項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
民間放送(仙台) |
仙台放送(テレビ) |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)10月1日、 仙台放送株式会社が、宮城県内の2番目の民放テレビ局として、仙台市茂ヶ崎の大年寺山麓に開局、テレビ放送開始 / コールサイン「JOOX-DV」、略称はOX
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「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P295の写真97)「市民の戦後史(仙台市)」P144(テレビ送信鉄塔、開局記念市長対談)
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民間放送(仙台) |
ミヤギテレビ(MMT) |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)10月1日、宮城テレビ放送株式会社、UHF波でテレビ放送開始、コールサインJOMM-DTV
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「仙台市史 年表」P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P664
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民間放送(仙台) |
東日本放送(KHB) |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)10月1日、テレビ放送開始(社屋は上杉2丁目)、コールサインJOEM-DTV
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45
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民間放送(仙台) |
エフエム仙台 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)12月1日、東北で民間初のFMラジオ仙台、スタート(全国で8番目) / コールサインはJOJU-FM
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P154
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民生委員/児童委員 |
制度発足 |
1946年(S21)/1947年(S22) |
<前史>
* 1925年(T14)、宮城県で、奉仕委員制度開始(東北で4番目)
* 1928年(S3)、仙台市社会事業協会設立
* 1932年(S7)、救護法、実施
/ 仙台市内では奉仕委員の市内一区一名制
* 1936年(S11)4月1日、方面委員と改称 / 同年11月3日、方面委員令公布
<戦後>
・ 荒廃した都市・農村に大量の戦災者、失業者、復員軍人、引揚者など多数の生活困窮者出現
・ GHQ、「救済並に福祉計画に関する覚書」 / 生活困窮者の救済は国家の責任など4原則を指令
* 1946年(S21)10月1日、(旧)生活保護法施行/民生委員令施行 / 1948年(S23)7月29日、民生委員法制定
* 1947年(S22)12月12日、児童福祉法公布
* 1950年(S25)5月、生活保護法(全面改正) / 国民に生活保護の請求権を認め、不服申立制度を規定 / 公務員である社会福祉主事の全国配置きまる
「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403「民生委員の始まり」に、民生委員制度の前史にあたる、戦前の方面委員(奉仕委員)以来の戦前戦後の制度の変遷、趣旨など記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P401に表「宮城県における方面カード登録件数と奉仕委員の割合」、P403(S46、民生委員児童委員大会)
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無線中継所 |
完成 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月26日、仙台市国見峠に完成、東京・仙台間のマイクロウェーブ全通し、テレビ中継も可能になる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P579
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陸奥国分寺跡 |
薬師堂、国重要文化財に指定 |
1903年(M36) |
【宮城県HPの「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。
大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。」
【公益財団法人仙台観光国際協会仙台観光情報サイト「陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗公の命により再建された陸奥国分寺の金堂です。慶長12(1607)年落慶した現存する仙台最古の木造建築物の一つで、国指定重要文化財です。本尊薬師如来に因み薬師堂と通称されています。 天平年間に聖武天皇の勅願に基づいて建立された金光明四天王護國之寺のうち最北に位置する奥州鎮護の根本道場です。」
* 1607年(慶長12年)、国分寺薬師堂の再興造営なる
* 1903年(M36)4月15日、薬師堂、国の重要文化財に指定(文化庁、文化財データベース)/ 桃山時代の堂宇、白木造り / 明治36年以来国宝(史跡)に指定されていたが、戦後文化財保護法により改めて、重要文化財に指定(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216)
* 発掘調査(S30~33年、毎年8月に発掘)
<参考資料>
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216(薬師堂の堂宇の特徴など)、P223~224(国分寺跡の概要説明、発掘踏査など)
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宮城県公式HP「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」/「仙台市史年表」P25/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216、P223~224/「目で見る仙台の歴史」P195
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216の写真63(薬師堂)/同P223(発掘調査)/「目で見る仙台の歴史」P19(国分寺跡、金堂跡)/同P190(薬師堂ごまたき)/同P195(国分寺跡発掘調査)/同P38~39(薬師堂の社殿、厨子、護摩壇」、仁王門)/「市民の戦後史(仙台市)」P83(国分寺跡一帯空撮、出土した瓦、発掘現場)/「市民の戦後史(仙台市)」P225(2月13日の薬師堂ごま焚き)
