項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
文字・漢字の表記 |
当用漢字(新字体) |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月、「当用漢字字体表」としてに告示された「新たな字体」
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仙台復興祭グランドフェア |
実施 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、仙台市制施行60周年記念事業として実施 / 会場は西公園 / 歓迎のため、仙台駅西口広場に「こけし塔」を設置、のち広告塔として利用された / フェアにあわせ、仙台駅付近に河北ショーハウス建設
・「仙台市史 続編第2巻」P199に「昭和24年、戦後の混乱期も一応おさまり、食糧危機も次第に緩和され、人心も落ち着いてきたので、仙台市は、仙台復興祭グランドフェアを西公園で開いた。」
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「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台市史 年表」P116/「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
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こけし塔は、20-08、16-18、16-19、16-20/「目で見る仙台の歴史」P174に、グランドフェアで市役所夜間照明/「市民の戦後史(仙台市)」P46(会場前のこけし塔)
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青葉通り(築造) |
用地確保で代執行 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)3月~1951年(S26)年9月、駅前から東五番丁西側付近までの青葉通り予定地には、空襲跡の土地に戦後できた3つのマーケット(ヤミ市)や無届建築物が集中していたが、S24年3月~26年9月にかけ、しばしば市や県による強制代執行で取り壊され、50m幅の用地が確保された
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「戦災復興余話」
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98-032/「新・目で見る仙台の歴史」P185/「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(東五番丁での代執行)
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ネオンサイン
(戦後復活) |
戦後復活 |
1950年(S25) |
* 1949年(S24)3月、(全国)ネオン広告を全面解除
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
* 1951年(S26)2月、電力事情悪化 / ネオン、エレベーターなどの使用禁止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43/仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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53-82(S26~27年頃の仙台駅前夜景)
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火災(地域) |
仙台駅前(駅前マーケット) |
1949年(S24)/1953年(S28) |
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前の裏五番丁に火災あり、46戸全焼
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前マーケット、46戸焼失
* 1953年(S28)1月7日、仙台駅前百貨商店街火事、8棟46戸全半焼
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台市史 年表」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台年表」P226
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仙台の裁判所 |
仙台家庭裁判所 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)1月1日、発足(片平丁大町頭) / 旧少年審判所を併合して少年問題や家庭に関する調停・審判にあたる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P808
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「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P40
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右側通行 |
開始 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)11月1日、それまでの左側通行から、「人は右、車は左」の対面交通に切り替えられた
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昭和24年道路交通取締法改正
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16-28、16-43
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仙台朝市 |
スタート |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)、青空市場、通称“朝市”から始まる(「仙台朝市商店街振興組合」HP)
* 1978年(S53)10月31日、新仙台駅前ビル(通称「仙台朝市アメ横ビル」)、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P87
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仙台市の消防 |
消防団(戦後) |
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* 1948年(S23)、発足 / 北・南消防団で1470人、腕用ポンプ56台、手引きガソリンポンプ11台
* 1950年(S25)9月、原町、岩切など7分団を支団と改称、定員1800人
* 1957年(S32)3月、9支団を再び分団と改称、地域の事情により水防部も併置
* 1967年(S42)末の消防団組織図(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822)計1654人
・ 北消防団に、1本部13分団
・ 南消防団に、1本部14分団
・ 東消防団に、1本部6分団
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P821~822
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バス |
キャブオーバー型 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)、キャブオーバー型バスが仙台市では初登場
・ 車体前部にエンジンを置いた箱型バスで、エンジンの上に運転台がある
・ 外観的には車体正面にグリルがあり、車内運転席横にエンジンの張り出しがあるのが特徴
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P91
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98-106
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台風被害(戦後) |
アイオン台風 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)9月16日~17日、広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / (仙台で?)堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送 / (県内で)家屋流失121戸、倒壊254戸、浸水家屋3万3000余戸、田畑被害も甚大
