仙台よみとき用語年表
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大崎八幡宮 社殿落成  1604年(慶長9)  <社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)

* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活 
文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181  99-12899-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭) 
大学・短大 宮城大学  1997年(H9)~  <県立時代>
* 1997年(H9)4月、黒川郡大和町(大和キャンパス)に、宮城県立宮城大学開学〔看護学部・事業構想学部〕
* 2001年(H13)4月、 大学院(修士課程)設置 〔看護学研究科・事業構想学研究科〕
* 2005年(H17)4月、食産業学部設置(太白区旗立二丁目の太白キャンパス)
* 2008年(H20)4月、大学院(博士後期課程)設置〔事業構想学研究科〕

<公立大学法人>
* 2009年(H21)4月、公立大学法人宮城大学設立(法人化)、大学院(修士課程)設置〔食産業学研究科〕
* 2010年(H22)4月、大学院(博士後期課程)設置〔看護学研究科〕
* 2013年(H25)4月、大学院(博士後期課程)設置〔食産業学研究科〕
* 2017年(H29)4月、学部改組により学群・学類制へ移行(3学群6学類、3研究科で構成)  
宮城県HP内「宮城大学」/「公立大学法人宮城大学」HP   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 
1945年(S20)  <県内の空襲犠牲者> 
 仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害

<筆者石澤友隆氏の体験>
 戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236   
天皇、仙台行幸 昭和天皇(1)  1918年(T7)~昭和戦前期  <皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙 
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く

<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
  ・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
  ・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
  ・ 奉祝大売り出し実施
  ・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
  ・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)

<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)

   **********************************

<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会 
「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127  98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける) 
天皇、仙台行幸 大正天皇  1908年(M41)~  <皇太子時代の行啓>
* 1908年(M41)10月3日、奥羽史蹟調査のため来仙(「仙台市史 年表」P94)

(以下4項目は、「重訂 宮城県郷土史年表」P341より)
* 1908年(M41)10月2日、東宮殿下(のちの大正天皇)本県に行啓(上旬) / 同日、行啓に際し、本県より良馬玉の井号を献上 / 同年10月4日、行啓記念宮城県写真帳を刊行(宮城県編) / 同年10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)

* 1911年(M44)4月18日、参謀演習視察のため来仙(宮城県に行啓、27日還啓)(「仙台市史 年表」P95、「重訂 宮城県郷土史年表」P348)
* 1911年(M44)8月18日、東宮殿下、北海道行啓の途次、仙台偕行社に御一泊(「重訂 宮城県郷土史年表」P350)

<大正天皇、行幸>
* 1915年(T4)10月18日、陸軍特別大演習統監のため青森県へ赴く途中に仙台偕行社に御駐輦(宿泊)(「仙台市史 年表」P97、「重訂 宮城県郷土史年表」P362)

<即位大礼>
* 1915年(T4)11月10日、御即位市民奉賛会を桜が丘公園に於て挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
* 1915年(T4)11月10日、即位大礼、祝賀のため仙台の三業(料理屋・待合・芸者屋)組合の面々、仙台駅前に勢揃い(「新・目で見る仙台の歴史」P144に写真) 
「仙台市史 年表」P94、P95、P97/「重訂 宮城県郷土史年表」P341、P348、P350、P362/「新・目で見る仙台の歴史」P144  99-09499-075 
仙台市の消防 市民の取組など  1951年(S26)~1968年(S43)頃  <町ぐるみ消防訓練>
* 1956年(S31)4月、第1回烈風時消防演習
* 1960年(S35)2月、大規模な夜間演習

<自営消防隊>
・ 各職場における火災発生防止

<婦人防火クラブ>
* 1962年(S37)5月、生出地区で「萩の台婦人防火クラブ」結成、ポンプ操法など実施
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P827の表198に、S43年4月現在のクラブ一覧(27クラブ)

<少年消防クラブ>
小中学校単位に結成、防火思想と消防一般の知識を学ぶ防火教室開催、器具操作など
* 1951年(S26)4月10日、西多賀小学校少年消防クラブ
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P828の表199に、S43年4月現在のクラブ一覧(20クラブ)

<ハシゴ乗り保存会>
* 1965年(S40)12月、結成 / 後継者難でS39年出初式では中止していたが、S41年出初式から再登場
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P823~828   
東北帝国大学 沿革(2) ~各学部・研究所設置~  1919年(T8)~1940年(S15)  <理学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更
    東北帝国大学理科大学 → 東北帝国大学理学部

<医学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更   
    東北帝国大学医科大学 → 東北帝国大学医学部
<附属臨時医学専門部>
* 1939年(S14)5月、臨時医学専門部設置(全国の官立大学に設置し軍医不足に対応=菅家年表P22) → 1944年(S19)3月、附属医学専門部 → 1952年(S27)3月廃止
<医学部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照

<工学部>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置
* 1939年(S14)4月、工学部に航空学科設置
<鉄鋼研究所 → 金属材料研究所>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置に伴い、東北帝国大学臨時理化学研究所第二部が東北帝国大学附属鉄鋼研究所となる → 1922年(T11)8月9日、金属材料研究所と改称

<法文学部>
* 1922年(T11)8月29日、法文学部設立

<電気通信研究所>
* 1935年(S10)6月1日、附属電気通信研究所設置(「仙台市史10 年表」P286では9月25日設置)→ 1944年(S19)1月、電気通信研究所

<農学研究所> * 1939年(S14)8月、農学研究所設置

<その他>
* 1937年(S12)、早川牧場跡に大学のトラックと野球場が完成(佐々久「近代みやぎの歩み」P86) 
東北大学HP「沿革図」
/「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P98~99、P101/「重訂 宮城県郷土史年表」P446、P468~469/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22

設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした  
99-06099-061/金属材料研究所は、99-06553-97/「目で見る仙台の歴史」P148に、地質岩石学教室と鉄鋼研究所、医学部(大正4年)「法文学部(大正11年)/「宮城県百科事典」P757に片平丁の構内全景(昭和4年頃、空撮) 
敗戦後の諸相・仙台 進駐軍相手の「特殊慰安施設」  1945年(S20)秋~1946年3月  <特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)

・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)

・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158   
芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) 4棟の向き    <特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている

<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い 
  98-022 
廃藩置県(仙台県誕生) 仙台県誕生/宮城県と改称  1971年(M4)/1972年(M5)  <版籍奉還>
* 1868年(M1)12月7日、伊達藩主(第13代)慶邦は、慶応4年の戊辰の役、奥羽戦争の罪を問われ、仙台城没収と28万石(宮城・黒川・名取・玉造・志田の5郡)に削封
・ 慶邦の実子亀三郎(3歳)に家名を継がせ、藩内の土地、領民の版籍を奉還
* 1869年(M2)6月、仙台藩「知事」に当主の亀三郎任命される / 仙台城二の丸に「勤政庁」設置(翌3年藩庁と改称)

・ 伊達藩から没収した旧領地に、政府直轄地として「涌谷県」「栗原県」「桃生県」設置し「権知事」を置く
・ その後の名称変更や統合(白石県→「角田県」/ 桃生県→「石巻県」/ 登米・石巻が合して「登米県」など)

