項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
新産業都市 |
仙台湾地区を指定 |
1964年(S39) |
<全国総合開発計画>
* 1962年(S37)制定、新産業都市と大規模地方開発都市が車の両輪
<新産業都市>
* 1963年(S38)7月12日、仙台湾地区を新産業都市指定に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区(仙台湾臨海部)、全国15地区とともに新産業都市建設区域に指定(昭和50年目標に計画推進)
「仙台市史 続編第1巻」P369~370に計画概要、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775に、建設基本方針(昭和39年3月3日)、建設基本計画(S39年12月25日)につき記述あり
<大規模地方開発都市>
全国総合開発計画の具体的手法としての新産業都市指定と同時期に、経済企画庁により仙台市は「大規模地方開発都市」に指定された(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P776)
<新全国総合開発計画>
* 1969年(S44)5月、閣議決定
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<仙台新港>
* 1969年(S44)11月13日、仙台新港定礎式
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港、開港式
・ 1973年(S48)の「石油ショック」は高度経済成長路線の転換を迫り、戦後初めてのマイナス成長 / 仙台市の第二次産業の成長と停滞は、そのまま日本経済の歩みを反映し、仙台湾工業地帯への企業進出が鈍り、仙台港も工業港より商業港への色合いを強めていく(「仙台市史 特別編4 市民生活」P370)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P612、P654、P678/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P369~370/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775、P776、P790/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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「市民の戦後史(仙台市)」P156(新産業都市仙台地区の建設計画模型、仙台新港予定地の長浜海岸一帯空撮)
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新住居表示制度(仙台) |
実施 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)4月1日、旭ヶ丘地区で実施(仙台市初)
* 1965年(S40)11月1日、宮城野地区で実施
* 1966年(S41)5月1日、向山地区で実施
* 1967年(S42)2月1日、南材木町、南小泉地区で実施
* 1967年(S42)11月1日、八幡地区で実施
* 1968年(S43)2月1日、通町地区で実施
* 1968年(S43)8月1日、長町地区で実施
* 1970年(S45)2月1日、中央地区で実施(北は、柏木、昭和町、梅田町、南は、米ケ袋、土樋、五橋、西は広瀬町と広瀬川、東は宮町と仙台駅付近、に囲まれた市中央部で、上杉、中央、本町、一番町、立町、大町、など、計28町・44丁目)
(中央地区の該当範囲図は、http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/documents/s45chuuou.pdf)
* 1971年(S46)5月1日、東六番丁・原町地区で実施
* 1971年(S46)12月、露無地区の新町名公示後に異議申し立て(仙台市で初)
* 1972年(S47)5月、台原地区で実施
* 1973年(S48)5月1日、長町北地区で実施
* 1973年(S48)5月、土手内1・2・3丁目で実施
* 1974年(S49)5月1日、桜が丘地区で実施
* 1975年(S50)5月1日、若林区小泉地区と、太白区太白地区で実施
* 1976年(S51)7月5日、高松・幸町地区で実施
* 1976年(S51)9月1日、富谷町向陽台団地で実施
* 1977年(S52)2月1日、仙台港北側の港4・5丁目で実施
* 1977年(S52)7月4日、本澤・中山地区で実施
* 1978年(S53)7月3日、北根・荒町地区で実施
* 1979年(S54)7月1日、中田・西多賀地区で実施
* 1985年(S60)7月1日、六丁目地区、長町茂ケ崎地区で実施
* 1988年(S63)7月4日、榴ヶ岡1~5丁目、宮城野1丁目、八幡7丁目の新住居表示実施
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「仙台あのころこのころ八十八年」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P619、P622、P626、P630、P635、P638、P641/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P10、P19、P20、P29、P40、P57、P64、P70、P71、P83、P96、P194、P248
/仙台市HPの「住居表示実施状況 実施地区名一覧《実施年降順》」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/kojun.html
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「市民の戦後史(仙台市)」P167(市内初の旭ヶ丘新住居表示板」
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親切運動 |
開始 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)2月1日、仙台市が開始(島野市長ら5氏が提唱)
市民や団体から「親切実行者」を推薦してもらい、個人には親切バッヂ、団体には親切楯を贈り、その行為をたたえるもの
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「重訂 宮城県郷土史年表」P612/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250~251
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新仙台港 |
開港 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港開港式
