項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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金属回収 | 政宗卿騎馬像 | 1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、仙台城跡(天守台)の伊達政宗銅像(騎馬像)の金属供出「出陣式」が行われる 「青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も、金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及び護国神社共同主催のもとに、県下青年団代表参集して盛大なる銅像出陣壮行式を挙行す。この折、詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」(重訂 宮城県郷土史年表) |
「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500 | |
金属回収 | 市電レール | 1944年(S19) | * 1944年(S19)3月、市電芭蕉の辻線が廃止となり、レールを剥がして、戦時金属回収のため供出 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P92 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール) |
金属回収 | 伊達安芸銅像 | 1944年(S19) | * 1944年(S19)5月27日、松島瑞巌寺境内の伊達安芸の銅像、金属回収に応召出陣となり「壮行式」 | 「重訂 宮城県郷土史年表」P308 | |
金の星(カフェ) | 焼失 | 1941年(S16) |
・ 昭和初期、東一番丁の三越やや南にあった「金の星」は仙台一のカフェといわれた ・ 東久邇宮稔彦王殿下も第二師団長時代に通った伝えられる ・ 女給たちで結成した「金の星楽団」もあり、日中戦争では兵士慰問のため中国大陸に派遣された(「番丁詳伝」P111) * 1936年(S11)、河北新報主催「麗人同乗のシボレー県下南北早回り競争には、紅組「金の星」の玲子とミチル、白組「エー・ワン」(国分町)のすみ子とたき子が同乗・・・」(河北新報、昭和41年「東一番丁企画シリーズ」より) 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみに、金の星楽団につき記述あり * 1941年(S16)、焼失 (その跡地で印舗の錦章堂が営業) |
「番丁詳伝」P111/焼失年は、東一番丁の錦章堂主人談 | 22-53、98-110、47-06、53-34、20-57、44-76 |
金富士(料理店) | 開店~閉店 | 1930年(S5)~1971年(S46) |
玉澤横丁にあった、西洋料理と中華料理の店 ・戦前、「銀のスプーンで」食べるカレーライスが人気だった ・「崑崙(こんろん)山」と名付けた庭で有名だった / <崑崙山(息女の石井直子さん談)> 「この庭は、初代の経営者石井金三朗が全国を回って集めた天然石で築造、昭和初期に1000円もした高価な石も使われた。 庭の地下に水槽をつくり電動ポンプで水をくみ上げた滝もあった。庭にある鳥居も石で出来ていた。帽子をかぶった人が腰かけているのうな石もあった。トイレにも自然石が使われていた。土井晩翠が詩に詠んだほどの名所だった。」 * 1930年(S5)開店(玉沢横丁) * 仙台空襲(S20年7月)で焼失 * 1948年(S23)、再建し1971年(S46)まで営業した 【「仙台年表」P201】「昭和5年、仙台国分町の金富士寿司経営者、石井金三郎氏、石崑崙を築く。面積260平方尺、高さ20尺、集石に5年、築造に1年、大小の石は北海道アイヌから九州迄に及び10万円を費やす」 |
金富士の家族談/仙台年表P201 | 戦前は98-110、71-01、71-02、71-03、71-04、71-05、71-06、戦後は71-07、71-08、71-09、201-43 |
勤労青少年ホーム | * 1964年(S39)12月、新築された東二番丁小学校内に、勤労青少年ホームが発足 | 「市民の戦後史(仙台市)」P160 | 「市民の戦後史(仙台市)」P160(茶室やスポーツ室を利用する青年男女) | ||
空襲(宮城県内) | 塩釜空襲 | 1944年(S19)12月29日 |
<塩釜空襲> * 1944年(S19)12月29日、塩釜に、B29、1機が油脂焼夷弾約500個を投下、焼失570余戸、被災者3200余人(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56) * 1944年(S19)12月29日、B29、1機、塩釜市尾島町、南町、本町に小型油脂焼夷弾約500発(570発説も)を投下、441戸(483戸説も)2142人(2240人説も)が焼け出される / 警戒警報が解除になった直後で、早朝の空襲 / 隣組で用意していた防火用水は凍結していて役にたたず / 赤子1人がやけど、死者なし(「戦争のころ 仙台、宮城」P185~187) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P185~187 | |
空襲(宮城県内) | 霞目陸軍飛行場を爆撃 / 米軍機、蔵王山中に墜落 | 1945年(S20)3月10日~11日 |
