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出典/参考資料 |
関連映像 |
戦時下の学園 |
宮城県仙台第一中学校 |
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★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」
・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第一高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第二中学校(県立) |
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★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」
・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第二高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506
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戦時下の学園 |
宮城県第一高等女学校(県立) |
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★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」
・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第一女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519
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戦時下の学園 |
宮城県第三高等女学校(県立) |
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★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」
・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第三女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522
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戦時下の学園 |
東北学院中学校(私立) |
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★「東北学院中学校」は、昭和23年以降の「東北学院高等学校」
・「昭和6年、満州事変が起きてから軍事思想の涵養、精神訓練がやかましくいわれ、昭和8年に柔道場、13年には剣道場が新設された。」
・「18年には中学の2年生以上が勤労奉仕作業に従事、さらに校舎も軍や鉄道局に接収されたため高等部での間借り授業が続いた。校舎正面の学院の標語「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
・ 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、普通教室、特別教室、柔剣道場など12棟を焼失、からくも焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂を生じた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“東北学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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戦時下の学園 |
東北学院高等学部(私立) |
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★「東北学院高等学部」は、前身が「東北学院専門部」、戦後は昭和21年に「東北学院専門学校」、昭和24年に大学にに昇格して「東北学院大学」となった。
・「昭和16年12月の太平洋戦争突入と同時にキリスト主義学校の受けた苦痛の例は、終戦まで枚挙にいとまがなかった。昭和17年に文科は廃止され高等学部は商科一本となり高等商業部と改称、さらに19年には航空専門学校を設置するなど維持経営に苦しみながら敗戦を迎えた。」
・「昭和21年4月、英文科、経済科を含む東北学院専門学校を開設、米国ミッション・ボードとの提携を回復した。」
▲ 同校の沿革は、項目“東北学院大学”に記載
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校(私立) |
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★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」
・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校専攻科(私立) |
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★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称
・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校」は、昭和23年に「尚絅女学院高等学部」、昭和36年からは「尚絅女学院高等学校」、平成20年から男女共学となり「尚絅学院高等学校」
・「昭和12年の日華事変(日中戦争)から苦難が続いた。15年にキリスト教系学校への県の通達で、御真影(ごしんえい)を奉戴すること、聖書を課外に用いることなどが要請された。」
・「このころ(昭和18年ころ?)からモンペ姿の登校も珍しくなく、軍需工場で働くことを求められ、上級生は遠く千葉の海軍航空庁(編者注:航空廠か?)や茅ケ崎の軍需工場へ行ったものもあった。」
・「20年7月の仙台空襲では陸軍糧秣支廠に占有されていた寄宿舎が全焼したほかは被害がなかったが、同窓生3人が被災死している」
・「戦後の昭和20年米軍の仙台進駐のあおりで全校舎が一時的に接収されるというさわぎもあったが、クリスマスまでに半分が解除された。それにしても物資・食糧不足に悩まされながら、授業は女子師範付属国民学校と八幡国民学校の一部を借りて継続することができた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校専攻部(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校専攻部」は、昭和25年に「短期大学」に移行
・「戦時中は専攻部生徒も勤労奉仕や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用された。」
・「終戦を迎え再び登校できると喜んでいたが、一難去ってまた一難、今度は進駐軍から9月11日突如として72時間以内に校舎を進駐軍に開放せよとの命令が通達された。やむを得ず八幡国民学校と女子師範付属国民学校で授業を続けたが、11月になってやっと返還された。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院短期大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543