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「仙台市史10 年表」P319/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P529
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スポーツ大会(戦後復興期) |
宮城県民体育大会(第1回) |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)9月10日、第1回大会(仙台市宮城野原で)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
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台風被害(戦後) |
ユーニス(ユーリス?)台風 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)8月11日~13日、で、宮城県内被害、家屋流失倒壊23戸、浸水4300余戸、田畑冠水2万2900余町歩
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「仙台市史10 年表」P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P528
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪者 |
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* 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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サマータイム |
実施 |
1948年(S23)~1952年(S27) |
* 1948年(S23)5月2日~9月11日、初実施
* 1952年(S27)4月11日、夏時刻法(サマータイム)廃止
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「仙台年表」P218/「仙台市史10 年表」P316、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P526/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42、P46
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青葉神社 |
神輿渡御復活 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)5月23日、青葉祭 / 春の例祭で神輿渡御が13年ぶりに行われ、あわせて甲冑の武者行列も
* 1961年(S36)5月のゴールデンウィーク、全市あげて青葉神社祭典(武者行列、神輿渡御、相馬浪江の相撲甚句や宝財おどり)
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「仙台市史 年表」P115/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182、P714
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182の写真49/「市民の戦後史(仙台市)」P226(5月の青葉神社例祭の武者行列)
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戦後教育・仙台 |
新制高校発足 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足した(一覧は、「仙台市史 続編第2巻」P333)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P331~333
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学制改革(戦後) |
新制高校 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
・ 仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足
・ 仙台市内の新制高校一覧(昭和23年)→ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P275に、県立8校(男子5校、女子3校)、市立5校(男子4校、女子1校)、私立12校(男子5校、女子7校)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P333/「仙台市史 特別編4 市民生活」P275
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火災(地域) |
中央マーケット |
1948年(S23)/1961年(S36) |
* 1948年(S23)2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失
* 1948年(S23)5月27日、東一番丁仙台中央市場、72戸焼失
* 1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟焼失
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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瑞鳳殿 |
戦後の再建 |
1974年(S49)~ |
* 1948年(S23)12月、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(重訂 宮城県郷土史年表)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(仙台市史10年表)
* 1966年(S41)8月13日、再建のための基礎調査開始
* 1968年(S43)1月31日、経ヶ峰整備委員会が再建計画案を市に提出
* 1974年(S49)9月11日、再建起工式、再建にともなって墓室発掘調査(9月25日から政宗公の遺体発掘)が実施され、同年10月26日~28日に墓室が一般公開される
* 1975年(S50)5月24日、政宗公の遺体を、瑞鳳殿に再埋葬
* 1975年(S50)7月30日、再建上棟式
* 1977年(S52)7月16日、伊達政宗の殉職者の墓碑復元
* 1988年(S53)3月、再建第1期工事完成
* 1979年(S54)11月30日、竣工
* 1979年(S54)12月4日、瑞鳳殿再建落慶式
* 1980年(S55)、瑞鳳殿資料館開館
* 1981年(S56)10月12日、感仙殿と善応殿発掘調査
* 1983年(S58)8月5日、感仙殿、善応殿を再建、一般公開
* 1985年(S60)5月、感仙殿、善応殿の再建落成式(戦前のとは形が違っている)
* 1986年(S61)5月23日、伊達政宗の座像公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P531、P627、P638/「仙台あのころこのころ八十八年」P258/「仙台市史10 年表」P322/公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 年表」P129、P131、P132、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P32、P41、P43、P70、P104、P134、P164、P205
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火災(地域) |
国分町虎屋横丁 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)10月2日、国分町虎屋横丁13戸焼失
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「仙台市史10 年表」P319
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藤崎(戦後期) |
戦災復興館(木造平屋) 開店 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)、藤崎「戦後復興館」建設
・ T8年建設の旧本館(洋風木造2階建)が仙台空襲(S20年7月)で焼失
・ その跡地に建設(木造1階建)
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藤崎170年のあゆみ」P196~197
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台風被害(戦後) |
カスリーン台風(カスリン台風) |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)9月14日、カスリーン台風で宮城県下の冠水田畑7000町歩(「仙台年表」P217)
