仙台よみとき用語年表
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アインシュタイン 来仙  1922年(T11)  * 1922年(T11)12月3日、アルベルト・アインシュタイン博士が来仙、東北帝国大学金属材料研究所などを視察  「仙台市史 年表」P101  「目で見る仙台の歴史」P148に、「アインシュタイン博士と東北帝大理学部教授たち」 
仙台歌舞伎座(開明座) 改装  1920年(T9)  * 1920年(T9)7月、国分町の開明座が改装し、歌舞伎座として登場

<柴田量平「仙台・東一番丁物語」より>
・ 「国分町に歌舞伎座が開場したのは大正9年7月で、大正2年に建てられた開明座を改造整備したものであった。経営方針がよかったのか、収容観客数1,500人という大きさが手頃であったためか、以来仙台座よりは利用されることが多く、仙台の演芸・娯楽方面に多大の貢献をした。」
・ 同書明治編(昭和42年再版)P235の「明治、大正年間 仙台の劇場(一覧表)」に、「仙台歌舞伎座(国分町)、大正9年7月7日に開明座を改称」

 
「仙台市史 年表」P100/柴田量平「仙台・東一番丁物語」   
飛行大会 開催  1921年(T10)  * 1921年(T10)5月23日、宮城野原で仙台協賛会主催の飛行大会が開催される  「仙台市史 年表」P100   
公設浴場 設置  1921年(T10)  * 1921年(T10)9月10日、宮城県が公設浴場を木町通に設置  「仙台市史 年表」P100   
市民利用施設 (1)全市対象公共施設    <参照> 仙台市の全市対象公共施設一覧と最新情報は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち、「スポーツ施設」「公園・野外活動施設」「図書館」「その他の文化施設」「高齢者施設」「障害者施設」

http://www.city.sendai.jp/kurashi/shisetsu/kokyo/index.html 
「仙台市」HPの「公共施設案内」   
名掛丁商店街 由来 ほか    <仙台市HPより 名掛丁通り(ナカケチョウ)>
「御名懸組の組士屋敷が置かれたまちである。新伝馬町の東端から東七番丁車町に至るまでの丁をいう。明治二十年の鉄道開通で町内が二分され,駅から西は繁華街となった。駅の東裏には島崎藤村の下宿があり,「若菜集」の作品群が書きつづられた。」

* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成

* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成 
「仙台市HP」の「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(名掛丁通り)」/仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271  99-02916-2850-0222-2920-30/「市民の戦後史(仙台市)」P47(昭和20年代)/「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図35~36(S26年、H8年カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P371(アーケード、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P11(S29、商店街入口付近)、P52(S35年、俯瞰) 
臥竜梅 国の天然記念物に指定  1942年(S17)  <仙台市HPより「仙台市内の指定・登録文化財」より>
臥竜梅(朝鮮ウメは、伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰り仙台城に植えた後、晩年の居城である若林城内に移植したと伝えられる。現在の朝鮮ウメは,政宗が持ち帰ったものを接木した二代目であると言われる。臥龍梅としては稀有な品種で,国内最大級の大きさである。かつて中央部にあった樹高9m,幹周1.52mの主木は、昭和51年(1976)の台風で倒れ枯れてしまったものの、3株に分かれていた樹幹がその後良好な樹勢を保ち、春には香り高い白一重の大輪の花を咲かせる。  樹種ウメ(バラ科) 幹周1.3m 樹高約8.0m 枝張 東西約17m,南北約22m 推定樹齢360年

* 1942年(S17)9月19日、「臥竜梅」(若林区古城2丁目)が、国の天然記念物に指定
* 1954年(S29)5月、強風で宮城刑務所(旧若林城址)の「臥竜梅」折れる 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」/「市民の戦後史(仙台市)」P81  「市民の戦後史(仙台市)」P81 
乳銀杏(苦竹のイチョウ) 国の天然記念物に指定  1925年(T15)  <仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。  樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」

* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」  99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86 
東二番丁尋常小学校 設立  1973年(M6)  東二番丁小学校は、1973年(M6)7月設立
名称の変遷
 「二番小学校」1973年(M6)7月~
 「養賢小学校」1875年(M8)6月~
 「東二番丁小学校」1879年(M12)1月
 「東二番丁尋常高等小学校」1892年(M25)8月~
 「東二番丁尋常小学校」1916年(T5)4月~
 「東二番丁国民学校」1941年(S16)4月~
 「東二番丁小学校」1947年(S22)4月~

[写真73-04]の校舎は
* 1886年(M19)、建設
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で焼失
その後の校舎は、
* 1948年(S23)3月、木造新校舎完成
* 1964年(S39)12月、鉄筋新校舎完成
* 1986年(S61)8月、校舎解体
* 1987年(S62)10月、新校舎完成(2018年現在の校舎)(Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」)
* 1987年(S62)12月22日、部屋境のない校舎完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P234) 
「仙台巷譚第56号」(平成5年発行)に、仙台の小学校の変遷記述あり/Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」(2018年現在)/「続・ 宮城県郷土史年表」P210、P234  73-0473-06/「いつか見た街・人・暮らし」P78(入学式、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120(明治19年建設の校舎玄関付近)/「新・目で見る仙台の歴史」P138(東二番丁小学校同窓会記念写真、髪に大きなリボンを飾った女児たち)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年完成校舎) 
市場 中央マーケット(戦前)    昭和戦前期、東一番丁南部(通称大通り)にあった。

【「仙台大観(昭和10年刊」P43】
「大通りには1年を通じて毎夜、夜店が開かれ、夜の一番丁に一層の賑わいを呈し、傍らの「中央マーケット」には、コリントゲーム、玉突き、輪投げ、射的、演芸(無料公開)等があり遊芸場として昼夜雑踏を極めている。」

<参照>当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみ に、戦前期の大通りの夜店、中央マーケットの思い出あり

