仙台よみとき用語年表
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項目 小項目 内容 出典/参考資料 関連映像
仙台ホテル(前身の大泉旅館支店) 仙台駅前に開業  1887年(M20)頃  <仙台ホテル前史>
* 1850年(嘉永3年)、国分町に大泉旅館開設(「番丁詳伝」P133)
* 1887年(M20)、国分町の旅籠「大泉屋」が、日本鉄道開通に合わせて仙台駅前に支店を開業 / 2階建ての切妻造平入り町屋建築で、1937年(昭和12年)まで使用された(Wikipedia「仙台ホテル」) 
「番丁詳伝」P133/「目で見る仙台の歴史」P124/「仙台市老舗百店史」P129/Wikipedia「仙台ホテル」  「目で見る仙台の歴史」P124に、開業当時の大泉支店 
仙台ホテル 仙台ホテル開業  1896年(M29)  * 1896年(M29)5月15日、仙台ホテル開業式挙行(「仙台市史10年表」P210)
<編者注> 大泉旅館が仙台駅前に、大泉支店の建物とは別に、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に建築し、開業

* 1896年(明治29年)、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に開業 / 2階建ての和洋折衷建築であり、東北地方初の洋式ホテルであった(Wikipedia「仙台ホテル」)

* 1903年(M36)6月、洋食開始(この年、陸奥ホテルは洋食を廃業)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P84) 
「仙台市史10年表」P210/「仙台はじめて物語」P90/Wikipedia「仙台ホテル」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P84  98-062(「仙台市老舗百店史」P129のスケッチ画)と「目で見る仙台の歴史」P124に『明治29年建築の仙台ホテル』 <編者注>両書とも説明文に明治28年頃とあるが、明治29年完成のホテル第1代 
仙台ホテル 立て替え(ホテル2代目)  1905年(M38) 
* 1905年(M38)、 4階建ての擬洋風建築に建て替え / 
出羽三山・本道寺(神仏分離により口之宮湯殿山神社。山形県西川町)の仁王像一対を1875年(M8)から所有していた弥勒院(山形県河北町)から買い取り、ホテルの1階玄関に安置(Wikipedia「仙台ホテル」)

* 1905年(M38)、「明治20年頃、仙台駅前に進出せる大泉旅館は、この年、三階建て旅館に設備を拡大し、仙台ホテルと改称す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P334)
<編者注> 大泉支店の仙台ホテル改称はホテル1代目建物ができた明治29年で、38年ではない/ 38年は、ホテル2代目建物(3階建一部2階建て擬洋風建築)に建て替えた年/ 看板「仙台ホテル」の他に、壁面に「大泉館」表示もある 
「重訂 宮城県郷土史年表」P334/Wikipedia「仙台ホテル」  44-0598-063/「目で見る仙台の歴史」P124と「新・目で見る仙台の歴史」P130に『明治38年建築の仙台ホテル』 
仙台ホテル 立て替え(ホテル3代目)  1935年(S10)/1945年(S20)  * 1935年(S10)、モダニズム建築に建て替え
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災 
Wikipedia「仙台ホテル」   
仙台ホテル 戦後立て替え/閉業  1964年(S39)/2009年(H21)  * 1964年(S39)5月10日、仙台駅西口前、青葉通り・愛宕上杉通り角(南東角)にオープン / 地上9階、地下2階
* 1964年(S39)、東京オリンピックに合わせ、9階建ての現在の建物が完成。仁王像一対は3階ロビーに移設
 
* 1985年(S60)、 ホテルを全面改装 / 同時に隣接して仙台ホテルアネックスビルを増築
* 1985年(S60)1月、ホテル5階に、「泉の庭園」設置

* 2009年(H21)12月31日、閉業 
「わが心の仙台駅前史」年表/「仙台市老舗百店史P126」/Wikipedia「仙台ホテル」/「続・ 宮城県郷土史年表」P188  98-03698-062/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P72(S39、カラー) 
仙台フィルハーモニー管弦楽団 改称  1989年(H1)  * 1989年(H1)4月1日、宮城フィルハーモニー管弦楽団が、仙台フィルハーモニー管弦楽団と改称  「仙台市史 年表」P135   
仙台バイパス 開通  1964年(S39)~  仙台バイパスは、仙台都市圏を南北に縦断するバイパス道路 / 柴田町四日市場~泉町(のちの泉区)七北田間の33.8キロ / 国道4号・国道6号・国道47号の一部であり、途中、苦竹ICで国道45号と接続する4車線(一部6車線)道路