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戦時下の学園 |
吉田高等女学校(私立) |
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★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称
・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」
▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529
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戦時中の勤労動員/就労規制(1) |
国民職業能力申告令 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)年1月7日、公布 / 当初は、申告を義務づけられた特定の職種の技術者などが対象
* 1941年(S16)12月、改正(男子16~40歳未満 女子未婚者16~25歳未満が登録対象に)
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「週刊20世紀 1339年」P8~P9
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戦時中の勤労動員/就労規制(2) |
国民徴用令 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布
戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えた / S16年以降は拡大、S18年からは、会社ぐるみ徴用も始まる
→ 詳細は、項目「国民徴用令(1)」参照
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「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25 など
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戦時中の勤労動員/就労規制(3) |
学徒勤労動員/学徒勤労動員令 |
1938年(S13)開始/1944年(S19)強化 |
1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった児童生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科(現在の小学校)以外の学校は授業停止となる
* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒 / この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付け
* 1944年(S19)8月23日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行
→ 詳細は、項目「学徒勤労動員」へ
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269『学都の戦時体制』 など
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戦時中の勤労動員/就労規制(4) |
国民勤労報国協力令 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)11月22日公布、同年12月1日施行
男子14~40歳、独身女子14~25歳に勤労奉仕義務 / 学校・職場ごとに勤労報国隊が編成され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P18
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戦時中の勤労動員/就労規制(5) |
男子就業制限 |
1943年(S18) |
<戦時中の男子就業制限>
* 1943年(S18)9月23日、閣議、国内必勝勤労対策決定 / 販売店員・出改札係・車掌など17職種の男子就業禁止、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20
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戦時中の勤労動員/就労規制(6) |
女子挺身勤労令 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<女子の勤労義務化>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令、公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子挺身隊の期間1年延長を通牒/女子徴用実施
<編者注>「女子徴用は検討されたが施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)という解説もある
→ 項目「女子挺身勤労令」参照
項目「女子挺身隊」参照
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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戦時中の勤労動員/就労規制(7) |
国民勤労動員令 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)3月6日公布、3月10日施行
老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざす
→ 詳細は、項目「国民勤労動員令」参照
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「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P504
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戦時中の疎開者受入れ |
仙台市/宮城県 |
1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人
<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201
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戦時中の物資統制、使用規制 |
概説 |
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・ 経済統制の結果、食糧・衣料などは統制会社ができて割当制となった。宮城水産株式会社も魚市場を東七番丁に移して魚類配給の元締めをした。衣料も統制会社ができた。
・ 終戦間近には青物も不充分で、市民は野に野草を摘み、南瓜や甘藷のつるまで配給された。買出しに田舎へ出ても物と交換でなければ手に入らなかった。
・ この現象は終戦後も続いた。物資不足のため配給で足りぬ人々は農山漁村へ買出しに出かけた。郊外から物資を買い集めてきてさばく人々もあらわれた。また、衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「目で見る仙台の歴史」P170
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「目で見る仙台の歴史」P170(「家庭用食糧通帳」と「衣料切符」)/同169(買出し列車に必死に乗り込む)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P52(S9年、衣料切符、カラー)/同P53(S18年改正衣料点数早見表、カラー)/同P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(1) |