<廃藩置県>
* 1971年(M4)7月、廃藩置県、「仙台県」誕生(仙台藩、角田県、登米県を合わせ、玉造郡は一関県(岩手)に分割) / 藩庁は県庁となり、二の丸から養賢堂に移転、二の丸跡には「東北鎮台」(のちの第二師団)設置
* 1872年(M5)1月、「仙台県」が「宮城県」と改称 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P361~362   
仙台空襲 焼失した学校 / 児童の犠牲者  1945年(S20)7月10日  <焼失した学校>
☆ 国民学校
 ・ 全焼(東二番丁、立町、西多賀、北五番丁)、一部焼失(木町通)
 ・ 上杉山国民学校は、南校舎や西校舎が被弾したが、教職員がバケツリレーで消火、焼失を免れる

☆ 旧制中学校など中等学校(全焼)
 ・ 育英中学(現・錦町公園の場所)、仙台商業、東北学院中学校(東二番丁)、仙台中学校、常盤木高等女学校(西公園近く)、宮城県第一高等女学校(元寺小路)、仙台女学校(現・白百合学園 元寺小路)

☆ 旧制高等学校など(全焼)
 ・ 旧制第二高等学校、東北学院神学部(南町通)

☆ 大学
 ・ 東北帝国大学(片平丁)は、法文学部、理学部、工学部の校舎の40%を焼失 

<仙台空襲による児童(国民学校生)の犠牲>
・ 死亡 計86人(木町通国民学校22人、東二番丁18人、立町16人、ほか) 
・ けが40人 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P222~223   
仙台空襲 焼失した国宝 など  1945年(S20)  <焼失した国宝文化財>
・ 国宝 仙台城大手門、仙台城隅櫓、伊達政宗霊廟瑞鳳殿、伊達忠宗霊廟感仙殿

<被災後、よみがえった樹木>
・ 東二番丁国民学校校庭のクスノキ(戦災から3年後に小さな新芽を吹き、のちに大木に)
・ 西公園の大町交番と桜ケ岡大神宮の間に立つイチョウ(樹齢推定300年)(のちに新芽を吹く、往時をしのぐ樹勢に)

<土井晩翠宅(本荒町)>
 焼失し、蔵書3万冊も焼失 / 晩翠は「五十余年 心を込めて集めたる 東西の書 皆灰となる」と詠んだ 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P223~224   
第二師団(出兵記録)(5) 出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む)  昭和戦前期(2)  <満州駐箚>
* 1937年(S12)4月、満州守備(駐箚)のため出発
* 「1937年(S12)4月9日から10日間、多数の第二師団「渡満」兵の行進が市街を通り抜けていく。銃後の市民の間には、社寺のお守りを真綿でくるんで弾除けにするお守り袋や雑貨を詰め込んだ慰問袋を、郷土の在満兵士たちに贈る運動が盛んになっていた。7月7日の日中戦開始まで間もない頃である」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P311)
   
<日中戦争>
* 1937年(S12)7月の日中戦争開始後は、駐箚中の満州から第二師団の一部(歩兵第4連隊第1大隊=大泉部隊)を北京へ急派 / 1938年(S13)には、その他の第二師団も満州から中国戦線へ
* 1937年(S12)9月、日中戦争勃発により急きょ、第二師団留守部隊を根幹とする十三師団(歩兵104連隊)が仙台で編制され、中国戦線へ ( →項目「第十三師団」参照 )
* 1937年(S12)12月、歩兵第4連隊第1大隊の故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(市公会堂)

<仙台へ帰還>
* 1940年(S15)8月1日、第二師団を仙台師団と改称(「仙台城」P234)
* 1940年(S15)10月、内地帰還
* 1940年(S15)11月、仙台師団は任務を終えて帰国(昭和17年宮城県知事事務引継書)
* 1940年(S15)10月21日、仙台師団において紀元2600年奉祝観兵式(宮城野原練兵場)
* 1940年(S15)11月17日、日華事変(=日中戦争)以来の管内出身将兵の慰霊祭(東二番丁小学校で)、引き続き、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭(追廻練兵場の昭忠塔前で)

<太平洋戦争> 第二師団=勇兵団 
* 1941年(S16)12月の太平洋戦争突入
* 1942年(S17)1月、日本を出発、インドネシアのジャワ島(17年2月上陸) /「戦争のころ 仙台、宮城」P68では、3月1日上陸「2月になってから海軍艦艇の護衛のもとフランス領カムラン湾(現ベトナム)へ進出、60隻の大輸送船団は巡洋艦、駆逐艦32隻に守られ目的地に向かいます。途中で2回にわたって敵艦隊と遭遇、これを撃退する間退避行動をとったので上陸は3月1日に延期されました。3月1日ジャワ島上陸、わずか12日間で8万2000人のオランダ、英国軍を降伏させ占領。現地では日本軍はオランダからの解放者と受け取られ、日本軍への協力がありました。」
・ その後はニューブリテン島、ソロモン諸島のガダルカナル島(17年10月~)、フィリピン諸島、マレー、ビルマ(インパール作戦)などを転戦、終戦時は南部仏印(一部はビルマ)
・ ガダルカナル戦では、歩兵第4連隊第2、第3大隊が「青葉支隊」として投入される(「仙台市史 続編第1巻」P37) / ガダリカナル戦で第二師団の死者・戦病死者は7671人(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1944年(S19)3月、ビルマ進攻、インパール作戦(北部ビルマから2000m級のアラカン山脈を越え、インドのインパールへの進攻作戦)に、第二師団も投入されるが、5月、雨季を迎えたフーコン峡谷の沼や密林の中で、食糧や弾薬不足、疫病に苦しみ次第に後退。 / インパール作戦での第二師団の戦死、戦病死者は、1万2748人(師団兵力の3分の2を失う)(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)1月、仏印に転戦を命じられる。同師団の歩兵第16連隊、野砲、工兵、衛生兵で編成された青葉兵団と歩兵第4連隊はビルマに残り戦闘継続(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)

      ***************************************
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P311、P314/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P37、P64/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P476~477、P479/「仙台市史10 年表」P306、P308/「仙台市史年表」P104/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P185/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P67~68、P136、238   
第二師団(出兵記録)(4) 出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む)  昭和戦前期(1)  <満州駐箚、満州事変>
* 1931年(S6)3月18日、満州守備へ出発開始(在仙台の歩兵第4連隊など各部隊の他、会津若松の歩兵第29連隊、新潟県高田の歩兵第30連隊、新発田の歩兵第16連隊など第二師団管下の部隊) / 第二師団の渡満で、仙台不景気に(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)9月からの満州事変では、満州各地を転戦、占領 / 日本側の最初の戦死者は、歩兵第4連隊の兵士29名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308)
* 1931年(S6)10月、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で第二師団など主催の慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)  
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送
* 1933年(S8)1月7~9日と13日、満州から仙台に凱旋(→詳細は、写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述) / 1月7日、NHK仙台放送局が歓迎式を仙台駅前からラジオ中継放送

