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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市の消防 |
仙台市消防本部 |
1947年(S22)以降 |
<自治体消防>
* 1947年(S22)4月、消防団令公布 / 消防団長は市長が任命し、消防の運営は消防委員会があたる
* 1948年(S23)3月、消防組織法公布
* 1948年(S23)11月1日、自治体消防本部発足 / 従来の常備消防は消防本部のもとに統合、仙台市北・南消防署に改編設置 / 同年12月、常備消防部員を全員、消防吏員として採用 / 北と南の消防署、5分遣所、消防車11台
* 1951年(S26)、北消防署庁舎(鉄筋コンクリート2階建て)を北一番丁の元特別調達庁跡に新築し、消防本部と北消防署が移転
* 1951年(S26)以降、毎年、防火用水を建設、S31年までに計31か所新設
* 1952年(S27)、南消防署の望楼を鉄塔に改築
* 1957年(S32)7月1日、東消防署開庁、ブロック2階建て望楼付き
* 1959年(S34)2月、3段式16mハシゴ車1台を北署に配置
* 1959年(S34)3月、泡消火剤など装備の科学消防車1台を南署に配置
* 1959年(S34)5月、仙台市消防音楽隊(隊員30人)発足
* 1960年(S35)、片平丁出張所を再建(戦災で焼失廃止されていた)
* 1961年(S36)4月1日、仙台市消防局に、初の救急車、救急隊(3人)配置
* 1963年(S38)、南消防署を新弓の町に改築
* 1965年(S40)12月17日、南消防署に化学消防車配置
* 1966年(S41)8月、東北初の特別消防隊(消防レインジャー部隊)編成し、訓練開始
* 1966年(S41)12月1日、北消防署に、32メートル高層梯子車を配備
* 1968年(S43)3月、排煙車配備
* 1969年(S44)5月1日、望楼勤務を廃止(ビル増設とスモッグのため市街の展望不能となる)
* 1975年(S50)11月20日、仙台初の20m級スノーケル車を南消防署連防出張所に配置
* 1983年(S58)8月25日、東消防署は、苦竹3丁目の新庁舎に移転
* 1989年(H1)月日、仙台市泉消防署に36mはしご車配備
* 1996年(H8)4月、仙台市消防局、県内ではじめて女性消防士採用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P813~818、P831~831、P845/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P622、P627、P628、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P165、P258/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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20-04/「目で見る仙台の歴史」P182/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P816に、消防本部・北消防署庁舎/同P846の写真210(排煙車)/「市民の戦後史(仙台市)」P104(16mハシゴ車)/同P130(救急車)/同P180(出初式一斉放水、レインジャー部隊訓練)/同P210(排煙車)
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仙台市の消防 |
自治体消防以前 |
明治~昭和21年 |
* 明治初期、町火消組織化
* 1919年(T8)、南町大火で700戸焼失
<常備消防>
* 1924年(T13)、国分町の仙台警察署内に消防車2台、班員8人を常置
* 1927年(S2)、第二常備班(荒町)開設
* 1935年(S10)、常備消防部設置 / 第一常備部を「仙台常備消防本部」へ、第二(荒町)、第三(原町)、第四(長町)の各常備班を「分遣所」へ改称
<警防団の常備消防部となる>
* 1939年(S14)、警防団令公布 / 消防組は、民間防空組織の「防護団」と合して「警防団」と改称され、「仙台警防団常備消防部」となる
* 1944年(S19)4月、仙台南警察署開設とともに「南警防団常備消防部」設置
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北常備消防部と狐小路分遣所が消失
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P814~815
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仙台市の消防 |
消防団(戦後) |
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* 1948年(S23)、発足 / 北・南消防団で1470人、腕用ポンプ56台、手引きガソリンポンプ11台
* 1950年(S25)9月、原町、岩切など7分団を支団と改称、定員1800人
* 1957年(S32)3月、9支団を再び分団と改称、地域の事情により水防部も併置
* 1967年(S42)末の消防団組織図(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822)計1654人
・ 北消防団に、1本部13分団
・ 南消防団に、1本部14分団
・ 東消防団に、1本部6分団
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P821~822
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仙台市の消防 |
市民の取組など |
1951年(S26)~1968年(S43)頃 |
<町ぐるみ消防訓練>
* 1956年(S31)4月、第1回烈風時消防演習
* 1960年(S35)2月、大規模な夜間演習
<自営消防隊>
・ 各職場における火災発生防止
<婦人防火クラブ>
* 1962年(S37)5月、生出地区で「萩の台婦人防火クラブ」結成、ポンプ操法など実施
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P827の表198に、S43年4月現在のクラブ一覧(27クラブ)
<少年消防クラブ>
小中学校単位に結成、防火思想と消防一般の知識を学ぶ防火教室開催、器具操作など
* 1951年(S26)4月10日、西多賀小学校少年消防クラブ
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P828の表199に、S43年4月現在のクラブ一覧(20クラブ)
<ハシゴ乗り保存会>
* 1965年(S40)12月、結成 / 後継者難でS39年出初式では中止していたが、S41年出初式から再登場
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P823~828