* 1947年(S22)9月16日、カスリン台風で広瀬川氾濫、架替え直後の宮沢橋(根岸橋)が流失(「仙台市史年表」P115)
* 1947年(S22)9月16日、カスリーン台風で県内被害、死者10名、負傷者3人、流失家屋106戸、田畑被害6万町歩(「重訂 宮城県郷土史年表」P521)
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「仙台年表」P217/「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P521
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スポーツ大会(戦後復興期) |
中等学校野球全国大会 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)8月、旧制仙台二中が「夏の甲子園」に東北代表で出場、浪花商業、下関商業を破り、ベスト・フォーに残る
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
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スポーツ大会(戦後復興期) |
東北陸上競技大会(第1回) |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)8月、仙台市で開催
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
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水害 |
カスリーン台風 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、県内に水害
* 1947年(S22)9月、カスリン台風で、県内はさらに大きな被害をうけ、物資はいっそう不足した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702
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「市民の戦後史(仙台市)」P35(流失した根岸橋)
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仙台市立病院 |
戦後復旧 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、看護婦養成所本館裏に、木造病舎とともに新築 / S23年から、養成再開
* 1947年(S22)10月、復旧し、屋上で市立病院戦災復興式 / 本館および南側地下1階、地上3階が復旧 / ベッド230床、外来患者1日400人以上 / 焼け野原の一角にクリーム色の病院が復興
* 1951年(S26)~1954年(S29)、増築・増床
・ S26年、南側病棟屋上に4階を増築
・ S28年6月、東二番丁に面した本館北側に鉄筋コンクリート5階建を増築
・ S29年7月、さらに北側に、地下1階、地上2階増築
(本館裏の木造病棟取り壊す)
・ S30年3月、前年度完成した上に3~5階部分が完成
* 東二番丁通り拡幅に伴い、玄関が道路拡幅部分にかかる
* 1956年(S31)10月3日、人間ドック開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P583)
* 1960年(S35)、人間ドックを、1週間から2日間に短縮
* 1960年(S35)、救急車購入
* 1963年(S38)6月、救急業務開始
* 1966年(S41)1月10日、救急センター落成(地下1階、地上4階建て、東北初の専門施設、一度に5人の手術可能)、
* 1980年(S55)7月、五橋に移転
* 1980年(S55)9月2日、建物解体始まる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P708~710、P712、P714、P716~717/「仙台年表」P217/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史10 年表」P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P583、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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22-24(東二番丁通りの拡幅部分にはみ出した市民病院玄関)/ 「市民の戦後史(仙台市)」P182(救急病棟外観、手術室)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29)の左上の白いビル/同P40(S33年、空撮、画面上のL字型ビル)/同P60(S38、カラー)/同P86(S41)
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ユネスコ協会(仙台) |
発足 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月19日、仙台ユネスコ協力会発足
* 1948年(S23)、第2回ユネスコ運動全国大会(於仙台)/ 14回・40回も仙台で開催
* 1951年(S26)、仙台ユネスコ協会と改称
* 1954年(S29)、ユネスコ子供学校創設
* 1955年(S30)、第1回仙台ユネスコ夏期学校開催
* 1957年(S32)、社団法人仙台ユネスコ協会に改組
* 1957年(S32)6月16日、仙台ユネスコ会館落成(現・青葉区大町1-2-2、晩翠草堂の隣) / 2011年の東日本大震災で、ユネスコ会館被災⇒改修不能
これ以降は、「仙台ユネスコ協会HP」の「仙台ユネスコ協会のあゆみ」参照
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「市民の戦後史(仙台市)」P101/仙台ユネスコ協会HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P585
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「市民の戦後史(仙台市)」P101(ユネスコ会館)
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光ヶ丘天使園 |
仙台版「少年の町」建設 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月、エドワード・フラナガン神父来仙
* 1948年(S23)3月、光ヶ丘天使園(仙台市東郊)起工式 / 前年のフラナガン神父来仙を契機とした仙台版「少年の町」 / その後、ラサールホームと改称
* 1948年(S23)12月26日、第1期工事完成
* 1950年(S25)5月、フラナガン神父来仙(宮城県盲学校で祈念植樹、キリスト教育児院、仙台天使園、聖母園、収容学園を視察)
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「市民の戦後史(仙台市)」P34/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P259
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S22年のフラナガン神父来仙は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校を訪問したフラナガン神父)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34/光ヶ丘のラサールホームは、「目で見る仙台の歴史」P194
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台北消防団/仙台南消防団 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月1日、消防団令公布
* 1948年(S23)1月20日、「仙台北警防団」・「仙台南警防団」が解散し、「仙台北消防団」・「仙台南消防団」が発足
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「仙台市史10 年表」P316、P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P524
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学制改革(戦後) |
新制小学校/新制中学校 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)4月1日、六・三制の学校制度開始 / 義務教育期間は小学校・中学校の9年間に
・ 国民学校を小学校と改称
・ 仙台市で29の新制中学校開校(市立18校、官立1、私立10)