* 1941年(S36)10月13日、仙台バイパス工事着手(四日市場~市名坂間34キロ)
* 1962年(S37)、仙台バイパス着工
* 1964年(S39)4月、岩沼~仙台市郡山(籠ノ瀬)間(10.3㎞)の供用開始
* 1966年(S41)3月4日、千代大橋(広瀬川)開通、橋長310m、橋幅19.5m
* 1966年(S41)4月6日、籠ノ瀬~苦竹間(7.4km)、供用開始 / これにより、柴田町四日市場~仙台市苦竹間(24km)使用開始(苦竹は、国道45号線との交差点)
* 1970年(S45)4月24日、苦竹~七北田間、暫定2車線で供用開始 
* 1974年(S49)11月1日、苦竹~七北田間、4車線で開通
* 1974年度(S49年度)、苦竹ICの立体交差完成により、岩沼(梶橋交差点)~泉区(泉交差点)間(26.6km)、4車線で供用開始
* 1982年度(S57年度)南有料取付 - 苦竹IC間 (8.0 km) を6車線で供用開始
* 2007年(H19)3月20日、苦竹IC~山崎交差点間(2.2km)を6車線で供用開始
 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P155、P295/「仙台市史 年表」P123、P124、P127、P129/「重訂 宮城県郷土史年表」P602、P625、P660/Wikipedia「仙台バイパス」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408  「市民の戦後史(仙台市)」P192~193(S41年4月仙台バイパス市内中田付近空撮、国道45号線とのインター予定地空撮、車行き交うバイパス空撮) 
仙台トラック輸送センター 開業  1972年(S47)  * 1972年(S47)11月、仙台トラック輸送センター、仙台流通センター地区内に開業(「続・ 宮城県郷土史年表」P16では、仙台トラック事業協同組合が12月完成)  「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P16    
仙台スタジアム オープン  1997年(H9)  * 1997年(H9)6月、「仙台スタジアム」が、泉区七北田にオープン / 2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」

サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールの専用公式競技場として誕生 / サッカーのベガルタ仙台のホームスタジアム 
Wikipedia「仙台スタジアム」(2019年9月)   
仙台ショーハウス 建設  1949年(S24)  * 1949年(S24)4月、仙台市制60周年を記念し「仙台復興祭グランドフェア」が西公園で開催、これにあわせて、仙台駅付近(南町通り角)に河北ショーハウスが建設された  「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)」  16-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P21 
仙台オープン病院(旧・鶴ケ谷オープン病院) 開院/名称変更  1976年(S51)/1986年(S61)  仙台市と仙台市医師会が協力して設立した、公益財団法人仙台市医療センターが運営する全国初の公設民営方式の病院
* 1976年(S51)2月1日、「鶴ケ谷オープン病院」診療開始
* 1980年(S55)6月6日、新館病棟完成
* 1986年(S61)3月、救急センター竣工(6月、診療開始)
* 1986年(S61)4月1日、「鶴ケ谷オープン病院」を「仙台オープン病院」と改称
* 1998年(H10)9月、地域医療支援病院承認(全国第一号承認)
* 2018年(H30)2月、新救急センター棟竣工 
「仙台市史 年表」P130、P134、/「続・ 宮城県郷土史年表」P50、P113、P193/仙台オープン病院HP   
仙台アメリカ文化センター 開館~閉館  1952年(S27)~1971年(S46)  サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称  →参照 項目「仙台CIE図書館」

* 1952年(S27)5月、仙台CIE図書館が、「仙台アメリカ文化センター」(ACC)と名称変更し、引き続き斎藤報恩会館内に置かれた
* 1968年(S43)、東二番丁の長期信用銀行ビル4階に移転
* 1971年(S46)3月31日、閉館(「重訂 宮城県郷土史年表」P677では、「6月末閉館」) 
石原眞理「岐阜女子大学紀要 第47号 (2017.10.)「CIE 図書館及びアメリカ文化センター資料に関する研究:仙台アメリカ文化センター及び横浜アメリカ文化センター
旧所蔵資料の調査を基に」/「仙台市史 年表」P117、P126、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P677 
「市民の戦後史(仙台市)」P63 
仙台の農村・農業(戦後) 農漁業が支えた戦後経済(3)  1960年(S35)~1968年(S43)頃  ・ 連続の豊作記録と、消費の拡大によって、S34年のはじめから拡大をはじめていた東北の経済は、35年も引き続き高水準の成長を示し、民間企業317工場の設備投資額が、S33~35年には、毎年2倍くらいずつ伸び、事業所得も順調に伸長した。このような景気上昇を支えていたのは、いぜんとして農村を中心とする消費需要であった。
・ 昭和37年は、東北は全体として鉱工業生産の若干の伸び悩みがみられたものの、米の連続豊作や底堅い消費によってささえられている仙台の経済活動はますます活発になったのであり、その中で中央資本と結びついた大型スーパーの進出が相次いだ。
・ 日本経済は、昭和39年~40年に戦後最大の不況を迎えるが、当初は影響はそう大きくなく、昭和38年もまた連続豊作が続き農村での堅調な消費が、年末から再び行われた金融引き締めによる鉱工業生産の出荷のびなやみを大幅にカバーすることになった。
・ しかし、工業製品の出荷や在庫の動きを手始めに、次第に景気後退があらわれ、39年秋には企業倒産が深刻、不渡り手形も激増、市内百貨店の売り上げ増も39年12月は前年同月の8%増にとどまり、米代金の流入停滞や漁業不振も重なり、東北にも不況の波が押し寄せた。 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P745~762の「第九章第三節 景気と金融の三 飛躍への道」から、農業にかかわる部分のみを抜粋   
仙台の裁判所 仙台区裁判所  1876年(M9)  仙台地方裁判所に併設されていた
・ 地方裁判所は宮城県全体を管轄
・ 区裁判所は、仙台市と周辺部の郡を管轄し、民・刑事の比較的罪の軽い事件や和解、調停や、刑事の略式手続、登記と戸籍などを扱う