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仙台市電 |
仙台空襲被害と復旧 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(計6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315)
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P315)
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87)
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了(「仙台市史10 年表」P309)、全線運行再開(「仙台市史 年表」P113)
・仙台空襲時、全車両(52輌)は奇跡的に全車無事 / 車両は、北二番丁車庫、北仙台線、八幡町線の終点と秋保電鉄車庫に分散しており焼夷弾攻撃を免れた / 空襲被害は片平車庫が全焼、中心部各所で架線が垂れ落ちる / 復旧工事により、空襲翌日には荒町~長町間で運転再開、仙台駅前~荒町間8月3日、敗戦13日後の8月28日に全線で運転再開(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315/「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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35-15(仙台駅西側付近の焼け跡に市電車両が写る)
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仙台市博物館 |
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1961年(S36)/1986年(S61) |
* 1951年(S26)12月、旧仙台藩主伊達家が、伝来の文化財を市に寄贈、覚書を交わす
* 1961年(S36)6月、仙台城三の丸跡に、第1期工事(鉄筋コンクリート2階建)完成(湿気抜きのため、開館は翌S36年10月10日)/ 落成記念特別展覧会「桃山美術名宝展」
* 1963年(S38)第2期工事、1968年(S43)第3期工事完成
* 1969年(S44)4月、増築完成(新館)
* 1986年(S61)3月1日、新装オープン(新博物館)
<「伊達家寄贈文化財目録」発刊>
・ 古文書古記録類約8000点、美術工芸品類約4000点
・ 1965年(S40)12日、古文書編Ⅰ / 1966年(S41)12月、古文書Ⅱ・記録編 / 1968年(S43)6月、美術工芸編
<収集活動>
・「慶長遣欧使節関係資料」(S41、国の重要文化財指定)など郷土関係資料の収集保存
<関連>
(1) 「魯迅の碑」 1961年(S36)12月4日、仙台市博物館前庭に建立、除幕式(発起は、日中友好協会宮城県連合会) / 「重訂 宮城県郷土史年表」P600では、S36年4月に除幕式、魯迅夫人許広平臨席
(2) 「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」 1978年(S53)5月2日、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建 / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている
(3) 「阿部次郎記念散歩道」 1987年(S62)8月21日完成、仙台市博物館起点に1.28km/哲学者・ 阿部次郎東北大学名誉教授(1883~1959年)を記念する散歩道で、石田名香雄総長時代に、生誕百年を記念して大学と仙台市が協力して4kmほどの周回散策路を整備し、「三太郎の小径」と名付けた
(4) 「島野武市長胸像」 1987年(S62)11月6日、博物館前に、建立
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P193~194、P445~447/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P600、P601、P648/「仙台市史 年表」P122、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P203、P228、P232/「日中友好協会宮城県連合会」HP/「市民の戦後史(仙台市)」P217
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194の写真56(博物館の開館式)、P445の写真128(博物館外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P128(完成した博物館外観、収蔵品の「六十二万石の知行状」、二の丸の襖絵)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(魯迅の碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P150(阿部次郎、同氏句碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(展示会場)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(S44年1月、博物館増築完成した建物)
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仙台市科学館 |
開館 |
1968年(S43)5月1日 |
<前身のサイエンスルーム>
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター内にサイエンスルームを設置(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
・実験室、資料室、研究室など
・学校教育では、主に中学3年生対象に実験指導、教職員理科実技講習、科学相談、実験機材・資料の貸出など
・社会教育では、科学見学採集会、科学実験講座、実験のしおり発行など
<仙台市科学館>
* 1968年(S43)5月1日、東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開館(サイエンスルームを統合)
・実験室2室、工作室、講堂、展示室
・市内中学生対象の実験指導、展示活動、教員対象実験講座、一般向け科学のはなし、映画界、採集会など
<台原森林公園内に新築移転>
* 1990年(H2)9月、仙台市科学館が台原森林公園の中に新築移転し開館
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194~195、P439~441、P450~453/「仙台市史 年表」P117、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P630、P640/Wikipedia「仙台市科学館」