<霞目陸軍飛行場(仙台)> * 1945年(S20)3月10日夜、米軍機が霞目陸軍飛行場(仙台)と太白区四郎丸地区を爆撃、ほとんど被害なし / 霞目には仙台少年飛行学校があり、油脂焼夷弾1371発投下、うち248発は不発弾、西風が強く、焼夷弾は目標を外れて周辺の田んぼに落ち燃え上がる ・ この夜(3月10日)、東北地方では、いわき市、盛岡市、青森県上北郡もB29が空襲 / いわき市で16人、盛岡市で4人死亡 <米軍機、蔵王山中に墜落> ・ この夜(S20年3月10日)、吹雪の蔵王連峰不忘岳に3機の米軍B29が間をおいて激突、34人の乗員全員が死亡 / 時刻は、午後9時50分ころ、その1時間後、翌11日午前2時頃 / 翌日、地元七が宿村横川集落の警防団十数人が吹雪と積雪1mのなか現場へ向かい墜落した1機と死亡した搭乗員を発見 ・ 1945年(S20)5月、仙台の藤崎百貨店で、不忘岳に墜落した機内から回収した救命具、携行食品などを展示 ・ 1961年(S36)9月、登山グループ「不忘会」が呼びかけ、地元婦人会、キリスト協会、仏教会、航空自衛隊などが協力し、現地にB29搭乗員の慰霊碑「不忘の碑」を建立 |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P191~192 | |
空襲(宮城県内) | 仙台空襲以前の空襲 | 1945年(S20)5月29日~7月9日 |
<仙台空襲以前にも、米軍による攻撃> ・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来 ・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30 ・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷 ・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける ・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207 | |
空襲(宮城県内) | 仙台空襲 | 1945年(S20)7月10日未明 | → 項目「仙台空襲」を見よ | ||
空襲(宮城県内) | 仙台空襲以降の空襲 (1) 艦載機などから爆弾投下、機銃掃射 |
1945年(S20)7月14日~8月10日 |
<仙台空襲後の空襲(宮城県内)> ・ B29による仙台空襲(昭和20年7月10日 焼夷弾攻撃)の後は、敗戦の8月15日までの間に、県内は艦載機や艦上爆撃機による空襲を受けた ・ グラマンなどの戦闘機とカーチス降下爆撃機、遠く硫黄島からノースアメリカンP51戦闘機も飛来、圧倒的に多かったのはずんぐりむっくり型のグラマンで、このほか英空母から戦闘爆撃機コルセアも参戦した ・ 7月は14日、15日、17日の3回、8月は9日、10日の2回 ・ 空母から飛び立った小型機の空襲は、夜間は来ないが、朝早くから日没までの日中だった ・ 空爆対象は、軍事施設に限らず、鉄道、港湾、発電所、工場、船舶に爆弾投下、超低空飛行で人などに機銃掃射 ・ 日本軍機は本土決戦を控えてむやみに出動しないよう命じられていた ・ 宮城県の三陸沖には、沖縄戦が終わってから急いで移動してきた米国のエセックスなど空母3,軽空母2,戦艦など22隻、それと英国の空母フォーミダブルなど、計29隻の大艦隊が展開していた |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P231 | |
空襲(宮城県内) | 仙台空襲以降の空襲 (2) 陸海軍基地、鉄道、船舶を攻撃 |
1945年(S20)7月14日 |
・ 7/14は、県内の18か所で空襲 <陸海軍基地への攻撃> 7/14、矢本の海軍松島基地に20機来襲、爆弾やロケット弾を撃ち込み2機が破損 / 玉浦の陸軍基地(現・仙台空港)も攻撃を受けるが、戦闘機や爆撃機はすでに疎開しており、飛行場付属施設が焼失 / 霞目の仙台飛行場にも来襲 / 航空基地と軍需工場への空襲は、その後も継続 <鉄道への攻撃> 7/14朝5時半、国鉄仙石線高砂駅で停車中の電車に5機のグラマンが機銃掃射し、死亡6人、負傷9人 / この日は東北線岩切駅舎も攻撃され、近くで農作業中の2人が機銃掃射で死亡 <船舶への攻撃> 7/14、本吉郡十三浜村沖の海上で船舶2隻が米英軍機の攻撃で6人が死亡、9人負傷 / 名取郡沖の海上では漁船乗組員2人死亡、8人負傷 / 桃生郡追波川河口で運送船が被弾し、2人死亡、3人負傷 / 唐桑で漁船2隻沈没 / 志津川では湾内の船舶3隻が被害 |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232~234 | |
空襲(宮城県内) | 仙台空襲以降の空襲 (3) 小牛田、亘理 / 女川湾の海戦 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<鉄道への攻撃 小牛田、亘理> 8月9日、東北線小牛田駅に停車中の列車が襲われ、機関士と乗客1人が死亡 / 亘理の空襲(8月10日朝、グラマン2機が常磐線の線路に急降下して機銃掃射で6人死亡、8人負傷、空襲警報で急停車した列車から降りて土手のくぼ地に隠れた乗客が犠牲) (「戦争のころ 仙台、宮城」P232) <女川湾の海戦> 海軍防備隊(横浜港から函館、室蘭むけの船団を三陸沖で護衛、および遭難船救助を担当)が拠点にした女川港に入港中の、標的艦「大浜」、海防艦「天草」など20数隻が攻撃を受ける ・ 8月9日、第1波は朝5時半、空母「ペニントン」の艦上爆撃機と艦載機4機が攻撃、霧に邪魔されたが、中型商船2隻が沈没 / 第2波は、58機が、日本軍の駆逐艦、護衛艦に投弾し沈める / 第3波は29機がドックに停泊中の小型艦船を攻撃するなど、午後5時の第8波まで続く / 攻撃には英国艦隊も参加し、英軍の記録では、駆逐艦3隻、哨戒艇1隻撃沈 / ・ 8月10日、攻撃は10日も続き、湾内の艦艇のほとんどと、関連ある軍の施設も破壊された / 米軍の被害は、撃墜3機(日本側は、「大浜」「天草」の高角砲、陸上からの高角砲部隊などが対空砲火で応戦) / 「天浜」は、グラマン機の爆撃と掃射で転覆沈没、乗組員が船を出て防空壕に退避途中で機銃掃射を受け30人位が倒れる / 「天草」は艦の周辺に爆弾20個くらい投下され、間もなく艦首を先に数分で沈没 / 2日間で158人が戦死 ・ 昭和41年、海軍防備隊通信科の神田義男兵曹長夫妻が湾を望む崎山公園に私財を投じて慰霊碑を建設、毎年慰霊祭が営まれている / 近くには英軍機に乗って戦死したカナダ人のグレー大尉慰霊碑もある / 神田さん夫妻は東日本大震災で亡くなった <女川の町内も被害> ・ 海戦のとばっちりを受けて、国鉄女川駅倉庫、造船所のほか、民家70戸焼失、犠牲者24人 |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232、P234~235 | |
