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小項目 |
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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
芭蕉の辻商館 |
建築~焼失 |
1891年(M24)~1900年(M33) |
<芭蕉の辻(北東角)>
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1891年(M24)9月19日、北東角に「芭蕉の辻商館」完成、落成式(木造2階建外部漆喰塗でドーム屋根の塔)
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に、宮城県物産陳列場開設
* 1900年(M33)4月10日、「芭蕉の辻商館」焼失
* 1903年(M36)8月1日、跡地に「七十七銀行本店」が竣工(洋館)、落成披露宴開催
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「重訂 宮城県郷土史年表」P285/「仙台市史 年表」P87、P88/「仙台市史10 年表」P202、P218、P225/「明治の洋風建築~宮城県~」P113/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P3/「目で見る仙台の歴史」P135
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「明治の洋風建築~宮城県~」P113(芭蕉の辻商館)/「目で見る仙台の歴史」P135(芭蕉の辻商館と、同火災図)/「新・目で見る仙台の歴史」P133(火災図)
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芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) |
4棟の向き |
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<特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている
<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い
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98-022
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
4棟の焼失年 |
1890年(M23)~1945年(S20) |
藩政時代以来芭蕉の辻の四隅を占めていた城櫓風の建物(白壁の櫓屋敷)は、明治年間に3棟が焼失、昭和20年の仙台空襲で残りの1棟も失われた
<芭蕉の辻の建物の焼失>
「重訂 宮城県郷土史年表」より
* 1890年(M23)1月14日、南東角(近江屋馬渕善吉商店)焼失
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1902年(M35)2月3日、南西角(田中時計店)焼失
「仙台市史10 年表」より
* 1890年(M23)1月14日、芭蕉の辻、東南部焼失
* 1890年(M23)5月25日、芭蕉の辻、東北部16棟焼失
* 1902年(M35)2月3日、芭蕉の辻、南西部焼失
<北西角焼失>
* 1945年(S20)7月10日、北西角(安田生命)は仙台空襲で焼失
<参考> 「仙台あのころこのころ八十八年」P21~23の「芭蕉の辻は悲し」(三原良吉)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P285、P324/「仙台市史10 年表」P200、P201、/「仙台あのころこのころ八十八年」P238
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98-022
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
北西角の入居者、変遷 |
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芭蕉辻北西角の建物は、
* 奥田金物店 →1911年(M44)に共済生命保険 →1929年(S4)に社名改称し、安田生命保険
* 1887年(M20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1971年(S46)2月3日、芭蕉の辻北西角に安田生命保険相互会社が、仙台ビルを建設するにあたり、かつての「芭蕉の辻道標」と「棟の竜屋根瓦」を再現し除幕式
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P15/「重訂 宮城県郷土史年表」P668
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98-023、44-22、99-023、99-024、44-06、99-027、99-028、20-18、53-52
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芭蕉の辻の洋館 |
七十七銀行本店 |
1903年(M36)~1929年(S4) |
・1900年(M33)に焼失した「芭蕉の辻商館」(芭蕉の辻・東北角)の跡地に七十七銀行が建設
・ ドイツ・ルネッサンス式純洋風建築で地下室付き2階建て、2本の3階建て塔屋をもつ
<「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載、小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)>
「明治35年2月起工、36年8月1日竣工。松崎という技師がドイツへ留学し習って帰って建てた。ドイツ風のルネッサンス式を模した純洋風建築。大体は石造りで、一部煉瓦を用い、屋根にはスレートを葺いてある。八角形の尖塔と四角錘の塔が屋根に変化を与え、ベランダあり塔あり、形の変化に苦心しております。特徴は屋根裏に室を有することと地下室があることであります。」
* 1902年(M35)2月、起工
* 1903年(M36)8月1日、竣工
七十七銀行が(旧)大町1丁目から本店を移転
* 1929年(S4)7月10日まで使用
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「重訂 宮城県郷土史年表」P328/「仙台市史 年表」P92/「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載の小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)
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99-021、99-022、99-024、99-025、53-49、43-27
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芭蕉の辻の洋館 |
精養軒が使用 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
* 1929年(S4)~1941年(S16)、精養軒(洋食レストラン)が使用
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99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