<軍事演習>
* 1932年(S7)9月18日、満州事変勃発一周年記念、第二師団留守部隊、学生の大演習
* 1933年(S8)3月10日、第二師団が国分町中心に大規模な模擬市街戦実施
* 1934年(S9)3月10日、陸軍記念日により、模擬弾・タンク・照空灯を市民に公開
* 1935年(S10)9月13日、騎兵第二連隊200騎、蔵王山突破す(遠刈田→上山を3日間で)

   *****************
* 1933年(S8)8月14日、東久邇宮稔彦王殿下、第二師団長として着任(S9年8月1日、第四師団長に転任)

<2・26事件警備>
* 1936年(S11)2月26日、歩兵第4連隊、2・26事件警備で上京(6月6日帰還)(重訂 宮城県郷土史年表」P451)
   「歩兵第4連隊混成大隊208人、118日間にわたって決起将校らが収容されている代々木の陸軍刑務所の警備にあたる(「戦争のころ 仙台、宮城」P39)     
* 1936年(S11)6月6日、2・26事件戒厳令下、歩兵第4連隊帰還(「仙台市史 10 年表」P288) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P308~311、P361/「宮城県史 7」P685の『仙台部隊関連年表』/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P434、P436、P441、P447、P451/「仙台市史 年表」P105/「仙台放送局60年のあゆみ」P5、P7/「仙台市史10 年表」P279、P280、P281、P282、P288/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P183/「仙台年表」P202、P204/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P39   
陸海軍の工場(宮城県内) 第一海軍火薬廠    <海軍火薬廠>
* 1938年(S13)1月9日、海軍火薬廠を柴田郡船岡町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」) 
* 1938年(S13)1月9日、海軍軍需部特殊工場、柴田郡船岡村に設置 (「仙台年表」P208)
* 1939年(S14)8月1日、船岡村に海軍火薬支廠設置 (「仙台年表」P209)
* 1939年(S14)、船岡の第一海軍火薬廠完成。 2万坪(約6.6ha)あり東北最大の火薬製造工場(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)

・ 海軍は、平塚に第二、舞鶴に第三火薬廠を持っていた
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)
・ 跡地は、陸上自衛隊、仙台大学が使用(2020年現在)(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157、P173) 
「仙台年表」P208、P209
/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P704/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156~157、P173 
 
陸海軍の工場(宮城県内) 多賀城海軍工廠    <海軍工廠>
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠、開庁式(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠開庁式 (「重訂 宮城県郷土史年表」P492)

* 旧多賀城村のほぼ4分の1に当たる500haを強制買収して建設
 南地区の機銃部は、ゼロ戦の20ミリ機銃弾、北地区の火工部では爆弾、焼夷弾、親子爆弾、照明弾など
* 1945年(S20)3月から、松島町高城地区の丘陵地に地下分工場を建設中に敗戦(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157)

・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P173)

「戦争のころ 仙台、宮城」P159~160に、土地所有者からの強制的な用地取得と移転の強要、土木作業員には宮城刑務所の服役囚や強制連行された朝鮮半島からの労働者(728人)も含むこと、残酷な強制労働につき記述あり 
「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P711/「重訂 宮城県郷土史年表」P492/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P159~160、P173   
本土決戦体制 (3)海軍/航空部隊    <海軍の特攻作戦>
・ 牡鹿半島中心に、特攻艇「震洋」、小型潜航艇「海竜」人間魚雷「回天」91隻配備を計画 / ただし、敗戦までに配備されたのは11隻

<航空部隊の対応>
宮城県内の陸海軍航空基地は3か所 / 基本方針は、敵が上陸してきたら全機が特攻となって敵輸送船団に突っ込む / このため(戦力温存のため)、米軍機が来襲(空襲)しても日本軍機は迎撃しなかった

(1) 増田飛行場(現・仙台空港) 戦闘機の「隼(はやぶさ)」「鐘馗(しょうき)」「疾風(はやて)」や偵察機、重爆撃機が多数配備されたが、1945年(S20)6月には1機も姿が見られなくなった(最初は、名取郡愛島国民学校の桜並木の下に「隼」「鐘馗」など3~4機に偽装網をかぶせ分散駐機するなど飛行場近くに疎開 / のちに全機が白石町の森林内に疎開(解体して運搬し現地で組み立てる) / その作業のため約1300人の部隊が、近くの複数の国民学校に分宿

(2) 霞目飛行場の軍用機も、白石町の森林に疎開

(3) 海軍松島航空隊は、米軍B29の出撃地点(マリアナ諸島サイパン島)をほかの陸海軍部隊と共同で空襲計画(剣作戦、烈作戦)に参加予定 / このため戦闘機、爆撃機群が温存されていたが、実施前に敗戦 / 米軍艦載機などからの執拗な攻撃うけるが、敗戦時には、一式陸上攻撃機39機、陸上爆撃機「銀河」36機、艦上爆撃機「彗星」6機など百機以上の航空機が残っていた 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P195、P197~198   
商店など 江陽会館  1957年(S32)  <江陽グランドホテルHPの「会社概要」より>
* 1933年(S8)、仙台市内に営業写真館として創業を開始  * 1957年(S32)、総合結婚会館(東一番丁・森徳横丁北東角)の運営へと営業規模を拡大
* その後、宿泊施設を付帯させたホテル江陽結婚会館
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(青葉区本町二丁目3-1)

<東一番丁・森徳横丁角北東角のビル>
* 1957年(S32)4月、結婚会館として竣工
* 1964年(S33)9月、増築
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)

 
江陽グランドホテルHP/他  店舗配置図 98-124 (東一番丁北部の空襲直前と終戦後)、店舗配置図 98-126(S32) / 99-014201-45 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮、画面左上の東一番丁・森徳横丁北東角のビル) 
水道事業 深刻な水不足  1955年(S30)~1961年(S36)  <水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
  南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
 
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
  ・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
  ・累積給水人口30万人

<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493  「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸) 
満蒙開拓 宮城県関連(1)  1932年(S7)~  <武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる

<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)

* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始

<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子

* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)

* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述

・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170) 

<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕 
「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170   
土井晩翠 歌碑、詩碑  1952年(S27)  <樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)

<荒城の月詩碑>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、荒城の月四節全文、青葉城址に建立、除幕式(「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台市史 続編第2巻]P270)
・ 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が荒城の月詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189)

<詩碑「天地有情」>
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置 
「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P270/「市民の戦後史(仙台市)」P70/「仙台市史 続編第2巻」P189  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(荒城の月詩碑)/「目で見る仙台の歴史」P137に「晩翠肖像写真」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(晩翠草堂と詩碑)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑、市葬) 
文学碑など(仙台) 土井晩翠歌碑、詩碑  1952年(S27)  <樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)

<天地有情>
* 1949年(S24)4月、市内本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置

<荒城の月>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、晩翠会が、「荒城の月」の銅板をはめた詩碑を仙台城址天守台(天主台)につくり、除幕式
(「仙台市史 続編第2巻」P270、「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台年表」P210、「仙台城」P235)