なお、戦後(昭和21年)に通称大通りに開設された「仙台中央公設市場」も、通称「中央マーケット」と呼ばれた。 
「仙台大観(昭和10年刊」P43   
午砲 開始(大砲で)  1871年(M4)~1929年(S4)  * 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す / この日より虎ノ門に午砲を始む(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月から仙台城二の丸跡の東北鎮台(のちの第二師団)で毎日大砲を撃ち正午の時を報せた(市民は「ドン」とよんでいた)
* 1922年(T11)年8月15日から軍縮のため午砲が廃止され、輪王寺・本願寺・愛宕山の打鐘で正午を報せた
* 同年12月8日、午砲復活
* 1929年(S4)、廃止(2月1日から市役所からの電気サイレンにかわる) 
「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/仙台市史 年表」P79、P101、P104  98-066の左上に「寅ノ門」/仙台市全図(大正元年 東洋造畫館)では、川内の旧仙台城寅ノ御門脇に「號砲所」の記載あり(午砲を撃った場所)  
東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団 設置/改称/改称  1871年(M4)/1973年(M6)/1888年(M21)  * 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称 
「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685からの「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86   
八木山橋 コンクリート橋  1965年(S40)  * 1962年(S37)2月、八木山橋着工(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月15日、新八木山橋成る / 全長117m、幅8.5m、高さ60m、旧橋より18m長く7m高し(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月16日、コンクリート橋完成(全長117m、幅8.5m、デビダーク工法)(「重訂 宮城県郷土史年表」P619)
* 1971年(S46)10月1日、橋にネットを張る 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P619/「続・ 宮城県郷土史年表」P2/「番丁詳伝」P35  「市民の戦後史(仙台市)」P171(建設中の八木山橋、完成開通した橋)/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図21~22(S40空撮、H9空撮カラー) 
支倉常長(記念碑/銅像) 建立  1960年(S35)/1972年(S47)  * 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑、仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1972年(S47)11月13日、支倉常長銅像、青葉山で除幕式 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P596/「続・ 宮城県郷土史年表」P15  「市民の戦後史(仙台市)」P151(S38年6月にイタリアから贈られた支倉常長肖像) 
戦災者・引揚者用住宅 住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅)  1946年(S21)  追廻練兵場跡に、応急木造住宅620戸を建設

* 1945年(S20)10月、追廻に住宅営団の戦災者住宅着工、翌21年4月に621戸成る(「仙台城」P235)
* 1946年(S21)3月、住宅営団が戦災者・引揚者用の木造応急住宅620戸を建設(河北新報1996.11.21)
* 1945年(S20)11月~翌年3月、進駐軍の接収を免れた大日本帝国陸軍第2師団用地の1つである追廻練兵場跡地において、住宅営団が賃貸用の応急簡易住宅を約620戸建設(Wikipedia「川内追廻」)
・仙台市では戦後、追廻の陸軍練兵場跡に2年間で簡易住宅1876戸を建築して被災者や海外からの引揚者に提供(「戦争のころ 仙台、宮城」P227)
* 1946年(S21)11月11日、仙台市の戦災復興計画において、「追廻住宅」を含む当地(約22.5ha)が「仙台総合運動場」として都市計画決定(戦災復興院告示 第244号)
* 1946年(S21)12月23日、住宅営団が閉鎖機関に指定せられ、同時に解散(以降は清算法人) / これにより住宅営団の賃貸住宅だった「追廻住宅」では、建物は入居者に払下げられ、国有地である土地は東北財務局が管理して入居者と賃貸契約を結んだ(Wikipedia「川内追廻」)

* 1951年(S26)10月、住宅営団が4月に解散、建物を入居者に売却し、(土地は東北財務局が)時価貸付契約締結、契約期間は3年間(河北新報1996.11.21)

* 1954年(S29)10月、追廻地区住民が、同地区の公園化に反対して総決起大会
* 1960年(S35)3月13日、追廻住宅で火災49戸焼失

仙台市の戦後の応急住宅対策は、「仙台市史特別編4 市民生活」P160~161に記述あり 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P109/「市民の戦後史(仙台市)」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P595/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227

/Wikipedia「川内追廻」(出典: 旧軍用地に係る土地政策と転用実態 ―終戦直後から戦災復興期の都市部における旧軍用地転用― (PDF) (土地総合研究 2015年夏号)P152-153)/「河北新報」(1996.11.21)」 
「目で見る仙台の歴史」P174に「追廻住宅」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P110(S54、画面下部、カラー) 
政宗卿平服像 建立  1953年(S28)  * 1952年(S27)、小野田セメントから寄贈の申し出(柳原義達制作)
* 1953年(S28)10月9日、白色コンクリート造伊達政宗立像、小野田セメント会社より仙台市に寄贈、本丸に除幕式を行う。作者柳原義達、像高4.5m(「仙台城」P235)
* 1953年(S28)10月9日、仙台市青年会が、青葉城跡に伊達政宗卿の像(白色セメント製、平服姿)を旧騎馬像台座の上に再建し、翌日に除幕式
(作者は柳原義達、高さ4m65cm、平服のため「平和像」とも呼ばれる)

* 1964年(S39)8月、政宗コンクリート像、本丸跡より岩出山城跡に移さる(「仙台城」P237)
* 1964年(S39)9月8日、平服像が岩出山町城址へ移転
同年10月に政宗卿騎馬像(銅像)が天守台に再建されることになり、平服像は岩出山城址(宮城県岩出山町、2019年現在大崎市)へ移された / 岩出山城は、仙台城築城まで12年間伊達政宗の居城だった 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235、P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P568、P615/「仙台市史 年表」P118、P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185  99-118/「目で見る仙台の歴史」P190 
大橋(広瀬川) コンクリート橋開通  1938年(S13)  * 1938年(S13)9月22日、落成式
鉄橋の腐食がすすみ、コンクリート橋(和風の勾欄・灯籠)に架け替えられた / 橋長113.2m、橋幅10m