1937年(S12)~1938年(S13) |
☆ 戦時中の主食配給量の変遷は → 項目「主食配給量」参照
<1937年(S12)7月7日、日中戦争開戦>
* 1937年(S12)12月27日、商工省、綿製品にスフ等混入(30%)規則を公布
* 1938年(S13)3月1日、綿糸配給統制規則を公布施行
* 1938年(S13)5月1日、東京の自動車のガソリンは切符制となる
* 1938年(S13)5月9日、商工省に臨時物資調整局設置(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)5月20日、綿糸販売価格取り締まり規則公布
* 1938年(S13)7月1日、靴を除いた革製品の製造を禁止
* 1938年(S13)7月14日、たばこの銀紙を廃止しパラフィン紙で代用とする
* 1938年(S13)7月、東京の青バスで木炭車に改造開始
* 1938年(S13)7月15日、バリカン以外の鉄器の製造を禁止
* 1938年(S13)8月4日、乗用車の新規製造を禁止
* 1938年(S13)8月、入れ歯に陶材を使用
* 1938年(S13)9月1日、商工省、新聞用紙の使用制限開始、12%削減
* 1938年(S13)9月19日、石油配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)10月1日、商店法を改正、夜10時以降の商品販売を禁止(料飲店を除く)
* 1938年(S13)、陶製なべ、竹製スプーン、鮭皮ハンドバッグなど代用品が登場
* 1938年(S13)、スフの衣料が多くなり、純綿が姿を消しはじめる
* 1938年(S13)、ゴム配給統制規則で、「コンドーム」が軍需品に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P18、P20、P21/岩波ブックレット「年表 昭和史」P15
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(2) |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)3月5日、ゴム配給制限でテニスボールがなく、庭球を中止
* 1939年(S14)3月30日、中央物価委員会で、公定価格を決定(砂糖、清酒、ビール、木炭、絹製品など)
* 1939年(S14)4月12日、米穀配給統制法公布
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを廃止、陶製のボタンとなる(菅家年表)
* 1939年(S14)7月26日、米国、日米通商航海条約廃棄を通告(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)8月9日、新規の自家用車は不許可となる
* 1939年(S14)10月1日、石油、配給制となる
* 1939年(S14)10月18日、9.18ストップ令公布(価格等統制令、地代家賃統制令、賃金臨時措置令 / 物価・賃金などを9月18日現在を上限とする)(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)11月、30坪以上の木造住宅の新築を不許可
* 1939年(S14)11月6日、米穀配給統制応急措置令公布、農林省でコメの強制買上を実施
* 1939年(S14)12月1日、米穀搗精制限令(白米禁止令、七分づき以上を禁止)
* 1939年(S14)12月20日、木炭配給統制規則を公布
* 1939年(S14)、この年、ヤミ取引と売買が激増
* 1939年(S14)、この年、木炭バスが走り出す、急速に一般化
* 1939年(S14)、この年、門松も廃止
* 1939年(S14)、9.18ストップ令以降、ヤミ取引横行(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22、P23/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16
仙台の木炭供給事情や統制は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P22に記述あり
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(3) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)2月10日、マッチ製造配給令施行(6月1日から東京市で切符制)
* 1940年(S15)2月13日、米穀配給統制規則を公布、施行
* 1940年(S15)3月28日、アルミ貨の10銭、登場
* 1940年(S15)4月8日、石炭配給統制法公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目を配給、切符制採用
* 1940年(S15)5月3日、東京で外米6割混入を配給開始
* 1940年(S15)6月1日、東京市など六大都市で、砂糖(1人1か月、0.6斤=360g)、マッチ(人数制)、米、みそ、塩、木炭など10品目が切符制になる / 11月1日、全国で実施
* 1940年(S15)7月6日、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造禁止(奢侈品等製造販売制限規則公布) / 一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた
* 1940年(S15)7月8日、マル公など価格表示義務の明確化始まる(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)7月10日、青果物配給統制規則を公布施行
* 1940年(S15)7月20日、菓子類に公定価格制
* 1940年(S15)8月1日、東京府、食堂・料理屋などでの米食使用禁止・販売時間制限等を実施(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)8月8日、小麦粉配給統制規則公布、うどん、そばが統制となる
* 1940年(S15)10月4日、砂糖、マッチ配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月24日、米穀管理規則公布(町村別割当供給制の実施)(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月25日、鶏卵配給規則を公布
* 1940年(S15)11月5日、大豆、大豆油等配給統制規則施行
* 1940年(S15)、この年、酒、ビールの製造を制限
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P24、P25/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17
仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P94(S20年、北材木町配給所でのコメの配給)/同P95(砂糖配給のお知らせ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P438(S15年、戦時中に配給演習を行う仙台味噌醤油小売商業組合)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(4) |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)1月25日、物品販売業はすべて午後9時閉店