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陸奥国分寺跡 |
国の史跡に指定 |
1922年(T11) |
【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分寺跡」より】
「陸奥国分寺は、聖武天皇の詔により全国に建てられた国分寺の一つである。多賀城から約10km南にあり、広瀬川が形成した最下段の河岸段丘に立地している。昭和30年から5年間の発掘調査によって、方242.4mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明らかになった。また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられている。現在、寺域には陸奥国分寺薬師堂および白山神社が建つ。」
* 1922年(T11)10月12日、陸奥国分寺跡が国の史跡に指定
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宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」
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陸奥国分尼寺跡 |
国の史跡に指定 |
1948年(S23) |
【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」より】「陸奥国分尼寺は陸奥国分寺と同じく、聖武天皇の詔により法華滅罪の寺として建立された。国分寺の東600mに位置する。市街化が著しく、寺域や伽藍配置などは良くわかっていないが、昭和39年に実施された発掘調査で、版築された基壇上に建てられた東西5間、南北4間の金堂が発見された。基壇内には、金箔の入った土師器の菱が鎮壇のため埋納されていた。金堂には国分寺の創建瓦と同種の瓦が使われているので、国分寺とほぼ同時期に創建されたと考えられている。」
* 1948年(S23)12月18日、古代の寺院跡が国の史跡に指定
* 1964年(S39)、発掘調査(東北大学伊東信雄教授ら)
<参考文献>
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225(国分尼寺の概要、発掘調査など)
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宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225
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「目で見る仙台の歴史」P20
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メーデー(戦前) |
宮城県初のメーデー |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)5月1日、宮城県最初のメーデー、日本農民組合宮城県支部連合会・仙台一般労働組合などの主催により桜ケ岡公園で開催(デモコースは、公園→南町通り→仙台駅前)
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争委員会約20名(各組合代表)が仙台市役所にデモ、夜は東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
<参考>
* 1935年(S10)5月1日、第6回メーデが、戦前最後のメーデー(「一億人の昭和史 昭和重要事件年表」)
* 1936年(S11)3月24日、内務省が今年のメーデー禁止を通達
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「仙台市史 年表」P104/岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P13/「新・目で見る仙台の歴史」P149/「仙台市史10 年表」P283
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「新・目で見る仙台の歴史」P149(仙台の第1回メーデー・デモ )/「仙台市史 特別編4 市民生活」P530(S2年5月1日、仙台の第1回メーデーデモ隊)
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メーデー(戦後) |
宮城県(戦後復活) |
1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)5月1日、戦後復活第1回、宮城県庁前広場に2万人参加(11年ぶりに復活)
* 1947年(S22)5月1日、復活第2回メーデー、勤労大衆約3万結集
* 1949年(S24)5月1日、メーデー、反共系=仙台労協側、容共派=県労会議に分裂
* 1950年(S25)5月1日、宮城全労会議系、県労会議系の分裂メーデー
* 1951年(S26)5月1日、2年間の分裂メーデーをやめ、統一メーデー開催
* 1952年(S27)5月1日、県メーデー、西公園グランドに約4000名参加、学連系東北大学生150余名警官隊と衝突
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「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史10 年表」P312、P316、P321、P323、P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P534、P549
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44-46(S22、戦後2回目)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(S35年メーデー集会、宮城県庁前)/「市民の戦後史(仙台市)」P214(S43年5月メーデー集会)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P532(S36年、メーデー前夜祭のポスター)
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メートル法 |
実施 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)1月1日、実施(尺貫法廃止)
* 1966年(S41)4月1日、メートル法完全実施
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P38/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P60