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芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
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バス |
仙台初 |
1912年(T1) |
* 1912年(T1)10月18日、仙台初のバスが営業開始
清水小路(現・五橋五丁目)の菊地道三郎所有のもの
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逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P96/「仙台あのころこのころ八十八年」P242/「仙台市史 特別編4 市民生活」P202
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バス |
仙台市街自動車 |
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→ 項目「仙台市街自動車」参照
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バス |
仙台市営バス |
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→ 項目「仙台市営バス」参照
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バス |
長距離バス |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)8月1日、東北急行バスが、東京~仙台間の運航開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P605)(「市民の戦後史(仙台市)」P145では、S38年8月運行開始)
* 1989年(H1)9月21日、仙台~盛岡間、高速バス運行開始
* 1989年(H1)10月2日、仙台~青森間(ハイウェイバス・ブルーシティー)運行開始
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「重訂 宮城県郷土史年表」P605/「続・ 宮城県郷土史年表」P262、P263
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「市民の戦後史(仙台市)」P145(東京仙台間の東北急行バス)
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バス |
木炭バス |
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→ 項目「木炭バス」参照
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バス |
ボンネット型 |
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日本では、1950年代頃までは大多数のバスがボンネットを持った形状(ボンネットバス)だったが、次第に輸送効率の良い箱型バスに置き換えられた。日本では、1971年に量産タイプのボンネットバスの製造が中止された
仙台市営バスでは、1965年(S40)当時、仙台市中心部でまだボンネットバスが使われていた → 写真 201-08 、 201-09
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Wikipedia「ボンネットバス」(2019年10月)/写真201-08、201-09のキャプション
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58-03、201-08、91-21、201-39、201-42
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バス |
キャブオーバー型 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)、キャブオーバー型バスが仙台市では初登場
・ 車体前部にエンジンを置いた箱型バスで、エンジンの上に運転台がある
・ 外観的には車体正面にグリルがあり、車内運転席横にエンジンの張り出しがあるのが特徴
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P91
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98-106
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バス |
宮城交通 |
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→ 項目「宮城交通」参照
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バスプール |
仙台駅西口 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)6月10日、供用開始
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「仙台市史 年表」P132
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バスプール |
仙台駅東口 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)6月23日、供用開始 / 東北新幹線の大宮・盛岡間開業の日に
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「仙台市史 年表」P133
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バス優先レーン |
実施 |
1971年(S46)~ |
* 1971年(S46)6月1日、北九番丁~県庁前(国道4号線の1.2キロ)でバス優先レーンを実施(「重訂 宮城県郷土史年表」P674)
* 1973年(S48)11月1日、北六番丁~苦竹間の一部で、実施
* 1973年(S48)11月16日、秋保街道のバスレーン試験実施
* 1974年(S49)10月22日、仙台市道鹿ノ又線の広瀬橋南~飯田団地入口、井出長町線の結城広瀬橋病院~河原町交番前間でバス優先レーン実施
* 1975年(S50)8月1日、幸町~鶴ケ谷坂下路線、朝7~9時、バスレーン実施
* 1976年(S51)4月30日、泉市八乙女~仙台市役所間、バスレーン実施
* 1976年(S51)5月14日、坂下~仙台駅間、長町線にバス専用レーン実施
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「重訂 宮城県郷土史年表」P674/「続・ 宮城県郷土史年表」P4、P24、P43、P53、P54
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支倉常長(記念碑/銅像) |
建立 |
1960年(S35)/1972年(S47) |
* 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑、仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1972年(S47)11月13日、支倉常長銅像、青葉山で除幕式