* 1977年(S52)4月、仙台港フェリー専用岸壁供用開始
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「仙台市史 年表」P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P978/「続・ 宮城県郷土史年表」P67
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P369の図353(仙台港、カラー)
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身体障害者福祉モデル都市 |
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1973年(S48) |
* 1973年(S48)7月27日、仙台市が国から「身体障害者福祉モデル都市」の第1号に指定される
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「仙台市史 年表」P128
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仁丹マーク |
発表 |
1905年(M38) |
* 1905年(M38年)2月、「仁丹」、日露戦争最中に懐中薬として発売
・ 大礼服でデザインされた「仁丹マーク」は、発売当初の容器や宣伝看板のデザインとして使われている
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森下仁丹のHP
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44-19
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進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
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「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
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90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324】より
<先遣隊>
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)到着 / 横浜からジープ38台に分乗した先遣隊106名が、同日未明に陸路松島に到着し、松島パ-クホテルに分宿 /知事はじめ県首脳部と会見(進駐軍宿舎や物資集積所のための施設・建物の接収を決める)
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240では、「宮城県には9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 翌日から、米軍と宮城県の間で宿舎、施設利用、警備について協議が始った」
・ 進駐軍との事務的交渉窓口「渉外事務処理本部」は、この会談を機に、知事直結の窓口として「知事官房渉外課」を設置
<海上から>
* 9月15日、東北地区進駐軍最高幹部らが塩釜港に上陸し、松島に入る
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月15日、塩釜港に6席の艦船から約3800人の兵士が上陸用舟艇を使ってまるで敵前上陸のように進駐してきました」
<列車で到着>
* 19月16日、2本の特別列車で約1000名、仙台駅到着 / 塩釜港には艦艇で着いた約3800名上陸 / 仙台(原町苦竹の造兵廠)、多賀城(海軍工廠)、松島に分駐 / 将校以上の幹部たち、ジープで国道6号線経由仙台に到着し、そのまま松島に入る
* 9月17日、1200名、特別列車で仙台着
* 9月18日、2580名、特別列車で仙台着
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月16日朝には東北線、常磐線の特別列車で1100人の兵士が仙台駅に到着したのを皮切りに26日迄に、列車と船舶、ジープ、トラックで合計1万95人が宮城県内に展開しました」
・ 9月26日までに、計約1万名が宮城県に進駐
・ 仙台、多賀城、松島のほか、塩釜石巻、古川、船岡などに駐屯(兵士数は造兵廠と海軍工廠に駐屯が圧倒的に多い)
・ 仙台では、霞ノ目飛行場や榴ケ岡の東部122部隊地にも小部隊が入った
<簡易保険局庁舎接収し、中枢機能を置く>
・ 第14軍団司令部(その後の第9軍団司令部も)、第11空挺師団司令部、宮城県を管轄する軍政団司令部、MP(憲兵隊)本部など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324、P327 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~240
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
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進駐軍(米軍) |
宮城県知事事務引継書(昭和20年)より |
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【「宮城県知事事務引継書」(昭和20年 生悦住求馬知事→千葉三郎知事)】より
<進駐した米軍部隊>
・ 第8軍第14師団、同砲兵隊、第11空挺師団第187連隊、東部122部隊、第6工作隊
・ 司令官は空挺師団長のスウィング少将
<進駐先>
仙台市、塩釜市、石巻市、松島町、古川町、大河原町、多賀城村
<警備体制>
・ 宮城県警察部655人、応援として岩手県から50人、秋田県から30人
・ 県内28か所に検問所設置、373人を動員して警戒した
<接収された施設>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)、歩兵第4連隊(仙台市榴岡)、陸軍飛行場(仙台市霞目)、陸軍飛行場(岩沼)、海軍松島飛行隊(矢本)などのすべての軍施設
・ 仙台の尚絅女学院、日銀社宅、塩釜の二つの学校、倉庫15棟、仙台市内の富国生命、安田生命、明治生命の各ビル
・ 仙台地方簡易保険局(仙台市北一番丁)は、東北6県の占領行政を監視する第8軍第14軍団司令部がおかれた
・仙台市内の民間住宅60戸(将校用宿舎に)
<編者注>
・この時点では、のちにキャンプ・センダイとなる、第二師団司令部と各部隊兵営(仙台市川内)用地が接収対象に記載されていないようだ
