項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
在外同胞救出仙台学生同盟 |
発足~解散 |
1946年(S21)2月~1950年(S25)2月 |
* 1946年(S21)2月~1950年(S25)2月、仙台在住の男女学生生徒たちが、敗戦半年後から4年間、復員兵や海外からの引揚者を仙台駅で世話 (湯茶の接待、相談、宿舎提供、健康診断)
・ 412人の学生生徒が参加
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在外同胞救出仙台学生同盟史(昭和25年刊)
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78-01、78-02、78-03、78-04、78-05、78-06
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公職追放/追放解除 |
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1946年(S21)~1947年(S22) / 1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1946年(S21)1月4日、GHQ、軍国主義者等の公職追放および超国家主義団体27の解散を指令
* 1947年(S22)1月4日、公職追放令改正、財界・言論界・地方公職に拡大
**********************************
* 1950年(S25)11月10日、旧軍人初の追放解除、3250人
* 1951年(S26)6月20日、政府、第1次追放解除発表、石橋湛山、三木武吉や政財界人2958人
* 1951年(S26)8月6日、政府、第2次追放解除を発表、鳩山一郎ら各界1万3904人
* 1951年(S26)8月16日、政府、旧陸海軍正規将校1万11885人の追放解除を発表
* 1951年(S26)9月8日、政府、GHQの承認を得て、旧特高警察関係336人の追放解除を発表(この日、対日講和条約・日米安全保障条約調印)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26、P29、P30
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文字・漢字の表記 |
新聞のルビ廃止 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)12月1日、紙面のルビ廃止、新カナ使い、左横書きとなる
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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文字・漢字の表記 |
当用漢字 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月5日、国語審議会が答申
* 同年11月16日に内閣が告示した「当用漢字表」に掲載された1850の漢字
* 1981年(S56)、常用漢字表の告示に伴い当用漢字表は廃止
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Wikipedia「当用漢字」
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新憲法 |
施行 |
1947年(S22) |
* 1946年(S21)11月3日、日本国憲法公布、大々的な県民大会、市民大会開催、市民に米3合特配
* 1947年(S22)5月3日、日本国憲法施行、地方自治法など憲法附属24法律施行、県民祝賀大会
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89/「仙台市史10 年表」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P518
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「新・目で見る仙台の歴史」P175(新憲法発布祝賀会、祝賀提灯づくり、県庁前祝賀行列)
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NHK東北児童唱歌コンクール |
荒町国民学校が優勝 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月10日、東北6県から国民学校代表12校参加、第1位に荒町国民学校、第2位に宮城師範女子部付属国民学校 / 「このころ二部授業や青空教室で不自由な思いをしていた児童や父兄の憂鬱を吹き飛ばした」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
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三原時計店 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失
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三原本店HP
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養賢堂 |
戦災で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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敗戦後の諸相・仙台 |
米、大減収 |
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* 1945年(S20)は凶作で、20年産米の供出量は、21年3月で66%
* 1946年(S21)産米は、前年に比べやや持ち直す
* 1947年(S22)、大減収(7、8月の豪雨と9月のカスリーン台風)
* 1948年(S23)、大減収(アイオン台風)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70、P72
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立町小学校 |
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* 1945年(S20)、仙台空襲で焼失
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「市民の戦後史(仙台市)」P22(戦前の校舎)
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国旗掲揚 |
戦後 |
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* 1945年(S20)8月、太平洋戦争で日本敗戦
* 1945年(S20)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止
* 1947年(S22)12月27日、GHQ,新年の国旗掲揚を許可
* 1948年(S23)4月1日、GHQ、国民の祝日の国旗掲揚を許すと通告
* 1949年(S24)1月1日、無制限に許可(「重訂 宮城県郷土史年表」P532)
<Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)より>
占領下における日章旗の掲揚禁止、祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、
* 1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」
* 1950年(S25)10月17日、文部省、祝日に国旗、君が代をすすめる通達