空襲(宮城県内) | 仙台空襲以降の空襲 (4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<松島海軍航空隊への攻撃> 8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた <軍の工場への攻撃> ・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷 ・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236 | |
空襲(宮城県内) | 仙台空襲以降の空襲 (5) 空襲犠牲者 |
1945年(S20) |
<県内の空襲犠牲者> 仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害 <筆者石澤友隆氏の体験> 戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236 | |
空襲(釜石艦砲射撃) | 釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅 | 1945年(S20)7月14日、8月9日 |
<釜石に艦砲射撃、773人が犠牲> ・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237) |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237 | |
軍事教練 |
・ 青少年を対象とした軍事予備教育のうち、特に歩兵操典に基づく訓練をさす * 1928年(S3)2月24日、陸軍省、教練及び青年訓練修了者検定規定公布、この結果、教練も成績に加え合否が判定される * 1944年(S19)2月4日、文部省、軍事教育強化方針発表 <第2次世界大戦の敗戦で廃止> * 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達 |
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P8、P35 | |||
軍事教練 | 学校教練(中等学校) | 1925年(T14)~1945年(S20) |
<学校教練> * 1925(T14)年の陸軍現役将校学校配属令に基づき、旧制中等学校以上の教育機関に配属将校を配置し実施された ・ 第1次世界大戦後の軍縮に伴う将校の失業を救済するとともに、思想教育を兼ねた ・ 射撃など武器の使い方や戦史などを教え、演習も行った ・ 軍国主義教育の中心となった * 1939年(S14)、中学校から大学までの授業に軍事教練が義務化された * 1940年(S15)10月24日、県下男子中学校生徒(33校の上級生)の紀元二千六百年奉祝記念演習会を仙台付近で行う * 1942年(S17)11月6日、宮城県下中等学校連合演習(仙台市付近で) <配属将校> ・ 中学校には尉官級(大尉、中尉、少尉)、旧制高校、大学には佐官級(大佐、中佐、少佐)が配属され、複数の将校がいる学校もあった。 ・ 教練は、射撃訓練や長距離行軍、部隊訓練、指揮法、手旗信号、武器保存、救助法、毒ガス防毒面の装脱、手りゅう弾投げ、防空監視など(「戦争のころ 仙台、宮城」P93) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P493/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93 | 29-06、29-07、29-08、43-02、43-12、43-14/「新・目で見る仙台の歴史」P161(S11年頃、宮城県工業学校の軍事教練) |
軍事教練 | 大学も必須に | 1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする * 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属 <東北帝国大学> 軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93) |
「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93 | |
軍事教練 | 高等女学校 | 1941年(S16) | * 1941年(S16)、高等女学校で軍事教練開始 | 「日録20世紀 1941年」P33 | |
軍事教練 | 一般青年 | 1926年(T15)~1945年(S20) |