【「戦争のころ 仙台、宮城」P244】に、仙台市川内のキャンプ・センダイ用地(第二師団司令部と各部隊兵営跡)の接収関連の記述あり → 項目「進駐軍(米軍)の小項目「宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地)」参照
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占領軍に建物を円滑に引き渡すために、仙台市内の中学生、旧制高等学校生、大学生が大勢集められ、「机、いすなどの備品は今日中に市内の郵便局に移すよう」命令された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242)
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240~242
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進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
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進駐軍(米軍) |
第14軍団司令部 →第9軍団司令部 |
1945年(S20)9月/1946年(S21)4月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」】
・ 占領初期、東日本の占領は米軍第8軍が担当 / 新潟を含む東北地区は、第8軍指揮下の第14軍団が進駐し、司令部は仙台 / 宮城県に進駐は、第8軍団に属する第11空挺師団
* 1945年(S20)9月、仙台に第14軍団司令部が置かれたが、S20年暮に14軍団は廃止された(札幌に司令部を置く第9軍団に統合)
* 1946年(S21)4月、第9軍団司令部が札幌から仙台に移された(これ以降、第9軍団軍政部が関東以北の占領に責任をもつ)
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」 に、宮城県に進駐した米軍の軍団名、連隊名、その変遷の一部が記述されている
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【(「戦争のころ 仙台、宮城」P244】
「仙台に米軍が進駐してから3か月もたたない昭和20年12月、東北地方の占領行政を監視する第8軍は突如、北海道に移転、第9軍団と統合 / その3か月後には再び仙台に戻った(第9軍団司令部が仙台へ移転)しかも担当地域は従来の北海道、東北に加えて、東京、横浜を除く関東、甲信越を含む地域に拡大 / 米英とソ連の冷戦は激化しており、ソ連領に近い北海道に司令部を置くことを敬遠したのでしょう」「仙台の拠点性が高まり、米軍の大規模駐屯地の建設が急がれ米軍の要求で、仙台の旧陸軍用地を提供、キャンプ・センダイとなる」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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進駐軍(米軍) |
地元行政当局への要請・指示/進駐軍要員 |
1945年(S20)9月~ |
・ 占領軍は、占領に必要なことすべてを、自らの行動・命令でなく、日本の行政当局への要請・指示を通じて行うことが原則
・ 進駐軍宿舎その他の施設の接収、設営、保守、警備、荷役、運搬作業も、当該都道府県や市町村の責任で行われた
・ 要求は期限付きで出され、反抗やサボタージュは処罰の対象となった
・ 進駐軍宿舎・施設の警備には、県内の警察官の半分以上を投入、さらに9月末に急きょ警察官を大募集し300人増員、岩手県から50人、秋田県から30名ほど臨時の応援を得た
・ 警察は進駐軍雑役業務作業員調達の責任があり、進駐から1か月余りで約4500人を集めた(仙台その他の兵舎、宿舎、倉庫での労務)
・ 進駐軍要員と言われた雑役作業員は、進駐軍駐屯地の労務管理事務所を通じて、部屋の清掃、倉庫の片づけ、建築資材の運搬などさまざまな作業にかり出されたが、中には復員軍人や徴用解除者が多かった
<進駐軍施設で働いた日本人たち>(「戦争のころ 仙台、宮城」P245~246)
・ 宮城県内では1万数千人といわれる / 身分は国家公務員特別職で、給料は終戦処理費から払われた
・ 宮城県では渉外事務局が、駐留地の施設、労務問題を担当 / 賃金、採用など労務問題を扱うのが「渉外労務事務所」で、仙台(川内、榴岡、原町苦竹、霞目、作並)、矢本、船岡、多賀城に事務所があった
・ 職種は120種あり、通訳、翻訳、書記などの事務職、運転手、ボイラーマン、大工、塗装工、理髪師などの技術職、ハウスメイド、コックなどの家庭住宅要員、消防、警備など
・ 最初の頃は、人が集まらかった / その後、給料は一般の5割増し、職種によっては労務加配米を支給が分かって応募者が増えた
・ 「検閲官」とよばれる日本人もいて、マスメディアだけでなく郵便物も調べた / 進駐してから3年間は徹底した事前検閲制をとり、新聞、ラジオは印刷、放送前に検閲を受けた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P325/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245~246
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進駐軍(米軍) |
予備軍団(第16軍団) |
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* 1951年(S26)4月13日、GHQ、仙台に予備軍団設置を発表(総司令官アーレン少将)
* 1951年(S26)5月12日、仙台所在の総司令部予備軍団を、第16軍団と改称
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「仙台市史10 年表」P325/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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「市民の戦後史(仙台市)」P74(16軍団長と岡崎市長)
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進駐軍(米軍) |
24師団 |
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* 1952年(S27)2月17日、GHQ、朝鮮戦線帰還の米軍24師団、仙台地区に駐留と発表
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「仙台市史10 年表」P327
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進駐軍(米軍) |
憲兵隊(MP)/CID |