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明治三陸地震津波 |
発生 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)6月15日発生、マグニチュード8.2~8.5 / 岩手、宮城、青森中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 約2万2000人、うち宮城県が3400余人)
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明治製菓仙台売店 |
芭蕉の辻/東一番丁 |
1927年(S2)~1945年(S20) |
<芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)
<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147
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芭蕉の辻の店は、53-49、99-046、22-33、99-026、64-05、99-028、98-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物)
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明治生命館 |
竣工~解体 |
1920年(T9)~1977年(S52) |
大町通り(旧・大町五丁目)にあった明治生命館(明治生命仙台支店)は、鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、ロマネスク様式、赤レンガの壁にみかげ石が張られていた
* 1898年(M31)8月28日、明治生命仙台支店を(旧)大町5丁目に開設
* 1919年(T7)、明治生命館(ロマネスク様式)着工(2年3か月間工事) / 設計は曽根達蔵、中条精一郎
* 1920年(T9)7月旧、竣工
* 戦後、進駐軍に接収された
* 1947年(S22)11月1日、明治生命宮城支部と改称
* 1953年(S28)4月1日、仙台外務部と改組
* 1977年(S52)6月、明治生命館(ロマネスク様式)解体
(5年後のS57年9月、跡地に「藤崎リビング館」がオープン)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P313/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「藤崎 170年のあゆみ]P95/「番丁詳伝」P215
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16-44、22-28、43-25/「目で見る仙台の歴史」P151
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明治百年 |
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1968年(S43) |
明治元年から100年経過した1968年(昭和43年)、国内各地で記念行事や催しが開催された
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1968年(S43)10月23日、明治百年記念式典
* 1968年(S43)10月、仙台市が記念植樹式
* 1973年(S48)4月、台原森林公園開園
→ 項目「台原森林公園」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P211
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53-125(仙台七夕 明治百年に因んだ飾り)/「市民の戦後史(仙台市)」P211(市が記念植樹)
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名水百選 |
広瀬川 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)3月28日、環境庁による名水百選に、広瀬川(仙台)と桂葉清水(高清水町)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P189
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瞑想の松 |
概説 |
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樗牛瞑想の松
・ 樹齢600年以上と伝えられる赤松
・ 明治20年代に旧制第二高等学校に在学した高山樗牛(のち、1年半ほど旧制二高教授)が、ここで瞑想にふけったといわれ、松は土井晩翠らの説得で伐採を免れたという
・ 場所は、台原天神山の東北医科薬科大学の構内
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08-07、53-112/「新・目で見る仙台の歴史」P150に「樗牛肖像、瞑想の松)
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瞑想の松 |
歌碑建立 |
1941年(S16) |
・ 「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」という土井晩翠の歌碑、瞑想の松の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<WEBサイト 松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』 https://www.tohoku-mpu.ac.jp/laboratory/germany/cyogyuu.bak より>
「・ 樗牛の没後、40年近くを経て、仙台の北部、台原の丘陵の一角、一本松の根元に、樗牛を顕彰する記念碑が建立されることになった。実は、昭和15年頃に、開発(軍需工場の建設?)のために、この松の伐採計画が持ち上がる。幸いにも、心ある人々の尽力のお陰で、その伐採計画は白紙に戻され、さらに樗牛を顕彰する碑の建立が計画されたのだった。(中略) 「高山樗牛冥想の松」が「仙台市民の憧憬の松」であり続けたことが、この松の保存と記念碑建立の要因として挙げられねばならない。(中略) この「樗牛顕彰の碑」建立の記念式典は、昭和16年6月1日に挙行された。
・ 「冥想の松保存会」は昭和17年3月に成田正毅著『高山樗牛冥想の松』と題する記念誌を発行したが、そのなかに、前年(昭和16年6月1日)に行なわれた樗牛顕彰碑建立の記念式典の式次第が掲載されている。」
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佐々久著「仙台の散策」/WEBサイト・松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』