一般青年に対しては、 * 1926年(T15)、全国に青年訓練所を設立し実施 * 1935年(S10)以降は、青年学校に引き継がれ実施された (S10年、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる) <青年訓練所>(「日録20世紀 1926年」P42) 1926年(T15)7月1日、全国1万3842カ所に設置 約104万人が入学 前年、軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請した / 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった(4月20日、法令公布) <青年学校>(「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11) 1935年(S10)4月、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学) |
「日録20世紀 1926年」P42/「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11 | 青年学校生は、06-06 |
軍需工場(宮城県内) | 海軍火薬廠、海軍工廠、陸軍造兵廠 | 1939年(S14)~1945年(S20) |
→ 項目「陸海軍の工場(宮城県内)」の小項目「第一海軍火薬廠」「多賀城海軍工廠」「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」を見よ ・ 陸海軍は、宮城県内にそれぞれ直営の軍事工場を持っていました。民間工場も含めて軍需工場がこれだけ集積していた県は東北にはありません。(「戦争のころ 仙台、宮城」P156) |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156 | |
軍需工場(宮城県内) | 民間工場 |
・ 東北金属(現・太白区諏訪) →マグネット通信機器、機関砲部品 ・ 東北特殊鋼(現・太白区長町八幡前) →銃の中心部分となる銃身鋼 ・ 三馬弘進護謨 →軍用地下たび、被服など ・ 大日本航空 →新型ジェット機「秋水」の訓練用グライダー ・ 萱場製作所(のちのカヤバ工業)仙台工場(現・太白区八本松) →戦闘機や偵察機の油圧緩衝機、陸軍の依託で着弾観測用のオートジャイロ(カ号観測機)の組立作業 ・このほか、日本電気、東北ゴム、本山製作所、仙台発動機、塩釜ドック、東北ドックでも軍需品を製造 |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P158~159 | ||
軍需工場(宮城県内) | 工場疎開 |
<首都圏から宮城県へ> 「首都圏の軍需工場など98企業から宮城県へ疎開希望あり、すでに53工場が操業中、残りも対応中」(「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月)より) <仙台市内の軍需工場の疎開> 東北臨時生産防衛対策委員会、仙台市内の10工場を、空襲に備えて疎開決定 ・東北特殊鋼 仙台市長町 → 山形県西村山郡西郷村の国民学校へ ・三馬弘進ゴム 仙台市行人塚 → 鳴子町川端へ |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P211 | ||
軍都・仙台 | 「軍都」と地元経済 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P298より ・ 新聞の広告などによると、軍の食料品や馬糧を主にして、燃料、衣料、軍靴などの購入調達が、入札による納入や指定御用達商店を通す方法で行われ、仙台の経済と深くかかわっていた ******************************************* 「仙台市史 特別編4 市民生活」P334(「軍都」と経済より要約) <兵士や将校の個人的な消費> ・ 日曜祭日、慰労休暇、褒賞休暇などの外出(飲食・映画などの娯楽 / 娯楽は軍人半額料金が多い) ・ 面会人や除隊兵士向けの土産品・記念品の店(菓子店、漆器店、木盃製造販売店などが大町1・2丁目と、鉄砲町方面から仙台駅前に向かって並んでいた) ・ 軍服・軍帽・軍靴・軍鞄・軍用腕時計・双眼鏡など(将校は自前で準備する必要) <軍による調達> ・ 各隊兵士の食糧、軍馬用飼料(大麦・わら・干し草など) ・ パンや酒・缶詰などの陸軍御用商人もあった (御用商人は定められた額の保証金を出した) ・ 軍馬の購入(川内の追廻や、扇坂、古川で) ・ 馬丁、調教師、蹄鉄工など募集 <軍による払下げ> ・ 外套・軍服などの古着、廃馬、各隊の下肥などの汲み取り、馬糞などの入札競売 ・ 残飯などの払い下げを受ける業者 → 貧民に売る ・ 戦時には、生活に苦しむ軍人留守家族救済のため、軍服類の縫製や修繕を、留守家族が働く施設に発注 ☆ 地元商工業界からは軍に、地元産業育成のため地元製品のより積極的な買上げを要望する声が絶えなかったが、その成果は上がらず、昭和期の軍工廠の設立を待つことになる |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P298、P334 | ||
軍都・仙台 | 第二師団御用達の店(軍関係者、兵士がよく利用した店を含む) |