1945年(S20)~ |
<憲兵隊>
・ 憲兵隊本部:占領当初は、進駐軍司令部と同じ北一番丁の簡易保険局庁舎内に置かれ、仙台北警察署や塩釜署など駐屯地を管轄する警察に出先があり、地元警察官とともに米兵販犯罪防止、取締りにあたる / 仙台北警察署には、4人のMPが常駐
・ 米軍憲兵(MP)は、米兵の犯罪摘発が任務だが、次第に政治活動や労働運動の急進化を監視する公安警察としての役割が目立ってくる
<CID>
* 1946年(S21)4月、米犯罪捜査部(CID)設置され、次第に捜査権限を拡大
* 1947年(S22)、仙台のCID本部が、憲兵隊(MP)から独立し、東邦ビル(南町)に移転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P327
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44-65、44-36、44-61、44-41、44-31、44-58
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進駐軍(米軍) |
米軍鉄道輸送司令部(RTO仙台) |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
→ 項目「RTO(仙台)」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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進駐軍放送局(仙台) |
開局~閉局 |
1945年(S20)~1953年(S28) |
* S20年9月23日、進駐軍放送局AFRS仙台(WLKE、1450kc/s 3KW)が開局(NHK仙台局に同居)
* キャンプ・センダイ(仙台城二の丸の旧第二師団跡地)に移転
* 1953年(S28年)10月3日閉局
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19 →「昭和20年9月23日、進駐軍のために施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始」
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「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19
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25-01
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新寺小路地区都市改造事業(区画整理) |
計画公示~完了 |
1960年(S35)
~2000年(H12) |
<「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」(昭和44年9月発行)P388より>
「新寺小路地区第一工区土地区画整理事業=寺院と墓地によって相当部分が占められており、仙台駅に隣接してしているにもかかわらず市街地としての環境整備が遅れているので、市中心部と東部地区を連絡する都市計画街路を築造し、駅前広場(東口)を拡張して交通の円滑化を図るとともに、区画街路、公園などを設置、墓地を整理して総合的に近代市街地化する。このため墓地は別途事業で造成中の葛岡墓園に移転改葬し跡地は宅地として利用する計画。事業認可面積は約60.3haで、昭和35年から5か年計画で着工したが、墓地の所有権をめぐる訴訟事件などのため事業は進まなかったが、同地区の10カ寺との話し合いがつき、昭和44年一部墓地の移転が開始されたので、清水小路多賀城線の拡張工事は軌道に乗り始めた。」
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127>
「新寺小路の区画整理は、区域内約1100戸を交換分合するほか、約30カ寺の墓地を整理、3万基近い墓を葛岡墓地公園に移転。そして道幅を7.5mから25mに広げ、都心部と仙台バイパスを結ぶ最短路線にしようというもの。」
* 1960年(S35)6月、新寺小路地区都市改造事業計画公示(施行年度は、2000年度(H12)まで / 施行面積60.4ha)
* 1960年(S35)9月、新寺小路地区の33カ寺、墓地所有をめぐり市を相手に訴訟
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始(新寺小路地区の都市改造事業=区画整理による移転墓地) / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1965年(S40)1月、新寺小路墓地問題で11カ寺と市が和解
* 1969年(S44)3月、移転第1号として応瑞寺の墓碑50基を移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P388/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127、P744/「同書」末尾年表P871、P888/「仙台市史 年表」P123/「市民の戦後史(仙台市)」P110、P113
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「市民の戦後史(仙台市)」P211(葛岡墓地公園)
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新伝馬町商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)>
「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
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仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街)
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新常盤町(遊郭) |
(1)新常磐町以前 |
明治初期~1894年(M27) |
<遊廓> 「くるわ」(廓または郭と書く)は城郭のように周囲を石や土で覆い、塀などをめぐらせた一画で、ここに遊女や関係の業者だけを集中的に存在させ、官許の遊女町とすることがあった / 遊女屋は郭外での営業を禁止
<公娼と私娼> 「公娼」は、遊郭で働く法律で許可された売春婦で、鑑札(営業許可証)定期検診が義務付けられた / 多くの場合、貧民の子女が、貧しさの為に、親に手渡されるまとまった前渡し金によって、年季を定められ売春生活を余儀なくされた / 「私娼」は、許可されていない売春婦
・ 藩政時代は、仙台城下における遊女屋営業は禁止
・ 明治維新期、薩長軍相手の遊女屋(妓楼)が虎屋横丁に開業
