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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・仙台の動き |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対闘争」より転記>
* 1959年(S34)3月、安保改定阻止国民会議結成
* 1959年(S34)4月、第1次全国統一行動 / 翌年10月まで23回にわたる統一行動
宮城県、仙台市での日米安全保障条約改定反対闘争
・ 宮城県安保廃棄、改定阻止県民会議結成
* 1959年(S34)11月27日の第8次全国統一行動では、宮城県庁前広場大集会とデモ行進
* 1960年(S35)4月23日、東北大学川内と東分校両自治会が、安保問題討論集会(800人規模)、400人の学生が仙台市内で反対署名運動
* 1960年(S35)5月16日、仙台で、衆議院安保問題特別委員会の公聴会 / 県庁前で安保阻止県民会議(労組員、学生ら4000人集会)、安保条約批准反対の請願署名
* 1960年(S35)5月19日、20日未明、衆議院で強行採決
・ 翌20日から強い反対運動展開、宮城県民会議では、国会解散と岸内閣打倒を重点に、総決起大会(6000人)とデモ行進 / 各労働組合が職場集会、東北大学生総決起集会(1500人)とジグザクデモ
* 1960年(S35)6月4日、第17次統一行動 / 「安保条約阻止、岸内閣打倒、国会即時解散県民会議」総決起集会(政党・労組・仙台商工業者連合会・婦人団体・文化団体など1万5000人参加)/仙台市役所前で、安保婦人抗議集会(安保反対婦人協議会)/東北大学では、学生デモと有志教官団(250名)デモが大学本部から県庁前広場まで行進
* 1960年(S35)6月11日、第18次統一行動では、地区ごとの労組や婦人団体による抗議集会後に、県庁前広場に89団体、6500人
* 1960年(S35)6月17日、樺美智子さん県民追悼集会と追悼行進 / 6月18日、「安保批准阻止、岸内閣打倒、国会解散要求県民集会」、東北大学教養部ではストが続き、片平丁本部の学生も授業放棄して集会とデモ、一部学生が自民党県連事務所前に座り込み / 宮城学院女子大・短大有志が県民集会に参加
* 1960年(S35)6月19日、国会で自然承認され、23日に批准書交換 / 7月15日、岸内閣退陣
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P540~541
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P537(S35年、60年安保闘争で広瀬通りをゆくデモ隊、宮城県庁前での統一スト)/同541(安保反対を訴えるマッチラベル)
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ブラザー軒 |
5)戦後、森徳横丁で再建 |
1947年(S22)頃 |
・ 戦後、店主と従業員は、進駐軍霞の目キャンプの食事担当として働く
・ 戦後の店は、S22年頃に完成したが、当時は材料の食品が統制のため営業できず、部屋を貸す(貸席)のみだった その後は、進駐軍相手のバーのようなものをやった
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前田津惠子さん(ブラザー軒経営)談
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霞の目キャンプ時代は、62-05、62-06、62-07、62-08 /戦後営業再開後は62-10、62-12
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ビル建設 |
4階以上のビル |
終戦前/1958年(S33) |
* 昭和20年の終戦前、4階以上は、東北電力、市立病院、三越、富国ビル、簡易保険局、明治生命など
* 1957年(S32)頃
・4階 仙台電話局、興銀ビルなど
・5階 徳陽相互銀行
・6階 仙台ビル、山口ビル、郵政ビル
・8階 丸光デパート、日乃出会館(工事中)
S32年頃に建設計画中(東宝ビル、七十七銀行)
(以上、出典調査中)
* 1958年(S33)1月、仙台市内で4階建以上のビルは17(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
4棟の焼失年 |
1890年(M23)~1945年(S20) |
藩政時代以来芭蕉の辻の四隅を占めていた城櫓風の建物(白壁の櫓屋敷)は、明治年間に3棟が焼失、昭和20年の仙台空襲で残りの1棟も失われた
<芭蕉の辻の建物の焼失>
「重訂 宮城県郷土史年表」より
* 1890年(M23)1月14日、南東角(近江屋馬渕善吉商店)焼失
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1902年(M35)2月3日、南西角(田中時計店)焼失
「仙台市史10 年表」より
* 1890年(M23)1月14日、芭蕉の辻、東南部焼失
* 1890年(M23)5月25日、芭蕉の辻、東北部16棟焼失
* 1902年(M35)2月3日、芭蕉の辻、南西部焼失
<北西角焼失>
* 1945年(S20)7月10日、北西角(安田生命)は仙台空襲で焼失
<参考> 「仙台あのころこのころ八十八年」P21~23の「芭蕉の辻は悲し」(三原良吉)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P285、P324/「仙台市史10 年表」P200、P201、/「仙台あのころこのころ八十八年」P238
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98-022
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芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) |
4棟の向き |
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<特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている
<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い
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98-022
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市民利用施設 |
4区分 |
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(1)~(3)は、市が計画的に設置し、(4)は設置の補助など
管理運営は、財団法人仙台市建築公社に委託されているが、その地域の各種団体代表による運営協議会が結成され、運営に対する住民参加の道が用意されている
(1)全市的および行政区域的(全市を5区に区分)
・ 市民会館、市体育館、婦人文化センターなど
(2)1~2の中学校区の地域対象の地域施設(中規模施設)
・ 地区市民センター ・ 公民館など
(3)単位は、小学校区程度の地域
・ コミュニティーセンター
(4)単位町内会程度の地域
・ 町内会集会所など
<参照> 仙台市の公共施設一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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ブラザー軒 |
4)森徳横丁(憲兵横丁)へ移転 |
新築・移転は、1935年(S10)より前 |
「地図」によると、ブラザー軒はS10年には現在地あたり(森徳横丁)にあり、以後、S20年、32年、45年、58年の各地図も同じ / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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(建物外観は不詳)
