項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
駐留軍(米軍) |
進駐軍から駐留軍へ |
1952年(S27) |
☆ 駐留軍以前の「進駐軍時代」は → 項目「進駐軍(米軍)」参照
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、対日講和条約発効し、連合国軍(米軍)の日本占領終る / 占領軍(進駐軍)だった米軍は、以後は駐留軍として日本に基地を置く
* 1955年(S30)4月15日、駐留米軍、労務者250人を解雇し社会問題化
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「重訂 宮城県郷土史年表」P578
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駐留軍(米軍) |
施設提供と返還 |
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* 1952年(S27)7月26日、日米安全保障条約により、在日合衆国軍に提供する施設及び区域決定(宮城県内)
/ <無期限使用> キャンプ仙台川内地区(川内)、キャンプ・ファウラー(榴ヶ岡)、第172病院(北一番丁の仙台簡易保険局ビル)、レニア・フィールド(南小泉霞の目)、キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)、司令官副司令官官舎(新坂通)、七北田演習場、 <一時使用> 安田ビル兵員クラブ(国分町)、住宅施設(北二番丁)
* 1956年(S31)6月15日、榴ヶ岡キャンプを、日本に返還
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
* 1957年(S32)8月、川内キャンプの接収解除を決定(「仙台市史 続1」P465)
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビルが、S20年9月に接収されて以来12年ぶりに正式返還される
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
<編者注> キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P328では、「キャンプ・シメルフィニヒ」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P582、P585、P586/「仙台市史10 年表」P328/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P465/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282、P285、P854/「市民の戦後史」年表
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駐留軍(米軍) |
榴ヶ岡キャンプ返還 |
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* 1956年(S31)6月、榴ヶ岡キャンプ(キャンプ・ファウラー)返還
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
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駐留軍(米軍) |
川内、苦竹両キャンプ返還 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1957年(S32)11月13日、二の丸跡、米軍より返還(「仙台城」P236) / 同日に川内返還式(「目で見る仙台の歴史」P195)
・川内キャンプ跡は、東北大学と開拓者と仙台市有に分けられ、苦竹キャンプ跡は、自衛隊に3分の2、残り3分の1は工場用地とされた
<その後の、在日米軍施設>
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P586/「仙台市史 年表」P120/「続・ 宮城県郷土史年表」P60/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P801/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P236
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「目で見る仙台の歴史」P195(川内キャンプ返還式で日章旗掲揚)
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彫刻のあるまちづくり事業 |
開始 |
1977年(S52)10月 |
* 1977年(S52)10月、仙台市、市制施行八十八周年を記念し開始
<仙台市HP 「彫刻のあるまちづくり」より>
平成13年3月までに、第1期12作品、第2期12作品を設置し、24年間にわたり1年に1作品ずつ設置してきた彫刻のあるまちづくり事業が完了(全作品一覧あり)
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P73/仙台市HP「彫刻のあるまちづくり」
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鳥獣特別保護区 |
青葉山 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)9月3日、仙台市青葉山がチョウゲンボウ営巣地鳥獣特別保護区に指定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P150
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朝鮮館 |
建設~取壊し |
1928年(S3)~1950年(S25) |
* 1928年(S3)、「朝鮮館」建設
昭和3年に仙台で開かれた「東北産業博覧会」の際、桜ケ岡公園に朝鮮総督府が出品する展示館として建てられた極彩色の建物(場所は桜が岡公園の北西の隅)
* 1930年(S5)、仙台市が物産陳列室を設ける(博覧会後、寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
* 1945年(S20)の仙台空襲では焼失を免れたが、1950年(S25)に取り壊された
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「仙台市史 本篇2」P370/「仙台市史10 年表」P275
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53-32、08-05 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P86