* 1869年(M2)、国分町を中心に、遊女屋28軒が官許を得て開業開始/ 中正楼(ちゅうせい)楼、新盛楼(しんせい)、舞鶴楼(まいづる)、南幸楼(なんこう)など
* 1878年(M11)9月15日、国分町遊郭の妓楼(貸座敷)15軒が、片平丁河岸(常盤町、のちの元常盤町)に移転完了
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
(新常盤丁の名称は1894年(M27)7月15日に市会の決議による / 戦後は旅籠町と改名した) / 常盤町の川向かいに川内の第二師団兵舎があり、若い兵士の士気に影響ありと軍の圧力があり、県は移転期限をきめ移転を強要
<新常磐町(遊郭)の沿革>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123、「仙台市史 特別編4 市民生活」P389に、記述あり
<編者注> 常盤町、新常盤町の表記は、文献により「町」と「丁」の二通りあり
<廃娼運動> 明治期~昭和戦前期の宮城県内の廃娼運動については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P392~393に記述あり
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123/「仙台市史 年表」P82、P88、P89/「重訂 宮城県郷土史年表」P330/「仙台市史 特別編4 市民生活」P393、P392~393
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99-033、98-079/「目で見る仙台の歴史」P118に、国分町の貸座敷「南幸楼錦絵」(のち明治4年に中正楼)と「常盤町の妓楼街」
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新常盤町(遊郭) |
(2)移転開業 |
1894年(M27) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
1892年(M25)、192人・21軒
1900年(M33)、325人・32軒
1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)
<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%
* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391
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目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿)
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新聞社(明治) |
創刊年 |
明治年間 |
*「宮城新聞」 創刊 1973年(M6)4月3日、仙台初の新聞
*「東北新聞」 創刊 1973年(M6)5月8日
→M10年1月「仙台新聞」と改称(仙台初の隔日刊紙となる)
→M11年1月に「仙台日日新聞」(仙台初の日刊紙)
→M13年に「陸羽日日新聞」(M13年に3度の発行停止処分)
→M16年に「奥羽日日新聞」
→M37年に「奥羽新聞」と改称
* 自由党系の「自由新報」「東北自由新報」
1882年(M15)、言論機関への統制・弾圧が強まり、発行停止処分
*「東北新聞」(松田常吉ら) 創刊 1892年(M25)1月
*「東北日報」(秋葉忠七ら) 創刊 1892年(M25)2月15日
*「河北新報」創刊 1897年(M30)1月17日、 一力健治郎が「東北日報」を買収し創刊 → 以下、項目「河北新報社」へ
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「仙台市史 年表」P80、P82、P90
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新聞社(戦後) |
創刊年 |
戦後 |
* 1949年(S24)、「人民新聞」を「東北日報」と改題して続刊
* 1960年(S35)5月25日、福島民友新聞社が、「民友新聞・宮城」朝夕刊を発行
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「重訂 宮城県郷土史年表」P535/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P290
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人力車 |
仙台人力車挽子組合 |
1920年(T9)~1925年(T14) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P503>
* 1920年(T9)10月、仙台人力車挽子組合、青年自由革新党幹事の渡辺保蔵の指導で組織
* 1923年(T12)8月、仙台人力車挽子組合、再建総会 / 賃金改善と特に個人営業の自由を阻むすべての制限撤廃が運動方針 / 800余名の挽子全員を組織化
* 1925年(T14)9月、人力車挽子組合大会と値上撤廃期成大演説会(東三番丁の電気館 ☆末尾の注参照) / 人力車借用料値上反対した仙台停車場構内人力車挽子のストライキが口火となる / 800余名全員のストライキも辞さないという態度に、営業者側は無条件で値上案を撤回 / その後、個人営業の権利獲得運動を継続
・ これに自信を得た仙台停車場構内の挽子は、雇入れ・解雇は営業人と挽子合議の上で決定し、車体破損弁償は実費分を挽子と営業人が合議の上で決定することなどの要求で交渉し、全面勝利
<仙台市史 特別編4 市民生活」P193>
・ 1925年(T14)9月3日、仙台人力挽子組合臨時緊急集会(於:国分町の電気館) / 歯代(仙台駅構内の挽子80余名が営業者に収める額)1か月で18円から30円に引上げに反発
☆注: 電気館は、「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236によれば、国分町にあり、前身は大正3年4月開館の世界館で、その後日本館、帝国館、キネマ館と改称し、大正11年5月27日に電気館と改称した / 東三番丁ではない)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P503
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P503(T14年、人力車挽子組合大会・値上げ撤廃期成大演説会)
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人力車 |
台数ほか(仙台) |
明治・大正・昭和 |