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名誉市民 |
仙台市 |
1949年(S24)~ |
* 1949年(S24)5月2日、本多光太郎、志賀潔、土井林吉(晩翠)
* 1956年(S31)7月16日、熊谷岱蔵、槇有恒
* 1959年(S34)6月10日、村上武次郎、阿部次郎、増本量、野副鉄男
* 1961年(S36)6月10日、内ケ崎贇五郎
* 1964年(S39)6月10日、一力次郎、黒川利雄、
* 1969年(S44)6月10日、千嘉代子
以上の諸氏の経歴詳細は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230~244
* 1977年(S52)6月10日、菊池養之輔、加藤多喜雄
* 1984年(S59)6月10日、西沢潤一
* 1989年(H1)6月10日、石田名香雄
* 1996年(H8)7月1日、杉村惇、加藤陸奥雄
* 2004年(H16)7月5日、小田滋、一力一夫
* 2016年(H28)7月7日、岩崎俊一
~以上、2016年現在~
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仙台市HP(仙台市名誉市民一覧)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230~244/「仙台年表」P219/「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P534、P582、P592、P600、P614、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P69、P177
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「目で見る仙台の歴史」P174(昭和24年、第1回推戴の、志賀、土井、本多各氏)/同P187(第2回推戴の熊谷岱蔵博士)/同P197(第3回推戴の村上、増本、野副、阿部各氏)/「市民の戦後史(仙台市)」P135(第4回推挙の内ケ崎贇五郎氏)/同P155(第5回推挙の一力次郎、黒川利雄両氏)
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盲人専用信号機 |
北六番丁交差点 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)3月4日、北六番丁交差点に設置(全国初)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P647
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木材応召 |
県庁構内の大欅 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)2月頃、宮城県庁構内の大欅(樹齢約300年)、木材応召により伐採(斧入式挙行)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P459
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木炭バス(東京・青バス) |
東京の青バスが木炭バスへ改造決定 |
1938年(S13)7月 |
昭和12年夏からの日中戦争の影響でガソリンの民需用使用が大幅に制限され、代替燃料への切り替えを余儀なくされた
* 1938年(S13)7月、東京の青バスは、すべてのバスを年内に木炭バスは改造することを決定
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「日録20世紀 1938年」P30
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木炭バス(国有鉄道バス) |
仙鉄局管内 |
1938年(S13) |
「昭和13年、仙鉄局管内のバス、62台中、木炭バスが15台 / 13年秋木炭は大幅に値上がりし品不足となり、バス用木炭は5割から7割も配給を削減された。ついにたきぎを燃料とするバスが出現した。16年9月1日からガソリンの使用は一切禁止された。」
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「ものがたり東北本線史」P509
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木炭バス(仙台) |
登坂テスト成功 |
1939年(S14) |
仙台市街自動車、初めての代燃装置をつけた木炭バスが仙台城址入口の登坂テストに成功
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P90
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98-105
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木炭バス(仙台) |
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1946年(S21) |
写真「仙台駅前を走る木炭バス(9月24日)」
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91-21、 91-24
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文字・漢字の表記 |
鉄道駅 |
1940年(S15)/1945年(S20) |
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35
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文字・漢字の表記 |
新聞のルビ廃止 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)12月1日、紙面のルビ廃止、新カナ使い、左横書きとなる
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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文字・漢字の表記 |
当用漢字 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月5日、国語審議会が答申
* 同年11月16日に内閣が告示した「当用漢字表」に掲載された1850の漢字
* 1981年(S56)、常用漢字表の告示に伴い当用漢字表は廃止
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Wikipedia「当用漢字」
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文字・漢字の表記 |
当用漢字(新字体) |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月、「当用漢字字体表」としてに告示された「新たな字体」