<調査中 資料未完成> <昭和3年刊「東北産業博覧会写真帳」掲載写真に「陸軍御用達」の記載ある店> ・ パリーヤ洋服店(元寺小路101) 看板に「第二師団、偕行社指定」/軍服 ・ 高新もちや(南町) 創業1869年(M2)、第二師団各隊御用、宮城師範学校御用 / 「番丁詳伝」P97では、「東一番丁2丁目、創業は奥州街道に沿う南町で明治2年、片平丁に仙台第二高等学校が開校し、さらに仙台に多くの兵舎が建てられてからは多くの若い人たちが名物のお汁粉を求めての門前市をなし「軍隊餅屋」の名でしられており、昔のあんもちの味を続けている。」 ・ 日進堂(南町、和洋菓子、パン製造) 陸軍、鉄道局、逓信局、東北大学各学校諸官衙御用達 ・ 須賀川酒造仙台支店(荒町26) 陸軍御用 <「番丁詳伝」などから> ・ 大町(通り)は、川内に兵舎が多く並んでときには、兵隊さんの往来で賑わい、除隊記念品を販売する店も目を惹いた(「番丁詳伝」P81) ・ 製麺製造所 日進堂本店(名掛丁)、日進堂増設販売所(新伝馬町) ・ 大平商店(大町2丁目) 酒味噌醤油飴たばこ小間物 ・ 大武写真館(東一番丁) 1903年(M36)開業、日露戦争の頃第二師団御用写真館の指定をうけ軍人の来客多く門前市をなす状況(「番丁詳伝」P31) ・ 村上屋餅店(戦前は柳町の大日横丁) 1877年(M10)、創業 / 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した ・ やぶや本店(大町2丁目、蕎麦屋)「1890年(M23)に、大町2丁目に移る / 川内の兵舎から外出する兵隊も多く利用した」(「番丁詳伝」P37) ・ 大久そば(東一番丁)「東京風のそばで、旧制仙台二高生や軍人などなじみ客で賑わい、また七夕まつりの日などは客止めをするほど人気の店だった。」(仙台老舗百店史) ・ ブラザー軒(洋食)「特に第二師団関係者が多く利用した」(「番丁詳伝」P36) ・ 武田洋服店 明治初期、大町1丁目で軍の御用商人として、軍服、生地の卸業/M43年、新伝馬町へ/S10年、大町5丁目へ、既製服専門店(「おおまち」P209) ・ 東京屋カバン店 T9年、東一番丁北部で開業/S6年、新伝馬町70に移転(軍隊行李や軍用靴を第二師団や連隊に納入)/S20、戦災で山本丁21へ/S22、大町5丁目へ出店(「おおまち」P210) ・ 横山輪業商会 大正9年創業 / 北海道・東北を販路として東北唯一、全国でも五指に数えられる営業 / 戦前は軍御用となった(「番丁詳伝」P209) |
・「仙台市史 特別編4 市民生活」P46の図45(仙台市商工業連合会広告) ・「仙台市史 特別編4 市民生活」P47の図46(広告団扇)/「番丁詳伝」P31、P37、P81、P97、P209/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P209~210 |
18-35(村上屋餅店)/61-14 (だい久そば店)/61-19(やぶや本店)/61-21(高新餅屋)/ 62-14(ブラザー軒、軍人客と仲居さんたち)/61-22(日進堂) | |
軍刀(陸軍) | サーベル →太刀型へ | 1934年(S9) | * 1934年(S9)、陸軍の将校と准士官用の軍刀はS9年に、サーベルから太刀型に変わった | 87-01 | |
軍馬の銅像 | 金属回収で供出 | 1943年(S18)か1944年(S19) |
・ 桜ケ岡公園(西公園)にあった ・ 軍馬の銅像は当時の公園の平面図に「日露役殉死軍馬銅像」と表記されている ・ 戦時中の金属回収でS18年か19年に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた |
「仙台市史 本編2」P371 | 99-120、53-63 /桜ケ岡公園(西公園)の公園の平面図は、98-074 |
軍服(陸軍) | 立襟 →立折襟に | 1938年(S13) |
* 1928年(S13)6月に、立襟から立折襟に、階級章は肩章から襟章となる(ただし、旧軍服との併用が認められていた) ・ 将校がもつ軍刀は1934年(S9)に、サーベルから太刀型に変わった |
S7以前は、87-01 /S7以後S12以前は28-01 | |
軍用機献納 |
「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。 * 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場) * 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場) * 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式 * 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310 参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf / 海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html |
民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01 | ||
蛍光灯 | 普及始まる | 1949年(S24) |
* 1941年(S16)、東芝が“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売 * 1949年(S24)、この年、白色蛍光灯(40W)、発売、商店、事務所に普及 |
Wikipedia「蛍光灯」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43 | |
警察(戦前) | 特別高等警察(特高) | 1928年(S3)~1945年(S20)10月 |