* 1941年(S16)3月、花見の昼酒だけは特に許可される
* 1941年(S16)3月3日、国家総動員法改訂公布(政府権限の大幅な拡張)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、米穀配給通帳制、外食券制を6大都市で実施(1日、2合3勺)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、鮮魚介配給統制規則、実施
* 1941年(S16)4月18日、東京で「肉なし日」を設定、毎月2、8、18、8の4日は食肉業者休業、飲食業者は、8、28日を休業とする
* 1941年(S16)5月1日、幼児、妊婦にパンの配給制実施
* 1941年(S16)5月、東京で巻煙草制限令で「お一人様一個限り」と一斉に実施
* 1941年(S16)5月、東京で、米、マッチ、砂糖切符の幽霊人口、早くも40万を超える
* 1941年(S16)6月13日、山形鉄瓶、製造中止命令
* 1941年(S16)8月1日、アメリカが対日石油輸出全面禁止
* 1941年(S16)8月12日、米価二重価格制を実施、生産者奨励金交付決定
* 1941年(S16)9月1日、東京で、砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の配給切符制実施
* 1941年(S16)10月1日、乗用自動車のガソリン使用を全面禁止
* 1941年(S16)10月1日、新聞の朝刊4ページ、夕刊2ページに減紙
<1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦>
* 1941年(S16)12月16日、物資統制令公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)12月16日、商工省、電球は切れ玉と引き替え販売を通達
* 1941年(S16)12月27日、農業生産統制令公布
* 1941年(S16)、この年、八百屋、魚屋の店頭で行列が続く
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P27/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(5) |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)1月1日、塩、通帳配給制(1人1か月200g)
* 1942年(S17)1月1日、ガス使用量割当制実施
* 1942年(S17)2月1日、みそ・醤油の切符配給制、衣料点数切符制実施
* 1942年(S17)5月、酒、切符制実施(Wikipedia「配給 (物資)」)
* 1942年(S17)9月8日、警視庁では、届出があれば雀を捕ってもよい(焼き鳥用)
* 1942年(S17)11月14日、乗車日指定券を持たぬ者の、週末祭日の旅行を禁止(買出し防止)
* 1942年(S17)11月15日、大政翼賛会、各新聞社で募集した国民決意の標語、当選作、「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28、P29/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19
仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(6) |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)1月27日、家庭用電力の節電を強化
* 1943年(S18)2月3日、節電のため月に2回、映画館を休館日に
* 1943年(S18)4月16日、緊急物価対策要綱決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)5月1日、薪が配給制となる
* 1943年(S18)5月18日、浴用石鹸を洗濯石鹸と同成分にする
* 1943年(S18)6月1日、告別式用のローソクは切符制で配給
* 1943年(S18)8月、警視庁では、医師のニセ診断書での特配受給者一掃を図る
* 1943年(S18)、この年、衣生活の簡素化、長袖やダブルの洋服も禁止
* 1943年(S18)、この年、物不足とヤミ値で物価上昇
* 1943年(S18)、この年の流行語「買い出し」
* 1943年(S18)、この年、都会近県での買出しの一斉取締り強化(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)、この年、「決戦料理」の名で野草の食用奨励(岩波「年表 昭和史」)
<昭和18年現在の配給制は24品目>
米、みそ醤油、砂糖、塩、菓子、食パン、小麦粉、鶏卵、食肉、食用油、ミルク、乾めん、白玉粉、きな粉、木炭、衣料品、縫い針、布団綿、ガーゼ、脱脂綿・衛生綿、軍手・地下たび、釘、セメント、灯油、石けん、このほかに味の素、ちり紙もメーカーが配給制をとっていた。
<昭和19年に追加された配給制は13品目>
鮮魚類、豆腐・油揚げ、青果物、焼酎・ビール、牛乳、蚊帳、洋傘、薪、代用燃料、畳ござ、ろうそく、障子紙、和傘類
・清酒は毎回割当量を決め、ひとり1カ月2升以内、昭和19年になると2合になった。たばこひとり1日6本(昭和20年7月から3本)、石けんひとり1カ月入浴用45グラム、洗濯用60グラム、隣組を通じて購入券配布
<特別配給>
冠婚葬祭や出征、妊産婦、病気、災害、乳幼児には特別配給があって、病人、妊婦には鶏卵月20個と牛乳、出征者には清酒2升、冠婚葬祭には砂糖、みそ醤油、酒、塩が配給される。
戦局が厳しくなる昭和19年3月からは冠婚葬祭、病人用砂糖の特配が停止。(「戦争のころ 仙台、宮城」P87~88)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P87~88
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(7) |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月24日、関東地方でのスイカ、メロン、まくわうりなどの作付けを2月上旬から禁止
* 1944年(S19)2月、東京に雑炊食堂出現、1人1杯20銭、外食券不要 / 4月には335軒
* 1944年(S19)3月6日、全国の夕刊を廃止
* 1944年(S19)4月28日、閣議、米穀増産及び供出奨励に関する特別措置を決定(供出報奨制)(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)5月5日、東京に国民酒場を開設、1人1合
* 1944年(S19)6月17日、米穀管理要綱を決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)6月21日、新刊雑誌を買うときは古雑誌と交換のこと
* 1944年(S19)7月、包装紙不足で、タバコはバラ売りとなる
* 1944年(S19)8月1日、砂糖の家庭用配給停止
* 1944年(S19)9月10日、ガソリン不足のため東京都内の糞尿を電車で輸送 / 西武鉄道、武蔵野鉄道で1953年(S28)3月31日まで続く
* 1944年(S19)10月23日、松根油緊急増産対策を決定。ガソリン不足のため
* 1944年(S19)11月1日、タバコは隣組配給となる。男1日6本
* 1944年(S19)11月1日、新聞の朝刊2ページとなる
* 1944年(S19)12月20日、畜犬献納運動はじまる。狂犬病予防と皮革増産
* 1944年(S19)、この年、物不足ますます深刻となる
* 1944年(S19)、この年、食糧欠乏で、のら犬野生化(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32、P33/岩波ブックレット「年表 昭和史」P21