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「目で見る仙台の歴史」P180に、レジャーセンター内のサイエンスルーム/「市民の戦後史(仙台市)」P209(長銀ビル内の市立科学館で子供たち、展示物)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(長銀ビル内の科学館)
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仙台市天文台 |
西公園に開台 |
1955年(S30)/2008年(H20) |
* 1954年(S29)12月23日、桜ケ岡公園に建築完成(41cm反射望遠鏡、当時全国4番目の大きさ) / 国分町の板垣金造氏が望遠鏡製作費100万円を寄付
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に)
* 1956年(S31)11月18日、仙台市天文台として観覧業務を開始
* 1968年(S43)5月15日、東北初のプラネタリウム館(250席)が併設される / S42年東北大博覧会(会場:苦竹)で展示された東北初のプラネタリウムを終了後、主催者河北新報社が市に寄付、市が西公園に移設
<観測機器>
41cm反射望遠鏡、運転時計付赤道儀架台に10cm屈折望遠鏡、20cm天体写真儀、20cm反射移動用望遠鏡、人工衛星望遠鏡など
<業務>
・ 学校教育:プラネタリウム学習や天文台実習(市内中学3年生全員、希望する小・高校対象)、課外クラブ利用、教員対象講習、東北各県に講師派遣、資料提供
・ 社会教育:市民、修学旅行団体の有料観覧、夜間天体観察、夏期には町内会・子供会など対象にに移動天文教室
・ 研究観測:人工衛星観測所として国際登録、彗星位置、太陽観測、変光星観測など世界の天文台に速報
<年間利用数 1968年度(S43)>
・ 一般観覧(有料) 2万6161人(半数が団体利用)
・ 市内学校教育利用(無料) 1万3781人
* 1974年(S49)1月10日、新型プラネタリウムを導入
* 1975年(S50)8月、仙台市天文台愛子観測所開設
* 2001年(H13)12月9日、来場者300万人を達成
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了、閉館(H20年に、錦が丘の新天文台開館)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P195、P441~444/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P632、P640、P650/「仙台あのころこのころ八十八年」P252/「仙台年表」P232/「仙台市史 年表」P119、P125、P129、P130/Wikipedia「仙台市天文台」/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「仙台市天文台」HP
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「目で見る仙台の歴史」P185(西公園内の天文台、望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P78(外観、41センチ反射望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P208(プラネタリウム)/「新・目で見る仙台の歴史」P180(41センチ反射望遠鏡)/同P193(天文台内の星のジオラマ)
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仙台市民図書館 |
西公園に開館/仙台メディアテーク内に移転 |
1962年(S37)/2001年(H13) |
<西公園内>
* 1962年(S37)10月27日、西公園内に開館
* 1966年(S41)3月、移動図書館車「ひろせ」の運行開始(仙台市史 年表) / 図書館から遠隔地域の新市域を巡回(1支所平均3駐車場を選定)
* 1966年(S41)2月25日、ブックモービル「ひろせ号」、巡回図書の貸し出しに初出動(重訂 宮城県郷土史年表)
<分室設置>
* 1978年(S53)8月24日、図書館分室を東北電力ビル内に設置
<仙台メディアテーク内へ>
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転開館
<参考>「仙台市図書館」は、仙台市立の7つの図書館の総称、「仙台市民図書館」は、仙台市青葉区春日町2-1(メディアテーク)にある中央図書館の名称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P447~449/「仙台市史 年表」P122、P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P606、P624 /「続・ 宮城県郷土史年表」P84/Wikipedia「仙台市図書館」(2020年3月)
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「市民の戦後史(仙台市)」P140(市民図書館外観、閲覧室、よい子の図書室)/「市民の戦後史(仙台市)」P187(移動図書館車「ひろせ号」に群がる子ら)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(閲覧室、移動図書館車「ひろせ号」、カラー)
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仙台市民教養センター |
開館 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)4月1日、開館(東二番丁小学校5階)
・ 講習室、会議室、談話室、和室など
・ 利用は、社会教育関連団体
・ 成人学校、青年教室、老壮大学、明治青年大学、教養講座など開催、教育映画・映写機など貸出
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P449~450
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(市民教養センターが入る東二番丁小学校新校舎、講座風景)
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農業・農村地帯の変化 |
引用した参考資料 |
<参考>
(1)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658の「第八章 農業」は、戦後~昭和43年頃までの、仙台の農業の変遷につき記述。
・ 内容は、農地解放の経緯(S21年~27年ころ)、他産業との所得格差、兼業化、都市拡大に侵食される農用地、農地の基盤整備事業、畜産の推移、林業の変化、農畜産物流通、中央卸売市場開設、農協合併、戦後開拓地(緊急開拓事業)、仙台市育種園など
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658、P723~762