<「戦争のころ 仙台、宮城」P17~18より> ・ 特高警察は、内務省警保局を頂点に各府県の警察署特高係までを網羅した組織で、各県の特高、外事課長は内務省の人事で赴任した。 少数のエリートとその下で働く大勢の特高警官という構図。 ・ 宮城県警察部は旧県庁2階の一角にあり7課(警務、警防、保安、刑事、工場、衛生、特高)85人体制 ・ 特高課は刑事課と並ぶ20人の大世帯で、県内22警察署に100人以上の特高係が置かれ、職務は左翼、右翼、労働農民、内鮮宗教、検閲、外事、時局対策の7セクションにわかれていた ・ 1945年8月15日、戦争に負けると、内務省は全国の「特高警察」に捜査書類を一切焼却するよう指示(このため、宮城県公文書館に特高関係資料がない) ・ その50日後、GHQは政治的、宗教的自由を制限する治安維持法を廃止し、政治犯も釈放 ・ 内務省と特高は解散を命じられ、内務大臣や警察首脳部、すべての特高警察官は休職扱いとなって後に罷免される / その数、全国では5000人、宮城県警察部では特高課長のほか一線署員も含めて90人が対象になった ******************************************* * 1928年(S3)、「特別高等警察」(特高)、全国一律に未設置県にも設置された * 1928年(S3)7月、宮城県警察部に特別高等警察課設置 <言論検閲も担当> 「宮城県特高課には、検閲係4人が専従、河北新報社本館1階には特高課用の部屋があって警官がしょっちゅう出入りしていたとの話もあります。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P111) * 1945年(S20)8月末日、宮城県特高課廃止(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747) * 1945年(S20)10月5日、宮城県特別高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506) * 1945年(S20)10月11日、宮城県特高警察官91名の休職の臨時措置 |
「宮城県史7 警察」P243/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P17~18、P111 | 99-125(左下に宮城県特高課検閲済の字あり) |
警察(戦前) | 特別高等警察報告 |
<宮城県知事事務引継書の「特高警察」の報告(昭和20年)から> (1) 本土決戦を迎え報道義勇隊結成を計画中 東北軍管区司令部と特高警察が連絡をとり、河北新報社を主体に東京各紙、東北6県の記者を包括した報道義勇隊 (2) 敗戦的和平策動の容疑人物を重点観察中 ドイツの戦線離脱、沖縄戦の急迫、主要都市に対する空襲の激化により、国民の一部に不安、焦燥感を持つ者あり (3) 拘束中の敵性外国人 ・ カトリック元寺小路教会に35人(横須賀海軍警備隊から引き継いだインドネシア人35人~うち1人死亡~、広島県から送られてきた外国人1人) ・ 仙台市畳屋町の教会に26人(敵性修道女26人) ・ このほか、仙台に居住中の外国人は、中国満州人160人、ドイツ人など16人 (4) 朝鮮人の動向 東京、大阪など大都市の空襲で被災や縁故疎開で宮城県内に移住した朝鮮人は546人(うち335人は戦災) / 中には要観察中の者、不良朝鮮人もあり視察、取締りを強化 (5) 移入朝鮮人労務者 国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P202 | ||
警察(戦後) | 自治体警察 | 1948年(S23)2月~1954年(S29)6月 |
<戦後の警察官> * 1920年(S20)秋~1946年(S21)11月、警察官は識別を容易にするため、上部に「警察」、下部に「POLICE」と書かれた白布腕章をつけたが、1年有余後に汚損等外観上不体裁ということで廃止(「番丁詳伝」P151) * 1946年(S21)1月、GHQ覚書により、警察官、佩刀とりさられて丸腰に(かわりに警棒) / 特別に拳銃形態の場合あり(「仙台市史」本編2」P654) * 1946年(S21)12月24日、仙台北警察署に初の婦人警察官11名配属(「番丁詳伝」P151) <自治体警察> * 1947年(S22)12月17日、警察法公布(地方分権化・民主化を目的に国家地方警察・自治体警察設置)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P26) * 1947年(S22)12月22日、宮城県警察部の機構改正 / 従来の警察署が、「地区警察署」と「市町村警察署」の2本立てとなる / 地区警察署は、仙台地区警察署以下19ケ署 / 市町村自治体署は、仙台市北署以下41ケ署を新設(重訂 宮城県郷土史年表P523) * 1948年(S23)2月11日、自治体警察発足(重訂 宮城県郷土史年表P525) * 1948年(S23)3月7日、新警察制度発足、仙台市警察開庁(仙台市史10年表、岩波ブックレット「年表 昭和史」P27、「仙台あのころこのころ八十八年」P250) * 1948年(S23)3月7日、自治体警察である仙台市警察本部を設立 * 1950年(S25)1月17日、仙台市警察本部庁舎新築落成移転 * 1954年(S29)6月8日、警察法改正公布(国家地方警察と自治体警察を、都道府県警察に一元化、中央集権化を強める) * 1954年(S29)7月1日、仙台市警察が廃止され宮城県警察に引き継がれる |
「番丁詳伝」P151/「仙台市史」本編2」P654/岩波ブックレット「年表 昭和史」P26、P27、P33/「仙台市史 年表」P115、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P523、P525/「仙台市史10 年表」P318、P323/「仙台あのころこのころ八十八年」P250 | 「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市警察本部)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(仙台市警察本部旗)/「市民の戦後史(仙台市)」P80(S29年6月、仙台地区警察署閉庁式看板) |
警察(戦後) | 宮城県警察 | 1954年(S29)7月~ |