* 1952年(S27)10月19日、晩翠逝去(81歳) / 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が「荒城の月」詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189) 
佐々久著「仙台の散策」/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189~190、P270~271/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235  「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(晩翠詩碑「荒城の月」)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑) 
宮城県図書館(戦後) 榴ヶ岡へ移転/泉区へ移転  1968年(S43)/1998年(H10)  <榴ヶ岡へ>
* 1968年(S43)1月17日(18日?)、榴ケ岡に新築移転し開館
<泉区柴山へ>
* 1998年(H10)3月21日、泉区芝山に新築移転し、開館 
「重訂 宮城県郷土史年表」P637/「市民の戦後史(仙台市)」P208  「市民の戦後史(仙台市)」P208(榴ヶ岡の宮城県図書館外観、閲覧室) 
梅田川清掃運動 開始  1965年(S40)  <梅田川浄化運動>
梅田川は、急速に発展した住宅街を流れるため、ごみが投げ捨てられ、汚水が流れ込み、きたない川の代名詞のようにいわれていたが、市民が汚水と悪臭の追放に取り組む / 毎月16日の「町ぐるみ清掃の日」に、流域住民総出で清掃 / 当初3年計画だったが、1年半で目標を達成した

* 1964年(S39)10月(S40年3月?)、苦竹、中江地区の12町内会4200世帯と地域の衛生団体、東保健所などが参加して、梅田川浄化推進協議会結成
* 1965年(S40)3月29日、梅田川浄化運動大会
* 1965年(S40)5月、小田原から荒巻神明町にかけての29町内会による、北部地区梅田川環境美化推進協議会発足

* 1965年(S40)夏、ドジョウやフナを放流
* 1966年(S41)10月、美しい町づくり全国コンクール最優秀賞受賞(テレビで全国に紹介)

<他の地域へ波及>
このあと、六郷堀清掃運動(1968年3月~)、広瀬川、七郷堀、郡山堀など市内各地に河川浄化の取り組みが生まれる
* 1968年(S43)5月、これら運動団体で仙台市愛護会結成
* 1980年代までに河川愛護会の構成団体は10団体となり、梅田川、広瀬川、七北田川、郡山堀、六郷堀、七郷堀、藤川で運動継続、毎年1万人以上が清掃の参加 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P248~249、P680/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 特別編4 市民生活」P541~542  「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(ごみ捨て場となった梅田川)/同P430(S41年、市民が梅田川清掃)/「市民の戦後史(仙台市)」P189と「新・目で見る仙台の歴史」P191に「市民総出で梅田川清掃作業」/「市民の戦後史(仙台市)」P189(フナを放流) /同P212(住民たちが六郷堀川さらいで清掃)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(七郷堀を市民が清掃作業) 
東北大学 沿革(2)  1958年(S33)~1989年(H1)  <校舎建設 / 研究成果 / そのほか> 
* 1958年(S33)4月14日、工学部校舎5棟焼失
* 1961年(S36)、青葉山・川内地区へ統合移転計画発表
* 1962年(S37)4月2日、川内に大学講堂竣工(二の丸勘定所跡、創立50周年記念)
* 1962年(S37)8月3日、東北地方国有財産審議会、青葉山開拓地を東北大学建設用地として払下げ決定
* 1962年(S37)12月12日、科学計測研究所に、わが国最大の大型太陽炉を建設
* 1964年(S39)3月18日、青葉山開拓地問題が解決し、川内への移転工事着手
* 1964年(S39)4月28日、工学部校舎起工式(青葉山)
* 1965年(S40)9月、農学部の青葉山移転拒否の無期限スト
* 1967年(S42)7月1日、電子リニアック研究所開設
* 1969年(S44)3月、青葉山に工学部校舎完成、移転
* 1969年(S44)4月14日、教養部、火事で2教室を焼く
* 1973年(S48)9月、二の丸跡に、文科系研究・講義棟完成
* 1975年(S50)、片平丁構内に100万ボルト電子顕微鏡取付
* 1975年(S50)12月5日、薬学部(青葉山)に全国初の実験動物慰霊碑建立
* 1976年(S51)4月1日、大学評定河原球場を市民に開放
* 1976年(S51)5月23日、工学部(青葉山)で八木アンテナ八木秀治の胸像除幕
* 1984年(S59)9月、工学部金属材料工学科特殊金属研究室、KS鋼の40倍の強さのスーパー磁石開発
* 1986年(S61)8月、電気通信研究所で、簡易型走査トンネル顕微鏡開発
* 1986年(S61)11月3日、青葉記念館建設(仙台高等工業学校創立75周年・東北大学工学部創立60周年記念)
* 1987年(S62)2月13日、工学部と金属材料研究所が、強磁場に耐える超伝導材料開発
* 2017年(H29)4月、農学部が青葉山新キャンパスへ移転

<学部・大学院・附置研究所等一覧>
最新時点の一覧は、東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」にある https://www.tohoku.ac.jp/japanese/academics/ 
東北大学HP/東北大学HP掲載「沿革図」
/「重訂 宮城県郷土史年表」P588、P604、P605、P607、P613、P633、P648/「続・ 宮城県郷土史年表」P23、P42、P48、P53、P55、P181、P210、P213、P219/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P299/「市民の戦後史(仙台市)」P39

年月日などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした

1989年(H1)以降の年表は、東北大学HP記載「沿革」)参照https://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/02/about0203/

 
「市民の戦後史(仙台市)」P39/同P141(東北大学科学計測研究所の太陽炉、川内の記念講堂)/同P178(青葉山に建設された東北大学の新校舎群)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(画面左上に、記念講堂、S38、カラー)/「宮城県百科事典」757(理学部、川内キャンパス) 
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 
1945年(S20)8月9日~10日  <松島海軍航空隊への攻撃>
 8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた

<軍の工場への攻撃>
・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷
・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける
 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236   
フジビール 販売開始  1921年(T10)  <東洋醸造>
* 1919年(T8)、仙台の福島揁蔵が仙台市小田原長丁通に、東洋醸造を開業、フジビールを売り出す(「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347)
* 1921年(T10)9月23日、東洋醸造開業(小田原長丁通)(「仙台市史 年表」P100、「新・目で見る仙台の歴史」P153)

<麒麟ビール仙台工場>
* 1923年(T12)8月に麒麟ビール株式会社に買収され、その仙台工場となる / 従業員224名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P347、「仙台市史 年表」P102、「新・目で見る仙台の歴史」P153) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347/「仙台市史 年表」P100、P102/「新・目で見る仙台の歴史」P153  「目で見る仙台の歴史」P151と「新・目で見る仙台の歴史」P153に、「東洋醸造工場」(大正10年開業)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P347(大正11年ころ、東洋醸造工場内部)/「仙台はじめて物語」口絵写真(フジビール工場) 
高等学校(新制) 東北電子工業高等学校/東北工業大学電子工業高等学校/東北工業大学高等学校/仙台城南高等学校  1960年(S35)/1965年(S40)/1994年(H6)/2013年(H25)  <東北電子工業高等学校>
* 1960年(S35)10月、学校法人東北電子学院、設立 
* 1961年(S36)4月、東北電子工業高等学校を開校
* 1961年(S36)4月、 東北大学片平キャンパス中央講堂で、開校式、第1回入学式 / 電子工学科、無線通信科、別科 / 東二番丁通りの仙台地方貯金局庁舎(現 仙台中央郵便局)とその元庁舎が仮校舎 / 二学期から太白区八木山松波町の校舎に移転
* 1964年(S39)4月、電子工学科を電子科に改称、無線通信の募集停止
* 1964年(S39)6月、普通科教室、体育館完成