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(S19年、長町国民学校校庭でサツマイモやジャガイモを作る児童たち)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(8) |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)6月25日、東京神田で水田が作られた
* 1945年(S20)7月17日、旅行者用外食券が交付されることになる
<仙台> (「仙台市史 特別編4 市民生活」P99)
* 1945年(S20)8月、仙台でも外食券制度施行され、旅行用16軒、三食用20軒を外食券食堂に指定
・ 外食券制度は、米の配給通帳制と同時に発足したが、新聞などの記事による限り、一般の人に良く利用されるようになったのは、敗戦が近くなり食糧難が深刻になったころからのようである
<敗戦 8月15日>
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1945年(S20)秋、鉄かぶとを鍋に再生
* 1945年(S20)秋、タバコ巻機が大流行
<戦後の統制撤廃>
→ 項目「戦後の物資・価格統制撤廃」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P34、P35/「仙台市史 特別編4 市民生活」P99
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仙集館 |
開館~閉館 |
1909年(M42)~1933年(S8) |
* 1909年(M42)7月5日、仙台初の活動写真(映画)常設館として開館(1987年現在の高山書店向い「のっぽ」の場所) / 東一番丁通りから9m程セットバックした洋風外装、間口が狭く奥行きが深い木造 / 山梨出身で横浜の人、杉本亀太郎が開館
* 1912年(M45)6月、全面改装竣工
* 1915年(T4)7月、改装
・ 大正期・昭和初期には、館主が交代しながら、帝国キネマ、新興キネマの封切館だった
* 1916年(T5)12月1日、「記念館」と改称
* 1917年(T6)6月、「社会館」と改称
* 1918年(T7)6月、再び「仙集館」と改称
* 1918年(T7)7月、改装
* 1933年(S8)3月20日、焼失し閉館 (早暁、仙集館付近より出火、52戸を焼く / 東一番丁大火 / 午前0時半出火 / 「番丁詳伝」P143では、51戸消失、罹災戸数35)
* 仙集館跡地には、金港商会が石造りのビルを建築し1階はキリンビアホールが入る
1922年(T11)年から日活上映、1927年(S2)から帝国キネマ上映、1931年(S6)から新興キネマ上映
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「仙台映画大全集」P451 / 「東一番丁物語 明治編」(柴田量平著)P117~120、P235/「番丁詳伝」P23、P108、P131、P143/「仙台あのころこのころ八十八年」P241/「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台市史 年表」P94
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43-26/ スケッチ画は98-006/柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P118~119(新築当時の仙集館、改築後の仙集館)「目で見る仙台の歴史」P142に、「東一番丁仙集館付近」
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戦勝祝賀行事 |
南京陥落 |
1937年(S12)12月 |
南京陥落(日中戦争)では、昭和12年12月14日の夜に東京や大阪などで祝戦捷提灯行列が行われている
<仙台でも祝賀行事が行われた>
* 1937年(S12)12月13日、南京を完全に占領し、この日皇軍南京に入城す(「重訂 宮城県郷土史年表」P460)
* 1937年(S12)12月14日、県市主催、南京陥落記念式挙行(「仙台市史10 年表」P291)
* 1937年(S12)12月14日、南京陥落の祝勝行事が行われる(「市史年表」P109)
* 南京陥落の際は、市を挙げて2万人の提灯行列が行われた(「近代みやぎの歩み」「仙台市史 続編第1巻」)
* 1937年(S12)12月13日(14日の間違いか?)、NHK仙台中央放送局、南京陥落祝賀提灯行列の模様を針金磁気録音機で録音し、ニュースで放送
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「重訂 宮城県郷土史年表」P460/[仙台市史10 年表]P291(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P97/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P8
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戦勝祝賀行事 |
徐州陥落 |
1938年(S13)5月20日 |
* 1938年(S13)5月19日、徐州を完全攻略す(「重訂 宮城県郷土史年表」P463)
* 1938年(S13)5月20日、徐州陥落祝捷提灯行列挙行(「仙台市史10 年表」P293)
* 1938年(S13)5月20日、徐州陥落の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
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重訂 宮城県郷土史年表」P463/「仙台市史10 年表」P293(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109
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戦勝祝賀行事 |
漢口陥落 |
1938年(S13)10月 |
* 1938年(S13)10月27日、武漢三鎮を完全に占領す(「重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 1938年(S13)10月27日、漢口陥落祝捷行列挙行(「仙台市史10 年表」P294)
* 1938年(S13)10月28日、漢口陥落(日中戦争)の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
* (仙台控訴院坂本徴章判事夫人たねさんの日記)「昭和13年10月28日、金曜日 観光陥落につき市内は慶祝気分溢れ大変なにぎわいなり。閲兵式分裂式など壮観なりし模様。主人は午後3時より祝賀式に参列、夜、市役所前で提灯行列を見る。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P32)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「仙台市史10 年表」P294(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P32
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「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128
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戦勝祝賀行事 |
大平洋戦争中 |
1942年(S17) |
<シンガポール陥落>
* 1942年(S17)2月15日、日本軍がシンガポール占領