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P596/「続・ 宮城県郷土史年表」P15
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「市民の戦後史(仙台市)」P151(S38年6月にイタリアから贈られた支倉常長肖像)
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発電事業 |
宮城紡績会社/宮城水力紡績会社/宮城水力紡績製紙会社/宮城紡績電灯会社 |
1888年(M21)/1894年(M27)/1897年(M30)/1899年(M32)~1912年(T1) |
<宮城紡績会社、アーク灯試験点灯>
* 1888年(M21)7月1日、宮城紡績会社、三居沢工場において水力発電による電灯の試験点灯を行う(アーク灯の点灯に成功)
<宮城水力紡績株式会社、市内に供給開始、365灯>
* 1894年(M27)、宮城紡績会社が宮城水力紡績株式会社と改称、30kwの発電所の運転開始
* 1894年(M27)7月15日、宮城水力紡績株式会社が、この日開業した仙台電灯株式会社を通じて供給し仙台市内に365灯の電灯が灯る
* 1894年(M27)7月、三居沢紡績会社の水力発電を利用して、仙台市中に電灯をはじめて点ず(当時の点灯数365灯)
* 1895年(M28)、221戸で752灯
* 1896年(M29)1月1日、宮城水力紡績、三居沢第一発電所の運転開始
<宮城水力紡績製紙株式会社>
* 1897年(M30)10月16日、宮城水力紡績株式会社、仙台製紙と合併して宮城水力紡績製紙株式会社となる
* 1898年(M31)6月、宮城水力紡績製紙株式会社、清水小路火力発電所の運転開始
<宮城紡績電灯株式会社>
* 1899年(M32)10月、宮城水力紡績製紙株式会社と仙台電灯株式会社が合併し、宮城紡績電灯株式会社となる(供給区域は、仙台市、茂ケ崎村の一部、原町、七郷村南小泉、七北田村に及び、4000灯を超える
* 1900年(M33)、宮城紡績電灯株式会社、清水小路火力発電所を廃止
* 1908年(M41)、宮城紡績電灯株式会社、三居沢に新発電所設置、試運転開始
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市が買収>
* 1912年(T1)12月、仙台市が宮城紡績電灯を買収、計4万1145灯に達する
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P140~141/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台市史 年表」P86、P88、P89、P90、P91、P94、P95/Wikipedia「三居沢発電所」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141(M27年頃の清水小路の火力発電所)
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発電事業 |
仙台電力 |
1908年(M41)~1911年(M44) |
<仙台電力株式会社>
* 1908年(M41)6月23日、仙台電力株式会社、国分町に設立
この年に、宮城郡大倉村岩下に大倉発電所建設着手
* 1908年(M41)、仙台電力株式会社設立、供給区域は仙台市東部、岩切村、高砂村、茂ケ崎村の一部、中田村、西多賀村のほか、宮城、名取、亘理郡下の町村で、1910年(M43)に営業開始
* 1910年(M43)4月1日、仙台電力、大倉発電所の運転開始
<仙台市が買収>
* 1911年(M44)7月1日、仙台市、仙台電力株式会社を買収し仙台市電気部を設置
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「仙台市史 年表」P94、P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
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発電事業 |
仙台市営電気事業 |
1911年(M44)~1942年(S17) |
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市営電気事業>
* 1911年(M44)6月 仙台市が仙台電力と契約し、同年7月1日電気事業を開始
* 1912年(T1)、仙台市が宮城紡績電灯も買収、大倉(現在の大倉発電所とは異なる)・大堀・碁石川・三居沢の水力発電所を所有
「土樋火力発電所」(仙台市営)
* 1926年(T15)6月、土樋火力発電所トンネル工事による水量減少で、七郷・高砂・原町3村の600余名に影響し騒動(「番丁詳伝」P122)
* 1926年(T15)12月24日、土樋火力発電所が竣工(出力、2000kW)
* 土樋火力発電所の設備は1941年(S16)に北支那開発関係機関へと徴用され、廃止
<仙台市営電気事業>
* 1941年(S16)公布の配電統制令に基づき、市が新たに設立される東北配電株式会社の設立に参加
* 1942年(S17)3月31日、仙台市電気事業、配電統制令に基づき東北配電KKに移行
* 1942年(S17)4月、市営電車部門を除く電気事業設備を出資して市の電気事業は終焉を迎える
<東北配電株式会社>
* 1942年(S17)4月1日、事業開始
* 1942年(S17)6月30日、宮城県電気部解散式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141/「東北大学鉄道研究会公式ブログ」/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P304
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08-10-03(右端の煙突が土樋火力発電所)
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発電事業 |
仙台市営電気事業(大正期の電灯増加) |
大正年間 |
出典:雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_10.pdf#search=%27%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82+%E7%99%BA%E9%9B%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD+%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4%27
<仙台市営電気事業の電灯需要数>
・1911年(M44)7月、 5960灯
・1915年(T4)、 7万4310灯
・1919年(T8)、 9万3729灯
・1920年(T9)、 10万9390灯
供給区域は、この間に、仙台市(当時)から周辺町村や仙南地域まで及んでいる
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「東北学院大学経済学論集第177号」P172、雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
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発電事業 |