<東北工業大学電子工業高等学校>
* 1965年(S40)4月、法人名を学校法人東北工業大学に改称(前年に東北工業大学を開学) / 学校名を東北工業大学電子工業高等学校に改称。
* 1966年(S41)4月、無線通信科を廃止、普通科を設置(普通科、電子科の2学科となる)

<東北工業大学高等学校>
* 1994年(H6)4月、 東北工業大学高等学校に改称 / 普通科を4コース(英数/文系/理系/教養)、電子科を4コース(制御技術/情報技術/電子技術/理数工学)とする
* 1999年(H11)4月、普通科を男女共学とする
* 2004年(H16)4月、電子科を男女共学とする

<仙台城南高等学校>
* 2013年(H25)4月、学校名を仙台城南高等学校に改称。特進科(文系/理系)、探究科(文系/理系)、科学技術科(メカトロニクス/情報通信/情報デザイン/電力技術)の3学科を設置 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P511/Wikipedia「仙台城南高等学校」2020年9月2日版   
仙台空襲 東北軍管区発表/号外記事  1945年(S20)7月10日  <東北軍管区発表 7月10日午前8時>
「B29百機来襲/仙台市街猛爆/各所に火災、生産陣異状なし  敵約百機は今十日零時五分頃より約二時間三十分に亘り仙台市中心部に対し無差別焼夷攻撃を加へ来り市内各所に火災発生せるも概ね五時頃には鎮火せり。市民はかねて準備せられありたる食糧並附近町村よりの炊出しにより本朝直ちに配給を受け逐次指定収容所に復帰し鎮静に帰しつつ市の再建設に向ひ猛進しつつあり。仙台市民は東北一般民衆の粘り強さを如実に発揮しつつあり。」

<河北新報号外 7月10日付>には、
「上記の東北軍管区発表のほか、集団避難の戦災者に、米、味噌、醤油の無料配布を行うこと、片平丁、上杉山通、八幡、東六番丁、連坊小路、五橋、南材木町、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁小学校と第二中学校の十三カ所を罹災者収容所とし臨時市役所出張所を設けて罹災証明書、一般物資配給券を交付することにしたことを報じている。」

・ 「救援物資の配給が本格的になされるのは14日からだが、焼のり、コンニャク、塩、茶などで腹を満たすものはなかった。中古衣料は5人以上の家族に1点、タオル1枚、縫い針2本というもので、ちり紙はひとり25枚というような数量であった。」 
「番丁詳伝」P150~151   
東北帝国大学 沿革(1) ~理科大学・医科大学・工学専門部~  1907年(M40)~1919年(T8)  <東北帝国大学>
* 1907年(M40)6月22日、東北帝国大学、東京、京都につぐ3番目の帝国大学として仙台に創立(設置決定)
・創立に当たり新設経費として、古河虎之助、宮城県、北海道から寄付を受ける(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532)
・古河虎之助から40万6262円、宮城県から15万円、北海道から10万円の寄付(「重訂 宮城県郷土史年表」P338)
・日露戦争後の不況で国庫は不況で国庫は底をついていた。時の内相原敬は、古河合名社の副会長だったが、足尾鉱毒事件への世の批判を和らげ、東北帝国大学創設の行き詰まりを打開しようと、富豪に献金を行わせて100万余円を得た。赤レンガの校舎全部は古河の寄付によった。県の寄付15万円は設備備品費分であった。(「宮城県百科事典」P756)

<東北帝国大学農科大学(札幌)>
* 1907年(M40)9月、札幌農学校が東北帝国大学農科大学となる
* 1918年(T7)4月、農科大学が東北帝国大学から分離独立し、北海道帝国大学農科大学となる

<東北帝国大学理科大学 / 理学部>
* 1911年(M44)1月1日、理科大学を片平丁に開設(3月に、数学・物理学・化学・地質学の4学科12講座を置く)、9月11日授業開始(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532、宮城県百科事典」P756)
* 1913年(T2)9月22日、理科大学、「女性3名が入学して初の女性の帝国大学生となる」(「仙台市史 年表」P96)
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学理科大学が、東北帝国大学理学部に改編・改称される
・ 東北帝国大学理科大学の名称は、M44年~T8年の約10年間 / 理科大学の正門は、理科研脇にあった

<東北帝国大学医学専門部 / 医科大学 / 医学部>
* 1912年(M45)4月、仙台医学専門学校を合併して、医学専門部とする(T7年4月26日、廃止)
* 1915年(T4)7月14日、東北帝国大学医科大学開設
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学医科大学が、東北帝国大学医学部に改編・改称される
<医学専門部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照

<工学専門部>
* 1912年(M45)4月、仙台高等工業学校を合併して、工学専門部とする
* 1921年(T10)4月1日、工学専門部が分離独立し、再び仙台高等工業学校となる → 項目「仙台高等工業学校」参照 
東北大学HP掲載「沿革図」http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2011/pdf/gaiyo2011_05.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%AD%A6+%E6%B2%BF%E9%9D%A9%27

設置年月などが下記年表と東北大学HP「沿革図」と異なる場合は「沿革図」を基本にした

「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P94、P95、P96、P97、P98、P100/「仙台市史10 年表」P239、P286、P313/「重訂 宮城県郷土史年表」P338、P348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532 
「新・目で見る仙台の歴史」P141(M44年、東北帝国大学開学式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P256(T5年、教師・学生記念写真、日本初の女子大生牧野らくも写る)/同P257(T2年、女子入学に対する文部省の意見書)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P263(女子入学を風刺する「東京パック」) /理科大学は、18-1899-06399-064/医科大学は、99-06653-60/「宮城県百科事典」P756~757(片平丁の大学本部写真、昭和4年頃の片平丁校舎構内) 
天皇、仙台行幸 昭和天皇(2)  戦後  <東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)

・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)

* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる

   ****** 以上、昭和40年まで ****** 
「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180  <昭和22年行幸> 「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-0153-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174) <昭和30年行幸> 「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻) <昭和38年行幸> 「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻) 
仙台七夕 天皇を七夕飾りで歓迎  1947年(S22)  <東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察) / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)