* 1942年(S17)2月15日、シンガポール島要塞の敵軍、皇軍に無条件降伏す、17日に昭南島と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P487)
* 1942年(S17)2月18日、シンガポール陥落戦捷第一次祝賀会開催(「仙台市史10、年表」P303)
/ 仙台でも祝賀行事が行われた / 河北新報記事「歓喜と日章旗のうずまき、感激を軍歌に乗せて、軍都仙台に音楽大行進がくりひろげられた」(「仙台市史 続編第1巻」P36)
・「シンガポール陥落を祝って仙台では提灯行列が行われました。お父さんたちには清酒2合、家庭には砂糖、小豆が特配されました。5月になると児童たちに、そのころ貴重品になっていたゴムまりが配られました。占領地のマレー半島はゴムの産地です。武器弾薬を届けた輸送船が帰りにゴムの材料を積んで帰ってきたのです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P66~67)
* 1942年(S17)3月12日、戦捷第二次祝賀記念式典(「仙台市史10年表」P304)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争一周年記念県民大会(「仙台市史10 年表」P305)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争第一周年記念県民大会を開催、この日、武道大会を挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P493/「仙台市史10 年表」P303~304(出典:河北新報)、同P305/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P66~67)
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シンガポール陥落祝捷行列(仙台)は、16-05
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仙台朝市 |
スタート |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)、青空市場、通称“朝市”から始まる(「仙台朝市商店街振興組合」HP)
* 1978年(S53)10月31日、新仙台駅前ビル(通称「仙台朝市アメ横ビル」)、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P87
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仙台アメリカ文化センター |
開館~閉館 |
1952年(S27)~1971年(S46) |
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称 →参照 項目「仙台CIE図書館」
* 1952年(S27)5月、仙台CIE図書館が、「仙台アメリカ文化センター」(ACC)と名称変更し、引き続き斎藤報恩会館内に置かれた
* 1968年(S43)、東二番丁の長期信用銀行ビル4階に移転
* 1971年(S46)3月31日、閉館(「重訂 宮城県郷土史年表」P677では、「6月末閉館」)
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石原眞理「岐阜女子大学紀要 第47号 (2017.10.)「CIE 図書館及びアメリカ文化センター資料に関する研究:仙台アメリカ文化センター及び横浜アメリカ文化センター
旧所蔵資料の調査を基に」/「仙台市史 年表」P117、P126、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P677
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「市民の戦後史(仙台市)」P63
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仙台育児院 |
開設 |
1906年(M39) |
・ 「明治35年、38年の大凶作のころ、米国婦人フェルプスは凶作地児童の惨状に乗じた誘拐者が多いことを聞き、明治39年2月に孤児8人を引き取り、仙台市北四番丁に東北育児院を開設した」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P359)
・ 「明治39年2月27日、凶作で困窮した根白石(現・泉区内)の児童7人が、東三番丁の新田文右衛門宅に収容された。この日が米国人フェルプス女史創設の「仙台基督教育児院」の誕生日である」(逸見英夫著「仙台はじめて物語」P107)
* 1906年(M39)2月27日、メソジスト教会のフェルプスら、東三番丁に東北育児院を開設
* 同年11月3日に、仙台育児院と改称
* 1907年(M40)3月に北四番丁に移転
* 1909年(M42)12月、仙台基督教育児院と改称
* 1935年(S10)3月、キリスト教育児院丘の家建つ(小松島に)
* 1978年(S53)4月26日、育児院による小松島子ども療養センター、オープン
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P359/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P107/「仙台市史 年表」P93、P94/「仙台年表」P206/「続・ 宮城県郷土史年表」P80
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P425(M41年ころ、キリスト教育児院)
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仙台駅(戦前) |
開業 |
1887年(M20) |
* 1887年(M20)12月15日、日本鉄道の上野・仙台・塩釜間開通、あわせて仙台停車場が開業 (現・JR東北本線)
* 同年12月20日、東京・仙台間の開通式を挙行
<開業日、初列車は雪で3時間遅れで仙台着>
「その朝、東北地方の太平洋側は雪、仙台市内も真っ白だった。初列車は午前7時28分、6両編成で上野駅を出発、午後7時半ごろ仙台駅に到着する予定だった。ところが初代の大宮弥平駅長以下地元のお歴々、珍しもの見たさの市民たちが待てど暮らせど、その列車が姿を現さないのである。雪のため、越河(白石市)付近の坂を超えられず、いったん福島駅に逆戻り。そこで上り列車用の機関車を連結して馬力を倍増、あえぎあえぎ仙台駅にすべり込んだ時には、時計はなんと午後10時25分を指していた。つごう15時間かかったことになる。暗いランプが揺れる車内での難行苦行に、記念列車の山県有朋内務大臣らはブスッとした表情で降り立ち、また、歓迎人は景気づけの花火もすっかり打ち尽くしてしまい、寒さにガタガタふるえていたそうである。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P130)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P130
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98-038
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仙台駅(戦前) |
第2代駅舎完成 |
1894年(M27) |
* 1894年(M27)6月1日、2代目駅舎が完成(木造洋風一部2階建) /「仙台はじめて物語」P289では、7月1日改築開業
* 昭和はじめには駅舎正面にシンボルの大時計がついた
* 1928年(S3)4月20日、名掛丁地下道新設(仙台駅百年史略年表)
* 1941年(S16)1月21日、日本食堂経営仙台駅食堂開店(2階)