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農地解放(農地改革) |
1946年(S21)~1952年(S27)頃 |
* 1945年(S20)12月9日、GHQが農地改革を指令
<仙台市内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点の小作地面積は、2591町歩
(2) 1950年(S25)8月時点の小作地面積は、399町歩
(3) 市内田畑総耕地面積に占める小作地割合の変遷
S20年(48.6%)→S24年(12.1%)→S26年(7.2%)→S27年(3.5%)
(4) 農地を買収された地主戸数は、3719戸
(個人地主3490戸、法人地主229)
(在村地主1665戸、不在地主2054戸)
(10町歩以上買収された地主、個人17戸、法人2)
売り渡しを受けた戸数は、4524戸
<宮城県内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点で、自作地40%、小作地59.4%
(2) 改革完了後には、自作地89.5%、小作地10.5%
(3) 自作小作農家の割合変化
小作農 41.6%→3.9%
自作農 19.4%→61.1%
自小作農 15.1%→24.8%
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P606~611、P726
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仙台市の農村・農業(戦後) |
戦後の緊急開拓事業 |
昭和20年代 |
・ 戦争終結にともない、外地からの引揚者や戦地から復員
した人々の受入れのため、未開発の原野や山林に入植させ、開墾開拓に従事させた。
・ 土地が与えられたとはいえ多くは「飢餓開拓」という様相で、作物の育ちの悪い中で耐乏生活を強いられた。
・ 仙台市内(昭和62~63年に編入した秋保町、泉市、宮城町を除く)の開拓組合は12で昭和23~24年に結成、入植戸数は昭和31年現在で計297戸(各開拓組合あたり10戸前後~36戸)
・ 開拓組合名は、青葉山、小松島、八木山、仙台北部、仙台市鶴谷、三神峯、芦ノ口、仙台市向山、坪沼、茂庭、生出増反、鈎取
・ 青葉山開拓地には1945年の23戸から、1965年までに55戸が入植した(『仙台市史』通史編8(現代1)P59)/ その後、東北大学の川内キャンパスの一部となり消滅した。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P656~657
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仙台市の工業 |
戦前期 |
大正~1945年(S20)8月 |
<大正末期に立地>
仙台市に、山文製作所(若林4丁目/サッシ類、汽缶類)、本山製作所(堤土手下/ポンプ、汽缶、精密機器類)、東洋刃物(米ケ袋下丁/製紙用、パルプ用の裁断ナイフ)が立地
<昭和戦前期の立地>
・東北金属(S8年、市内郡山諏訪/マグネット、通信機器材料)、東北特殊鋼(S11年、長町7丁目/高速度鋼、合金工具鋼、耐熱鋼)立地
・ 昭和戦前期と終戦時の工場名一覧(「仙台市史 続編第2巻」P661)
<1940年(S15)6月、「仙塩地方開発総合計画概要」(宮城県土木部、金森構想)> 釜房ダム、仙台内港開削、塩釜港修築し1万トン岸壁新設、貞山堀拡築、道路改良、動力は常磐、北海道の石炭と電力使用、緑の工業地帯(大代、蒲生、深沼に3工業地区、貞山堀東岸全部と西岸の数か所に緑地造成、工場地帯には帯状の公園広場) / 戦争激化で実現せず
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~664
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P365(T4年、山田機業場工場内部)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P491(茂庭製糸工場操業風景
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仙台市の工業 |
参考文献 |
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<参考>
(1) 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697に、戦前(大正~昭和戦前期)、戦後(終戦~昭和43年頃)の仙台市の工場立地、開発計画、工業統計、新産業都市指定にむけての動きなどが記述されている
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(1) |
昭和20年終戦~昭和24年頃 |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732>
・ 昭和20年は明治38年以来の凶作で米が大減収、農家は供出よりも自家飯米の確保に忙殺された。
・ 昭和21年には米をはじめ水産業でも収穫が急速に回復、その上、インフレと食料不足にもとづくヤミ取引の横行により生産県である宮城県の農家経済は異常な現金収入に恵まれ、昭和22年、23年と連続して台風被害による米の減収があったとはいえ、全体として農家はヤミ取引による現金収入で潤い、戦後という異常な時期の特色を示していた。
・ 終戦から昭和24年ごろまでの特徴は、戦争による経済の破壊は大きかったが、仙台の経済が農村に依存していたために、農家のインフレ景気に支えられて、都市部の疲弊にもかかわらず相対的には商業を中心に活動が開始されていた。特に金融は農村からの預金の集中があったために、それを貸し出しに回すことができた。
・ 昭和24年のドッジ・ライン以降、デフレへの経済転換の中で、農村の景気が終わりを告げ、そのために経済が沈滞し金融面にも大きく影響した。
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P368>
・ 第二次大戦後の仙台市の経済は、ほとんど休眠の状態に陥ったといえる。産業は沈滞を極め、農業も労働力の絶対的不足で農地は荒れ、食糧事情は窮迫していた。
しかし、都市部の経済がまだ混乱が続く中で、米の生産量は増加し、仙台近郊の農家は、現金収入を増加させていった。 農村景気の出現である。この農村の余剰資金が仙台に集中し、それが産業復興の資金としての役割の一部をになったといえる。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732の「第九章第三節 景気と金融の一 復興のあゆみ」から、農業にかかわる部分のみを抜粋/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(2) |
1950年(S25)~1959年(S34) |
・ 全国的には、昭和25年勃発した朝鮮戦争による特需が、停戦により景気後退が始まる中で、26年は米の大豊作、豊漁、27年も農水産物好調で、仙台の商業も活況、第一次産業の堅調にもっぱら依存しながら、仙台の経済は本格的な復興の段階にはいる。