* 1872年(M5)、新河原町で人力車営業が開始(伊藤清次郎と清水稔)(「仙台市史 年表」P80、「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
* 1873年(M6)、国分町の竹虎が開業(10台保有)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
<「仙台あのころこのころ八十八年」P16>
* 1878年(M11)、市内に671台(大部分が営業用)
* 1980年(M13)、市内に755台
・ 人力車は当時の花形であり、隣県の業者と連絡して継ぎたてをしてゆくと、仙台から6日間で東京へ行けた
* 日本鉄道(現・東北本線)開業の明治20年頃、559台に減る(「番丁詳伝」P110)
<「番丁詳伝」P63より>
* 1889年(M22)、一人乗り596台、二人乗り8台
* 1897年(M30)、一人乗り1050台、二人乗り5台
* 1905年(M38)、一人乗り977台、二人乗り2台
* 1916年(T5)、一人乗り1055台
* 大正時代末期には、仙台の人力車は900台ほど / 市電開通(大正14年末)やバスの普及で減る(「新・目で見る仙台の歴史」P146)
* 1930年(S5)には327台(「番丁詳伝」P110)
* 1935年(S10)頃、210台({仙台の産業と観光」P27)
* 1941年(S16)10月4日、15年ぶりに人力車復活(「仙台年表」P211)
<「仙台市史 続編1」P88より>
・1943年(S18)、197台
・1944年(S19)、169台
・1945年(S20)、69台
・1946年(S21)、40台
* 戦後しばらくも人力車が活躍
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194/「仙台市史 年表」P80、P211/「新・目で見る仙台の歴史」P146/「仙台年表」P211/「仙台あのころこのころ八十八年」P16/「仙台の産業と観光」(S11、仙台市役所刊)P27/「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)P110/「仙台市史 続編1 行政建設編」P88
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99-004、22-44、19-02、16-21、22-10、44-50、22-12、16-19/「新・目で見る仙台の歴史」P146(人力車のある風景))/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193に人力車
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人力車 |
台数ほか(宮城県内) |
明治・大正・昭和 |
* 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台
* 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台
* 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子
* 1912年(T1)、2074台
(314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人)
* 1918年(T7)、1720台
* 1925年(T14)、1366台
・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり
・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された
・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた
・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194
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16-27(輪タク)
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水害 |
大雨 |
1874年(M7)7月20日 |
大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
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「仙台市史 年表」P81
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水害 |
大雨 |
1883年(M16)5月7日 |
広瀬川が氾濫し、牛越橋が流失 (1905年(M38)11月20日に架設)
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「仙台市史 年表」P85、P93
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水害 |
台風 |
1884年(M17)9月15日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 / この台風被害により、野蒜築港工事が中止される
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「仙台市史 年表」P85
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「新・目で見る仙台の歴史」P124(野蒜築港設計図)
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水害 |
暴風雨 |
1885年(M18)11月24日 |
広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
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「仙台市史 年表」P85
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水害 |
大雨 |
1889年(M22)9月10日~11日 |
広瀬川が氾濫し、澱橋・大橋・広瀬橋が流失 / 仙台で、死者17名、家屋流出40戸、倒壊39戸、浸水1012戸
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「仙台市史 年表」P87
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水害 |
大雨 |
1897年(M30)9月9日 |
仙台市街で洪水となる
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「仙台市史 年表」P90