・ 駅舎は、灰色のペンキ塗り(「わが心の仙台駅前史」P41)
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「仙台市史 年表」P88/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台市史10 年表」P300/「わが心の仙台駅前史」P41
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99-001、99-002、16-15、19-02、22-10、44-71、53-15、83-02、98-040/「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵(図1)
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仙台駅(戦前) |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で駅舎、仙台鉄道局、仙台鉄道管理局が焼失 / 本局は仙台鉄道教習所に移り、さらに東二番丁の東北学院中学校の建物借用し移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P561
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台鉄道局庁舎(大正8年)
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仙台駅(戦後) |
第3代駅舎 |
1945年(S20)8月上旬 |
2代目駅舎が仙台空襲(S20年7月10日)で焼失し、終戦直前の8月上旬に木造バラックの待合室が急ごしらえで建設された
* 1945年(S20)8月上旬、3代目駅舎を急造
* 1947年(S22)3月27日、バラックの仙台駅にネオンがついた。周囲が暗いためか「仙台駅」の文字だけが夜空に輝いていた」(「仙台市史 続編第2巻」P255)
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「仙台駅百年史年表」P224/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P255
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16-16、44-50、21-11、22-12/91-22など分類H-30の各写真(1945年9月23日、米軍撮影)/09-09(夜に輝く「仙台駅名ネオン」/「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図2(戦後間もない仮駅舎)
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仙台駅(戦後) |
第4代駅舎中間竣工 |
1949年(S24)7月 |
広い庇とその下の大時計(直径2m)が特徴で、S47年まで23年間にわたり仙台市のシンボルであった
* 1948年(S23)、着工
* 1949年(S24)7月、第4代駅舎(中間竣工)、木造2階建て / 駅前広場はアスファルト舗装、東五番丁まではコンクリート舗装
* 1950年(S25)5月18日、第4代駅舎完成
* 1950年(S25)11月5日~12月末、駅前の舗装(「仙台駅百年史」P49)
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「仙台駅百年史年表」P224/「戦災復興余話」P54/「仙台市史 年表」P116/「わが心の仙台駅前史」P86の「年表」/「仙台駅百年史」P49
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05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05
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仙台駅(戦後) |
第4代駅舎時代 |
1950年(S25)~1972年(S47) |
* 1952年(S27)9月26日、仙台駅東口開通
* 1952年(S27)9月、仙石線仙台駅ホームを東口地下道内から地上へ移す(国体開催に備え)
* 1952年(S27)9月当時の仙台駅発着系統
・一番線、東北本線下り方面
・二番線、東北本線上りおよび下り方面
・三番線、東北本線上り方面
・四番線、仙山線下り方面
・五番線、常磐線上り方面
* 1955年(S30)10月1日、仙台駅火災、一部消失
* 1961年(S36)3月3日、国鉄と建設省、駅前広場問題について、駅舎を9m後退につき話し合いがつく
* 1961年(S36)5月、仙台駅の構内地下道完成
* 1964年(S39)、ホーム間連絡路の北地下道に加え、南地下道完成(南跨線橋は老朽化で廃止)
* 1965年(S40)10月1日、仙台駅に「みどりの窓口」設置
* 1967年(S42)10月、新らたに設けた6、7番ホームを、仙山線発着に充てる
* 1974年(S49)3月5日、大時計を県中央児童館にプレゼント
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「仙台年表」P225、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P558、P579、P599/「続・ 宮城県郷土史年表」P27/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567、P571/「市民の戦後史(仙台市)」P132
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05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05/「市民の戦後史(仙台市)」P132(S36年5月、構内地下道)/「市民の戦後史(仙台市)」P203(S42年10月頃の仙台駅→常磐線電化完成の看板あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図33(S42年、駅周辺一帯空撮)
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P9(S29)、P18~19(S32)、P20(S30年代初め頃)、P41(S33、仙台駅界隈空撮、機関区も写る)、P44(S33頃)、P59(S38、仙台機関区の転車台)、P62(S38、カラー)、P97(S46、カラー)
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仙台駅(戦後) |
仮駅舎設置 |
1972年(S47) |
東北新幹線開業に伴う駅舎新築のため、S47年に西口駅前広場に「仮駅舎」を設置 / 仮駅舎の後方の第4代駅舎を取り壊したあと、新駅ビルを建設
* 1972年(S47)11月、仮駅舎設置、開業
* 1975年(S50)7月11日、地下道より広い渡線橋設置
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Wikipedia「仙台駅」/「続・ 宮城県郷土史年表」P14、P43
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仙台駅(戦後) |
新駅ビル開業 |
1977年(S52) |
* 1974年(S49)6月7日、新仙台駅起工式(「続・ 宮城県郷土史年表」P30)
* 1976年(S51)12月17日、仙台駅新駅ビル起工式(「仙台市史 年表」P130)
* 1977年(S52)12月15日、仙台駅90周年、新仙台駅が新幹線に使用する部分を除いて開業(駅舎4階と地下1階とステーションデパートなど入る建物で営業開始)