* 1954年(S29)7月1日、新警察法施行に伴い、国家地方警察宮城県本部と、仙台市警察などの自治体警察が統合し宮城県警察が発足 (2020年現在、宮城県警察本部庁舎は、宮城県庁舎に隣接) * 1973年(S48)5月11日、県警にヘリコプター「あおば」配備 * 1975年(S50)2月7日、ヤングテレホン設置 * 1985年(S60)5月21日、県警、少年相談電話スタート * 1986年(S61)4月11日、県警、仙台市内の交差点にセンター・ブロック埋設 |
「仙台市史」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P37、P191、P204 | |
警察(戦後) | 警察官 |
<全国> * 1946年(S21)1月16日、警官がピストル携行となる * 1946年(S21)3月16日、婦人警官(65人が入所式)、4月27日から街頭へ * 1946年(S21)7月20日、警官のサーベルを廃止 * 1950年(S25)1月10日、警官の拳銃常時携行となる <宮城県>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P367) * 1946年(S21)10月、宮城県でも婦人警察官21人採用 (応募は、17~39歳まで、大陸から引揚げてきた未亡人も含め96人が応募) / 12月24日に仙台北警察署に11名、南警察署に6名配属 / 青少年補導が主な活動の場 |
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P36、P44/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367 | ||
警察学校 | 東北管区警察学校 | 1956年(S31)~1975年(S50)3月 |
場所は、現在(2018年)の榴ケ岡公園内の一角で、かつては(明治時代~昭和20年まで)陸軍第二師団の歩兵第4連隊兵営だったが、戦災にあわず、戦後は進駐軍(米軍)基地(キャンプ・ファウラー)となり、米軍から返還された後に東北管区警察学校が置かれた / 高等部は旗立から、普通部は玉浦から移転 * 1956年(S31)11月30日、開校式 * 1975年(S50)3月、多賀城に移転 * 1975年(S50)5月、跡地(国有地)が、仙台市緑の拠点として払い下げが決まり、榴ヶ岡公園の一部となった * 移転後の1975年(S50)1月13日から、戦前からの旧・歩兵第4連隊兵舎は解体されたが、一棟だけ残された兵舎が、仙台市歴史民俗資料館となった(S54年11月3日開館) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P800/東北管区警察学校HP/「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P41 |
34-47 |
警察学校 | 宮城県警察学校 | 1954年(S29) | * 1954年(S29)、宮城県警察学校着工きまる(木造2階建て)、/ 場所は台原(荒巻杉添)の米軍射撃場跡地で、県警察学校は川内から台原(ダイノハラ)に移転 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P788、P795 | |
警察署(戦前) | 仙台警察署 | 1876年(M9)~1944年(S19) |
<南町時代> * 1876年(M9)12月、宮城県が「第一警察出張所」を南町に設置 / 翌1877年(M10)3月23日に「仙台警察署」と改称(「仙台市史 年表」P81、「仙台市史 本編2」P650) <県庁内に移転> * 1879年(M12)1月、仙台警察署を勾当台の県庁内に移転、南町は南町分署になる(「仙台市史 本編2」P650) * 1981年(M14)、南町分署を廃し再び仙台警察署とする(「仙台市史 本編2」P650) <国分町へ移転> * 1882年(M15)5月20日、新庁舎が国分町48に完成し移転(「仙台市史 年表」P84、「目で見る仙台の歴史」P116、「仙台市史 本編2」P651) / 赤煉瓦造2階建、上に時計塔、玄関に懸魚をつけ和風を加味(昭和2年に取壊し) <宮城県警察本署> * 1886年(M19)、宮城県の管轄として警察本署がおかれる * 1887年(M20)、警察本署が勾当台通りの県庁構内へ新築移転 <交番所> * 1926年(T15)、芭蕉の辻が有志の寄付で開設され巡査派出所と呼ばれる <仙台警察署が東三番丁へ移転> * 1928年(S3)、東三番丁(定禅寺通り)に庁舎新築し、9月23日、国分町の旧庁舎から移転(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P272では10月18日、「重訂 宮城県郷土史年表」P413、「目で見る仙台の歴史」P163) / 鉄筋コンクリート3階建て <北警察署となる> * 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台北警察署、仙台南警察署開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307) / 仙台警察署庁舎を仙台北警察署が使用、南署は堰場に新設 |
「仙台市史 本編2」P650~653/「仙台市史 年表」P81、P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P413/「仙台市史10 年表」P272、P307/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116、P163 | 「目で見る仙台の歴史」P116(M15、国分町に完成した仙台警察署)/同P163(S3年竣工の庁舎) |
警察署 | 仙台北警察署 | 1944年(S19)~ |