・戦後、川内地区に進駐軍の司令部がおかれ、橋と大手門の間に歩哨が立っていて、川内地区に自由に入れない時期があった 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台年表」P208/「仙台市史10」年表P294/「仙台あのころこのころ八十八年」P248/「仙台大橋の変遷」(山本晃 著)/写真99-106の説明文/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P411  コンクリート橋は、53-10253-10199-10699-10706-0408-0334-3053-3653-3753-106/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図57(H8年カラー) 
午砲(午報) サイレンで  1929年(S4)~  * 1929年(S4)1月16日に完成した仙台市役所新庁舎(白亜の市庁舎)の屋上にサイレンを設置
* 同年2月1日から、サイレンで正午を報せた(午報)
 (これにともない、川内の第二師団内で大砲を打って報せた「午砲」は廃止)
* 1945年(S20)9月25日、戦時中中止していた仙台市の午報を3年5か月ぶりに復活 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89   
昭忠碑 建立  1902年(M35)  西南戦争や日清戦争などで戦死した陸軍第二師団所属の戦没者の慰霊顕彰碑
* 1902年(M35)11月22日、天守台(青葉城本丸址)に建立 

【「重訂 宮城県郷土史年表」P326】「碑はゴシック式高塔、陸軍大将西寛二郎の意匠にして、東京美術学校に於いて鋳造、工費総額2万4033円余」
【ふるさとの昭和史 「新仙台」案内記P35】「明治34年、第二師団と第八師団(弘前)合同の陸軍大演習が宮城県下であり、昭忠標は、その演習の際に明治天皇から100円を下賜され建てられた」
 
* 戦時中の金属回収では、同じ天守台の「政宗卿騎馬像」は対象にされたが、昭忠碑の「金鵄」は回収を免れた

* 1936年(S11)11月3日、朝、強震あり、金鵄の翼折れて落下
* 東日本大震災(2011年3月11日)で頭頂部の金鵄像が落下破損したが、修復されて2016年に「昭忠碑」前の基台に据え付けられた 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P326、P454/「ふるさとの昭和史」(「新仙台」案内記)P35/青葉城資料展示館HP/東京文化財研究所HP/「仙台市史 年表」P92  99-11299-11399-11499-11544-24/「目で見る仙台の歴史」P137に、「昭忠碑の鵄」 
大橋(広瀬川) 鉄橋架橋  1892年(M25)  * 1892年(M25)8月24日、大橋の鉄橋竣工す(「仙台城」P233)
* 1892年(M25)8月、木橋流失後に第二師団の強い要請で鉄橋に架け替え(M23年9月起工、ハウトラス式鉄橋)


「仙台はじめて物語」P289では、鉄材ベルギー製の鉄橋完成、1895年(M28)8月24日と記載 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P292/「仙台年表」P167/「仙台あのころこのころ八十八年」P239/「宮城県の百年」 P11/「新・目で見る仙台の歴史」P134/「仙台市史 年表」P88  鉄橋は、99-10299-10344-2399-10499-10564-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図56 
青葉山公園 開設  1925年(T14)/1954年(S29)  仙台市が管理している都市公園 / 青葉山の東端から広瀬川右岸にかけての40.6haで、仙台城(青葉城)の跡地の一部やその堀であった五色沼、長沼を園内に含む

* 1925年(T14)10月、第二師団より大手門等を含む2,957坪を借地し、仙台市青葉山自然公園とし、大手門への出入り自由となる(「仙台城」P233、「重訂 宮城県郷土史年表」P399) / 旧青葉城の大手門は、明治期から昭和戦前期には陸軍第二師団の正門だった
* 1925年(T14)10月、仙台市が、仙台城の大手門を含む2957坪を青葉山公園として開設(「仙台市史 年表」P103)
* 1937年(S12)9月3日、多門将軍銅像、青葉公園に建設、除幕式(「仙台市史10 年表」P291) (注)多門将軍は、満州事変当時の第二師団長多門二郎中将

<戦後>
* 1945年(S20)、連合国軍(米軍)が第二師団の敷地を接収(キャンプ・センダイ)したために青葉山公園は事実上の休園状態
・ 川内の旧軍跡地の接収は、第9軍団司令部が札幌から仙台に移転した、1946年(S21)(「戦争のころ 仙台、宮城」P224)
・ 米軍が二の丸跡に、米軍人軍属の住宅、クラブなど建築、二の丸遺跡は徹底的に破戒され、三の丸巽門(櫓門)破却、中島池、奥方庭園池泉、藩主居間前庭の瓢箪池、中奥外の濠、筋違橋付近深谷みな埋め立てらる(「仙台城」P235)
・ 中島池は埋め立てられゴルフ場に(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
* 1950年(S25)10月、護国神社が、本丸一帯の国有地の払い下げを受ける(「仙台城」P235)
* 1954年(S29)2月、護国神社所有地本丸の一部、2万0933坪を仙台市管理に移し、五色沼、長沼一帯国有地1万2643坪を加え、3万3576坪を公園地とす(「仙台城)」P236)
* 1954年(S29)4月1日、青葉山公園が川内に開園(再開)
* 1955年(S30)、追廻を公園地に編入(「仙台城)」P236)/ 旧第二師団の練兵場だった追廻地区は、戦後、米軍の接収をまぬがれ、住宅営団が戦災者・引揚者用の応急簡易住宅団地(追廻住宅 / 賃貸約620戸)を建設、その後居住者に払い下げられていた(追廻地区住民は、同地区の公園化に反対した)
* 1957年(S32)9月、仙台市が五色沼、長沼を浚渫(「仙台城)」P236)
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1960年(S35)6月10日、仙台郷土博物館建設(翌年10月10日開館)=博物館第1期工事
* 1961年(S36)10月、仙台市博物館開館(三の丸跡に)
      → 詳細は、項目「仙台市博物館」参照
* 1964年(S39)8月18日、宮城県スポーツセンターが青葉山公園内に開館(1万人収容、東北一の規模)
* 1965年(S40)7月、元東北大学教授山田孝雄先生の碑を建設期成会が護国神社裏に建立
* 1991年(H3)月日、仙台国際センターが開館
      → 詳細は、項目「仙台国際センター」参照
* 2015年(H27)、仙台市地下鉄東西線国際センター駅開業 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P235、P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P571、P621/「仙台市史 年表」P103、P118、P123/Wikipedia「青葉山公園」(2019年6月)/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244  * 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失 
宮城県護国神社 招魂社を改称  1939年(S14)  * 1904年(M37)8月28日、本丸跡に「招魂祭殿」成る(「仙台城」P233)/ 本殿は神明造銅板葺き、前に土間式瓦葺の拝殿 / 毎年4月30日に盛大な招魂祭
* 1904年(M37)8月28日、「招魂社」が仙台城本丸跡に竣工
* 1939年(S14)4月1日、招魂社を「宮城県護国神社」と改称
* 1939年(S14)4月10日、護国神社法制定、招魂社を県護国神社と改め、社殿改築に着手(「仙台城」P234)