* 1977年(S52)7月23日、文部省、小学校の学習指導要領で「君が代」を国歌と規定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)/岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P42、P71
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瑞鳳殿 |
空襲で焼失/仙台市に移管 |
1945年(S20)/1952年(S27) |
* 1945年(S20)7月10日仙台空襲で焼失
・ 焼失後は、政宗の墓として白木の墓標が1基たてられただけだった / 伊達家の財政窮乏でかなり荒れ果てていたが、1951年(S26)に伊達家が京ヶ峯一帯を仙台市に寄付
* 1952年(S27)3月、伊達家所有の瑞鳳殿霊廟一帯の地域の所有権を仙台市に移管
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187/「重訂 宮城県郷土史年表」P554
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仙台駅(戦前) |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で駅舎、仙台鉄道局、仙台鉄道管理局が焼失 / 本局は仙台鉄道教習所に移り、さらに東二番丁の東北学院中学校の建物借用し移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P561
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台鉄道局庁舎(大正8年)
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宮城県護国神社/宮城神社 |
戦災、戦後 |
1945年(S20)/1946年(S21) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で社殿を焼失、ご神体は市内の秋保神社・仮宮に遷された
* 1946年(S21)、「宮城神社」と改称(GHQによる神道指令に基づく政教分離により)
* 1952年(S27)7月、宮城神社上棟式
* 1953年(S28)4月28日、宮城神社奉斎殿、青葉通り大町頭に竣工 / 4月28日~5月7日、清祓並びに新殿祭・遷座祭・合祀祭・春季例祭・臨時慰霊祭等を行う / 奉斎殿は、S26年4月着工、28年4月竣工、神殿造延坪200坪、2階建て
* 1954年(S29)8月6日、本殿造営御木曳祭
* 1955年(S30)8月1日、本殿柱立式
* 米軍が去った1957年(S32年)に社名を「宮城縣護國神社」に戻し、1958年(S33)に伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を移築
* 1968年(S43)4月、新社殿落成
<「戦争のころ 仙台、宮城」P38>
・明治以降の戦死者、戦病死者約5万6000柱をまつる
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Wikipedia「宮城県護国神社」/「仙台年表」P231、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P515、P557、P563/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188の写真54(戦後再建した護国神社)/「目で見る仙台の歴史」P194(大町頭の宮城神社奉斎殿)
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隅櫓 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失
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仙台市HP
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仙台市電 |
仙台空襲被害と復旧 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(計6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315)
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P315)
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87)
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了(「仙台市史10 年表」P309)、全線運行再開(「仙台市史 年表」P113)
・仙台空襲時、全車両(52輌)は奇跡的に全車無事 / 車両は、北二番丁車庫、北仙台線、八幡町線の終点と秋保電鉄車庫に分散しており焼夷弾攻撃を免れた / 空襲被害は片平車庫が全焼、中心部各所で架線が垂れ落ちる / 復旧工事により、空襲翌日には荒町~長町間で運転再開、仙台駅前~荒町間8月3日、敗戦13日後の8月28日に全線で運転再開(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315/「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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35-15(仙台駅西側付近の焼け跡に市電車両が写る)
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(8) |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)6月25日、東京神田で水田が作られた
* 1945年(S20)7月17日、旅行者用外食券が交付されることになる
<仙台> (「仙台市史 特別編4 市民生活」P99)
* 1945年(S20)8月、仙台でも外食券制度施行され、旅行用16軒、三食用20軒を外食券食堂に指定
・ 外食券制度は、米の配給通帳制と同時に発足したが、新聞などの記事による限り、一般の人に良く利用されるようになったのは、敗戦が近くなり食糧難が深刻になったころからのようである
<敗戦 8月15日>
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1945年(S20)秋、鉄かぶとを鍋に再生
* 1945年(S20)秋、タバコ巻機が大流行
<戦後の統制撤廃>
→ 項目「戦後の物資・価格統制撤廃」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P34、P35/「仙台市史 特別編4 市民生活」P99
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銀行(都市銀行) |
三和銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)5月1日、三和銀行仙台支店を東二番丁元寺小路角に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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戦時中の勤労動員/就労規制(7) |
国民勤労動員令 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)3月6日公布、3月10日施行
老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざす
→ 詳細は、項目「国民勤労動員令」参照
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「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P504
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銀行(都市銀行) |