・ 昭和28年の冷害凶作、29年の米価切下げによるデフレ浸透のあと、30年は空前の豊作で農家経済は一挙に好転(宮城県内の稲作収入は前年比46%増)、ナタネ、麦、繭なども豊作、サンマ中心に水産業の水揚実績は戦前戦後通じて最高を記録、このため工業も食品加工業が活況、他の工業は中央の動向を反映し依然不況ではあったが、東北では工業の比重が低いため他の先進地に比べ不況の程度は少なく、東北の全体経済には影響が少なかった。
・ 仙台のデパートは、29年末の売上から戦後最高を記録、東一番丁や中央通りの商店街の増改築が目立って増え始める
・ 昭和31~32年も、米作3年続きの豊作、水産業はサンマ漁獲減にもかかわらず比較的順調で、消費需要の堅調に支えられ商業中心に伸長を続けた(全国的にはこの時期の景気は重化学工業の発展による消費需要だったが、仙台や東北はそれに直接依存するものではなかった。31年の工業出荷額、全国は前年比23%増、宮城はわずか5%と自然増程度。)
・ 昭和30年代は、食管制度に支えられて、ともかくも安定している米作を中心とする第一次産業へ流れ込んだ資金が、農村を背景とする消費の堅調を通じて第三次産業を媒介にしながら、仙台を中軸とする都市の金融機関に集中する。この資金が都市銀行に集められて、太平洋ベルト地帯などの先進地域における重化学工場の成長資金として利用された。
・ 先進地帯の重化学工業中心の経済成長のために、東北は農業、特にコメを中心とする食糧の供給、次に東北開発の一環として行われた各種自然資源の供給、さらに農村からの労働力の供給、そして金融面では成長資金の供給をも担当することになったのであり、仙台はそれらの供給業務に伴う管理中枢の機能を集積していくことになるわけである。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P732~745の「第九章第三節 景気と金融の二 再建の足取り」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
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「仙台市史10 年表」P281
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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仙台市天文台 |
新天文台開館 |
2008年(H20) |
* 2008年(H20)、新天文台開館(青葉区錦ケ丘9丁目29-32)
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「仙台市天文台」HP
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仙台市の動物園(戦後) |
河北動物園 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)10月31日、評定河原の旧動物園跡で開催中に象小屋から出火、小象など焼死
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「仙台年表」P225
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎塔屋の大時計 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)5月10日、仙台市制70周年を記念し、東一番丁商店街から贈られた大時計を白亜の市庁舎塔屋に掲げる(6月8日始動)
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「市民の戦後史(仙台市)」P107/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P288
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201-01/「目で見る仙台の歴史」P197(市制70周年祝賀マンモス時計除幕式)/「市民の戦後史(仙台市)」P107(塔屋に大時計)
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長町駅(仙台市電) |
開業 |
1936年(S11) |
<仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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仙台市電 |
大町1丁目~大学病院 開通 |
1927年(S2)4月 |
・ 1.2キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)4月1日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市電 |
仙台駅前~光禅寺 開通 |
1927年(S2)11月 |
・ 0.7キロ
・ 駅から駅前電車通りを北へ向かう路線/環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)11月24日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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99-020/「市民の戦後史(仙台市)」P73(戦後20年代後半?の駅前電車通り)
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仙台市電 |
光禅寺~県庁前 開通 |
1927年(S2)2月 |
・ 0.9キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)2月25日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市電 |
環状線(循環線)完成 |
1928年(S3)3月 |
* 1928年(S3)3月28日、県庁前~大学病院間(1.7キロ)が開通、これで環状線(循環線)全線(6キロ)が完成
・ 仙台駅前~錦町~県庁市役所前~北四番丁~西公園~南町通~仙台駅前(停留所名は、1976年市電廃止時の名称)
・ 西公園において開通式挙行
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P104
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201-01、201-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(循環線が完成したころの乗り換え乗車券)/同211(S49年、仙台駅前停留所の市電、カラー)
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仙台市電 |
長町線 延長開通 |