・ 改築は全額寄付(総額みこみ25万円、県費、多額納税者、銀行会社、学生生徒、仙台市は市民への割当、他の市町村)でまかない、工事には軍隊、学生生徒、青年団が参加(「戦争のころ 仙台、宮城」P38、出典は「宮城県知事事務引継書」) 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P234/「目で見る仙台の歴史」P142/「重訂 宮城県郷土史年表」P331、P467、/「仙台市史 年表」P92、P110/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38  宮城県護国神社は、16-0616-07/ 招魂社の時代は、99-15998-091、「目で見る仙台の歴史」P142に「本殿唐門」と「拝殿」 
仙台城二の丸焼失 焼失  1882年(M15)  資料により、出火原因が異なっている

* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163) 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163   
宮城控訴院(赤タイル庁舎) 落成/解体  1924年(T13)/1975年(S50)  控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する

* 1879年(M12)、宮城上等裁判所(宮城控訴院の前身)の庁舎(ルネッサンス式、漆喰塗)が片平丁に完成 / 宮城控訴院は、発足時(M19年)にその庁舎を引き継ぐ

<赤タイル張り庁舎落成>
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」

<同庁舎、解体>
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・宮城県郷土史年表」P44) 
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807  「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-0113-02,、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館) 
仙台の裁判所 宮城上等裁判所/宮城控訴裁判所/宮城控訴院/仙台高等裁判所  1875年(M8)/1881年(M14)/1886年(M19)/1947年(S22)  控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する

<宮城上等裁判所>
* 1876年(M9)9月13日、大審院が「宮城上等裁判所」を仙台に設置
* 1879年(M12)、片平丁に、宮城上等裁判所建築(ルネッサンス式、漆喰塗) / <編者注> 出典の「新・目で見る仙台の歴史」P122キャプションには、仙台上等裁判所となっているが、「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表によれば、仙台上等裁判所と称した時代はなく、宮城上等裁判所が正しいと思われる

<宮城控訴裁判所/宮城控訴院>
* 1881年(M14)10月6日、「宮城控訴裁判所」に改称(ルネッサンス式2階建て)
* 1886年(M19)5月4日、「宮城控訴院」に改称
* 1904年(M37)11月15日、片平丁の宮城控訴院構内を焼失
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」

<仙台高等裁判所>
* 1947年(S22)5月3日、「仙台高等裁判所」設置(裁判所法、検察庁法成立 / それまでの宮城控訴院に付属していた検事局を分離し、仙台高等検察庁設置
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・ 宮城県郷土史年表」P44)
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎)(「続・ 宮城県郷土史年表」P74) 
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P274、P331、P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807  「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-0113-0213-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館) 
仙台の裁判所 仙台区裁判所  1876年(M9)  仙台地方裁判所に併設されていた
・ 地方裁判所は宮城県全体を管轄
・ 区裁判所は、仙台市と周辺部の郡を管轄し、民・刑事の比較的罪の軽い事件や和解、調停や、刑事の略式手続、登記と戸籍などを扱う

* 1876年(M9)4月13日、「仙台区裁判所」設置
* 翌1877年(M10)、東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成 
* 1881年(M14)10月6日、「治安裁判所」に改称
* 1890年(M23)11月1日、再び「区裁判所」に改称
* 1924年(T13)区裁判所は、仙台地方裁判所とともに、片平に移転(片平の宮城控訴院と合同庁舎となった)

☆ 東二番丁の「木造2階建庁舎」(写真99-096) は、地方裁判所・区裁判所が、1924年(T13)に片平丁に新築された「宮城控訴院」との合同庁舎(赤タイル張り洋館)に移転した後に改造され、1930年(S5)~1939年(S14)の間、仙台市立病院が使用 / 1939年(S14)にこの地に市立病院が鉄筋コンクリートの病院を新築する際に取り壊された  
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城百科事典」P577、P597/「明治の洋風建築~宮城県~」P28~29/「新・目で見る仙台の歴史」P122  99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117(東二番丁時代の庁舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(仙台区裁判所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(仙台区裁判所) 
仙台の裁判所 仙台地方裁判所  1876年(M9)  地方裁判所は宮城県全体を管轄 / 仙台区裁判所を併設していた

* 1876年(M9)3月2日、「宮城裁判所」開庁(仙台地方裁判所と仙台地方検察庁の前身)
* 同年9月13日、「宮城裁判所」を廃止し、「宮城上等裁判所」(宮城控訴院、宮城高等裁判所の前身)と「一ノ関裁判所」(宮城・岩手両県を管轄)を設置
* 同年11月24日、「一ノ関裁判所」を仙台に移し、「仙台裁判所」(仙台地方裁判所の前身)を設置
* 1877年(M10)に東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成(仙台区裁判所と仙台裁判所の庁舎)
* 1881年(M14)10月6日、「仙台裁判所」を「仙台始審裁判所」と改称
* 1890年(M23)11月1日、「仙台地方裁判所」に改称
* 1924年(T13)、「仙台地方裁判所」は、併設の「仙台区裁判所」とともに、片平丁に移転(宮城控訴院との合同庁舎がT13年竣工 / 秋保石積赤タイル張り洋館)