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東北振興/農村更生 |
4 |
1937年(S12)~1940年(S15) |
<日中戦争開始 1937年(S12)7月7日>
戦時体制への移行とともに、東北振興計画自体が、「広義国防」の理念のもとに戦時経済の中に編成替えされてしまい、また財政支出も大きく削減されて、内閣東北局と東北振興株式会社と東北振興電力株式会社の2つの国策会社が残ったにすぎなかった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357)
* 1937年(S12)9月、NHK仙台、「東北振興講座」放送(17回シリーズ)
* 1937年(S12)12月、第二次農山漁村経済更生事業を実施(経済の安定と主食の増産を図る)
* 1938年(S13)3月31日、東北振興調査会官制廃止
* 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462) →<編者注>予定したがS14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10)
* 1939年(S14)6月1日、東北6県知事会議、東北振興問題につき協議
* 1939年(S14)6月6日、東北振興促進連合創立
* 1940年(S15)1月17日、仙台市会、東北振興促進役員会、工事誘致、区画整理組合の結成、釜房ダム建設を協議
* 1940年(S15)6月、東北振興連絡協議会組織す(6県総務部長、在仙官庁首脳部会議で)
~ 以後、各種年表に関連記事見当たらず ~
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P357/「宮城県百科事典」P754/「仙台市史 年表」P109/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P468/「仙台市史10 年表」P292、P296/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P10
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20-33(昭和12年仙台七夕飾り物で三越の「東北振興」)/ 83-04(昭和12年仙台七夕の飾り物で東北貯蓄銀行の「東北振興丸」)
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丸光 |
3階建完成 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)
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16-27、98-048、53-82
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宮城県庁舎 |
3代目庁舎(18階建) |
1989年(H1) |
* 1986年(S61)7月、着工
* 1989年(H1)5月、18階建の新庁舎竣工(正式名は宮城県行政庁舎)
* 1989年(H1)6月3日、庁舎開庁式
* 1989年(H1)6月26日、新庁舎で業務開始
* 1989年(H1)7月10日、県庁と各地方事務所に「みやぎ目安箱」設置
* 1989年(H1)9月19日、県庁で、第1回県民ロビーコンサート開催
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Wikipedia「宮城県庁舎」/「続・ 宮城県郷土史年表」P260、P261、P262
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ブラザー軒 |
3)焼失 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)11月6日、ブラザー軒から出火し、40分で焼失、周辺15棟を全半焼した
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「東一番丁物語」P112
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東北振興/農村更生 |
3 |
1935年(S10)~1936年(S11) |
* 1934年(S9)10月19日、閣議が東北振興調査会(政府の諮問機関)設置を決定、12月26日公布(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357、P519)
* 1935年(S10)1月10日、東北振興調査会総会(東京)
* 1935年(S10)1月11日、日本学術協会、東北振興考査会(学士会館)
* 1935年(S10)2月14日、東京で東北振興連盟創立
* 1935年(S10)2月15日、東北の凶作地で食糧難が深刻化
* 1935年(S10)5月、内閣に東北振興局(のち、内閣東北局と改称)
* 1935年(S10)7月17日、河北新報社創立40周年事業、「東北振興歌」「東北新民謡」募集
* 1935年(S10)8月、愛国婦人会など、凶作地の子女身売り防止運動はじめる/助けた女子、宮城県152人(支払額11000円)など、新潟含む東北7県の実数掲載(菅家年表P16)
* 1935年(S10)9月、東北振興調査会、特殊会社の必要性を政府に答申
* 1935年(S10)9月17日、仙台市郷倉条例公布
* 1935年(S10)、東北地方は2年連続の冷害(菅家年表P16)
* 1935年(S10)12月1日、東北振興号(河北年鑑)刊行(11年度版も発行)
* 1935年(S10)12月5日、仙台市、恩賜郷倉(おんしごうぐら)を7カ所に設置 / 郷倉は救荒備蓄のための共同倉庫
/ 「恩賜の郷倉」は、更生運動指定町村に、天皇の内帑金(ないどきん)の支出をもって建設された
* 1936年(S11)5月27日、東北興行株式会社法公布、同年10月7日、東北興行株式会社設立(勾当台通り)
* 1936年(S11)10月7日、「東北興業株式会社」が仙台に創設され、産業起こしがスタート
<東北振興第一期総合計画>
・ 1937年以降5年継続の計画策定(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P357、P517~519/「宮城県百科事典」P754/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P16/「仙台市史 年表」P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P447~449、P452、P454~455/「仙台市史10 年表」P285~287
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P519(泉区実沢に残る「恩賜の郷倉」、カラー)
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仙台偕行社 |
2代目?、空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 2代目?に建替え(年不詳)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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進駐軍(米軍) |
24師団 |
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* 1952年(S27)2月17日、GHQ、朝鮮戦線帰還の米軍24師団、仙台地区に駐留と発表
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「仙台市史10 年表」P327
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ブラザー軒 |
2) 移転・新築開店 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)10月1日、東一番丁64(東一番丁・玉沢横丁角よりやや南)に移転し、3階建て新築開店」(洋風木造3階建)
