項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
冷害・凶作 |
昭和戦後期 |
1953年(S28)/1954年(S29)/1976年(S51)/1980年(S55) |
* 1953年(S28)10月29日、仙台市が冷害凶作を受けて冷害臨時対策本部を設置
* 1953年(S28)、この年、東北・北海道は冷害、前年比19%減で、昭和9年以来の凶作(菅家年表)
* 1954年(S29)7月17日、県農地課発表、県下高冷開拓地の陸稲大豆夏作物で収穫皆無が690町歩(総面積の4分の1)、特に蔵王山麓、栗駒山麓
* 1976年(S51)、東北、北海道は冷害
* 1980年(S55)、東北地方は冷害
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「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P47、P70、P74
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スポーツ大会(戦後復興期) |
国民体育大会(第7回) |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)9月、夏季大会(松島湾でヨット競技)
* 1952年(S27)、聖炎旗リレー 広島~(日本海側経由)~山形県内~宮城県内(10月7日~13日)~福島県内
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国体秋季大会、宮城・山形・福島県で開催 / 開会式は福島市の信夫山競技場、宮城野原総合運動場が宮城県の主会場 / 仙台では、陸上、サッカ-、ラグビー、自転車、野球、テニス、卓球、レスリング、バドミントンの9種目で、5日間で観客6万人
・ 宮城野原総合運動場の開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
・宮城県勢は自転車総合優勝、卓球一般男女軟式団体優勝、ボート・ナックルフォアで東北高校4連勝など
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「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P225/「仙台市史10 年表」P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271、P470~472
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「新・目で見る仙台の歴史」P181(陸上競技場を出る20キロロードレース)/「市民の戦後史(仙台市)」P66~67(各種の競技風景、昭和天皇)
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国道48号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道48号は、仙台市青葉区から山形市に至る一般国道
<110号 →48号>
* 1953年(S28)5月、仙台・山形線(旧関山街道)が 二級国道110号に
* 1962年(S37)5月、仙台・山形間が、二級国道110号 →国道48号に
* 1963年(S38)6月4日、国道48号線(仙台~山形)を一級国道に指定
* 1968年(S43)11月21日、国道48号線の新関山トンネル完成(仙台~山形間が車で1時間半となる)
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「仙台市史 年表」P118、P122、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P644
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県営宮城野原硬式庭球場 |
落成式 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)10月21日、落成式
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「仙台市史 年表」P118
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銀行(地域の銀行) |
三徳無尽/徳陽相互銀行/德陽シティ銀行 |
1942年(S17)/1951年(S26)~1998年(H10) |
* 1942年(S17)4月1日、 宮城無尽・太陽無尽・東北無尽の三社が合併し、「三徳無尽」として設立
* 1951年(S26)10月20日、三徳無尽株式会社が改組、徳陽相互銀行に商号変更
* 1982年(S57)5月24日、一番丁支店オープン
<以下、Wikipedia「徳陽シティ銀行」より>
* 1990年(H2)8月、 第二地方銀行となる / 商号を「株式会社德陽シティ銀行」に変更
* 1994年(H6)3月、「1995年をもって、北日本銀行および殖産銀行と合併し、新名称を『平成銀行』とする」と発表したが、後に徳陽シティ銀行の財務内容がネックとなり、破談となる
* 1997年(H9)11月26日、経営破綻 / 仙台銀行、七十七銀行、北日本銀行などに営業譲渡を決定
1998年(H10)11月16日、 営業を終了
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「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P552/「続・ 宮城県郷土史年表」P146/Wikipedia「徳陽シティ銀行」(2020年10月22日版)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P742(徳陽相互銀行)
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県営宮城野原蹴球場 |
完成~撤去 |
1951年(S26)~1989年(H1) |
* 1951年(S26)5月、県営のサッカー場、宮城野原総合運動場に完成
* 1989年(H1)11月、蹴球場が撤去され、多目的広場となる
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「仙台市史 年表」P117、P136
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NHK仙台放送局 |
テレビ放映実験 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)7月、仙台駅構内で、東北初のテレビ放映実験が行われる
* 1953年(S28)6月24日、テレビジョン映写公開(レジャーセンターで1週間)