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朝鮮人移入労働者 |
宮城県関連 |
昭和10年代後半 |
・ 「朝鮮人の移動防止に関する件」(「特高警察から宮城県知事への報告」 昭和17年10月?)→「県内には朝鮮人が2550人住んでいて、うち労務動員計画による移入朝鮮人は、大谷鉱山(現・気仙沼市、439人)、細倉鉱山(現・栗原市、474人)、鹿島組細倉出張所(63人)の合計976人。このうち3割強にあたる362人が逃亡中とあります。逃亡は宮城県だけでなく、全国的傾向だったようです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P74)
・ 戦争がはじまって日本国内で労働力が不足すると、政府は国内の鉱山、土木作業の経営者に朝鮮人労働者の集団連行を許可します。昭和19年2月の「宮城県知事引継書」によると、宮城県内には朝鮮人が6405人住んでおり、このうち「国民動員計画による移入労働鮮人」は1601人、内訳は菅原組多賀城出張所728人、同矢本出張所115人、三菱細倉鉱業所365人、西松組塩釜出張所349人、小原出張所44人。県全体で137人(4.9%)が逃亡しており「特高警察」は一斉取締りを実施して探しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P160)
・ 移入朝鮮人労務者(「特高警察から宮城県知事への報告 昭和20年」より) 国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている(「戦争のころ 仙台、宮城」P202)
・ 「なぐられ、監禁されて働かされた朝鮮人労働者」
当時、多賀城海軍工廠の現場(菅原組多賀城出張所)で働いた朝鮮人の道然圭(グヨンギュ)さんの証言(「多賀城市史」から引用)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P160)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P74、P160、P202
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朝鮮戦争 |
開戦~休戦 |
1950年(S25)~1953年(S28) |
* 1950年(S25)6月25日、開戦(北緯38度線で戦闘開始)
* 1950年(S25)8月25日、朝鮮特需はじまる(菅家年表)
* 1951年(S26)7月10日、休戦会談、開城で開く(~8.23戦闘は続く)
* 1951年(S26)10月25日、朝鮮休戦会談、板門店で再開(会談中戦闘続く、戦局膠着状態)
* 1953年(S28)7月27日、朝鮮休戦協定調印
戦後(S20年9月から)仙台など県内に進駐した占領軍(進駐軍=米軍)将兵は多い時で1万5000人(2万人説もある→後述)に達したが、朝鮮戦争開始後は、大幅に減った /「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P30、P32/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P551/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/「市民の戦後史(仙台市)」P72
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樗牛瞑想の松 |
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⇒「瞑想の松」参照
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08-07、53-112
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チリ地震津波 |
被害 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)5月24日、三陸沿岸に来襲し、大船渡市、志津川町、女川町などに大被害(三陸一帯で死者119人、流失家屋1,571)
・ 仙台市は被害なし(「仙台市史 続編第2巻」P288)
* NHKテレビ、七ヶ浜村、花渕浜から中継 / 特別番組を6月1日まで実施 / NHKたすけあい、医療巡回実施
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「重訂 宮城県郷土史年表」P596/[NHK仙台放送局60年のあゆみ」P35/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P288
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榴ケ岡公園 |
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1902年(M35)~ |
仙台市街地東部の榴岡にあり、西の桜ケ岡公園(西公園)とともに仙台を代表する公園のひとつで、藩政時代からつづく桜の名所
「仙台市史 本篇2」P373~374 →「榴ケ岡(つつじがおか)は、藩政時代から、仙台の桜の名所。伊達綱村の時代に園内に枝垂れ桜を植栽し、演劇を許し四民遊覧の地とした。」
「目で見る仙台の歴史」P119 →「元禄8年、釈迦堂の建立と同時に馬場・的場を設け、そのまわりに枝垂桜を植え、士民遊楽の地にした。」
・ 名所の釈迦堂が近く、戦前は隣接して陸軍歩兵第4連隊の兵営があった
・ 戦後は旧四連隊跡地が一時米軍キャンプとして接収、返還後は県警察学校用地となったが、のちにここも榴ケ岡公園の一部となった
* 1902年(M35)4月18日、宮城県が設置
* 1924年(T13)12月9日、園内の桜が国の名勝に指定
* 1942年(S17)2月27日、県営から仙台市に移管
* 1949年(S24)12月、野外音楽堂完成
* 1960年(S35)、園内に「歩兵第4連隊之跡」碑を建立
* 1968年(S43)3月14日、枯死により榴ヶ岡(桜)の名勝指定解除
* 1976年(S51)~1987年(S62)、旧歩兵第4連隊跡地(その後、米軍基地、県警察学校用地)を公園に組み込むための整備(広場や緑地、野外音楽堂、集会所を設置)
* 1976年(S51)1月13日、旧歩兵第4連隊兵舎解体始まる
* 1979年(S54)11月3日、仙台市歴史民俗資料館、榴ケ岡公園内の旧歩兵第4連隊跡に残された兵舎を利用して開館
* 1981年(S56)4月22日、噴水彫刻「杜のうた」設置
* 1984年(S59)4月17日、花見の復興記念碑建立