・ 「5日の夕、常磐炭鉱・平市を経て仙台入りをなされた陛下御一行が予定外のを五彩の吹流しがトンネルをつくる飾りつけの中を一本杉の伊達邸に入られた。市中のコースについては各商店ともぜひわが町をご通過いただきたいとその要望合戦は激烈であったが、予定外の新伝馬町も加えられている。河北新報は「紙吹雪のなかを歓呼にゆれて進む御料車」の見出しで伝えた。この年七夕飾りを行った家は約五千軒、中心部の商店の中には1本に2万円もかけた店もあった。」(「番丁詳伝」P157)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町のさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180) 
「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520/「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180/「番丁詳伝」P156~157  S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-0153-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「番丁詳伝」P157) 
東北学院(沿革) 戦前期  1891年(M24)~1945年(S20)夏  <東北学院>
* 1891年(M24)9月11日、東二番丁南町通角に仙台神学校新校舎(赤煉瓦造2階建スレート屋根、方形五層の塔および円錐形スレート屋根の円塔、城郭風ゴシック建築)が完成 / 仙台神学校、その年に校名を「東北学院」と改称し、予科2年・本科4年・神学部3年とする
* 1895年(M28)、予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、さらにその上に神学部3年を置く

<仙台日本基督教会→東二番丁教会→東一番丁教会>(「番丁詳伝」P193)
* 1902年(M34)10月、仙台日本基督教会献堂式挙行(東二番丁南町通角・仙台神学校校舎に隣接、木骨赤レンガ造り、壁柱と窓縁は御影石、スレート葺きで中央に方形の塔、ドイツ人リチャード・シール設計)
* 1931年(S6)、東二番丁教会と改称、S20年仙台空襲で焼失
* 1951年(S26)5月、敷地を三馬弘進ゴムに売却し道場小路(現・一番町1丁目)に移転、
* 1953年(S28)、献堂式を行い東一番丁教会と改称
* 1955年(S55)、パイプオルガン設置

<東北学院>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部とし、文学部を文科、神学部を神学科と改称 / 東二番丁に普通科校舎完成。
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1918年(T7)、専門部を改組、神学科・文科・師範科・商科とする
* 1919年(T8)3月、南町大火のため中学部校舎(東二番丁)全焼
* 1922年(T11)6月、中学部校舎再建(東二番丁・通称赤レンガ校舎)  
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
* 1926年(T15)、専門部校舎落成(南六軒丁)~設計:横浜のモルガン、建築:新田工務店、鉄筋コンクリート3階建~
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、ラーハウザー礼拝堂献堂式(南六軒丁) / シャンデリア、スチーム、鉄柵などは戦時に供出
* 1937年(S12)、神学部廃止(東京日本神学校と合同)
* 1940年(S15)5月、南町通旧神学部校舎および敷地を日産株式会社に売却
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置(S20年12月、工業専門学校と改称、S22年廃止)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半を失う 
「目で見る仙台の歴史」P122、P164/「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P36、P65~P69/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P84、P85、P87、P91/「仙台市史10 年表」P268、P278/「番丁詳伝」P193 
「新・目で見る仙台の歴史」P139(仙台神学校)/「東北学院創立七十周年写真誌」P11とP50に、南町通の仙台神学校校舎、P11に同玄関と講堂内景/「目で見る仙台の歴史」P112に南町通りの仙台神学校(東北学院神学部)/同P149に「専門部校舎(大正15年)」/99-068(神学部校舎)、43-30(神学部校舎と東二番丁教会)/「目で見る仙台の歴史」P138と「市民の戦後史(仙台市)」P23に、「日本基督教会」/目で見る仙台の歴史」P164に「ラーハウザー礼拝堂」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P124(日本基督教会堂) 
大学・短大 東北薬科大学 → 東北医科薬科大学  2016年(H28) ~  <東北医科薬科大学>
* 2016年(H28) 4月、法人名を「学校法人 東北医科薬科大学」に、大学名を「東北医科薬科大学」に、「東北薬科大学病院」を「東北医科薬科大学病院」に変更 / 医学部医学科開設 第1期生入学
* 2016年(H28) 4月、「東北医科薬科大学若林病院」開設
* 2017年(H29) 2月、医学部第2教育研究棟(地上2階建、延面積)完成
* 2017年(H29)9月、「東北医科薬科大学名取守病院」開設
* 2018年(H30) 1月、医学部第1教育研究棟(地上7階建)完成
* 2019年(H31) 1月、東北医科薬科大学病院 新大学病院棟(地上8階建)完成  
東北医科薬科大学HP(2018年)   
物価上昇 地価狂乱(バブル)  1987年(S62)~1991年(H3)  <東京>
* 1987年(S62)1月、東京で地上げが始まって地価上昇
* 1987年(S62)4月、東京の地価狂乱、53.9%上昇
* 1987年(S62)9月30日、東京の地価、1年で85.7%上昇
* 1988年(S63)9月14日、大都市の地価、狂乱高騰

<仙台>
* 1988年(S63)4月1日、国土庁発表地価公示で、仙台市は29%上昇
* 1989年(H1)1月27日、仙台国税局が最高路線価格発表、平均17.8%上昇
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
* 1991年(H3)7月1日、都道府県地価(基準地価)は、仙台で、住宅地6.7%、商業地8.5%上昇 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P82、P83、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P242、P258、P272   
高等学校(新制) 東北学院中学校・高等学校(戦後期)  1947年(S22)~2005年(H17)  <東二番丁・新制中学校・高等学校>
* 1947年(S22)4月、東北学院中学校発足
* 1948年(S23)4月、東北学院高等学校が発足
* 1949年(S24)、中学校木造校舎6教室落成
<鉄筋コンクリート校舎>
* 1951年(S26)、高・中学校理科教室3階建て落成
* 1955年(S30)までに、中学校校舎鉄筋コンクリート造3階建9教室、体育館など6棟完成
* 1958年(S33)4月、中学校赤レンガ校舎は都市計画により9教室を失う(戦後の東二番丁通り拡幅に伴い、赤レンガ校舎の一部(東側部分)が道路拡幅部分にかかるため、取壊された)
* 1958年(S33)4月、中学校・高等学校鉄筋コンクリート造4階建8教室完成

<新校舎と礼拝堂>
* 1970年(S45)11月、中学校・高等学校新校舎、礼拝堂完成

<赤レンガ校舎にお別れ>
* 1978年(S53)6月、中・高校の赤レンガ校舎、宮城県沖地震のため一部倒壊
* 1979年(S54)3月8日、中・高校の赤レンガ校舎見送り式(取壊し)(「続・ 宮城県郷土史年表」P93)
* 1979年(S54)4月、中学校校舎の礎石から、明治・大正のタイムカプセル発見

<シュネーダー記念館>
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内に、シュネーダー記念館完成(重訂 宮城県郷土史年表」P564)

<中学校・高等学校移転>
* 2005年(H17)1月、東二番丁→宮城野区小鶴へ移転 
「東北学院」HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表P69~70/「重訂 宮城県郷土史年表」P564/「続・ 宮城県郷土史年表」P93/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513/Wikipedia「東北学院大学短期大学部」  <赤レンガ校舎> 62-1136-0336-06(S24完成木造校舎、S26年とS30年完成のコンクリート校舎も写る) <シュネーダー記念図書館>「東北学院創立七十周年写真誌」P63の写真 
東北学院中学部 東二番丁(赤レンガ校舎)
 
1922年(T11)
 