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「仙台市史 年表」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P565/「仙台年表」P227
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「市民の戦後史(仙台市)」P64(テレビ実験公開
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学制改革(戦後) |
新制大学 |
1949年(S24) |
<新制大学>
1947年(S22)制定の学校教育法に拠り、高等教育を行う教育機関
・ これ以前の帝国大学令や大学令等による大学は旧制大学と呼ばれるようになる
・ 戦前の旧制大学、旧制高等学校、師範学校、高等師範学校、大学予科および旧制専門学校を、4年制の新制大学として再編
・ 新制国立大学は、1949年(S24)施行の国立学校設置法に基づいて設置
<宮城県内>
* 1949年(S24)、新たに設置開設された新制大学(私立)
・4月1日開設、東北学院大学、東北薬科大学
・10月27日開設、宮城学院女子大学
* 昭和20年代の短期大学開設
・1950年(S25)に、東北学院、尚絅、宮城の私立3校
・1951年(S26)に、三島、聖和の私立2校
・1952年(S27)に、宮城県農業短期大学
* 1949年(S24)5月31日、国立学校設置法に基づく東北大学設置(第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城師範学校・宮城青年師範学校・宮城県女子専門学校が東北大学に統合される)(旧制東北帝国大学は、すでに昭和22年10月1日に東北大学に改称していた)
* それ以降に県内で開設された、新制大学、短期大学は → 項目「大学・短大」参照
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「仙台市史 年表」P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96
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宮城県図書館(戦後) |
戦後再建 |
1949年(S24) |
<宮城県図書館 再建>
* 1949年(S24)11月3日、空襲で焼失した宮城県図書館(大正元年建築)の後継として再建された「宮城県図書館」落成式(木造2階建て、宮城県庁の西隣、旧養賢堂跡)(「仙台市史 年表」P116)
<上記と名称、時期など一致しないが、「宮城県中央図書館」とした記述もあり>
* 1948年(S23)5月1日、「宮城県中央図書館」に、フィルム・ライブラリーを併置(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
* 1949年(S24)2月5日、「宮城県図書館」開館/旧伊達氏所蔵の文書・書籍(いわゆる「伊達文庫」)を収める(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261)
* 1949年(S24)2月10日、「宮城県中央図書館」復興し閲覧を開始(「仙台市史10 年表」P320、「重訂 宮城県郷土史年表」P533)
* 1949年(S24)10月、宮城県中央図書館を旧養賢堂講堂跡に復興新築、12月下旬に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P537)
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「仙台市史 年表」P116/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年版)
「宮城県中央図書館」と表記は、「重訂 宮城県郷土史年表」P526、P533、P537/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261
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07-01-01、22-37、53-16/「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(図13)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54(S37、左端の2階建て、カラー)
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県営宮城野球場(宮城球場) |
開場 |
1950年(S25) |
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン
<開場式、記念のプロ野球戦試合>
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場グランド開き / 5月5日、観客殺到し、圧死3名、重軽症23名(「仙台市史10 年表」P323)
* 1950年(S25)5月3日、開場式 / 5月5日、仙台初のプロ野球公式戦(毎日対大映、毎日対南海)(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)5月3日、球場開きの際、入場者殺到し、作ったばかりの金網の柵が倒れ、死者3人、負傷者23人という惨事(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266)
* 1950年(S25)5月5日、開場式(記念試合として、毎日・大映・南海の公式試合あり)(「重訂 宮城県郷土史年表」P542)
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球米選抜軍対巨人軍
* 1973年(S48)4月20日、照明塔6基点灯式
* 1973年(S48)5月22日、ナイター開幕
* 1974年(S49)1月、プロ野球ロッテ球団が、宮城県営野球場を本拠地とする
* 1974年(S49)4月6日、東北初のプロ野球開幕試合(ロッテ対阪急)
* 1977年(S52)9月13日、ロッテ球団、本拠地を川崎ヘ移す
* 1985年(S60)6月18日、県営宮城球場、大改造完成
* 2004年(H16)、全面改修され、プロ野球団東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(施設は宮城県が所有し、東北楽天ゴールデンイーグルスの運営法人・株式会社楽天野球団が都市公園法に基づく管理許可制度により運営管理)