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「仙台市史 本篇2」P373~374/ 「仙台市史 通史編」8(現代1)528頁/「仙台市史 年表」P92、P102、P111/「仙台市史 続編1」P463/「仙台市史10 年表」P303/「重訂 宮城県郷土史年表」P599、P638/「続・ 宮城県郷土史年表」P50、P127、P175/Wikipedia「榴岡公園」/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台あのころこのころ八十八年」P244/「宮城百年」(毎日新聞社刊)年表
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98-078、99-121など、写真分類D-13-03「榴ケ岡公園」の全写真/「戦前期の公園平面図」は」、98-077 /「いつか見た街・人・暮らし」P6(公園の桜、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P119と「新・目で見る仙台の歴史」(H1年刊)P131に、明治20年代の「榴ヶ岡の花見」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(野外音楽堂)/同210(枯れ死した桜古木)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P233(「仙台名所」より榴ヶ岡の図、カラー)
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堤人形 |
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・ 市内堤町で17世紀末から作られたといわれる
・ 明治末には芳賀佐四郎家のみとなる
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「新・目で見る仙台の歴史」P152
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「新・目で見る仙台の歴史」P152(窯場と製作風景)
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ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
開店~閉店 |
1912年(M45)~1933年(S8) |
・ 東一番丁通の立町通角と大町通角の間、道の西側に面していた(戦後の靴店「アピアまんぞくや」の辺り)
・ 1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーンで西洋料理や喫茶(仙台最初の洋風喫茶店)、夜はイルミネーションが点灯
・ 洋館造り、設計は東北帝国大学の文部技官中島仙太郎
* 1912年(M45)7月27日、開店(大正に改元の3日前)
大町5丁目の写真機販売業・桜井常吉が東一番丁通りに進出、電飾の輝く洋館2階でカフェ・クレーンを開業(1階のツルヤ洋菓子店は義弟の中林源助にまかせる)
* 1933年(S8)3月19日、近くの映画館「仙集館」近くから出火した火事で類焼し、閉店
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「重訂 宮城県郷土史年表」P352/「仙台はじめて物語」P74~75
/「東一番丁物語」(柴田量平著)P126~129/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P135/「仙台市史 年表」P96
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20-19、20-41、22-56、45-02、45-03、99-017
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ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
ツルヤ洋菓子店 |
1912年(M45)~1933年(S8) |
* 1912年(M45)7月27日、開店(1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーン)
* 1915年(T4)、ツルヤ洋菓子店は、仙台ではじめてシュークリームを販売
* 1933年(S8)3月、付近の映画館「仙集館」から火災で類焼し閉店
【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ 場所は戦後の靴店アピア満足屋のあたり / 開店は、年号が大正に代わる3日前 / 洋館造りは東北帝国大学の文部技官中島仙太郎の設計、夜はイルミネーションが点灯
・ 「ツルヤ洋菓子店」は、大正4年に仙台で初めてシュークリームを販売したり、ロバに曳かせた赤塗りの箱馬車で、焼きたてのパンや洋菓子を配達するなど、常に評判を呼ぶ店だった。 新製品「仙台豆」の袋入り(20銭)を買うと景品に「仙集館」の二等席の映画券1枚がついた
・ ツルヤ洋菓子店は、カフェクレーンの桜井常吉の妻はるの弟中林源助が経営
【座談会「みやぎの洋菓子60年」P21】
・「ツルヤ」のベビーシュー(シュークリーム)は有名だった。 トテ馬車と言って、箱馬車でパンを配達して有名でした。大正の頃のことです。
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「仙台はじめて物語」P74~75/座談会「みやぎの洋菓子60年」P21(掲載誌は不詳)/「重訂 宮城県郷土史年表」P377
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ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
カフェ・クレーン |
1912年(M45)~1933年(S8) |
* 1912年(M45)7月27日、新式洋菓子コーヒー店カフェ・クレーン開店(一品料理と喫茶)
【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ ツルヤ洋菓子店2階の喫茶「カフェクレーン」は、季節の花を飾った大理石張りのテーブル10余りが並び、天井には扇風機が回り、オルガンもあった
・ コーヒー、紅茶が5銭、特製アイスクリーム10銭、ライスカレー、チキンライス、ハムライスが15銭均一
・ 12~13歳の女給仕は水色の洋服とエプロン姿
・ 仙台では、「カフェクレーン」「ブラザー軒」「カルトン食堂」が知識人や学生のたまり場だった
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「仙台はじめて物語」P74~75
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22-56、45-02、45-03、98-07/「いつか見た街・人・暮らし」P38(T5年、カフェクレーレストラン内部)/「新・目で見る仙台の歴史」P146