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「仙台市史 年表」P114~115/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95
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「目で見る仙台の歴史」P181に、五ツ橋中学校、第二中学校、東華中学校、片平丁小学校、木町通小学校
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学制改革(戦後) |
学校教育法 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、学校教育法を公布、翌4月1日から施行
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P26
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戦後教育・仙台 |
教育委員会 |
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* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、公布・施行
* 1947年(S22)3月31日、学校教育法、公布、翌4月1日から施行
* 1948年(S23)6月19日、国会が、「教育勅語等排除に関する決議」および「教育勅語等の失効確認に関する決議」
<教育委員会 公選制→任命制>
* 1948年(S23)7月15日、教育委員会法、公布・施行(公選制)
* 1948年(S23)11月、宮城県教育委員会発足
* 1950年(S25)11月1日、仙台市議会が仙台市教育委員会設置決議
* 1950年(S25)11月10日、仙台市教育委員選挙、立候補者10名、当選4名(このほかに市議会選出の1名)
* 1950年(S25)12月1日、第1回教育委員会
* 1956年(S31)6月30日、地方教育行政の組織及び運営に関する法律制定、教育委員公選制から任命制へ(首長が議会の同意を得て任命)
* 1956年(S31)10月10日、市長が仙台市教育委員5名を任命
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P340~346
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「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市教育委員会庁舎)
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在住朝鮮人大会 |
開催 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月1日、宮城県在住朝鮮人大会
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「仙台市史10 年表」P315
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銀行(都市銀行) |
三菱銀行 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)2月17日、三菱銀行仙台支店を東一番丁に開業
* 1948年(S23)10月、 持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、株式会社千代田銀行に商号変更
* 1953年(S28)7月、再び商号を株式会社三菱銀行に変更
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「三菱銀行」2020年9月版
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映画館(戦後) |
公園劇場 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)1月、鉄砲町5に開設(350席)
* 1975年(S50)3月16日、全焼
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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市場 |
仙台東一公設市場(東一マーケット) |
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* 1946年(S21)?、「仙台東一公設市場」(東一マーケット)は、戦後、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道の東側に面してあった
* 1956年(S31)、鉄筋2階建に改築され、その後も「東一市場」の名で存続
<火災>
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼
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<火災>
「市民の戦後史」P50/「仙台年表」P221/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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16-38、16-39
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スポーツ大会(戦後復興期) |
国体サッカー |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)秋、第1回国体サッカー東日本予選(東大グラウンド)で、旧制仙台一中準優勝
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P467
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スポーツ大会(戦後復興期) |
仙台市体育まつり |
1946年(S21)~1964年(S39) |
* 1946年(S21)から毎年秋に、小・中・高校、青年団など対象の大運動会 / その後、各競技別の市民大会となり、 1965年(S40)以降は市民総合体育大会へと発展
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479
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映画館(戦後) |
南街映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)、舟丁64に開設(460席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P515
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労働運動(戦後) |
宮城県内 |
1945年(S20)8月~ |
* 1946年(S21)、労働組合続々と結成(1月3日、仙台鉄道管理局管理部管内従業員1万5千人 / 2月27日、宮城県教員組合結成大会、 など)
* 1946年(S21)9月20日、失業反対宮城県労働者大会
* 1946年(S21)10月8日、宮城地区共同闘争委員会主催、労農者大会
* 1946年(S21)11月28日、宮城県労農市民大会、勤労大衆2万人結集
* 1947年(S22)1月31日、マッカーサー元帥、2・1ストに中止命令
* 1950年(S25)夏~、レッドパ-ジ / 宮城県内では、新聞、電機産業(電産)を中心に民間から160余名、官公庁関係から13名が職場から追放された
<参考>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦後の経過につき記述あり
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604の第七章労働運動」に、昭和20年~43年の宮城県内および仙台の労働運動の経過につき記述あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508、P509、P516/「仙台市史10 年表」P311、P313、P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604/「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533
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44-46、44-55、16-53、16-55
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復興盆踊り |
開催 |
1946年(S21)8月 |