* 1876年(M9)4月13日、「仙台区裁判所」設置
* 翌1877年(M10)、東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成 
* 1881年(M14)10月6日、「治安裁判所」に改称
* 1890年(M23)11月1日、再び「区裁判所」に改称
* 1924年(T13)区裁判所は、仙台地方裁判所とともに、片平に移転(片平の宮城控訴院と合同庁舎となった)

☆ 東二番丁の「木造2階建庁舎」(写真99-096) は、地方裁判所・区裁判所が、1924年(T13)に片平丁に新築された「宮城控訴院」との合同庁舎(赤タイル張り洋館)に移転した後に改造され、1930年(S5)~1939年(S14)の間、仙台市立病院が使用 / 1939年(S14)にこの地に市立病院が鉄筋コンクリートの病院を新築する際に取り壊された  
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城百科事典」P577、P597/「明治の洋風建築~宮城県~」P28~29/「新・目で見る仙台の歴史」P122  99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117(東二番丁時代の庁舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(仙台区裁判所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(仙台区裁判所) 
仙台の裁判所 仙台地方裁判所  1876年(M9)  地方裁判所は宮城県全体を管轄 / 仙台区裁判所を併設していた

* 1876年(M9)3月2日、「宮城裁判所」開庁(仙台地方裁判所と仙台地方検察庁の前身)
* 同年9月13日、「宮城裁判所」を廃止し、「宮城上等裁判所」(宮城控訴院、宮城高等裁判所の前身)と「一ノ関裁判所」(宮城・岩手両県を管轄)を設置
* 同年11月24日、「一ノ関裁判所」を仙台に移し、「仙台裁判所」(仙台地方裁判所の前身)を設置
* 1877年(M10)に東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成(仙台区裁判所と仙台裁判所の庁舎)
* 1881年(M14)10月6日、「仙台裁判所」を「仙台始審裁判所」と改称
* 1890年(M23)11月1日、「仙台地方裁判所」に改称
* 1924年(T13)、「仙台地方裁判所」は、併設の「仙台区裁判所」とともに、片平丁に移転(宮城控訴院との合同庁舎がT13年竣工 / 秋保石積赤タイル張り洋館)

<戦後>
* 1947年(S22)5月3日、仙台地方裁判所、仙台簡易裁判所設置 / 裁判所法、検察庁法が成立し、それまでの裁判所に付属していた検事局を分離し、仙台地方検察庁設置
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎) / 旧庁舎(赤タイル張洋館)はS50年9月に解体開始 
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「仙台市史 年表」「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807  99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117に、『東二番丁時代の庁舎』 
仙台の裁判所 宮城上等裁判所/宮城控訴裁判所/宮城控訴院/仙台高等裁判所  1875年(M8)/1881年(M14)/1886年(M19)/1947年(S22)  控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する

<宮城上等裁判所>
* 1876年(M9)9月13日、大審院が「宮城上等裁判所」を仙台に設置
* 1879年(M12)、片平丁に、宮城上等裁判所建築(ルネッサンス式、漆喰塗) / <編者注> 出典の「新・目で見る仙台の歴史」P122キャプションには、仙台上等裁判所となっているが、「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表によれば、仙台上等裁判所と称した時代はなく、宮城上等裁判所が正しいと思われる

<宮城控訴裁判所/宮城控訴院>
* 1881年(M14)10月6日、「宮城控訴裁判所」に改称(ルネッサンス式2階建て)
* 1886年(M19)5月4日、「宮城控訴院」に改称
* 1904年(M37)11月15日、片平丁の宮城控訴院構内を焼失
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」