<東二番丁・再建校舎=赤レンガ校舎>
・ 南町大火で焼失した東二番丁の旧校舎の跡地に再建
・ 鉄筋コンクリートレンガ張り(通称「赤レンガ校舎」)
・ 正面入り口に「LIFE LIGHT LOVE」が掲げられている

* 1922年(T11)6月、新校舎建築(赤レンガ校舎)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災(外観は残る)

<名称変更>
* 1943年(S18)、中学部→中学校 
「東北学院創立七十年写真誌」P32~35 /「東北学院」HP  「東北学院創立七十年写真誌」P33~35、P44、P60の写真  
警察署 仙台中央警察署  1966年(S41)~  <東三番丁時代>
* 1966年(S41)4月1日、勾当台地区(定禅寺通り北側に面して)あった仙台北警察署の建物を仙台中央警察署(新発足)とし、仙台北警察署は荒巻に新設移転

<一番町4丁目へ移転>
* 1970年(S45)3月25日、仙台中央警察署が、現・一番町4丁目に新庁舎を建設(旧・仙台北税務署跡、森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)
* 1973年(S48)6月、仙台中央警察署で、東北初の交通管制システム始動

<五橋ヘ移転>
* 2005年(H17)、青葉区五橋1丁目(JR仙台病院の跡地の一部)に新築移転 
「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P20/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)   
警察署 仙台北警察署  1944年(S19)~  <東三番丁時代>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署(東三番丁)が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307)

<荒巻へ移転>
* 1966年(S41)4月、従来の仙台北警察署の建物は仙台中央警察署となり、仙台北警察署は荒巻に新設移転した(「仙台市史 年表」P124、「重訂 宮城県郷土史年表」P625)
 
「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)  18-1044-4144-31/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807に、仙台中央警察署庁舎(元、北警察署)/同P803に、「中央署の新設に伴い新築した北署」(昭和41年4月) 
敗戦後の諸相・仙台 町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈    <東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75) 
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」

・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。 
 東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
 一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
 人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
 こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
  三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102   
広瀬川の清流を守る条例 制定  1974年(S49)  <条例制定以前>
* 1956年(S31)から、アユを放流
* 1968年(S43)6月、カジカ500匹放流

<条例制定>
* 1974年(S49)9月28日、広瀬川の清流を守る条例、仙台市が制定 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209/「仙台市史 年表」P129   「仙台市史 特別編4 市民生活」P240(S28年ころ、広瀬川で水遊びする子ら) /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209の写真61(カジカの放流)/「市民の戦後史(仙台市)」P212(S43年5月の稚アユ放流、S43年6月のカジカ放流)/「新・目で見る仙台の歴史」P190(カジカ放流)と(釣り人たち) 
青年団 女子青年団    <未婚女性の組織化>
・ 明治末期~大正期、全国的に「処女会」や「女子青年会」に組織化
* 1927年(S2)、処女会が、大日本連合女子青年団(全国的統一組織)に発展し、女子青年団に編成替え推進
・ 女子青年団は、男性の学校長や教員が主導する形が多い
・ 宮城県女子青年団、「郷土婦人のかがみ」編纂刊行(過去に褒賞された県下の庶民女性たち中心に235人を「婦女の鑑」として讃え紹介、登場女性は大部分が、貧窮生活の中で老親や夫、兄弟を扶養し、あるいは彼らの看護・介護に粉骨砕身の苦労を続けた姿を紹介、当時は日露戦争、第一次世界大戦を経て、経済恐慌や凶作が続き、家が崩壊の危機に瀕していた時代。女子青年団は主婦予備軍である未婚女性たちに、自己犠牲と献身によって家族を支えることを婦徳として教える修養の場として大きな意味を持っていた。

* 1933年(S8)以降、市内の各尋常小学校を拠点に、単位女子青年団の結成が進む
・ 1936年(S11)には東二番丁女子青年団をはじめとして16の単位組織が結成されており、これらを統合して仙台市連合女子青年団を組織(総数2029人)
・ 活動は、建国祭への参加、愛国婦人会と共同で婦人報国祭の開催など教化的事業、ラジオ体操・遠足など集団行動訓練、神社の境内清掃や生活改善講習会などの社会的事業、編み物・漬物講習会など

<戦時下の女子青年団>
* 1939年(S14)、仙台市連合女子青年団が仙台市女子青年団と名称変更
・ 活動は、従来の講習会・遠足・建学などのレクリエーション的行事を自粛
・ 教養部(国籍調査・合同訓練・団報発行など)、奉仕部(勤労奉仕・集団勤労などの公共的活動)を新設

<女子青年義勇隊>
・ 公共的精神を涵養し婦道を発揚させるという目的のもとに女子青年義勇隊も結成 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P455、P457   
冷害・凶作 昭和6年  1931年(S6)  <昭和6年>
* 1931年(S6)、冷害
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4、昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)

<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい 
仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357  「仙台市史 特別編4 市民生活」P356(宮城県の米収穫高グラフ)/同P360(婦女売買救済運動本部設置をつたえる新聞記事)/同P361(窮民救済のため設けられた公益質屋) 
戦後教育・仙台 学校給食    <昭和戦前期>
* 1932年(S7)、経済不況と社会事情による欠食児童対策として開始
* 1940年(S15)、栄養不良児、身体虚弱児対象とした味噌汁給食実施
* 1944年(S19)、全児童対象に雑炊給食開始するも、戦争により中止

<戦後・小学校>
* 1946年(S21)、米軍の放出物資により缶詰給食で再開
* 1951年(S26)2月、全小学校で完全給食体制
* 1954年(S29)、学校給食法
* 1956年(S31)、文部大臣表彰制度実施 / 仙台の7校が文部大臣賞
* 1958年(S33)から、完全給食実施校に栄養士必置制
* 1967年(S42)5月、初の学校給食高砂センター完成(1万5000食、小学校3校・中学校13校に配送)

<夜間定時制高校>
* 1961年(S36)9月、ミルク給食開始
* 1962年(S37)7月、全額設置者負担で夜間給食開始 / S44年5月に図南高校にも実施され、定時制3校で完全給食実施

<中学校>
* 1963年(S38)9月、依託混合乳によるミルク給食開始
* 1967年(S42)5月、学校給食高砂センター完成により、中学校22校中13校が一挙完全給食に移行 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P458~461/「市民の戦後史(仙台市)」P196  「仙台市史 特別編4 市民生活」P106(S19年、戦時中の東二番丁国民学校の学校給食/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P459の写真133(小学校の給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P147(S38年9月、中学校給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P196(学校給食高砂センター(調理場、配送トラック群)/「新・目で見る仙台の歴史」P194、P195(学校給食高砂センター、外観、調理場、カラー) 
伝染病流行 仙台・戦後流行  昭和20年代以降  <昭和20年代>
* 1945年(S20)、腸チフス・パラチフス555人、ジフテリア480人、
* 1946年(S21)、腸チフス・パラチフス313人、ジフテリア293人、発疹チフス383人、戦後引き揚げ者とともに持ち込まれ流行した痘瘡が50人
* 赤痢は、S21~22年に仙台で約1000人、S25~S27には連続して爆発的に発生し、榴岡病院(仙台市立の伝染病専門病院)は、畳敷きの部屋まで病室に転用