住友銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)2月17日、住友銀行仙台支店を新伝馬町に開業
* 1948年(S23)10月1日、株式会社大阪銀行に商号変更
* 1952年(S27)12月1日、商号を株式会社住友銀行に復帰
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「住友銀行」2020年9月13日版
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映画館(戦後) |
第一映画劇場 |
1945年(S20)? |
* 1945年(S20)1月、開設(北日本興業、500席)
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に第一劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
<編者注> 太平洋戦争末期に、映画館開設は考えにくが・・・?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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映画館(戦後) |
錦映画館 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、錦町21に開設(480席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508
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東北学院(沿革) |
戦後期 |
1945年(S20)夏以降 |
* 1945年(S20)12月、東北学院航空工業専門学校を、工業専門学校と改称(S22年に廃止)
* 1946年(S21)4月、東北学院専門学校(英文科・経済科)を設置
* 1947年(S22)4月、新制中学校設置
* 1948年(S23)4月、新制高等学校設置
* 1949年(S24)、東北学院専門学校が昇格し東北学院大学(文経学部)に
* 1951年(S26)3月31日、東北学院専門学校廃止
* 1953年(S28)5月14日、南六軒丁にシュネーダー記念図書館竣工し献堂式(鉄筋コンクリート造3階建、書庫5階建)
* 1959年(S34)4月、榴岡に男子部の高校分校を設置
* 1972年(S47)7月、榴ヶ岡高校新校舎完成
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内(東二番丁)に、シュネーダー記念館完成
* 1986年(S61)10月1日、東北学院大学、泉キャンパス新校舎起工式
* 2005年(H17)1月、中学校・高等学校、宮城野区小鶴に新校舎完成し、東二番丁から移転
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「東北学院創立七十周年写真誌」P69、P70/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P320、P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P534、P548、P564、P592/「続・ 宮城県郷土史年表」P12、P212/Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
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シュネーダー記念図書館(南六軒丁)は、「東北学院創立七十周年写真誌」P63と、「目で見る仙台の歴史」P180
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映画館(戦後) |
東北劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、本櫓町51に開設(700席)
* 1979年(S54)4月13日、立町の東北劇場焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508/「続・ 宮城県郷土史年表」P94
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「市民の戦後史(仙台市)」P42(NHKのど自慢会場の看板あり)
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農地解放(農地改革) |
1946年(S21)~1952年(S27)頃 |
* 1945年(S20)12月9日、GHQが農地改革を指令
<仙台市内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点の小作地面積は、2591町歩
(2) 1950年(S25)8月時点の小作地面積は、399町歩
(3) 市内田畑総耕地面積に占める小作地割合の変遷
S20年(48.6%)→S24年(12.1%)→S26年(7.2%)→S27年(3.5%)
(4) 農地を買収された地主戸数は、3719戸
(個人地主3490戸、法人地主229)
(在村地主1665戸、不在地主2054戸)
(10町歩以上買収された地主、個人17戸、法人2)
売り渡しを受けた戸数は、4524戸
<宮城県内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点で、自作地40%、小作地59.4%
(2) 改革完了後には、自作地89.5%、小作地10.5%
(3) 自作小作農家の割合変化
小作農 41.6%→3.9%
自作農 19.4%→61.1%
自小作農 15.1%→24.8%
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P606~611、P726
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戦後復員/引揚げ |
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* 1945年(S20)12月7日、東北復員監督部、仙台に設置
* 1946年(S21)6月9日、海外引揚者更生連盟結成大会
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着
* 1946年(S21)12月15日、東部復員連絡所仙台支部設立
* 1947年(S22)2月20日、宮城県引揚者生活権確立大会
* 1947年(S22)4月12日、樺太引揚者第1陣60名、仙台駅着
* 1953年(S28)3月28日深更、中国からの引揚第1陣仙台到着
* 1956年(S31)7月、第13次中国帰国船(興安丸)
* 1956年(S31)7月、ハルビン地区関係死亡者名簿、東北地方だけで7405人の氏名が新聞一面を埋める
* 1956年(S31)12月末、最後のソ連引揚1025人、舞鶴に到着
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「仙台市史10 年表」P310、P313、P315、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P516、P552/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P273、P282
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太から引揚第1陣)/同P171と「市民の戦後史(仙台市)」P44(シベリアからの復員軍人仙台駅着)/「市民の戦後史(仙台市)」P26~27(県議会議事堂で引揚促進大会、仙台駅に設けられた引揚者相談所看板、引揚者に茶のもてなし、樺太引揚者)
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戦災復興都市計画事業 |
制度、計画など |
1946年(S21)~1961年(S36) |
* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興都市計画基本方針決定
* 1946年(S21)4月15日、仙台市復興委員会開催(学識経験者と市会議員から委員64人)
* 1946年(S21)4月20日、戦災復興院特別建設出張所設置
* 1946年(S21)5月、仙台市は「戦災区域」の指定をうける
* 1946年(S21)5月5日、仙台市役所復興局(2部7課)設置
* 1946年(S21)5月9日、仙台都市復興都市計画土地区画決定
・424haの土地区画整理、23路線(2万4000m)の都市計画道路、13か所(51.7ha)の公園緑地、墓地計画、学校移転、無電柱街路計画など
・S26年とS29年に事業区域が縮小されて、最終的な施工地区は市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)に変更された
* 1946年(S21)8月15日、戦災都市における建築物の制限に関する勅令を仙台市に適用
* 1946年(S21)10月9日、特別都市計画法、仙台市に適用
* 1946年(S21)10月10日、仙台市役所に仙台復興局を置き復興計画方針決定(五か年計画の樹立)
* 1946年(S21)10月、戦災跡地ガス供給管被害箇所復旧
* 1947年(S22)2月17日、仙台特別都市計画事業復興土地区画整理及び執行年度割決定
* 1947年(S22)6月4日、戦災復興院宮城建築出張所設置
* 1947年(S22)6月11日、仙台都市計画公園変更決定
* 1947年(S22)12月12日、仙台復興都市計画土地区画整理委員選挙
* 1947年(S22)12月31日、仙台市に適用の都会地転入抑制緊急措置令解除
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P90、P315~316/「仙台市史10 年表」P312~314、P316~P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P513、P519、P600/「仙台市史 年表」P121
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戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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政党県支部など(戦後) |
日本共産党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月25日、日本共産党宮城県支部演説会開催
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「仙台市史10 年表」P311
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闇市 |
仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけ望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
戦後、仙台市内で強制撤去された、ヤミ市を含む場所の一覧(S23年3月~27年12月)は、当サイト内「写真データベース」、写真(画像)番号98-034にあります
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「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158
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98-034/「新・目で見る仙台の歴史」P171(ヤミ市の風景)
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映画館(戦後) |
青葉劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)10月8日、東七番丁に開設(9~10日は、戦災市民無料招待)
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「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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銀行(都市銀行) |
日本興業銀行 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)8月、日本興業銀行東北支店を福島市より仙台市東一番丁に移転
* 1951年(S26)10月、仙台支店と改称
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「重訂 宮城県郷土史年表」P502
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P730(日本興行銀行仙台支店)
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(1) 生徒の動員先、作業内容を指定 |
1944年(S19)8月~1945年(S20)4月 |
* 1944年(S19)8月、政府は国家総動員法に基づく「学徒勤労令」発令 / (旧制)中学校、高等女学校以上の学徒を、S19年秋~20年1月にかけ、指定された場所へ動員(軍需工場、食糧増産のための開墾、農作業、飛行場造成、家屋疎開作業など)
・ 全国で310万余、全学徒の約7割が対象(軍需生産200万人、食糧増産100万人、防空防衛14万人、重要研究2000人)
「防空防衛」は、空襲の際に都心部で消防車が入れる道路や鉄道を守る広場確保のため一般家屋を急いで解体する作業で、仙台市では第1次として仙台駅周辺など1065戸が対象
「重要研究」は、大学研究室で軍事研究に携わる学生で、「徴兵猶予」撤廃で軍隊に入った学生も大学に呼び戻された
* 1944年(S19)7月(注:文部省HPでは、S19年11月)夜間学校や弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
* 1945年(S20)4月、国民学校(当時の小学校)を除き1年間学業停止、1年を通じての「通年動員」に変更
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P171~172
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金属回収 |
伊達安芸銅像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)5月27日、松島瑞巌寺境内の伊達安芸の銅像、金属回収に応召出陣となり「壮行式」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P308
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金属回収 |
市電レール |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月、市電芭蕉の辻線が廃止となり、レールを剥がして、戦時金属回収のため供出
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園猛獣射殺 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月25日、太平洋戦争末期の仙台市動物園で、猛獣12頭(熊4頭、シロクマ・ヒグマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ各1頭)が「空襲の際に危険」と射殺された(仙台市交通局五十年史)/ ただし仙台市史ではシロクマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ・ヒグマ・クマ各1頭の合計8頭 / 自然休園となる / 5月19日、銃殺動物慰霊塔建設