/「M44年仙台市全図」では、東一番丁・玉沢横丁角よりやや南にある
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「明治の洋風建築」P120 /「仙台市史 年表」P95/「明治44年仙台市全図」
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62-02
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東北振興/農村更生 |
2 |
1931年(S6)~1934年(S9) |
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4,昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
・欠食児童が増加、青森県上北郡で1300名中700名が欠食
・青森県上北・下北・三戸地方収穫皆無、人身売買が横行
・山形県のある村では、15~24歳の娘467人中110人が売られた
* 1932年(S7)、不況さらに深刻になり、官吏や教員の給料の遅配や減給も生じ、県下には税が納入されず廃村を決議した村もあると新聞などで報じられた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
・ 仙台周辺の農村では、地主の所有する小作地が多くなる(原町で54.1%、岩切46.3%、七郷42.3%など) / 市内の商業資本家たちがこれらの村々の水田を買い、不在地主になっていた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1932年(S7)7月、欠食児童が激増/北海道10899人、青森県6107人、秋田県996人、岩手県3539人、全国で20万人
* 1932年(S7)7月4日、宮城県農村自力更生運動連盟結成(宮城県販売購買組合連合会、産業組合中央会宮城支会など14団体参加)
* 1932年(S7)、小作争議が各地で激化
* 1932年(S7)、農山漁村経済更生事業開始(昭和7年以降、毎年20ケ町村づつを指定して、経済更生特別指導町村となし、農山漁村の経済更生事業を実施す)
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す(8年3月27日、霞目の仙台飛行場竣工、落成式)
* 1933年(S8)、農家は豊作となったが、豊作貧乏に泣く
* 1934年(S9)秋、台風・冷害のため大凶作となる(「仙台市史 年表」P107)
* 1934年(S9)の凶作、米減収率、岩手県56.4%、青森県46.4%、山形県45.9%、宮城県38.3%、福島県33.4%、秋田県25.6%(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
* 1934年(S9)、東北地方大凶作、娘の身売り増加(岩波P11)
* 1934年(S9)10月26日、仙台市、凶作による仙台市内窮民救済のため、市吏員、職員および市立学校職員臨時恤救金拠出規約を制定
* 1934年(S9)、婦女子の出稼ぎ(昭和9年、警視庁管下の調査)、宮城県では1万962人(芸妓228人、娼妓520人、酌婦1264人、女給643人、女中・子守3860人、女工3346人、その他1101人)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P360)
* 1934年(S9)11月、東北地方大凶作で、女子出稼ぎ者は芸妓らを含め5万8173人(芸者2196、酌婦5961、娼妓4521、女給3271、女中15534、子守19244、女工1726、その他5720) / 秋田県横手駅、午後3時41分発の列車は「身売り列車」と呼ばれ、毎日女の子が銘仙に白足袋をはきマダラ化粧で発つ
* 1934年(S9)11月、NHK仙台中央放送局が、「農山漁村経済更生実績講座」(冷害対策として、14回シリーズ放送)
* 1934年(S9)12月26日、東北地方窮乏対策のため、政府が「東北振興調査会」を設置(S13年3月31日に廃止)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356、P360、P361、P517~518/「宮城県百科事典」P754/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P12、P13、P14、P15/岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/「仙台市史 年表」P106、P107/「仙台放送局60年のあゆみ」P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P433
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P517(「宮城県に於ける経済更生運動の概要」表紙、パンフレット「自力更生」)/同P518(S9年、「東北地方の飢饉救援に関する全国農民組合総本部通達」)
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ビル建設 |
1・4・1ビル |
1987年(S62) |
* 1985年(S60)4月17日、一番町4丁目市街地再開発ビル起工式
* 1987年(S62)3月21日、一番町4丁目に「1・4・1ビル」オープン(東北地方初の総合ファッションビル)
* 1987年(S62)4月1日、ビル内に、仙台市消費センター開設 / 同日に、「エルパーク仙台」(県婦人文化センター)開館
* 1987年(S62)7月25日、141ビル屋上に「仙台城の艮櫓(うしとらやぐら)の十分の一模型」を復元展示
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「続・ 宮城県郷土史年表」P190、P220、P221、P227/「番丁詳伝」P225
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ブラザー軒 |
1) 開業(新国町) |
1901年(M34)または1902年(M35) |
1-1「M35年11月3日の河北新報に開業広告掲載 →仙台市新国町とある」
1-2「M35年、新国町に開店。新国町は、M35年6月8日開通」
1-3「M35年11月3日新国町に開業」
1-4「M34年5月11日、新国町南側中央に開業(前田常吉経営)、新国町はM34年6月8日に新たに開通した街路」
1-5「M34年11月3日、東一番丁に移転開業、洋風な3階建て
1階は食堂と4つの部屋、
2階は大広間と貴賓室
3階は大広間、ビリヤード場
・ 一品料理(10銭均一)
・ ハイカラ好みの人気の的で、師団関係者も多かった
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1-1「仙台老舗百店史P192~193「ブラザー軒」 / 1-2、「明治の洋風建築 宮城県」P120 / 1-3、「番丁詳伝」P36 / 1-4、「東一番丁物語」P112、P120、P125 / 1-5、「仙台市史 特別編4 市民生活」P84
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東北振興/農村更生 |
1 |
1926年(T15)~1930年(S5) |
・ 東北は、1931年(S6)、1934年(S9)とつづく大冷害や、農業恐慌(生糸や米価の暴落)、1930年(S5)からの昭和恐慌が重なり、疲弊した苦難の時代が続いた
・ 「東北振興」が重要な政策課題となり、農村経済更生が叫ばれた
・ 「東北興業会社」(S11年秋創設)が中心となって諸事業を手掛けたが、1937年(S12)夏からの日中戦争拡大とともに先細りの傾向を示した
* 1926年(T15)12月18日、生糸相場が暴落
* 1928年(S3)、不景気で農村からの出稼ぎ増える
* 1929年(S4)10月24日、ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる
* 1930年(S5)、世界恐慌が日本に波及(昭和恐慌)、不況状態1932年(S7)頃まで続く
