年(M33) |
* 1900年(M33)7月4日、松良銀行、合議会社で開業(東四番丁) / 木造2階建て下見板張りの洋風建築 / 松良盤植による個人銀行 / 夫人みつと共に常盤木学園高等女学校も創立した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P91/「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
東北実業銀行 |
1910年(M43)~1932年(S7) |
* 1910年(M43)6月15日、東北実業銀行が涌谷町で開業
* 1911年(M44)2月11日、本店を仙台市名掛丁に移転
* 1918年(T7)、名掛丁に竣工(秋保石積の荘重なルネッサンス風)
* 1932年(S7)1月31日、五城銀行と共に、七十七銀行と合併
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P346、P348、P429/「宮城県百科事典」P750/「仙台市史 年表」P95、P106/「目で見る仙台の歴史」P151
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33-05/「目で見る仙台の歴史」P151(大正7年竣工の社屋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138(社屋)
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銀行(地域の銀行) |
宮城貯蓄銀行/五城銀行/東北貯蓄銀行 |
1893年(M26)~1932年(S7) |
* 1893年(M26)、第七十七国立銀行が、銀行条例の改正により、貯蓄預金取り扱いのため、宮城貯蓄銀行を大町1丁目に開業(「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* 1893年(M26)、宮城貯蓄銀行を仙台市大町二丁目に創立
* 1901年(M34)、株式会社宮城貯蓄、同仙台貯蓄両銀行倒産
* 1902年(M35)、仙台貯蓄、通商貯蓄、国民貯蓄の各銀行解散
* 1908年(M41)、宮城貯蓄銀行に取付あり
************************************
* 1921年(T10)11月、宮城貯蓄銀行が、普通銀行に改組し、商号を五城銀行と改称(貯蓄銀行業務は新設の宮城貯蓄銀行に譲渡) (「仙台市史 年表」P100、「重訂 宮城県郷土史年表」P382、「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* T12年3月26日、五城銀行(頭取、伊沢平左衛門) が、第八銀行(大正3年12月国分町に創設、頭取山田久右衛門)と塩釜銀行を合併(頭取、伊沢平左衛門)( 「仙台市史 年表」P101)
* 1932年(S7)2月1日、七十七銀行が、五城銀行と東北実業銀行を合併
* 1934年(S9)1月20日、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行とが合併、東北貯蓄銀行を大町五丁目に設立(「仙台市史 年表」P107、「重訂 宮城県郷土史年表」P439)
* 1945年(S20)5月1日、七十七銀行が東北貯蓄銀行を買収(「重訂 宮城県郷土史年表」P504)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P294、P323、P326、P342、P382、P387、P439、P504/「新・目で見る仙台の歴史」P132/「仙台市史 年表」P100、P101、P107/「仙台年表」P203
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「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
東北貯蓄銀行 |
1934年(S9)~1945年(S20) |
* 1934年(S9)1月20日、東北貯蓄銀行は、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行が合併し、(旧)大町五丁目に設立された(東北実業貯蓄銀行はT4年に本店を志田郡古川町から仙台市に移転)
* 1945年(S20)4月10日、東北貯蓄銀行、七十七銀行へ営業譲渡契約書に調印、一県一行体制が完成
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「仙台市史10 年表」P282、P309/「仙台市史 年表」P107、P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P439、P504
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東北貯蓄銀行の仙台七夕飾り物「貯蓄校」は20-53、同「東北振興丸」は、83-04
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銀行(地域の銀行) |
三徳無尽/徳陽相互銀行/德陽シティ銀行 |
1942年(S17)/1951年(S26)~1998年(H10) |
* 1942年(S17)4月1日、 宮城無尽・太陽無尽・東北無尽の三社が合併し、「三徳無尽」として設立
* 1951年(S26)10月20日、三徳無尽株式会社が改組、徳陽相互銀行に商号変更
* 1982年(S57)5月24日、一番丁支店オープン
<以下、Wikipedia「徳陽シティ銀行」より>
* 1990年(H2)8月、 第二地方銀行となる / 商号を「株式会社德陽シティ銀行」に変更
* 1994年(H6)3月、「1995年をもって、北日本銀行および殖産銀行と合併し、新名称を『平成銀行』とする」と発表したが、後に徳陽シティ銀行の財務内容がネックとなり、破談となる
* 1997年(H9)11月26日、経営破綻 / 仙台銀行、七十七銀行、北日本銀行などに営業譲渡を決定
1998年(H10)11月16日、 営業を終了
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「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P552/「続・ 宮城県郷土史年表」P146/Wikipedia「徳陽シティ銀行」(2020年10月22日版)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P742(徳陽相互銀行)
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銀行(地域の銀行) |
振興相互銀行/仙台銀行(平成時代) |
1952年(S27)/1989年(H1) |
* 1951年(S26)、振興無尽株式会社創業
* 1952年(S27)5月29日、振興無尽株式会社が振興相互銀行と改称
* 1970年(S45)5月、本店を青葉通りに新築移転
* 1989年(H1)2月1日、振興相互銀行が普通銀行に転換し、仙台銀行と改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705、P755/「仙台市史 年表」P117、P135
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P755(青葉通りに進出した振興相互銀行本店、S44年5月)
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銀行(地域の銀行) |
青和銀行/みちのく銀行 |
1974年(S49)/1976年(S51) |
* 1974年(S49)12月9日、青和銀行仙台支店開店
* 1976年(S51)10月、みちのく銀行と改称
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「続・ 宮城県郷土史年表」P35
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銀行(地域の銀行) |
宮城県労働金庫/東北労働金庫 |
1951年(S26)/2003年(H15) |
* 1951年(S26)12月8日、宮城県労働金庫創設(<編者注>宮城労働金庫が正しい)