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文字・漢字の表記 |
常用漢字 |
1981年(S56)/2010年(H22) |
* 1981年(S56)3月23日に国語審議会が答申(当用漢字の後継)
* 同年10月1日に昭和56年内閣告示された常用漢字表/1945字、4087音訓(2187音・1900訓)
<改定常用漢字表>
* 2010年(H22)6月7日、文化審議会が答申
* 同年11月30日に内閣告示された常用漢字表 / 2136字、4388音訓(2352音・2036訓) / 昭和56年告示の「常用漢字表」は廃止
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Wikipedia「常用漢字」
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森天祐堂 |
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昭和初期~ |
* 昭和はじめ、文化横丁で開店(店主・森権五郎氏は明治34年生) / 文化キネマ(大正14年に開館した映画館)に隣接し、ブロマイド専門店だった
* 1933年(S8)、東一番丁大通りへ移転
* 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
* 1945年(S20)夏、空襲後、いちはやく東一番丁で店再建(バラック → 木造)
* 青葉通り開通(S25)後、店は東一番丁・青葉通り北東角になった
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森天祐堂(森つきサン)談/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197
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戦前は53-28 / 戦後は、53-05、53-06、53-07、53-10
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森徳座 |
開業~焼失閉館 |
明治時代~1931年(S6) |
東一番町北部の森徳横丁角にあった
* 1977年(M10)、大新亭(別名、合唱亭)開座
* 1983年(M16)10月、中嶋座に改称
* 1884年(M17)11月、東座に改称
* 1892年(M25)10月、森民座に改称(M30年10月に活動写真興業)
* 1900年(M33)9月、森徳座に改称し活動写真で開座
<映画専門館となる>
* 1915年(T4)7月25日、錦輝館に改称 → のち森徳座と改称
* 1922年(T11)12月5日、森徳キネマに改称
* 1923年(T12)3月25日、森徳座に改称
* 1931年(S6)1月12日、失火焼失(全焼)し閉座(午後0時15分、試写中の映写機の故障で発火近くのフィルムに引火)、延焼はせず
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P352/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史/「東一番丁物語」(柴田量平著)P199~203/「重訂 宮城県郷土史年表」P424/「仙台年表」P202/「番丁詳伝」P23、P130、P142
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「目で見る仙台の歴史」P142(東一番丁森徳座付近)
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杜の都の環境をつくる条例 |
制定 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)3月27日、仙台市で制定
* 1975年(S50)6月5日、条例に基づき、保存緑地28か所指定
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「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P42
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杜の都の風土を育む景観条例 |
制定 |
1995年(H7) |
* 1995年(H7)、「杜の都の風土を育む景観条例」制定
・ 景観計画区域内における建築物等の行為の制限
・ 景観地区に指定された区域内において、建築物を新築する場合には、認定申請が必要
定禅寺通景観地区(平成23年12月16日決定)
宮城野通景観地区(平成23年12月16日決定)
青葉通景観地区(平成27年12月1日決定)
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仙台市HP「杜の都の風土を育む景観条例」
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杜の都緑化基金 |
設置 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)4月1日仙台市が設置
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「仙台市史 年表」P134
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八木山開発 |
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八木山は、もとは仙台藩士の共有財産だったが、明治初めに国有化され、大正年間に八木久兵衛氏の所有となった
八木山開発は、昭和初期、八木久兵衛氏が私費を投じて、自身が所有する仙台市八木山で行った一連の観光開発
<八木久兵衛(第4代)> 仙台の味噌醤油製造業「紅久」の経営者、「紅久」は藩政時代から、紅・小間物商、明治に入りみそ醸造開始、仙台市会議員、宮城貯蓄銀行、七十七銀行頭取、仙台商業会議所会頭(明治38年6月~大正7年9月)、大正7年6月貴族院議員(多額納税議員)、大正12年11月29日没(「重訂 宮城県郷土史年表」の該当年の記述より抜粋)
<八木久太郎(第5代久兵衛)> 八木山開発(昭和15年11月26日没)は第5代の手による / 私費を献じて仙台市電「芭蕉の辻線」を開通させた。
* 1929年(S4)6月23日、「野球場」を建設(同日、宮城県に寄付)
→項目「八木山球場」参照
* 1930年(S5)4月、「遊園地」と「公園」を開設(S11年5月28日、八木山遊園地を仙台市に寄付)
→項目「八木山遊園地」参照
* 1931年(S6)8月、竜の口渓谷に、「八木山橋」(木製鉄索、吊り橋)架橋、仙台市に寄付
→項目「八木山橋」参照
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」を仙台市に寄付
* 1936年(S11)11月、土居光知、薄田清が発起人となり、島崎藤村の詩碑(草枕)を建立(「番丁詳伝」P34) / 昭和42年、藤村詩碑を青葉城址へ移転