* 1930年(S5)3月3日、生糸大暴落、この日大正5年以来の最安値となる
* 1930年(S5)秋の豊作で農産物価格が下落
* 1930年(S5)、東北では「娘身売りの際は相談してください」と村の掲示板に張り紙が出される/農村には現金がなく、米との交換が始まる
* 1930年(S5)、農業大恐慌、全般的に繭、野菜などが大暴落、農家の負債700~800円に
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「宮城県百科事典」P754/岩波ブックレット「年表 昭和史」P7/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6、P8、P10、P11、/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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三原時計店 |
(旧)大町5丁目へ移転 |
1896年(M29) |
<三原本店HP>
* 1896年(M29)3月28日、(旧)大町5丁目(現在一番町3丁目)に移転、建物もこの年に設置
<「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P218>
「初代三原庄太が米沢から仙台へ進出、M20国分町・肴町角に時計店開業。1896年(M29)に仙台駅寄りの人の流れや商店街の移り変わりを見越して、大町五丁目に移転。 1903年(M36)に土蔵の店舗の上に(国分町時代と同じく)時計塔をおいたが、1927年(S2)に取り壊し、さらにハイカラな時計塔ある店舗を新築したが、1945年(S20)の仙台空襲で焼失した」
<「仙台老舗百店史」P208、P217>
「時計の三原本店はM20年、山形県米沢から、国分町肴町角に進出開業、M29年3月28日に大町五丁目に移転した/ どちらでもそっくりの時計塔を造っている」
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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43-25、22-57
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市民利用施設 |
(4)町内集会所 |
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・ ほぼ町内会単位で、集会所の新築、増改築、修繕費は、町内会ないし連合町内会に一部補助金を交付
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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本土決戦体制 |
(4)学校は、軍や軍需産業が使用 |
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<学校は、軍や軍需産業が使用>
* 1945年(S20)4月、中学校以上の学校は授業停止、学生生徒は軍需工場などに通年動員となり、学校は陸海軍の施設として使用
・ 第二高等学校=第一四二師団司令部(護仙部隊) / 東北学院高等部=被服廠、海軍人事部 / 同学院中学部=出征部隊編成所、鉄道輸送部隊 / 同学院礼拝堂=特設非常電話局 / 尚絅女学校専攻科=陸軍糧秣廠 / 宮城学院家政科教室=仙台連隊区司令部 / 同各院専攻科教室=日本電気学校工場 / 仙台一中=臨時兵舎 / 仙台二中=陸軍造兵廠工場 / 仙台高等工業学校=仙台陸軍燃料部 / 宮城県女子専門学校=軍需品廠
・ 学校以外では、仙台市役所(現青葉区役所)=東北地方海軍部、仙台地方海軍人事部 / 三越百貨店=防衛通信東北施設部、通信機械資材庫 / 斎藤報恩館=東北方面軍需部 / 日本キリスト教会=海軍経理部
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P197
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本土決戦体制 |
(3)海軍/航空部隊 |
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<海軍の特攻作戦>
・ 牡鹿半島中心に、特攻艇「震洋」、小型潜航艇「海竜」人間魚雷「回天」91隻配備を計画 / ただし、敗戦までに配備されたのは11隻
<航空部隊の対応>
宮城県内の陸海軍航空基地は3か所 / 基本方針は、敵が上陸してきたら全機が特攻となって敵輸送船団に突っ込む / このため(戦力温存のため)、米軍機が来襲(空襲)しても日本軍機は迎撃しなかった
(1) 増田飛行場(現・仙台空港) 戦闘機の「隼(はやぶさ)」「鐘馗(しょうき)」「疾風(はやて)」や偵察機、重爆撃機が多数配備されたが、1945年(S20)6月には1機も姿が見られなくなった(最初は、名取郡愛島国民学校の桜並木の下に「隼」「鐘馗」など3~4機に偽装網をかぶせ分散駐機するなど飛行場近くに疎開 / のちに全機が白石町の森林内に疎開(解体して運搬し現地で組み立てる) / その作業のため約1300人の部隊が、近くの複数の国民学校に分宿
(2) 霞目飛行場の軍用機も、白石町の森林に疎開
(3) 海軍松島航空隊は、米軍B29の出撃地点(マリアナ諸島サイパン島)をほかの陸海軍部隊と共同で空襲計画(剣作戦、烈作戦)に参加予定 / このため戦闘機、爆撃機群が温存されていたが、実施前に敗戦 / 米軍艦載機などからの執拗な攻撃うけるが、敗戦時には、一式陸上攻撃機39機、陸上爆撃機「銀河」36機、艦上爆撃機「彗星」6機など百機以上の航空機が残っていた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P195、P197~198
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(3)宮城県商工奨励館 |
1935年(S10)~1941年(S16) |
<名称変更年>
* 1935年(S10)2月8日、宮城県商品陳列所を宮城県商工奨励館と改称(出典:「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」)
・イ →「昭和10年2月8日、宮城県商工奨励館と改称」
・その他の資料から
1) 宮城県商品陳列所があった位置に、昭和11年地図では「商工奨励館」がある
2)仙台市大観(東北産業協会 昭和10年4月印刷、5月発行)P5の市内官公衛一覧には「宮城県商品陳列所」
3)「仙台の産業と観光」(仙台市役所、昭和11年刊)P87の官公署其他の表に、宮城県商工奨励館(勾当台通)があり、商品陳列所がない
* 1941年(S16)2月、商工奨励館、物産陳列を廃止(「仙台市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)12月10日、旧商工奨励館と日本発送電東北支店などが全焼(「仙台市史10 年表」P308)
<建物は>
・ 宮城県商品陳列所の建物を引継ぐ
「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)(国会図書館蔵)の記述「宮城県産業奨励館は県産品、発明品、参考品を多数陳列し、毎年観覧者12~13万人、東京、大阪に販売斡旋所を設置」 (編者注:商工奨励館の間違いと思われる)
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イ、「宮城県商工奨励館年報昭和10年度」(国会図書館蔵)/「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)」(国会図書館蔵)/昭和11年の「仙台市地図」/「仙台市大観」P5/「仙台の産業と観光」P87/「仙台市史10 年表」P300、P308
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市民利用施設 |
(3)コミュニティーセンター |
1975年(S50)~ |
・ およそ300~500㎡規模、主に集会施設、和室、図書室など