* 1946年(S21)8月、「復興第一年祝賀盆踊り」
・ 敗戦(S20年8月)の翌年、東一番丁では他の町内に先駆けて、復興盆踊りを開催
・ 場所は、東一番丁大通りの一力邸(河北新報社会長)の空襲焼け跡の原っぱ (その後、この場所は「青葉通り」になった)
・ 「森権五郎氏が中心になり戦後初の盆踊り大会が開かれ毎晩数万人が集まる」(「東一番丁創立五十周年」P8より)
・ 薄田清が「伊達で鳴らした仙台さまの心意気だよ地固めも・・・」と復興盆おどりを作詞し、お囃子は柴田量平が受けもった」(「仙台市史 続編第2巻」P197~198)
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197~198
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53-09、53-26
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戦後開拓 |
東北開拓事務所 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月、東北開拓事務所を仙台に設置(東北6県管轄)、国営の開墾、干拓などの工事、国営工事適地の調査等
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512
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丸光 |
雑貨店開店 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月1日、 仙台駅前の空襲焼け跡(裏五番丁15)に丸光合資会社として雑貨店を開き、「MARUMITU DEPT.STORE」の文字を掲げて営業を開始 / 木造平屋で50坪
* 1948年(S23)6月1日、株式会社に改組
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 年表」P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P511
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スポーツ大会(戦後復興期) |
戦後・仙台一中対二中の野球定期戦復活 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月、旧仙台一中対二中の野球復活第1回定期戦(市営澱球場) / 戦時中は中断し4年ぶりに復活した定期戦で、戦後の東北地方では初の野球試合 / 32対27で二中の勝利、7回表までの試合時間が4時間50分 / 「野球用具の入手も困難な時期でスパイクをはいているのは選手の半数ぐらい、1塁塁審の二中OB氏は学生服と兵隊靴、3塁塁審の一中OB氏は復員姿そのままといったスタイルであった。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P93
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食糧メーデー |
仙台市で開催 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月31日、仙台市で食糧メーデー開催
(東京の「食糧メーデー」(飯米獲得人民大会)は、5月19日)
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「仙台市史 年表」P114
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メーデー(戦後) |
宮城県(戦後復活) |
1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)5月1日、戦後復活第1回、宮城県庁前広場に2万人参加(11年ぶりに復活)
* 1947年(S22)5月1日、復活第2回メーデー、勤労大衆約3万結集
* 1949年(S24)5月1日、メーデー、反共系=仙台労協側、容共派=県労会議に分裂
* 1950年(S25)5月1日、宮城全労会議系、県労会議系の分裂メーデー
* 1951年(S26)5月1日、2年間の分裂メーデーをやめ、統一メーデー開催
* 1952年(S27)5月1日、県メーデー、西公園グランドに約4000名参加、学連系東北大学生150余名警官隊と衝突
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「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史10 年表」P312、P316、P321、P323、P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P534、P549
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44-46(S22、戦後2回目)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(S35年メーデー集会、宮城県庁前)/「市民の戦後史(仙台市)」P214(S43年5月メーデー集会)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P532(S36年、メーデー前夜祭のポスター)
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映画館(戦後) |
松竹映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)4月、南町通12に開設(560席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P510
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同胞援護会 |
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1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)4月18日、恩賜財団同胞援護会宮城県支部創立(事務所は宮城県庁内)/ 4月から、奨学事業開始(156名、主として母子家庭の高等学校卒業生に奨学金500円)
* 1946年(S21)4月25日、同胞援護会仙台更生寮設立
* 1946年(S21)12月1日、同胞援護会小田原更生寮設立
* 1947年(S22)1月20日、小田原母子寮設立
* 1949年(S24)8月10日、恩賜財団宮城県同胞援護会と改名
* 1953年(S28)9月、外記丁に竣工した社会福祉会館に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P516、P567/「仙台市史10 年表」P312、P315
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物価上昇 |
戦後インフレ |
昭和20年代 |
* 1946年(S21)3月、国鉄運賃25割値上げ、仙台~東京間250円に(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702)
* 1946年(S21)秋、物価はウナギのぼり、ヤミ値はつりあがる(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701)
* 1947年(S22)、この年、酒、タバコ、郵便が一斉に値上げ / 消費者物価が終戦時の4倍となる
* 1948年(S23)末、同年3月比の物価
・ 5割以上値上がりした品目(鯨油、黒砂糖、白砂糖、清酒、茶、ポプリン、キャラコ、革靴、練炭、化粧石鹸、ポマード、クリーム、アルコール、紙類、材木、自転車など)
・ 下落した品目(白菜、ホウレンソウ、大根、イカ、蒲鉾、スルメ、りんご、人絹、絹布、靴下、マッチ、サッカリン、ペニシリン、セメント、畳、鉄くぎ など)
* 1949年(S24)3月、物価調査で公定価格割れが続々と出てくる
* 1950年(S25)7月、仙台市、ガス料金を23.8%値上げ
* 1954年(S29)春、前年秋からのデフレ政策が仙台にも波及、市内商店の売り上げは2~3割減、一方デパート売上は堅実に伸びる
* 1954年(S29)秋から翌年6月ごろまで仙台の物価は横ばい
* 1955年(S30)6月の仙台の物価指数、S26年を100として、120 / 市内の標準家庭(5人)の家計支出は月平均2万5000円で食費は半分以下となった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701~702、P710/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P43/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P107
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