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「仙台市史 年表」P116、P129/「仙台市史10 年表」P323、P326/「重訂 宮城県郷土史年表」P542/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P20、P71、P192/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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20-06、25-15、25-16
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青葉神社 |
神輿渡御復活 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)5月23日、青葉祭 / 春の例祭で神輿渡御が13年ぶりに行われ、あわせて甲冑の武者行列も
* 1961年(S36)5月のゴールデンウィーク、全市あげて青葉神社祭典(武者行列、神輿渡御、相馬浪江の相撲甚句や宝財おどり)
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「仙台市史 年表」P115/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182、P714
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182の写真49/「市民の戦後史(仙台市)」P226(5月の青葉神社例祭の武者行列)
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仙台CIE図書館 |
開館~廃止 |
1948年(S23)~1952年(S27) |
CIE図書館は、日本の敗戦後に連合軍総司令部(GHQ/SCAP)の一組織の民間情報教育局(CIE)が、日本の民主化非軍事化を目的とし、全国に23館を設置。 民主主義の普及や米国の生活様式など、多岐にわたる図書・雑誌・映画フィルムのほかレコードや楽譜、パンフレット類をおき無料で貸し出した。
* 1948年(S23)5月23日、仙台CIE図書館、斎藤報恩会館内に設置(日本で8番目のCIE図書館だった)
* 1952年(S27)5月1日、「仙台アメリカ文化センター 」と改称
1946年(S21)にCIEがアメリカ教育使節団の手引書として刊行した『日本の教育』(Education in Japan) では、CIE図書館の目的について『日本の文筆家・学者・官僚・政治家・諸団体ならびに一般人を対象に、国際関係や第二次世界大戦についての参考資料や書物を提供し、米国の慣習・法律・社会・政治機構に根ざす活動や政策の実態を知らせようとするもの』と述べている(関連情報欄の三浦太郎論文より引用)
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称
→ 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
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「仙台市史 年表」P115、P117
/三浦太郎、2005年、「占領下日本におけるCIE第2代図書館担当官バーネットの活動 (PDF) 」 、『東京大学大学院教育学研究科紀要』45巻、東京大学、NAID 110006389820 pp. 267-276
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学制改革(戦後) |
新制高校 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
・ 仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足
・ 仙台市内の新制高校一覧(昭和23年)→ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P275に、県立8校(男子5校、女子3校)、市立5校(男子4校、女子1校)、私立12校(男子5校、女子7校)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P333/「仙台市史 特別編4 市民生活」P275
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戦後教育・仙台 |
新制高校発足 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足した(一覧は、「仙台市史 続編第2巻」P333)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P331~333
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水害 |
アイオン台風 |
1948年(S23)9月16日~17日 |
広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送
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「仙台市史 年表」P115
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「市民の戦後史(仙台市)」P38(洪水被害)/「新・目で見る仙台の歴史」P174(水害の太子堂付近)
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学制改革(戦後) |
新制小学校/新制中学校 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)4月1日、六・三制の学校制度開始 / 義務教育期間は小学校・中学校の9年間に
・ 国民学校を小学校と改称
・ 仙台市で29の新制中学校開校(市立18校、官立1、私立10)
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「仙台市史 年表」P114~115/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95
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「目で見る仙台の歴史」P181に、五ツ橋中学校、第二中学校、東華中学校、片平丁小学校、木町通小学校
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食糧メーデー |
仙台市で開催 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月31日、仙台市で食糧メーデー開催
(東京の「食糧メーデー」(飯米獲得人民大会)は、5月19日)
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「仙台市史 年表」P114
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金属回収 |