・ 地区住民活動の場で建設段階から市民参加で施設内容を決め、運営管理も住民組織が自主的に行う(住民団体代表など40~80名の市民委員会を設置し、実際の運営は、委員会で選ばれた運営委員会が行う
* 1975年(S50)、上野山コミュニティーセンター(上野山市民の家)、若林コミュニティーセンター(若林会館)開館
・1996年(H8)7月現在、市内のコミュニティーセンターは48か所
<参照> 「コミュニティーセンター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「コミュニティーセンター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470(上野山コミュニティーセンターの上野山市民まつり)
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本土決戦体制 |
(2)陸軍(七十二師団、百四十二師団 ほか) |
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<陸軍>
・ 全国を5ブロックに編成(東北、関東甲信越、中部北陸、中国四国、九州) / 東北担当は、第十一方面軍
・ 第十一方面軍
司令部は、仙台市青葉山に地下防空壕、7月までに兵力整備、10月以降は速やかに行動できるよう計画したが、途中で敗戦(8月) / 地下壕の場所は特定できず(2015年に、東北大学付属植物園がけ下(傾斜地)に本格的な地下壕発見、幅1.8mの3本のトンネルや30坪ほどの広い部屋、排水溝もあり)
仙台市川内には、第二師団(仙台師団と改称)の各部隊、防空担当の東北軍管区司令部、など三つの管理、監督機関を設置
・ 第十一方面軍の指揮下に、
☆ 第七二師団(通称:伝部隊 / 福島、宮城両県) 宮城県内では、岩沼・名取・亘理・山元などの学校や公共施設、民家に兵隊が宿泊して作業 / 名取郡では、山間部にトンネルやタコツボ(個人用の小さな塹壕)の陣地構築や道路建設 / 亘理吉田海岸では、杉の丸太を伐採して海岸線に上陸阻止のくいを立てる / 逢隈国民学校では、常磐線の鉄道を守るため高射機関砲の射撃訓練 / 大河原町には野戦病院を設置
☆ 第一四二師団(通称:護仙部隊 / 仙台中心) 司令部は仙台の旧制二高校舎におく / 宮城、福島、山形三県出身者で構成 / 石巻海岸を中心に志津川町から七ヶ浜まで要所要所に壕を掘り機関銃を据え、主要道路には戦車爆破用のタコツボを多くつくる / 訓練内容は、敵戦車に向かって爆弾や地雷を抱いて突っ込む、敵戦車に速射砲発射訓練、小牛田では鉄道空襲に対する防空訓練 / 鹿島台には野戦病院 / 仙台市内の学校、寺には小規模部隊が駐屯し、八木山に壕を掘る、町内の婦人に消防訓練、戦車への体当たり自爆訓練、白兵戦用の短剣術などを教えた
☆ 第一五七師団(八戸)に配置
・ 第十一方面軍の指揮下にはさらにS20年6月に、第二二二師団、第三二二師団、独立混成一一三旅団、独立混成十二連隊を編制
・ 第一四二師団(護仙部隊)入隊者の体験談(武器・装備不足、作業や訓練内容、乏しい食事や寝具)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P195,196)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193~197
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(2)宮城県商品陳列所 |
1921年(T10)~1935年(S10) |
<名称の変更年>
* 1921年(T10)11月11日、宮城県物産陳列場を宮城県商品陳列所に改称
(編者注: 以下のハの改称年は間違い)
・イ →「物産陳列場をT10年11月に商品陳列所と改称、発明部と図案部を設置」
・ロ → 「T10年11月に宮城県商品陳列所と改称」
・ハ → 「T14年11月に商品陳列所に改称」
・ホP100 → 「T10年11月11日、宮城県物産陳列場、宮城県商品陳列所に改称」
<建物の改築年><工業試験場併設年>
* 1923年(T12)か1924年(T13)、商品陳列所の建物を改築
* 1924年(T13)か1925年(T14)、宮城県工業試験場を併設
・イ → 「建物はT11年改築開始し、構内に「県工業試験場」併設しT13年落成」
・ニ → 「T12年建築、宮城県物産陳列所、木造2階建」
(編者注:商品陳列所の間違いと思われる)
・ホP103 → 「T14年8月8日、宮城県商品陳列所に設置された宮城県工業試験場の落成披露式」
<位置図>
「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」
ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P382
ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)
ニ、「古写真に見る仙台の建築」のP42
ホ、「仙台市史 年表」P100、P103
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・「目で見る仙台の歴史」P139に、「県内初の自動車の背景に物産陳列所(明治末期)」
・改築後の建物は、
(1) 写真22-36
(2)「宮城県の百年」P36に、「宮城県図書館」と「改築後の物産陳列場」の写真
(3)「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42
(4)「宮城県商品陳列所年報 昭和3年度」
(5)「市民の戦後史(仙台市)」P20
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市民利用施設 |
(2)地区市民センター |
1972年(S47)~ |
・ およそ1500㎡程度の、集会施設、体育施設(会議室、和室、体育館、遊戯室、娯楽室、図書室など)がある多目的施設
・ 公民館、保健センターと併設の場合もある
* 1972年(S47)、鶴ケ谷市民センター、東部市民センター建設
・ 1996年(H8)7月現在、市内に50館
<参照> 「市民センター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「仙台市市民センター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469(鶴ケ谷市民センターの利用案内)
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(1)宮城県物産陳列場 |
1901年(M34)~1921(T10) |
<開設年>
* 1901年(M34)11月7日、宮城県物産陳列場が開場
・ イ →「物産陳列場は、M34年11月7日開場式、陸軍東北大演習御統監のため明治天皇来仙にあわせた」
・ ロ →「宮城県物産陳列場はM34年建設」
・ ハ →「M34年11月7日設置」
・ ホP91 →「M34年11月7日、宮城県物産陳列場、県庁南隣に新築開場」
<参考>
「近代日本〈陳列所〉研究」
(三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)(国立国会図書館蔵)には、
・ M25年~31年3月に芭蕉の辻商館3階におかれた「物産陳列場」
・ 勾当台の「物産陳列場」「商品陳列所」につき記述
(原典は仙台市史)
・ 各写真と「商品陳列所の平面図」あり
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」/ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P323 /ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)/ホ「仙台市史 年表」P91/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)
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改築前の「物産陳列場」は、99-090/ 「東宮行啓記念宮城県写真帖」1908年にもある