仙台愛宕下水力発電所 |
1921年(T10)~1929年(S4)頃 |
* 仙台市内の電気会社が1920年(T9)に建設し、翌年に開業
* 1929年(S4)頃には操業を停止、約10年間の短い歴史で幕を閉じた
「大橋の下流に築いた堰から取水した広瀬川の水を、約2キロメートルの導水トンネルを通して愛宕山の麓へ導き、そこに設けた反動水車で発電し、当時の名取郡六郷村(のち、昭和16年に仙台市に合併)へ電気を通して電灯などに運用されていたということです」
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仙台市役所関連の「広瀬川ホームページ」よりhttp://www.hirosegawa-net.com/
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発電事業 |
その他の発電事業 |
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141には、宮城紡績電灯、仙台電力、仙台市営電気事業のほかに、以下の発電事業の記述
* 「T12年から宮城県営電気事業開始/T6年設立の秋保電気、T8年の名取川水力発電、T10年の冠川電気(根白石村)は、T13年に東北電灯に合併/T10年開業の仙台電気工業、広瀬電力はT15年に二本松電気に合併/これら仙台市周辺地域の会社はS4年~5年に県営事業に移る」
* 1936年(S11)、東北振興策の1つとして、東北振興電力(株)設立されたが、1941年(S16)に日本発送電(株)に統合
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
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発電事業 |
電力の国家統制(日本発送電/東北配電) |
1939年(S14)/1942年(S17) |
戦時体制の下、電力は国家管理となる
<日本発送電>
* 1939年(S14)、日本発送電株式会社設立(国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、東京電燈・日本電力など全国の電力会社の現物出資や合併によって設立された半官半民の特殊会社) / これにより、東北地方は仙台にある日本発送電(株)東北支店の所管となる
<昭和17年、東北地方は東北配電に一本化>
* 1941年(S16)8月30日、配電統制令が公布、即日施行
・ 全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を含めて全て解散
・ 1942年(S17)には全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この9配電事業体制の下で日本発送電と連携した配電事業が行われた
・ 東北送電(株)は解散し県営の3発電所とともに日本発送電に強制移管される → 仙台市電事業を除き、仙台市営と宮城県営のすべての施設が「東北配電」に移行
・ 仙台では当時、長町・原町周辺を中心に工場が増え始め、特に軍需関係産業には優先的に電力とガスの供給が行なわれた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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発電事業 |
戦後の電気事業再編成(東北電力に一本化) |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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パテー館 |
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→ 項目「松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場」参照
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花火大会 |
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* 1967年(S42)8月、広瀬河畔の花火大会、交通事情などでこの年限りで廃止
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催
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「市民の戦後史(仙台市)」P201/仙台市史 年表」P127
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「市民の戦後史(仙台市)」P201(S42年、広瀬河畔の花火大会)
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針久旅館支店(仙台駅前) |
開業 |
1887年(M20) |
場所は、仙台駅前広場の北側に面する
* 1868年(M元年)、国分町に旅館開業
* 1882年(M15)、針久旅館と改称
* 1887年(M20)、仙台駅開業の年に二代目久助が東北本線(日本鉄道)仙台駅前に支店を開設
その後、三代目久助が東五番丁に千坪の別館を建て、東京にも神田と上野、築地の3つの支店を開業した
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「仙台老舗百店史P182~189『針久旅館』
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61-18/53-88の右端建物/06-23の上部(陸奥ホテルの左隣の建物)/「目で見る仙台の歴史」P155に、国分町の針久旅館
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ハリストス正教会堂 |
建設 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)、東二番丁に建設(木造)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「新・目で見る仙台の歴史」P125
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「新・目で見る仙台の歴史」P125
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藩祖政宗公三百年祭 |
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1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日~26日、仙台藩祖伊達政宗公没後300年にあたり、仙台市を挙げて盛大に「藩祖政宗公三百年祭」が行われた
・ 伊達政宗は、1636年(寛永13)5月24日没
・ これに先立ち、同年5月14日に、宮城県青年団により「政宗卿騎馬像」が青葉山の天守台に建てられ、5月23日に除幕式
<関連行事>
・ 5月、伊達家贓品展覧会(斎藤報恩会館)
・ 5月10日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が、「政宗公300年祭記念放送」(子供の時間、琵琶演奏、座談会「政宗公を語る」)
・ 5月12日、三百年祭記念産業観光博覧会
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「重訂 宮城県郷土史年表」445/「仙台市史10 年表」P285/「仙台城)」P234/「NHK仙台放送局~60年のあゆみ~」P9