* 1944年(S19)5月19日、空襲にそなえ処分された動物たちの慰霊祭(「戦争のころ 仙台、宮城」P140)
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「仙台はじめて物語」P104~105/「仙台市史10 年表」P307~308/仙台市史 年表」P113/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P140
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第四十二師団 |
編制 |
1944年(S19)2月~1945年(S20) |
* 1944年(S19)2月1日、第四十二師団(通称号は勲兵団)、仙台において編制
【Wikipedia「第42師団」】 留守第二師団と第62独立歩兵団を基幹に仙台に於て編制
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より転記】 1944年2月、仙台において臨時編成。その後、中千島の得撫島(ウルップトウ)に移動し同地の防衛に任ずる。1945年4月、稚内に移駐し当地の防衛を担当しそのまま終戦を迎えた。1945年9月17日稚内にて復員
* 終戦時は、主力は北海道宗谷、一部は南千島(「仙台市史 続編第1巻」P64)
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ 歩兵第130連隊はソ連軍によってシベリアに連行され、5年後に帰国 / シベリア抑留中に死亡し身元が確認された宮城県出身者は806人(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
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「仙台市史 年表」P113/Wikipedia「第42師団」/国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P238
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学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(2) ~通年動員/授業停止~ |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、閣議決定「緊急学徒勤労要綱」で、勤労工場を特定し、循環的に動員して1年のうち3分の1の4か月を働かせる
* 1944年(S19)2月、「決戦非常措置要綱」
・ 中等学校以上の学徒はすべて1年間常時、勤労その他の非常任務に出動できる組織的体制に置き、理科系のものは専門に応じて軍需工場や病院などに動員
・ 学校校舎は必要に応じて軍事工場、軍用非常倉庫、非常病院、避難用住宅などに転用(旧制二高校舎正面2階が師団司令部に徴用、東北学院校舎の一部(高等部)が被服廠や海軍人事部に、東北学院中学部は出征部隊編成所のちには鉄道輸送部隊に接収、東北学院礼拝堂地下室(六軒丁)は特設非常電話局に(仙台空襲で仙台電話局焼失後)、尚絅女学校の地階と2階が陸軍糧秣廠に、宮城学院は日本電気の「学校工場」に転用された) (以上、「仙台市史 続編第1巻」P46)
* 1944年(S19)2月25日、文部省、食糧増産に学徒500万人動員を決定
* 1944年(S19)3月7日、閣議決定「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員通年実施、対象を国民学校高等科生、中等学校1~2年まで拡大
* 1944年(S19)4月17日、文部省に学徒動員本部設置
→ 4月から、中等学校以上の男女生徒を軍需工場、鉱山、農村などへ通年で強制動員開始
* 1944年(S19)5月16日、文部省、学校工場化実施要綱発表
* 1944年(S19)8月23日「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」公布施行、これにより「学徒動員実施要綱」を法的追認
* 1944年(S19)11月16日、中学1、2年生と国民学校高等科1、2年生に勤労動員を発動(菅家年表)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」により、学徒勤労総動員体制 → 国民学校初等科以外の生徒・学生の授業を停止
<戦後>
* 1945年(S20)8月16日、学徒動員解除
* 1945年(S20)10月11日、学徒勤労動員令廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P46/「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P113/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台市史10 年表」P308、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P486、P505/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32
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16-72、16-73、16-74、41-03、41-02/「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(S20年、鍋蓋代替品をつくる児童たち)
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松根油 |
松を伐採 |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、栗原郡長岡村より高清水町に至る国道筋の古松の並木、“応召”により伐採に取りかかる(「重訂 宮城県郷土史年表」P500)
* 1944年(S19)10月20日、松根油等緊急増産対策措置要綱決定
* 1945年(S20)3月16日、松根油等拡充増産対策措置要綱、閣議決定
・松根、桧ノ根、針葉樹ノ枝葉樹皮等モ本増産ノ対象
・(要員確保)農山漁村所在労務、農業出身工場労務者ノ帰農、農家ノ子弟タル国民学校卒業者、中等学校学徒動員
・乾溜釜ヲ速カニ設置 ・精製工場ノ急速整備
「仙台市御立場町(現・宮城野区東仙台一丁目)の松原街道(現在の宮城県道8号仙台松島線)の両端に沿って松並木が存在していたが、樹齢300年以上の松もふくむすべての松並木が松根油(しょうこんゆ)採取のために伐採されている」(地元学の会『松原街道にそったまち ひがしせんだい 東仙台一丁目~五丁目・松岡町』(みやぎの区民協議会 仙台市宮城野区役所 2005年刊)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P500/国立国会図書館リサーチナビ/ウィキペディア「松根油」
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(7) |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月24日、関東地方でのスイカ、メロン、まくわうりなどの作付けを2月上旬から禁止
* 1944年(S19)2月、東京に雑炊食堂出現、1人1杯20銭、外食券不要 / 4月には335軒
* 1944年(S19)3月6日、全国の夕刊を廃止
* 1944年(S19)4月28日、閣議、米穀増産及び供出奨励に関する特別措置を決定(供出報奨制)(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)5月5日、東京に国民酒場を開設、1人1合
* 1944年(S19)6月17日、米穀管理要綱を決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)6月21日、新刊雑誌を買うときは古雑誌と交換のこと
* 1944年(S19)7月、包装紙不足で、タバコはバラ売りとなる
* 1944年(S19)8月1日、砂糖の家庭用配給停止