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デイケアー |
デイケアセンター |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)4月2日、仙台市三居沢で仙台デイケアセンター業務開始(全国2番目)
* 1987年(S62)4月、仙台市葉山町にデイケアセンター完成
* 1988年(S63)3月28日、仙台市泉中央デイサービスセンター、オ-プン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P160、P223、P241
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貞山運河(貞山堀) |
改修事業 |
1880年(M13)~1889年(M22) |
* 1880年(M13)、貞山運河を貞山堀と改称、改修事業の測量着手
* 1889年(M22)5月11日、貞山堀改修工事完了し、貞山堀を再び貞山運河と改称
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「仙台市史 年表」P83、P86
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08-06/「新・目で見る仙台の歴史」P154(貞山堀で舟遊び)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験/貞山堀のシジミ採り)
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逓信関連 |
仙台逓信管理局設置 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)4月1日、逓信省が仙台に逓信管理局を設置
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「仙台市史 年表」P95/「重訂 宮城県郷土史年表」P345
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逓信関連 |
仙台逓信局 |
戦前期 |
・ 東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1910年(M43)4月1日、仙台逓信管理局を仙台市に設置
* 1913年(T2)6月、北部逓信局と改称
* 1919年(T8)5月、仙台逓信局と改称
・ 終戦後、焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟のマーケット、建坪3000坪)ができたが、S27年1月22日の仙台銀座大火で140戸焼失
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「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「重訂 宮城県郷土史年表」P345、P554
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53-53/「目で見る仙台の歴史」P144/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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逓信関連 |
仙台逓信講習所 |
1919年(T8) |
* 1919年(T8)5月、仙台逓信講習所を霊屋下(おたまやした)に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373
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43-06(校舎)、53-93(寄宿舎)
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停電 |
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昭和20年代 |
* 1951年(S26)9月26日、県内一帯に緊急停電続く
* 1952年(S27)3月17日、北海道を除き電力制限解除(「菅家年表」P46)
<編者注> このほか、戦後(昭和20年代)には、全国的に停電が珍しくなかった / * 1946年(S21)3月6日、電力制限のため4日に1日停電(菅家年表) / * 1947年(S22)1月、全国的に隔日停電を実施
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「仙台年表」P222/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P40、P46
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出稼ぎ者相談所 |
上野駅に開設 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)12月、宮城県は、県出身出稼者並に就職希望者相談所を上野駅前に開設(全国初)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P636
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テレトピア構想 |
モデル地区指定 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)11月20日、仙台市がテレトピア・モデル都市に指定される
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「仙台市史 年表」P134/仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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テレビアンラジオ |
発売開始 |
1936年(S11)7月1日 |
山中電機が発売した、時計つきのラジオ
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「日録20世紀 1936年」P30
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53-14に「テレビアンラジオ」の広告看板あり
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テレフォンカード |
テレカ公衆電話登場 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)11月19日、テレフォンカード公衆電話を仙台市内6カ所に設置