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三百年年祭仮装行列は、44-68、44-69、44-70、44-89、44-90、「目で見る仙台の歴史」P159と、「新・目で見る仙台の歴史」P155に「仮装行列」/花電車は、44-84、44-85、44-86、44-87、44-88 /青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83
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藩祖政宗公の記念祭 |
仙台開府三百年記念祭 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)5月23~24日、本丸跡と追廻において挙行 / 追廻広場や国分町には山鉾が飾られて壮観を極めた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P315/「目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P132に「奠城三百年祭」(屏風絵?)
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藩祖政宗公の記念祭 |
藩祖政宗公三百年祭 |
1935年(S10) |
→ 項目「藩祖政宗公三百年祭」参照
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藩祖政宗公の記念祭 |
伊達政宗公誕生四百年祭 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月27日~5月24日、政宗公誕生400年にあわせ、東一番丁百年祭大仮装行列
* 1966年(S41)9月15日、政宗公誕生四百年祭にあたり、伊達名宝展開催(仙台市博物館)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P627
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仮装行列は、47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
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藩祖政宗公の記念祭 |
政宗公三百四十年忌大法要 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)5月、大法要と再葬儀、瑞鳳殿で実施。 合わせて、瑞鳳殿の墓室および副葬品が一般公開される
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「仙台市史 年表」P129
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藩祖政宗公の記念祭 |
伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)4月27日~6月2日、伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり開催(没後350年) / これをきっかけに、1968年(S43)から交通事情変化などを理由に途絶えていた「青葉まつり」が復活した
「続・ 宮城県郷土史年表」P190では、開催期間が4月27日~5月24日
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P190
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東一番丁(商店街) |
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→ 項目「一番町(旧・東一番丁)」参照
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東一番丁大火(一番丁大火) |
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1933年(S8) |
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「番丁詳伝」P131
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東一番丁百年祭大仮装行列 |
開催 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日~17日、開催
・ 武家の町だった東一番丁が、明治維新後に商業の町として一歩を踏み出して一世紀になるのを記念して開催された
・ またS41年は、藩祖政宗公生誕(永禄10年=1567年)から400年目にあたる
・ 大仮装行列は、東一番丁の商店主たちが藩政時代から現代までの歴史を、仮装で表した
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東一番丁創立五十周年」P9の「連合会の歴史」欄/東一番丁の粟村寅之助氏談/「市民の戦後史」P185/「重訂 宮城県郷土史年表」P626
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47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
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東二番丁尋常小学校 |
設立 |
1973年(M6) |
東二番丁小学校は、1973年(M6)7月設立
名称の変遷
「二番小学校」1973年(M6)7月~
「養賢小学校」1875年(M8)6月~
「東二番丁小学校」1879年(M12)1月
「東二番丁尋常高等小学校」1892年(M25)8月~
「東二番丁尋常小学校」1916年(T5)4月~
「東二番丁国民学校」1941年(S16)4月~
「東二番丁小学校」1947年(S22)4月~
[写真73-04]の校舎は
* 1886年(M19)、建設
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で焼失
その後の校舎は、
* 1948年(S23)3月、木造新校舎完成
* 1964年(S39)12月、鉄筋新校舎完成
* 1986年(S61)8月、校舎解体
* 1987年(S62)10月、新校舎完成(2018年現在の校舎)(Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」)
* 1987年(S62)12月22日、部屋境のない校舎完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P234)
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「仙台巷譚第56号」(平成5年発行)に、仙台の小学校の変遷記述あり/Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」(2018年現在)/「続・ 宮城県郷土史年表」P210、P234