<東三番丁時代> * 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署(東三番丁)が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307) <荒巻へ移転> * 1966年(S41)4月、従来の仙台北警察署の建物は仙台中央警察署となり、仙台北警察署は荒巻に新設移転した(「仙台市史 年表」P124、「重訂 宮城県郷土史年表」P625) |
「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月) | 18-10、44-41、44-31/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807に、仙台中央警察署庁舎(元、北警察署)/同P803に、「中央署の新設に伴い新築した北署」(昭和41年4月) |
警察署 | 仙台中央警察署 | 1966年(S41)~ |
<東三番丁時代> * 1966年(S41)4月1日、勾当台地区(定禅寺通り北側に面して)あった仙台北警察署の建物を仙台中央警察署(新発足)とし、仙台北警察署は荒巻に新設移転 <一番町4丁目へ移転> * 1970年(S45)3月25日、仙台中央警察署が、現・一番町4丁目に新庁舎を建設(旧・仙台北税務署跡、森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角) * 1973年(S48)6月、仙台中央警察署で、東北初の交通管制システム始動 <五橋ヘ移転> * 2005年(H17)、青葉区五橋1丁目(JR仙台病院の跡地の一部)に新築移転 |
「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P20/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月) | |
警察署 | 仙台南警察署 | 1944年(S19)~ |
<新設され、堰場に開庁> * 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁 <舟丁へ移転> * 1962年(S37)9月12日、新庁舎、舟丁に落成 <長町へ移転> * 1993年(H5)、庁舎を長町(太白区長町6丁目)に移転 * 2019年(H31)4月1日、仙台市若林区を新設の若林警察署に移管 |
Wikipedia「仙台南警察署」/「重訂 宮城県郷土史年表」P606 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P780に、「改築後の仙台南警察署」 |
警察署 | 若林警察署 | 2019年(H31)~ |
* 2019年(H31)4月1日、仙台南警察署から分離し、若林警察署が開署 |
Wikipedia「若林警察署」(2020年5月) | |
警察署 | 仙台東警察署 | 1956年(S31)~ | * 1956年(S31)9月1日、発足(原町苦竹/宮城野区南目館21) | 「仙台市史 年表」P119/「重訂 宮城県郷土史年表」P582/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798に、「仙台東警察署庁舎」 |
競馬 | 仙台競馬会社設立 | 1889年(M22) | * 1889年(M22)5月24日、青葉神社下で第1回競馬を開催 | 「仙台市史 年表」P86 | |
競馬 | 愛子競馬場開設 | 1929年(S4) | * 1929年(S4)11月21日、愛子(あやし)競馬場開設 | 「仙台市史 年表」P105 | |
競馬 | 長町競馬場の開設認可 | 1931年(S6) | * 1931年(S6)4月18日、長町競馬場、開設認可 | 「仙台市史 年表」P105 | |
競馬 | 県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 | 1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった * 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314) * 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため * 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118) * 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議) * 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200) |
「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃) |
敬老乗車証 | 交付 | 1973年(S48) | * 1973年(S48)10月15日、仙台市が70歳以上の市民に交付 | 「仙台市史 年表」P129 | |
下水処理 | 事業決定 | 1957年(S32)~ |
* 1957年(S32)2月、仙台市、下水道処理事業決定 * 1963年(S38)9月、南蒲生の下水週末処理場一部運転開始 * 1964年(S39)2月、下水の南蒲生幹線貫通 |
「市民の戦後史(仙台市)」P152~153 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P151(建設中の南蒲生下水処理場)/「市民の戦後史(仙台市)」P152~153(南蒲生下水道終末処理場、下水道清掃車、下水幹線工事完成で握手、澱ポンプ場) |
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