* 1983年(S58)11月28日、仙台空港に、テレフォンカードによる公衆電話設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P168
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電気開始(仙台) |
市内に供給 |
1894年(M27)7月15日 |
<試験点灯>
(1-1)「1886年(M19)、三居沢の紡績工場に点火 / 本県における電灯使用の初見なり」
(1-2)「1888年(M21)7月1日、宮城紡績会社、三居沢工場において水力発電による電灯の試験点灯を行う」
<市内に供給>
* 1894年(M27)、宮城紡績会社、合併により宮城水力紡績製紙株式会社に改称 / 出力30KWの三居沢発電所を建設、発電事業開始 / この電力を昼間は紡績工場の動力として使用し、夜間は、同年に設立された仙台電灯株式会社に売り、仙台市内の需要者に供給(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)
(2-1)「1894年(M27)7月15日、宮城紡績会社、宮城水力紡績株式会社と改称、この日開業した仙台電灯株式会社を通じて供給し、大町と国分町に365灯の電灯が灯る」
(2-2)「1894年(M27)7月、三居沢紡績会社の水力発電を利用して、仙台市中に電灯をはじめて点ず(当時の点灯数365灯)、のちの仙台電灯株式会社」
* 1912年(T1)、電灯事業を仙台市が買収
(以降は、→ 項目「発電事業」参照)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/(1-1)「重訂 宮城県郷土史年表」P275/(1-2)「仙台市史 年表」P86/(2-1)同P88、「新・目で見る仙台の歴史」P124/(2-2)「重訂 宮城県郷土史年表」P298
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「目で見る仙台の歴史」P129に、「三居沢宮城紡績会社」と、「山居沢発電所(スケッチ)/「新・目で見る仙台の歴史」P124(三居沢発電所)
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電信開始(仙台) |
電信局開設 |
1874年(M7) |
* 1872年(M5)、日本縦貫電信線の東京・青森線架設工事開始
<電信局>
* 1973年(M6)、仙台国分町に「電信局」を開設す / 東京との間に1本の電線を引き、また電柱は市内のみにて、郊外は樹木等を利用して架設す(「重訂 宮城県郷土史年表」P243、「仙台年表」P147)
* 1974年(M7)、仙台伝信局開設され、のち仙台電信局となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350)
* 1974年(M7)9月25日、仙台電信分局設置、業務開始(「仙台市史10 年表」P176)
* 1974年(M7)9月25日、仙台市国分町2丁目(戦後の瀬戸勝パーキングの場所)に仙台電信分局(3階建、ペンキ塗り、西洋式構造)を設置(「仙台年表」P147)
* 1893年(M26)10月、仙台郵便電信局を設置 / 宮城・福島・山形を管轄(「仙台あのころこのころ八十八年」P239)
<電信線>
* 1874年(M7)9月15日、仙台・東京間に「電信線」架設(「仙台市史 年表」P80)
* 1874年(M7)12月15日、仙台・一関間に電信線架設(「仙台市史 年表」P81)
* 1892年(M25)、宮城より山形県まで電信を架設(「仙台年表」P167、「宮城町史」)
<以下は、「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」より>
* 1874年(M7)9月25日、仙台の「電信局」、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通し、公衆電報の取り扱い開始
(S40年、この地に、「仙台電信局創立記念の碑」建立)
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(<編者注>明治36年に移転)
* 1947年(S22)、また電信局に分離し、東二番丁の青葉通り角へ移る(<編者注>昭和24年に、仙台電報局に名称変更)
* 1963年(S38)、東二番丁の逓信病院の隣へ新庁舎を建設、6月22日に移転と同時に「中央電報局」に昇格
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P243、P623/「仙台市史 年表」P80、P81、P123/「仙台市史10 年表」P176、P147/「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580/「仙台あのころこのころ八十八年」P239
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77-18、77-22に電信用の柱が写る
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天神社 |
移設 |
1667年(寛文7年) |
・ 市内榴岡にある。東照宮造営の際、その地にあった天神社を寛文7年、榴ヶ岡に移す。1795年(寛政7年)に丹塗の向唐門を残して焼失。 その後に社殿再建 / 筆塚、句碑が並ぶ
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「目で見る仙台の歴史」P59
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「目で見る仙台の歴史」P59
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伝染病流行 |
コレラ |
1882年(M15)/1895年(M28) |
* 1882年(M15)7月19日、仙台区でコレラ患者発生、大流行となる
・ 7月24日に宮城郡荒巻村台原に避病院設置
・ 罹病者数930名のうち410人が死亡
(当時の仙台市人口は5万4585人)
* 1895年(M28)7月19日~9月、小田原の考勝寺に収容されていた日清戦争復員軍人からコレラが発生し流行
・ 9月5日に東十番丁裏に避病院設置
・ 仙台市の死亡者数365名
(当時の仙台市人口は6万3952人)
<参考文献> 「仙台あのころこのころ八十八年」P18~19「コレラ猛威を振う」
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「仙台市史 年表」P84、P89/「仙台市史 特別編4 市民生活」P384
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伝染病流行 |