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73-04、73-06/「いつか見た街・人・暮らし」P78(入学式、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120(明治19年建設の校舎玄関付近)/「新・目で見る仙台の歴史」P138(東二番丁小学校同窓会記念写真、髪に大きなリボンを飾った女児たち)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年完成校舎)
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東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
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・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
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拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
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東二番丁通り(拡幅) |
はみ出し建物撤去 |
1958年(S33年)7月 |
拡幅予定地にかかり、街路にはみ出していた、逓信病院、宮城学院、東北学院中学校は、S33年3月~7月末に取り壊し完了(東北学院中学校赤レンガ校舎の道路側部分はS33年4月撤去)
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「仙台市史 続1」P349
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98-027、98-109、22-23、36-03、36-04、36-06
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東日本大震災 |
発生 |
2011年(H23) |
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生 / 東北地方太平洋沖地震による災害と、これに伴う福島第一原子力発電所事故による災害
<参考文献>「東日本大震災 仙台市 復興五年記録誌」(仙台市 平成29年3月刊)https://www.city.sendai.jp/shinsaifukko/shise/daishinsai/fukko/5nenkiroku.html
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光ヶ丘天使園 |
仙台版「少年の町」建設 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月、エドワード・フラナガン神父来仙
* 1948年(S23)3月、光ヶ丘天使園(仙台市東郊)起工式 / 前年のフラナガン神父来仙を契機とした仙台版「少年の町」 / その後、ラサールホームと改称
* 1948年(S23)12月26日、第1期工事完成
* 1950年(S25)5月、フラナガン神父来仙(宮城県盲学校で祈念植樹、キリスト教育児院、仙台天使園、聖母園、収容学園を視察)
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「市民の戦後史(仙台市)」P34/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P259
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S22年のフラナガン神父来仙は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校を訪問したフラナガン神父)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34/光ヶ丘のラサールホームは、「目で見る仙台の歴史」P194
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飛行船「雄飛号」 |
仙台に飛来 |
1917年(T6) |
* 1917年(T6)7月22日、飛行船「雄飛号」、仙台に飛来
埼玉県所沢から夜間飛行し、5時間40分かけ、深夜0時10分に仙台・宮城野原練兵場に到着した
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99-163、99-164、99-165、99-166
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飛行大会 |
開催 |
1921年(T10) |
* 1921年(T10)5月23日、宮城野原で仙台協賛会主催の飛行大会が開催される
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「仙台市史 年表」P100
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ひとにやさしいまちづくり条例 |
制定 |
1996年(H8) |
* 1996年(H8)6月、仙台市が、「ひとにやさしいまちづくり条例」制定
・ 「公益的施設」(社会福祉施設、官公庁の施設、医療施設、宿泊施設、理容、飲食店、体育館、映画館等)は、工事の際、施行規則に定める整備基準に適合させる
・ 「指定施設」(公益的施設のうち特に福祉整備が必要となる施設)では、建築等の際に事前届出が必要
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仙台市HP「ひとにやさしいまちづくり条例」
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ヒトラーユーゲント一行が来県 |
来県 |
1938年(S13)9月 |
ドイツから日独親善のため来日したヒトラーユーゲント一行が宮城県に来県
* 1938年(S13)9月11日、ヒトラーユーゲント派遣団歓迎招待会開催
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「仙台市史10 年表」P294/「重訂 宮城県郷土史年表」P464
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19-01/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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日乃出映画劇場 |
開館 |
1935年(S10)3月20日 |
東一番丁(横丁の新国町)に杉村多利治が開場
・ 水洗式トイレ、トーキーは35年型トービスと最新式の設備
・ 館名を一般公募で決める
・ PCC特約で洋画ファンを喜ばせ、学生の多いところから独特な雰囲気をもっていた
・ この後、新国町は日の出横丁と呼ばれるようになる
* 1935年(S10)3月20日、東一番丁(新国町)に開館
* 1940年(S15)12月からは東宝と提携、直営となった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し休館
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「仙台映画大全集」P451/「番丁詳伝」P131
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