<戦後>
* 1947年(S22)5月3日、仙台地方裁判所、仙台簡易裁判所設置 / 裁判所法、検察庁法が成立し、それまでの裁判所に付属していた検事局を分離し、仙台地方検察庁設置
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎) / 旧庁舎(赤タイル張洋館)はS50年9月に解体開始 
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「仙台市史 年表」「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807  99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117に、『東二番丁時代の庁舎』 
ホテル 仙台市内でオープン  1973年(S48)~1975年(S50)  仙台ホテルは、項目「仙台ホテル」参照

* 1960年(S35)8月、グランドホテル仙台が、同年竣工の東北電力ビルの7~9階にオープン
* 1973年(S48)8月4日、ニューシティーホテルがオープン(国分町2丁目)
* 1973年(S48)10月1日、東京第一ホテル仙台、完成
* 1973年(S48)12月7日、ホテルオーツカがオープン(鉄砲町)
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* 1973年(S48)12月19日、仙台チサンホテルがオープン(仙台駅前)
* 1974年(S49)2月20日、ビジネスホテルのニューホッタがオープン
* 1974年(S49)9月20日、仙台ワシントンホテルがオープン(青葉通り)

* 1975年(S50)3月16日、仙台プラザ・ホテル、オープン(本町2丁目)
* 1975年(S50)4月20日、ホテルリッチ、オープン(国分町2丁目 
「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45/「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P23、P25、P27、P32、P38、P39、  「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(グランドホテル仙台) 
仙台陸奥館(陸奥ホテル) 開業  1890年(M23)  * 1890年(M23)、仙台駅前には、最初のホテルで日本鉄道経営の「仙臺陸奥館」ができるなど、明治年間に旅館やホテルの開業が相次いだ(「仙台はじめて物語」P90)

* 1894年(M27)、陸奥ホテル開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
   ・日本鉄道が経営
   ・洋風木造3階建て、東北初の洋風ホテル
     1階はビリヤードとロビー
     2階は食堂、3階は客室(洋食) 
「仙台はじめて物語」P90/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83  06-2316-57 /「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に「陸奥ホテル」(仙台停車場前)と陸奥ホテル支店(仙台停車場正面、西洋料理)の写真あり 
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン ツルヤ洋菓子店  1912年(M45)~1933年(S8)  * 1912年(M45)7月27日、開店(1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーン)
* 1915年(T4)、ツルヤ洋菓子店は、仙台ではじめてシュークリームを販売
* 1933年(S8)3月、付近の映画館「仙集館」から火災で類焼し閉店

【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ 場所は戦後の靴店アピア満足屋のあたり / 開店は、年号が大正に代わる3日前 / 洋館造りは東北帝国大学の文部技官中島仙太郎の設計、夜はイルミネーションが点灯
・ 「ツルヤ洋菓子店」は、大正4年に仙台で初めてシュークリームを販売したり、ロバに曳かせた赤塗りの箱馬車で、焼きたてのパンや洋菓子を配達するなど、常に評判を呼ぶ店だった。 新製品「仙台豆」の袋入り(20銭)を買うと景品に「仙集館」の二等席の映画券1枚がついた
・ ツルヤ洋菓子店は、カフェクレーンの桜井常吉の妻はるの弟中林源助が経営 

【座談会「みやぎの洋菓子60年」P21】
・「ツルヤ」のベビーシュー(シュークリーム)は有名だった。 トテ馬車と言って、箱馬車でパンを配達して有名でした。大正の頃のことです。 
「仙台はじめて物語」P74~75/座談会「みやぎの洋菓子60年」P21(掲載誌は不詳)/「重訂 宮城県郷土史年表」P377   
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン カフェ・クレーン  1912年(M45)~1933年(S8)  * 1912年(M45)7月27日、新式洋菓子コーヒー店カフェ・クレーン開店(一品料理と喫茶)

【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ ツルヤ洋菓子店2階の喫茶「カフェクレーン」は、季節の花を飾った大理石張りのテーブル10余りが並び、天井には扇風機が回り、オルガンもあった
・ コーヒー、紅茶が5銭、特製アイスクリーム10銭、ライスカレー、チキンライス、ハムライスが15銭均一
・ 12~13歳の女給仕は水色の洋服とエプロン姿
・ 仙台では、「カフェクレーン」「ブラザー軒」「カルトン食堂」が知識人や学生のたまり場だった 
「仙台はじめて物語」P74~75  22-5645-0245-0398-07/「いつか見た街・人・暮らし」P38(T5年、カフェクレーレストラン内部)/「新・目で見る仙台の歴史」P146 
日米野球 米大リーグ選抜対明治大学  1931年(S6)  * 1931年(S6)11月10日、八木山球場で、「アメリカ大リーグ選抜(グローブ投手やゲーリッグら)対明治大学チーム」の日米野球試合(米13-明治2)が行われた
 (【「仙台はじめて物語」P235~241】に詳述あり) 
「仙台はじめて物語」P235~241/「重訂 宮城県郷土史年表」P428/「仙台年表」P202   98-064 (「新・目で見る仙台の歴史」P155の米チーム一行記念撮影と同じ) 
仙台市の動物園(戦前) 仙台市動物園猛獣射殺  1944年(S19)  * 1944年(S19)3月25日、太平洋戦争末期の仙台市動物園で、猛獣12頭(熊4頭、シロクマ・ヒグマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ各1頭)が「空襲の際に危険」と射殺された(仙台市交通局五十年史)/ ただし仙台市史ではシロクマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ・ヒグマ・クマ各1頭の合計8頭 / 自然休園となる / 5月19日、銃殺動物慰霊塔建設
* 1944年(S19)5月19日、空襲にそなえ処分された動物たちの慰霊祭(「戦争のころ 仙台、宮城」P140) 
「仙台はじめて物語」P104~105/「仙台市史10 年表」P307~308/仙台市史 年表」P113/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P140   
映画館(戦前) 仙台の映画館と劇場一覧  昭和11年頃  <映画館>
・ 東一番丁(中央部)  日活館(日活契約、椅子席)
・  同(日の出横丁) 日乃出映画劇場(P.C.L特約、椅子席)
・ 東一番丁(南部)  文化キネマ(松竹特約、椅子席)      
・ 東三番丁      読売会館(新興契約)
・ 河原町       (第二)パテー館(大都契約)
・ 国分町       世界館(大都特約)
・ その他       公園館(大都特約)
            廣瀨座(新興契約)