天然痘 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)1月9日~5月、天然痘が流行、仙台市を含む宮城県の罹患者数766名
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「仙台市史 年表」P89
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伝染病流行 |
腸チフス |
1909年(M42) |
* 1909年(M42)、仙台で流行
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「仙台市史 年表」P94
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伝染病流行 |
仙台・戦後流行 |
昭和20年代以降 |
<昭和20年代>
* 1945年(S20)、腸チフス・パラチフス555人、ジフテリア480人、
* 1946年(S21)、腸チフス・パラチフス313人、ジフテリア293人、発疹チフス383人、戦後引き揚げ者とともに持ち込まれ流行した痘瘡が50人
* 赤痢は、S21~22年に仙台で約1000人、S25~S27には連続して爆発的に発生し、榴岡病院(仙台市立の伝染病専門病院)は、畳敷きの部屋まで病室に転用
・ 結核、社会各層に蔓延、S27年ころから目に見えて患者数、死亡率とも減少
・ 戦後、生活環境がもっとも悪化した時期で、ノミ、シラミ、ハエ、蚊、ダニなどが、S24年頃まで広範囲に発生、その後減少、ノミ、シラミ、ダニの類は全く姿を消した
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったという / 同年冬には仙台駅頭で撒布
<昭和30年代以降>
・ 小児マヒ 1959年(S34)に34人、1960年(S35)に18人 / 生ワクチン普及で発生激減
・ 赤痢、S35年の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)、S37年11月名掛丁に集団赤痢発生、S41年4月の集団赤痢216人
・ 腸チフス・パラチフス、29年以降は年間10人以下だったが、1967年(S42)9月、市内で集団発生あり患者57人
<榴ヶ岡病院(伝染病専門病院)・病名別収容患者数>
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P720に、「S20~42年度の伝染病別収容患者一覧表」 ・・・ S24年以降は、赤痢患者数が全伝染病のトップ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81、P672~676、P682、P718~721
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伝統町名保存 |
保存運動 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)7月3日、仙台市中央南地区、南鍛冶町・荒町など伝統的町名保存でシンポジウム
* 1988年(S63)7月22日、仙台市が、伝統町名変更を見送ることを表明
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「続・ 宮城県郷土史年表」P248、P249
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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天皇、仙台行幸 |
大正天皇 |
1908年(M41)~ |
<皇太子時代の行啓>
* 1908年(M41)10月3日、奥羽史蹟調査のため来仙(「仙台市史 年表」P94)
(以下4項目は、「重訂 宮城県郷土史年表」P341より)
* 1908年(M41)10月2日、東宮殿下(のちの大正天皇)本県に行啓(上旬) / 同日、行啓に際し、本県より良馬玉の井号を献上 / 同年10月4日、行啓記念宮城県写真帳を刊行(宮城県編) / 同年10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)
* 1911年(M44)4月18日、参謀演習視察のため来仙(宮城県に行啓、27日還啓)(「仙台市史 年表」P95、「重訂 宮城県郷土史年表」P348)
* 1911年(M44)8月18日、東宮殿下、北海道行啓の途次、仙台偕行社に御一泊(「重訂 宮城県郷土史年表」P350)
<大正天皇、行幸>
* 1915年(T4)10月18日、陸軍特別大演習統監のため青森県へ赴く途中に仙台偕行社に御駐輦(宿泊)(「仙台市史 年表」P97、「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
<即位大礼>
* 1915年(T4)11月10日、御即位市民奉賛会を桜が丘公園に於て挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
* 1915年(T4)11月10日、即位大礼、祝賀のため仙台の三業(料理屋・待合・芸者屋)組合の面々、仙台駅前に勢揃い(「新・目で見る仙台の歴史」P144に写真)
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「仙台市史 年表」P94、P95、P97/「重訂 宮城県郷土史年表」P341、P348、P350、P362/「新・目で見る仙台の歴史」P144
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99-094、99-075
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(1) |
1918年(T7)~昭和戦前期 |
<皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く
<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
・ 奉祝大売り出し実施
・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)
<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)
**********************************
<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会
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「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127
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98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける)