1936年(S11)12月 |
東五番丁~荒町間
1926年(T15)11月25日開通
(仙台駅前~大町1丁目間と同時開通)
荒町~長町間4.2キロ
(S8年~S11年に徐々に延長開通)
1933年(S8)
2月12日、荒町~愛宕橋間
7月5日、愛宕橋~誓願寺通間
12月14日、誓願寺通~舟丁間
1934年(S9)
12月2日、舟丁~河原町間
1935年(S10)
8月21日、河原町~新河原町間
1936年(S11)
1月16日、新河原町~長町北町間
8月6日、長町北町~長町南町間
12月19日、長町南町~長町駅まで開通
12月24日、市電と秋保電車の連絡乗車券発売
* 1954年(S29)8月1日、この日から長町線と八幡町線が直通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P108/「仙台年表」P231
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36-01、201-30/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図84(S11年、土樋付近の市電線路と街並み)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(S8年、長町線土樋カーブでの架線工事)
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仙台市電 |
八幡町線 開通 |
1941年(S16)10日 |
・ 大学病院前~滝前町間、1.6キロ
* 1941年(S16)10月10日、開通
* 1954年(S29)8月1日、八幡町線の複線化工事完成、この日から長町線と八幡町線が直通(それまでは、大学病院前~八幡町折り返し運転)
* 1954年(S29)8月31日、複線開通(1582m)
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P111/「仙台年表」P231~232/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P513
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「市民の戦後史(仙台市)」P73(単線当時の八幡町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P81と「新・目で見る仙台の歴史」P178(八幡線複線化完成で旗行列)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P102(S51、カラー)
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仙台市電 |
芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止 |
1928年(S3)4月~1944年(S19)3月 |
・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線)
・ 「芭蕉の辻」が終点
* 1928年(S3)4月8日開業
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
* 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113)
→ <編者注> この日付は間違いと思われる
「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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22-33、53-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰)
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仙台市電 |
実現しなかった予定路線 |
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「大正十五年版・仙台市全図」(川名文明堂)によれば、市電の予定路線として、定禅寺通り~北鍛冶町~青葉神社下、長丁~宮町~東照宮下などの計画もあったことがわかる
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「番丁詳伝」P118
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仙台市民金庫/仙台信用金庫 |
改称 |
1932年(S7)/1951年(S26) |
* 1932年(S7)10月3日、仙台市民金庫、創立 / 三越進出問題に触発されての設立(「番丁詳伝」P141)
* 1932年(S7)10月、仙台市民金庫を産業組合法により、定禅寺通・東一番丁突き当りに開業(「重訂 宮城県郷土史年表」P433)
* 1951年(S26)10月、仙台市民金庫を仙台信用金庫と改称
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「番丁詳伝」P141/「重訂 宮城県郷土史年表」P433、P552
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53-61、40-07、201-04、07-01-01、22-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(29~33年頃)の右端
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
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「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
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99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園 開園 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)、失業対策事業で、広瀬川沿いの評定河原が埋め立てられ、北半分は東北帝国大学のグラウンドとなり、南隅は動物園用地となった
* 1936年(S11)4月1日、仙台市動物園が評定河原埋立地に開園(当時、東京以北で唯一の動物園で、昭和12年12月までの入場者は31万人)
・ 入園料(昭和11年) 大人15銭、軍人10銭、小人5銭(昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64)
・ 坪数8150坪、収容動物150種500点、初代園長漆沢忠雄(「重訂 宮城県郷土史年表」)
・ 象・虎・ヒョウ・白熊など35種100頭を、閉園した東京浅草の花屋敷動物園から譲り受け、それに加えて200余頭を購入した(「仙台はじめて物語」)