<このころから、映画に対する統制が強まる>
・ 1934年(S9)、内務省、映画統制委員会を中央に設置 / 映画は国策の一環に組み入れられ制約をうけてゆく
・ 1936年(S11)夏、これまで自由配給されていた欧米映画に対する干渉が高まり、検閲が苛烈になってゆく 

<劇場>
・ 仙台歌舞伎座(国分町、大正9年開座、収容力1200)→ 項目「仙台歌舞伎座」参照
・ 仙台座(南町通・東四番丁角、明治23年開座、収容力1800) → 項目「仙台座」参照
・ 東一館(収容力500 / 東一番丁、大正6年開業)              
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P72/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352(東一館の開業年)   
野球場 昭和11年現在    昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場  「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73   
プール 昭和11年現在    仙台市内のプール(昭和11年現在)
 ・ 愛宕プール(愛宕橋下)
 ・ 夏は、広瀬川上流に区域を定めて使用
 ・ 学校では、(旧制)第二高等学校、師範学校などに 
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73   
五色沼 スケート    ・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭

* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表) 
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表  2-08、53-1929-0373-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー) 
自動車など各種車両台数 自動車台数(仙台市内)  1926年(S1)~1985年(S60)  * 仙台の車(昭和10年頃)(「仙台の産業と観光」P27)
  ・ 自動車695台(乗用572台、貨物123台)
  ・ サイドカー35台、オートバイ109台  

* 仙台の自動車台数(出典調査中)
 →数字は、自動車台数(乗用車台数、貨物自動車等台数)
  ・1926年(S1)、 256台(221、35)
  ・1935年(S10)、 704台(578、126)
  ・1945年(S20)、1350台(436、914)
  ・1955年(S30)、4348台(920、3428)
  ・1965年(S40)、2万3602台(8302、1万5300) 

* 終戦前後、仙台市内にあった自動車台数(「仙台市史 続編1」P88)
→数字は(乗用車台数、貨物自動車等台数)
  ・1943年(S18)、自動車(496、804)
  ・1944年(S19)、自動車(448、606)
  ・1945年(S20)、自動車(436、914)
  ・1946年(S21)、自動車 (23、376)

* 仙台市内、乗用車保有台数(「仙台市史 特別編4 市民生活」P217)
  ・1975年(S50)、 6万8000台
  ・1985年(S60)、15万3000台   
「仙台の産業と観光」(S10年、仙台市役所刊)P27/「仙台市史 続編1」P88/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217  S11~15年頃は、53-8853-9234-08 / 戦後は、20-07(S38)、22-13(S43) 
自動車など各種車両台数 荷馬車、牛車、荷車(仙台市)  1935年(S10)頃  * 仙台の車(昭和10年頃)
    荷馬車826台、牛車24台、荷車2299台 
「仙台の産業と観光」P27  <荷馬車> 20-0818-2122-4622-0344-35 <牛車> 09-06 
自動車など各種車両台数 自動車台数(宮城県内)  1912年(T1)/1918年(T7)/1925年(T14)/1926年(T15)  * 1912年(T1)10月、仙台市内で初めて乗合自動車の営業始まる(「仙台あのころこのころ八十八年」P242)
* 1918年(T7)、宮城県内で、自動車6台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1925年(T14)、宮城県に168台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1926年(T15)、宮城県に455台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215) 
「仙台あのころこのころ八十八年」/P242「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P215   
戦時衣料 モンペ、防空頭巾、戦闘帽、ゲートル、髪型  1934年(S9)~1942年(S17)  * 1934年(S9)6月21日、陸軍省が、陸軍軍服の色を「国防色」と命名し、被服統一運動を開始(菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15 / 「日録20世紀 1934年」P16)
* 1938年(S13)1月、全国の女学校で生徒の断髪を禁止(菅家年表)
* 1938年(S13)、女子のモンペ姿が多くなる(菅家年表)
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1938年(S13)7月15日、以後、男子は丸坊主、女子はパーマネントはできず(菅家年表)
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを禁止(菅家年表)
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会で生活改善刷新案決定(学生の長髪禁止、パーマネント禁止)(菅家年表)
* 1939年(S14)、この年、男はすべて国民服、カーキ色、5つボタンとなる(菅家年表)
* 1940年(S15)12月、この頃、時局の一反映として女学校生徒のモンペ姿が登校にみられ人の注目をひく(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
* 「昭和15年12月、女学校生徒のモンペ姿が通学にみられる」(「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表)
* 1940年(S15)9月6日、大日本理容連盟、標準髪型以外は受付を断ることにした(「菅家年表」P24)
* 1940年(S15)11月27日、中等学校以上の制服を統一、昭和16年4月から国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1941年(S16)、この年、防空ずきん、もんぺ、ゲートルなどの非常時服装が目立つ(「菅家年表」P27)
* 1941年(S16)、女性のモンペ姿が急増(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1942年(S17)2月19日、婦人国民服(標準服)決定、6種(「菅家年表」P28)