<仙台高等裁判所>
* 1947年(S22)5月3日、「仙台高等裁判所」設置(裁判所法、検察庁法成立 / それまでの宮城控訴院に付属していた検事局を分離し、仙台高等検察庁設置
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・ 宮城県郷土史年表」P44)
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎)(「続・ 宮城県郷土史年表」P74) 
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P274、P331、P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807  「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-0113-0213-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館) 
仙台の裁判所 仙台家庭裁判所  1949年(S24)  * 1949年(S24)1月1日、発足(片平丁大町頭) / 旧少年審判所を併合して少年問題や家庭に関する調停・審判にあたる  「重訂 宮城県郷土史年表」P532/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P808  「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P40 
仙台CIE図書館 開館~廃止  1948年(S23)~1952年(S27)  CIE図書館は、日本の敗戦後に連合軍総司令部(GHQ/SCAP)の一組織の民間情報教育局(CIE)が、日本の民主化非軍事化を目的とし、全国に23館を設置。 民主主義の普及や米国の生活様式など、多岐にわたる図書・雑誌・映画フィルムのほかレコードや楽譜、パンフレット類をおき無料で貸し出した。

* 1948年(S23)5月23日、仙台CIE図書館、斎藤報恩会館内に設置(日本で8番目のCIE図書館だった)
* 1952年(S27)5月1日、「仙台アメリカ文化センター 」と改称

1946年(S21)にCIEがアメリカ教育使節団の手引書として刊行した『日本の教育』(Education in Japan) では、CIE図書館の目的について『日本の文筆家・学者・官僚・政治家・諸団体ならびに一般人を対象に、国際関係や第二次世界大戦についての参考資料や書物を提供し、米国の慣習・法律・社会・政治機構に根ざす活動や政策の実態を知らせようとするもの』と述べている(関連情報欄の三浦太郎論文より引用)

サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称
   → 項目「仙台アメリカ文化センター」参照 
「仙台市史 年表」P115、P117
/三浦太郎、2005年、「占領下日本におけるCIE第2代図書館担当官バーネットの活動 (PDF) 」 、『東京大学大学院教育学研究科紀要』45巻、東京大学、NAID 110006389820 pp. 267-276 
 
仏舎利塔 落慶  1974年(S49)  * 1974年(S49)5月21日、荒巻国見台で仏舎利塔落慶  「続・ 宮城県郷土史年表」P29   
仁丹マーク 発表  1905年(M38)  * 1905年(M38年)2月、「仁丹」、日露戦争最中に懐中薬として発売

・ 大礼服でデザインされた「仁丹マーク」は、発売当初の容器や宣伝看板のデザインとして使われている 
森下仁丹のHP  44-19 
人力車 仙台人力車挽子組合  1920年(T9)~1925年(T14)  <「仙台市史 特別編4 市民生活」P503>
* 1920年(T9)10月、仙台人力車挽子組合、青年自由革新党幹事の渡辺保蔵の指導で組織
* 1923年(T12)8月、仙台人力車挽子組合、再建総会 / 賃金改善と特に個人営業の自由を阻むすべての制限撤廃が運動方針 / 800余名の挽子全員を組織化
* 1925年(T14)9月、人力車挽子組合大会と値上撤廃期成大演説会(東三番丁の電気館 ☆末尾の注参照) / 人力車借用料値上反対した仙台停車場構内人力車挽子のストライキが口火となる / 800余名全員のストライキも辞さないという態度に、営業者側は無条件で値上案を撤回 / その後、個人営業の権利獲得運動を継続
・ これに自信を得た仙台停車場構内の挽子は、雇入れ・解雇は営業人と挽子合議の上で決定し、車体破損弁償は実費分を挽子と営業人が合議の上で決定することなどの要求で交渉し、全面勝利

<仙台市史 特別編4 市民生活」P193>
・ 1925年(T14)9月3日、仙台人力挽子組合臨時緊急集会(於:国分町の電気館) / 歯代(仙台駅構内の挽子80余名が営業者に収める額)1か月で18円から30円に引上げに反発

☆注: 電気館は、「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236によれば、国分町にあり、前身は大正3年4月開館の世界館で、その後日本館、帝国館、キネマ館と改称し、大正11年5月27日に電気館と改称した / 東三番丁ではない) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P503  「仙台市史 特別編4 市民生活」P503(T14年、人力車挽子組合大会・値上げ撤廃期成大演説会) 
人力車 台数ほか(仙台)  明治・大正・昭和  * 1872年(M5)、新河原町で人力車営業が開始(伊藤清次郎と清水稔)(「仙台市史 年表」P80、「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
* 1873年(M6)、国分町の竹虎が開業(10台保有)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)