・ 3月29日に収容動物到着、4月1日開園、165種471点(仙台市史10 年表)
・ 入場者、昭和11年(4月~12月)に31万人
・ 入場者 昭和12年17万人、13年20万人、14年26万人と戦乱(日中戦争)が拡大しても、観客は減るどころか年々増えていった(「戦争のころ 仙台、宮城」P40)
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「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 年表」P108/「仙台はじめて物語」P104~105 /「仙台市史10 年表」P288/「重訂 宮城県郷土史年表」P451/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「市史せんだい Vol2」P15/昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P40
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53-119/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204(仙台市動物園開園記念観覧券と市電乗車券)
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緑の団地条例(仙台市) |
指定第1号 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月9日、第1号に茂庭台1丁目~5丁目を指定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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仙台市民文化センター |
開館 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)5月26日、仙台駅東口に仙台市民文化センター、開館式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P162
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仙台市役所庁舎 |
第二庁舎 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)5月14日、仙台市役所第2庁舎、上杉1丁目に落成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P177
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仙台市民会館 |
落成 |
1973年(S48) |
* 1972年(S47)1月27日、起工式(西公園、戦後の仙台市公会堂跡地に)
1973年(S48)11月3日、落成式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P24/「仙台市史 年表」P129/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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仙台市立病院 |
五橋に新築・移転 |
1980年(S55) |
* 1979年(S54)1月19日、上棟式
* 1980年(S55)3月30日、竣工
* 1980年(S55)7月1日、五橋地区(清水小路)の三島学園移転跡地に、地上10階、地下1階建ての新病院を建設、移転
* 1991年(H3)4月24日、市立病院救急センター開設(鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階、地上7階) / 8,428㎡、病床数36床
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「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P113/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P132/仙台市立病院HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P195(五橋に移転した仙台市立病院、カラー)
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仙台市の動物園(戦後) |
河北動物博覧会 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月24日、西公園で「河北動物博覧会」開催
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「見験楽学」(仙台・宮城のミュージアム情報サイト)/「仙台年表」P227
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仙台市街自動車 |
設立~市が買収 |
1919年(T8)~1942年(S17) |
伊勢久治郎が設立、市民に「銀バス」の愛称で親しまれた
* 1919年(T8)7月16日、仙台市街自動車、創設(社長 伊勢久治郎、資本金20万円)
* 1919年(T8)11月10日、乗合自動車の営業開始、仙台停車場を起点に市内の南北、および市外は増田、閖上、深沼などまで走った
* 1930年(S5)7月、市内遊覧バスの運行を開始
* 1942年(S17)7月1日、33万円で仙台市に買収され、8月21日から「仙台市営バス」として営業開始
<参照>[写真98-149]は、昭和11年当時の「仙台市交通網図」で、当時のバス路線網も記載
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P86、P187(市電年表)/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P99、P105/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
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53-46、22-10、53-15、98-104、53-121/仙台市交通網図は、98-149/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(パンフレット「仙台遊覧自動車案内」)
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仙台市公会堂(戦前) |
設置~空襲焼失 |
1909年(M42)~1945年(S20) |
戦前は、桜ケ岡公園(西公園)にあった
* 1909年(M42)、市が公園内にあった木造の割烹・挹翠館(ゆうすいかん)を買収し仙台市公会堂とした
→ 項目「挹翠館」参照