政宗卿騎馬像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、仙台城跡(天守台)の伊達政宗銅像(騎馬像)の金属供出「出陣式」が行われる
「青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も、金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及び護国神社共同主催のもとに、県下青年団代表参集して盛大なる銅像出陣壮行式を挙行す。この折、詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」(重訂 宮城県郷土史年表)
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「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500
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第四十二師団 |
編制 |
1944年(S19)2月~1945年(S20) |
* 1944年(S19)2月1日、第四十二師団(通称号は勲兵団)、仙台において編制
【Wikipedia「第42師団」】 留守第二師団と第62独立歩兵団を基幹に仙台に於て編制
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より転記】 1944年2月、仙台において臨時編成。その後、中千島の得撫島(ウルップトウ)に移動し同地の防衛に任ずる。1945年4月、稚内に移駐し当地の防衛を担当しそのまま終戦を迎えた。1945年9月17日稚内にて復員
* 終戦時は、主力は北海道宗谷、一部は南千島(「仙台市史 続編第1巻」P64)
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ 歩兵第130連隊はソ連軍によってシベリアに連行され、5年後に帰国 / シベリア抑留中に死亡し身元が確認された宮城県出身者は806人(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
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「仙台市史 年表」P113/Wikipedia「第42師団」/国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P238
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女子挺身勤労令 |
施行 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<「日録20世紀 1943年」P42「女子挺身隊」>
「14歳以上25歳以下の未婚・無職・不在学の女子を勤労動員するため、居住地ごとにまとめた組織 9/21、女子勤労動員の強化と男子職場への代替を打ち出し、女子勤労挺身隊の結成を進めた 当初は自主的組織とされたが、1944年8月女子挺身勤労令が公布され、若い女性は根こそぎ動員された」
* 1944年(S19)年8月23日、女子挺身勤労令(12歳以上40歳未満の未婚女子が対象)を公布、即日施行された
* この日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行 →詳細は、項目「学徒勤労動員」
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「仙台市史 年表」P113
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仙台市営バス |
戦前 |
1942年(S17)~1945年(S20) |
* 1942年(S17)8月21日、仙台市が仙台市街自動車(通称・銀バス)を買収、仙台市営バス事業を開始した
* 1943年(S18)11月20日、近郊の5バス会社(根白石、定義、増東、仙山、港組)を市バスに買収統合
・ 戦時中は、ガソリン統制で円滑な運営ができなかった(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1945年(S20)7月1日、仙台空襲で、仙台駅前車庫、営業所が焼失
・ 戦時中と戦後しばらくは、木炭などを燃料した代替燃料装置でかろうじて走っている状態
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「仙台市史 年表」P112/「重訂 宮城県郷土史年表」P491/「仙台市史10 年表」P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-1)仙台村 |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)>
【仙台市市 年表」P111~112】
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設
【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】
1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】
* 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28)
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「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(3) |
1942年(S17)以降 |
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)3月24日、翼賛政治体制協議会宮城県支部発会式
* 1944年(S19)1月18日、翼賛政治会、国民決戦生活要綱決定
* 1944年(S19)2月25日、東条内閣、決戦非常措置要綱決定(生徒学生1年間勤労動員、校舎軍需工場化、女子勤労動員、疎開促進、高級料飲店等禁止と施設転用、旅行徹底制限、官庁平時事務1年間停止、官庁休日の縮減など15項目)
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「仙台市史 年表」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P488/「仙台市史10 年表」P307/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P177『決戦非常措置要綱』
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日本銀行 |