 
「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15、P20~28、P31/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27に「戦時中の衣服」につき記述あり/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314  「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち/同P54(S18年、モンペ姿で電報配達奉仕に出発する女学生)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー) 
新住居表示制度(仙台) 実施  1965年(S40)~  * 1965年(S40)4月1日、旭ヶ丘地区で実施(仙台市初)
* 1965年(S40)11月1日、宮城野地区で実施
* 1966年(S41)5月1日、向山地区で実施
* 1967年(S42)2月1日、南材木町、南小泉地区で実施
* 1967年(S42)11月1日、八幡地区で実施 
* 1968年(S43)2月1日、通町地区で実施
* 1968年(S43)8月1日、長町地区で実施
* 1970年(S45)2月1日、中央地区で実施(北は、柏木、昭和町、梅田町、南は、米ケ袋、土樋、五橋、西は広瀬町と広瀬川、東は宮町と仙台駅付近、に囲まれた市中央部で、上杉、中央、本町、一番町、立町、大町、など、計28町・44丁目)
(中央地区の該当範囲図は、http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/documents/s45chuuou.pdf)
* 1971年(S46)5月1日、東六番丁・原町地区で実施
* 1971年(S46)12月、露無地区の新町名公示後に異議申し立て(仙台市で初)
* 1972年(S47)5月、台原地区で実施
* 1973年(S48)5月1日、長町北地区で実施
* 1973年(S48)5月、土手内1・2・3丁目で実施
* 1974年(S49)5月1日、桜が丘地区で実施
* 1975年(S50)5月1日、若林区小泉地区と、太白区太白地区で実施
* 1976年(S51)7月5日、高松・幸町地区で実施
* 1976年(S51)9月1日、富谷町向陽台団地で実施
* 1977年(S52)2月1日、仙台港北側の港4・5丁目で実施
* 1977年(S52)7月4日、本澤・中山地区で実施
* 1978年(S53)7月3日、北根・荒町地区で実施
* 1979年(S54)7月1日、中田・西多賀地区で実施
* 1985年(S60)7月1日、六丁目地区、長町茂ケ崎地区で実施
* 1988年(S63)7月4日、榴ヶ岡1~5丁目、宮城野1丁目、八幡7丁目の新住居表示実施 
「仙台あのころこのころ八十八年」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P619、P622、P626、P630、P635、P638、P641/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P10、P19、P20、P29、P40、P57、P64、P70、P71、P83、P96、P194、P248
/仙台市HPの「住居表示実施状況 実施地区名一覧《実施年降順》」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/kojun.html 
「市民の戦後史(仙台市)」P167(市内初の旭ヶ丘新住居表示板」 
メーデー(戦後) 宮城県(戦後復活)  1946年(S21)~  * 1946年(S21)5月1日、戦後復活第1回、宮城県庁前広場に2万人参加(11年ぶりに復活)
* 1947年(S22)5月1日、復活第2回メーデー、勤労大衆約3万結集
* 1949年(S24)5月1日、メーデー、反共系=仙台労協側、容共派=県労会議に分裂
* 1950年(S25)5月1日、宮城全労会議系、県労会議系の分裂メーデー
* 1951年(S26)5月1日、2年間の分裂メーデーをやめ、統一メーデー開催
* 1952年(S27)5月1日、県メーデー、西公園グランドに約4000名参加、学連系東北大学生150余名警官隊と衝突 
「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史10 年表」P312、P316、P321、P323、P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P534、P549  44-46(S22、戦後2回目)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(S35年メーデー集会、宮城県庁前)/「市民の戦後史(仙台市)」P214(S43年5月メーデー集会)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P532(S36年、メーデー前夜祭のポスター) 
自動車 宮城県に登場  1903年(M36)/1909年(M42)/1910年(M43)  * 1903年(M36)、この年、仙台市内に初めてオートバイが走る(「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1909年(M42)9月、有栖川宮、帝国水難救済会宮城県支部発会式で来県の際、幌付きフォードで仙台、松島を訪問(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
* 1910年(M43)2月12日、藤崎呉服店、宮城県内で初めて二人乗り幌型自動車(ドイツ製、時速37キロ、3000余圓)を購入し、仙台を走る(「仙台市史 年表」P95、「仙台市史 特別編4 市民生活」P215) 
「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215/「仙台市史 年表」P95  「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(藤崎の宮城県第1号の乗用車)/「目で見る仙台の歴史」P139に、宮城県第1号の藤崎の自動車(背景は物産陳列所」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(M43、運転する藤崎三郎助) 
仙台座 開場  1890年(M23)  * 1890年(M23)11月22日、「仙台座」開場 / 南町通・東四番丁角にできた仙台初の本格的劇場 / 木造平屋建漆喰塗、外観は洋風であったが内部には幅十間の舞台と桝席・桟敷・花道を持っていた / 歌舞伎、のちには新劇、映画も上演され、政談演説会場にも利用された

* 1945年7月10日、仙台空襲で焼失
 
<仙台座で、仙台初の映画公開>
(「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』より)
* 1897年(M30)、仙台座で、仙台初の映画公開 / 主催は東一番丁の白崎写真店主(白崎民治)
(1)4月28日~5月8日
 映写機は、フランス・リュミエールのシネマトグラフ / 人物や風景など、毎夜30分上映 / 入場料10銭、しばしば電気が切れたため、少年音楽隊の演奏でつなぐ
(2)8月4日~10日(夜7時開演)「活動大写真会」
 映写機は米国製ヴァイタスコープ / 入場料は大人8銭、軍人・学生4銭(当時、新聞1部が1銭2厘) / 「パリの風景や軍隊の行進」「衣装をさまざまに着替えて踊る少女」「日本美人の布ざらし」など100余本を毎晩取り替えて上映  / フィルムには部分的に赤、緑、褐色など彩色あり/ 7日には、第二師団将兵1600余人、9日に歩兵4連隊など1000余人が観覧 / 余興には音楽隊の吹奏や蓄音機で仙台芸妓連の唄を聞かせた / 事前に、円太郎馬車(乗合馬車)が旗なびかせ、賑やかな楽隊をのせて街を走り宣伝、各所でまいたチラシには「電気作用、活動着色大写真 発音器(蓄音機)付」と書かれていた 
「仙台あのころこのころ八十八年」P238、P239/「仙台市史 年表」P87/「目で見る仙台の歴史」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P308/「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』  「市民の戦後史(仙台市)」P22/「仙台市史 特別編4 市民生活」P227(仙台座、M25年芝居番付) 
仙台市役所庁舎 第1代庁舎(木造平屋庁舎)  1889年(M22)  * 1889年(M22)4月1日、市制施行
* 同年5月2日、市役所が開庁
 庁舎(木造平屋)は仙台区役所時代の建物を転用し、1926年(T15)まで使用
* 1926年(T15)7月、庁舎新築のため、一時、旧仙台地方裁判所跡へ移転 
「仙台あのころこのころ八十八年」(三原良吉監修 S53年刊)の口絵写真の説明文  98-057 
高等学校(新制) 三島学園女子高等学校/東北生活文化大学高等学校  1948年(S23)/2003年(H15)  <前史>
* 1903年(M36)10月27日、三島駒治・よし夫妻により「東北女子職業学校」、東三番丁に創立(本科・別科・高等研究科)
* 1913年(T2)9月、清水小路に移転
* 1924年(T13)、高等研究科廃止、専攻科と師範科設置
* 1926年(T15)、高等師範科設置
* 1928年(S3)、高等師範科研究科設置
* 1940年(S15)3月25日、財団法人三島学園設立認可 
* 1944年(S19)、東北女子実業学校と改称
* 1947年(S22)、専門学校令による三島学園女子専門学校設立