<「仙台あのころこのころ八十八年」P16>
* 1878年(M11)、市内に671台(大部分が営業用)
* 1980年(M13)、市内に755台
・ 人力車は当時の花形であり、隣県の業者と連絡して継ぎたてをしてゆくと、仙台から6日間で東京へ行けた

* 日本鉄道(現・東北本線)開業の明治20年頃、559台に減る(「番丁詳伝」P110)

<「番丁詳伝」P63より>
* 1889年(M22)、一人乗り596台、二人乗り8台
* 1897年(M30)、一人乗り1050台、二人乗り5台
* 1905年(M38)、一人乗り977台、二人乗り2台
* 1916年(T5)、一人乗り1055台

* 大正時代末期には、仙台の人力車は900台ほど / 市電開通(大正14年末)やバスの普及で減る(「新・目で見る仙台の歴史」P146)

* 1930年(S5)には327台(「番丁詳伝」P110)
* 1935年(S10)頃、210台({仙台の産業と観光」P27)
* 1941年(S16)10月4日、15年ぶりに人力車復活(「仙台年表」P211)

<「仙台市史 続編1」P88より>
  ・1943年(S18)、197台
  ・1944年(S19)、169台
  ・1945年(S20)、69台
  ・1946年(S21)、40台

* 戦後しばらくも人力車が活躍 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194/「仙台市史 年表」P80、P211/「新・目で見る仙台の歴史」P146/「仙台年表」P211/「仙台あのころこのころ八十八年」P16/「仙台の産業と観光」(S11、仙台市役所刊)P27/「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)P110/「仙台市史 続編1 行政建設編」P88  99-00422-4419-0216-2122-1044-5022-1216-19/「新・目で見る仙台の歴史」P146(人力車のある風景))/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193に人力車 
人力車 台数ほか(宮城県内)  明治・大正・昭和  * 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台
* 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台
* 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子
* 1912年(T1)、2074台
  (314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人)
* 1918年(T7)、1720台
* 1925年(T14)、1366台

・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり

・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された
・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた
・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた  
「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194  16-27(輪タク) 
交通監視用テレビ 仙台市内  1971年(S46)  * 1971年(S46)12月25日、原町坂下交差点に設置  「続・ 宮城県郷土史年表」P5   
五色沼 スケート    ・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭

* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表) 
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表  2-08、53-1929-0373-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー) 
二日町大火 大火  1951年(S26)4月22日  * 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
・ 二十日町大火は、市役所、県庁前周辺のバラック建てが再び変貌するきっかけとなった(「仙台市史 続編第2巻」P705)

* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221  40-0140-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所) 
二十人町 戦前    「二十人町」は東北線の東側にある商店街

(仙台駅東口がなかった1952年(S27)夏までは)仙台駅からは、駅西側の駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋エックスバシ)で越えるのが経路だった

・ 藩政時代に、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる

・ 戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客で賑わい、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第4連隊の兵隊さんや連隊に出入りの人々相手の商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設、昭和31年1月閉鎖)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた

・ 1937年(S12)の日中全面戦争以降は、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足でやむなく店を閉鎖したり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた  

・ 1945年(S20)7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失

<二十人町と鉄砲町>
・「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121に、両町の由来、沿革の記述あり 
「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121  写真分類A-05-07二十人町の全写真(34-0534-0634-0475-0498-142など)/16-0416-10ほか/「目で見る仙台の歴史」P138に「二十人町教会堂」 
二十人町 戦後    ・ 戦後、昭和20年9月~31年6月に、近くの歩兵第4連隊兵営跡地に米占領軍が駐留(キャンプ・ファウラー)
・ 市中心部が戦災で壊滅した中で二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという 
・ 商店数はS10年頃が54店、S30年頃が70店

しかし、
* 1952年(S27)、最寄駅の仙石線東七番丁駅(昭和19年に仙台東口駅と改称)が廃止
* 1956年(S31)6月、米軍キャンプ・ファウラーが返還
* 1956年(S31)、片倉工場閉鎖 などで
商店街はそれまでの存立基盤を失うが、S20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、青年会もS32~35年には七夕仕掛物で毎年、全市商店街コンクールで2等賞を獲得などが明るい話題となった

* 1985年(S60)、再開発事業に着手(「仙台クロニクル」P120) 

<二十人町教会>
商店街の真ん中に1895年(M28)年から二十人町教会があった
* 1982年(S57)6月、1909年(M42)建築の教会堂、取壊し始まる
* 1988年(S63)、教会が原町5丁目に移転 
「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120  二十人町の七夕仕掛け物、75-0175-02/「目で見る仙台の歴史」P189(戦後20年代の二十人町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図67~68(二十人町S32年、H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、カラー) 
亀岡八幡神社 県重文指定  1970年(S45)  伊達藩四代綱村が建立
* 1683年(天和3)落成、仙台東照宮や塩釜神社と並んで豪壮な神殿づくりで、仙台藩の氏神だった

* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1966年(S41)、新社殿落成
* 1967年(S42)、境内の一部に、市の老人福祉センターが完成(大浴場、休養室、健康相談室)
* 1970年(S45)10月17日、石造大鳥居と鳥居額、県の重要文化財に指定(大崎八幡宮の石造大鳥居とともに)(「重訂 宮城県郷土史年表」P664)
* 1978年(S53)12月16日、境内に「輜重兵第二連隊の碑」建立 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187~188/「重訂 宮城県郷土史年表」P664/「続・ 宮城県郷土史年表」P89  「仙台市史写真集 市民の戦後史」P21/「目で見る仙台の歴史」P65に社殿と内部 
乳銀杏(苦竹のイチョウ) 国の天然記念物に指定  1925年(T15)  <仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。  樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」

* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」  99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86 
乗合馬車 開業  1877年(M10)  * 1877年(M10)11月14日、仙里軒(国分町)が仙台(国分町)~岩沼間の乗合馬車を開業
* 1878年(M11)、萬里軒、開業 / 仙台~福島間2円30銭(「番丁詳伝」P29)
* 1881年(M14)4月21日、万里軒(萬里軒)が国分町に本店、仙台~白石間の乗合馬車を開業 / 同年12月15日から、仙台・福島間運行、仙台~福島間2円30銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195)
* 1884年(M17)3月、万里軒が、福島(盛運社)と宇都宮(手塚舎)の業者と共同で、乗り継ぎ制で、仙台~東京間の乗合馬車を開業 / 仙台~福島間1円70銭、仙台~東京間7円67銭(「番丁詳伝」P29) / 料金については「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195にも詳述

・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195によれば、、仙里軒、万里軒のほかに、この時期には、宝來軒(東一番丁)、盛運社(福島)、旅館菊平(国分町)、自由軒(国分町)と乗合馬車事業が競合関係にあった 
「仙台市史 年表」P82、P84、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195/「番丁詳伝」P29  「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(万里軒の引札) 
主食配給量 変化  1940年(S15)~1948年(S23)  * 1939年(S14)、戦争拡大と、秋には移入先の朝鮮米大減収が重なり需給ひっ迫、14年秋からは、全国一斉に7分搗き米、混食、代用食、かゆ食など奨励(「仙台市史 続編第1巻P13)
* 1940年(S15)、「この頃米は切符制となり、配給は2.6合となった」(佐々久「近代みやぎの歩み」P109)/ 宮城県では、東北でも一番遅れて、S15年12月17日から米穀商業組合発行の通帳で米配給実施、基準配給量は年齢別5段階の1日量平均2.574合(「仙台市史 続編第1巻」P19)
* 1941年(S16)4月、米穀配給通帳制(4月に6大都市で、12月までに全国に拡大)→(米1人、2.3合、330gに) / 仙台では7月から市長発行の通帳となり、配給量は年齢のほか、職業、男女別要素が加わる(「仙台市史 続編第1巻P20)
* 1941年(S16)12月、仙台で米穀類が配給制になる、成人1人あたり1日2合3勺(145g)配給 / 戦時中配給された米は白米ではなく、太平洋戦争が始まったころは七分つき米、1943年からは五分つき以下になり、玄米に近くなる(「戦争のころ 仙台、宮城」P179)
* 1945年(S20)7月4日、主食配給量減、7月~10月、10%減、労務特配停止決定(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)7月11日、主食の配給2.1合に(菅家年表)
* 1945年(S20)7月、主食配給量が10%減
   河北新報は見出し「これを契機に食生活も決戦切り替えだ」で、祖先が飢饉のときに食べた草木の芽、皮、根、木の実も食料になると報じる(「戦争のころ 仙台、宮城」P180)

<戦後の食糧事情>
* 1946年(S21)5月16日、宮城県の米配給量、2.1合から1.8合へ減ず(「重訂 宮城県郷土史年表」P511) / 「買出し部隊」が農村へ向かう(「仙台市史 続編第2巻」P701)
* 1946年(S21)5月24日、天皇、食糧事情に関し放送
* 1946年(S21)6月2日、仙台市食糧危機突破対策委員会結成、対策要綱決定
* 1946年(S21)6月9日、食糧危機、2.1合配給を維持(「仙台年表」P216)
* 1946年(S21)11月1日、主食の配給、1日2.5合に増配(農林省発表)
* 1947年(S22)7月20日、主食の遅配、東京25.8日、北海道90日
* 1947年(S22)9月1日、パンの切符配給制を開始(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)11月1日、米配給量、1日2.7合 
戦時中の主食事情につき記述→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P18~20、「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~182
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「仙台年表」P216/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P34、P37、P41、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、513/「仙台市史10 年表」P309、P312、P313/佐々久「近代みやぎの歩み」P109、P164/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701 
 