仙台支店(芭蕉の辻)開設 |
1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店
(2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店
(3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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戦前は、16-01/戦災焼失は、35-13、53-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後)
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芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
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ヘレンケラー女史 |
来仙 |
1937年(S12)/1948年(S23) |
* 1937年(S12)6月31日、仙台市公会堂で講演を行い、翌日に宮城県立盲亜学校を訪問
* 1948年(S23)9月8日、二度目の来仙(盲学校訪問、宮城学院で講演)
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「仙台市史 年表」P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P458、P529/「仙台市史10 年表」P319/「目で見る仙台の歴史」P185
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S23年(2度目の来仙)は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校訪問)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34
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仙台市公報 |
創刊 |
1935年(S10)/1948年(S23) |
<戦前> 1935年(S10)4月20日創刊
<戦後> 1948年(S23)6月1日、改めて発行
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「仙台市史 年表」P108/「仙台市史10 年表」P285、P318
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灯火管制 |
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1935年(S10)~1945年(S20)8月 |
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
* 1937年(S12)9月15日、宮城県灯火管制規程公布
* 1945年(S20)8月20日、灯火管制、3年8か月ぶりに解除、町に灯、2日後には映画演劇娯楽放送も自由になる(「重訂 宮城県郷土史年表」P505、「仙台年表」P214、「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
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「仙台市史 年表」P107/「仙台市史10 年表」P291/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台年表」P214(出典:毎日新聞)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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防空演習(防空訓練) |
灯火管制訓練 |
1935年(S10) |
<訓練>
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
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「仙台市史 年表」P107
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日米野球 |
米大リーグ選抜対全日本選抜 |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)11月9日、八木山球場で、「米大リーグ選抜と全日本選抜」が対戦、ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ
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「仙台市史 年表」P107
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八木山橋 |
吊り橋、開通 |
1931年(S6)8月(11月?) |
八木山橋(吊り橋)は、八木久兵衛氏(仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者)が私費(3万1千円)を投じて昭和初期に行った八木山観光ルート開発の一つ
・ 深さ70メートルの龍の口渓谷をまたぎ、青葉城址(天守台)と八木山を結ぶルート上に架設し、仙台市に寄付した
・ 長さ107メートル、幅3.7メートルで、当時は宮城県下一のつり橋だった
* 1931年(S6)8月(11月)、開通(木造鉄柵吊り橋) / 「仙台市史 年表」P106では8月架設、 「重訂 宮城県郷土史年表」P429では11月開通
* 1937年(S12)、仙台市南光院丁某飲食店女中、初めて八木山橋から投身自殺す(「仙台年表」P208)
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「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P429/「仙台年表」P202、P208
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34-32、53-40、99-108、53-65、53-21、25-14、25-13/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図19~20(S8、S12)
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多門通り |
南町通りを改称 |
1933年(S8)1月7日 |
南町通りは、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路