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水害 |
大雨 |
1908年(M41)9月30日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失
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「仙台市史 年表」P94
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水害 |
豪雨 |
1910年(M43)8月2日~11日 |
* 1910年(M43)8月2日~11日、宮城県内の諸河川で大洪水が起こる / 家屋流失・浸水、田畑冠水、地崩れ、橋損壊など被害多数
仙台市内では広瀬川が氾濫し、床上浸水347戸、床下浸水1109戸
* 1983年(S58)11月6日、荒井保子(鳴子町里沼)は、明治43年の水害死亡者79人の慰霊地蔵尊建立、開眼
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「仙台市史 年表」P95/「仙台あのころこのころ八十八年」P241/「続・ 宮城県郷土史年表」P168
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水害 |
暴風雨 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)8月26日、広瀬川が氾濫し、牛越橋などが流失
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「仙台市史 年表」P96
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水害 |
暴風雨 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)7月22日、広瀬川氾濫
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「仙台市史10 年表」P301
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水害 |
カスリーン台風 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、県内に水害
* 1947年(S22)9月、カスリン台風で、県内はさらに大きな被害をうけ、物資はいっそう不足した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702
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「市民の戦後史(仙台市)」P35(流失した根岸橋)
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水害 |
アイオン台風 |
1948年(S23)9月16日~17日 |
広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送
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「仙台市史 年表」P115
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「市民の戦後史(仙台市)」P38(洪水被害)/「新・目で見る仙台の歴史」P174(水害の太子堂付近)
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水害 |
集中豪雨 |
1950年(S25)8月3日~4日 |
20mの強風下、仙台で200ミリの豪雨 / 広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊10か所、橋梁流失47か所 / 仙台で138戸流失、死者6名、行方不明10名、浸水家屋1万戸以上 / 元虚空蔵の崖が崩れて水がせき止められ、評定河原に水があふれ家屋流失138戸 / 市制施行以来の大水害
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P405/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P544/「目で見る仙台の歴史」P175
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「目で見る仙台の歴史」P175に「新聞掲載写真」
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水害 |
豪雨 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月6日、豪雨で河川氾濫、床下浸水140戸
* 1952年(S27)9月28日夜から29日にかけ、宮城県一帯に50~70ミリ程度の豪雨、各地で洪水
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「仙台市史10 年表」P328
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水害 |
台風豪雨 |
1986年(S61)8月5日 |
台風10号による豪雨災害発生 / 仙台市の降雨402ミリ、仙台市東部で5474棟浸水、仙台市・塩釜市など5市町に災害救助法適用
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195/「続・ 宮城県郷土史年表」P209
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水道事業 |
創設~第2次拡張 |
1913年(T2)~1954年(S29) |
仙台市の水道事業
<創設 水源:大倉川表流水>
* 1913年(T2)4月着工~1923年(T12)3月完工、
・計画給水人口12万人、実際の給水人口約3万人
<第1次拡張事業 青下川貯水池3池>
* 1931年(S6)8月着工~1934年(S9)3月完工
・累積給水人口18万人
<仙台空襲で被災、戦後の水不足>
* 仙台空襲(昭和20年7月)で全給水戸数の44%が被災、戦後は海外からの引き揚げ者帰国と駐留軍(米軍)の需要で、一気に水不足
<第2次拡張事業 名取川伏流水を揚水>
* 1948年(S23)10月着工~1955年(S30)6月完工
・累積給水人口25万人
* 1953年(S28)、大年寺配水池使用開始
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P485~487
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「市民の戦後史(仙台市)」P90(大年寺山配水池)