* 2003年(H15)10月1日 - 東北6労働金庫が合併し、「東北労働金庫」を設立(Wikipedia「東北労働金庫」より)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P553/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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銀行(都市銀行) |
日本銀行 |
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→ 内容は、項目「日本銀行」参照
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銀行(都市銀行) |
日本興業銀行 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)8月、日本興業銀行東北支店を福島市より仙台市東一番丁に移転
* 1951年(S26)10月、仙台支店と改称
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「重訂 宮城県郷土史年表」P502
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P730(日本興行銀行仙台支店)
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銀行(都市銀行) |
住友銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)2月17日、住友銀行仙台支店を新伝馬町に開業
* 1948年(S23)10月1日、株式会社大阪銀行に商号変更
* 1952年(S27)12月1日、商号を株式会社住友銀行に復帰
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「住友銀行」2020年9月13日版
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銀行(都市銀行) |
三和銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)5月1日、三和銀行仙台支店を東二番丁元寺小路角に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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銀行(都市銀行) |
三菱銀行 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)2月17日、三菱銀行仙台支店を東一番丁に開業
* 1948年(S23)10月、 持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、株式会社千代田銀行に商号変更
* 1953年(S28)7月、再び商号を株式会社三菱銀行に変更
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「三菱銀行」2020年9月版
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/帝国銀行/第一銀行/第一勧業銀行 |
1937年(S12)/1947年(S22)/1971年(S46) |
<日本勧業銀行仙台支店>
* 1937年(S12)3月、日本勧業銀行が宮城県農工銀行を合併、東二番丁80(1984年現在、小田急ビルの場所)に仙台支店を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台支店が仙台空襲で被災、引き続き同地で営業
* 1950年(S25)、特殊銀行から普通銀行へ転換
* 1952年(S27)6月、現・一番町3丁目1-26に支店新築(鉄筋コンクリート3階建)し移転
<帝国銀行仙台支店→第一銀行仙台支店>
* 1879年(M12)3月、第一国立銀行仙台出張所を仙台支店と改称し、一般営業を開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P256) / M29年に第一銀行となる
* 1947年(S22)2月24日、帝国銀行仙台支店を東三番丁南通り角に開業(帝国銀行は、S18年太平洋戦争戦時下の国策により第一銀行と三井銀行と合併した銀行)
* 1948年(S23)10月 、第一銀行設立(帝国銀行より営業譲渡を受け開業)
* 1948年(S23)10月1日、第一銀行仙台支店と改称し、東一番丁82(青葉通りに面し、東一番丁角のやや西)に新築移転
<第一勧業銀行仙台支店、青葉通支店>
* 1971年(S46)10月1日、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が発足 / 勧銀仙台支店は仙台支店に、第一銀行仙台支店は青葉通支店に
* 1974年(S49)11月、仙台支店?を新築
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「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P256、P516、P529/Wikipedia「第一銀行」/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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22-07、58-03/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー)/「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/第一勧業銀行 |
1952年(S27)/1971年(S46) |
* 1952年(S27)6月13日、日本勧業銀行仙台支店を東二番丁・大町角に新築移転
* 1971年(S46)10月1日、第一勧業銀行発足(日本勧業銀行が株式会社第一銀行を合併)
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/「重訂 宮城県郷土史年表」P556/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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銀行(都市銀行) |
不動貯蓄銀行/日本貯蓄銀行/協和銀行 |
1912年(T9)/1945年(S20)/1948年(S23) |
<協和銀行仙台支店>
* 1912年(T1)8月1日、不動貯蓄銀行仙台代理店を南町通り36に開業
* 1945年(S20)5月13日、9大貯蓄銀行合同し、日本貯蓄銀行と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P504 / ただし、同P353では、9大貯蓄銀行合同は、1947年5月15日)
* 1948年(S23)7月15日、日本貯蓄銀行を普通銀行に転換して、協和銀行と改称
* 1953年(S28)12月、仙台支店を東一番丁南通り北西角に新築(仙台ビルヂング)し、東二番丁通りより移転(6階建て、仙台初の本格的な貸事務所ビル / 1階は東二番丁から移転した協和銀行が入居したほか、銀行協会、仙台手形交換所、弁護士事務所、会計士事務所、中央出先会社が入居 / この場所にあった飯田信七商店(小間物、化粧品の卸小売)は、卸町に移る(「番丁詳伝」P210)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353、P504、P528/「仙台市史 年表」P118/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194
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東二番丁の協和銀行は、22-25、22-26、南町通移転後の協和銀行36-08 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(仙台ビルディング)
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銀行(都市銀行) |