*1933年(S8)1月には、「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを「凱旋行進」した
・ 「凱旋」を記念して、1933年(S8)1月7日市会の決議により南町通りは、当時の師団長の名を冠した「多門通り」と改名された
・ 戦後は南町通りに復名
・ 敗戦後、進駐してきた米軍はこの道路を「メープル街(かえで)と名付けた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P28)
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「仙台市史 年表」P106/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P28
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65-01-01、53-91、53-96、63-04-01、98-148(被占領時代の仙台市街地図 米軍用)
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藤崎(戦前期) |
改称 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)5月1日、株式会社藤崎呉服店、株式会社藤崎と改称
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「仙台市史 年表」P105/藤崎170年のあゆみ」P255
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野球場 |
スポーツマン球場 |
1929年(S4)~1933年(S8) |
* 1929年(S4)6月、杉村多利治氏(のちの日乃出映画劇場社長)が国分寺薬師堂北隣につくる / ライトの塀外は薬師堂の杉木立でファンは木に登って見物した
* 1929年(S4)6月(7月)、スポーツマン球場設立(宮城野原南部、国分寺薬師堂北隣)
* 1933年(S8)、廃止
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「仙台市史 年表」P105/「重訂 宮城県郷土史年表」P416/「仙台あのころこのころ八十八年」P70
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大日本連合婦人会 |
結成 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、文部省系の大日本連合婦人会、結成
* 1931年(S6)2月7日、宮城県連合婦人会、結成
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P202(出典:毎日新聞)
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防空演習(防空訓練) |
宮城県で初の防空演習 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)11月4日、第二師団司令部、仙台市を中心に1市4町18カ村で防空演習を実施させる(仙台で初の防空演習)/ NHK仙台放送局が防空演習を中継放送
(* 1931年(S6)9月18日、満州事変勃発)
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台放送局60年のあゆみ」P3/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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八木山遊園地 |
工事完了 |
1930年(S5) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が、所有する土地に私費を投じて野球場とともに建設し、遊園地(約10万坪)は7年後に仙台市に寄付した(八木山公園は一時、宮城県に寄付したが、昭和7年八木氏に返還され、9年4月に改めて仙台市に寄付された) / 公園には、野球場、遊園地、吊り橋、動物舎、散策路などがある(「仙台市史 本編2」P377)
* 1937年(S2)9月、起工
* 1930年(S5)4月、「八木山遊園地」と「公園」を開設(「仙台市史 年表」P105)
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」、仙台市に寄付される(「仙台あのころこのころ八十八年」P247)
* 1936年(S11)5月28日、「八木山遊園地」を仙台市に寄付(仙台市会が寄付採納可決)
* 1937年(S12)、仙台芸妓組合、八木山遊園地、沿道、紅葉ケ谷に桜800本を植栽し、仙台市に寄付(「仙台あのころこのころ八十八年」P248)
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「仙台市史 年表」P105、P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P415/「仙台あのころこのころ八十八年」P247、P248/八木山公園については、「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり
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八木山球場 |
開場 |
1929年(S4) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が所有する土地に私費を投じて建設し、宮城県に寄付し「宮城県営野球場」となる / 工費40万円
* 1927年(S2)9月、八木山球場を起工
* 1929年(S4)6月23日、開場(開場同日に宮城県に寄付し、「宮城県営八木山球場」となる(「仙台市史 年表」P105、「重訂 宮城県郷土史年表」P415、「宮城県の百年」年表、「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
* 1930年(S5)6月、八木山球場で、三田・稲門野球戦(三田は慶応大学、稲門は早稲田大学)
<開催された日米野球>
* 1931年(S6)11月10日、米大リーグ選抜対明治大学(米13-明治2) / 大リーグ選抜にはグローブ投手やゲーリッグらが参加( →「仙台はじめて物語」P235~241に詳述あり)
* 1934年(S9)11月6日、米大リーグ選抜と全日本選抜 ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ(「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