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
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<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
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電力ホール |
オープン |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地上9階建)が東二番丁70に完成 / 電力ホールのほか、グランドホテル仙台、貸室、市民図書館分室を併設 / 電力ホールは7~9階で、各種催しに活用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596~597
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電話開始(仙台) |
開始(仙台) |
1900年(M33) |
* 1884年(M17)、宮城県庁・仙台警察署・宮城県監獄に電話が架設される(「仙台市史 年表」P85)
* 1895年(M28)3月20日、藤崎呉服店の藤崎三郎助、宮城県内の民間で初めて電話を架設(「仙台市史 年表」P89)
<電話交換開始>
* 1900年(M33)12月27日、南町の仙台市電話交換局開設、仙台市内の電話交換を開始(加入者170名、170台、市内通話のみだった)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台市史 年表」P91、「仙台はじめて物語り」P181、「仙台あのころこのころ八十八年」P240、)
* 1901年(M34)、塩釜電話所と市外通話が可能になる
<長距離電話> 下記記述、時期に矛盾あり
* 1906年(M39)4月、東京・福島・仙台・盛岡・青森間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P335、「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1924年(T3)6月1日、東京・仙台間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P358、「宮城県の百年」年表)
・ この時代の電信電話は真空管の発明以前でもあり、多重通信の技術はほとんど存在せず、1回線につき1本の通信線が必要で、1本の電信電話柱に数十本の架線がなされていた
・ 1901年(M34)の仙台市内の電話番号・電信略号が、「名家実業家一覧地図(明治34年)」の裏面に記載あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142/「仙台市史 年表」P85、P89、P91/「重訂 宮城県郷土史年表」P320、P335、P358/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台はじめて物語り」P181
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数多くの電話線が張られている → 44-22、77-21、44-19、44-18
/「仙台市史 特別編4 市民生活」P142(郵便局電話課での電話交換風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P349(M36年、仙台商工家電話寿語録、カラー)
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電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
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電話 |
日本電信電話公社時代 |
1952年(S27)8月~1985年(S60)4月 |
* 1952年(S27)8月1日、電気通信省廃止され、「日本電信電話公社」設立
* 1952年(S27)9月16日、仙台電話局、自動ダイヤル化
* 1953年(S28)9月、長町分室開局
* 1954年(S29)4月29日、仙台電話局、東北初の市内局番制採用( → 小項目「仙台の市内局番」参照)
* 1955年(S30)5月1日、117番(天気予報サービス)開始
* 1955年(S30)7月1日、東北初の依託自動公衆電話機(通称ダルマ型)第1号を藤崎デパート内に設置
* 1956年(S31)、電話マイクロウェーブが2月、東京~仙台間、10月に仙台~札幌間完成
* 1958年(S33)7月、仙台駅に公衆電話サービスステーション設置、「丹頂型電話」と「赤電話」をおく
* 1959年(S34)4月、仙台電話局、南町の構内に局舎新築(鉄筋5階建)し、営業開始
* 1961年(S36)、榴ヶ岡に東分局開局
* 1963年(S38)、長町分局開局
* 1963年(S38)6月、仙台中央電報局、東二番丁・南町通り南側に新築(東二番丁・青葉通り角の木造庁舎から移転)
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局
* 1964年(S39)10月、電話ダイヤルで東京へ即時通話化(「仙台あのころこのころ八十八年」P254)
* 1964年(S39)11月、仙台から、東京、秋田、青森へも自動即時通話となる
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1965年(S40)11月、仙台電話局内の加入電話4万台を突破(開局後の10年間で4倍に)
* 1968年(S43)6月、電話加入数6万192、公衆電話1533台
******************************
* 1985年(S60)4月10日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
<これ以降は、→ 項目「NTT東北支社」へ>
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P574~579/「仙台市史 年表」P117/「続・ 宮城県郷土史年表」P189/「仙台あのころこのころ八十八年」P254
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー、画面左端に仙台電話局)
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電話 |
仙台の市内局番 |
1954年(S29)/1963年(S38) |
* 1954年(S29)4月29日、仙台市内の電話番号に「局番」がつく (「2」と「3」局誕生) / 東北初