・ 結核、社会各層に蔓延、S27年ころから目に見えて患者数、死亡率とも減少
・ 戦後、生活環境がもっとも悪化した時期で、ノミ、シラミ、ハエ、蚊、ダニなどが、S24年頃まで広範囲に発生、その後減少、ノミ、シラミ、ダニの類は全く姿を消した

<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったという / 同年冬には仙台駅頭で撒布

<昭和30年代以降>
・ 小児マヒ 1959年(S34)に34人、1960年(S35)に18人 / 生ワクチン普及で発生激減
・ 赤痢、S35年の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)、S37年11月名掛丁に集団赤痢発生、S41年4月の集団赤痢216人
・ 腸チフス・パラチフス、29年以降は年間10人以下だったが、1967年(S42)9月、市内で集団発生あり患者57人

<榴ヶ岡病院(伝染病専門病院)・病名別収容患者数>
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P720に、「S20~42年度の伝染病別収容患者一覧表」 ・・・ S24年以降は、赤痢患者数が全伝染病のトップ
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81、P672~676、P682、P718~721   
映画館(戦前) 仙台の映画館と劇場一覧  昭和11年頃  <映画館>
・ 東一番丁(中央部)  日活館(日活契約、椅子席)
・  同(日の出横丁) 日乃出映画劇場(P.C.L特約、椅子席)
・ 東一番丁(南部)  文化キネマ(松竹特約、椅子席)      
・ 東三番丁      読売会館(新興契約)
・ 河原町       (第二)パテー館(大都契約)
・ 国分町       世界館(大都特約)
・ その他       公園館(大都特約)
            廣瀨座(新興契約)

<このころから、映画に対する統制が強まる>
・ 1934年(S9)、内務省、映画統制委員会を中央に設置 / 映画は国策の一環に組み入れられ制約をうけてゆく
・ 1936年(S11)夏、これまで自由配給されていた欧米映画に対する干渉が高まり、検閲が苛烈になってゆく 

<劇場>
・ 仙台歌舞伎座(国分町、大正9年開座、収容力1200)→ 項目「仙台歌舞伎座」参照
・ 仙台座(南町通・東四番丁角、明治23年開座、収容力1800) → 項目「仙台座」参照
・ 東一館(収容力500 / 東一番丁、大正6年開業)              
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P72/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352(東一館の開業年)   
洋食屋(仙台) 開店時期  明治期  <明治期>

・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
   北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
    1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
    洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
    洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
   → 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352   
天皇、仙台行幸 明治天皇  1876年(M9)~  <明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)

<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)

<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233) 
「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233  「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式) 
第二師団(出兵記録)(2) 出兵記録(凱旋・慰霊などを含む)  明治年間(2)  <日清戦争>
* 1894年(M27)10月29日~11月3日、第二師団が遼東半島・山東半島への出征のため、長町軍用駅から出発(「市史年表」P89) 
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月22日、宮城県凱旋部隊歓迎会(挹翠館)
(「仙台市史10年表」P210)

<日露戦争>
* 1904年(M37)2月17日、第二師団、長町駅から出兵を始める(「市史年表」P92)
* 1905年(M38)12月24日、第二師団師団司令部凱旋、日露戦役凱旋式を挙行(「仙台年表」P180 =出典:第二師団司令部「仙台城沿革」S12年刊) 
* 1906年(M39)4月1日、第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる(「市史年表」P93)

<韓国駐箚>
* 1910年(M43)4月、第二師団、韓国守備に派遣される(市史年表P95)
* 1910年(M43)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を発つ(Wikipedia「第二師団」)
* 1912年(M45)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着(Wikipedia「第二師団」) 
「仙台市史10 年表」P210/「仙台市史 年表」P89、P92、P93、P95/「仙台年表」P180/Wikipedia「第二師団」/「宮城県の百年」P99  「新・目で見る仙台の歴史」P136(日清戦争で長町臨時停車場からの出発風景/「出征」する軍馬)/「目で見る仙台の歴史」P131(日清戦争で「長町から乗車出征する第二師団」「凱旋門」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P302~303(長町停車場で日清戦争出征将兵見送り、絵図「同戦争からの帰還を迎える市民たち」)/同P306(日露戦争凱旋門と帰還兵士を迎える市民たち)/「新・目で見る仙台の歴史」P136(「日露戦争将兵の帰還」/「正装の日赤従軍看護婦たち」)/同P137(「仙台の日露戦争凱旋門」/「軍事郵便」)「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?) 
国鉄(日本鉄道時代) 東北本線  1887年(M20)~1906年(M39)10月  <日本鉄道時代>
* 1887年(M20)12月15日、開業
   (当時は私鉄・日本鉄道で、塩釜まで開通)
* 同年12月20日、東京・仙台間の開通式挙行
* 1891年(M24)9月1日、仙台~青森間が開通 
「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87   

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特急ひばり
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名掛丁商店街
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日本鉄道
日本農民組合
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光ヶ丘天使園
飛行船「雄飛号」
飛行大会
ひとにやさしいまちづくり条例
ヒトラーユーゲント一行が来県
日乃出映画劇場
ひらつか(東一番丁)
ビル建設
広瀬川の清流を守る条例
広瀬通り
広瀬橋(広瀬川)
プール
フェリー
俯瞰撮影禁止など
福祉ボランティアのまちづくり事業
富国生命館(国分町)
藤崎
フジビール
婦人参政権獲得運動
婦人の社会活動(戦後・仙台)
婦人標準服
普通選挙要求運動
物価上昇
二日町大火
復興盆踊り
仏舎利塔
ブラザー軒
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場
文学碑など(仙台)
文化勲章
文化財指定
文化横丁
兵役制度
米軍進駐
兵事義会/銃後奉公会
ベガルタ仙台
ペデストリアンデッキ
ヘレンケラー女史
奉安殿
防空演習
ポケットベル
歩行者天国(東一番丁)
ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
松島パークホテル
松永正敏中将
松原街道
マナスル登頂成功
丸光
満年齢
満蒙開拓
右側通行
水の森スケート場
三越(仙台店)
緑と花いっぱい運動
緑の団地条例
南町大火
南町通り(多門通り)
三原時計店
宮城学院
宮城教育大学
宮城県沖地震
宮城県会議事堂(明治時代)
宮城県旗の図案
宮城県弘報誌「みやぎ」
宮城県県民の森
宮城県護国神社
宮城県社会福祉事業会館
宮城県スポーツセンター
宮城県青年会館
宮城県青年の船
宮城県第二総合運動場
宮城県庁舎
宮城県町村会館
宮城県図書館
宮城県美術館
宮城県物産陳列場(芭蕉の辻)
宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館
宮城県武道館
宮城県民会館
宮城県理科教育センター
宮城県立青年の家
宮城控訴院(赤タイル庁舎)
宮城交通
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宮沢橋(広瀬川)
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メートル法
明治三陸地震津波
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名水百選
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名誉市民
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木材応召
木炭バス
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森天祐堂
森徳座
杜の都の環境をつくる条例
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