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「仙台市史 年表」P105、P107/「重訂 宮城県郷土史年表」P415、P420、P428 / 「新目で見る仙台の歴史 P155」/「仙台はじめて物語」P235~241/「仙台あのころこのころ八十八年」P70/「宮城県の百年」年表
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競馬 |
愛子競馬場開設 |
1929年(S4) |
* 1929年(S4)11月21日、愛子(あやし)競馬場開設
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「仙台市史 年表」P105
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競馬 |
長町競馬場の開設認可 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)4月18日、長町競馬場、開設認可
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「仙台市史 年表」P105
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メーデー(戦前) |
宮城県初のメーデー |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)5月1日、宮城県最初のメーデー、日本農民組合宮城県支部連合会・仙台一般労働組合などの主催により桜ケ岡公園で開催(デモコースは、公園→南町通り→仙台駅前)
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争委員会約20名(各組合代表)が仙台市役所にデモ、夜は東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
<参考>
* 1935年(S10)5月1日、第6回メーデが、戦前最後のメーデー(「一億人の昭和史 昭和重要事件年表」)
* 1936年(S11)3月24日、内務省が今年のメーデー禁止を通達
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「仙台市史 年表」P104/岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P13/「新・目で見る仙台の歴史」P149/「仙台市史10 年表」P283
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「新・目で見る仙台の歴史」P149(仙台の第1回メーデー・デモ )/「仙台市史 特別編4 市民生活」P530(S2年5月1日、仙台の第1回メーデーデモ隊)
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祝賀行事 |
普通選挙祝賀 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)4月3日、仙台市内で、普通選挙祝賀提灯行列
* 1928年(S3)2月20日、普通選挙法で初の衆議院議員臨時総選挙(宮城県8人選出)
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「仙台市史 年表」P102/「重訂 宮城県郷土史年表」P409
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「いつか見た街・人・暮らし」P22(大正14年4月4日夜)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P501(T14年、仙台、普選案通過祝賀会提灯行列)
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高等学校(新制) |
宮城県第三女子高等学校/宮城県仙台三桜高等学校 |
1948年(S23)/2010年(H22) |
<前史>
* 1924年(T13)4月1日、「宮城県第三高等女学校」、宮城県女子師範学校内に開校
(T8年11月以降、県内の学校は、名称に県立の「立」をつけない)
* 1946年(S12)、4年制から5年制になる
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、宮城県第三女子高等学校と改称
* 1950年(S25)4月20日~1952年(S27)3月20日、男女共学制を実施(仙台市内初の共学制)
* 1953年(S28)~1957年(S32)、校舎を宮城県第一女子高等学校と併用(一女高が、東北大から立退き要求で、北六番丁の新築校舎から、中島丁に移転し、三女高、一女高が同居)
* 1957年(S32)春、長町鹿野屋敷に新築移転、校旗・校歌を再制定
* 1961年(S36)、丸屋根の屋内体育館兼講堂完成
* 2010年(H22)、再共学化し、校名を「宮城県仙台三桜高等学校」に改称 / 新入生281名のうち33名が男子
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「仙台市史 年表」P102/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522~523/Wikipedia「宮城県仙台三桜高等学校」
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仙台庶民金庫 |
開業 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)7月、仙台市街地信用組合として開業、同年12月に仙台庶民金庫と改称(「仙台市史 年表」P102)
* 1923年(T12)4月、定禅寺通りに(有)信用組合仙台庶民金庫、設立(「仙台市史 特別編4 市民生活」P515)
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「仙台市史 年表」P102/「仙台市史 特別編4 市民生活」P515
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仙台自動車学校 |
開校 |
1924年(T13) |
* 1924年(T13)3月、仙台自動車学校が新寺小路に開校
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「仙台市史 年表」P102
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長町駅貨車操車場 |
完成 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)6月11日、東北本線の長町駅貨車操車場(長町ヤード)が完成
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「仙台市史 年表」P102