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市民利用施設 |
(1)全市対象公共施設 |
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<参照> 仙台市の全市対象公共施設一覧と最新情報は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち、「スポーツ施設」「公園・野外活動施設」「図書館」「その他の文化施設」「高齢者施設」「障害者施設」
http://www.city.sendai.jp/kurashi/shisetsu/kokyo/index.html
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「仙台市」HPの「公共施設案内」
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本土決戦体制 |
(1)二本柱 |
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1945年(S20)、
・太平洋戦争末期、米軍の日本本土上陸を想定し、国民を本土決戦に総動員するため
(1)本土防衛のため「部隊」を編成~兵士を大量召集し全国に配置~
(2)郷土防衛のため民間人による「国民義勇隊」を組織
( → 項目「国民義勇隊」参照)
(1)本土防衛部隊
* 1945年(S20)4月、本土防衛の総司令部が設置され「本土上陸を図る敵の4分の1は特攻によって海上で、残りは陸上で撃滅する」基本方針決まる / 全国で250万人の兵士、徴用工を召集し、兵役年齢を45歳に引き上げた(「根こそぎ動員」) / ただし、武器、装備などは不足で全員に行き渡らず
(2)国民義勇隊
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業以上(12歳)で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193、198~199
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八木山開発 |
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八木山は、もとは仙台藩士の共有財産だったが、明治初めに国有化され、大正年間に八木久兵衛氏の所有となった
八木山開発は、昭和初期、八木久兵衛氏が私費を投じて、自身が所有する仙台市八木山で行った一連の観光開発
<八木久兵衛(第4代)> 仙台の味噌醤油製造業「紅久」の経営者、「紅久」は藩政時代から、紅・小間物商、明治に入りみそ醸造開始、仙台市会議員、宮城貯蓄銀行、七十七銀行頭取、仙台商業会議所会頭(明治38年6月~大正7年9月)、大正7年6月貴族院議員(多額納税議員)、大正12年11月29日没(「重訂 宮城県郷土史年表」の該当年の記述より抜粋)
<八木久太郎(第5代久兵衛)> 八木山開発(昭和15年11月26日没)は第5代の手による / 私費を献じて仙台市電「芭蕉の辻線」を開通させた。
* 1929年(S4)6月23日、「野球場」を建設(同日、宮城県に寄付)
→項目「八木山球場」参照
* 1930年(S5)4月、「遊園地」と「公園」を開設(S11年5月28日、八木山遊園地を仙台市に寄付)
→項目「八木山遊園地」参照
* 1931年(S6)8月、竜の口渓谷に、「八木山橋」(木製鉄索、吊り橋)架橋、仙台市に寄付
→項目「八木山橋」参照
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」を仙台市に寄付
* 1936年(S11)11月、土居光知、薄田清が発起人となり、島崎藤村の詩碑(草枕)を建立(「番丁詳伝」P34) / 昭和42年、藤村詩碑を青葉城址へ移転
* 1937年(S12)、仙台芸妓置屋組合、芸妓の同意を得て寄付を募り、八木山遊園地に枝垂れ柳276本、沿道、紅葉ケ谷に、吉野桜524本を植栽し仙台市に寄付、動物園付近に桜樹植栽記念碑を建立(「仙台 あのころこのころ八十八年」P70、「番丁詳伝」P34)
* 1964年(S39)12月、八木山地区整理組合が発足し、宅地造成に入った
このほか、八木氏が仙台市に寄贈した土地に、
* 1965年(S40)に市が「八木山動物公園」を開園
→キーワード「八木山動物公園」で検索
<「仙台老舗百店史」P194~195「紅久」の記述>G1496
「天明3年(1783)から芭蕉の辻にあった紅・小間物商「紅久」が、明治16年、味噌醤油の醸造、販売も始め繁盛して得た資金で八木山を入手、八木山橋、野球場を建設し市に寄贈、また寄贈した土地に八木山動物園が建設された」
「番丁詳伝」P34~35にも、「紅久」「八木久兵衛」「八木山開発」について記述あり
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「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり/「仙台市史 年表」P105、P106、P108/「仙台 あのころこのころ八十八年」P70/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史10 年表」P283/「番丁詳伝」P34~35
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藩祖政宗公三百年祭 |
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1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日~26日、仙台藩祖伊達政宗公没後300年にあたり、仙台市を挙げて盛大に「藩祖政宗公三百年祭」が行われた
・ 伊達政宗は、1636年(寛永13)5月24日没
・ これに先立ち、同年5月14日に、宮城県青年団により「政宗卿騎馬像」が青葉山の天守台に建てられ、5月23日に除幕式
<関連行事>
・ 5月、伊達家贓品展覧会(斎藤報恩会館)
・ 5月10日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が、「政宗公300年祭記念放送」(子供の時間、琵琶演奏、座談会「政宗公を語る」)
・ 5月12日、三百年祭記念産業観光博覧会
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「重訂 宮城県郷土史年表」445/「仙台市史10 年表」P285/「仙台城)」P234/「NHK仙台放送局~60年のあゆみ~」P9
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三百年年祭仮装行列は、44-68、44-69、44-70、44-89、44-90、「目で見る仙台の歴史」P159と、「新・目で見る仙台の歴史」P155に「仮装行列」/花電車は、44-84、44-85、44-86、44-87、44-88 /青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83
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紀元2600年 |
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1940年(S15) |
1940年(S15)
* 2月11日、紀元二千六百年奉祝建国祭
* 4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
* 6月19日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公祈誓大会
* 11月5日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公展
* 11月10日、皇紀二千六百年奉祝式典(宮城外苑)祝賀行事5日間(この日、宮城県をはじめ、各市町村、官衙、銀行、会社銀行等において一斉に挙行 / 午前11時25分、全国民が宮城遙拝、駅待合室やホームでは駅長の指揮で、列車の中では車掌の通報と汽笛の合図で全員が起立して遙拝し万歳を三唱した)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史10 年表」P297~299/佐々久「近代みやぎの歩み」P107/「ものがたり東北本線史」P512