東洋信託銀行 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)10月8日、東洋信託銀行仙台支店が東五番丁・名掛丁角に新築移転
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「続・ 宮城県郷土史年表」P23
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銀行(都市銀行) |
太陽神戸銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)5月8日、太陽神戸銀行仙台支店開設
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「続・ 宮城県郷土史年表」P81
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銀行(都市銀行) |
東海銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)11月14日、東海銀行仙台支店開設
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「続・ 宮城県郷土史年表」P88
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錦章堂ビル |
竣工 |
1957年(S32) |
東一番丁通りに面し、三越の南手前にある小ビル(印舗の錦章堂ビル)はS32年に竣工
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錦章堂主人談
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22-61
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金属回収 |
開始 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)2月16日、商工省、鉄製不急品の回収開始
* 1939年(S14)4月7日、宮城県内で金の提出運動始まる(各家庭は7月5日までに保有内容を申告)
* 1940年(S15)、米国などが、鉄くずや銅鉱石の日本向け輸出禁止
* 1941年(S16)9月1日、金属類回収令により金属回収開始
<仙台市では>
* 1941年(S16)10月1日(興亜奉公日)、仙台市では「戦争物資動員の日」と定め、回収強化 / 家庭の門扉、欄干、手すり、鉄瓶、傘立て、火鉢、洗面器、置物、花器、文房類まで回収
* 1942年(S17)1月20日、仙台市で一般家庭金属類特別回収(第2回特別回収、買上げ班が各戸を回り買上げ伝票に記入、財団法人・戦時物資活用協会が買上げ)
「1月20日、公会役員や中学生が14班に分かれて荷車やリヤカーに「金属特別回収訪問班」と書いた小旗を立てて各家庭をまわり供出を呼びかけました。 床の間の花瓶、仏壇に供えてあった花立て、大鍋、青銅の火鉢、傘立てなどの金属が提供されました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117)
* 1942年(S17)5月12日、工場、会社、商店、旅館、寺院などから金属回収が始まる(菅家年表)
* 1942年(S17)11月16日、ニッケル、銅貨も回収(10銭と5銭ニッケル貨、白銅貨)(菅家年表)
* 1942年(S17)11月~1943年(S18)2月、火の見櫓や家庭必需品を除く一切の銅鉄製品を回収
* 1943年(S18)8月、勅令改正で強化された
・「1943年8月、「金属類非常回収実施要領」が閣議決定され回収はより強化。 鉄製品では、門扉、鉄製ベッド、物干し、ストーブ、ロッカーなど、銅製品では新聞受け、シャンデリア、洗面機などが加えられ、公共物ではマンホール、交通標識、橋の欄干など。
仙台市立病院は昭和14年に鉄筋5階建てのビルに改修し、170台のベッドを購入したばかりでしたがこれも供出され木製に、片平の東北帝大キャンパスの周りを取り囲んでいた鉄製欄干もやはり木造に変わりました。
回収方法はよりシステム化され、隣組ごと日程を組み、会場では公会役員立ち合いのもと、買上げ者が物品を鑑定して値段をつけていきました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117~118)
* 1944年(S19)3月、仙台市電「芭蕉の辻線」のレールを回収
* 1944年(S19)9月15日、白金の強制買い上げ
* 1944年(S19)9月25日、銀の買上げ(まず、東京から始まる)
* 1944年(S19)、松島町字高城の松島橋、金属回収のため解体
* 1945年(S20)10月22日、金属回収令廃止
写真16-57と16-69は、金属回収で店の看板がなくなった仙台駅前
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仙台市での金属回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P25~27に記述あり
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台年表」P209、P214/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28~29/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P117~118
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16-71、16-57、16-69/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)/同P462(東裏丁公会の供出の様子、昭和17年)
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金属回収 |
街灯 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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金属回収 |
寺院の梵鐘など |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)11月6日、大年寺の名鐘、白銀混鋳の「開静鐘」など(仙台市内の)各寺院神社等の撞鐘をはじめ金属製の調度品(国宝級のものを除く)を戦時資材として回収開始(“応召”より除かれた三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)
* 1942年(S17)11月12日、各寺院より“応召”した梵鐘の壮行供養会を東一番丁の西本願寺に於いて挙行
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/「重訂 宮城県郷土史年表」P493/「仙台年表」P214
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「目で見る仙台の歴史」P168(各寺院供出物の山)
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金属回収 |
銅像「壮行式」 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出
元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112
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金属回収 |
軍馬銅像 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
* 1943年(S18)か1944年(S19)、桜ケ岡公園(西公園)にあった軍馬の銅像「日露役殉死軍馬銅像」が、S18年か19年に供出された
・ 戦後しばらくは台座のみが残っていた
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99-120、53-63
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