* 1937年(S12)、仙台芸妓置屋組合、芸妓の同意を得て寄付を募り、八木山遊園地に枝垂れ柳276本、沿道、紅葉ケ谷に、吉野桜524本を植栽し仙台市に寄付、動物園付近に桜樹植栽記念碑を建立(「仙台 あのころこのころ八十八年」P70、「番丁詳伝」P34)
* 1964年(S39)12月、八木山地区整理組合が発足し、宅地造成に入った
このほか、八木氏が仙台市に寄贈した土地に、
* 1965年(S40)に市が「八木山動物公園」を開園
→キーワード「八木山動物公園」で検索
<「仙台老舗百店史」P194~195「紅久」の記述>G1496
「天明3年(1783)から芭蕉の辻にあった紅・小間物商「紅久」が、明治16年、味噌醤油の醸造、販売も始め繁盛して得た資金で八木山を入手、八木山橋、野球場を建設し市に寄贈、また寄贈した土地に八木山動物園が建設された」
「番丁詳伝」P34~35にも、「紅久」「八木久兵衛」「八木山開発」について記述あり
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「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり/「仙台市史 年表」P105、P106、P108/「仙台 あのころこのころ八十八年」P70/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史10 年表」P283/「番丁詳伝」P34~35
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八木山球場 |
開場 |
1929年(S4) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が所有する土地に私費を投じて建設し、宮城県に寄付し「宮城県営野球場」となる / 工費40万円
* 1927年(S2)9月、八木山球場を起工
* 1929年(S4)6月23日、開場(開場同日に宮城県に寄付し、「宮城県営八木山球場」となる(「仙台市史 年表」P105、「重訂 宮城県郷土史年表」P415、「宮城県の百年」年表、「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
* 1930年(S5)6月、八木山球場で、三田・稲門野球戦(三田は慶応大学、稲門は早稲田大学)
<開催された日米野球>
* 1931年(S6)11月10日、米大リーグ選抜対明治大学(米13-明治2) / 大リーグ選抜にはグローブ投手やゲーリッグらが参加( →「仙台はじめて物語」P235~241に詳述あり)
* 1934年(S9)11月6日、米大リーグ選抜と全日本選抜 ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ(「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
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「仙台市史 年表」P105、P107/「重訂 宮城県郷土史年表」P415、P420、P428 / 「新目で見る仙台の歴史 P155」/「仙台はじめて物語」P235~241/「仙台あのころこのころ八十八年」P70/「宮城県の百年」年表
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八木山橋 |
吊り橋、開通 |
1931年(S6)8月(11月?) |
八木山橋(吊り橋)は、八木久兵衛氏(仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者)が私費(3万1千円)を投じて昭和初期に行った八木山観光ルート開発の一つ
・ 深さ70メートルの龍の口渓谷をまたぎ、青葉城址(天守台)と八木山を結ぶルート上に架設し、仙台市に寄付した
・ 長さ107メートル、幅3.7メートルで、当時は宮城県下一のつり橋だった
* 1931年(S6)8月(11月)、開通(木造鉄柵吊り橋) / 「仙台市史 年表」P106では8月架設、 「重訂 宮城県郷土史年表」P429では11月開通
* 1937年(S12)、仙台市南光院丁某飲食店女中、初めて八木山橋から投身自殺す(「仙台年表」P208)
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「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P429/「仙台年表」P202、P208
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34-32、53-40、99-108、53-65、53-21、25-14、25-13/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図19~20(S8、S12)
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八木山橋 |
コンクリート橋 |
1965年(S40) |
* 1962年(S37)2月、八木山橋着工(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月15日、新八木山橋成る / 全長117m、幅8.5m、高さ60m、旧橋より18m長く7m高し(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月16日、コンクリート橋完成(全長117m、幅8.5m、デビダーク工法)(「重訂 宮城県郷土史年表」P619)
* 1971年(S46)10月1日、橋にネットを張る
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P619/「続・ 宮城県郷土史年表」P2/「番丁詳伝」P35
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「市民の戦後史(仙台市)」P171(建設中の八木山橋、完成開通した橋)/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図21~22(S40空撮、H9空撮カラー)
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八木山ベニーランド |
開園 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)4月14日、仙台市八木山にある総合遊園地、八木山ベニーランド開園(所有者は株式会社エイトリー)
/ 前身は、1930年(S5)開園した「八木山遊園地」
( → 項目「八木山遊園地」参照)
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「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史 年表」P125
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八木山遊園地 |