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東一番丁(商店街) |
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→ 項目「一番町(旧・東一番丁)」参照
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市民の家 |
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* 1975年(S50)4月14日、仙台市で初の市民の家、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P39
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東一番丁大火(一番丁大火) |
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1933年(S8) |
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「番丁詳伝」P131
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宅地造成ブーム |
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1960年(S35)頃~ |
「昭和35年頃から始まった(仙台の)宅地造成ブームは、この頃(昭和40年代)頂点に達し、仙台市北部や南西部一帯の一帯の丘陵地帯は、緑をはぎ取られ、瞬く間に住宅地に化けていった。これは、仙台の膨張を如実に示すものだが、一方、無計画な宅地造成や粗悪な住宅地、杜の都の破壊、上下水道の問題など大きな都市問題となりつつあり、発展期にある仙台にとって、「住」の解決が最大の課題となっている。」(昭和44年発行の「市民の戦後史(仙台市)」P190)
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「市民の戦後史(仙台市)」P190
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「市民の戦後史(仙台市)」P190~191(八木山地区、旭ヶ丘地区、南光台地区、北部丘陵地帯に広がる住宅団地群、危険な石垣、がけの上の家)
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竹槍訓練 |
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* 1943年(S18)2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)
竹槍は1945年(S20)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
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「昭和・平成家庭史年表」P138/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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16-08
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立町小学校 |
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* 1945年(S20)、仙台空襲で焼失
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「市民の戦後史(仙台市)」P22(戦前の校舎)
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地価狂乱(バブル) |
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1987年(S62)~1991年(H3) |
* 1987年(S62)1月、東京で地上げが始まって地価上昇
* 1987年(S62)4月、東京の地価狂乱、53.9%上昇
* 1987年(S62)9月30日、東京の地価、1年で85.7%上昇
* 1988年(S63)9月14日、大都市の地価、狂乱高騰
<仙台>
* 1988年(S63)4月1日、国土庁発表地価公示で、仙台市は29%上昇
* 1989年(H1)1月27日、仙台国税局が最高路線価格発表、平均17.8%上昇
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
* 1991年(H3)7月1日、都道府県地価(基準地価)は、仙台で、住宅地6.7%、商業地8.5%上昇
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P82、P83、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P242、P258、P272
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樗牛瞑想の松 |
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⇒「瞑想の松」参照
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08-07、53-112
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榴ケ岡公園 |
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1902年(M35)~ |
仙台市街地東部の榴岡にあり、西の桜ケ岡公園(西公園)とともに仙台を代表する公園のひとつで、藩政時代からつづく桜の名所
「仙台市史 本篇2」P373~374 →「榴ケ岡(つつじがおか)は、藩政時代から、仙台の桜の名所。伊達綱村の時代に園内に枝垂れ桜を植栽し、演劇を許し四民遊覧の地とした。」
「目で見る仙台の歴史」P119 →「元禄8年、釈迦堂の建立と同時に馬場・的場を設け、そのまわりに枝垂桜を植え、士民遊楽の地にした。」
・ 名所の釈迦堂が近く、戦前は隣接して陸軍歩兵第4連隊の兵営があった
・ 戦後は旧四連隊跡地が一時米軍キャンプとして接収、返還後は県警察学校用地となったが、のちにここも榴ケ岡公園の一部となった
* 1902年(M35)4月18日、宮城県が設置
* 1924年(T13)12月9日、園内の桜が国の名勝に指定
* 1942年(S17)2月27日、県営から仙台市に移管
* 1949年(S24)12月、野外音楽堂完成
* 1960年(S35)、園内に「歩兵第4連隊之跡」碑を建立
* 1968年(S43)3月14日、枯死により榴ヶ岡(桜)の名勝指定解除
* 1976年(S51)~1987年(S62)、旧歩兵第4連隊跡地(その後、米軍基地、県警察学校用地)を公園に組み込むための整備(広場や緑地、野外音楽堂、集会所を設置)
* 1976年(S51)1月13日、旧歩兵第4連隊兵舎解体始まる
* 1979年(S54)11月3日、仙台市歴史民俗資料館、榴ケ岡公園内の旧歩兵第4連隊跡に残された兵舎を利用して開館
* 1981年(S56)4月22日、噴水彫刻「杜のうた」設置
* 1984年(S59)4月17日、花見の復興記念碑建立
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「仙台市史 本篇2」P373~374/ 「仙台市史 通史編」8(現代1)528頁/「仙台市史 年表」P92、P102、P111/「仙台市史 続編1」P463/「仙台市史10 年表」P303/「重訂 宮城県郷土史年表」P599、P638/「続・ 宮城県郷土史年表」P50、P127、P175/Wikipedia「榴岡公園」/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台あのころこのころ八十八年」P244/「宮城百年」(毎日新聞社刊)年表