* 1944年(S19)9月10日、ガソリン不足のため東京都内の糞尿を電車で輸送 / 西武鉄道、武蔵野鉄道で1953年(S28)3月31日まで続く
* 1944年(S19)10月23日、松根油緊急増産対策を決定。ガソリン不足のため
* 1944年(S19)11月1日、タバコは隣組配給となる。男1日6本
* 1944年(S19)11月1日、新聞の朝刊2ページとなる
* 1944年(S19)12月20日、畜犬献納運動はじまる。狂犬病予防と皮革増産
* 1944年(S19)、この年、物不足ますます深刻となる
* 1944年(S19)、この年、食糧欠乏で、のら犬野生化(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32、P33/岩波ブックレット「年表 昭和史」P21
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(S19年、長町国民学校校庭でサツマイモやジャガイモを作る児童たち)
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政宗卿騎馬像 |
戦時供出 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、政宗卿騎馬像、戦時中の金属回収で供出(出陣式挙行)
* 1944年(S19)1月22日、政宗銅像、戦時金属回収のため供出、藩祖出陣と称し壮行式行わる(「仙台城P234)
「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500に、「昭和19年1月22日、青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及護国神社共同主催のもとに県下青少年団代表参集して盛大なる銅像出陣式を挙行す。この折詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」
<戦後に発見>
* 1946年(S21)9月9日、仙台郷土研究会員石川謙吾、塩釜市金属集積所より政宗銅像上半身を自費にて払い下げ、青葉神社に奉納す(「仙台城」P235)
戦後、1946年(S21)10月8日、郷土史家石川謙吾が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で、騎馬像の上半身だけが捨てられていたのを偶然の機会に発見、一部を改修し青葉神社に奉納
* 1961年(S36)、仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公像の頭部のみが敷地内に展示されている
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499、500/「仙台市史 年表」P113/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
戦後発見は、「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史続編第2巻経済文化編」 末尾付表(年表)P823/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P184
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金属回収 |
政宗卿騎馬像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、仙台城跡(天守台)の伊達政宗銅像(騎馬像)の金属供出「出陣式」が行われる
「青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も、金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及び護国神社共同主催のもとに、県下青年団代表参集して盛大なる銅像出陣壮行式を挙行す。この折、詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」(重訂 宮城県郷土史年表)
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「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500
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金属回収 |
軍馬銅像 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
* 1943年(S18)か1944年(S19)、桜ケ岡公園(西公園)にあった軍馬の銅像「日露役殉死軍馬銅像」が、S18年か19年に供出された
・ 戦後しばらくは台座のみが残っていた
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99-120、53-63
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医療機関 |
仙台厚生病院 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)、財団法人生命保険厚生会が結核病院として仙台厚生病院を開設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P396
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学徒出陣 |
東北帝大の壮行大会 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)9月23日、東北帝大出陣学徒の卒業式(片平キャンパスの講堂で、法学204人、経済学37人、文学30人、計271人が繰上げ卒業)
* 1943年(S18)10月8日、東北帝国大学学徒出陣壮行会
壮行会は、全学部2000余人の学生を前に、出陣学徒代表が「大命は下った。日ごろ練磨した体育、知育を役立てる時がきた。日本に生まれ育った我らのみに与えられた感激である」と答辞。 (「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)10月8日、NHK仙台中央放送局が、「東北帝国大学徒出陣壮行大会」を放送
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史10 年表」P306/「仙台年表」P212/「宮城県百科事典」P1114(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P498/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P18
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98-090
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金属回収 |
銅像「壮行式」 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出
元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112
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総進軍大会 |
開催 |
1943年(S18)/1944年(S19) |
* 1943年(S18)7月8日、仙台市主催、米英撃滅総進軍大会
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
* 1944年(S19)7月30日、滅敵強行宮城県総進軍大会
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「仙台市史10 年表」P306、P307、P308
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