工事完了 |
1930年(S5) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が、所有する土地に私費を投じて野球場とともに建設し、遊園地(約10万坪)は7年後に仙台市に寄付した(八木山公園は一時、宮城県に寄付したが、昭和7年八木氏に返還され、9年4月に改めて仙台市に寄付された) / 公園には、野球場、遊園地、吊り橋、動物舎、散策路などがある(「仙台市史 本編2」P377)
* 1937年(S2)9月、起工
* 1930年(S5)4月、「八木山遊園地」と「公園」を開設(「仙台市史 年表」P105)
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」、仙台市に寄付される(「仙台あのころこのころ八十八年」P247)
* 1936年(S11)5月28日、「八木山遊園地」を仙台市に寄付(仙台市会が寄付採納可決)
* 1937年(S12)、仙台芸妓組合、八木山遊園地、沿道、紅葉ケ谷に桜800本を植栽し、仙台市に寄付(「仙台あのころこのころ八十八年」P248)
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「仙台市史 年表」P105、P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P415/「仙台あのころこのころ八十八年」P247、P248/八木山公園については、「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり
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野球場 |
東北体育協会球場 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)5月27日、榴ヶ岡下に木造観覧席を備えた東北体育協会球場が開場(「仙台あのころこのころ八十八年」P69にダラ(糞尿)撒き騒動のエピソード記載)
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「仙台市史 年表」P101/「仙台あのころこのころ八十八年」P69
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野球場 |
スポーツマン球場 |
1929年(S4)~1933年(S8) |
* 1929年(S4)6月、杉村多利治氏(のちの日乃出映画劇場社長)が国分寺薬師堂北隣につくる / ライトの塀外は薬師堂の杉木立でファンは木に登って見物した
* 1929年(S4)6月(7月)、スポーツマン球場設立(宮城野原南部、国分寺薬師堂北隣)
* 1933年(S8)、廃止
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「仙台市史 年表」P105/「重訂 宮城県郷土史年表」P416/「仙台あのころこのころ八十八年」P70
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野球場 |
八木山球場 |
1929年(S4) |
→ 項目「八木山球場」参照
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野球場 |
澱橋野球場 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)10月、澱橋野球場開設(角五郎町、澱橋わき)
* 1940年(S15)5月5日、澱橋総合運動場竣工、落成式
* 澱運動場は、戦後一時、米軍(進駐軍)が接収
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「重訂 宮城県郷土史年表」P422/「仙台市史10 年表」P298/「仙台年表」P210/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328/「仙台あのころこのころ八十八年」P246、P248
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野球場 |
昭和11年現在 |
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昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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野球場 |
東北大学評定河原球場 |
1937年(S12) |
* 1937年(S12)、早川牧場跡に東北帝国大学のトラックと野球場が完成(佐々久「近代みやぎの歩み」P86)
* 1976年(S51)4月1日、東北大学評定河原球場を市民に開放
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佐々久「近代みやぎの歩み」P86/「続・ 宮城県郷土史年表」P53
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「いつか見た街・人・暮らし」P38(早川牧場、大正5年)
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野球場 |
県営宮城野球場(宮城球場) |
1950年(S25) |
→ 項目「県営宮城野球場(宮城球場)」参照
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野草園 |
開園 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)7月21日、開園(面積3.4ha) / 仙台市営 / 大年寺山の一隅19,620坪を20ブロックに分かち、東北地方などに自生している600数種に及ぶ野草を各適地に植栽
* 1976年(S51)9月、野草園で、大賀ハス開花
* 1983年(S58)4月29日、野草園で「杜と彫刻の風の音」除幕
* 1989年(H1)7月21日、佐藤よしの依頼で彫刻家鈴木政夫制作による花地蔵安置
* 1989年(H1)9月14日、萩にちなんだ石の彫刻「萩の守」を除幕
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P368/絵葉書99-127の説明文/「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P261、P262
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99-127/「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P78/「新・目で見る仙台の歴史」P192/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(S38、カラー)
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