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98-078、99-121など、写真分類D-13-03「榴ケ岡公園」の全写真/「戦前期の公園平面図」は」、98-077 /「いつか見た街・人・暮らし」P6(公園の桜、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P119と「新・目で見る仙台の歴史」(H1年刊)P131に、明治20年代の「榴ヶ岡の花見」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(野外音楽堂)/同210(枯れ死した桜古木)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P233(「仙台名所」より榴ヶ岡の図、カラー)
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堤人形 |
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・ 市内堤町で17世紀末から作られたといわれる
・ 明治末には芳賀佐四郎家のみとなる
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「新・目で見る仙台の歴史」P152
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「新・目で見る仙台の歴史」P152(窯場と製作風景)
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イールズ事件 |
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1950年(S25) |
GHQのイールズ博士による「大学制度についての講演会」開催に反対抗議しデモなど行う(「目で見る仙台の歴史」P186)
* 1950年(S25)5月2日、東北大学生、イールズ博士演説反対闘争開始 / GHQ宮城県軍支部が仙台市警察に対し、職務執行妨害の疑いで、学生4人の逮捕を命じる / 6月5日、学生14名処分(3名は退学、停学、譴責あり)/ 7月6日、学生2名追加処分
・ 連合国総司令部CIE教育顧問のイールズ博士は全国各地で「赤色教授は学問の自由に反する。学問と学園の自由のために大学は共産主義思想を持つ教授を追放する権利をもつ」と講演してまわった。東北大学での講演には600名参集、学生と押し問答あり、公演中も妨害あり中断、流会となった。」(「番丁詳伝」P171)
<参照> 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98に、イールズ事件の詳述あり
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P542~543/「番丁詳伝」P171/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98
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・「目で見る仙台の歴史」P186(学内の掲示を見る学生たち)
/・「東北大学本部前で学生たち座り込み」は、「市民の戦後史(仙台市)」P62と「仙台市史 特別編4 市民生活」P535と「新・目で見る仙台の歴史」P179に
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遺児の日 |
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1939年(S14) |
<戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~>
* 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年)
* 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年)
* その後も回を重ねるごとに人数が増えた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23
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停電 |
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昭和20年代 |
* 1951年(S26)9月26日、県内一帯に緊急停電続く
* 1952年(S27)3月17日、北海道を除き電力制限解除(「菅家年表」P46)
<編者注> このほか、戦後(昭和20年代)には、全国的に停電が珍しくなかった / * 1946年(S21)3月6日、電力制限のため4日に1日停電(菅家年表) / * 1947年(S22)1月、全国的に隔日停電を実施
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「仙台年表」P222/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P40、P46
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勤労青少年ホーム |
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* 1964年(S39)12月、新築された東二番丁小学校内に、勤労青少年ホームが発足
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「市民の戦後史(仙台市)」P160
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(茶室やスポーツ室を利用する青年男女)
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殉国勇士の家 |
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日中戦争以降 |
仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
<参照> → 項目「兵事義会/銃後奉公会」
「誉輝く軍国の家」(河北新報) 「河北新報は中国と戦争を始めてから5年目の昭和17年7月、1家族で2人以上の戦死者を出した宮城県内の12家族を「誉輝く軍国の家」として取り上げています。・・・「お国のために散ったこと、親としてこんなうれしいことはありません」・・・・肉親を戦争で失った家族には、涙と絶望が数多くありましたが、人々はそれを平静というオブラートに包んで冷静を装っていました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12/「仙台市史 特別編4 市民生活」P315/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P79
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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定禅寺通り |
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戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった
* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹
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「仙台市史 続編1」P462
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