* 1960年(S35)、局番「5」新設
* 1961年(S36)、局番「6」新設(榴ヶ岡に東分局開局)
* 1962年(S37)8月、仙台の市外局番が「0222」となる / 仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1963年(S38)1月20日、仙台市内の電話局番が「2桁」になる(22・32・42・52・65局などに)
* 1963年(S38)、長町分局開局、局番「48」新設
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局、局番「34」新設
* 1963年(S38)11月~1968年(S43)1月、局番9つ新設(設置順に、57,29,21,58,33,86,88,24,27)
************************************
* 1986年(S61)7月1日、仙台地区の電話「市外局番022」となる / 同日、仙台・岩沼・大河原・古川地区の市外電話局番3桁実施
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P575~578/「仙台年表」P230/「重訂 宮城県郷土史年表」P607/「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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電話 |
車椅子用電話ボックス |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)3月23日、設置(丸光前と藤崎前)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P38
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電話 |
ダイヤル即時化 |
1964年(S39)/1979年(S54) |
* 1962年(S37)8月、仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1964年(S39)11月、ダイヤルで東京、秋田、青森へ即時通話
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1979年(S54)3月14日、電話、全国ダイヤル即時化実施
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仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P577~578/「重訂 宮城県郷土史年表」P616/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P73
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電話 |
テレホンカード |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)12月、テレホンカードの使用開始
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P76
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電話 |
自動車電話 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)3月25日、仙台地区で自動車電話スタート
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「続・ 宮城県郷土史年表」P160
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電話 |
公衆電話 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)10月19日、丸光デパートにカード専用公衆電話設置(東北初)
* 1986年(S61)4月30日、マイクとスピーカーつき新型公衆電話を仙台市一番町買物公園に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P204
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土井晩翠 |
歌碑、詩碑 |
1952年(S27) |
<樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<荒城の月詩碑>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、荒城の月四節全文、青葉城址に建立、除幕式(「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台市史 続編第2巻]P270)
・ 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が荒城の月詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189)
<詩碑「天地有情」>
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置
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「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P270/「市民の戦後史(仙台市)」P70/「仙台市史 続編第2巻」P189
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(荒城の月詩碑)/「目で見る仙台の歴史」P137に「晩翠肖像写真」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(晩翠草堂と詩碑)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑、市葬)
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土井晩翠 |
晩翠忌/晩翠賞 |
1959年(S34) |
* 1952年(S27)10月19日、晩翠逝去(81歳) / 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏
* 1959年(S34)10月19日、制定し、第1回晩翠賞表彰式
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「重訂 宮城県郷土史年表」P594
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