<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)3月、東北女子実業学校に「三島学園女子中学校」併設(S45年3月、廃止)
* 1948年(S23)4月、「三島学園女子高等学校」(普通科)設立し、女子実業学校を統合
* 1949年(S24)4月、高校別科として美容科設置(H7年廃止)
* 1952年(S27)、高校に二部(夜間4年制)新設
* 1967年(S42)、高校に附属研究科(1年)設置
* 1968年(S43)、商業科設置

* 2003年(H15)、「東北生活文化大学高等学校」と校名改称(普通科5コース、商業科2コース)、男女共学制となる
* 2008年(H20)、高校創立60周年
* 2013年(H25)、美術・デザイン科新設、普通科特別進学コース新設、商業科ライセンスコース改編 
「三島学園」HP/「目で見る仙台の歴史」P134/「仙台市史 年表」P92/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P527~528  「目で見る仙台の歴史」P134に、「東北女子職業学校と学校長三島よし」/「新・目で見る仙台の歴史」P139(東北女子職業学校) 
大型店・量販店 十字屋  1972年(S47)~2005年(H17)  * 1972年(S47)4月20日、十字屋仙台店オープン(仙台駅西口前、百貨店)
* 1974年(S49)11月5日、増築オープン
* 2005年(H17)、閉店(当時はダイエーの100%子会社) 
「わが心の仙台駅前史」年表/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「続・ 宮城県郷土史年表」P34   
仙台ホテル 戦後立て替え/閉業  1964年(S39)/2009年(H21)  * 1964年(S39)5月10日、仙台駅西口前、青葉通り・愛宕上杉通り角(南東角)にオープン / 地上9階、地下2階
* 1964年(S39)、東京オリンピックに合わせ、9階建ての現在の建物が完成。仁王像一対は3階ロビーに移設
 
* 1985年(S60)、 ホテルを全面改装 / 同時に隣接して仙台ホテルアネックスビルを増築
* 1985年(S60)1月、ホテル5階に、「泉の庭園」設置

* 2009年(H21)12月31日、閉業 
「わが心の仙台駅前史」年表/「仙台市老舗百店史P126」/Wikipedia「仙台ホテル」/「続・ 宮城県郷土史年表」P188  98-03698-062/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P72(S39、カラー) 
大型店・量販店 緑屋  1959年(S34)~1982年(S57)  * 1959年(S34)、緑屋東一番丁店がオープン(青葉区一番町4-5-13 サンシャインビル内)、S57年に閉店
* 1967年(S42)3月、東北ビル完成し、緑屋仙台駅前店が開店(「わが心の仙台駅前史」年表)
* 1977年(S52)5月20日、仙台駅前店オープン(「続・ 宮城県郷土史年表」P68)(青葉区中央1-9-1新東北ビル内) / Wikipediaでは、1967年(S42)開店 - 1982年(S57)閉店
* 1982年(S57)3月8日、西部クレジットが、緑屋東一番丁店と仙台駅前店を閉鎖(「続・ 宮城県郷土史年表」P143) 
「わが心の仙台駅前史」年表/Wikipedia「緑屋」/「続・ 宮城県郷土史年表」P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P143  東一番丁店は、31-16(マークのみ見える) 

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電力ホール
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電話開始(仙台)
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灯火管制
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東北学院
東北産業博覧会
東北自動車道
東北新幹線
東北振興/農村更生
東北大学
東北大学病院
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東北帝国大学
東北電力
東北本線
東北楽天ゴールデンイーグルス
東北歴史資料館
東北六魂祭
東北絆まつり
遠見塚古墳
特別調達庁
都市型CATV
特急はつかり
特急ひばり
トラックターミナル
名掛丁商店街
仲の瀬橋(広瀬川)
長町駅
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西内楽器店
西公園(桜ケ岡公園)
西本願寺別院(東一番丁)
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日本生命館
日本鉄道
日本農民組合
ネオンサイン
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年中行事(まつり)
乗合馬車
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爆弾三勇士の歌
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芭蕉の辻商館
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バス
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バス優先レーン
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発電事業
パテー館
花火大会
針久旅館支店(仙台駅前)
ハリストス正教会堂
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藩祖政宗公の記念祭
東一番丁(商店街)
東一番丁大火
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文化横丁
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ペデストリアンデッキ
ヘレンケラー女史
奉安殿
防空演習
ポケットベル
歩行者天国(東一番丁)
ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
松島パークホテル
松永正敏中将
松原街道
マナスル登頂成功
丸光
満年齢
満蒙開拓
右側通行
水の森スケート場
三越(仙台店)
緑と花いっぱい運動
緑の団地条例
南町大火
南町通り(多門通り)
三原時計店
宮城学院
宮城教育大学
宮城県沖地震
宮城県会議事堂(明治時代)
宮城県旗の図案
宮城県弘報誌「みやぎ」
宮城県県民の森
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