丸光 雑貨店開店  1946年(S21)  * 1946年(S21)6月1日、 仙台駅前の空襲焼け跡(裏五番丁15)に丸光合資会社として雑貨店を開き、「MARUMITU DEPT.STORE」の文字を掲げて営業を開始 / 木造平屋で50坪
* 1948年(S23)6月1日、株式会社に改組 
Wikipedia「丸光」/「仙台市史 年表」P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P511   
丸光 平屋の店  1947年(S22)ころ  * 戦後、昭和天皇仙台行幸時の写真(S22年8月5日)では、木造平屋    27-01 
丸光 3階建完成  1950年(S25)  * 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯  仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)  16-2798-04853-82 
丸光 青葉通りへ進出(本館)  1953年(S28)  * 1953年(S28)10月、青葉通りに新館落成 / 百貨店として営業開始(地下1階、地上3階建て)
* 1956年(S28)12月11日、この日から丸光屋上よりミュージックサイレン(荒城の月)を市内に放送開始(34年間続く) 
仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P570/わが心の仙台駅前史」P40   
丸光 旧館全焼  1956年(S31)  * 1956年(S31)5月、丸光旧館全焼(増築中だった)  Wikipedia「丸光」/わが心の仙台駅前史」年表   
丸光 8階建て本館ビル落成  1957年(S32)  * 1957年(S32)10月、青葉通りに面して、丸光本館(8階建て)が落成(増築工事完成) / 地上8階、地下2階、地上12階に相当する展望台、4000坪)  Wikipedia「丸光」/「仙台市史 別冊 市民生活」P41  99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P22(S32、建設中)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮)、P73(S39、カラー)、P74~75(S39、カラー) 
丸光 仙台最大の売り場面積に  1965年(S40)  * 1965年(S40)、藤崎や三越仙台店を上回る仙台最大の売場面積となる
* 1972年(S47)11月2日、新装オープン
 
Wikipedia「丸光」 / あれから50年「戦争と丸光」(今泉清)/「続・ 宮城県郷土史年表」P14   
丸光 ダックシティー丸光/ビブレ/さくら野百貨店/店舗閉鎖  1985年(S60)/1991年(H3)/2002年(H14)/2017年(H19)  * 1975年(S50)、ニチイ傘下に (「続・ 宮城県郷土史年表」P72では、1977年(S52)9月、スーパー・ニチイと業務提携)
* 1982年(S57)9月30日、百貨店連合と丸光(仙台)・武田山田(青森)・小美屋(川崎市)合併
* 1985年(S60)、「ダックシティー丸光仙台店」に改称
* 1991年(H3)、「ダックシティ丸光」から「仙台ビブレ」に改称
* 2002年(H14)10月、「さくら野百貨店仙台店」に変更、その後、一時休業
* 2003年(H15)、再オープン
* 2017年(H19)、倒産、売り場閉鎖 
「続・ 宮城県郷土史年表」P72、P151/Wikipedia「丸光」  ダックシティー丸光は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P118(S62、カラー) 
下水処理 事業決定  1957年(S32)~  * 1957年(S32)2月、仙台市、下水道処理事業決定
* 1963年(S38)9月、南蒲生の下水週末処理場一部運転開始
* 1964年(S39)2月、下水の南蒲生幹線貫通
 
「市民の戦後史(仙台市)」P152~153  「仙台市史 特別編4 市民生活」P151(建設中の南蒲生下水処理場)/「市民の戦後史(仙台市)」P152~153(南蒲生下水道終末処理場、下水道清掃車、下水幹線工事完成で握手、澱ポンプ場) 
三越(仙台店) 開店  1933年(S8)  <前史>
* 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁)
* 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203)
* 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開
* 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂)
・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり
・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施

<東一番丁に開店>     
* 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」

【「番丁詳伝」P144~145】
・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」
・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」
・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」
・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」
・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」

* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼
* 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開
* 1963年(S38)11月1日、新館新装開店
   (地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり)
* 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置 
「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145  22-5147-0653-3422-5353-2316-3920-33/「目で見る仙台の歴史」P165 /三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館) 
三居沢交通公園 開園  1967年(S42)  * 1967年(S42)1月26日、三居沢動物公園跡地に開園
* 1977年(S52)9月7日、改装しオープン 
「仙台市史 年表」P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P630/「続・ 宮城県郷土史年表」P71  「市民の戦後史(仙台市)」P198(三居沢交通公園)/「新・目で見る仙台の歴史」P192(南小泉の交通公園) 
三原時計店 国分町で創業  1887年(M20)  <国分町の建物>
* 1887年(M20)3月、仙台市国分町(肴町角)に創業開店(三原本店HP)、戦後の徳陽シティー銀行の場所
* 1887年(M20)、三原時計店が国分町で時計塔付の建物を建設し開業(M22年開業説もある)(「目で見る仙台の歴史」P118では、明治18年)
* 1889年(M22)、国分町に時計塔のある洋風建築を建設(「古写真にみる仙台の建築」P43)
* (M29年に三原時計店が大町に移転後、建物は大正信託、第八銀行が使用した)
* 時計塔の文字盤には、1915年(T4)にはすでに針が無く、模様が描かれている
* 1921年(T10)、国分町の旧三原時計店の建物は取り壊された(「古写真にみる仙台の建築」P43)

<編者注> 「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217や「仙台老舗百店史の三原本店」の記述では、1896年(M29)に大町へ移転と記載されているが、「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)では、地図上も同裏面の実業家一覧表でも、三原時計店はまだ「国分町肴町角」となっている 
三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43  77-2144-1999-022 /「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に当時の三原時計店(国分町五丁目)の写真あり 
三原時計店 (旧)大町5丁目へ移転  1896年(M29)  <三原本店HP>
* 1896年(M29)3月28日、(旧)大町5丁目(現在一番町3丁目)に移転、建物もこの年に設置

<「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P218>
「初代三原庄太が米沢から仙台へ進出、M20国分町・肴町角に時計店開業。1896年(M29)に仙台駅寄りの人の流れや商店街の移り変わりを見越して、大町五丁目に移転。 1903年(M36)に土蔵の店舗の上に(国分町時代と同じく)時計塔をおいたが、1927年(S2)に取り壊し、さらにハイカラな時計塔ある店舗を新築したが、1945年(S20)の仙台空襲で焼失した」

<「仙台老舗百店史」P208、P217>
「時計の三原本店はM20年、山形県米沢から、国分町肴町角に進出開業、M29年3月28日に大町五丁目に移転した/ どちらでもそっくりの時計塔を造っている」 
三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43  43-2522-57 
三原時計店 大町の店、時計塔設置  1903年(M36)  * 1903年(M36)、大町の店に時計台をあげる(三原本店HPの掲載写真記載メモ)
* 1903年(M36)、大町の店に時計塔設置(「古写真にみる仙台の建築」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217)
* 1905年(M38)3月、店舗屋上に4面塔時計台を設置(三原本店HPの年表)<編者注>写真記載メモと設置年が違う 
三原本店HP/「東北大資料」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43  「いつか見た街・人・暮らし」P36(三原時計店内部、大正4年) 
三原時計店 大町の店、取壊し  1927年(S2)  * 1927年(S2)、大町の店(時計塔のある土蔵造)を取り壊し、その跡にハイカラな時計塔のある店を新築  あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43   
三原時計店 空襲で焼失  1945年(S20)  * 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失  三原本店HP   
三原時計店 戦後  1846年(S21)~  * 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年 
三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217   
七十七銀行 開業  1878年(M11)  <国立銀行>
* 1878年(M11)6月、第七十七国立銀行仮取扱所、勾当台通1番地に設置(「仙台年表」P151)
* 1887年(M11)12月、旧仙台藩士族の大部分が出資した第七十七国立銀行開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P349)
* 1878年(M11)12月9日、第七十七銀行国立銀行、大町1丁目に開業(「仙台市史 年表」P83)

<国立→私立>
* 1896年(M29)10月29日、国立から私立に移管(「仙台年表」P171)
* 1898年(M31)3月1日、株式会社七十七銀行となる(「仙台市史 年表」P90、「仙台老舗百点史」P106)
* 1898年(M31)3月1日、私立銀行に転換(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)

<本店、芭蕉の辻の洋館に>
* 1903年(M36)8月1日、新式店舗を芭蕉の辻東北角に新築移転 / 地下室付き2階建ドイツルネッサンス式準洋風建築 / 設計者松崎万長、工費は基礎工事3万円、上部構造等6万円(「重訂 宮城県郷土史年表」P328)
 
<本店移転>
* 1929年(S4)8月11日、大町4丁目75の旧宮城商業銀行本店跡に本店を移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P416)

 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P349、P350/「仙台市史 年表」P83、P90/「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P328、P416/「仙台年表」P151、P171/「仙台老舗百点史」P106  「仙台市史 特別編4 市民生活」P339(七十七銀行が明治12年に発行した壱圓紙幣) 

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