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水道事業 |
深刻な水不足 |
1955年(S30)~1961年(S36) |
<水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
・累積給水人口30万人
<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸)
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水道事業 |
第3次~第4次拡張 |
1958年(S33)~1976年(S51) |
<第3次拡張事業 大倉ダム放流後の表流水>
* 1958年(S33)4月大倉ダム着工~1965年(S40)3月完工
・累積給水人口40万人
* 1961年(S36)8月3日、大倉ダム通水式/水圧が上がり、パイプ破損が市内で続出で一時的に水不足
* 排水管、給水管などの老朽化で高い漏水率
* 1962年(S37)8月、追加給水可能となり水枯れ現象だけは解消
<国見浄水場>
* 1963年(S38)1月12日、国見浄水場完成、大倉ダム導水のフル操業可能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P493)
* 1965年(S40)5月、国見浄水場落成(「市民の戦後史(仙台市)」P113/「仙台市史 年表」P124/仙台市HP)
<第4次拡張事業 釜房ダム貯留水>
* 1966年(S41)4月着工~1976年(S51)3月完工予定
・累積給水人口62万人
・1970年(S45)、釜房ダム完工予定
・1970年(S45)7月1日、給水開始(20万トン)
<仙台市水道配水管系統図(第5次拡張事業まで)> → 「仙台市史 続編第1巻」P497
<給水人口と給水量の伸び グラフ> → 同上P499
<普及率>
・ 1967年(S42)年度末、給水区域内人口の82.6%
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P487~500/「市民の戦後史(仙台市)」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P662
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「市民の戦後史(仙台市)」P170(国見浄水場空撮)
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瑞鳳殿 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
仙台市経ケ峯にある藩祖伊達政宗公の霊廟 / 経が峯には二代目忠宗公霊廟「感仙殿」、三代目綱宗公霊廟「善応殿」もある / 感仙殿は瑞鳳殿と同等に華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊された
* 1928年(S3)、鐘楼堂落成(350貫の大梵鐘を釣る)
* 1931年(S6)12月14日に瑞鳳殿と感仙殿が、旧仙台城の大手門、隅櫓ともに国宝に指定される
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P414/「仙台年表」P202/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187
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99-084、99-085、99-086、99-087、44-21、53-56、53-57/「目で見る仙台の歴史」P46~49(瑞鳳殿、涅槃門、本殿正面、本殿厨子、梵鐘)/同P57~58(空襲焼失以前の感仙殿、厨子、門)/同P60(戦災焼失以前の善応殿霊屋)
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瑞鳳殿 |
空襲で焼失/仙台市に移管 |
1945年(S20)/1952年(S27) |
* 1945年(S20)7月10日仙台空襲で焼失
・ 焼失後は、政宗の墓として白木の墓標が1基たてられただけだった / 伊達家の財政窮乏でかなり荒れ果てていたが、1951年(S26)に伊達家が京ヶ峯一帯を仙台市に寄付
* 1952年(S27)3月、伊達家所有の瑞鳳殿霊廟一帯の地域の所有権を仙台市に移管
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187/「重訂 宮城県郷土史年表」P554
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瑞鳳殿 |
戦後の再建 |
1974年(S49)~ |
* 1948年(S23)12月、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(重訂 宮城県郷土史年表)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(仙台市史10年表)
* 1966年(S41)8月13日、再建のための基礎調査開始
* 1968年(S43)1月31日、経ヶ峰整備委員会が再建計画案を市に提出
* 1974年(S49)9月11日、再建起工式、再建にともなって墓室発掘調査(9月25日から政宗公の遺体発掘)が実施され、同年10月26日~28日に墓室が一般公開される
* 1975年(S50)5月24日、政宗公の遺体を、瑞鳳殿に再埋葬
* 1975年(S50)7月30日、再建上棟式
* 1977年(S52)7月16日、伊達政宗の殉職者の墓碑復元
* 1988年(S53)3月、再建第1期工事完成
* 1979年(S54)11月30日、竣工
* 1979年(S54)12月4日、瑞鳳殿再建落慶式
* 1980年(S55)、瑞鳳殿資料館開館
* 1981年(S56)10月12日、感仙殿と善応殿発掘調査
* 1983年(S58)8月5日、感仙殿、善応殿を再建、一般公開
* 1985年(S60)5月、感仙殿、善応殿の再建落成式(戦前のとは形が違っている)
* 1986年(S61)5月23日、伊達政宗の座像公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P531、P627、P638/「仙台あのころこのころ八十八年」P258/「仙台市史10 年表」P322/公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 年表」P129、P131、P132、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P32、P41、P43、P70、P104、P134、P164、P205
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