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医療機関 |
仙台市立榴岡病院 |
1922年(T11) |
伝染病隔離専門病院
* 1922年(T11)5月1日、「仙台市伝染病院」が「仙台市立榴岡病院」と改称して常設病院となる(木造平屋建て)
* 戦後、赤痢大流行 / 患者・保菌者が、S21~S22に県内約3000人、仙台市1000人 / S25~S27に連続して爆発的に発生し畳敷きの部屋まで病室に転用
* 1952年(S27)12月~1955年(S30)5月、3期に分け増改築 / 木造平屋6棟に代わって完成
* 1957年(S32)1月、増築完成(病床、計106床に)
・ 1960年(S35)の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)
* 1980年(S55)、榴岡病院廃止
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「仙台市史 年表」P101/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717~721/「仙台市史 特別編4 市民生活」P395
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P718に、改築後の写真/「目で見る仙台の歴史」P182(S30年改築の病院)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P396
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野球場 |
東北体育協会球場 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)5月27日、榴ヶ岡下に木造観覧席を備えた東北体育協会球場が開場(「仙台あのころこのころ八十八年」P69にダラ(糞尿)撒き騒動のエピソード記載)
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「仙台市史 年表」P101/「仙台あのころこのころ八十八年」P69
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仙台軌道(仙台鉄道) |
開通~廃止 |
1922年(T11)~1951年(S26) |
仙台市の通町駅と古川市(旧・中新田町)の中新田駅を結んでいた軽便鉄道(約44キロ)、愛称は「軽便っこ」
* 1922年(T11)10月6日、仙台の「通町」~「八乙女」間(約8km)で軽便鉄道の運行開始
* 1923年(T12)12月、「八乙女」~「吉岡」間開通
・ 当初は、ガソリンカーだったが、牽引力不足のため、このころ蒸気機関車に切換える
* 1927年(S2)1月、「仙台軌道株式会社」が「仙台鉄道株式会社」と改称
* 1929年(S4)4月9日、「吉岡」~「中新田」間が開通し、全線開通
* 同年9月29日、北仙台駅開業
・ 仙台市内の停車場は、北仙台、東照宮、七北田、山の寺、陸前大沢
* 1937年(S12)2月、通町~北仙台間廃止、起点が北仙台となる
* 1943年(S18)4月20日、山ノ寺駅付近で機関車の排煙を原因とした山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が全焼(Wikipedia「仙台鉄道」)
* 1947年(S22)、カサリン台風で被害
* 1948年(S23)9月、アイオン台風、キティーで甚大な被害
* 1950年(S25)8月6日、台風による風水害で北仙台~加美中新田間、一部を除いて運転休止、復旧されず
* 1951年(S26)、仙台鉄道の北仙台~加美中新田間(約40キロ)が事実上廃止となる / 路線廃止しバスに転換
* 1956年(S31)3月、北仙台~加美中新田間廃止
* 1959年(S34)、全線廃止
* 1960年(S35)、残った区間(加美中新田~西古川)も廃止
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「仙台市史 年表」P101、P104、P117/Wikipedia「仙台鉄道」(2019.1現在)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P183/「仙台市史 特別編4 市民生活」P199~200
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「目で見る仙台の歴史」P156に「仙台軌道」/「市民の戦後史(仙台市)」P124(S35年4月、仙台鉄道廃止で、運転手に花束贈呈)
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秋保電鉄 |
秋保石材電気軌道/秋保電気軌道(通称、秋保電鉄)/仙南鉄道秋保線/秋保線廃止 |
1922年(T11)/1925年(T14)/1959年(S34)~1961年(S36) |
* 1922年(T11)10月29日、秋保石材軌道株式会社が株式会社となる
* さらに、T14年1月12日に秋保電気軌道株式会社と改称
* 1925年(T14)6月13日、電気鉄道に切り替え(全線の電化と軌道拡幅が完成し電車に)
<バスも運行>
* S24年4月に長町~鈎取、S26年4月に長町~秋保温泉、同8月に仙台駅前~秋保温泉など、S33年までに順次6路線運行開始(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P601)
<仙南自動車>
* 1950年(S25)、仙台市交通部から岩沼以南の路線を譲り受けて、仙南自動車が営業開始 / 以後、仙台と荒浜・白石・角田・相馬・青根などを結ぶ路線開設
<仙南交通秋保線となる>
* 1959年(S34)7月3日、秋保電気軌道が仙南交通自動車と合併し、仙南交通となる(鉄道は仙南鉄道秋保線と改称)
* 1961年(S36)5月7日、秋保線廃止、長町駅から「さよなら列車」運行
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「仙台市史 年表」P101、P102、P103、P121、P122/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P600~601に、旧秋保電鉄、旧仙南交通自動車、仙南交通について記述あり/「重訂 宮城県郷土史年表」P591/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P527(S14年、沿線の様子を伝える秋保電気軌道リーフレット)
/さよなら電車(S36年5月)は、22-09、「市民の戦後史(仙台市)」P124)/「新・目で見る仙台の歴史」P187
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