* 1908年(M41)10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)(「重訂 宮城県郷土史年表」P341)
* 1909年(M42)2月11日、憲法発布20周年記念として桜ケ岡(公園)に公会堂を建立(「宮城百年」毎日新聞社刊 年表)
* 1916年(T5)9月、洋館の新館(ルネッサンス式、木造2階建)が竣工、挹翠館を公会堂本館、洋館を新館とした / マンサード屋根スレート葺、モルタル塗り
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で公会堂本館、新館ともに焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273、P341、P364/「仙台市史 年表」P97/「宮城百年」毎日新聞社刊 年表/「古写真に見る仙台の建築」P44/「仙台あのころこのころ八十八年」P242
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挹翠館は、98-058、98-059/ 新館(洋館)は、99-092-1、99-093-1、53-94、53-99/「いつか見た街・人・暮らし」P14(公会堂講堂内部が写る、在郷軍人大会、大正13年)/「新・目で見る仙台の歴史」P144(カラー、挹翠館と公会堂新館)
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仙台市公会堂(戦後) |
落成~取壊し |
1950年(S25)~1971年(S46) |
・ 戦後、音楽、演劇、集会など仙台市民の文化活動はこの公会堂を中心に展開され、各種の文化団体が育っていった
・ 大ホールは1300席、集会室、展示場などもあり、結婚式にも利用された
* 1946年(S21)10月、西公園緑地内(元常盤町)に建設(収容1500人)(「重訂 宮城県郷土史年表」P514)→<編者注>計画ということか?
* 1949年(S24)11月、着工(「仙台市史10 年表」P322)
* 1950年(S25)12月17日、元常盤町(西公園内)に完成、落成式(大ホール2000人収容、展示室、集会室) / 鉄筋鉄骨コンクリート2階建て、913坪 / 仙台市公民館が同公会堂内に移転
・こけら落としは、仙台市能楽協会が寄付した組み立て式能舞台を使って、仙台藩の流派であった喜多流家元一行による演能で、喜多六平太が「羽衣」を舞った
* 1951年(S26)春、アメリカのピアニスト・メニューヒンが外国人演奏家として戦後最初に来仙し演奏
* 1956年(S31)2月2日、ウィーン少年合唱団公演
* 1957年(S32)11月21日、ベルリン交響楽団公演
* 1971年(S46)、取壊し
* 1973年(S48)、跡地に仙台市民会館完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P514、P546/「仙台市史10 年表」P322、P324/「目で見る復興 まちの今昔」P57/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P202/「目で見る仙台の歴史」P184
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18-07-01、18-07-02/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P274の写真87/「目で見る仙台の歴史」P184(公会堂と、公演したウイーン少年合唱団、ベルリン交響楽団)/「市民の戦後史(仙台市)」P68(公会堂)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(公会堂)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P267
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
防災都市宣言 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)、防災都市宣言(前年1978年(S53)6月12日に、宮城県沖地震)
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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仙台市営地下鉄 |
東西線開業 |
2015年(H27) |
八木山動物公園駅~ 荒井駅間、計13.9km
* 2005年(H17)4月25、地下鉄東西線工事施行が許可
* 2007年(H19)11月、本体工事着工
* 2015年(H27)12月6日、開業
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台市地下鉄」
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仙台市立病院 |
長町に新築・移転 |
2014年(H26) |
* 2014年(H26)11月1日、長町に移転・開院
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仙台市立病院HP(病院の沿革)/Wikipedia「仙台市立病院」
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仙台市電 |
モハ1型 導入 |
1926年(T15)~1934年(S9) |
車両モハ1型はT15~S9に導入、このうち7号はS39年10月に廃車
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市電の各型の使用期間は、「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P180~181
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201-36、99-002
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仙台市戦災復興記念館 |
開館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月1日、仙台市戦災復興記念館、大町に開館
* 1982年(S57)7月10日、復興記念館で、「戦争体験を後世に語り継ぐ集会」
* 1985年(S60)12日、館内に仙台市ボランティアセンター開設(2020年現在は、青葉区五橋の仙台市福祉プラザ6階にある)
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財団法人仙台ひと・まち交流財団HP/Wikipedia「仙台市戦災復興記念館」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台市史 年表」P132、P134
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