* 1978年(S53)3月18日、東西自由通路完成
* 同日、仙台駅ビル内にS-PAL(エスパル)開店
* 1981年(S56)6月10日、駅前西口バスプール、使用開始
* 1985年(S60)12月14日、仙台駅に仙鉄局直営飲食店開店
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「続・ 宮城県郷土史年表」P30/「仙台市史 年表」P130、P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P75、P79、P129、P198/「わが心の仙台駅前史」年表
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「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図3(S52年頃の新駅ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P105(S53、カラー)
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仙台駅(戦後) |
東北新幹線駅 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)6月23日、東北新幹線、大宮~盛岡間が開業
新幹線仙台駅開業
* 1985年(S60)3月14日、上野駅まで乗り入れ(上野~盛岡間が直通)
* 1985年(S60)4月11日、仙台駅東口に、東七番丁横断地下道開通
* 1987年(S62)1月10日、仙台駅に、伊達政宗の騎馬像(プラスチック製、高さ4m)設置
* 1987年(S62)4月、JR仙台駅西口広場公共地下道完成(エスパル~ams西武間)
* 1987年(S62)7月15日、西口公共地下道(JR仙台駅~地下鉄仙台駅間)開通(同日に、地下鉄開通)
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P148、P189、P190、P218、P226
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37-07、37-08
/「新・目で見る仙台の歴史」P184(新幹線駅と西側の市街地、俯瞰、カラー)/「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図4(H8新幹線駅)、図34(H9年、駅周辺一帯空撮、カラー)
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P114(S60、上野開業を祝う仙台駅)/同P122(H2、仙台駅東口、カラー)
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仙台オープン病院(旧・鶴ケ谷オープン病院) |
開院/名称変更 |
1976年(S51)/1986年(S61) |
仙台市と仙台市医師会が協力して設立した、公益財団法人仙台市医療センターが運営する全国初の公設民営方式の病院
* 1976年(S51)2月1日、「鶴ケ谷オープン病院」診療開始
* 1980年(S55)6月6日、新館病棟完成
* 1986年(S61)3月、救急センター竣工(6月、診療開始)
* 1986年(S61)4月1日、「鶴ケ谷オープン病院」を「仙台オープン病院」と改称
* 1998年(H10)9月、地域医療支援病院承認(全国第一号承認)
* 2018年(H30)2月、新救急センター棟竣工
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「仙台市史 年表」P130、P134、/「続・ 宮城県郷土史年表」P50、P113、P193/仙台オープン病院HP
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仙台卸商センター |
完成 |
1970年(S45) |
* 1965年(S40)6月17日、協同組合発足、卸商センター建設着手
* 1966年(S41)、着工
* 1970年(S45)10月14日、原町南目の仙台流通センター地区内に完成
* 1979年(S54)4月1日、センターに、国鉄連絡運輸駅設置
* 1986年(S61)10月15日、センターに、産業見本市会館完成
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「仙台市史 年表」P124、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P620、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P94、P212/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P370(S46年完成の仙台卸商センター)
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仙台偕行社 |
初代建物竣工 |
1886年(M19) |
仙台偕行社(かいこうしゃ)は、陸軍将校の倶楽部で、戦前は天皇行幸の際は宿舎にもなった / 場所は、桜ケ岡公園(西公園)に隣接、現在(1996年)の仙台市図書館のあたり
* 1886年(M19)8月3日、仙台偕行社竣工(洋風建築)
* 1925年(T14)10月18日、陸軍大演習の間、大本営が仙台偕行社におかれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P399)
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「明治の洋風建築~宮城県~」P39/「仙台市史7(警察)」の仙台部隊年表P691/「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P399
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「明治19年落成の偕行社」は、98-060、「新・目で見る仙台の歴史」P134、「市民の戦後史(仙台市)」P22/門柱の形が異なるのは、98-061、99-095
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仙台偕行社 |
2代目?、空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 2代目?に建替え(年不詳)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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仙台歌舞伎座(開明座) |
改装 |
1920年(T9) |
* 1920年(T9)7月、国分町の開明座が改装し、歌舞伎座として登場
<柴田量平「仙台・東一番丁物語」より>
・ 「国分町に歌舞伎座が開場したのは大正9年7月で、大正2年に建てられた開明座を改造整備したものであった。経営方針がよかったのか、収容観客数1,500人という大きさが手頃であったためか、以来仙台座よりは利用されることが多く、仙台の演芸・娯楽方面に多大の貢献をした。」
・ 同書明治編(昭和42年再版)P235の「明治、大正年間 仙台の劇場(一覧表)」に、「仙台歌舞伎座(国分町)、大正9年7月7日に開明座を改称」
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「仙台市史 年表」P100/柴田量平「仙台・東一番丁物語」
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